極道恋事情
◆1
お前に手を出された日には、俺は修羅にも夜叉にも平気でなるぞ――若かりし青春の日に男が云った言葉だ。
彼は唯一人の相手を心の底から愛していた。
その相手の幸せが自分の幸せだと、口癖のようにそう言っていた。万が一にも想い人に危険が及ぶことがあったなら、自分の命に代えても構わない――本気でそう思っていた。
極道として生きていくことを決めた時、人前では決して弱みを見せまいと心に誓った。
幸せの涙を晒すことがあったとしても、苦渋の涙は決して見せるまい。例えそれがどんなに心を抉るような悲しみであったにせよ、慟哭を胸の中に押し殺し、平静を装わねばならない。
それがくだらない意地だと言われても、男が一度決めたこと――貫き通していかねばならない。
暖かい春を迎える前には厳しき越冬が待っている。
雄々しい太陽が燦々と輝く真夏の直前には、梅雨明けを告げる雷鳴がやってくる。
そんな季節の儀式の如く、凍てつく氷が大地を覆い、分厚い雲が連れてくる|雷《いかづち》が愛する者らの頭上に立ち込めようとしていた。
冬来りなば、慟哭を呑み込んで――
◆2
それはとある真夏の午後のことだった。
鐘崎組の事務所に入った一本の電話――組員が取った受話器の向こうからは生真面目そうな女性の声がこう告げた。
『もしもし、私この夏から自治会で役員をすることになった田島と申します。最近引っ越して来たばかりの者で、突然のお電話失礼いたします。実は夏祭りのお手伝いの件で教えていただきたいことがありまして、自治会長さんからこちらの鐘崎様に連絡するよう言われました。担当の方がいらっしゃいましたらかわっていただけますでしょうか』
電話を受けた組員は、何の疑いもなくすぐに内線で紫月へと繋いだ。自治会に関する事柄は組姐の紫月が請け負ってくれていたからだ。
「姐さん、自治会の方から夏祭りのことでお電話です」
紫月もまた、疑うわけもなく明るい声でその通話を受け取った。
「お電話かわりました。お世話になっております、鐘崎です!」
ところが――だ。
受話器を耳にしたものの、次第に明るかった笑顔が表情を失くしていった。
◆3
『一之宮紫月さん?』
「――え?」
聞こえてきたのは何とも感じの悪いふてくされたような声音だ。変声器とまではいかないが、くぐもった感じからすると布か何かで口を押さえて地の声をごまかしているといった印象だった。性別は女性と思われるが、声の高い男かも知れない。しかもわざわざ一之宮という旧姓で呼び掛けてくる。自治会の相談などではない――紫月は咄嗟にそう理解した。
「どなたかな? どういったご用でしょう?」
旧姓を知っているということは、ある程度こちらの素性を把握している者に違いない。だがしかし、それがどこの誰かまでは思い付かないままで紫月は緊張を抱き締めた。
『あなたのご主人を預かってるの。彼の命が惜しければ、今から言う所に一人で来てちょうだい』
「――――!?」
拉致――か。
そう判断する。
鐘崎は朝から依頼の仕事で幹部の清水を従えて出掛けている。父の僚一も海外ではなかったが、一週間ほど前から依頼の仕事で大阪へ行ったきりだ。
『いい? よく聞いてちょうだい! あなた以外の他の誰かにこのことを話せば、ご主人の命は保証しない。組の人だろうが誰だろうが、ひと言でも他言したら即お陀仏よ。彼を助けたければあなた一人で来ることね』
話ぶりからするとやはり女の可能性が高いか――声の主はもう二つ三つ条件らしきを付け加えてよこした。
それは、鐘崎自身の携帯電話などに確認を入れないこと。
組員の誰にも怪しまれずに家を出てくること。
絶対に他言しないこと――であった。
つまり、これが偽の脅迫なのか、実際に鐘崎が拉致に遭っているのかなどを確かめてはならないということだった。
『あなたも一応極道の端くれでしょうから、まさか警察になんか通報しないとは思うけどね。あなた以外の誰かが少しでも動いたり、おかしな素振りをすれば彼の命はないわ』
相手は証拠を見せると言って、メールアドレスを訊いてきた。
組で公に使っているアドレスを告げると、すぐに一枚の画像が届く。開くとそこには鐘崎の姿ではなく、爆弾の機器のようなものが写し出されていた。
『それ、何か分かる?』
「……爆弾――か」
『そう。あなたが少しでも妙な行動をすれば、それが爆発して彼は死ぬわよ』
解ったらすぐに言う通りにしなさいと言って通話は切られた。
指定された場所は港にある倉庫街のひとつだ。
「――は、参ったね。どこまでホントか知れねえが、単なる脅しってわけでもなさそうか……」
あなたが少しでも妙な行動をすれば彼が爆弾で吹っ飛ぶ――ということは、どこからかこの邸が見張られている可能性が高い。敵の正体も定かではない。
源次郎は邸に居るし、相談することも可能だが、万が一にも盗聴などされていないとも限らない。この邸内では常に盗聴器や監視カメラのような代物が仕掛けられていないかの探査を怠っておらず、そういった警備の点では万全を期しているつもりだ。それでも万が一ということも視野に入れなければならない。
おそらくこれは罠だ――頭の中では分かっていた。
