極道恋事情
◆1
春半ばの四月下旬――すっかりと陽も落ち、東の空には見事なほどの夕月が春霞の雲間を縫って顔を出していた。
美しく手入れのなされた中庭には今が盛りの薄紫色の藤棚が満開の花をつけていて、そよそよと宵風に揺れている。
都心から川を一本挟んだ工場地帯の外れ、四方を高い塀で囲まれた広大な敷地に佇む純和風の邸の中央に、その見事な庭はあった。
表の門に表札は出ていない。
だが、この地域に住む者たちにとって、もはや表札など必要のないほどに名の知れたこの邸の主人は通称鐘崎組と呼ばれている極道であった。
「いっけね! どこに置き忘れてきたっけ……。明日は朝イチで遠出だってのに、見つからなかったら親方に言い訳できねえぞ……」
まるで泥棒のような忍足で庭中を探して回っているのは二十代半ば程の若い男だ。彼はこの春から見習いとして熟練の親方について修行中の庭師であった。
親方というのはここ鐘崎組の庭でも長年に渡って手入れを担当している腕のいい職人だ。名を土森泰造という。歳は組番頭の東堂源次郎らと同世代で、これまでは一匹狼で仕事をこなしてきたのだが、高年に入ったこともあり若手育成を兼ねて手伝いの職人を雇うことになったのだそうだ。
その若き彼にとって初出勤となったのがこの鐘崎組中庭の剪定だった。一日の作業を終えて一旦は親方と共に帰路についたものの、剪定道具を置き忘れてきたことに気が付き、慌てて舞い戻って来たわけだった。
見習いの若いその男はキョロキョロと忙しなく辺りを見回しながら、昼間作業した木々の近辺を血眼になって探し回っている。しばらくすると月明りに照らされた植木の根元で放置されている道具類を発見した。
「あった……! ふう、良かった。助かった!」
初日からこんな失態をしたことがバレたら、親方に合わす顔がない。若い男は安堵と共に地べたへとへたり込んだ――その時だった。
(うわ……ッ!? 人が……)
思わず声を上げそうになったのを寸でのところで堪えて、男は植え込みの陰へと身を潜めた。見れば縁側に着物姿の男が一人、煙草を燻らしながら腰掛けているのが目に入ったからだ。
(誰だ……? この家の住人か)
時刻は午後の八時少し手前だ。当然この家の者だろうが、驚いたのはその男の容貌だった。
(ものすげえ美男……つか、めたくそイケメンじゃねえか……)
この家の住人にしてはえらく年若いと思える印象だった。それというのも鐘崎邸は驚くほど広大な敷地に、これまた目を剥くような立派な家屋といった造りだったからだ。
親方には長年贔屓にしてもらっている格別のクライアントだと聞かされていた。単に大金持ちの邸なのだろうと思っていたが、まさかこんな見目良い若い住人が住んでいるとは夢にも思わなかったのだ。せいぜい高齢の老人が召使いでも使っているのだろうと、半ば羨ましくもあり、半ば舌打ちたい気持ちにもさせられたものだ。
(何だよ……住んでるのはてっきり爺さんかと思ったが……あんな若え人とはビックリだぜ! つか、息子さんか何かなのかも)
しかもその容姿は群を抜く美形で、着慣れているのか和服姿もよくよくサマになっている。というよりも、着物の袷はハダけ気味で、何とも例えようのない色香を醸し出しているのがまた驚愕というくらいなのだ。まさに映画か有名ファッション誌の中から抜き出てきたようなその風貌に、男は唖然としたまま視線を釘付けにさせられてしまったのだった。
◆2
(いったいどうなってるんだ……。この家の人なのは間違いねえだろうけど、あんなところで何してるってんだよ)
よく見ると部屋の明かりはついていない。純和風のこの庭に似合いの和室の障子が開け放されているものの、月明かりだけで常夜灯ひとつ灯されてはいないのだ。
じっと目を凝らして窺えば、障子の向こうには寝乱れたような布団が敷かれてあるのに気がついた。
(寝てたってわけか? つか、こんな時間からかよ……)
休むにしては早すぎる時間帯だ。
(もしかして病か何かなのか……?)
ふと、昔の純文学に出てくるような光景が脳裏に浮かんでしまう。病の治療の為、美しい男が和服姿で療養している。誰でも一度は映画か何かで観た事があるようなシチュエーションに思えて、ひどく興味を引かれてしまった。
(けど病気だってんなら、煙草なんか吸っちゃって大丈夫なのか?)
紫煙を燻らす男は、そういえば何だか気だるそうにも見受けられる。もしかしたら目の前で倒れたりはしないかと、ハラハラしながら様子を窺っていたその時だ。廊下の向こうからもう一人、今度はまた別の男が近付いて来るのに気がついて、より一層身を低くしては息を殺した。
「ほら、紅茶を淹れてきたぞ。お前さんの好きなケーキもだ」
この男もまた和服姿だが、縁側で煙草を燻らしている彼よりはずっと渋めの色合いがよく似合っている。体格も堂々としていて、かなり逞しい男のようだ。
「おう、悪ィじゃん。気が利くな」
煙草を捻り消すと、腰掛けていた彼は嬉しそうにその男を振り返った。
「例によってだいぶ無理をさせちまったからな。後のケアは俺の役目だ。濃さがどうかよく分からんが大目に見てくれ」
「何だ、おめえが直々に淹れてくれたん?」
「もうこの時間だ。わざわざ厨房を煩わすこともあるまい。それに……俺が淹れたかったんだ」
「愛だな?」
「当然!」
渋めの着物の裾を叩いて彼の前へとケーキの乗った盆を差し出すと同時に、まるで抱き包むような体勢で腰を下ろしたのに更に驚かされてしまった。
(うわ……何……!? あれって野郎同士……だよな?)
二人共に開けた袷の隙間から覗かせているのは平たい胸板だ。どう見ても男同士に違いない。
だが、交わされる会話は何とも胸をざわつかせるような代物だ。それ以前にまるで恋人を抱くような仕草で背中から包み込む仕草にも、思わず開いた口が塞がらないほどの衝撃を感じてしまう。抱き包まれた彼の方も、これ当然といったように受け入れているではないか。
流れる雲の隙間から月明かりが照らし出した途端に、またしても驚かされる羽目となった。後からやって来た男の方も、ものすごい男前だったからだ。
煙草の男とはまた違った雰囲気ながら、顔立ちは精悍で体格も立派――少し寝乱れたような髪は艶のある深い黒だ。きっと女が放って置かないだろうと思われる極上のモデルか俳優のような美男子である。
「おい、遼。そうギュウギュウすんな。せっかくのケーキが食いづてえってのよぉ」
「そう言ってくれるな。それこそせっかくの情緒ある夜なんだ。くっついてるくらい許せってもんだ。何なら俺が食わしてやるぞ」
後方から抱き包みながらチュっと頬に口付ける。
「バッカ! さっきあんだけヤって、まだチュウとかよぉ。このエロライオンが!」
「お前だけのエロライオンな?」
そのやり取りにも心臓が爆発するかと思うような衝撃を受けた。
◆3
(おいおいおい……待て待て待て……ッ! ヤったって何よ……? 何ヤったってんだよ)
寝乱れた寝具、ハダけた着物――思わず邪な想像がボワっと頭を占領して、男はますます縁側の二人に釘付けにさせられてしまった。
そんなことは露知らずの彼らは、更に心拍数を上げるような会話を繰り広げていく。
「……ったく、おめえときたら相変わらずなんだからよぉ」
「仕方ねえだろ。俺ァいつでもこうしてたいんだ。てめえで言うのもナンだが、四六時中くっ付いていたいんだ」
「はは、しょーもねえ旦那だな」
「そう邪険にしてくれるな。愛してるんだ」
「バッカ、遼」
口では詰りながらも嬉しそうに頬を染める。後ろから抱き包まれた身体を何とかよじりながら、男は湯気の立つティーカップに口をつけた。
「んー、美味ッ! いい香りなぁ」
「濃さはそんくれえで良かったか?」
「うん、濃さも甘さもドンピシャ! おめえが淹れてくれたと思うと尚更美味く感じるね」
「嬉しいことを言ってくれる。またエロライオンになりそうだ」
「あー、はいはい。ライオンもなぁ、サカる為にはちゃんと栄養補給しねえとな?」
華奢な方の男が軽く受け流して笑う。
「ほれ、ひと口どうだ? 美味えぜ」
「ん、そんじゃもらおうか。ひと口くれえなら悪くない」
「そうそ! 何せ体力使った後だからな。糖分の補給は大事だぜ?」
そう言って自身を抱き包んでいる男の口にフォークですくったケーキを持っていく。
(ぐわぁー! 待て待て待ってくれ……! サカるって何!? 体力使ったって……いったい何に使ったわけ!? ライオンって雄同士で交尾する生き物だったっけ? ――てか交尾!? まさか交尾したの? マジで……?)
