極道恋事情
◆21
だが、『こんにちは』でもなければ『はじめまして』でもない。鐘崎の背に隠れるようにしながら困ったように視線を泳がせるのみだ。
「辰冨さんのところのお嬢さんですよ。ほら、以前この近くに住んでおられた外交官の。ご主人も覚えてるっしょ? 俺がガキの頃にそこの河川敷で溺れ掛かったのを助けてくださった」
鐘崎が説明すると、老人も『ああ!』と言って懐かしそうに瞳を見開いた。
「覚えておるとも! あの時のお嬢さん……するってーと鞠愛ちゃんかい! 大きくなりなすったなぁ」
「長期休暇が取れたそうで久しぶりに日本に帰って来られたんですよ。つい先日、お父上と一緒に組を訪ねてくださいましてね」
「おお、そうだったんかい。お父上もお元気かの?」
「え、ええ……お陰様で」
老人が親しげに話し掛けるも会話はあまり続かない。そんな様子に鐘崎が気を利かせて話を繋いだ。
「ご主人は? これから買い物か何か?」
「いや、わしも自治会館へ向かうトコさ。夕方から防犯パトロールがあるんでの」
ここの自治会では毎日有志が集まって町内のパトロールをして歩くのが習慣になっているのだ。
「そっか。今年はご主人のところは防犯担当だったっスね。ご苦労様っス! あ、じゃあ自治会館まで一緒に行きましょう」
どうせ紫月を迎えに行くのだ。一緒にという鐘崎を鞠愛が引き留めた。
「ね、遼二さん。良かったら少し河川敷を散歩したいわ。付き合ってくれないかしら? 久しぶりだから懐かしくて」
思わず老人と鐘崎は互いに視線を見合わせてしまったものの、場の雰囲気から遠慮すべきと思ったのだろう老人がすぐに引き下がった。
「じゃあわしは先に行っとるさ。気ィつけてな」
「悪いなご主人。そうだ、紫月に会ったら河川敷に寄ると伝えといてくれますか?」
「いいともさ。伝えとくよ」
川久保老人とはそこで別れた。
河川敷に着くと鞠愛がゆっくり散歩したいと言うので、犬を若い衆に預けて少し付き合うことになった。
鞠愛はたいそうご機嫌である。鐘崎の前を歩き、キャッキャとはしゃぎながら、「遼二さんも早く早くー」などと手招きして走る。
「見て! 確かこの辺だったわね。アタシがあなたを助けた場所」
遊歩道から河原へと向かって駆け降りる。
「お嬢さん、あまり急ぐと危ないですよ。転んだりしたらいけない」
「ふふ、これでも運動神経はいい方よ! 遼二さんも早く来て!」
そう言ってどんどんと若い衆から遠ざかる。遊歩道の上ではその彼が心配そうな面持ちで二人を見つめていた。
「クソッ! あの女……調子こいてんじゃねえぞ。つか、コイツらいるし……。ああーもう! どうしたらいいってんだ」
犬を四匹連れながら後を追って駆け降りるべきか、このままここで戻って来るのを待つべきかと焦れる。
と、そのしばし後だった。突如女が鐘崎に抱きつくように腕の中へとなだれ込んだのを目撃して、さすがに黙っていられずに若い衆は自らも河原へと向かった。
◆22
その河原では鐘崎が鞠愛を受け止めながら少々慌てたように顔を覗き込んでいた。
「お嬢さん? どうされました?」
まるで貧血でも起こしたかのように鐘崎の胸にしがみついたまま瞳を閉じている。
「大丈夫……少し目眩がしただけ。すぐに治るわ」
「ですが……」
「本当に平気よ。たまにこうなるの。珍しいことじゃないから安心して。少しじっとしていれば大丈夫だから」
このままこうしていてと、胸板に頬を擦り付けながらギュウギュウとしがみついてくる。
「とにかく座りましょう。安静にしないと」
「いいの! 本当に平気……」
そう言いながらも更に身体を擦り寄せてくる。――と、そこへ若い衆が犬を引き摺りながら追いついて来た。
「若!」
犬たちは鐘崎の周りでウォンウォンとうるさいほどに野太い声を上げている。
「こら、静かにしねえか。やはり救急車を呼ぼう」
若い衆に電話をさせようとした時だった。遊歩道の方から紫月が組員の春日野と共にやって来たのに気がついて、鐘崎と若い衆はホッと胸を撫で下ろした。自治会館で川久保老人からの言伝を受けて、帰り際にこちらへと寄ってくれたのだろう。
「遼! どした?」
「紫月! 良かった。お嬢さんが急に具合を悪くされてな」
紫月は独学だが医療に関しては常人よりも遥かに詳しい。実家の一之宮道場に居た時は綾乃木らと共に鐘崎組の専門医として手術の手助けなどもしていたくらいだからだ。
「急に気分が悪くなった? どれ、ちょっと診せてくれ」
「ああ、頼む」
鐘崎の手から離され紫月に抱き抱えられた鞠愛は、何故か口惜しそうに眉根を寄せながらそっぽを向いてしまった。
「脈拍が少し早いかな。体温は異常なしだ。このところ急に湿度が上がってきたからな、自律神経が弱ってるのかも」
紫月は『大丈夫ですか?』と声を掛けながら親身になって鞠愛を支えていたが、それに対する彼女の反応はごくごく薄いものだった。
「大丈夫……」
蚊の鳴くような声ような声でそれだけ言うと、再び顔を背けてしまった。
「医者に連れて行かなくて平気か?」
鐘崎が訊く傍らで、組員の春日野がすぐに車を呼びますと言ってスマートフォンを取り出した。組からなら歩いてもそう時間は掛からないから車なら本当にすぐだ。
「すぐに車が来ます。おぶりましょう」
気分が悪くなったら遠慮せずに言ってくださいねと声を掛けながら紫月が抱き起こそうとするも、鞠愛は隣にいた鐘崎へと腕を伸ばして、『あなたがおぶって』と言いたげに抱きついてみせた。
ちょうどその時、組から車が到着したものの、さすがにこの河原までは入って来られない。
「遼、お嬢さんをおぶってってくれ。俺は綾さんに言って事務所に来てもらう」
そう言ってスマートフォンを取り出した。
鐘崎組から一之宮道場までは歩いてすぐだ。綾さんというのは紫月の実家の一之宮道場に住み込みで手伝いをしてくれている男で、綾乃木天音という。鐘崎組の専属医としても活躍してくれている男だ。その彼が診れば自分よりは安心だと言って紫月は親身になってくれている。
「すまねえな、紫月。頼む」
「ああ、任せろ! それよかなるべく揺らさねえようにおぶってってくれな」
そんな若頭と姐さんを横目に、車のドアを開けたりと準備をする為、先に遊歩道まで駆け上がった春日野と若い衆であったが、互いに何とも言えない表情で見つめ合ってしまった。
「……ッ! あの女……具合が悪そうには見えねえけどな。もしか仮病じゃねえっスかね?」
若い衆が犬を引きながらそうこぼす。
「――そうかもな」
春日野もまた、ふうと深い溜め息が隠せなかった。
◆23
その後、組事務所に綾乃木がやって来て鞠愛を診たが、これといって緊急の症状は見当たらなかった。
「紫月の言うように軽い自律神経失調症だろうな。安静にしていればすぐに良くなるだろう」
鞠愛は玄関脇にある第一応接室のソファに寝かされていたが、すぐに父親の辰冨が飛んでやって来た。組へ帰った直後に鐘崎が連絡を入れたからだ。
「遼二君! すまないね。ご迷惑をお掛けして……」
「いえ。日本に帰って来て慣れない環境下で少しお疲れが出たのかも知れません。医者にも診てもらいましたが、ご心配なようでしたら改めて掛かりつけ医に診せてください」
「ああ、すまない。お手数をお掛けしたね」
そのまま父親が娘を連れて帰り、この奇妙なお散歩事件はひとまずの幕を閉じたのだった。
◇ ◇ ◇
この日の噂が組内に広まるのは早かった。鐘崎について一緒に犬を散歩させた若い衆からあっという間に話が広がっていったからだ。例によって所々でなされる立ち話は、庭師の泰造たちの耳にも届き、見習いの小川もまたヤキモキとさせられる日々を送ることとなった。
『ったく! あの小娘ったらいい加減にして欲しいぜ! あれじゃ若も姐さんもいい迷惑だってのが分からねえかね』
『まったくだ。若もお辛い立場だよな。子供の頃にあの親娘に助けられたってんだろ? それで何かと強く出られねえんじゃねえか?』
『命の恩人だか何だか知らねえけど、あの女ときたらそれを盾に若をいいように使いやがってよ! 正直しつけえったらねえよ!』
『姐さんはどう言ってらっしゃるんだ? 河川敷であの娘が倒れた時にゃ、姐さんが親身になって診てやったそうじゃねえか』
『そうさ。わざわざご実家から綾乃木先生まで呼んでくださいなすった。それなのにあの女ときたら! 姐さんの目の前で堂々と若に抱きつきやがって。俺ァもう腹立って仕方なかったさ!』
『姐さんはお優しいからなぁ。これまでだっていろんな女が若にちょっかい掛けてきたが、その度に姐さんが女たちと心から向き合ってくれてさ。ホントは若だって心を痛めてらっしゃるはずだぜ』