だが、行くしかない。
紫月は組事務所の若い衆らに自治会へ出掛けてくると明るく言い残して、指定された倉庫街へと向かったのだった。
◆4
一方、そんなことは知る由もない鐘崎組では、留守番の組員たちが平和な午後を過ごしていた。
事務所には常に三人ほどの組員が常駐している。むろん各々の仕事によって出入りはあるので、いつも決まった面子というわけではないが、日によって今日は事務所待機係とか外回り係とかに分けられてはいるものの、必ず三人以上はいつ何時何があっても動けるように詰めながら留守番を兼ねているのである。
と、そこへ表門に常設されている門番の警備室から外回りに出ていた組員が二人帰って来たとの連絡が入る。少しすると組員の春日野菫が舎弟の徳永竜胆を伴って帰って来た。
「ただいま戻りました!」
徳永がビシっと敬礼と共に元気のいい挨拶をしてよこす。彼は現在、組員の中では一番の若手なので、礼儀の点でも非常に丁寧な態度なのだ。そのすぐ後ろから春日野も顔を見せた。
「どうも、お疲れーっス!」
留守番の連中が明るい声で出迎える。春日野は組に入ってからの年数だけでいえばまだ浅いものの、前にいた道内組では幹部だったほどの男で、しかも実家は代々任侠の組を構えている名門の出だ。性質も実力も誰もが認める文句なしの精鋭といった彼は、組員たちからも一目置かれているのだった。
「お疲れです。いやぁ、外は暑い暑い! もうすっかり夏日だな」
化粧室の洗面台へと向かって手を洗いながら春日野が笑顔を見せている。すると、留守番組の一人が不思議そうに首を傾げてよこした。
「あれえ、春日野さん? ずいぶん早かったスね。今さっき出てったばっかりなのに……もう用事済んだんスか?」
「え――?」
どういう意味だと春日野の方が不思議顔でいる。
「姐さんと一緒に自治会館じゃなかったんスか?」
春日野といえば普段は姐さん――つまり紫月の側付きだ。自治会などに出掛ける際にも必ずついて行くのが通常である。
「……今日は自治会の用事はなかったはずだが――」
「……そうなんスか? けど、ついさっき姐さんに電話が架かってきて、夏祭りのことがどうとかで出掛けて行かれたスけど……」
それを聞いて春日野は驚いた。
「いや、今日は姐さんも外出の予定はないとのことだったんで、今朝から源次郎兄さんの使いでこいつを連れて依頼料の受け取りに行っていたんだ。姐さんがお出掛けになることは聞いていないが――」
「……はあ、そうスか。だったら姐さんお一人で行かれたのかな」
春日野の姿が見当たらなかったので、自治会館なら近場だしと思い一人で行ったのかも知れない。
「じゃあちょっと行ってくる」
帰って来たばかりではあるが、春日野はすぐに自治会館へと向かった。
ところが――だ。ものの十分もしない内に蒼い顔でとんぼ帰りして来たのに、誰もが驚かされることとなった。
「自治会館に行ってみたが、姐さんはいらしていないそうだ」
「……どういうことスか?」
「ちょうど防犯の川久保さんたちがパトロールに出掛けるところだったんだが、今日はそれ以外誰も会館を使っていないとのことだった」
「ちょっ……待ってくださいよ。それじゃ姐さんは何処へ行っちまったってんです?」
紫月が組員に嘘をついて出掛けるなど、これまでにはなかったことだ。仮に私用だとしても、調べればすぐにバレるような見え見えの嘘をつく理由が分からない。
「……何かあったのかも知れない」
春日野の厳しい表情に平和な午後が一瞬で暗転した。
◆5
その後すぐに源次郎へと報告が上げられ、急ぎ事実確認がなされることとなった。
組員たちは慌てふためきながらも懸命に事の次第を報告する。
「姐さん宛てに自治会の人から電話があって取り継ぎました。その後、十分くらいして姐さんがお出掛けになられたのを見送ったっス」
出ていく際に何か変わった様子はなかったかと尋ねるも、紫月は普段と変わらない感じで笑顔も見せていたという。
「それは何時頃のことだ」
源次郎が訊くと、組員はすぐに電話機のメモリーを確認して、『二時半です』と答えた。
「相手は若い女の声で、確か新しく役員になった人だとか」
組員は、『録音が残ってます』と言ってすぐさま皆の前で再生してみせた。
鐘崎組では事務所に架かってきた通話はすべて録音するシステムが敷かれている。
「女は田島――とな。最近この町内に転入して来た住人だろうか」
源次郎は次に紫月が内線を受け取った組最奥の事務所の方へと急いだ。通常、鐘崎と紫月が使っている部屋の方だ。
すると、受話器が外しっ放しにされており、そこでも通話内容が録音で残っていることが確認された。
「姐さんがわざと外したままで出掛けられたのだろうか……」
だとすれば緊急事態といえる。
録音を再生すれば、予想が決定的となった。
あなたのご主人を預かっている。
他言すれば爆弾によって即刻ご主人が命を落とす。
誰にも知られずに港の倉庫街へ来い――とあった。
紫月にとっても危険は承知の上だろうが、少しでも妙な行動が見られたら命はないというくだりから、源次郎にさえも言わずに出て行ったのだと思われる。おそらく盗聴や監視などを考慮してのことだろう。
