極道恋事情

29 紅椿白椿3



◆41
 辰冨が親娘揃って鐘崎組へとやって来たのはその翌々日のことだった。残り少なくなった休暇を前にして、どうしても話したいことがあるというので、鐘崎は第一応接室にて紫月と共に親娘と対面していた。
「遼二君、実は日本を発つ前に是非ともキミに相談したいことがあってね」
 辰冨は少々言いづらそうにしながらも、ちらりと紫月に視線をやった。どうやら鐘崎のみと話したい様子でいる。
 だが、鐘崎は二人で一緒に聞かせて欲しいと言った。
「私共は一心同体の夫婦です。俺に話していただける事柄であれば、妻にも話していただいて結構です」
 臆することなく堂々と言い切った鐘崎に、辰冨はやや苦笑ながらも分かりましたと言ってうなずいた。
「実はね、キミがその……妻……とおっしゃるお方だが。その方はキミと同じ男性だね?」
「はい、ご覧の通りです。男同士ではありますが、私共は世間一般の夫婦と何ら変わりないと思っております」
「はぁ、それは……そうなんだろうね。実は……失礼ながら調べさせてもらったんだが、戸籍の上ではキミが独身であることは事実だね? 彼、紫月さんとおっしゃったか。その方はキミのお父上と養子縁組をされてはいるが、キミの配偶者でないことは戸籍上明らかだ」
「――辰冨さん」
 さすがにその言い分はないだろうと鐘崎がギュッと拳を握り締める。
「まあ最後まで聞いてくれたまえ。そこでだね、娘とのことを一度考えていただけないだろうか。もちろん今すぐ返事をくれとは言わない。よく考えて、娘とも交流を重ねてもらってからでいいんだ」
 辰冨は、娘はずっと以前からキミに好意を抱いていてね、と言った。
「おそらくはこの子がキミを助けた幼い頃からずっと気に掛けていたんだと思う。大人になってからも事あるごとに日本に帰りたい帰りたいと言い続けてきたものでね。伴侶がいるといっても戸籍の上ではキミはまだ真っ白だ。極道の組を引っ張っていく若頭というお立場が大変なことも、仕事上の都合でパートナーという存在が必要なのも分かっているつもりだ」
 それが鐘崎にとってこの紫月であるのなら、自分たちも理解はできるし寛大な心で見守ることはやぶさかでないと言う。
「どうだろう、すぐに付き合うとか付き合わないとかの話ではなく、ゆっくりと将来を見据えて考えてくれたら嬉しいのだがね。今は良くても後々キミを支える姐さんも必要になってくるだろうし」
 このような話し向きになることは少なからず想像していたものの、まさか戸籍のことまで調べ上げて持ち出してくるとは思わずに、鐘崎も、そして紫月もまたひどく驚かされてしまった。
 だが、そうであれば尚のこときちんと自分たちの意思を伝えねばなるまい。



◆42
「辰冨さん、俺が幼い頃にあなた方に命を救っていただいたことを心から感謝しております。今もこうして変わりなく暮らしていられるのはあなた方のお陰に他なりません。また、この感謝の気持ちとご恩はいつまでも忘れませんし、変わることはございません。それと同時に、俺にとってこの紫月はこの世で唯一心の底から尊敬して愛している妻です。確かに世間から見れば男同士のくせにと奇異に思われることがあるというのも承知しています。ですが自分はこいつと共に生涯を生きたいと思い入籍いたしました。おっしゃる通り、戸籍の上では配偶者という明記ではないかも知れませんが、俺にとって配偶者と呼べるのはこの紫月しかおりません。これまでも、これからも、あなた方への恩と同様にこの紫月に対する想いは生涯変わることはございません」
 どうかお察しいただきたく思いますと、二人揃って丁寧に頭を下げた。
 その固い思いに、辰冨は驚きつつもこれ以上の無理強いは難しいと思ったようだ。
「……そうですか。正直に言ってしまうと、残念な気持ちは拭えないがね。だがそこまでお気持ちが決まっているならあまり無理を言っても申し訳ないだろうね」
 父親の方は引き下がる素振りを見せたが、娘の方は納得がいかないようだ。
「ね、でも遼二さん。よく考えてみて。もしもあの時、アタシたちが助けなかったら、あなたは死んじゃってたかも知れないのよ? 別に恩を売りたいとかそんなつもりじゃないけど、この組にだって後継ぎは必要じゃない? それについてはどうなさるおつもりなのかしら。今はまだ若いからって思って考えていないのかも知れないけど、例えば養子を取ったとしてもご両親が二人とも男だって知れれば、周りからいろいろ言われて子供にとっても可哀想じゃないかしら? それに引き換え、アタシとだったら世間から後ろ指をさされることもないわ。……もしどうしてもって言うんだったら紫月さんとはすぐに切れなくてもいいわ。子供が大きくなった頃にまたどうするか考えれば……」
 いいじゃない? と言おうとして、さすがに鐘崎に遮られた。
「お嬢さん、申し訳ありません。お気持ちはたいへん有り難く存じますが、俺はこいつ以外に配偶者を持ちたいとは思いません。その相手がお嬢さんでなく、他の誰でも一緒です。紫月以外の誰かと後継ぎの為だけに縁を持つ気持ちはありません。どうかご理解いただければ有り難く思います」
 はっきりとそう告げた鐘崎に、鞠愛は眉を吊り上げた。
「……随分と強情でいらっしゃるのね! でもあなたがどう思おうと、お父様の……ここの組長さんからしたらどうかしら? こんなに大きな組を作られて、男手ひとつで一生懸命あなたを育てて、孫の顔も見られないなんてお気の毒じゃないかしら? せっかくアタシたちが救ってあげた命なのよ? そのくらい親孝行しても当然だとは思われないの?」
「――おっしゃることは分かります。ですが親父も私共のことは理解してくれています」
「理解って……! それはお父様がやさしいからでしょう? でも後継ぎがいないとなれば組も続かないのよ? お父様が苦労して築き上げたものをあなたの強情のせいで親子二代で潰すおつもり?」
 鐘崎はさすがに眉根を寄せてしまった。



◆43
「これ、鞠愛。よしなさい……」
 いくら何でも失礼だぞと父親が嗜めるも、当の鞠愛は聞く耳を持つつもりはないらしい。たとえ今は愛されていなくても、結婚して子供さえできてしまえば、いずれ鐘崎の気持ちが自分に向くとでも思っているのだろうか。様々言葉で追いつめて、形だけでも夫婦になってしまいたいというのが見え見えだ。
 彼女の中での定義はおそらくこうなのだろう。鐘崎と紫月が想い合っているのは認めざるを得ない事実だが、戸籍の上での繋がりは義理の兄弟といったところだろう。自分は現在のところ鐘崎に想ってもらえてはいないが、形式的に夫婦となることは不可能ではない。命の恩人であるのは動かし難い事実なのだし、多少強引であれ、どうにかしてこの鐘崎に『うん』と言わせることさえできれば、後のことは年月が解決してくれる。子は鎹という言葉のごとく、生まれた赤子をその手に抱けば可愛くて仕方なくなり、離れ難くもなろうというものだ。とにかくは形にさえしてしまえば気持ちなど後からきっと付いてくる――そう思っているのかも知れない。
 そんな彼女に対してさすがにどう返したらいいのか、どう説明すれば解ってもらえるのか、鐘崎も紫月も言葉に詰まってしまう。
 と、その時だった。コンコンと応接室の扉が叩かれて、話題に上がっていた僚一が姿を現したのだ。
「失礼。邪魔させてもらうぞ」
「親父……」
 鐘崎は驚きながらも、やはり自分一人で対処できないことが不甲斐ないとでもいうように視線を泳がせた。辰冨親娘にとっても突然の組長の登場に驚いた様子だ。
 僚一はゆっくりとした所作で皆の前へとやって来ると、息子たちの脇に立ち、そっと二人の肩に手を置いた。
「失礼ながら話は聞かせていただいた。遼二、立って服の襟を開けなさい。お二人にお前の肩をお見せするんだ」
「……肩……?」
「そうだ」
 肩には言わずと知れた彫り物が入っている。何故今それを辰冨親娘に披露しなければならないのか、僚一の意図するところが分からないながらも、鐘崎は言われるままにシャツの襟元を開いてみせた。
「まあ……! 刺青……!?」
「おお、これはまた……何と……」
 親娘はよほど驚いたのだろう、大きく口を開けたまま固まってしまっている。
「この彫り物はこいつが組を継ぐことを決めてくれた時に入れたものです。絵柄も本人が決めました」
「はあ……左様でしたか。椿……ですかな?」
 おずおずとしながらも辰冨が目をまん丸くしながら凝視している。鞠愛はその横でわずかばかり首を傾げている。
「刺青は……びっくりしたけど極道の若頭なら当然かしら? よく……似合ってると思うけど、でも遼二さんなら龍とか……虎とか……もっと男らしいのが良さそうなのに」
 素直な感想なのだろうが、ポロりと口にしてしまうところは少々気遣いに欠けるところか。
 穏やかに僚一は続けた。
「この紅椿の花は、遼二にとってこの世で最も愛する者が生まれた日に、その子の家の庭で満開を迎えていた花なのです。この組を継ぐ意思を決めた当時はまだその相手に自分の気持ちを打ち明けておりませんでね。何故なら好いた相手というのが遼二と同じ男だったからです」
 ちらりと紫月を見やる。つまり、その相手というのは紫月なのだと言っているのだ。