『だろうな。若はあの通りの男前だから、方々の女にモテるのは仕方ねえと思うけど……毎度これじゃ姐さんが気の毒でならねえよ』
『ああ。若だって姐さん一筋なのに、望みもしねえ女がゴロゴロ寄って来て気苦労が絶えねえだろうな』
『俺たちも出来る限りお二人の防護壁になりてえと思うけど、まさか寄って来る女を殴り飛ばすわけにもいかねえし……』
『この際、相手が野郎だったらちっとは気も楽なんだがな。思いっきりぶっ飛ばしてやるっつの!』
『言えてる』
はぁー、と誰もが重い溜め息まじりだ。
そんな立ち話が耳に入ってくる泰造と小川にとってもまた、気の重くなる思いだった。
◆24
辰冨がお礼方々鐘崎組へとやって来たのは、河川敷での一件から数日後のことだった。
この日、娘の鞠愛は一緒ではなかったのだが、鐘崎にとっては少々厄介と思える話を持ち込まれて、またもや頭を悩まされることとなった。なんと鞠愛が外出する際に、護衛として買い物などに同行して欲しいと頼まれたからだ。しかも正式な依頼という形で代金も支払うと言う。鐘崎と共に応対に出ていた幹部の清水も、さすがに眉根を寄せてしまいそうになった。
辰冨は一生懸命な様子だ。
「ご存知の通り、鞠愛は幼い頃から外国暮らしが続いていたもので、日本の地理には慣れておりませんでね。特に都内などは広くて人も多ございますし、親としましては何かと心配なのです。それに――一人で出歩かせて、またこの前のように体調を崩したりしたらと思うと心配でしてな」
せっかくの日本での休暇中だ。何処にも出て歩くなというのも可哀想に思えて――と、辰冨は肩を落としてみせた。
「如何でしょう、鐘崎様のところでは警護の依頼なども受けてくださるとお聞きしていますし、引き受けてはいただけないでしょうか?」
確かに仕事の依頼としてなら受けるのもやぶさかではない。だが、先日の件から見ても鞠愛が鐘崎に気があるだろうことは明白だ。そう思った清水は一顧客としての対応で引き受けるのがいいのではと思った。
「では、我が組の中でも特に体術面や気遣いに優れた者たちを警護に当たらせるように致したいと存じますが――」
それで如何でしょうと尋ねる。通常、こうした個人からの警護依頼の時も同様の手配であるし、それならば特に問題はなかろう。ところが当の辰冨からは案の定と思われるような答えが返ってきた。
「はぁ、有難いご提案ですが……私共としましては警護は遼二君にお願いできればと思っております」
身を乗り出す勢いで是非にと言う。
「もちろん遼二君は若頭さんでいらっしゃるから、お忙しいことは承知ですが……ご無理を申し上げる代わりに御礼の額も見合うだけ幾らでもお支払いいたします。どうかお引き受けいただけませんか」
さすがの清水もこう出られては即答に迷うところだ。――が、承諾を口にしたのは鐘崎本人だった。
「――分かりました。ではお嬢様がお出掛けなされる際の警護ということで、ご依頼を賜ります。極力私がつかせていただけるように致しますが、他にもう二人ほど護衛をつけさせていただければ幸いです」
それというのは運転手と、もう一人は何かあった時の為の補佐だと説明する。
「先日のように急にご体調を崩されないとも限りません。お嬢様のお話ではたまにああなるとおっしゃっていらしたので――このような体制で臨ませていただければと思うのですが、如何でしょうか」
辰冨は今ひとつ納得しきれないような表情を見せたが、鐘崎がついてくれるというのならそれで満足しなければと思ったようだ。その条件で正式に依頼をお願いすると言ってきた。
◆25
そんな彼が喜び勇んで帰った後、第一応接室では清水が不安そうな顔つきでいた。
「若、申し訳ありません。何とか若のお手を煩わせずに済めばと思ったのですが――」
「いや、構わん。あの親娘には命を助けられた身だしな。しかもわざわざ仕事としての依頼とまで言ってくださっているわけだし――ご要望に応えるのは礼儀だろう。まあ別の仕事でどうしても抜けられない時はその旨説明するとして、極力俺が出られるようにする」
「はあ……ご足労をお掛けします。それで――補佐ですが、誰をおつけいたしましょう」
「そうだな、正直に言って現在あのお嬢さんが誰かに脅迫されているとか、そういった緊急の護衛ではないからな。他の依頼に支障が出ない者で構わねえ」
例えば脅迫状が来ているとか、大金が動く商談の護衛などというならともかく、今回はただの余暇のお付きである。手の空いている者でいいと言う鐘崎の気持ちは有難いが、清水としてはある程度臨機応変に対応できる者がいいと思っていた。
「では橘あたりで如何でしょう」
橘は組の幹部補佐であり、何かと気配りのできる男だし体術面でも安心して任せられる。それに、清水としてもいわゆる少々突っ込んだ深い事情までを気兼ねなく打ち明け合える間柄なので、やり易いのだ。特に鐘崎に対する恋情を持っている相手がクライアントという今回のような場合には、あらゆる点で上手く立ち回れる者でなければならないと思うわけだった。
鐘崎もそんな清水の気遣いがよく分かっていて、すまないなといった顔つきでいる。こんなふうに人の気持ちを察して思い遣ってくれる若頭だからこそ、何としてでも力になりたいと思う清水以下組員たちであった。
その夜、清水は補佐役の件について橘と打ち合わせを行なっていた。
「河川敷での件といい、あのお嬢さんが若に気があるのは確かだろう。一緒に犬の散歩について行った若い衆の話からも明らかだ。何とか若のご負担を軽くするようお前さんが目を光らせてくれ」
「了解! けどなぁ、若もお辛いところだな。命の恩人っていったところで実際に若を救ってくれたのは親父さんの方だろ?」
「だが最初に気がついたのは娘の方だったそうだ。俺もこの間あの娘が訪ねて来た際に応対に出たんだが、アタシが遼二さんを助けてあげて――ってな言葉が少なくとも三度は出たからな。恩に着せるつもりではないにしろ、見返りという大義名分で若と過ごす時間を作りたいのは見え見えだ。我々としても強くは出られんのが辛いところだ」
「姐さんはどうお考えなんだ? 警護のことも姐さんに伝えたんだろ?」
「それは若から伝えるとおっしゃってたが……」
あの姐さんのことだ。いつものように大らかな気持ちで受け止めてくれるのだろうが、傍で見ている者たちにとってはヤキモキさせられるのも正直なところだ。
「とにかくお前さんは若たちの側についてしっかりサポートしてやってくれ。河川敷の時も娘の方から若に抱きついていたと聞くしな。あまり非常識な距離感になるようならお前さんが悪役を買って出ることも念頭に置いておいてくれ」
「オッケー! ま、何とかやるさ」
清水も橘も何事もないよう祈るばかりだった。
◇ ◇ ◇
◆26
そうして鞠愛の護衛の日がやってきた。
午前中に辰冨が自ら娘を鐘崎組まで送って来て、当の鞠愛はご機嫌もご機嫌だ。頭の先からつま先まで気合いを入れまくったというのが一目で分かるような出立ちでやって来た。
「遼二さぁんー! まあ、なんて素敵なのー! お洒落なお洋服、とっても似合ってるわ!」
鐘崎は買い物の護衛という点から、共に歩いても悪目立ちしない程度のカジュアルな装いでいた。麻と綿が混じった涼しげなシャツに淡い色合いのサマージャケット、パンツは細みのフルレングスとクロップドの中間くらいの丈が絶妙に粋である。靴は柔らかい革製のデッキシューズだが、これもいざという時に走ったり応戦したりしやすいようにとの観点からである。
髪型は普段とさして変わらないが、瞳が見えるか見えないかの薄めの色合いが洒落たサングラスは、街中で容易に顔を認識されない為の必需品だ。あらゆる点で警護を念頭に置いているわけだが、鞠愛にとってはそれらすべてが自分と出掛ける為にとびきりのお洒落をしてくれたのだと受け取れてしまったようだ。鐘崎の側にまとわりついては、『素敵素敵!』を繰り返してはしゃいでいる。
そんな様子に補佐役の橘がスマートに車へとうながした。
「お嬢様、お車へどうぞ」
まるで執事の如く所作で後部座席のドアを開けて一礼する。橘もまた、鐘崎同様、似たり寄ったりの出立ちである。長身でなかなかのハンサムなので、鞠愛は相当に上機嫌の様子だ。『遼二さんも早くぅー』などと甘ったるい声音で手招きしてよこす。
ところが、鐘崎が助手席に乗り込むと同時に、そのご機嫌が急降下してしまった。
「えー、遼二さん……前に乗られるの?」