源次郎はすぐさま専用の機器でおかしな物が仕掛けられていないかを調べてみたが、そういった類のものは見当たらなかった。確認後、自分の携帯から鐘崎へと連絡を試みる――。
「もしもし、源さんか。どうした?」
スマートフォンの向こうでは焦った様子の見られない穏やかな応答――つまり紫月に架かってきた電話は彼を誘き出す為の罠だということが明らかだ。一瞬で蜂の巣を突いたような緊張感に包まれた。
鐘崎に事情を説明しながら、源次郎は紫月の現在地を探索にかけた。スマートフォンの位置情報と共に彼の着けているピアスのGPSである。
「――これは……」
ピアスは外だがスマートフォンはこの事務所の中を示している。周囲を探すと半開きになったデスクの引き出しに置きっ放しにされていた紫月のスマートフォンが見つかった。――とすれば、これも彼がわざと置いて出た可能性が高い。
◆6
半開きの引き出しはスマートフォンを見つけ易くする為だろうか。今しがたの犯人との通話には妙な動きをするなという指示がなされていた。当然源次郎他、組員たちにも事情を伝えられないと踏んだ紫月が、異変を知らせる手掛かりとして置いて行ったのかも知れない。
あるいは――彼のスマートフォンには鐘崎や周をはじめとする貴重な連絡先が入っている。万が一敵に取り上げられた時のことを考えて、それらを流出させない為に持って出なかったということか――。
「若! 姐さんのピアスが港の倉庫街を示しました! ですがスマフォは事務所に置いて行かれています。今、私の手元にあります」
『スマフォを置いて行っただと! 何故――』
このことから鐘崎もまた、紫月の異変と配慮を感じ取った様子だ。
『俺は港へ向かう! 念の為、そのスマフォに何か手掛かりが残されていないか調べてくれ!』
「分かりました! 私もすぐに追います!」
とにかくピアスだけでも繋がったことにホッとするも、紫月の安否が気に掛かる。スマートフォンの向こうでは鐘崎が焦燥感に打ち震えていた。
『組員を二手に分けて、源さんはすぐに現地へ向かってくれ! その間、組が空になるのはまずい。犯人から何らかの連絡が入るかも知れんし、留守をついて組自体が狙われるという可能性もある。留守番にある程度の人数を割いてすぐに現地へ向かってくれ! 俺は氷川に応援を要請する!』
「承知しました!」
『それから武装も忘れるな!』
「万全にして参ります!」
通話を終えると、源次郎は幹部補佐の橘を筆頭に組の留守番を預け、門を厳重に閉じた上で警備室には自分たちが戻るまで誰も邸へ入れるなと言伝る。武装を万全にし、春日野と残りの組員を連れて港へと向かうことにした。
「姐さんは組を出る時に徒歩で行かれている。自治会館までは歩いてすぐだから、我々に疑わせない為にそうされたのだろう。とすればどこかで車を拾ったはずだ。若い者らに言って、手分けして近隣のタクシー会社を当たらせてくれ!」
その橘には一之宮道場にも連絡してくれるように言い、紫月の父親にも事情を伝えるよう指示するのも忘れなかった。
一方の鐘崎は何を置いても紫月の位置情報が示す港の倉庫街を目指しながら、周焔へと応援を要請した。
父の僚一は大阪だ。敵の目星をつけるにしても組員だけでは人手が足りない。こんな時は互いの背中を預けられる周がいてくれることが何よりの支えであった。
◆7
源次郎たちが出て行った後、組では留守を預かった幹部補佐の橘が紫月を誘き出した電話の相手について割り出しを急いでいた。
最初に組事務所の代表番号に架かってきた際には変声器などを通していない素の声だった。それをこれまで組を訪れたすべての人間の声と比較し、探索にかけるのだ。
鐘崎組では依頼人から親しい人物に至るまで、表門と第一応接室での会話はすべて録音されてデータベースに取り込まれるようになっている。依頼人の中には正体の知れない一見も少なくない。万が一の為に密かに声紋を収集するのである。
紫月を誘き出した敵の手掛かりが薄い今の状況では、出来得ることは片っ端から当たっていくしかない。焦る気持ちを何とか抑えつつもデータベースを探っていると、これ幸いか、一人の声紋が九割を超える確率で一致を示した。
「こいつぁ……!」
何と声紋は辰冨鞠愛のものと思われたのだ。
鞠愛というのは鐘崎が幼い頃に川で溺れ掛かっていたところを助けてくれた外交官・辰冨大使の一人娘である。つい最近、二十年ぶりの長期休暇で日本に帰って来たとかで、ここ鐘崎組にも親娘揃って顔を出していた。その際、鐘崎に対する強い恋情を見せていて、彼が既婚だと言っても諦めなかったほどの女だ。この邸にも何度も訪れては、組員たちから愚痴が出回るほどにしつこかったのは記憶に新しい。
「あの女……やはりまだ若を諦めてなかったってのか……」
かくいう橘自身も、鐘崎の補佐として辰冨鞠愛の警護依頼に加わったことがある。鐘崎が男性の伴侶と一緒になっていることを知った父の辰冨が、何とかして娘に興味を持ってもらおうと彼女の買い物に正式な警護として同行して欲しいと依頼してきたのだ。その時もデートさながら鐘崎にベタベタとしてきて困り果てたものだ。