頭の中をクエスチョンマークがグルグルと飛び交って唖然状態――。目の前の男たちが途端に荒野で睦み合うライオンに思えてきて、植え込みの陰で男はゴシゴシと目を擦ってしまった。
目の前の彼らは相変わらずだ。差し出されたケーキをパクっとひと口で含みながら、ますますギュウギュウと腕の中の存在を抱き締めている。スリスリと愛しそうに頬擦りする仕草はまるで恋人か結婚したての若夫婦といった雰囲気だ。
◆4
「見ろ、藤が見事だ」
「ああ。今が満開だな。おめえがこの藤棚を造ってくれって親父に言ったんは……確か中坊の頃だったっけ?」
「正確には小学六年だったな」
「ってことはまだ中坊になる前か」
「おめえの名前と同じ色ってのに惹かれてな。どうしてもこの庭に欲しいっつって親父にしつこく頼んだっけ」
懐かしいなとばかりに笑う。まるで満たされたと言わんばかりの表情が色香を讃えて匂い立つようだ。
「はは! まだタテガミも生える前かよ」
そんなに昔から俺のことが好きだったわけ? とでもいうように少々意地悪な笑みを向ける。
――が、めげるどころか後ろ側の男はえらく素直に認めてみせた。
「もっと前からだったぞ。俺ァ、多分物心ついた頃からおめえしか見えてなかったように思う」
「マジ?」
「ああ、大マジだ。一途だろ?」
「バッカ……」
甘い会話と染まる頬、その頬を擦り付け合いながら男たちは時折触れるだけの唇を重ね合う。
「今宵は犬たちが犬舎だからな」
「ああ、そういや昼間に予防接種に連れてったとかって若い衆が言ってたな」
「だから今日しかねえと思ったわけさ。普段はヤツらが庭に放されているからな」
ここの庭では普段数匹のシェパードを放し飼いにしている。今日は予防接種の日だった為に犬たちは犬舎で静養させられていて静かな夜だ。ちょうど藤の花も満開を迎えたことだし、いい機会だと思い、自室を出て中庭に面したこの部屋で寛ごうと思い立った。そう、二人はここ鐘崎組若頭の鐘崎遼二と伴侶の紫月だったのだ。
この部屋は普段は使っていない客人用なのだが、今が盛りの藤棚を望むには最高の位置どりなのだ。しかも今宵は放し飼いの犬たちもいないから、障子を開けながら睦の時を持ったとしても邪魔されることはない。犬たちがいれば飼い主の二人の元へ寄って来て、何かと自由にならないからである。
だから今夜しかない。たまには花々を愛でながら情緒あるひと時を楽しみたいと思った鐘崎が紫月を誘った――と、まあこういうわけだった。
まさか庭師見習いの男に覗かれているなどとは夢にも思わず、二人は情緒ある春の宵を楽しんでいた。寝乱れた寝具は睦を交わした情事の跡だ。
と、そこへ幹部の清水が険しい表情で駆けつけて来て、鐘崎と紫月の二人は驚かされることとなった。
◆5
「若! 姐さん! お寛ぎのところ失礼いたします!」
少々蒼白な顔つきで長い縁側を駆けて来る。清水にしては珍しいことだ。今宵はこの客人用の和室で若頭夫婦が寛いでいることを知らない彼ではない。当然のこと情を交わしているのも織り込み済みだろう。そんなところへ邪魔だてするなど、普段の清水では有り得ないことだ。
「ありゃ、剛ちゃんじゃね? 血相変えてどうした」
紫月がキョトンと瞳を見開く傍らで、鐘崎の方は既に立膝をついて立ち上がりかけていた。何か緊急事態が起こったのだろうと察したからだ。
「清水か。どうした」
「お邪魔だてして申し訳ございません! 実は今しがたこの中庭に動く物体を検知いたしました!」
警備室にいた若い衆が慌てて清水の元へと報告にやって来たのだそうだ。
「犬たちは犬舎ですし、もしかしたら誤作動かも知れませんが念の為と思いまして……」
清水とて若頭夫婦の寝所へ立ち入るなど本意ではないが、本当に侵入者がいるとすれば一大事である。鐘崎も紫月もそんな彼を咎めるようなことはしない。すぐに中庭全体を照らす強力な灯りが点けられた。
するとそこには見慣れない若い男が一人――。
「うわっ、ヤッベ……!」
男は相当驚いたわけか、身を潜めていた樹木の脇で腰を抜かしたようにして尻もちをついてしまった。
「何者だッ!」
清水が怒鳴り、駆け付けて来た若い衆らが次々庭へと降りて男を取り押さえた。これには鐘崎と紫月も驚きを隠せない。侵入されていたという以前に、それに気付けなかったことの方が驚愕だという顔立ちで鐘崎は眉根を寄せてしまった。
「貴様! 何者だッ!」
「逃げられんぞ! 素直に吐け!」
若い衆らの怒号が飛び交い、あっという間にぐるりと周りを囲まれて、男は尻もちをついたまま身動きさえできずに硬直してしまった。
と、灯りに照らされた男の顔に見覚えがあったのか、清水が険しい表情で庭へと降りて行った。
「お前……確か泰造親方のところの」
昼間剪定に来た庭師の泰造が連れていた新入りの職人だと気がついたのだ。
「――泰造親方のところの者だと?」
鐘崎が問う。親方については組の者たちもよくよく承知で、鐘崎などはそれこそ子供の頃からの馴染みだ。今現在見事な花をつけている藤棚も、泰造親方が手掛けてくれたものだからだ。紫月にとってもまた同様、よくよく顔見知りの信頼できる親方だった。
「今日の昼間に咲き終わった春の樹木の剪定に見えられていました。その時に親方が連れていたのがこの若い男です。親方の仰るには、自分ももういい歳だから若い職人を雇うことにしたのだとか」
清水からの報告を受けて鐘崎は袷を整えると、自身もまた庭へと降り、未だへたり込んでいる男を見下ろした。
「泰造親方のところの職人とな。いったい何用だ」
格別に怒っているといった声音ではなかったものの、男にしてみれば圧を感じたのだろう。まるで土下座の勢いで身を丸めると、必死といった調子で謝罪の言葉を口にした。
◆6
「す、すいやせんッ……! じ、実は昼間使った剪定道具をこの庭に置き忘れてしまいまして……」
男曰く雇ってもらって早々にこんな失態がバレた日には立つ背がないと、密かに探しに戻って来たのだそうだ。たまたま犬たちが放たれていなかったから良かったものの、下手をすれば噛み付かれて大怪我をしていたかも知れない。
事情を聞いて、誰もが呆れ半分で眉根を寄せてしまった。
「だったらひと言声を掛けてくれれば良かっただろうが。何故コソコソと忍び込むような真似をした」
清水に咎められて、男はしょんぼりとうなだれた。
「す、すいやせん……本当に」
その様子から他意はないと踏んだ鐘崎が、
「まあいい。理由は分かったんだ」
おそらく嘘はついていないのだろうと鷹揚な言葉を口にする。清水はそんな若頭に代わって男の素性を尋ねた。
「お前さん、確か小川とかいったな?」
昼間に親方から紹介された名だ。
「へ、へい。小川駈飛といいます……。本当に申し訳ありやせんッ!」
素直に認めた態度からして悪気はなさそうだ。
「親方はこのことを――知っているわけもなかろうな」
当然内緒なのだろうと清水が溜め息を漏らす。
「はい……親方には言ってません」
皆が呆れ気味に肩をすくめる中、やれやれと鐘崎が口を開いた。
「事情は分かった。今回は初めてということで見逃すが、二度はねえぞ」
清水以下若い衆らは『それでよろしいので?』と鐘崎を見やる。
「悪意はなさそうだ。今日のところはそれで構わん」
踵を返しながら男に向かってもうひと言を付け加えた。
「親方には黙っていてやる。以後気を付けてくれ」
放していいぞと若い衆らに目配せする。男は両脇を抱えられるようにして門の外まで連れて行かれると、そこで解放された。