その返事はすかさず橘が買って出た。
「ええ、我々組員は助手席というのが護衛の決まりなのです」
どうかご了承願いますというようにニッコリと微笑まれて、鞠愛もそれ以上は何も言えなくなったようだ。わずかにプイと頬を膨らませると、つまらなさそうに橘とは反対側の窓の外を眺めるように顔を背けてしまった。
「では若、我々は後続車にてついて参ります」
橘は鐘崎らとは別の車で行くようだ。そんな様子に鞠愛は目を丸めた。
「遼二さん、二台で行くの?」
「ええ、そうです。あらゆる事態を想定して、通常二台で動くのが我々の決まりなんですよ」
「へえ……そうなの。何だか仰々しいのね」
「大事な御身をお預かりするわけですから」
「そんな、大事だなんて」
当初、鞠愛が想像していたのとは大分勝手が違う。彼女にしてみれば鐘崎自らが運転して、二人きりで出掛けられると思っていたようだ。だがまあ、大事だなどと言われれば悪い気はしなかったらしい。とりあえずはこの体制でも仕方がないと納得したようだった。
◆27
「お父上から行き先は銀座とうかがっておりますが、それでよろしいでしょうか」
助手席から振り返りながら鐘崎が問う。
「ええ、そう。行きたいお店は目星をつけてあるの。ランチはホテルのレストランでどうかしら?」
「承知しました。ではとりあえず四丁目の交差点付近で車を停めましょう。そこからは歩きで構いませんか?」
「ええ、もちろん! 遼二さんも一緒に来てくれるんでしょ?」
「はい、お任せください」
鞠愛は行程自体には満足のようだったが、鐘崎の態度の方に関しては少々納得がいかない様子だ。
(何よ、遼二さんったら。さっきっからまるでお客に対するみたいな話し方! つまらないわね。もしかしたらあの紫月っていう人に気を遣ってるのかしら? 運転手もいることだし、後でアタシとどんな様子だったかっていうのがバレるとでも思ってるのね。きっとヤキモチ焼きなんだわ、あの人! 男のくせに女々しいったら!)
だが、今日一日鐘崎は自分だけのものだ。せいぜいその間にアタシの方を振り向かせてみせるわとばかりに唇を噛み締める鞠愛であった。
(そうよ、遼二さんは女の魅力を知らないだけ! きっとあの紫月っていうのがいるせいで、これまで女友達と遊ぶこともできなかったんじゃないかしら? まあそのお陰でヘンな虫がつかなかったっていう点では良しとするわ。見てなさい、今日帰る頃までには遼二さんの心を掴んでやるんだから!)
銀座に到着して車を降りると鞠愛のご機嫌はすっかり上昇したようだ。それというのも運転手は車を駐車場に入れる為、別行動。お付きの橘は数歩遅れてついてくるといった体制に満足したからだ。事実上鐘崎と二人きりのデートさながらである。できることなら人混みにまぎれて後方の橘を撒いてしまいたいと思うくらいだった。
「まずはどちらのお店をご覧になりますか?」
今日は大型連休の中日、銀座の街は歩行者天国で人が溢れて賑やかだ。パラソルの立ち並ぶ車道が解放されているせいでメイン通りの歩道は普段よりも十分余裕があるものの、それでも鐘崎が常に車道側を歩きながら前からやって来る通行人とぶつからないように気を遣ってくれている。それだけでも鞠愛にとっては大満足といったところだった。
(うふふ、やっぱりいいわねぇ。他人行儀な言葉使いがちょっと気に入らないけど、まあ仕方ないっか……。遼二さんって気遣いも完璧だし、こうして並んで歩いててもめちゃくちゃカッコいいし! 思っていた通りだわ! それに周りの人たちが皆んなアタシたちを見てる! きっと羨ましくて仕方ないんでしょ!)
事情を知らない他人から見れば自分たちは恋人同士に見えるのだろうと思うと、更に気分が上がる。鞠愛は目当てのショップを数軒覗いて回った後に有名宝石店へと向かった。
高級店なので客足はチラホラ見受けられるものの、隣接するパティスリィや百貨店と違って大混雑といったふうではない。客よりも店員の方が多いくらいかという閑静な店内では、話し声も筒抜けだ。鞠愛は迷わずといった調子で指輪のブースへと向かった。
「ねえ、遼二さん! あなたはどれがいいと思う?」
まるで当たり前のように腕に抱きついては飛び跳ねる勢いでいる。少し離れた位置にいた客や店員たちも、皆が同時に振り返るくらいのはしゃぎっぷりだ。橘もまた少し遅れて入店したものの、その様子に思わず手で額を覆いたくなる思いでいた。幹部の清水からもきちんとサポートするよう言われていたものの、これではさすがにサポートのしようが思いつかない。深い溜め息が抑えられなかった。
◆28
「いらっしゃいませ。本日はどのような物をお探しですか?」
一方、鞠愛たちの方では若い女性店員がにこやかに話し掛けていた。彼女もまた、イイ男を連れて羨ましいといった顔つきでいるのに、当の鞠愛はまるで『この人はアタシのものよ! 取らないでちょうだいね』とでも言いたげに、自慢げな上から目線で顎をしゃくってみせた。そんな様子に、
「ブライダルの物をお探しですか?」
さすがは有名店の店員だ。客の機嫌を損ねないようにとの思いからか、鞠愛にとっては嬉しいであろう言葉を掛けてきた。
「うーん、そういうわけでもないんだけど……今日はただ……将来の下見的な」
恋人面をしたいのは山々だが、鐘崎がはたして話を合わせてくれるかどうかまでは自信がない。話が食い違って店員の前で恥をかくのはプライドが許さないところだ。曖昧な返事しかできずに苦笑いが隠せない。
「左様でございますか。お気に召した物がございましたらご遠慮なくお申し付けくださいませ」
お出ししますのでどうぞお手に取られてご覧くださいと微笑まれて、鞠愛は半ばタジタジながらもうなずいてみせた。
「そ、そうね……。じゃ、じゃあ……これと、そっちの奥のと……」
半歩後ろにいる鐘崎の腕に抱きついては、「あなたはどれがいいと思う?」などと訊いてみせた。
鐘崎にしても彼女の気持ちなど聞かずとも何となくは理解できていた。おそらくはデートのような気分でいるのだろう。彼女が自分に対してどの程度どう思っているのかは別として、疑似恋愛的なひと時を楽しみたいのだろうことはこれまでの彼女の言動からして明らかだろうと感じる。誤解を招くのは不本意だが、かといってここで恥をかかせるのもまずい。鞠愛が今現在辰冨から託された正式なクライアントであるからという以前に、彼女が自分の命の恩人であるのは事実だからだ。
「気になったのがあれば、着けてみたらいかがです?」
当たり障りのなくそう言うと、案の定ホッとしたように鞠愛は肩を落としたようだった。少々堅苦しいと思える丁寧な言いっぷりだが、育ちのいい御曹司ならこのような口調で話す男もいるだろう。とにかくは嘘がバレずに助かったと言いたげに、そわそわながらも、
「そ、そうね。じゃあちょっとだけ……」
二つ三つ手に取って、すぐに店を後にした。
「はあ、ビックリした! いきなりブライダルですかなんて言うんだもの、あの店員!」
まるで店員のせいだと言わんばかりに言い訳する。
「まあ年頃の男女ですからそのように思われたんでしょう」
鐘崎が当たり障りのなく擁護すると、「そうね」と言ってそそくさと歩き出す。
「そろそろお昼にしましょうか。遼二さんも一緒に行ってくれるんでしょう?」
「ええ、もちろんです。橘と運転手は別のテーブルで摂らせていただきますがよろしいでしょうか」
「え、ええ……構わないわよ」
同じ店でも別のテーブルならまあいいだろうといったふうにうなずいてみせた。
◆29
レストランに着くと、先程の宝飾店でのことはすっかり忘れたようにして鞠愛はご機嫌であった。
ここでも二人は周囲からチラチラと視線を浴びていたが、さすがに宝飾店でのような気まずさはない。普通に恋人同士のように見えるだろうことに上機嫌の様子だった。
「ねーえ、遼二さん。そっちのパスタも美味しそうね? 良かったらアタシのと交換しない?」
そう言ってフォークとスプーンの乗った皿ごと差し出してみせる。まるで当たり前のように互いの使ったカトラリーで食べましょうよというのが見え見えである。ともすれば間接キスでも期待しているといった勢いなのだ。
周囲では相変わらずにチラチラとこちらの様子を気にかけている客たち――。少し離れたテーブルの橘と運転手も参ったなというような表情でいる。料理の交換自体はさすがに遠慮したいところだが、かといって彼女に恥をかかせてもいけまいと、鐘崎は咄嗟に胸ポケットのスマートフォンを手に取った。