その後も鐘崎との縁組を執拗に迫られ、組長の僚一が説得に出ていって初めて納得させることができたわけだ。もっとも、彼女自身は納得というよりも追い返された――くらいに思っているかも知れないが、とにかくどうにも手の焼けるといおうか、命の恩人というのを盾にされ、いわばタチの悪い相手だったと言って過言ではないだろう。
「外交官の父親と一緒に赴任地のアメリカへ帰ったんじゃなかったのか……」
犯人がその辰冨鞠愛だとすれば、鐘崎への恋情が叶わなかったことによる逆恨みの可能性が高い。紫月に向かって開口一番『一之宮』と呼び掛けていることからも、可能性は更に濃くなってくる。
「……クソッ! こいつぁ思ってる以上にやべえ案件だぞ……」
橘が焦る中、タクシー会社を当たらせていた若い衆からもめぼしい情報が上がってきた。
『橘さん! 姐さんを乗せたタクシーが見つかりました! 運転手に話を聞いたところ、やはり港の倉庫街で降ろしたとのことです!』
場所も紫月のピアスが示しているのと一致したとのことだった。
橘はすぐに源次郎へと報告を入れた。
◆8
一方、汐留では周焔が李以下側近を伴って鐘崎と合流すべく港の倉庫街を目指していた。体制は仰々しいくらいに万全を敷いて出掛ける。
まずは周と李らはいつものセダンではなく通信機器などを積み込んだ専用のワゴン車――他所からの傍受などにも完璧な対策が敷かれている強固なキャンピングカーのような代物だ。その他に、怪我人が出た際を考慮して最新設備を積み込んだ医療車は必須。万が一の際には車両の中で手術も行えるようになっている。それには医師の鄧浩を筆頭に、医療室に詰めている助手の医師らも数人同行させる。
別口では乱闘を踏まえて、もしもの時に盾にできる頑丈なトラックに、逃走劇になった場合に性能の点で有利なスピード重視のスポーツカー、万が一の銃撃戦に備えてあらゆる武器と通信機材などが積み込まれた専用車なども出動させる。
冰には汐留に残るよう伝えたが、とてもじゃないがじっとしていられないと言って、彼も半ば強引について来たのだった。
時刻は夕方の四時半に差し掛かったところだった。今は夏場で陽が最も長い時期だ。高速道路を西へ急ぐ車中から望む景色は、焦燥感とは裏腹に、昼間のどんよりとした曇り空から一転、雲間から夕陽が差し込んで眩いばかりだった。
その車中で橘から共有された情報がキャッチされる。李があらゆる通信機器を屈指しながらすぐさま辰冨鞠愛の足取りについて調査に取り掛かった。
「辰冨鞠愛というと、カネを追い掛け回してたっていう例の女か――。まだ諦め切れていなかったということか。カネではなく一之宮に直接連絡をしてきたということは目的は恋情が叶わなかったことによる逆恨みの報復と考えるのが妥当だろう。港の倉庫街といい、女が単独で思い付ける場所じゃねえな。おそらく場慣れした男連中を連れていると見て間違いねえ」
彼女がいつ日本に入国し、誰と行動を共にしているのかなどの足取りを調べていく。
「外交官の娘ということだが、父親が一緒でない限りプライベートジェットではないか――。入国は一般路線の可能性が高いだろうな」
「|老板《ラァオバン》のおっしゃる通りですね。念の為、本日から遡って一般路線、プライベートジェット共にしらみ潰しに当たります!」
李があらゆる方面から出来得る限りの情報を拾っていく。こうした調査にかけては、周の下では彼の右に出る者はいないというくらいのスペシャリストだ。しかも危険が迫っているのは鐘崎の伴侶である紫月となれば、李もまた全力を振り絞って情報収集に当たるのだった。
「目的地に着いたら全員倉庫を取り囲むように散らばって配置につけ。各自サイレンサーを付けて銃を携帯、防弾ベストも忘れるな! 鄧は医療車で待機だ。それから冰、お前も鄧たちと共に車へ残れ」
現段階で冰にできることは少ない。
「分かった! 白龍たちも気をつけて!」
心配ながらも素直にうなずく冰だった。
◆9
同じ頃、港の入り口付近ではちょうど鐘崎の乗る車と源次郎らが合流したところだった。
「若! 姐さんのGPSは未だ倉庫街から動いておりません!」
「とすると、紫月は辰冨の娘と共にそこにいる可能性が高いな。氷川も言っていたが、女一人で思い付ける山じゃねえ」
「今、李さんが辰冨鞠愛と共に入国した者がいないかなどを当たってくれています。仮に誰かを雇ったとして、大使の娘が自由にできるといったらどのような連中でしょうか……」
「俺もそれを考えていた。おそらくだが――今回、親父の辰冨は無関係の可能性が高いと見ている。ただし娘への溺愛っぷりからすればゼロとは言い切れん。だからといって大使の立場を棒に振るとも思えんが、娘が単独で人を雇ったとするなら、いつも辰冨についているSPの中の誰かという線もあるだろう。あの女一人のスキルで思いつくとすれば、手近で安全な相手を選びそうに思えるが――」