中庭では清水が詫びを口にしていた。
「若、申し訳ございませんでした。お手間をお掛けいたしました」
「いや、構わん。しかし随分と身軽なヤツだな。いったいどうやってこの中庭まで辿り着いたのか、そっちの方が興味をそそられる」
「ええ、確かに……」
この中庭に入り込むには通常若い衆らの待機する事務所を通らなければならないはずだ。まずはそこで侵入がバレるだろう。だが、誰も見た者はいない。
「組員が気付かなかったとすると、考えられるのは外壁を伝って屋根へ登ったということですが……よほど必死だったのでしょうか。それにしてもこのお邸の周りは屋根瓦付きの高い塀で囲まれているというのに、よくぞ入れたものです」
「庭師になろうってくれえだからな。身は軽いのかも知れんが、一応監視カメラで侵入経路を当たってくれ。本当に屋根から侵入したんであれば、もう少し警備を強化せにゃならん」
「は! すぐに確認いたします」
「まあ俺も落ち度といえる。目と鼻の先にいた侵入者に気が付けなかったわけだからな」
いくら情事に没頭した直後とはいえ、確かに落ち度といえばそうだろう。
「やはり犬たちを放しておきましょうか」
「ああ。もう大分静養できたろうからな」
「ではすぐに」
清水は丁寧に頭を下げると、若い衆らに言って犬舎からシェパードたちを連れて来るように指示を出した。
何はともあれ敵襲などでなくて良かった。誰もがホッと胸を撫で下ろしたのだった。
◆7
次の日、見習いの小川駈飛は昨夜のことを親方へと洗いざらい打ち明けた上で、平身低頭で謝罪を行なっていた。
若頭の鐘崎から親方には内緒にしておいてやると言われたものの、そんな温情を掛けられれば逆に非を認めたくもなるというものだ。とにかくはあったことを一部始終親方へと報告したのだった。
「本当にすいやせん! 俺の落ち度です……。親方にもご迷惑をお掛けすることになっちまって……申し訳ありやせんッ!」
土下座の勢いで謝る彼に、親方である泰造はやれやれと溜め息を漏らした。
「……ったく。まあ、もう済んじまったことをグダグダ言っても仕方ねえが、お客さんのお宅に忍び込むなんざ許されることじゃねえ。今後は二度と軽はずみなことはしてくれるな」
泰造にとっても、勤めて間もなくの失態をどうにかしたかったという小川の気持ちは理解できたのだろう。初めてのことだし、激怒はせずに叱責だけで済ませることにしたようだ。
「それにしてもおめえさんは運が良かったんだぞ。鐘崎様のお邸に無断侵入したんだ。本来なら指の一本……いや、腕の一本くれえ持ってかれても不思議じゃねえことをしでかしたんだからな」
「はぁ……すいやせん」
しょぼくれながらも『脅かさないでくださいよ』と苦笑を隠せない。
住居不法侵入であるのは間違いないので、最悪の場合警察に突き出されることはあっても、まさか腕だの指だのを斬り落とされるだなどヤクザじゃあるまいしと思うわけだ。小川はまだ鐘崎の邸がどういう所かというのを知らされていなかったのだ。
「そういやおめえには言ってなかったな。あのお宅は……鐘崎様は極道の世界のお方だ」
「え……ッ!? 極道って、それじゃホントにヤクザなんスか?」
あまりに驚いたわけか、小川はポカンと口を開いたままみるみると硬直状態に陥ってしまった。
「そういうこった。まあ、実際はお前さんが考えてるようなヤクザとは少し意味合いが違うがな。それよりももっと恐ろしいと思っとくこった」
「や、あの……親方……。ヤーさんよか恐ろしいって……どういうことスか? もしかマフィアとか?」
「まあそんなところだ。あのお邸に忍び込んで五体満足でいられることが奇跡と思うんだな」
「奇跡って……ハハ……ハ」
小川は既に蒼白を通り越して顔面真っ白である。冗談なのか本当なのかといったふうに、顔中の筋肉を引きつらせて苦笑いするしかできずにいた。
だが、そう言われてみれば昨夜会った人間は確かに強面集団だったようにも思う。さすがに脅されるとか暴力を振るわれることはなかったが、堅気じゃないと言われればそうかとうなずける雰囲気だった。
「じゃ、じゃあ……もしかしてあの人が組長とかだったんかな……」
「組長さんがいらしたのか?」
「俺を許してくれた人っスけど、ものすげえイケメンで、けど組長にしては若かった……」
「若かっただと? あそこの組長さんは五十半ばのお人だぞ」
◆8
「五十半ばっスか? だったら違うな……。どう見ても三十いってるかいってないかってくらいだったし。俺よかちょっとばかし上って感じだったスけど、そういえば確かに貫禄はありました。すっげ渋い着物着てて、他の人らも……あの人に対してはやたら気を遣ってる雰囲気でしたし」
とすれば息子の方だろうかと泰造は思った。
「それなら若頭かも知れんな。組長さんの息子さんだ」
「息子さんっスか! あー、そうかも。あの人が俺ンこと許すって言ったら、誰も文句言わなかったし……」
それにしてもめちゃくちゃ男前で貫禄があって格好良かったと、小川は尊敬の眼差しでいる。しかも見た目だけでなく懐も深いとくれば尚更憧れざるを得ない。
「若頭かぁ。かっけーなぁ」
まあ、彼の思うところの『カッコいい』というのは、いわゆる恋情とは全く別物のようで、単に同じ男として立派な様子に憧れるといった感情のようだ。いささか暢気と思えなくもないが、泰造はそんな小川を横目にやれやれと肩をすくめるのだった。
「まあいい。今日は別のお客さんの所へ約束が入ってるから仕方ねえが、明日にでも早速お詫びに上がるとしよう。俺も一緒に行く」
鐘崎の温情に対して詫びに出向くのは当然だろう。弟子の不手際は親方の不手際だ。泰造は自ら頭を下げねばと思うのだった。
「すいません、親方……しょっぱなから迷惑掛けちまって……」
小川はショゲながらも、『そうだ!』と思い付いたように瞳を見開いてみせた。
「そういえば親方……。あの若頭さんって……」
「何でい」
「や、あの……俺ン勘違いかも知れないっスけど。実は俺、ちょっと目を疑うようなっつか、すぐには信じらんねえようなモンを目撃しちまいやして」
「信じられねえものだ?」
いったい何事だと泰造は首を傾げる。
「はぁ、その……あの人が、若頭さんが野郎といちゃついてんのを見ちまったっていうか……」
その相手もひどくイケメンだったと興奮気味でいる。
「なんちゅーか、イケメンはイケメンなんだけど、若頭さんみてえのとはまたちょっと違うっつか。綺麗っつった方がニュアンス的に合ってんな……。若頭さんがその美人を抱き抱えて、チュウとかもしてたっぽくてっスね……。サカるとか体力使ったからどうとか言ってたっスけど、まさかマジでヤっちゃってた……なんつーコトはあるわけねえっスよねぇ?」
小川の話に、泰造は『あちゃー』とでも言わんばかりに額を手で覆ってしまった。
おそらく彼が見たのは紫月なのだろうと分かったからだ。
◆9
「そいつぁ……おそらく若頭の姐さんだろう」
というよりもそんなプライベートなことまで覗き見たのかと、さすがに蒼白とならざるを得ない。だが小川の方は至って興味津々だ。
「姐さんって……。けど、相手は野郎でしたよ?」
ポカンと口を半開きにしながらもまるで悪気のなく首を傾げている。
「まさかっスけど、あの人たちって本場モンのモーホーなんスか?」
有り得ねえとばかりに笑う。
「モーホーってのは何だ」