「ああ、申し訳ない。電話が入りましたのでちょっと失礼します」
そう言ってにこやかに中座を選んでとった。
店の外――ホテル内の廊下――に出ると、すぐに橘が後を追ってやって来た。
「若! お疲れっス」
「ああ、橘――」
「参りましたね。さすがに自分がしゃしゃり出ていくのもどうかと思いまして……。でも電話ってのはさすがのご判断でした」
「咄嗟に――な。お前さんにも気を遣わせてすまない」
「いえ、本来自分が気を利かせてすぐに若へ電話を入れるべきでした」
橘は対応が遅れたことを謝ったが、鐘崎は気にするなと笑ってくれた。
「それにしても彼女――若に気があるのは間違いないようですね」
「――気があるのかどうかまでは定かじゃねえが、デート気分を楽しみたいのは確かだろうな」
「はあ……。弱りましたね。午後もあの調子じゃ、思いやられそうだ」
「仕方あるまい。今日一日のことだ。何とか上手くやるさ」
それよりまた体調でも崩さないことを祈るとばかりに鐘崎は苦笑ながらも席へと戻っていった。
中座のお陰で料理の交換も何とかやり過ごし、テーブルではデザートとコーヒーが提供されていた。
「お待たせしてすみません」
「ううん……お仕事の電話?」
「ええ。話が長引いてしまって――申し訳ない」
「いいけど……。お料理片付けられちゃったわよ」
鐘崎の皿にはまだ半分くらい残っていたものの、ここは橘が気を利かせて下げるようにとウェイターに頼んだのだ。
「遼二さんのそれは……クッキーね?」
甘い物を進んで食べない鐘崎の目の前にはコーヒーに付いてきた小さなクッキーの皿が置かれている。鞠愛の方はメレンゲたっぷりのスフレが乗ったホットケーキと紅茶のセットだ。
「ね、アタシのホットケーキもひと口いかがかしら? 代わりに遼二さんのクッキーをひとついただいてもいい?」
またしても”交換こ”の提案だ。
「有難いお言葉ですが、自分は甘い物があまり得意ではありませんで。よろしければクッキー召し上がってください」
甘い物が大して好きでないのは事実だ。鐘崎がクッキーの皿を差し出すと、鞠愛はつまらなそうにしながらもとりあえずは納得したようだった。
◆30
「遼二さん、甘い物嫌いなの?」
「嫌いとまでは言いませんが、自分からは進んであまり食べないというところです」
申し訳なさそうに笑う。
「ふぅん、そうなんだ。確かにスタイルいいものね。アタシも太っちゃうからあんまり食べないでおこうかなぁ」
やわらかいスフレを潰すようにパンケーキごとフォークの先で突っつきながら唇を尖らせている。
そんな様子を横目にしながら、ふと、脳裏に紫月のことが思い浮かんでしまう鐘崎だった。紫月ならばおそらくとびきりの笑顔で大口を開けていることだろう。
『んめえー!』
顔の周りに音符が飛び交うような笑顔でふわふわのパンケーキもひと口でペロリとしそうだ。
『遼、どうせそれ食わねえべ? よこせよこせ』
ニコニコと悪戯そうな笑顔を見せながらクッキーの皿を引き寄せては、それも美味しそうに平らげるだろう。その時の仕草や表情が脳裏に浮かぶ。あの細く長い綺麗な形の指先が、目の前を皿を引き寄せる幻想がテーブルの上で浮かんでは消える。
そんな映像が脳裏を過れば、何だか泣きたいような気持ちにさせられた。
今頃紫月はどうしているだろうか。今日も自治会に顔を出すと言っていたから、川久保老人らと楽しくやっているだろうか。そんな彼に対しても、いかに依頼とはいえ自分に気がありそうなこの鞠愛とホテルランチをしている現状に胸が痛む思いがした。
デザートも済み、そろそろ行こうかと席を立った、その時だった。
「あらぁ、遼ちゃんじゃないの!」
突如声を掛けられて後ろを振り返ると、そこには華やかな出立ちの美女が二人――偶然ねと親しげに手を振りながら近寄って来た。驚きつつも心なしか鐘崎の表情がホッとしたようにやわらかくゆるむ。
「アカネさん、チエさん! いつも親父が世話になって。お二人もここで昼メシっスか? 今日はまたこんな時間から――随分と早いんだな」
「ええ。実は関西からいらしてくださるお得意様が連休でこっちに出ていらしててね。昨夜はウチに寄ってくださったんだけど、帰りの新幹線までお見送りしてきたところなのよ」
「そうスか。お疲れ様です! 相変わらずご盛況のようで何よりっスね」
鞠愛にとっては鐘崎のフランクな態度に驚いたようだが、それもそのはずだ。なんと彼女らは鐘崎組とはよくよく顔見知りのクラブ・ジュエラのホステスたちだったからだ。二人共に鐘崎よりは十ほど年上で、店ではチイママの位にある酸いも甘いも知り尽くしたベテランといえる。互いにもう十年来の付き合いもあってか少々ぞんざいと思えるような話し方だが、彼女たちに対してはこれで普通なのだ。
ジュエラというのは鐘崎の父親・僚一の幼馴染みがオーナーママをしている田端君江の店である。今でこそ鐘崎も紫月もクラブ・フォレストの里恵子の店に通う機会が多くなったものの、以前は君江ママのところの常連だったわけだ。僚一の方は相変わらずにジュエラを贔屓にしているし、この二人の女性たちとも長く懇意の間柄だった。彼女たちからすれば鐘崎は年の離れた弟のような存在なのだ。
「遼ちゃんこそー! 今日はなぁに? 相変わらずお仕事忙しいようで何よりね」
「可愛いお嬢さんを連れちゃって! オイシイお役目だわね!」
二人は鐘崎と紫月の仲もよく知っている。そんな鐘崎が見知らぬ女性を連れていようと、すぐに警護の仕事なのだろうと思って疑わなかったようだ。
◆31
「それより遼ちゃんったら、最近はめっきり顔も見せてくれないんだもの」
「そうよ! すっかり里恵子に取られちゃったわねってママも残念がってるんだから」
「ああ、ご無沙汰しちまってすみません。君江ママの方には親父が世話ンなってるしと思って――つい。今度寄せていただきますよ」
「約束よぉ!」
「社交辞令だったら許さないんだから!」
「ええ、もちろん。ママにもしばらくご無沙汰しちまってるんで、必ず顔を出させてもらいます」
鐘崎はそう言いながらスマートな仕草で胸ポケットの長財布を取り出すと、
「デザートでもやってください」
長く綺麗な形の指先で札を数枚引き出すと、嫌味のない粋な仕草でクイと折っては二人に握らせた。
鞠愛にとっては驚きも驚きだが、裏の世界の付き合いとしてはいわば袖の下というべきか、必要事項の範囲なのだ。銀座のクラブとは懇意の間柄だし、情報収集という点でも実際世話になっている。こうした心付けは大事といえる上、ましてや君江ママの店のホステスなら尚更だ。彼女たちもよく分かっているようで、当たり前のようにそれを受け取った。
「まあ嬉しい! 遠慮なくご馳走になるわぁ」
「紫月ちゃんは? 今日はお家でお留守番?」
「いや、あいつは町内会の役目をやってくれてまして。今日も出てくれてるんです」
「まあ! 相変わらずにデキた奥様ねぇ。今度紫月ちゃんと一緒に是非遊びにいらしてね! 待ってるから!」
「お美しい奥方様にくれぐれもよろしくお伝えしてねぇ!」
華やかな笑い声と共に手を振った彼女たちに、鞠愛はもちろんのことながら周囲の客たちも目を白黒させていた。
あんなに大きな声で『お仕事忙しそうで』だの『奥様によろしくね』などと言われれば、鐘崎には妻がいるというのがバレバレである。鞠愛としては単なる仕事相手と言われたようで、立つ背がないも同然だ。案の定、ヒソヒソと周りの客たちがざわめき出した様子に、鞠愛はキッと眉間を尖らせた。
「何よ……! 今のって水商売の女? あんな言い方して、彼にタカったも同然じゃない! だからお水は嫌なのよ! 失礼しちゃうわ!」
鐘崎が会計に立った後で、鞠愛は周囲に言い訳するかのようにそう吐き捨ててみせた。
しかしながら正直なところ驚かされたのは確かだ。鐘崎という男は女性に対して興味がないか、あるいはあまり扱いに慣れていないのかと思ってもいたが、今のやり取りを見るとどうやらそうではないらしい。言葉遣いは相変わらず丁寧だったが、えらく親しげ――というよりも警戒心のないといった方が適当か、彼女たちを敬遠しているふうでもなかった。それとは裏腹に、自分に対しては慇懃無礼と取れるほどに丁寧な態度を崩さない。何だかわざと距離を置かれているようにも思えて苛立ちが募る。鞠愛にとってはどうにも思うようにならないその距離感が歯痒くて堪らないようであった。
◆32
(だいたい! 里恵子って誰よ……。ホステスなのは間違いないんだろうけど、遼二さんはその女の店にしょっちゅう出入りしてるってこと?)