◆44
「私の思うに、当時から二人は互いに想い合っていたはずです。しかしながら男性同士ということが壁になっていたんでしょう。互いに相手の将来を思い遣るばかりに、どちらからも気持ちを告げ合えずにいた。世間体やその他様々なことを気に掛け、例えばその内のひとつは親に迷惑を掛けては申し訳ないなどの思いもあったのでしょう。もしくは互いに片想いであった場合に、打ち明けて関係性が壊れてしまうのが怖かったという思いもあったかも知れない。だが、二人の想いは――とかくこの遼二の想いは一途でした。たとえ今生で結ばれることが叶わなくとも互いを想う気持ちは何があっても揺るがない。そういったことから好きな相手の生まれた日にそれを慶ぶかのように咲き誇っていたこの紅椿の花を自分の肩に刻もうと決めたのだと思います」
 親娘は相槌も打てないほどに押し黙ってしまった。
 僚一が続ける。
「ご存知でしょうか。椿の花というのは花びらが一枚一枚散っていくのではなく、咲いたまま首を落とすといいます。もしもこの想いが叶わなければ、遼二は死んだも同然の生ける屍となるのだと、それほど唯一人の男を愛してやまなかったのでしょう。せめてその肩に――これから極道の組を背負っていくこの肩には、唯一無二の相手が生まれた日に満開だった紅椿の花を刻みたい。この肩の上で生涯散ることのない大輪の花と共に生きていきたい。紅椿は好いた相手そのものだと、彼に対する想いもまた――永遠に枯れることはないのだと、そんな覚悟の下でこいつはこの肩に紅椿を彫ったのです」
 僚一は息子の襟を元に戻しながら、隣にいた紫月の肩を抱き寄せた。
「それがこの鐘崎紫月です。遼二にとって唯一無二の伴侶であり、我が鐘崎組にとって代わりは有り得ない姐であり、そして私にとって自慢の息子です」
 終始穏やかな口調ながらも、重々しく刻まれる一字一句に、辰冨親娘は言葉すらままならない様子で硬直してしまった。
「そ……うでしたか……」
 やっとの思いで辰冨がそれだけを返した。
「辰冨様には遼二の命を救っていただき、心から感謝いたしております。先程お嬢様がおっしゃった後継ぎについても――組を継いでくれようとする者が必ずしも血縁である必要はないと心得ています。今はたまたまこの遼二が若頭となり組を継ぐ形になってはおりますが、正直に言ってしまえばこの先こいつにその資格がないと私が判断すれば、後継は別の――もっと相応しい者が継ぐべきと考えます」
 まあそうならないようにこいつも精一杯努力をしていくでしょうが――と付け加えながら、一等肝心なことを告げた。
「今はこいつも若頭として恥じない相応な仕事ぶりを見せてくれています。そんなこいつの側で、姐として紫月も十分に支えとなってくれています。私をはじめ、組員たちもこの二人を軸としてやっていくことを望んでくれています。どうかこの二人の仲につきましてはご理解いただきたく思います」
 深々と僚一が頭を下げると、息子夫婦もすぐさま倣うように立ち上がっては、揃って腰を九十度に折った。そのまま三人はしばらく顔を上げることはなく、いつまでもいつまでもそうしていたのだった。



◆45
「組長さん、皆さん……どうかその……もうお顔を上げてください……。お気持ちはよく分かりました。私どもこそご無理なことを申し上げたことをお詫びします」
 そう言われて、ようやくと三人は姿勢を直した。
「ご理解に感謝いたします」
「いいえ……。で、ではそろそろ失礼させていただきましょうか……」
 辰冨は立ち上がったが、鞠愛は完全には納得しきれていないようだ。それでも唯一本能で感じるのは、自分はおそらく一生この鐘崎遼二という男には振り向いてもらえることはないのだろうということだった。
「……何よ、そんな仰々しいことされたら……こっちの立場がないじゃない。まるでアタシたちは悪者扱い……? 失礼だわ!」
 こんなことならあの時助けてあげるんじゃなかったとさえ言いたげにキッと睨みをきかせると、ワナワナと身を震わせながら席を立った。
「パパ、帰りましょう! まさかこんな仕打ちを受けるなんて思ってもみなかったわ……。命の恩人だの感謝してるだのって……所詮は口だけじゃないの! 綺麗事ばっかり並べ立てて……自分たちの主張だけはこれみよがしに正当化して……! 本当は恩だなんてこれっぽっちも思ってやしないのよ! こんな無礼な人たち……こっちから願い下げだわ!」
 |罵《ののし》らずにはいられないとばかりの暴言と共に、逃げるようにして自ら部屋を出ていった。父親の方はさすがに大人だ。丁寧に一礼すると、娘の後を追ったのだった。



◇    ◇    ◇



 親娘の去った応接室で僚一はやれやれと微苦笑を浮かべると、大きな伸びと共にソファへと腰を下ろした。だが、鐘崎としてはそんな余裕はとうにない。大真面目な表情で父を見やりながら、深々と頭を下げた。
「親父……自分が不甲斐ないばかりにお手を煩わせてしまいました。申し訳ありません」
 普段はおおよそ滅多に使わない敬語で謝罪し、それこそ腰を九十度に折ってビシッと礼をする。その姿勢が今の胸中をありありと代弁しているかのようだった。
 紫月もまた、亭主の横に並んで頭を下げた。
「お手数をかけました。ありがとうございました」
 そんな息子夫婦にうなずきながら、僚一は明るくおどけた声を出してみせた。
「ああ、いい、いい! 楽にしろ。お前さんたちもご苦労だったな!」
 するとタイミング良くか源次郎が茶を持ってやって来た。彼もまた、応接室の様子を隣の事務所のモニターから窺っていたのだった。
「若、姐さん、お疲れ様でございましたな」
 皆の前に茶を差し出しながら労いを口にする。
「源さんも一緒にやってくれ」
 僚一がソファを譲りながら源次郎の腰掛けるスペースを作る。
「しかしあの親娘は手強かったな。さすがの俺でも一人じゃ太刀打ちできなかったろうぜ」
 三人で頭を下げたから理解してもらえたのだと言って笑う。むろんこれは僚一なりの気遣いに他ならないし、酸いも甘いも熟知している彼ならば当然一人で対処できたのだろうが、鐘崎も紫月も父が自分たちの気持ちを楽にしてくれる為にわざとそんなことを言ってくれているのだと重々承知していた。
「感謝しています。本当に……」
「うむ、お前たちの気持ちはよく解ってる。もう気にするな」
 そう言って笑う。
 と、そこへ扉がギシギシという音が聞こえてきたと思ったら、組員たちがおしくら饅頭のようにして応接室へと雪崩れ込んできた。
「おわ! 何やってるんでい、てめえら……!」
 源次郎が慌てて眉間に皺を寄せる。
「す、すんません!」
「だって気になって仕方なかったス!」
「そうっスよ! 若と姐さんに何かあったらと思うと気が気じゃなかったっス!」
「俺らの姐さんは一人しかいねえっス! でーじな姐さんに何かされようもんなら、俺たちゃ命かけて身体を張りますぜ!」
 自分たちの姐さんは紫月しかいない。万が一にも恩を盾に取られて姐さんが肩身の狭い思いでもしようものなら、迷わず戦争おっ始めますぜとばかりに鼻息を荒くしながらも、ホッとしたように安堵の視線を向ける。中には涙ぐんでか鼻の頭を真っ赤にしている者もいるくらいだ。
 そんな組員たちを見渡しながら僚一はとびきりの笑顔で微笑んでみせた。
「心配するな。俺と遼二の目の黒い内は天地がひっくり返っても滅多なことはさせやせん!」
 頼もしい言葉に、皆はそれこそ組を挙げてといったくらい歓喜に湧き立ったのだった。
 鐘崎と紫月もまた、あたたかい皆の気持ちに支えられながら、この面々と共に生きていけることを至福に思うのだった。