以前にも三崎財閥の娘が鐘崎の気を引かんと狂言誘拐を企てた事があったが、その時も監禁場所には普段から使い慣れた安全なホテルのスイートルームを選んでいた。鞠愛もまた、境遇としては財閥令嬢と似たり寄ったりの裕福な箱入り育ちだ。何か事を起こすにしても自分がまるで知らないテリトリーに手を出すとは考えにくい。つまり、インターネット上などで見ず知らずの実行部隊を募るなどといった冒険は冒さないだろうと思えるのだ。
「そうですね……。ただ、こんな倉庫街に潜ることからしても相当場慣れしている連中かと――」
可能性が高いのは父親のSPや側近などの中から金で動きそうな者を抱え込んで、その者に実行部隊を手配させたとも考えられる。二十代の箱入り娘が一人でこれだけのことをやってのけられるとは思えないからだ。
「仮にSPが絡んでいるなら銃を所持している可能性が高い――」
「武力的には我々の方が優勢でしょう。強行突破も可能と思われます。敵の状況として、人数的には多くても十人いるかいないか――あるいはもっと少ない二、三人というのが現実的なところかと。ひとつ危惧があるとすれば姐さんへの電話で女が口にしていた爆弾という節です。単なる脅しかも知れませんが、メールに添付されていた画像は確かに爆弾でした。実際にそれを所持しているとすれば慎重にいかねばなりません」
応援が来たことを敵に勘付かれたと同時に爆弾を使われないとも限らない。今現在、例えば紫月が拘束されていて、身体に爆発物が巻かれたりしているかも知れないのだ。即、踏み込みたいのは山々だが、その前に倉庫内の様子を把握する必要がある。
そんな話をしていると、周が側近たちを従えてやって来た。
「氷川! すまねえ。世話をかける」
「構わん。それより事の詳細が見えてきたぞ。李が報告する」
周に代わってそこからは李が手短かに経過を報告してよこした。
「辰冨鞠愛ですが、三日前に入国して以降、ここから程近いベイサイドのホテルに滞在しています。同行者は大河内莧、辰冨大使付きのボディガードです。二人は同じ飛行機で入国、ホテルも隣の部屋を取っています」
「やはりか――」
辰冨のSPという予想は当たっていたことになる。
◆10
「それから気になる入国者が少々――。この二人とは別の飛行機でしたが、傭兵経験がある外国人の名前が数名、やはり辰冨鞠愛・大河内らと同じ日に入国しています。国籍、入国路線共にバラバラですが、調べたところ現役時代は同じ部隊、もしくは同期入隊として顔見知りだったろう者たちが見つかっています。滞在先も大河内らと隣接したホテルに泊まっているようです」
李の報告が済むと、今度は周が続けた。
「おそらくだが、今回のことを遂行するにあたって大河内ってヤツが掻き集めた兵隊の線が強い。確実に拾えただけでも八人は固い。あの女は鐘崎組の素性を知っている。とすれば、大河内ってのも相手が裏の世界で名だたる鐘崎組と知ってある程度頭数を揃えたのかも知れん」
傭兵部隊ということは武装しているのは明らかだろう。
「もしかしたら爆弾というのもただの脅しじゃねえのかも知れん――急ごう!」
鐘崎はそれこそ居ても立っても居られないといった調子で、一同は先を急いだ。
少し走るといよいよ現場の倉庫が近付いてきた。
周囲には普通に稼働している倉庫もあり、荷運びのトラックなども出入りしている。肝心の倉庫はどうやら使われてはいないのか、他と比べるとトタンの塗りが剥がれ落ちていたりと長いこと手入れがなされていないふうである。目の前の岸壁には貨物用の船舶などが停まっていて、積荷などでクレーンが轟音を立てており、これでは中で何が起こっているのかなどが聞きづらい状況となっていた。夜間ではなく、わざわざ昼間の犯行を選んだ理由はそういった目的なのかも知れない。
「木を隠すなら森の中――ってことか」
作業の轟音と共に誰もが周囲を気に掛ける様子は全くと言っていいほど見受けられない。
「ここで間違いねえな――。長いこと使われていねえみてえだが……」
だが周辺にはワゴン車が数台停まっている。おそらく敵が乗ってきたものだろう。そのナンバーを確認して、李がすぐさま探査にかける。
「犯人たちのもので間違いありません! 大河内が手配したレンタカーのナンバーと一致しました!」
ということは、紫月は中にいる可能性が高い。
仮にピアスのGPSに気付かれたとして、それを外して倉庫から移動したとすれば、おそらく車は見当たらないはずだ。だが実際には数台が停まっている。敵共々ここから動いてはいないということだ。
倉庫正面のシャッターは下ろされていて、中の様子は分からない。少し離れた位置で車を降り、まずは倉庫周囲の様子を探りにかかった。
裏口にも出入り口が確認されたが、表同様シャッターが下ろされていて、双方共に頑丈な錠が施されているようだ。壁面にも外階段のようなものは見当たらなかった。
「……チッ、完全密室にしやがったか」
所々、屋根に近い所に天窓のようなものがあって、唯一そこからなら中の様子が覗けそうだ。
「あの窓から確かめるしかねえ」
だが相当な高所だ。さて、どうやって登ろうか。雨樋など足場になるようなものも皆無の真っ平らな壁面だ。
「ドローンにカメラを積んで飛ばしましょう」
「そうだな。急ごう!」
気づかれる可能性が高い上に、角度によっては確実に中の様子が窺えるかは不安なところだが、他に方法はない。