「え? ああ、ホモのことですよ。つか、今時だとゲイってのかな。分かります? 野郎同士でこうやってイチャつくやつっス」
小川は後生丁寧に親指と親指を絡ませながらそんな説明をしてみせる。と同時に、それこそあんなイケメンが女に苦労しているとは思えないと言って笑い飛ばす。
まあ悪気はないのだろうが、あまりにも率直過ぎる言い分に、泰造はまたしても大袈裟なくらいの溜め息をつかされてしまったのだった。
「おい、駈飛。お前さん、間違っても若頭たちの前でそんな口叩くんじゃねえぞ!」
「え? ああ、はい。もちろんそんなことしねえっスよ!」
自分だってそンくらいはわきまえてますって! とでも言いたげにニカーっと人のいい笑顔で応えた様子にも呆れざるを得ない。
「やれやれ……。こうなったらお前にも言っておいた方が良さそうだな。あのお二人はな、男同士で生涯を共にしようと誓い合ったお方たちだ。お前さんの言うところのホ、ホモというのか? 口さがない連中がそんなふうに言うこともあるだろうが、伴侶としてご結婚までされなすったんだ」
「け、結婚ッ!?」
小川は鳩が豆鉄砲を食ったような表情で固まってしまった。
「そうだ。籍も入れていらっしゃる」
「籍って……まさかぁ……。つか、この日本って野郎同士で結婚なんかできるっスか?」
「まあ実際には組長さんとの養子縁組という形だろうがな。だがあのお二人にとっては男女の夫婦と何ら変わらん当たり前の感覚なのだ。それこそ男同士で結婚などと世間からはいろんな目で見られただろうし、お悩みも多かっただろうがな。そんな風当たりを覚悟で共に生きようとお決めになられたんだ」
お前さんもくれぐれも失礼なことを言わないようにと釘を刺した。
小川は唖然状態である。
「マジっスか……。二人共あんなイケメンなのに、何でわざわざ……。てか、だったら泣いた女が最低二人はいるってことスよね! あー、二人ばっかじゃねえな。イケメンズだかんなぁ」
鐘崎にしても紫月にしてもタイプは違うが方々から声が掛かりそうな男前だ。もったいないとばかりに信じられない顔つきをする。
「ほれ! そういうことを軽々しく口に出すなと言っておる!」
「あ、はぁ。こりゃどうも、すいやせん……」
「まあ、あのお邸にはこれからも頻繁に通うことになる。くれぐれも下手な興味を抱くもんじゃねえぞ。我々はあのお邸のお庭を預かることだけに専念するんだ」
分かったな、と泰造は口酸っぱく念押ししたのだった。
◆10
翌る日、小川は泰造に連れられて鐘崎邸へと謝罪に訪れていた。朝一番で顔を出したので、若頭の鐘崎と側近たちはもちろんのこと、紫月、それに長の僚一までもが事務所にいた。
驚いたのは鐘崎だ。この件については親方に黙っていてやると言ったはずなのに、わざわざ自分で暴露したわけかと目を丸くしている。だが裏を返せばその正直なところに好感を得たのも事実であった。
「ふ――、正直なヤツだ」
せっかく黙っていてやると言ったのにと、微苦笑を浮かべる。そんな鐘崎の前で、小川は気まずそうに頭を掻いた。
「いえ、若頭さんのお気持ちはすげえ嬉しかったっス! けど、それをいいことに黙ってたんじゃ男が廃るっつーか、情けねえと思いまして。本当にすいませんでした!」
この通りですと深々頭を下げたのに、鐘崎も紫月も清々しい気持ちにさせられるのだった。
「しかしお前さん、えらく身が軽いことだな。昨夜、監視カメラの映像でお前さんが侵入した時の様子を確認したんだが……」
よくぞあの高い塀を乗り越えたものだと感心を口にする。
「足場になりそうなモンはねえってのに、あの塀を身ひとつで登ったんなら相当なもんだ」
鐘崎に続いて父の僚一も大したものだとうなずいてみせた。
「俺も映像を見たが、まるで時代劇に出てくる忍のような身のこなしだったな」
確かに認めざるを得ないと、一緒に映像の確認に当たった組員たちも驚いていたようだ。
組長と若頭から揃って褒められた小川は照れ臭そうに苦笑してしまった。
「いやぁ、そんな大層なこっちゃねえスけど……。身が軽いのだけが取り柄だって昔っから親父にも言われてまして。ついでにオツムの方も軽いって呆れられてるっス」
バカ正直な返答に思わず笑いを誘われる。
「はは、面白え兄ちゃんな!」
紫月も感心しながら好感を抱いたようだった。そんな一同に親方である泰造が付け加えた。
「実はコイツの家も造園屋でしてな。親父さんは庭師としてもですが、山奥の森林伐採なんかも手掛けておりましての。非常に腕のいい職人なんです。コイツも小せえ頃から親父さんの背中を見て育ったんで、運動神経だけは並外れてるってくらい抜群なんです」
脚立に乗り、高い木々の枝を剪定する父親の側で、それこそ遊び場さながら木に登ったりして育ったそうだ。泰造と小川の父親とは昔からの馴染みで、泰造の方が年齢的にも大先輩ではあるが、互いに腕を認め合っている仲間ということだった。その息子を見習いとして預かることになったのも、そういった縁からだったそうだ。
「なるほど。親父さんも庭師とな」
これは将来が楽しみだとばかりに僚一以下全員が納得させられたのだった。
「そんなわけでこれからもこちら様にお邪魔させていただく際は、コイツも連れて参ります。しょっぱなからご無礼をやらかして申し訳ない限りですが、どうかよろしくお見知りおきくだせえ」
深々と頭を下げる泰造に、僚一らもこちらこそよろしく頼むと言って、若い庭師見習いの不法侵入事件は落着となったのだった。
◆11
そうしてまた平穏な日常が戻ってくることとなった。
ここ、鐘崎組の中庭は広大である。
季節毎の花々をつける樹木なども数あるので、植木の剪定はもちろんだが除草作業なども入れたら週に二日は庭師が入っているといった具合である。特にこれまでは泰造親方が一人ですべてを請け負っていたので、ほぼ専属というくらい毎日のように顔を出していることもあったほどだった。
長の僚一や若頭の鐘崎は依頼の仕事などで外に出ていることが多いが、姐の紫月はほぼ一日中邸内にいる。事務所で書類の整理などを行なっていたりもするが、町内会の役員として会合に出掛けたりするのも紫月の役目である。そんな時には姐さん側付きとして組員の春日野が必ずついて回るのだ。
今日も自治会館での会合があったのだが、その帰りしなに馴染みの和菓子屋へ立ち寄るのも、また日課のひとつであった。目的は泰造親方に出すお茶菓子の調達の為だ。
「おや、紫月ちゃんいらっしゃい。今日も泰造さんのお茶請けかい?」
ニコニコと人の好さそうな老人が迎えてくれる。ここは家族経営の小さな和菓子屋だが、鐘崎と紫月が生まれる前からあったという老舗だ。紫月らが子供の頃はここの老夫婦が第一線で菓子作りから店頭販売までを担っていたが、現在は息子夫婦が製造の方を引き継いでくれているそうで、老夫婦はこうして店番をしているのである。近所で昔からの付き合いだから、鐘崎と紫月の仲についてもよく理解していて、入籍の際には自治会の有志で祝ってくれたほどであった。
「じいちゃん、こんちゃ! うん、そう。今日も親方入ってくれてるんだ。いつもの黒糖饅頭ある?」
「ああ、出来てるともさ。さっきふかし上がったばかりだよ」
「お、さんきゅー! そりゃナイスタイミングだったね。親方喜ぶべ!」
「泰造さんは黒糖饅頭がお好きじゃからのう」
親方のお茶菓子は大概ここの店で厄介になっているので、店主もよく分かってくれているのだ。