◆46
 数日後、辰冨親娘が日本での休暇を切り上げて赴任地へと帰ったらしいことを知り、鐘崎組にも平穏な日常が戻ってきた。
 藤も躑躅も盛りを過ぎた中庭では紫陽花が小さな蕾を見せ始めている。流れゆくゆるやかな時を惜しむかのように、鐘崎と紫月もまた、ようやくと訪れた安堵の中で睦の時を重ね合っていた。
「すまねえ……またしんどい思いをさせちまった」
 例によって少々激しい抱き方をしてしまった後で鐘崎が紫月へと謝罪を口にする。
「はは! いつものことだべ」
 よっこらしょ、と気怠い身体を起こしながら紫月は笑った。
 ふと隣に寝転んだ亭主の肩は逞しい筋肉が見事に張っていて、見慣れたはずの紅椿の刺青も色香を讃えている。それを指でなぞりながら、紫月はポツリとつぶやいた。
「な、遼――あのさ」
「ん? どうした」
「お前にひとつねだってもい?」
 紫月が自分からそんなことを言い出すのは珍しいことだ。普段は何かプレゼントしたいと言っても、おおよそ欲しい物など口にしてはくれないからだ。
 鐘崎にとっては何かねだってくれるなどと聞けば、それは願ってもないことだった。
「もちろんだ。俺に叶えてやれるものならどんな物でも喜んで贈りたい」
「マジ? じゃあさ、俺欲しいものがあるんだ」
「何だ。何でも言ってくれ」
 逸るような目つきで目の前の紫月を見つめる。
「んとね、椿が欲しい。白いやつがいいな」
「白椿……?」
 想像もしていなかったものに鐘崎は驚いて半身を起こしてしまった。
「椿の木とな……」
 もっと高い豪華なものの方が贈り甲斐があるといったように目を丸めてしまう。だがまあ自分たちにとっては特別といえる椿が欲しいと言ってくれる気持ちが嬉しくないわけがない。
「そういやウチの庭に植ってるのは紅椿だけだったな。紅白揃えば縁起がいいしな。いいぞ、じゃあすぐにでも泰造親方に頼もう」
 鐘崎もまたよっこらしょというように姿勢を正しては紫月に向き合って手を取った。ところが紫月の言う椿とは鐘崎の思ったものではなかったようだ。
「あー、その植木の方の椿じゃねんだ」
 どういう意味だと首を傾げさせられてしまう。
「俺の欲しいンはこれ。こっちの椿だ」
 肩に咲いた紅椿をなぞりながら、紫月は真剣な目つきで鐘崎を見つめた。
「俺さ、お前がこの肩に紅椿を彫った理由は……もちろんお前からも聞いてたし、この前親父も同じこと言ってくれてたからお前の気持ちはよく解ってるつもりだ。だから俺も……お前の伴侶として、それからこの組の姐としてお前と同じ椿を背負って生きていきたい」
 紫月は鐘崎と向き合うと、肩の紅椿を指でなぞりながら続けた。
「お前ンがこっちの肩だべ? だから俺ンはこっち」
 鐘崎の彫り物は利き手とは反対側の右肩に入っている。
「俺は右利きだからさ、こっちの――左の肩に入れればお前と向き合った時に紅白の椿が重なり合うべ? だから……」
 そこまで聞いて鐘崎は堪らずに目の前の身体を抱き締めてしまった。



◆47
「紫月……! おめえってヤツは……本当に……」
 声も腕も何もかもが小刻みに震えている。言葉にならないその様からは鐘崎が今どんな気持ちでいるのかがはっきりと分かるようだった。
「な、遼。俺さ、俺もお前と一緒にいろんなこと背負って生きていきたい。お前が覚悟の証としてこの紅椿を背負ってくれたように、俺も自分の気持ちを目に見える証として背負いたい。だからもしよかったら……その、俺ン肩にお前のと対になる白い椿を贈ってくれねえか」
「紫月……ッ!」
 堪らずに鐘崎はもぎ取る勢いで紫月の唇を奪った。それこそ激しく熱く濃い口付けが獣のように愛する者を奪っていく。
 長い長い接吻の後、ゆっくりと唇を離すと鐘崎は言った。
「ああ、ああ……もちろんだ。おめえのその気持ちを聞けただけで俺は……どうしようもねえほど幸せだ。だがその前に……おめえの親父さんに相談させてくれねえか。親からもらった大事な身体だ。それを弄ることになるわけだから、まずは親父さんのお気持ちをうかがってからにしたい」
「遼、うん。ありがとな。んじゃ親父たちの意見も聞いて、皆んながいいって言ってくれたら考えてくれよな」
「ああ、そうしよう」
 こんなにも嬉しいことがあるだろうか。今まで女性たちへの対応にしても自治会の役目にしても、何もかもを任せきりにしているこの紫月が、自分と対になる覚悟の証を共に背負わせてくれとまで言ってくれた。
 もしも父親たちが反対して実際はその肩に白い椿が入れられずとも、鐘崎にとってはその気持ちだけで有り余るほどであった。



◇    ◇    ◇



 数日後、紫月の実家の道場が休みの日に合わせて、鐘崎と紫月は父の一之宮飛燕を訪ねた。実父の僚一にも道場へと来てもらうように頼み、二人の父親の目の前で自分たちの思いを打ち明けることにしたのだ。
 二人にとってとても大切な事柄であるゆえ、服装にも気を遣った。結婚の披露目の時に着た紋付袴の正装を選んで二人は父親たちの前で姿勢を正したのだった。
 驚いたのは父親たちだ。その出立ちを見ただけで、おそらくは息子たちにとって何か非常に大切な事柄なのだろうと察することができる。だがそれが何であるのかはさすがの父親たちもすぐには想像できなかったようだ。
「親父さん、親父。本日は私どもの為にお時間を割いていただき感謝いたします。実は――」
 二人は畳の上で丁寧に両手をつきながら、鐘崎が事の次第を話し伝えた。
「私にとっては紫月のそういった気持ちを聞けただけで有り余る幸せです。刺青を彫るということは少なからず身体に傷をつけることに他なりません。ご両親からいただいた大切な身体です。親父たち二人のご意見をうかがって、賛成できないということであれば勝手をすることは決して致しません」
 何をおいても親の意を尊重したいと言って丁寧に頭を下げた息子たちに、二人の父親たちは同時に瞳を細めてみせた。



◆48
 しばしの沈黙の後、最初に口を開いたのは紫月の父親の飛燕だった。
「いいんじゃねえか。お前たちの気持ちはよく分かっているつもりだ。遼二坊と紫月がそうしたいと思うのならば私に異存はないよ」
 そう言いながら隣の僚一を見やる。
「僚一、お前さんはどうだ」
「ああ。飛燕がそう言うのなら俺も異存はない」
 父親たちの言葉を受けて鐘崎と紫月は大きな瞳を見開いては対面の親たちを見上げた。
「深いご理解をいただき感謝いたします」
「ありがとうございます!」
 二人は今一度畳に手をついて深々と頭を下げた。
「では早速に彫り師を手配せねばならんな。遼二坊のを彫ってくれたのはウチの綾乃木君のお父上だったな?」
 実はそうなのだ。綾乃木天音とは元々僚一からの伝手で知り合い、道場を手伝ってもらうことになったわけだが、その伝手というのは綾乃木の父親に鐘崎の紅椿を彫ってもらった縁から来ているのだった。
 その綾乃木といえば無免許ながら凄腕の医師であるのは皆承知だが、彼の父親はその道一本の彫り師である。裏の世界ではよくよく名の知れた名門処で、鐘崎組とも昔から縁のある人物だった。
「天音君の親父殿は京都にお住まいだったな。彫り物の範囲にもよるが、遼二のと対にするというなら結構な大仕事だぞ」
 鐘崎の紅椿は肩から胸、それに腕にかけても入っている。まあ周焔のように背中全面というわけではないから、それよりは規模が小さいものの、冰の肩に入っているような小さい白蘭よりは格段に広範囲となるだろう。体力的にはもちろんのこと、時間的にもかなりの日数を費やすことが予想される。
「天音君の親父殿に関東へいらしてもらうという手もあるが、我々より少々ご高齢だしな。長期間拘束するとなると難しいかも知れん。やはり紫月が京都へ出向いて彫ってもらうのが筋か……」
「だが、遼二坊からしたら気が気でないんじゃねえか? どんなに急いでもひと月そこらは掛かるだろうが」
 その間、紫月一人を京都へやったままで鐘崎が耐えられるのかと飛燕が笑う。鐘崎の紫月に対する愛情の深さは|傍《はた》で見ていても明らかだ。独占欲も当然強い上に心配性な性質をよくよく分かっているからこその言葉なのだ。
「ふむ、まあ我が組としても若頭と姐さんが揃って長期不在となると、さすがに厳しいところではあるな。俺と源さんがいるから大丈夫だと言ってやりたいところだが、俺の方はいつ海外からの依頼が入らんとも限らんからな。遼二には留守番として組に居てもらわにゃならんか……」
 どうしたものかと思っていたところへ当の綾乃木がお茶を持ってやって来た。
「すみません、不躾ながらお話が聞こえてしまったもので恐縮です。もしもよろしければ僭越ながら私にやらせてはいただけないでしょうか」
「天音君、キミがかね?」
「はい。元々私は父の後を継いで彫り師になれと言われていたのですが、医学の方に興味が出てしまいまして、勝手をした身です」
 医大へ行き学問を積んだものの医師免許を取らなかったのは、裏の世界とは切っても切れない親密な関係にある父親の影響であったらしい。