今の女性たちは確かに『里恵子に取られちゃって……』と言っていた。
(遼二さんってお水みたいな派手な女が好みなのかしら……?)
自分自身の今日の服装はといえば、上品で可愛い雰囲気のものを選んだつもりだ。ところが今の女性たちはタイトな細身のスカートにピンヒール、まさにアダルト感満載といった雰囲気だった。
「あんな……いかにも男を誘ってそうな格好しちゃってさ! 下品ったらないわね! ふん……だ! 趣味悪ッ!」
思わず口をついて独り言が飛び出してしまう。だが、ホステスを相手にしているのなら女性が苦手というわけでもないのだろう。紫月との仲から、心のどこかでは女性そのものを受け付けないのかと思ってもいたのだが、そうでないなら望みはあるかも知れないと思った。
「お待たせしました。お嬢さん、参りましょうか」
支払いを済ませた鐘崎がぺこりと頭を下げる。
(んもう、また! 何であいつらには名前呼びでアタシには『お嬢さん』なわけ? 命の恩人だからって気を遣ってるのかしらね? そんな気遣い必要ないのに!)
別段呼び捨てにしろとまでは言わないが、せめて『鞠愛ちゃん』とくらい呼んでくれてもいいものを――と、思わず頬が膨れてしまう。
宝飾店でのことといい、今のランチといい、鞠愛にとってはいくら鐘崎と一緒に出掛けられるといってもあまりいい気分にはなれなかったようだ。せっかく父の辰冨が依頼という形ながらも堂々と彼を独占できる機会を作ってくれたものの、これでは興醒めもいいところだ。鐘崎とは何とかして接触を持ってはいたいが、しばらく外に出るのは億劫だと思った鞠愛であった。
◇ ◇ ◇
一方の鐘崎自身もまた、なかなかに気重なのは否めない。橘も言っていたが、鞠愛が自分に対して恋情に近い感情を持っているのはおそらく当たりだろうと思えるからだ。
だが、一等最初に自分は妻帯者だとはっきり告げたし、父の僚一からもそう伝えてくれた。親娘が聞いていなかったはずはないのだ。にもかかわらず辰冨は仕事としてで構わないから一緒に出掛けてやってくれと娘を預けてくるし、正直なところ対応に戸惑ってしまうのは事実だ。
何を置いても辰冨親娘は命の恩人だ。あまり邪険にしては申し訳ないとも思う。と同時に、紫月に対しても少なからずモヤモヤとした気持ちにさせているではないかと、すまない気持ちでいっぱいだ。彼は自分がどれほど彼のことを愛しているか、どれほど一途かというのは充分理解してくれているだろうし、実際はまったく気にしていないのかも知れない。だが、もしも逆の立場になったらと考えれば、やはり少なからずいい気持ちはしないだろう。紫月に想いを寄せる誰かが始終ちょっかいをかけてきたとしたら、どんなに信じ合っていようと気持ちが乱されるのは確かだ。
できることなら鞠愛が諦めてくれるのが理想だが、ではどう言えば分かってもらえるのかと考えるも、具体的ないい手が思いつかない。
自分にスキルが足りないのか、あるいは自分でも気付かないところで鞠愛に誤解を与えるような言動をしてしまっているのか――他人が聞けばたかが好いた惚れた程度のことで何を甘ちゃんなと呆れられるかも知れないが、当人にとっては意外にも深い悩みである。
一歩対応を間違えれば、嫉妬や逆恨みで殺人にまで発展することも皆無ではない世の中だ。それが自分に向けられるならまだしも、紫月に向けられないとは限らない。鐘崎にとっては、実にそれが一番の危惧といえた。
好意に応えられないことは決まっている。だがあからさまに無碍にすれば、いつ逆恨みとなって紫月にとばっちりがいくか分からない。それを上手く回避するだけの技量が欲しいと心底から願うばかりだ。傍目から見ればそれより遥かに難しい――例えばドンパチが絡むような案件の方が楽に思えるほどであった。
◆33
その数日後、またしても辰冨がやって来て、今度は娘の旅行の護衛を頼みたいと言ってきた。二泊三日で京都だそうだ。
これには鐘崎も清水もさすがに躊躇させられる。先日の買い物の時でさえあの調子なのだから、泊まり掛けの旅行などといったら何をしでかすか分かったものではない。
「そのご旅行にはご家族で行かれるのですか?」
即断るのも申し訳なく思えて、鐘崎はそう訊いた。ところが返ってきた答えは案の定――だ。
「いえ、私と妻は大使館関係の用事でいろいろと雑務がございましてな。せっかく日本に帰って来ているというのに毎日何かと会食や顔合わせの用が入っておりまして……。あの娘《こ》にも不憫な思いをさせているものですから」
一人で旅行に行かせるのは心配だが、先日のように鐘崎が同行してくれれば安心だと言う。是非にと頼まれるも、さすがに受けられることとそうでないことがある。鐘崎は恐縮しながらも丁寧に断りを口にした。
「たいへん申し訳ございませんが、当方には女性の組員がおりません。お嬢様お一人に男連中だけで泊まりとなると、如何に警護とはいえあまり望ましくないのではと思われます。そこで、女性のエージェントを派遣できる警備会社などでしたらご紹介をさせていただくことは可能です」
例えば以前に仕事を組んだ六条女雛《ろくじょうの めびな》ことメビィなどだったらちょうどいいのではと思う。彼女の事務所にはしょっぱなから嵌められたりとゴタゴタもあったものの、それがきっかけで今では向こうも非常に反省して、いい関係が築けている。メビィなら年頃も近いし体術面でもなかなかに腕がいい。まあメビィに限らずだが、他にも付き合いのある事務所ならいくらもあるし、鐘崎組からの紹介ならば充分に満足のいく対応で引き受けてくれるはずである。
だが、辰冨にとっては納得がいかないようであった。
「……そうですか。私としては遼二君にお願いできればと思っておったので……他の方となるとあの娘《こ》も気を遣って寛げないでしょうし……」
鐘崎が同行できないのなら意味はないといったふうに肩を落とす。
「ご要望にお応えできず恐縮です」
鐘崎が丁寧に頭を下げるのを見て、これ以上は無理かと思ったようだ。
「残念ですが仕方ありませんな。その代わりといっては何ですが、こちらのお邸へ遊びに寄せていただくことは構いませんか? そういえば鐘崎さんのお邸にはたいへんご立派なお庭がありましたな? 実はあの娘《こ》もガーデンに興味を持っておりましてな。私の公邸の庭の水やりなども進んで行ってくれていたくらいでして」
あの鞠愛が本当に自ら進んで庭いじりを手伝っていたとは思えないが、一度や二度水やりをしたというのは事実なのだろう。娘を良く見せたい辰冨の気持ちは痛々しいほどだが、まあ父親ならそれも当然なのか――。庭を見に来るくらいなら致し方ないといったところだろう。あれもこれも断るのではさすがに悪いかと思ってうなずくしかない。
「仕事で出掛けていることも多ございますが、組員はおりますので――」