「そうだ、じいちゃん。今日は饅頭の他にさ、ちょっと腹にたまるモンでオススメねえか? 実は最近、親方ンところに新しく職人が入ったんだ」
「おや、そうだったんかい」
「若い職人なもんで。食い盛りだべ? しっかり腹を満たせるやつがいいなと思ってさ」
ウィンドーの中の菓子を覗き込みながらそんなことを言う紫月に、店主は微笑ましげに瞳を細めた。
「紫月ちゃんはホントによう気がついておやりになるのぉ」
そう言いながらも餅菓子などを指してみせた。
「大福餅なんかどうだい? 豆のは定番じゃが、今は春限定の草大福も出しとる。饅頭より腹持ちはいいはずじゃよ」
「お! いいね。じゃあそれにするべ! ついでにウチの源さんと俺たちン分ももらってくかな。それと――こっちの磯部焼きも入れてもらってい? 若者は飯がわりになるしょっぱいやつも好きだべ」
前屈みになって真剣にウィンドーを覗き込んでいる姿にまたもや笑みを誘われてしまう。数的にいえば本当に一回に食べる分だけで、毎度大量に買っていくわけではないのだが、こんなふうに食べる人間の身になって選んでくれる気持ちがとても嬉しいと思う店主であった。
◆12
そうして組に帰ると、三時のお茶の時間である。ちょうど源次郎が湯を沸かして準備の最中だった。
「源さん、たーだいまぁ! 今日の茶菓子仕入れて来たぜ」
「姐さん、お帰りなさいやし! ご苦労様です。自治会はどうでした?」
「うん、夏祭りの準備のこと決めてきた。今年はウチがイベント担当だからさ」
「そうですか。お疲れ様ですな」
「これ、親方たちのお茶菓子な。春限定の草大福が出てたから俺と源さんのも、ほら!」
ニカっと笑って袋を掲げてみせた紫月に、源次郎もまたあたたかい気持ちにさせられるのだった。
「それはそれは! 有難いですな」
受け取った袋から茶菓子を取り出して皿へと並べていく。その中に普段は見掛けない磯部焼きを見つけて、源次郎は紫月を見やった。
「磯部焼きとは懐かしいですな」
「あー、それな。親方ンところの若いのにどうかと思ってさ。ついでに俺らの分も買ってきたんだけど唐辛子が効いてて旨そうだべ?」
その脇では春日野が支度を手伝いながら、
「若いヤツには腹を満たせる物がいいだろうって姐さんがお選びくだすったんですよ」
それを聞いて源次郎もまた、和菓子屋の店主同様その気遣いに笑みを誘われたのだった。
「せっかくですから今日は我々も親方たちと一緒にお茶に致しますかな。姐さん、如何です?」
「おー、いいね!」
クッと親指を立てて笑った紫月に、源次郎も春日野もポカポカと心温まる気持ちがして、何でもない日常がとても幸せなものに思えるのだった。
そんな気遣いに親方と新入りの小川が感激したのは言うまでもない。特に小川は間近で見る姐さんの姿にえらくドキドキとさせられてしまったようだ。
わざわざ自分たちの為に茶菓子を選んでくれたことはもちろんだが、話してみると気さくで、とにかく明るい。一緒にいて楽しい気分になると同時に、間近で見る紫月があまりにも綺麗な顔立ちなので、何だか直視することも憚られるといった気にさせられてしまったのだ。
(ふあぁ……野郎でもこんなに綺麗な人っているもんなんだな……。初めて見た時も超絶イケメンとは思ったけどさ……。何なんだ、このむちゃくちゃ綺麗な肌っつーか、指も細くて長くてスラーっとしてるし、俺とは月とスッポンっつーかさ。髪もふわっふわで人形みてえだ……)
野郎同士で結婚なんてと思っていたが、これならうなずけるというか、あの若頭さんの気持ちも分かるなぁなどと妙に納得させられてしまう小川であった。
しかもこんなに綺麗なのにまったく気取っていない。話しやすいし、新入りの自分に対しても皆の話題に馴染めるようにと積極的に話し掛けてくれている。
◆13
「小川君はさ、珍しい名前なのな! 駈けるに飛ぶって書くんだべ?」
空中に指で漢字をなぞりながら訊く。
「え……ッ!? ああ、はははい……そっス!」
面と向かって親しげに言われてか、焦りまくってしどろもどろの様子に、泰造親方が助け舟よろしくその由良を説明してくれた。
「駈飛ってのはこいつの親父がつけたそうでしてな。大空を駈けて飛べる大きな気持ちを持った男になるようにっていう意味が込められているんだそうです」
「へえ、そうだったの。かっけえのな! 駈飛ちゃんかぁ」
いきなり『ちゃん』付けで呼ばれて、柄にもなく頬が染まる。だが、嫌な気はまったくしない。どちらかといえば親しく呼んでもらえて心躍るといおうか、嬉しい気持ちでいっぱいだった。
「あ、あ、あの……えっと、俺はその……姐さん……でいっスか?」
何と呼べばいいかといった調子で口ごもる。
「ああ、俺? 俺ン名前は紫月。紫の月って書いてなぁ。紫月でもいいし、姐さんでもモチオッケーよ!」
「あ、はぁ……どうも。紫月さんっていうのも……その、めちゃめちゃかっこいいじゃないスか」
「そう? さんきゅなぁ! 俺ンはさ、生まれた日に出てた月が何となーく紫色っぽく見えたんだって。そんで親父が紫月でいっかってつけたらしいよ。単純だべ?」
「は、はぁ……なるほど……。なんか……その、いいっスね」
緊張の為か上手い返事が返せないものの、紫月はとびきりの笑顔で『さんきゅなぁ!』と言ってくれた。
朗らかなやり取りと楽しい会話、綺麗過ぎる顔立ちに似合わないくらいぞんざいに大口を開けて餅を頬張る仕草。そのどれもが新鮮で、小川は軽いカルチャーショック状態に陥ってしまいそうだった。
(はぁ、若頭さんはかっけーし、姐さんはめっさ美人なのに超いい人だし……普通こんだけ顔がいいとツンケンしてそうなもんなのに……全然そんなことねえし。世の中ってこんな貴重な人がホントにいるのな。モーホーなんて言っちゃって悪かったな……。ホント、よく似合いのカップルだな)
そんなことを思いながら、夢心地の内に三時のお茶の時間は過ぎていったのだった。
◇ ◇ ◇
そんな小川が庭師見習いとして鐘崎組へと出入りするようになり、組員たちにも顔を覚えられて馴染み始めた頃だった。またひとつ、厄介といえる事件が勃発することとなる。それは初夏の午後のことだった。
この日も小川は親方に連れられて鐘崎邸へと剪定の仕事に顔を出していた。
普段はあまり見掛けることの少ない長の僚一と若頭の鐘崎が揃って中庭伝いの通路を横切ったのを目にして、一気にテンションが上がる。小川にとって彼らと直接会ったのは一等最初に起こした侵入事件の謝罪の時だけで、以後は剪定に訪れてもその姿を見ることはなかったからだ。
「おわッ! 組長さんと若頭さんだ! 久々お姿見れた! 相変わらずカッコいいスねぇ。姐さんのお姿が見えねえけど、今日はいねえのかなぁ」
姐さんにも会いたかったなぁなどと言いながら、小川は作業の手を止めてすっかり彼らの姿を目で追っていた。
どうやら来客のようで、奥の事務室から第一応接室へと向かうところだったようだ。
◆14
ここ鐘崎組の邸は広大ゆえに応接室と呼ばれる部屋も来訪者との関係によって通される部屋の種類がいくつか用意されているのだが、正面玄関から奥へ行くほど親しい者だけが案内される組中枢へ向かうようにできているのだ。第一応接室というのは、正面玄関に最も近い部屋である。つまり、今回の客人はごく一般的な相手ということになる。