◆49
「彫り師としての勉強は幼い頃からいたしましたし、実績もございます。もしも私でよろしければお手伝いさせていただければと思うのですが」
 その申し出に満場一致で拍手喝采となった。
「それは有り難い。ここならウチの組とは目と鼻の先だし、遼二も毎日嫁さんに会いに来られるじゃねえか」
 鐘崎にとってもこれ以上のことはない。綾乃木の腕は信頼に足り得るし、何より紫月の実家で彫ってもらえるとなれば安心だ。願ってもないことだと言って感激に湧いたのだった。
「では綾乃木君、よろしく頼んだぞ」
「はい。お任せください」
 こうして鐘崎組姐の白椿は綾乃木の手によって一之宮道場で行われることになったのだった。



◇    ◇    ◇



「姐さんは今日からご実家かぁ。俺たちも陣中見舞いに行かせてもらっても大丈夫かな?」
「若のご許可が出れば大丈夫じゃねえか?」
 鐘崎組では事情を知った組員たちがワイのワイのと浮き足立っている。
「おめえさん方、それもいいが今はしっかり組の留守番を預かることに精を出せ」
 源次郎に言われてタジタジと頭を掻いている。誰もが姐さんの肩に咲く白椿を心待ちにしているのが窺えた。
 また、汐留でも周と冰が見舞いや完成後の祝いについて楽しい話を繰り広げていた。
「俺が白蘭を入れた時にはとっても素敵なお祝いをいただいたものね! 何か記念に残るような物を贈りたいなぁ」
 冰が白蘭を纏った際には鐘崎と紫月からの祝いとして夫婦揃いの鉄扇が贈られていた。見た目は優美な扇だが、いざとなれば身を守る武器の役目にもなる代物だ。図柄は周の方には冰を示す白蘭、冰のものには周を意味する白龍が精密に彫られており、要の部分には二人を象徴するガーネットとダイヤモンドが埋め込めれていた。鐘崎と紫月の心がこもった何よりの祝いの品だった。当然、今度は自分たちが鐘崎らを祝いたいと思うわけだ。
「実はな、冰。カネと一之宮の親父さんたちも祝いの品を用意しているそうなんだが、俺たちはそれにちなんだものを贈ろうと思ってるんだ」
「そうなんだ! じゃあもう何にするか決めてあるの?」
「ああ。おそらく喜んでもらえるはずさ」
「わ! それは良かった」
「お前にも一緒にデザインなんかを見てもらいてえからな。付き合ってくれるか?」
 もちろんだよと言って冰は大喜びした。
「ねえ白龍、紫月さんは刺青を彫る間はずっとご実家の道場にいるわけでしょ? だったらお見舞いがてら、例のお店のケーキとか差し入れしてあげたいんだけど」
「いいんじゃねえか? カネも可能な限り毎日のように顔を出すだろうし、俺も付き合うぞ」
「うん、お願い! 紫月さんから聞いた話だと彫る範囲も結構大きなものになるっていうからさ。俺はこの小さな白蘭でも緊張したもん! ちょくちょく様子を見にお邪魔したいなと思ってさ」
「お前が顔を見せてやれば一之宮も喜んでくれるだろう。彫り物を入れるのは確かに大仕事だしな。いくら一之宮自身の希望とはいえ、やはり不安はあるだろう。まあ今は昔と違って麻酔なんぞも発達しているからな。だが一之宮は痛みも覚悟の一環だと言って、麻酔なしでやることに決めたとか」
「ええッ? そうなの?」
 冰は驚いたが、それも紫月の愛情の深さなのだろうと思う。
「そっか。じゃあたくさん陣中見舞い持って会いにいかなきゃ!」
「俺が仕事で抜けられない時は真田にでも言って一緒に行ってもらえばいい」
「うん、そうする! ありがとうね、白龍!」
 まるで我が事のように思い遣る様子に、周もまたあたたかい気持ちにさせられるのだった。



◆50
 そうして紫月が実家へと戻ってから、鐘崎もまたでき得る限り道場へと様子見に立ち寄る日々が続いた。紫月本人から夜は組へ帰って来ると言われていたものの、わずかの距離であっても傷に障るといけないという思いから、そのまま実家で過ごさせることに決めた。もちろん鐘崎にとって愛しい者と共に眠れない日々は忍耐と言えなくもないが、今は何をおいても紫月の体調が一番である。まあ昼間は顔を見に行けるわけだし、泊まることも可能だ。夫婦にとってたまにはこうしたひと時も悪くない。戻って来た時の喜びもひとしおというものだ。鐘崎はもちろん、誰にとっても完成の時が待ち遠しく思えるのだった。

 そんなある晩のことだった。ここ最近は珍しく海外出張も入っていない僚一が久々に一杯やろうと言って鐘崎の部屋へとやって来た。親子二人水入らずというのもまた珍しい機会だ。
「どうだ。嫁さんがいなくて寂しくしてるといけないと思ってな」
 そう言って揃いのグラスを差し出す。バーボンの飴色の中心で揺れる透明な氷がカランと心地好い音を立てている。
「このツマミはチョコレートか? こっちはクッキー――ね」
 息子の部屋のバーカウンターには酒の他にたんまりと菓子類も揃えられていた。甘い物好きの紫月の為であろう。僚一は山とある菓子類をひとつひとつ手に取って眺めては、嬉しそうに瞳を細めながらゆっくりとした所作でソファへと腰を落ち着けた。
「たまには二人で飲むのも悪くなかろう。こんな機会も珍しいからな。お前にひとつ話しておきたいことがある」
「話しておきたいこと?」
 鐘崎は首を傾げながらも父の対面へと腰を下ろした。
「遼二、お前さん自分についてどう思う?」
「……は? どうって……」
「自分で自分をどう思うかと訊いている」
「どうって……そうだな。正直不甲斐ねえっていうか、情けねえことだらけだ。まだまだ親父を継ぐには勉強も経験も足りねえ甘ちゃん……と思ってる」
 これまでのこともそうだし、つい先日の辰冨親子の件にしても結局自分一人では対処しきれなかったことを含めてそんなふうに思うのだろう。だが僚一が言ったのはそういう意味ではなかったようだ。
「まあ謙遜するな。確かに女の件やなんかでは至らんところもあるだろうが、仕事の面では良くやってくれている。お前は頭も切れるし洞察力も鋭い。仕事絡みでなくとも、紫月や冰が拉致されたりなんかの非常事態でも感働きは抜群だ。行動力もある。うちの組員たちにも尊敬される立派な若頭だと思うぞ」
「……ンだよ急に。そんな誉めちぎるなんざ……」
「別に褒めたわけじゃねえ。事実を言ったまでだ。それより俺が訊きたいのはお前がお前自身についてどう思うかということだ。例えばそう、容姿の点ではどうだ?」
 お前は自分の容姿についてどう思うと訊かれて、鐘崎はますます首を傾げさせられてしまった。
「どうって……背はまずまず伸びたし、運動神経もそこそこだろうとは思ってる。まあ親父や氷川に比べりゃほんのちょっと身長が足りねえが、仕事を遂行する上では体力もある方だと思うから、そんなふうに産んでくれた親父とお袋には感謝しねえとと思ってる」
 僚一は満足そうに笑いながらも鐘崎にとって更に首を傾げさせられるようなことを訊いた。