さりげなくそう言うも、『でしたら伺う前に遼二君がいらっしゃる日のご都合をおうかがいさせていただきます』と笑顔を見せる。どうあっても鐘崎がいる時がいいというのが見え見えだが、命の恩人でもあることだし、そのくらいは付き合うべきかと思う鐘崎だった。
◆34
新たな事が起こったのはそれから数日が経った頃だった。またしても鞠愛が組を訪ねて来て、早速に庭が見たいと言い出したのだ。
先日、辰冨からもそう聞いていたので折込済みとはいえ、幹部の清水などは少々気が重い表情を隠せない。一方の鞠愛自身も、先の外出デートで少々懲りたわけか、鐘崎邸の中で会うなら安心だと思ったようである。
この日も紫月は自治会の会合へ出掛けていて留守だった。たまたま鐘崎は事務所にいた為、致し方なく中庭をへ案内する流れになってしまったのだった。
鞠愛の噂は組中に広まっていたので、何かにつけて心配した者たちがゾロゾロと中庭に集まってくることとなった。鐘崎の側には清水以下数名の組員たちが姿勢を正して直立しているといった徹底ぶりだ。誰もが少なからず鞠愛を疎ましく思っていた為に、少々仰々しいくらいの御付きぶりで顔を揃えていたわけだが、皆、警戒のつもりだったものの実はこれが逆効果であった。鞠愛にとっては大勢の男たちを従えた鐘崎に更なる恋情を抱いてしまったようだった。
中庭にはちょうど泰造と小川が来ていて作業の最中であったが、鞠愛からすれば組員のみならず庭師までもが仕えているほどの立派な家柄なのだと思ったようだ。ともすれば鐘崎と共に自分も大事にされていると錯覚しているかのような素振りで、終始浮かれ気味であった。
「素敵なお庭ね! ここへ来たのはアタシがあなたを助けてあげたあの時以来ね。子供だったからあまりよく覚えてないけれど、こんなにたくさんの木が植っていたなんてね」
今はちょうどサツキ|躑躅《ツツジ》が満開を迎えていて、鮮やかな濃いピンク色が見事だった。
「綺麗ねえ。アメリカの、うちのパパの官邸にもいろんな花が植えられているけど、さすがにツツジは無かったわ。うちはね、薔薇のアーチがそれは素敵なのよ! そうだわ、遼二さんにも今度是非遊びに来て欲しいわ!」
そう言いながら鐘崎の腕に抱きついたりして上機嫌だ。組員たちはそんな二人の四方を固めていたものの、さすがに口出しすることまではできずにいる。その後も鞠愛は鐘崎を庭の中央へと引っ張り出しながら方々散策して歩き、石橋を渡る際にはよろめいて鐘崎に抱き留められるなど、見るに堪えない時が続く。察するに『私と彼とはこんなに親密な仲なのよ』ということを皆に見せつけたいのだろうが、それに対して組員の誰も口を挟むわけにはいかない。庭師の小川はいよいよ苛立つ気持ちを抑えきれずにいた。
「あの、お客さん……いい加減にして欲しいス」
側を通り掛かった鞠愛に向かって、ついぞそう声を掛けてしまった。
「……は? 何なの、あなた」
ツンと結ばれた唇は尖っていて、ジロリと見やる視線も険を帯びている。対する小川も仁王立ちの状態で鞠愛を睨みつけた。
「こちらの若頭さんには姐さんがいらっしゃるんスよ」
当の鞠愛は『だから何?』とでもいうように眉間に皺を寄せながら小川に向かって思い切り顎でしゃくる。その間、未だ鐘崎の腕にベッタリとしがみついたままだ。
「若さんには姐さんがいらっしゃると言ったんだ。アンタも若頭さんが結婚されてるの知ってるっしょ? あんまベタベタするのは失礼ってもんじゃないスかね」
苛立ちを抑え切れずか、いよいよ苦言が口をついて出てしまった。
◆35
鞠愛は驚いたようである。まさか組のトップである鐘崎が連れている自分に向かって、こんな無礼なことを言い出されるとは思ってもみなかったからだ。
「何、あなた……? 失礼なのはそっちじゃない! いったい誰よ!」
かなりのきつい言い方で小川を睨みつけた鞠愛だったが、安全と思った邸の中でもこれではさすがに我慢ならなかったようだ。外出すればしたで店員やホステスに嫌な思いをさせられ、それならばと邸内で会えばこの様だ。鐘崎の前では極力性質のいい可愛い女を装いたかったようだが、すっかり自我丸出しだ。
小川もまた若さ故か、それとも彼の元々の性分なのか、立場や遠慮ということを知らない調子でいて、受けて立つとばかりに胸を張ってこう言い放った。
「俺はここの庭師だよ」
「庭師ですって?」
「そう! ここんちの庭を預かってる職人だ。まだ作業中なんだ。あんまウロウロしねえでもらいたいっスね」
あまりにもストレート過ぎる言い分に鞠愛は思いきり額に険を浮かべた。
一触即発の空気に、さすがにまずいと思ったのか泰造が割って入る。
「これ! お客様に向かって何て言い草だ!」
立場をわきまえろと小川の前へ出て制止する。
「申し訳ありやせん。とんだ失礼を……」
泰造が頭を下げたが、鞠愛はプイとそっぽを向いて唇を尖らせた。
そんな様子に鐘崎が『そろそろ行きましょう』と言って鞠愛をうながした。
「そうね……。お庭も見られたし……」
ちらりと小川に視線を向けては、まるで『失礼なヤツもいるしね!』と言いたげだ。
「ね、遼二さん! この後アタシの家でお茶でもどうかしら? 今は仮住まいの邸だからここほど立派じゃないけど、なかなかに洒落た洋館なの! パパもママも是非にって言ってるし、よかったらお昼でもご馳走させて!」
さすがにそこまで付き合う必要もない。
「申し訳ありません。この後仕事が入っておりますので」
鐘崎が断ると、組員らはホッとしたように胸を撫で下ろした。
「玄関までお送りしましょう」
鞠愛は残念そうにしていたが、仕事だと言われればどうにもならない。つまらなそうにしながらも渋々引き取っていったのだった。
◇ ◇ ◇
残された中庭では泰造が小川に向かって叱責を繰り返していた。
「まったく! おめえときたらどうしてああ節操がねえんだッ! 仮にも若頭さんのお客人に向かって刃向かうような口をききやがって!」
だが、小川は間違っていないと言いたげだ。とりあえずは『すみません』と頭を下げたものの、心底から反省しているとは思えない態度に泰造の小言が続く。
「いいか、俺たちゃァ庭師だ! 預かったお庭を綺麗にすることだけが使命なんだ! 他所様のお邸のことに首を突っ込むなといつも言ってるだろうが!」
ピシャリと頭を叩きながら、これで分からないようなら殴るぞとばかりの勢いに、ついぞ清水が割って入った。
「親方、もうそのくらいで勘弁してやってください」
◆36
組員たちも小川の言っていることは満更でもないと感じている者が多いのだろう。誰もが清水と共にその通りだとうなずいてみせる。と、そこへ鞠愛を見送った鐘崎が戻って来た。泰造はすかさず小川の首根っこを掴みながら駆け寄っては平身低頭で謝罪を口にした。
「若……先程はとんだご無礼を……。コイツにもよく言って聞かせますんでどうかご勘弁くだせえ」
小川の頭を押さえながら、お前も謝罪しろと土下座の勢いだ。
「親方、頭を上げてくれ。謝るのは俺の方だ。小川にも嫌な思いをさせてしまった」