邸の間取りをざっと説明すると、まずは敷地の周囲をぐるりと囲む背の高い塀の東側に出入り口となる表門があって、すぐ脇に警備専用の建物があり、二十四時間体制で門番が常駐している。来訪者の用件を聞き、敷地内へと通された場合に初めて正面玄関へ辿り着くことができるのである。
西側には裏門があるが、そちらは主に組員たちが出勤などに使う通用門とされている。ここにも門番がいるが、表門と比べれば造りは簡素といえる。と言っても普通の勝手口からすれば豪勢といえるだろう。
全て純和風の造りで玄関は表裏とも相当に広い。門番の検閲を経た客人は表玄関へと案内され、そこから上がってすぐの部屋が第一応接室ということになる。初見の依頼人などはすべてここで対応することになっているのだ。
その第一応接室を通り過ぎて更に廊下を進むと、若い衆らが常駐している組事務所が構えられている。その奥には第二の応接室があるが、ここまで通されるのはよほど信頼の置ける間柄の者たちだ。主には長の僚一が仕事を組んでいる相手との打ち合わせに使われているといった具合であった。
更に奥へ進むと見えてくるのが中庭だ。今まさに小川たちが手入れしている場所である。季節毎の花々をつける樹木に囲まれた広大な庭には池もあり、石橋が掛かっていて情緒もたっぷりだ。普段は数匹のシェパード犬が放し飼いにされているが、庭師などが入る時には犬舎へと移動させられている。
その中庭を抜けると第三の応接室があり、鐘崎の友である周焔らが訪れた際にはここで茶などが振る舞われる。その隣には清水や橘といった組の幹部連中が庶務を行う部屋。そのまた奥が組中枢のメイン事務所となっている。鐘崎や紫月が普段いるのはここである。ここから渡り廊下を隔てて僚一や源次郎などが住んでいる別棟の住居があるといった造りになっているのだ。
敷地内には組員全員が集まって食事をとる為の大部屋などの他、襲名などの儀式として使われる厳かな大広間や武術の稽古をつけられる道場も備えられている。
また、警護などの依頼の際、その対象者に危険が及ぶような場合は一時的に寝泊まりしてもらう為の客室も完備されていて、普段はおおよそ滅多には使われていない。周ファミリーなどが宿泊する際にもこの客室が使われるのだが、ちなみに小川が中庭へ無断侵入した際に鐘崎と紫月が藤の花見をしていたのもこの客室である。
ここまでが大方表向きの部分と言えるが、広大な建物の地下には銃や真剣などが保管されている武器庫の他に、射撃の試し撃ちができる訓練場までが設えられている。外観だけ見れば落ち着いた純和風のお邸といえるが、実際は堅固な要塞なのである。
むろん施設内のすべてを把握しているのは組員たちのみで、小川ら職人であっても地下に武器庫があるなどという邸の全容は知り得ないといったところであった。
つまり、小川らにとっては邸内で鐘崎らの姿を見掛けることはごく稀というわけだ。
◆15
「お客さんかな……」
小川が剪定の手を止めて僚一らを目で追っている。幹部の清水が案内役なのだろう、先導しながら『かれこれ二十年ぶりだそうですね』などと言っているので、昔懐かしい客人でも訪れたのだろうと思われる。
「おいコラ、駈飛! よそ見してねえで手を動かさんか!」
親方に釘を刺されて小川は気まずそうに頭を掻いてみせた。
「へえ、すいやせん。けど組長さんたちってマジカッコいいっスよねえ。姐さんはめっちゃ美人なのに全然気取ってなくてやさしいし! 俺、マジで憧れちゃうっスよ!」
組長や若頭とは滅多に会う機会もないが、姐さんである紫月とは割合頻繁に顔を合わせていた。まあ紫月は邸内にいることが多いし、小川らが仕事で訪れている際にも自ら茶菓子を出してくれたりと気遣ってくれたりもする。フレンドリーな性格なので、小川ともすっかり馴染み、駈飛ちゃんなどと呼んでもらっていることが小川にとっては非常に嬉しく自慢でもあるのだった。
「ったく、おめえは! お客さんのプライベートに首を突っ込むなといつも言ってるだろうが! バカなこと抜かしてねえで仕事に集中しろ! 集中!」
「へい!」
タジタジながらも仕事に戻った小川だったが、いったいどんな客が訪ねて来たのか、そしてそれは僚一らとどういった間柄の人物なのかなどということが気になって仕方がないふうであった。
◇ ◇ ◇
一方、その僚一らは第一応接室に待たせていた客人と対面していた。訪ねて来たのは以前この近所に住んでいたという外交官の男とその娘であった。
「本当にお久しぶりですなぁ」
「鐘崎様もお変わりなく! かれこれ二十年以上になりますかな。組長さんはいつまでもお若くていらっしゃるし、それに何と言っても遼二君がご立派になられて驚きました。あの頃はまだこんなに小さい男の子だったのに! しかもお父様にそっくりで、まるであの頃の組長さんを見ているようですよ」
「ええ、お陰様でコイツも組を継ぐ意向を固めてくれましてね。それより辰冨様こそ相変わらずにご活躍のご様子。ずっと海外に赴任されていらしたのでしょう? いよいよ日本にお戻りになられたのか?」
「いや、今回は長期の休暇が取れたものですから。お陰様で私も大使に任命されましてな、ここ数年仕事の方に没頭しておりましたもので、家族のことはなかなか構ってやれませんで。今回は娘が是非にと申しますので二十年ぶりで日本へ帰って参った次第でしてな」
「そうでしたか。大使閣下に――! それはおめでとうございます。お嬢さんもお綺麗になられて! あの頃はそれこそウチの愚息と一緒で、まだ小さかったのに。時が経つのは早いものですな」
たった今僚一が口にした通り、この外交官の名は辰富といった。歳も僚一と同世代で、今では大使になったということだから出世頭といえる。一人娘は若頭の鐘崎よりも二つ三つ年下だったはずだ。名は確か鞠愛である。海外赴任が多い辰冨が現地で覚えてもらいやすいようにと命名したと言っていたのを思い出す。彼らがこの近所に住んでいた頃は、子供たちは二人ともまだ小学生だった。
父親同士の挨拶が一通り済むと、鐘崎も続いて親娘に言葉を掛けた。
「ご無沙汰しております。皆様お元気そうで何よりです。いつぞやは大変世話になりました」
そう言って丁寧に頭を下げる。辰冨はもちろんのこと、娘の鞠愛はとびきり嬉しそうな笑顔を見せた。
「遼二さんもお元気そうね! 会えて嬉しいわ」
「お陰様で。自分が今こうしていられるのも辰冨さんとお嬢さんのお陰ですから」
「あら、イヤね。お嬢さんだなんてよそよそしい言い方はよして。何て言ったって私たちはこの世で特別な間柄ですもの」
そうでしょ? というように小首を傾げては頬を染める。
「ええ、そうですね。お二人は自分の命の恩人ですから」
鐘崎が素直に相槌を返すと、鞠愛は一層満足そうにしてはとびきりの笑顔を輝かせた。
◆16
「本当に、あの時もしもお嬢さんがコイツを見つけてくれなかったら、今こうしていることもできなかったかも知れません。お二人には何と感謝を申し上げてよいか、本当にありがとうございました」
僚一もまた、息子と共に頭を下げる。そう――辰冨親娘は鐘崎が幼い頃に川で溺れ掛かっていた時に偶然通り掛かり、助けてくれた命の恩人だったのだ。
それは今から二十余年前、鐘崎が小学三年生頃のことだった。十日ばかりの長雨続きの後、ようやくと太陽が顔を出した午後の河川敷で事は起こった。鐘崎らの同級生だった近所の子供・鉄也が犬の散歩中に川へと落ちてしまったことから始まった。