◆51
「そうだな。背も高えし引き締った筋力も立派だ。体つきは言うことなしとな。だったらツラはどうだ? お前は自分のツラをどう思う」
「ツラだ? どうって言われても……。親父によく似てるなくらいしか……」
「ほう? よく分かってるじゃねえか。さすがにイイ男の息子だな」
 バーボンのグラスを揺らしながら得意げに笑う。いったい何が言いたいのかまったく分からない鐘崎は、怪訝そうに眉根を寄せながらも父親を凝視してしまった。
「何が言いたい……?」
「ふむ、いいだろう。では本題だ。遼二、お前はな。傍目から見てもいわゆる美男子といえる。まあそれはこの俺譲りだから当然なんだが?」
 ニッと悪戯そうに笑みながらフフンと笑う。
「俺譲りって……まあ傍目から見てもそっくりだって言われるのは事実だけどな」
「そうだな。面構えはもちろんだし身体つきも立派で男としては理想的だろう。つまりお前はイイ男だ。お前自身、自分が優れた容姿を持っているイイ男だというのを本能で分かっているのさ」
 鐘崎にとっては寝耳に水というよりも、ますます言いたいことが分からなくなるような言い分である。
「てめえでてめえをイイ男だと思ってるだって? 俺、そんなナルシストじゃねえぞ……」
 何とも返答に困ってしまう。
「ふ、ナルシストってのとは意味が違うさ。俺が言ってるのは本能レベルでの話だ」
「は? ますますワケ分かんねえ……」
「お前はな、遼二。本能で自分がイイ男だと分かってるんだ。おそらくは何もしなくても、例えばお前さんが性格的にかなり嫌な悪人だとしてもだ。外見だけで言えばほぼ万人が――特に女たちからは興味を惹いてやまない存在だという自覚があるはずだ」
「ンだよ……。それじゃやっぱりナルシストの勘違い野郎じゃねえか……。俺ァそんな……」
「だがお前さんの興味の対象は紫月だけだ。紫月以外の――特に女たちから色恋の感情を持たれることが鬱陶しくて堪らねえのさ」
「……それはまあ、鬱陶しいってよりはどうしていいか分からねえって感じだが……。それとナルシストとどんな関係があるってんだ」
 さすがに少々ムクれ気味で口を尖らせてしまう。だがまったく構わずといった調子で僚一は続けた。
「お前の容姿を見ただけで大概の女たちは心を奪われる。だとしても既婚と分かれば普通はすぐに諦めてもらえることの方が多かろうが、中には美人で自分に自信を持っているタイプの女もいるだろう。美人に限らずとも欲しいものには行動力を惜しまないタイプの女もいる。嫁がいようが関係ない、あわよくば奪い取りたい、付き合って欲しい、あなたのことが好きだ――いつ何時そんなふうに言われやしないかとお前はひどく警戒して、女そのものを億劫に感じていることだろう。結果、口数は少なくなりわざと愛想を使わないよう心掛けてしまう。無意識にそうすることによって本能で女を近付けないようにしているのさ」
「……俺が――か? まあ愛想がねえってのは当たってるかも知れねえが……」
 事実紫月からもそう指摘されているので、愛想が足りないのはまあ認めるところだ。
「だがどんなにお前が防護壁を作ってもそれを突破してこようとする者もいる。三崎財閥の繭嬢や、この前の辰冨鞠愛嬢などがいい例だ。女たちはどんな手を使ってもお前に振り向いてもらおうと必死になる。お前は途端にどう対処していいか分からなくなるのさ」
「それは……まあその通りだが」
「周焔がお前のことをやさしいと言ったそうだな」
「ん? ああ……。さすがに耳が早えな」



◆52
「まあヤツはお前の親友だ。やわらかい言い方を選んだんだろうが、実際は優柔不断なヤツだと言いたかったのかも知れんぞ」
 鐘崎にとっては少々耳の痛いところだ。だが当たっているといえるだろう。
「……そうかもな。あいつも言ってた。ダメなものはダメだとはっきり断るべきとな。俺も頭じゃ分かっているんだが、実際そういった状況になるとどう断っていいか迷うのは事実だ。氷川に言わせりゃ女を傷つけずに断る方法なんざねえってことだが、実際面と向かうとな……」
 正直なところはっきりと断っても先日の鞠愛のように理解してくれないことも多い。僚一にも息子の言いたいところはよく分かっているようだ。
「そういうのが面倒だからついつい最初から関わること自体を敬遠しちまうんだ。それも本能レベルでの話だから、お前自身はいわば無意識だ。無愛想を装っているにもかかわらず女たちから恋情を抱かれると、どうしていいか分からなくなって挙句はうやむやのままズルズルになっちまうわけだ」
 確かにその通りだ。一字一句当たっている。
「けどよ、例えば親父にしろ氷川にしろイイ男だってんなら同じ類じゃねえか? 容姿がどうのと言うなら、氷川だって女にモテまくりそうなツラだし、その上経済力も備わってる。俺以上に方々から声が掛かっても不思議じゃねえ。だがヤツはどういうわけかそういうゴタゴタに巻き込まれる機会が少ねえ。そりゃ、以前にあいつの大学時代の後輩とかいう女が冰に文句をつけに来たこともあったから……皆無とは言わねえが、それでもきちんとケリはつけてる」
 確かにその後輩の女の件に巻き込まれた際にも、周ははっきりとした態度で女を切った。鐘崎からすれば少々辛辣といえるような厳しい対応を見せたのは事実だ。だが確かに妻帯者である以上、周のとった行動は正しいといえるのだろう。
 そんな友からの助言を受けて、今後もしもまたどこかの女から好意を抱かれるようなことがあった場合、きちんと断るつもりではいるが、穏便に理解してもらえるかどうかは自信がないと鐘崎は言った。
「もしもまたそんなことがあったとして、結局は俺一人では対処しきれずに親父や紫月に面倒を掛けちまうようにも思う。つくづく情けねえ思いでいっぱいだ……」
「そうだな。今のままのお前ではそうなるかも知れんな」
 しれっとそんなことを言う父親を戸惑ったように見つめてしまった。
「俺には何が足りねえってんだ……」
 分かっているなら教えて欲しい。真顔で視線を翳らす様子からは切実な思いがひしひしと滲み出ている。
「そうさな、一度その警戒心を取っ払ってみたらどうだ」
「……え?」
「何度も言うが、お前にとっちゃ本能レベルでの警戒心だからな。意識的に取っ払うのは難しいかも知れんが、逆療法ってやつさ。万が一にも興味を持たれたら困るとか、惚れられたらどうしようなんて思わずに、逆に女をナンパするくれえの気持ちで接してみたらどうだ? 案外女の方が警戒して逃げていくかも知れねえぞ」
 僚一曰く、仮にこの先々で出会う女が鐘崎を気に入ったとして、確かにイイ男だと思っても、もしかしたらいいように遊ばれるだけかも知れないからと、女の方から一歩引いてくれるかも知れないと言うのだ。
「ま、そいつぁ半分冗談だがな。要はあまり警戒せずにいられるようになれということだ。無理に愛想を振り撒けとは言わんが、普通に接していながら惚れられたんなら、その時は真摯に向き合って正直な気持ちを伝えればいい。簡単なことさ。惚れられるか惚れられないかも分からねえ内から、過分な防護壁を纏う必要はねえってことだ」
「……防護壁」
「人間の心理なんてのは天邪鬼にできてるもんだ。お前が高く高く防護壁を作れば作るほど、それを乗り越えたいという思いを焚き付けちまうってこともあるんだと思っとくこった」
 僚一の言葉に鐘崎は目から鱗が落ちる思いに陥ってしまった。



◆53
「ヘンな話だが、紫月だって男としては美男子だし女が群がってきそうな容姿だろう? だが実際にはあまりそういうことになってねえだろうが。それはヤツの性質的なものが大きいと思うわけさ」
 紫月は老若男女誰に対してもフレンドリーで明るく朗らかだ。人間として好かれることは多いが、恋情を抱かれることはごく稀だ。
「もちろん側におめえがいるからってのも大きいが、仮に誰かが本気で紫月に恋情を抱いたとしてもだな。ヤツの分け隔てのない明るさと真心で正面から向き合うあったかさが、逆に相手に突っ込んじゃならねえ聖域ってのを意識させるわけだ」
「聖域……?」
「そう、聖域だ。ヤツは誰にでもやさしくて話しやすくもあるが、お前という大事な相手がいる。こんなにいい人の大事にしているものに土足で踏み込んじゃならねえと、相手は自然とそう思うわけだ。それが聖域だ」
 またしても目から鱗の思いである。
「周焔にしても紫月とはまた違うタイプではあるが、はっきりと断れる強さを持ってる。そういう意味ではヤツの言うようにお前の方がやさしいのかも知れん。ちょっと前に周焔に対する恋情から元社員の香山って男が事件を起こしたろうが。はっきり振った挙句にああした逆恨みを買うこともあるからな。一概にはお前と周焔のどちらのやり方が正解かと言われれば確かに難しいといえる。どちらも正しいが、どちらもリスクを伴う。要はケースバイケースで臨機応変に向き合っていくしかねえわけだ」
「……人の気持ちってのは難しいもんだな」
 どう動いても正解がないのなら、どうすれば一番いいのだろうと迷ってしまう。これではまた最初に戻って堂々巡りだ。
「だがお前には紫月という素晴らしい伴侶がいる。周焔や冰といった頼もしい友だっている。俺や源さんも然りだし、お前のことを慕って親身になってくれる組員だっている」
 僚一は立ち上がって息子の肩へと手を置くと、穏やかに言った。
「お前は一人じゃねえんだ。何もかもをてめえだけで背負い込もうとするな。肩の力を抜いて、遠慮せずにお前の側にいてくれる者を頼ればいい。この肩の紅椿と対になる白い椿を背負ってくれようっていう何よりの存在がいるんだ。一人で背負いきれねえことにぶち当たった時はためらわず周囲に甘えればいい。てめえ一人で何とかしようと悩んだ挙句に袋小路に入っちまって、かえってがんじがらめになっている――それが今までのお前だ」
 確かにその通りかも知れない。紫月を巻き込む前に、周囲を煩わせる前に――自分一人でどうにか丸く収めようと必死になっていたのは事実だ。
「要はな、もっと気を楽に持っていいってことだ。一人でどうにかしようと気張る必要はねえ。焦る必要もねえ。時には周囲に頼って甘えて、大事なものを大事にしながら今まで通りやっていきゃいいのさ」
 その言葉が終わるか終わらない内に鐘崎の瞳からポタリとひと雫、大粒の涙が彼のズボンへと落ちた。
「遼二。これまでもお前は本当によくやってきてくれた。まだおめえが赤ん坊の時分に俺の勝手で母さんと離縁してからこのかた、こんな俺の側で不平ひとつ言わずに暮らしてくれた。勉学に励み体術の厳しい訓練にもへこたれず、組を継ぐ決心を固めて最高の姐さんまで迎えてくれた。お前はこの世で一番の俺の宝であり、どこに出しても胸を張れる自慢の息子だ。俺は心から感謝しているぞ」
「親父……」
 ポタリと落ちた一粒の雫が五つ六つと滝のように滴り落ちては太腿のズボンの上に無数の染みを作っていく。肩を鳴らして嗚咽する息子の、広い大きな背中ごと愛しむように僚一は両の腕でしっかりと抱き締めたのだった。