鐘崎と源次郎らがドローンの準備をしていると、後ろから見慣れた人物がやって来て驚かされる羽目となった。何と、庭師の泰造と小川が源次郎らの後を追ってやって来たのだ。
◆11
今日は朝から泰造らも中庭の剪定に顔を出していた。紫月が姿を消したことで組が大騒ぎになっていたのを彼らも心配していて、これはただ事ではないと思い、密かに後をつけて来たのだそうだ。
「親方……、小川も……お前らどうして……」
「若さん! そんなことより姐さんは無事なんスか! 何か俺らに出来ることがあれば何でもします!」
小川は必死だ。
「相手は武器を所持している可能性もある。気持ちは嬉しいがここは危険だ。お前らは車に戻るんだ」
ところが小川は引き下がるつもりなど更々ない様子だ。
「この中に姐さんが捕まってるんスか?」
何で踏み込まないんです? と、意気込んでいる。
「爆弾が仕掛けられているかも知れんのだ。それに十中八九、敵は銃を所持している可能性が高い」
鐘崎に続いて源次郎もすぐにここを離れろと言ったが、小川はまるで聞いていない。
「あの窓――あそこからなら中が覗けそうっスね」
小川は言うや否や自分たちが乗って来た車へと駆け戻ると、その肩に脚立を抱えて戻って来た。
「俺が見てきます!」
「ちょ……待て! お前、いくら何でも高さが足りん……。今ドローンで様子を……」
確かに何もないよりは足場となりそうだが、巨大な倉庫の壁面の前では脚立を最大限に伸ばしても焼石に水だ。ところが小川はまるで動じていない。
「大丈夫ス! この高さなら何とか登れます。ドローンよりか俺の目の方が確実っス!」
せっせと脚立を広げて壁に掛け始まった。
「親方、押さえててください!」
そう言うと少し後ろに下がって身構えた。助走をつけて駆け上ろうというのだ。
それを見てとった若い衆らがすぐに親方と共に脚立を支えるのを手伝った。小川は身軽な動作で駆け出すと、いとも簡単という感じに脚立を踏み台にして壁面を駆け上って行った。まるで手足に吸盤でもついているかのような驚くべき身軽さだ。なんとか窓の縁に手を掛けると、そのまま腕の力だけで上半身を持ち上げて、中の様子を覗き始める。
「……何てヤツだ。一等最初に彼がお邸に忍び込んだ際には壁を乗り越えて侵入したと聞きましたが、あれではうなずけますな」
源次郎が目を丸くする傍らで鐘崎も同様に驚きを隠せずにいた。
だが正直なところ有難いのは確かだ。鐘崎は万が一小川が落下した場合に備えて、すぐに受け止められる体制を敷くと共にその報告を待った。
◆12
時を遡ってその少し前のことだ。ちょうど源次郎らが紫月を捜し始まった頃である。
指定された倉庫の前でタクシーを降りた紫月は、罠だという予想が色濃くなってきたことを感じつつも、とにかくは敵との対面を覚悟した。彼にしてみればこの倉庫の中に鐘崎が捕らわれているかも知れないと思っていたからだ。
電話を受けた時点で、誰かにこのことを他言すればご主人の命は保証しないと言われていたこともあり、既に鐘崎が捕えられた後だと思ったのだ。
中に入り、待っていた人物を目にした瞬間、ひどく驚かされてしまった。
「あんた……辰冨さんの……」
鞠愛の側には見覚えのない数人の男たちがいたが、一人を除いて他はすべて外国人と思われ、その誰もが一目で危ない連中だと分かるような風貌をしていた。
「お嬢さん、こんな所に呼び出して――どういった用件でしょう。遼は何処です?」
紫月が訊くと、鞠愛は苛立ったように睨みつけながら吐き捨てた。
「遼――ですって? 普段からそう呼んでるってわけ? 馴れ馴れしいったらないわね!」
そしてこう続けた。
「残念だけどあの男はいないわよ! 用があるのはあなたにだけだもの!」
「俺だけ――? いったいどんな用です……なんて訊かなくてもだいたいの想像はつくけどな」
はべらせている屈強そうな男たちを見れば一目瞭然というものだ。鐘崎が居ないということは、嵌めらたのが確実となったわけだからだ。だがまあ、紫月にとってはとりあえず鐘崎が爆弾で吹っ飛ばされる心配はなくなったので、そこだけは安心といったところだった。
「あら、勘がいいのね。まあ当たっていると思ってくれていいわよ」
「……その人らを使って俺をボコろうってか?」
「ボコるですって? 不良の子供じゃあるまいし、そんなことで済むと思ってるわけ?」
チンケな男ねと言って声高々に笑う。
「……まさかだけど殺害でもしようってか?」
「ふふ、だったらどうだっていうの? さすがに怖いってわけ? 仮にも極道の妻を気取ってるわりには情けないのね!」
言葉の節々に棘があり、相当憤っているのが感じられる。
「――理由を教えてくれないか?」
「理由ですって?」
「お嬢さんが俺を消したい理由だ。正直好かれてるとは思ってねえが、消されるほど恨まれることをした覚えは思い当たらないんだけどな――」
まあそんなことは聞かずともそれこそ想像に容易いが、要は鐘崎への恋情が叶わなかったことによる逆恨みだろう。例えばここに庭師の小川でもいれば、『フラれた腹いせかよ!』くらいは言ってのけそうなものだが、そうはっきり言えば彼女の気持ちを逆撫でするだけだ。