鐘崎は紫月と、それにもう数人の友達と共に河川敷でサッカーをしようと出掛けて行った時のことだ。クラスメイトの鉄也が犬と一緒に川に投げ出されているのを発見して大騒ぎになったのだ。
昨日までの長雨の影響で河川は水かさを増しており、普段より流れも格段に早かった。聞けばどうやら川に落ちた犬を助けようとして、鉄也もまた溺れ掛かっているとのことだった。
当時から体格の良かった鐘崎は、何とかして鉄也を助けようと真っ先に流れの早い川へと足を踏み入れた。その結果、鉄也と犬は無事に岸へと上がれたのだが、押し上げる際に流れに身体を取られた鐘崎が川底の石に足を挟まれてしまい身動きが取れなくなってしまったのだ。
紫月はすぐさまクラスメイトたちに言って鐘崎組へ知らせてくれるように使わせた。応援が来るまでの間、滑落防止用に備えられていた柵があることに気が付き、咄嗟にそれに掴まると、もう片方の手を伸ばしてこれ以上鐘崎が流されないよう必死に手を差し伸べた。
『遼! がんばれッ! すぐに助けが来る! ぜってー離すなよッ!』
鐘崎に比べれば華奢な紫月は、下手をすれば自身も流れに飲み込まれそうになりながらも必死で手を繋ぎ止めていた。
『紫……月ッ、危ねえ……! いいからもう手ぇ離せ! おめえまで流されちま……ッ』
そう言いながらも、急な流れが作る波間にすっぽりと頭まで飲み込まれ、何度も何度も水面に顔を出したり飲み込まれたりを繰り返しているといった最悪の状況だった。いかに体格が良くても所詮は子供だ。流されないように踏ん張っているだけで精一杯なのだ。
『誰が離すかってんだッ! 死んだって離さねえ! おめえこそ手ぇ離すんじゃねえぞ! 離したらブッ殺すかんな!』
『よせ、紫月! ……この手を離……! てめえまで……イカれちま……ッ』
『遼ッ! がんばれ! あとちょっとで助けが来っからッ! 今、おっちゃんたちを呼びに行ってもらってる……あとちょっとだからッ!』
二人が死闘を繰り返していたその時だった。
「あら? パパ……ねえパパ! あそこで人が溺れてる!」
ちょうど辰冨と共に犬の散歩に来ていた鞠愛が二人に気がついたのだ。
辰冨はすぐさま河川敷の遊歩道から駆け下りて行き、無事に鐘崎を岸へと引っ張り上げてくれた。
その後間もなく鐘崎組から源次郎以下組員たちが駆け付けて、大事には至らずに済んだ――とまあそういった経緯であった。
◆17
もしもあの時、鞠愛らが通り掛からなかったら、おそらくは流されてしまっていただろう。場合によっては最悪の事態にもなり得たわけだ。鐘崎にとって辰冨親娘はまさに命の恩人というわけだった。
「それはそうとこちらにはいつまで居られるので?」
「ええ、ひと月ほど。私と家内はまた米国へ戻りますが、娘はこのまま日本に残りたいと申しましてな」
「おや、そうですか。ではお嬢さんは一人暮らしをなされるので?」
「ええ。私としては幾分心配でしてな、一緒に戻ろうと言っているのですが聞かんのですよ」
「そうでしたか。ご両親としてはやはりご心配でしょうな」
この辺りに住むのであれば、何かと力になれればと僚一は言った。
「ありがとうございます。まあ本音を言ってしまいますと、この娘にも早くいい連れ合いが見つかって所帯でも持ってくれれば言うことなしなんですがな」
「分かります。お嬢さんはお綺麗でいらっしゃるし引き手数多でしょう。いいお相手とご縁があるとよろしいですな」
「まったくです。どこかにいい殿方はいらっしゃらないものでしょうかね。娘ももうあと少しで三十ですからな」
辰冨は笑いながらも、ちらりと鐘崎を見やっては微笑んだ。
「そういえば遼二君もうちのとは三つ違いでしたな? どうです? もしもよろしければもらってやってはいただけませんか」
辰冨が社交辞令方々そんなことを言う傍らで、鞠愛は得意げに身を乗り出した。
「いやぁね、パパったら! 急にそんなこと言ったら遼二さんに失礼よ」
否定しながらも表情は期待でいっぱいといったふうに対面の鐘崎を直視する。
「あの頃から遼二さんは素敵だったし、今もこんなにカッコいいんですもん。きっともういい女性《ひと》がいらっしゃるでしょ?」
と言いつつ、いい女性《ひと》がいなければいいと顔に書いてある。期待に気もそぞろといった彼女に、鐘崎は正直に打ち明けた。
「光栄なお言葉、恐縮です。ですが有り難いことに数年ほど前に結婚いたしまして」
親娘は驚いたようにして同時にのけ反ってしまった。
「おや、左様でしたか。それはそれは……おめでとうございます」
「ほらぁ、やっぱりね! 遼二さんこんなにカッコいいんだもの。女が放っておくわけないわ。だからもっと早く帰って来ようって言ったのに!」
父の方は残念だとすぐに引き下がったが、娘の方はすっかり意気消沈で唇を尖らせる始末だ。鐘崎自身もどう返してよいやら言葉を詰まらせて困惑顔だ。
そんな様子に僚一が穏やかな助け舟を出した。
「愚息には勿体ないくらいの嫁でしてね。コイツの側で一生懸命組のことも支えてくれています。本当に有り難く思っておりますよ」
舅の僚一がそう太鼓判を押すのだから、それ以上は会話にならない。辰冨も『それは良かった。羨ましいことですな』と、祝いの言葉を口にしたのだった。
ところが娘の方は鐘崎の嫁に興味津々の様子だ。是非奥様にもお会いしてみたいわなどと言い出した。
◆18
「せっかくですが、生憎今日は自治会の会合に出ておりまして」
鐘崎が言うと、ますます残念そうにして鞠愛は頬を膨らませた。
「まあ残念! じゃあ今度是非お食事でもご一緒させてくださらない? どんな方か見てみたいもの! それに私も日本に住むことになったらお友達が欲しいし。是非!」
お友達どころか、彼女の言い草を聞いているとまるで対抗意識剥き出しといった調子だ。鐘崎はもとより僚一もやれやれと思わされたが、そこは大人の付き合いだ。何といっても命の恩人であるし、ここは穏やか且つさりげなく話題を変えながら親娘との対面の時を終えたのだった。
◇ ◇ ◇
それからというもの、鞠愛は事あるごとに鐘崎組へと顔を出すようになっていった。手作りの菓子を焼いたからと持って来たり、都内へ買い物に出たいから案内をお願いしたいと言ってきたり――。
まあ鐘崎も僚一も依頼の仕事で邸を空けていることが殆どだったから、直接鞠愛と顔を合わすこともそうそうはなかったものの、組員の間では愚痴が出回るほどに有名な事案となっていったのだった。
庭師の泰造や小川の耳にもそれらの愚痴が届くほどで、剪定をしながら若い衆の立ち話が聞こえてくることもしばしばであった。
「ったく! あの外交官のお嬢さんとやらには参っちまうぜ。今日なんか若も姐さんも出掛けて居ねえって言ってるのに聞きゃあしねえ」
「いつ帰って来るんだ、若の休みはいつだって……とにかくしつこくて仕方ねえ」
「こないだなんてよ、たまたまあの娘が来てた時に若が仕事に出て行かれるって玄関で鉢合わせちまってさ。クッキーを焼いてきたからこの場で開けて味見してくれだの大騒ぎさ」
「ああそれな、俺も見た! 若が気を遣って受け取られたんだが、お礼に次の休みは買い物に付き合ってくれときたもんだ! 日本は慣れてねえから一人じゃ怖えだの、若の腕にぶら下がる勢いよ。もしもあれが野郎なら迷わず俺がぶん殴ってるところだったぜ」
若い衆らの雑談に小川はもう剪定どころではない。耳がダンボというくらいに聞き耳を立ててしまうのだった。
「けどよ、若には姐さんがいるってことはあの娘も知ってるんだろうが。一等最初にここを訪ねて来た時にウチの親父さんもそう伝えたって聞いたぜ」