◆54
 それからひと月余りが経った頃、鐘崎にとってこの世で一等愛しい紫月が白椿を背負ったという知らせが届き、逸る気持ちで一之宮道場へと迎えに行った。
 紫月の方から組へ帰って来ることもできたのだが、姐さんの帰りを待ち望んでいる組員たちが大騒ぎとなることは目に見えている。やはり何をおいても一番に夫婦で白椿を分かち合いたいとの思いから、密かに鐘崎が迎えに行くことにしたのだった。
 夜半過ぎ、道場の母屋とは別棟にある紫月の自室で、夫婦は互いを見つめ合うように向き合って立った。
 浴衣一枚を羽織った紫月の袷にわずか震える手で触れる。するりと襟を開けば、彼の利き手とは逆の左肩に艶やかな白椿が姿を現した。
「見事だ……。経過はどうだ? 身体はしんどくねえか?」
 感激のあまり上手く言葉にならずも体調を気に掛ける。
「ん、へーき! 彫る時はさすがにちっと辛かったけどさ。でもその痛みがお前と俺の絆を強くしてくれる気がして嬉しかったぜ」
「紫月……。ありがとうな。本当に……こんな時さえ上手い言葉が思いつかねえようなこんな俺だ。これからも今まで以上にケツ叩いてもらわなきゃならねえ気持ちでいっぱいだ……!」
 咲いたばかりの白椿の花を気遣うように、鐘崎は珍しくもおそるおそるといったように大事に大事にその身体を抱き締めた。
「はは! ンな気ィ遣ってくれなくても平気だって」
「だが化膿したりしたらいけねえ。大事にしねえと」
「ん、サンキュな遼。俺の願いを叶えてくれて感謝してる」
 今宵はさすがに激しい情を重ねるのは憚られるところだが、二人の気持ちの上では何よりも熱く固い愛情が溢れてやまなかった。

 この紅白の椿を二人で背負って生きていこう。
 健やかなる時も病める時も、共に手を取り合い決して放さない。
 頼もしさも情けなさもすべてを分かち合って歩いていこう。
 たとえどんな逆風に煽られようと、この紅と白の椿が共にある限り乗り越えていけるだろう。
 二つの椿を別つことができるものは何もない。いつの日か――肉体が滅びようとも魂は永遠にお前と共にあろう。

「まだ湯船には浸かれんか」
「ん、綾さんの話だと夏の間は半身浴かシャワーだけにしとくのが無難だろうって」
「そうか。じゃあ――秋口になったらゆっくり温泉宿にでも行くか。部屋付きの露天風呂があるところがいいな」
「お! いいね! 冰君たちも誘って一緒に行けたらいいな」
「そうだな。あいつらにも散々世話になったことだしな。彫り物が完成した記念に招待するのも悪くねえ」
 きっと喜んでくれるだろうと言って笑う。コツリと額を突き合わせ、そのまま触れ合うだけの口づけを交わす。
「へへ! 野獣のおめえがこんなチュウくれえで足りんのか?」
 悪戯そうに紫月は笑う。
「今は気持ちが満たされているからな。秋になったらまた猛獣に戻るかも知れんが――」
「ホントは今、猛獣になりてえくせに?」
「――そう煽るな。ただでさえお前……」
 触れ合う身体の中心は既に熱くて硬い。
「いいよ。んじゃちびっとだけ猛獣さしてやるべ」
「……ばっかやろ……俺がちびっとで足りると思ってるか?」
「思ってねえ」
「こんにゃろ……」
 言うや否や激しく唇を奪われた。息もできないほどの長く、しつこく、濃いキスだ。
「な、遼。おめえはそうでなきゃ!」
「……何だか……これじゃそれっきゃ脳がねえ――しょうもねえ獣そのものだ」
「いいじゃん! 俺ァそーゆーてめえがいンだから」
「紫月――」
「するべ」
「――いいのか?」
「いいも悪ィも余裕ねえべよ」
 クスっと笑みながら額に軽いデコピンをくれる。その指を掴まれて、掌、手首と逸るようにくちづけられた。
 クイと閉じられた瞳が切ないほどに欲しているというのを代弁している。長い睫毛が頬をくすぐり、どれほど求められているのか、どれほど愛されているのかということを強く強く感じる。だが、身体への負担を気遣うあまり、懸命にその欲を堪えようとしているギリギリの表情が色香を讃えて爆発寸前だ。
「遼……俺、そゆおめえがい……。堪んね……」
「ああ――」
 俺も堪らない――という言葉の代わりに硬く滾った雄が下っ腹に押し付けられる。
 白椿の肩を庇いつつも逞しい腕が腰を引き寄せては、また長い長いくちづけが身も心も奪っていく。
「好きだ。紫月――」
 余裕のない声が首筋を撫で、大きな掌が髪をまさぐるように掻き上げる。
 今日はいつものように我が物顔ではなく、極力丁寧にするから許せよ――と言いながら逸った瞳を細める仕草は正に堪らない。
 誰よりも何よりもこの男が愛しい、そんな想いのままに紫月もまた愛する亭主を抱きしめ返したのだった。



◇    ◇    ◇






◆55
 次の日、鐘崎と紫月の二人は一之宮道場にて父親たちに完成の報告を行った。また、鐘崎組の組員たちへの披露目は次の大安の日に決められた。
「お陰様で紫月の白椿が完成しました。ご尽力賜りました綾乃木さんはじめ、深いご理解をくださった親父たちに心から感謝を申し上げます」
 二人は打診の時と同様に黒紋付き姿で揃って頭を下げた。
「おめでとう、遼二、紫月」
「綾乃木君にもたいへん世話になって、私たちからも感謝を申し上げるよ」
 僚一と飛燕もまた準礼装の着物姿で、綾乃木は彫師の作務衣姿でそれぞれ祝いと感謝を交わし合った。
 一之宮家の客間は純和風の畳敷きの間、いずれも和装の五人が揃うと荘厳な雰囲気である。
 紫月が肩に背負った白椿が披露されたところで僚一と飛燕から祝いの品が贈呈された。
「飛燕と俺からの祝いの気持ちだ。お前たち夫婦のこれからが、より一層幸多きものになるよう祈っている」
 黒塗りの大きな盆の上には平たい和紙の包みが二つ、一目で着物であろうことが分かった。
「開けてみろ」
 驚きと感激で互いの顔を見合わせている息子たちに僚一と飛燕が包みを開けてみろと促す。
「ありがとうございます」
 包みを解くと揃いの紋付き袴が現れて、二人は驚きに目を見張ってしまった。
「お前たちが今身につけている紋付きとは少々趣きを変えてな」
「肩の家紋は鐘崎家のもので変わりはないが、背中の方に俺たち父親の思いを込めたんだ」
 そう言われて背中の紋を確かめると、そこには椿の花が染められていた。しかも二人の刺青と同じ形の花だ。
「遼二のには白椿、紫月のは紅椿だ」
 つまり互いの椿を互いの背中に背負って、生涯共に歩いていけという意味だ。
 なめらかな漆黒の絹地に浮かび上がる紅椿の周りには白い絹地、白椿の周りには赤い絹地で丸くくり抜かれていて、ここでもそれぞれの椿を包み込むのは互いの色が使われている。僚一と飛燕の深くあたたかい思いが充分に込められているものだった。
「親父……ありがとうございます……! お二人のお気持ちに恥じないよう精一杯歩んでいきます!」
「二人で生涯大切にいたします!」
 鐘崎と紫月は感激に打ち震える思いで再び丁寧に頭を下げた。
 ――と、ここで僚一が『入って来てくれ』と声を掛け、後ろを振り返ると、襖の向こうからなんと周と冰が顔を出したのにまたまた驚かされた。
「氷川!」
「冰君も……!」
 周ら二人もシックな和服姿というのにも驚きだ。きっと大切なこの日の為にとそんな出立ちを選んでくれたのだろう友に、胸が熱くなる思いでいた。
「実はな、その紋付き袴はいわば引き出物でいうところの引き菓子のような物なんだ。本当の祝いはこっち――」
 僚一の言葉と共に今度は源次郎が現れて、しかもその手には先程の着物が乗っていた盆よりも更に大きな桐箱が抱えられている。いったい何が入っているのだろうと思うほどに仰々しいくらいの立派な箱だ。つまりこちらがメインの祝いと言いたいのだろうことだけは何となく分かったものの、鐘崎と紫月にとってはサプライズに次ぐサプライズの連続に、互いに顔を見合わせながら瞳をパチパチとさせられてしまうほどだった。