「覚えがないですって! ふざけないでよね! あんたたち三人で散々アタシをバカにしたくせにッ!」
「三人――」
「あんたと……! あんたの男とその父親よっ! アタシがどんな気持ちだったか分かる……? あんな惨めな思いをさせられたのは生まれて初めてだったわよっ!」
鞠愛はあれ以来悔しさで満足に眠れない日々を過ごしたと言って憤っている。つまり辰冨親娘が日本を発つ前に鐘崎組の事務所で会った時のことを言っているのだろう。
「――そんなつもりはありません。俺たちはただ俺と遼二の関係を申し上げただけです」
「何が……関係よッ! アタシはね、今こうしてあんたの顔を見てるのだって虫唾が走る思いなのよ! 男のくせに遼二をたぶらかして我が物顔ッ!? 冗談じゃないわよ! あんたみたいなのがこの世に生きてると思うだけで苛々するッ! もういいッ! これ以上話すことはないわ! あんたなんか男に掘られて喜んでるクズじゃない! 殺される理由ならそれで十分だと思うけどね!」
「……年頃のお嬢さんがそんな言葉使うもんじゃねえって」
「うるさいッ! 今度は説教しようってのッ!? 冗談じゃないわ、この下衆男!」
金切り声で怒鳴り散らしながら男らに向かって、「早いとこやっちゃって!」と顎をしゃくってみせた。
◆13
鞠愛の側には日本人らしき男が立っていて、どうやらここにいる連中の中では一番権限を持っていそうな顔つきをしている。鞠愛のことは立てているふうなので、察するに父の辰冨の部下か何かなのだろうと思えた。他はすべて外国人のようだから、その男の伝手で連れて来られた程のいい兵隊といったところか――おそらく日本語は通じていないのだろう。
そんな彼らが襲い掛からんとジリジリにじり寄っては周りを取り囲む。紫月は英語に切り替えると、彼らに向かってこう訊いた。
「あんたらは――俺とは会ったこともねえ初対面だな。互いに恨みはねえはずだ。それでも俺を殺ろうってか?」
すると男たちはクスッと笑いながら飄々と答えてよこした。
「確かに初対面だし、てめえに恨みはねえな。だが俺たちにとっちゃそんなこたぁどうでもいいんだ」
「その通り! 要は金さ。俺たちゃ、そこの女と金で契約して仕事を請け負っただけだ」
「高額の報酬を得る代わりにゃ仕事をしねえとだろ? 何もタダで金だけ貰おうなんて下衆な考えは持っちゃいねえ」
交互交互にそんなことを言ってよこす。
「は――仕事ね。つまりは義理も人情もねえってわけな?」
紫月がそう返したと同時に攻撃が飛んできた。それを身軽にかわしながら苦笑が浮かぶ。
「あ――そ! だがこっちもみすみす殺られるわけにゃいかねえんで――なッ!」
とりあえずのところ向かってくる敵は三人、互いに素手なら何とかできそうか――。ただし、他にもまだ五、六人が鞠愛の後方で待機しているといった具合だ。目の前の三人を片付けたとしても次から次へと加勢に出てくるだろう。
唯一彼らの頭と思われる男がどの程度デキるかは分からないが、彼を抜いても全部で七、八人はいそうだ。いや、もっとか。仮に十人として、さすがに一人で相手をするには厳しいところだ。日本刀でもあればまた話は別だが、今は丸腰だ。
「――といって、むざむざやられるわけにもいかねえからー」
紫月は合気道の技で攻撃をかわしつつ空手で男たちを追い込んでいった。
「クソッ! なかなかにやりやがる!」
「しゃらくせえ! 優男のくせによ!」
紫月は見た目だけでいえば細身で簡単に捻り潰せそうな雰囲気だ。誰もが最初の内はそう思っていたのだろう。余裕の態度で薄ら笑いを浮かべていた男たちも段々と真顔になってくる。それを見ていた鞠愛らも動揺した様子だ。
「何よ! 大の男が揃いも揃って情けないったらないわね! 相手はたった一人じゃないの! あれで強靭って言えるのッ!」
指示役の男に向かってそう罵倒している。このままでは立つ背がないと思ったのか、ついには後続部隊がまとめて襲い掛かってきた。
◆14
中には鉄パイプやヌンチャクのような物を振り回してくる者もいる。
「――ちッ、丸腰相手にそうくるかよ……。マジで粋も情けもねえ奴らだな……」
ヌンチャクを避けながら足元を蹴り飛ばして、相手が転んだ隙にそれを奪い取った。
「は――、氷川でもいりゃあ上手く使うだろうが、俺にとっちゃ宝の持ち腐れってトコだな」
ヌンチャクなど子供の頃にオモチャで遊んで以来だ。せめて拳法でも身につけておけばよかったかと苦笑いがとまらない。――と、今度はサバイバルナイフのようなものを振り回されて、寸でのところでかわしたものの、ジャケットとシャツの一部に当たって入れたばかりの白椿があらわになった。
「……っと! 舐めたことしてくれっじゃねえの」
そうだ、例えここで敗れて命を落とすようなことがあったとしても、この白椿の花に傷をつけることだけは勘弁ならない。
鐘崎が紅椿を背負った覚悟までもが穢される思いがするからだ。
紫月は破れたジャケットを脱ぎ捨てると、肩の白椿を守るようにそれを縛りつけた。
「ふ――極道を舐めんじゃねえ」