鐘崎の存外素直な言葉に誰もが驚き顔でいたが、心の中ではやはり我々の若頭はよく分かってくださっていると誇らしげに安堵の表情を浮かべる。ここで鞠愛の肩を持って小川を詰るような若頭でないことが嬉しいのだ。
当の小川もまた然りで、ホッとしたような表情を浮かべてはみたものの、そんな若頭だからこそ伝えたいことがあるといったふうにとんでもないことを口にしてみせた。
「若さんは……本当はどう思ってらっしゃるんスか?」
鐘崎はわずか眉根を寄せながらも首を傾げた。
「どう……と言うと?」
「姐さんのことです。若さんにとって姐さんはこの世で一番大事なお人なンしょ? なのに何であんな女に好きにさせてるんス」
「…………好きにさせているつもりはないが、あのお嬢さんには少々恩があるのでな」
「知ってます……。命の恩人だってんでしょ?」
「――そうだ。確かに少々行き過ぎた感はあろうが、あまり邪険にもできんのだ」
「そりゃ……分からねえでもねっスよ。俺、俺は……ただの庭師で、俺なんかが口出しすることじゃねえってのも分かってます。けど、辛いっス! 命の恩人ってのをいいことに、まるで若さんのこと恋人同然みてえにベタベタしたり……あわよくばてめえが姐さんの立場を掻っ攫おうなんて勢いじゃないスか! そういうの、見てて腹立つっス! 若さんがあの女に気がねえってのと正直困ってらっしゃるのは見てて感じるっス。けど、姐さんはどうスか? 姐さんだって口じゃ何も言わねえのかも知れませんけど、心ン中じゃモヤってんじゃないっスか? つか……俺が姐さんの立場だったら我慢ならねっス! 何で若さんはあの女にビシッと言ってやらねえんです!」
正論も正論、誰もが心の中にあることを代弁してぶちまけた小川に、一瞬場が静まり返る。が、いかに正論であっても言っていいことではない。すかさず清水が制止に入った。
「小川! 口を慎め」
だが小川は止まらないようだ。
「いいえ、慎まねえっス! 若さんに訊きたいっス! もしも立場が逆だったらどうっスか? 姐さんの命の恩人ってのが突然訪ねて来て、あんたのことを助けてやったんだからっつって毎日のようにベタベタしてきたら……若さんはそれでも当然だって笑ってるスか? 助けてもらったんだから相手の気の済むまで付き合ってやれって言いますか? そんなんしてる内に姐さんを掻っ攫われちまったらどうです? それでも黙ってるつもりスか!」
「駈飛ッ! やめんか、駈飛!」
泰造が小川の腕を引っ張るも、完全には抑えきれないでいる。というのも、泰造とて心のどこかで小川の言うことも理解できないではないといった感情が少なからずあるからなのだろう。本来ならばそれこそ殴ってでも止めるべきなのだろうが、そこまでできずにいること自体が泰造の胸の内を物語ってもいた。小川もまた、親方に掴まれた腕を振り切る勢いで続けた。
「俺が若さんだったら姐さんにそんな思いはぜってえさせねえッ! あんな綺麗で……心が広くて優しい姐さんを……泣かせるような真似はぜってえしねえ! 若さんがこのまんま腑抜けでいるんだったら俺が姐さんをもらいます! それでもいいンスかッ!」
「小川ッ! いい加減にしねえかッ!」
さすがに清水が駆け寄って胸ぐらを掴み上げた時だった。
「よせ!」
鐘崎が清水をとめた。
「よせ、清水。いいんだ。小川の言う通りだ」
「ですが若……」
「彼の言ってることは間違っていない」
放してやれと顎先で合図をすると、清水もまた眉をしかめながらも掴んでいた胸ぐらから手を引いた。
と、その時だった。中庭を囲む廊下の端から紫月がひょっこりと顔を出したのに、その場の誰もがいっせいにそちらを振り返った。
◇ ◇ ◇
◆37
「たーだいまぁ……っと。どーした、皆んなででっけえ声出して」
大きな瞳をクリクリとさせながら首を傾げてみせる。彼の後ろからは周と冰、それに姐さん側付きの春日野も顔を出し、ひとまずは緊張状態が中断されたことに誰もがホウーっと深い溜め息を落とす。
「自治会から帰ってきたらさ、玄関トコでちょうど冰君たちと会ってな」
紫月はケーキの箱を掲げながらにこやかな笑顔を見せる。
「今日はさ、皆んなにもバームクーヘンをたくさん戴いたぜ!」
例のラウンジで冰らが買ってきてくれたものだ。ケーキは生物の為、紫月への差し入れだが、いつも周らがここを訪れる時には組員たちにもたくさんの心付けを欠かさないでいてくれる。時間が経っても食べやすく、分けやすい個包装のクッキーや煎餅、饅頭などの茶菓子をたんまりと持参してくれるのだ。
紫月も、そして周らも特に変わりない様子でいることから、鞠愛とは鉢合わせなくて済んだようだ。ちょうど彼女が帰った直後に到着したのだろうが、それだけは良かったと思う一同だった。
しかしながら小川たちが声を張り上げているのは分かったようで、紫月もまた、中庭の方から怒鳴り合いのような声が聞こえてくるのに気がついていたのだろう。まるで場の雰囲気を和ませるように穏やかな笑顔で皆を見渡す。その姿を目にしただけで、組員たちはまるで救世主でも見るかのような顔つきになっていった。中には涙を堪えるような表情をしている者も見受けられたくらいだ。
そう、自分たちの姐さんはあなた一人であって、誰にもその代わりなど出来得ないといったように紫月を見つめる。今しがた小川が例えた言葉を借りるわけではないが、万が一にも鞠愛のような娘に姐さんの立場を取って代わられたらと想像すれば、虫唾の走る思いがするからだ。
「姐さん! お帰りなさいやし!」
「自治会のお勤めご苦労様でございやす!」
「周様ご夫妻にも――我々にまでいつも多大なるお心遣い感謝いたしやす!」
野太い声が庭中に響き渡り、いつにも増して全員がビシッと腰を九十度に折りながら自分たちの姐さんとその友人を出迎える。その様からは姐さんが誰かということを目に見える形で認識したいという組員たちの内心が窺えるようでもあった。
「お、おう! 皆んなもお疲れなぁ!」
紫月は半ば驚きながらもいつもと変わらず労いの言葉を掛ける。その声を、その笑顔を感じただけで、誰もがその帰りを切望していたような顔つきを見せていた。
あなたがいいんです。あなたが姐さんだから、俺たちはついていけるんです。
朗らかであったかくて、誰に対しても思いやりにあふれてる……。
若頭の姐という高い立場にいながらも決して驕らず威張ることもしない。常にフレンドリーに接してくれて、近所の爺ちゃん婆ちゃんとも仲がいい。まるで本当の孫のように可愛がられてる。
町内会の子供たちにも優しく、自分たち組員に対しても分け隔てなく家族のように親身に接してくれる。
そんなあなただから俺たちは姐さんと呼ぶんです。そんなあなたの為ならば、いくらでもこの身を賭して闘えるんです。
あなたと、あなたを何より大切にしている若頭の――そんな仲睦まじいお二人と共に生きていきたいんです!