◆56
「実はな、この記念の品には焔と冰も賛同してくれてな」
 源次郎がその大きな桐箱を僚一と飛燕の前へと差し出すと、二人の父親たちが揃って手を携えながら蓋を開けた。
「……! こ……れは」
「す……っげえ……!」
 思わず敬語も吹っ飛んでしまうくらいの勢いで目をまん丸くしてしまった。なんと桐箱の中から出てきたのは対となる二振りの日本刀だったからだ。ほぼ同寸だが、男刀の方が女刀よりもわずかに太くて大きい。雄々しいくらいに見事な夫婦刀であった。
 そして、その握り手となる|目貫《目貫》部分にはそれぞれに紅椿と白椿の紋様が組み込まれていた。それだけでなく、|鐔《つば》にはブラックダイヤとアメジストがはめ込まれている。
「鐔と目貫の部分は焔と冰からの贈り物だ。デザインも二人で考えてくれたのだ」
 鐘崎と紫月は既に言葉にならないくらいで硬直状態だ。まるで武者震のように小刻みに身体を震わせながら瞳を潤ませた。
「氷川、冰……こんな時でさえそれこそ上手く言葉にならねえ……。こんな俺に……本当にすまねえ。有り難くて嬉しくて震えがとまらねえ……」
「俺もだ。俺も遼とおんなし……。本当に何て言っていいか……おめえらの、それから親父たちの気持ち、心底胸に刻んで、恥じねえように遼と一緒に生きてきたいって思う!」
 感激に瞳を潤ませる二人の前に、源次郎がまた別の今度はもう少し小さめの桐箱を差し出した。
「こちらは私から心ばかりですが」
 それは夫婦の盃であった。
「組員たちへのお披露目の際には儀式として盃を交わしていただきますので、その際にでもお使いいただけたらと思いましてな」
 艶やかな塗りで仕立てられたそれにもまた、小さな紅白の椿が彩られていた。結婚の披露目や入籍の際にも盃は交わしたものの、二人が覚悟を背負って入れた対の彫り物の披露目だ。記念になる物をと思って源次郎が気遣ってくれたのだろう。
 また、綾乃木からは先程父親たちから贈られた紋付きの羽織に合わせて立派な組紐でできた羽織紐が贈られた。彼の実家は京都だから、それこそ昔からの馴染みの老舗店でオーダーしてくれたものだそうだ。
「親父さん方が羽織をお贈りになられるとうかがったので」
 形は揃いだが、鐘崎用のは黒に近い濃いめの蘇芳色、紫月にはそれより少々明るめの藤紫色だった。紋付き袴が深い墨色だから、差し色としてとても品良く似合っている。何より紫月の名前に象徴される紫を基調としていて、綾乃木の二人を祝う気持ちが充分に感じられる贈り物だった。
「源さん、それに綾乃木さんには彫り物を担当していただいた上にこのような有難いお心遣いまで……。本当に何と申し上げたらよいか……ありがとうございます」
 皆のあたたかい気持ちを胸に、より一層精進いたして参る所存ですと言って、二人は気持ちを新たにしたのだった。



◇    ◇    ◇






◆57
 それから一週間後の大安吉日、組員たちへの披露目の日がやってきた。周と冰、それに綾乃木や庭師の泰造と小川もその席に呼ばれて、鐘崎組では朝から荘厳な雰囲気に包まれていた。ここ一週間ほどはどんよりとした梅雨空続きであったものの、朝から雲一つないこの時期には珍しい晴天となり、天候までもが二人を祝ってくれているようだと言って、組員たちの間では興奮に湧いていた。
 午前十時、幹部から末端の組員たちまで全員が和服姿で大広間に整列した。まるで襲名披露のような雰囲気の中、鐘崎と紫月が迎えられ、二人の肩に咲いた対の椿が披露される。
 まずは鐘崎からだ。
 若頭のそれは皆よくよく周知だが、普段は滅多に目にする機会もない。新参の組員たちの中には初めて目の当たりにする者もいたようだ。
 先日父親たちから贈られた真新しい紋付き袴姿は実に荘厳だ。その深い墨色の紋付きの袷を開いて片方の腕を出し、紅椿の入った方の肩を披露するように半身があらわになると、大広間からどよめきが湧き起こった。
 続いて紫月もまた羽織と着物の袷を開いて半身の肩をさらすと、そこには咲いたばかりの白椿が姿を現した。
「おおお……!」
 一層大きなどよめきの後に、組員を代表して幹部の清水が鐘崎らの前へ出て祝辞を述べた。
「若、姐さん、おめでとうございます! 我々鐘崎組組員一同、心よりお祝いとお慶びを申し上げます!」
 祝辞が済むと次には|固《かため》の盃の儀式が行われた。先日源次郎から贈られた夫婦盃が三宝に乗せられて二人の前に置かれる。御神酒を注ぐ役目は源次郎が行った。
 夫婦が互いに杯を飲み干すと同時に大広間には割れんばかりの拍手が巻き起こった。組員たちに次いで後ろの方の位置でその様子を目にしていた庭師の小川も、感激にその身をブルブルと震わせながら胸前で両手を合わせていた。
「親方、すっげえっスね……。何ちゅーか、それこそ映画の世界みてえだ」
「ああ、そうだな。実にめでたいことだ」
 誰もが若頭と姐さんの、より一層の発展と幸せを願ってやまなかった。

 盃の儀式が済むと、いよいよ祝いの宴の始まりだ。まずは向夏にふさわしい鮎を模った和菓子と清流に見立てた淡い水色の氷砂糖でできた添え菓子が全員に振る舞われ、それに合わせて薄茶が点てられた。
 点前を担当したのは組員の徳永竜胆だ。彼の実家は高名な茶道の家元なので、全員の前で直に点前をしたのだが、さすがにその所作は見事であった。徳永もまた、このような大役を仰せつかったことに、緊張ながらも誇らしい気持ちでいっぱいだったようだ。
 そんな彼のサポート役として、普段は指導に当たっている兄貴分の春日野菫が、今日はいろいろと手助けの役目を買ってくれている。徳永にとってはそれ自体にも感激で昇天するほどだったようだ。
 そうして茶の湯が済むと、祝膳の前に今度は周と冰から祝辞と共に余興が贈られた。
 皆の整列する大広間中央に真っ赤な毛氈が用意され、一旦中座して着替えた冰が粋な着物姿で現れると、組員たちからは感嘆のどよめきが上がった。なんと、冰が賭場師として壺振りを披露してくれるというのだ。



◆58
 今回周は中盆役を|演《や》ってくれるようで、彼もまた儀式参列時の正装姿から粋な流しの着物姿へと変身を遂げていた。
 賭ける役はもちろんのこと主役の二人、鐘崎と紫月である。まあこれは祝いの余興であるから、勝ち負けを争うものではないわけだが、それでも組員たちにとっては本格的な賭場の雰囲気に誰もが浮き足だって行方を見つめている。

「どなたさんもよろしゅうござんすか? では――入ります」

 普段よりも一段低い声色を使った冰の掛け声と壺を振る仕草は本当に粋で、思わず背筋に鳥肌が走るような緊張感に包まれる。普段はノホホンとした優しい雰囲気の彼だが、一度壺を手にすれば、切った張ったの世界観をその背に背負っているような見事さを醸し出してしまう。これが本当にあの冰さんか? というほどに、鐘崎組の組員たちは目を丸くしてしまった。
「さあ若さん、姐さん、張っておくんなせえ!」
 中盆役の周がスッと掌で壺を指す粋な仕草で夫婦を誘う。
「そんじゃ、俺ァ六ゾロの丁だ」
 紫月が先に賭けると、続いて鐘崎が満足そうに不敵な笑みを見せた。
「二ゾロの丁!」
 それを聞いて、壺振りの冰はむろんのこと、誰もがとびきり幸せそうに瞳を細めてしまった。六ゾロは六月六日、鐘崎の誕生日だ。二ゾロは二月二日で紫月の生まれた日。
 夫婦で互いの誕生日に賭けた若頭と姐さんに、勝負云々はどうでもよく、幸せな気持ちにさせられる。
 気になるその行方は、
「六ゾロの丁」
 まず最初に勝ちを手にしたのは紫月だった。大広間全体が割れんばかりの大歓声に湧く。
「さっすが姐さん!」
「若、頑張ってくだせえ!」
 方々から声援が飛び交い、二度目の勝負が繰り広げられる。
 次も夫婦揃って先程と同じ目に賭けたものの、今度は二ゾロが出て鐘崎の勝ちとなった。
「では締めの勝負と参りましょう」
 すると今度は鐘崎も紫月も同時に声を揃えて同じ目を告げ合った。