「それなんだがな……。どうもあの女、姐さんが男だってのを突き止めたようでな。だったら若は実質上独身だから、自分にもチャンスはあるとか言い出してるらしいぞ」
「父親が外交官だってんだろ? どっからか伝手を辿って調べたのかも知れねえな」
「ああ、今じゃ大使になったとかって話だが、また面倒なのが湧いたもんだ」
「実は俺、この前あの女が訪ねて来た時に茶を出しに行ったんだが……」
ちょうどその日は鐘崎も僚一も仕事に出ていて、幹部の清水が応対していたそうだ。
「女が清水さんに訊いてたんだ。若の奥様は本当に男の人なんですか? ってな。もちろん清水さんも堂々とその通りですとお答えになってらしたが、実際困ってたようだったぜ。普通そんなこと面と向かって訊いてくるかっつーの!」
「うわ! マジ!? 最低だわ」
そんな話をしていたところへ紫月が自治会の会合を終えて戻って来た。
◆19
「あ! 姐さん、お疲れ様っス!」
「今日も自治会だったんスね。このとこえらく頻繁みてえで」
「おう。今年はウチ、イベント設営の担当だからさ。夏祭りの準備で忙しいんだわ」
「そうっスか。お疲れっス!」
と、泰造と小川に気付いた紫月がにこやかな声を上げた。
「親方! 駈飛ちゃんも。今日も剪定? お疲れなぁ!」
フレンドリーに声を掛けられて小川は目を輝かせた。
「姐さん! お世話になってます!」
小川は例の不法侵入事件以降、この紫月には駈飛ちゃんと呼ばれていた。謝罪に来た時の態度が好感を持たれたようで、以来親しみを込めて接してくれるこの姐さんが小川も大好きであった。
「はぁ……相っ変わらず美人だなぁ。若頭さんは超絶男前だし、姐さんはめちゃめちゃ美人だし。マジ最高っスよね!」
奥の組事務所へと入って行く紫月と若い衆らの後ろ姿を見送りながら、小川はデレデレと頬をゆるませていた。
「おいコラ、駈飛! デレたツラしてんじゃねえ! ったく、てめえはあのご夫婦のこととなると仕事そっちのけでデレやがる……! っと、しょーもねえヤツだ」
泰造にゲキを飛ばされて、小川はタジタジと舌を出してみせた。
「すんません。けどなぁ、マジ似合いってーか……眺めてるだけで溜め息もんなんだからしょーがねえっスよ」
小川は初めてのあの日から鐘崎と紫月には尊敬というか憧れというか、ファンにでもなってしまったかのような感情を抱いていていたのだった。だからこそ今しがた若い衆らが話していた話題にも興味が尽きない。どこかの娘が若頭に気があるような話向きが気に掛かって気に掛かって仕方なかった。
「あーあ、ヘンなことにならなきゃいいけどなぁ……。どこぞの女が若さんに横恋慕とか、マジ勘弁して欲しいね」
ボケーっと立ち尽くしながらも眉根を寄せる。
「そりゃ最初はさ、野郎同士でチュウとか目の当たりにしちまって……ビックリしたし、ビビリもしたけどさぁ。けど若頭さんも姐さんもすげえあったけえ人だったし、おまけに超絶イケメンに超絶美人だろ? あの二人が仲良くやってる姿を見れんのが俺の癒しっつかさ。近頃じゃ楽しみになりつつあるんだよなぁ」
ブツブツと独りごちる様子にまたもや泰造からのゲキが飛ぶ。
「駈飛! ボサっとしてねえでこっち持ってろ! ったく、何度言わせんだ」
「あ、へーい! すいやせん。今行きやーす!」
いそいそと仕事に戻っていく小川であった。
そんな小川や若い衆らの危惧が具体的になったのは、それから数日後のことだった。
それはとある日の夕方、珍しくも邸にいた鐘崎が犬を連れて散歩に出掛けようとしていた時だった。例によって紫月は自治会の会合に出ていたので、迎えがてら若い衆と共に犬たちを散歩させようかという話向きになったのだが、門を出たところで訪ねて来た鞠愛と鉢合わせてしまったのだ。
◆20
「あらぁ、遼二さん! 偶然ね!」
犬たちを連れている姿を見て嬉しそうに駆け寄って来る。
「ああ、お嬢さんこんにちは。先日はどうも」
「今日はお休み? お散歩に行かれるの?」
「ええ。嫁さんを迎えがてらコイツらを散歩させようと思いまして」
「嫁さん……って、あの紫月さんとかいう……? アタシがあなたを助けてあげた時にも一緒にいたそうね?」
「ええ、お嬢さんも覚えていてくださいましたか!」
「……さあ、もうずっと昔のことだからよく分からないわね……」
鐘崎は『そうですよね』と笑ってみせたが、鞠愛は面白くなさそうな顔つきでいる。
「遼二さんとは幼馴染だとか……。男の人なんでしょ?」
「ええ、そうです」
「それなのに結婚……?」
「ええ。確かに驚かれるかも知れませんが、自分たちにとっては世間一般の夫婦と何ら変わりないと思っていますよ」
「……ふぅん」
犬たちは落ち着きのなく鐘崎の足元で行ったり来たりを繰り返している。何か不穏なものを感じるわけか、低い唸り声まで上げている様子に、鐘崎は『どうどう』と尻を撫でてはしゃがみ込んで二匹を抱き抱えた。万が一にも鞠愛に噛みついたりしたらまずい。鐘崎は犬たちを宥めながらも、危ないですからと言って彼女との距離を取った。
「立派なワンちゃんたちね。アタシのこと警戒してるのかしら?」
「すみません。何せ番犬として飼っているものですから」
鐘崎に撫でられながら犬たちはペロペロと彼の顔を舐めては身体を擦り付けている。
「ふふ、こんなに強面なのに甘えん坊さんね! でも懐かしいわ。アタシも小さい頃は犬を飼っていたもの」
もちろんそれは承知している。その散歩中に辰冨親娘に助けられたわけだからだ。
「ね、ご一緒しても構わないかしら?」
尋ねながらも返事を待つまでもなくすっかりついて歩き始めている。こうなったら仕方がない。追い返すわけにもいかず、鐘崎は犬を引きながら鞠愛と肩を並べて歩き始めた。まあ若い衆もいることだし、自治会館まで行けば紫月とも合流できる。少しくらいは辛抱せねばなるまい。
「お嬢さんも散歩ですか?」
何も喋らないわけにもいかず、当たり障りのない会話を振る。
「ええ、まあ。でも懐かしい街並みだわ。この辺りは子供の頃とあまり変わっていないのね」
「そうですね。駅前なんかはだいぶ開発が進んで様変わりしてしまいましたが」
若い衆はそんな二人の後ろを黙ってついて歩く。彼もまた二匹を連れているので、鞠愛に近づけないようにとの配慮からか少し距離を置いている為、傍から見ればお散歩デートのような感じといえる。気重ながらも若い衆は舌打ちたいのを必死に堪えるのだった。
と、助け舟か。近所のタバコ屋の川久保老人が正面から向かって来るのが見えた。
この老人は鐘崎が小さい頃からの馴染みで、紫月と共によく面倒を見てもらった人の好いお爺さんである。以前、三崎財閥の令嬢が鐘崎に心を寄せた際にも、そのとばっちりで拉致に巻き込まれたこともあったのだが、その時にも鐘崎と紫月の絆をご令嬢の前で話して聞かせたほどで、よくよく理解の深いお人だった。
「おや、遼ちゃん! 散歩かい? 珍しいね。紫月ちゃんは一緒じゃないんかい」
連れ立っている鞠愛を見やりながらそんなふうに声を掛けてきた。
「川久保さん、こんちわっス! あいつは今日は自治会の会合でして。迎えがてらコイツらの散歩をと思いましてね」
犬たちを指差して笑う。
「おや、そうだったのかい。今日はまた綺麗なお嬢さんを連れておいでだ。ご親戚か何かかい?」
にこやかに話し掛けられて、鞠愛も軽く会釈で返した。