組員たち全員の表情からはそんな思いが滲み出ているかのようだった。
「姐さん……お帰りなさいやし。周様も……ようこそいらっしゃいませ」
気を利かせた清水がすぐに周らを案内すると同時に、この場は一旦お開きとなったのだった。
◇ ◇ ◇
◆38
邸の最奥にある応接室では鐘崎と紫月、周に冰といったお馴染みの面々が顔を突き合わせていた。
「は、なるほどな。そいつぁカネにとっても痛えところを突かれたな」
鐘崎があらかた経緯を話して聞かせた後で、周がやれやれと肩をすくめては微苦笑していた。鐘崎にしてみても、こんなことを包み隠さず話せる相手は周や冰しかいない。当の紫月もまた、亭主を思いやる言葉をかけた。
「そっかぁ、駈飛ちゃんがそんなことをな。まあ俺もあのお嬢さんが遼に気があるんじゃねえかってのは薄々感じてたけどな」
それは河川敷での一件でも明らかだ。紫月にはあれが鞠愛の仮病だったのだろうことが分かっていたからだ。
「顔色も悪くねえし脈拍も正常だった。俺に対する態度もよそよそしかったからさ。きっとこの子は遼に惚れちまってるんだろうなって思ったよ」
それでもあの場で仮病と言わずに自律神経が弱っているんだろうと伝えたのは、彼女に恥をかかせない為の紫月なりの優しさだったのだ。
「まあ親父さんの休暇が明ければ、またすぐに海外へ戻ると思ってたから」
彼女が鐘崎の命の恩人だというのは事実であるし、休暇中のひと時の思い出になってくれればと思い、あまり抵触せずにいたのだそうだ。
「しかしカネにとっちゃ災難というか、一之宮にしても毎度苦労続きだな。こうも次から次へと女にちょっかいを掛けられたんじゃ堪ったもんじゃねえのは確かだ。いくら二人の気持ちがしっかり揺るがねえといっても、おめえらにとっては少なからず気持ちのいいもんじゃねえだろうしな。カネにも一之宮にも気の毒なのは事実だろう」
周が同情を口にする。
「でも……実際大変ですよね。誰かが鐘崎さんを好きになるのは……まあ、こればかりはどうにもならないというか仕方ないとしても、お二人がご夫婦って分かった時点でお相手の方が察してくれたらというか……諦めてくれるのが一番いいんですけどね」
冰も何とかいい方法はないかと、我が事のように真剣だ。
「ねえ、白龍だったらそういう時どうする?」
ふとそんなことを訊いた冰だったが、鐘崎自身はたいそう興味を引かれたのだろう。真顔で周の答えを待っているといった表情をしてみせた。
「そうだな。俺はカネよりも人間がやさしく出来てねえからな。ありのままを告げるのみだ」
「ありのままって?」
「てめえのココにある素直な気持ちを、まんま言葉に出して伝えるってことだ」
心臓の位置を指でトンと指しながら周は続けた。
◆39
「もしも俺がカネの立場だったらこう言うだろう。幼い頃に命を救ってくれたことには心から感謝をしている。それはこれまでもこの先も一生変わらねえ事実だ。だが自分にはこの世で唯一無二といえる得難い相手がいて、既に生涯を誓い、夫婦の契りを交わした。だから他の人間からの恋情には応えられない――とな」
「あ、なるほど……」
確かに心の内にあるそのままだ。冰は感心していたが、鐘崎にとってもまた衝撃的だったようだ。
「氷川の言う通りだ。それに……さっき小川って若いのが言っていたことも正論だと思う。俺も頭では分かっちゃいるんだ。俺が生涯かけて愛するのは紫月唯一人だけだ。それだけは何があっても変わらねえ。だがどうしてか好意を寄せてくる相手を前にすると……それをどう伝えていいのか分からなくて結局はうやむやにしちまってる自分が情けねえ。できることなら向こうから気持ちを察してくれたら有り難い。そんなふうに思っちまう。苦手なんだ……その、どう断れば穏便に理解してもらえるのか上手い言葉が思いつかなくて」
真剣にそんなことを言って頭を抱え込む鐘崎を横目に、周はやれやれと笑ってみせた。
「だからてめえはやさしいってんだ。高坊の頃から何も変わっちゃいねえ。あの頃も他校の女連中が山と寄って来てたが、てめえは相手にこそしねえ代わりに断ることもしなかっただろうが。放っときゃその内諦めて女の方からどっかへ行ってくれればいい、そんなふうに思ってたんだろうがな」
「氷川……。ああ、そうだったかも知れんな」
「だが今は高坊の頃とは違うんだ。おめえは命に代えても構わねえってくらいの大事な嫁を持った一家の大黒柱だ。嫁を守り、てめえのことも守っていかなきゃなんねえのさ。実際、好いた惚れたに関しちゃ断る為の上手い言葉なんてもんはこの世にはねえんだ。相手を傷つけまいとするおめえの気持ちは分かる。一之宮のことも相手の女のことも、誰も傷つけずに丸く収めたいってのは理想だが、てめえのクローンでもいねえ限り実際誰かが傷つくことに変わりはねえんだ」
「白龍、それはもちろんそうなんだろうけどさ……。でも鐘崎さんのやさしい気持ちも分かるじゃない。自分のことを好いてくれている相手を目の前にしてさ、少しでも傷つけずに上手く断れたらいいなって思うのは悪いことじゃないじゃない? その為に何かいい方法はないかって……皆んなで悩んで……」
「そんな方法はねえな」
「んもう、白龍ったらー」
「ずばり言やぁ、女を振るのに上手い言葉なんざ必要ねえってことだ。別段つっけんどんにしろとは言わんが、どんな言い方であろうと気持ちに応えられないという結論は変わらねえんだ。特に俺たちのような妻帯者なら、相手からの好意を感じた時点で即言葉に出して断る。それ以外にねえ。傷つけるとか傷つけない以前にありのままを伝えるしかねえ。ズルズル引き延ばして後回しにしてる内に相手をその気にさせちまったんじゃ元も子もねえ。ゴタゴタが増えるだけだ。ダメなものはダメとはっきり告げる。それが好意を寄せてくれた相手への礼儀でもあると考えりゃ、そう悩むこともねえんじゃねえか?」
周の言葉に、鐘崎は憑き物が落ちたかのような表情で瞳を見開いてしまった。
◆40
「礼儀か――。ああ……そうだな。思えば俺は……これまでもずっと逃げてきただけだった。三崎財閥の娘の時も、クラブ・フォレストの里恵子の一件でもそうだ。ついこの間のメビィの件でも同様だ。結局俺はてめえじゃ何もせず、全部紫月が間に入ってまとめてくれた。結果、女たちは納得してくれて誰一人傷つくという終わり方はしないで済んだと言えるだろう。だがそれは全部紫月が心を砕いてくれたお陰だ。俺自身は何もしてねえ」
すべて紫月に頼りきりで逃げていただけだと鐘崎は言った。
「情けねえことだ。てめえじゃ何ひとつ手を汚さずに、誰かが、紫月が……上手く収めてくれるのを安全な位置で待ってただけだ。それこそ女たちに対しても礼儀に欠けていたと言える――。それ自体にも気付かねえでいたことも情けねえ」
今更ながらだが悪かったと、鐘崎は紫月の手を取って頭を下げた。
「汚ねえ役は全部お前に押しつけて、愛してるだ何だと甘い台詞だけは一丁前に並べ立ててきた……。亭主としても一人の男としてもすまねえ気持ちだ。紫月、この通りだ」
紫月に謝ると同時に鐘崎は周と冰にも頭を下げた。
「それに気付かせてくれた氷川と、それから親身になって考えてくれた冰にも感謝でいっぱいだ」
ありがとうと瞳を震わせる様子に、誰もがわずか切なげに互いを見つめ合う。周も冰も、そしてむろんのこと紫月も――誰も鐘崎が悪いだなどとは思っていないからだ。
「まあそこがカネのいいところでもあるんだ。そんなふうにやさしいてめえだから一之宮も心奪われた」
そうだろう? というように周はおどけてみせた。
「ま、氷川の言う通りだな! 俺ァさぁ、おめえのそーゆートコに惚れてんだから! それによ、おめえを支えるっつーオイシイ役目をもらえて有り難えのは俺ン方だ。ああ、俺たちゃフーフなんだ。こんな俺でもおめえの姐としてちっとは役に立ってんだって実感させてもらえてるんだからさ」
えへへと舌を出しながら照れてみせる紫月を前に、鐘崎は感激で打ち震える心を抑えることができなかった。
「紫月……おめえってヤツは……本当に」
思わず滲み出しそうになる涙をグイと擦って肩を震わせる。普段、とかく仕事の上では押しも押されもしない立派な若頭であり、家庭という面でも紫月を一途に想い大切にしている完璧な男だというのは皆が知っている。そんな鐘崎が涙を浮かべてまで思い悩むところを見ると、彼の中ではこうして他所の女から恋情を抱かれたりすることは周囲が思う以上に負担を感じているのかも知れない。できることなら誰も傷つけずに穏便に済ませたいと思うが故に悩む彼の気持ちが気の毒なのは確かだ。
だが、紫月はそんな悩みも引っくるめてよく理解しているのか、常に大きな心で受け止めてやっている。そんな二人を見守る周と冰もまた、切なげに瞳を細めるのだった。
部屋の外では源次郎がたんまりと菓子の乗った盆を手に、こちらもまた感嘆の眼差しでいた。ちょうど茶を出しに来たところで皆が真剣に話しているのが聞こえてしまい、出ていく機会を逃したまま聞き入ってしまっていたのだ。
(若、姐さん、本当にお二人は素晴らしい絆で結ばれたご夫婦ですな。若のやさしさも姐さんの大いなるお心も、我々にとって何よりも誇れる最高の宝です。この源次郎は嬉しくて堪りませんですぞ。それに周さん、冰さんという心強いご友人がお二人の側にいてくださる。誠、いいご縁の中で我々は生かされているのだとしみじみ思います。幸せなことですな)
まだ赤子だった鐘崎をこの腕であやした頃や、幼い紫月が『おいちゃん、おいちゃん』と懐いてくれた頃、そんな二人が成長して共に人生を歩むと決めた時のことまでが走馬灯のように脳裏を駆け巡る。共に重ねてきた日々を懐かしみながら、源次郎もまた感慨深い思いを噛み締めたのだった。