「|二六《ニロク》の丁!」

 互いに互いの誕生日の目で一勝一敗、締めの勝負は二人の誕生日を合わせた目を選ぶところにまたもや場が湧き立つ。あとはめでたいその目が出せるかが冰の腕の見せ所だ。
 皆の視線は一点、壺に集まる。
 ゆっくりとした所作で開けられた壺の中の目は、
「|二六《ニロク》の丁! 若頭、姐様、おめでとうござんす!」
 中盆の美声と共に再び場内が大歓声に湧いたのだった。
「いやぁ、さすがは冰君だ!」
「本当にな。こんなに嬉しい祝辞はねえ」
 紫月も鐘崎も感激で頬を紅潮させたが、初めて冰の腕前を目の当たりにした組員たちは大興奮だ。すげえすげえの大合唱で、しばらくの間は歓声が止むことはなかった。
「話には聞いておりやしたが、正に神業でござんすね!」
「さすが周ファミリーの姐様でいらっしゃる――!」
 もうこのまま自分たちにも一勝負参加させて欲しいといった顔つきで、しばし興奮が止むことはなかった。
「よし、それじゃ遼二と紫月からもお返しをせんとな」
 皆の興奮を宥めるように長の僚一が立ち上がる。座敷の障子が開かれると、中庭には二本の藁束が姿を現した。そこへ源次郎が先日贈られた記念の夫婦刀を持ってやって来た。
「若頭、姐さん、どうぞお取りください」
 鐘崎が男刀を、紫月が女刀を受け取り、二人揃って中庭へと降り立った。居合斬りの披露である。
 二人共に着物の袷から片方の腕を出して、披露目したばかりの刺青姿で刀を構える。
「両者共に礼! よし、始め!」
 紫月の父親である飛燕からの合図を受けて、二人は同時に腰に携えた鞘へと手を掛けた。と、次の瞬間、藁束が一瞬で斬って落とされる。その間わずか秒である。気付いた時には両者共に刀は鞘へと収められていた。
 大広間で見ていた者たちは息を呑んだように静まり返り、そのまましばらくは唖然としたように静寂の時が続いた。皆の耳に音が戻ってきたのは鐘崎と紫月が互いの斬った藁束を拾い上げた時だった。



◆59
「よし、遼二と紫月。その二つをこちらへ」
 今度は僚一がそう言って、二人はそれぞれの藁束を手に大広間脇の縁側へと戻って来た。
 僚一はそれらを受け取ると、二つの斬り口を重ね合わせた。
「ふむ、大したものだな。見ろ、寸分違わず重なり合ったぞ」
 皆にも見えるように高々とそれが掲げられると、なるほど双方斜めの斬り口がピタリと合って、まるでどこが斬り口なのかが分からないほどだった。
「ふあぁ……す、すっげえ……」
「さ、さすがは若と姐さんです……。まさに神業っスね」
 組員たちから感嘆の溜め息が上がる中、当の夫婦もまたホッと安堵の溜め息を漏らした。
「うっは! やったな、遼!」
「ああ、稽古の甲斐があったな」
 実はこの日の披露目の為に、二人はここ数日道場の飛燕の下に通い、みっちりと居合斬りの稽古をつけてもらっていたのだ。互いの斬り口をピタリと合わせるという非常に難しい技への挑戦だったが、稽古の甲斐あって見事成功させることが叶った。これも二人の努力の賜だろうが、とにかくは組員たちにも喜んでもらえたことだし、二人にとっても幸先の佳いものとなり、慶びを噛み締め合ったのだった。
「これは我が組の家宝として事務所に飾っておこうと思う」
 父・僚一の言葉にも感謝でいっぱいになった二人であった。
 と、ここで庭師の泰造と小川が中庭へと降り立ち、何やら大きな布の被せられた代物を台車に乗せて運んできた。真っ白な布の上には紅白を合わせてよじった蝶結びの紐飾りが掛けられている。
「若頭さん、姐さん、実は鐘崎組組員の皆様から仰せつかったお祝いの品がございます。ここでお披露目させてくださいやし」
 包みが開かれると、出てきたのは椿の木であった。それも大小揃った二本だ。
「皆様から若頭と姐さんにとお祝いの樹木でございます。今はまだ花の時期ではございませんが、次の春先には見事な花をつけるでしょう。こちらの大きい方が白椿、今現在このお庭にございます紅椿のお隣に植樹させていただきたく存じます」
 鐘崎と紫月にとっては大感激を通り越して感動の贈り物だ。紅白揃った|夫婦《めおと》の椿になるようにと組員たちが心を込めて考えてくれたのだろうその思いが、何よりも嬉しくて堪らなかった。
 ところが、更に驚かされたのは泰造が続けた言葉の方であった。
「もう一つ、小さい方は桃色の花をつける椿です。こちらについては是非とも組員の皆さんからお話をうかがってください」
 それを受けて幹部の清水が代表で説明をすることとなった。
「若、姐さん、この紅椿と白椿は若と姐さんを象徴されるものですが、小さな桃色の椿はお二人と共にありたいと願う我々組員の証としてお側に置いていただけたらと思います」
 その言葉に鐘崎と紫月はもちろんのこと、二人の父親たちも驚いたように瞳を見開かされてしまった。



◆60
「我々は心から若と姐さんを尊敬し、お慕い申し上げております。生涯あなた方の下でお仕えし、ついて参りたいと存じます。未熟者の集まりではございますが、どうかこんな我々をお二人の子と思い、末永くお導きいただけたら幸甚でございます」
 清水の挨拶と同時に組員全員が揃って頭を下げた。
「清水……皆んな……」
 鐘崎の声は感激にくぐもり、その瞳には既に堪え切れなくなった涙があふれ出していた。紫月もまた同様だ。
 おそらくは後継ぎがどうの、孫の顔がどうのという何かにつけて世間から言われるであろうそれを吹き飛ばすかのように、自分たちが若頭夫婦の子供でありたいと、そんな思いを込めてくれたのだろう。あまりの嬉しさに鐘崎は図らずもその場で号泣してしまった。
「す……まねえ、皆んな……。こ……んな、嬉しい日にみっともねえところを見せちまって……極道としても立つ背がねえが、あんまりにも嬉し過ぎて……おめえらの気持ちが有り難くて、涙がとまらねえ」
 本当にありがとうと言っては目も鼻も真っ赤にしては男泣きする鐘崎に、組員たちもつられるように涙したのだった。
「皆んな、本当にありがとうな! 泰造親方と駈飛ちゃんもありがとう! それから親父たちに綾さん、氷川と冰君も本当にありがとう! 俺もこの白椿を授かったことだし、改めて皆んなと共にこの組を繁栄させていきたいと思ってる。俺も遼も未熟で足りねえところも多いが、これからも末永くよろしくな!」
 涙で言葉にならない亭主に代わって紫月が力強く微笑んだ。
「こちらこそ! これからもますますよろしくお願いいたしやす!」
「若頭、万歳ー!」
「姐さん、万歳ー!」
 皆が万歳に湧く中、
「よーし、それじゃ祝膳といくか! 皆、今日は無礼講だ。楽しんでくれ!」
 長の僚一の言葉で皆はそれぞれの席に着いて祝膳が運ばれてくるのを待つ。
「皆、ありがとう。乾杯の発声はここに集まってくれた全員にお願いしたい」
 真心でいっぱいの若頭からの要望で、乾杯の発声は全員ですることとなった。
「若と姐さん、鐘崎組とお集まりの皆様のご健勝ご発展を祈念して――乾杯!」
 野太く雄々しい声が大広間にこだまする。これからますます強く、熱くなる初夏の陽射しの如く歓喜あふれる幸せの宴はいつまでもいつまでも陽気な笑い声であふれてやまなかった。

 この至福の日を記念して、鐘崎と紫月の二人から皆に贈られた引出物は紅白椿の描かれた塗りの薬入れだった。いわゆる――かの有名な印籠である。房の組紐は黒に近い濃い蘇芳色と鮮やかな藤紫色が組み込まれており、二人の感謝の気持ちが込められた何よりの記念の品だった。組員たちはもちろんのこと、周や冰、綾乃木、それに庭師の泰造と小川にも贈られて、皆はまたひとしおの感激に浸ったのだった。


 紅椿白椿、互いの肩の上で生涯枯れぬ大輪の花と共にこの生を全うせん。
 手と手を取り合って、いつまでも|永久《とわ》に――。

紅椿白椿 - FIN -



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