多勢に無勢、しかも理不尽この上ない逆恨みが原因で命をくれてやるほど人が好くはできていない。
乾坤一擲、断崖絶壁を背にしようと譲れない思いはあるのだ。仄暗い瞳に覚悟の炎がユラユラとゆらめき、襲い掛かってくる男たちを次々にかわしていった。
それを目にした鞠愛が発狂したように金切り声を上げる。
「椿……ですって! こいつにも同じ刺青が入ってたなんて……遼二と二人でお揃いだとでも言うつもりッ!」
ワナワナと震えながらも目を吊り上げては唇を噛み締めている。
「冗談じゃないわよ! どこまでアタシの気を逆撫ですれば気が済むのッ! ぶっ殺してよ! 早くしなさいったらッ!」
半狂乱で焦れる様子に、ついぞ指示役の男が拳銃を取り出した。
確かにこのままでは戦況よろしくない。たった一人を相手に敵わなかったとあっては、それこそ立つ背がなくなるというものだ。紫月らの乱闘が続く中、ビシュっという音と同時にわずかな煙が立ち上り、弾丸が倉庫床のコンクリートをえぐった。サイレンサーが付いているのだろう、爆音はしないまでも威嚇の発砲である。
「冗談だべ……? 今度は飛び道具かよ……」
さすがにまずいと思って、紫月は咄嗟に木箱の陰へと飛び込んだ。
弾丸は容赦なく立て続けに木箱を抉り取っていく――。
「クソッ……正直半分は脅しと思ってたけどな。マジで本気ってわけ……いよいよやべえか――」
ここに呼び出された時点では、ある程度罵倒して脅せば気が済むだろう程度に考えてもいたが、どうやらそれだけで済む話ではなさそうだ。弾が当たれば、それが擦り傷だとしても勝機は薄くなる。即死は免れたとしても、腕や脚などにある程度まともに食らえばその後はあの人数相手に応戦することが困難となってくる。寄ってたかって殴られるか蹴られるか、あるいはもう一発とどめの弾丸を撃ち込まれるか――どちらにしてもほぼお陀仏だろう。
ふと、脳裏に愛しい亭主の顔が浮かぶ。
遼――もしかしたらこれっきりツラを拝めねえかもな……。
彼を一人残して先に逝くことを想像すれば、すまないと思いつつもこれまで共に過ごしてきた日々が走馬灯のように頭に浮かんでは万感込み上げる。
◆15
「あいつ……俺がいなくなってもちゃんと一人でやってけるだろうかね……」
きっと途方に暮れたようになって悲しむことだろう。あるいは本当に修羅か夜叉となってしまうかも知れない。
お前に手を出された日にゃ、俺は修羅にも夜叉にも平気でなるぞ――
若き青春の日に彼が云った言葉だ。
「はは……無理だべな。何だかんだ言って俺がいねえとダメダメだから、あいつ……」
何だか急に可笑しくなって笑ってしまう。
なあ、紫月――俺は生涯この紅椿の花と共に生きていく。
この世で一番大事なお前が生まれた日に――その誕生を慶ぶかのように咲き誇っていた椿の花――永遠に枯れることのない大輪の紅椿の花と共に生きていく。
紅椿はお前そのものだ。俺が愛するお前そのもの――。
時にはにかむような表情で、時に真剣な表情で、そう言ってくれた愛しい亭主の顔が脳裏に浮かぶ。
あの笑顔を、あの一途な想いを――こんなことで散らしちゃならねえ。
そうだ、ここで諦めるわけにはいかない。
鐘崎を悲しみのどん底に突き落とすようなことはしたくない。あのやさしい――時に優柔不断と言われるほどにあたたかいあの彼を――人の心を失くした鬼にしてはならない。
もう一度――あの腕に包まれながら彼の幸せそうな笑顔を見たい。あの笑顔を曇らせるようなことをしてはならない。
諦めるわけにはいかねえ――!
「仕方ねえ……やれるとこまでやるっきゃねえか。当たるも八卦当たらぬも八卦っていうしな」
少々意味合いは違うがこの状況でそんな冗談が浮かぶのは紫月ならではだろう。事実、必ずしも弾丸が当たるとは限らない。こうなったら運を天に任せて突破するしか道はないのだ。
「どっかに脱出できるトコがあればいいが――」
出入り口のシャッターは閉まっているし、銃撃と大人数の攻撃を避けながらの脱出は難しいだろう。
ふと――上を見上げれば倉庫壁面の所々に天窓があることに気がついた。
「あそこからなら行けるか……」
仮に窓まで辿り着けたとして、そこから飛び降りれば骨の一本や二本折れるかも知れないが、ここで撃ち殺されるよりまだ望みはある。岸壁には大きな貨物用の船舶が停まっていたし、隣接する倉庫まで行けば誰か人がいるだろう。
幸い天窓の近くまで登れる階段と、倉庫を囲むように細い鉄製の足場のようなものが通っている。おそらくは点検か何かの為に天井へ登れるようになっているのだろう。
「よっしゃ! 行くっきゃねえ――!」
白椿よ――必ずお前を遼二の元へ連れて行く――!
たとえ俺がくたばったとしても、この肩の上で咲く大輪の花だけは綺麗なままあいつの元へ帰してやるさ――! 何があってもこいつだけは――あいつと揃いのこの椿の花だけは絶対に散らせやしねえ!
紫月は敵に向かって木箱を蹴り飛ばすと、彼らがそれに意識を取られている隙に一気に階段を目指して駆け出した。敵に右側を向け、左の肩に入った白椿の彫り物を庇うようにして駆け抜ける。何があってもこれだけは守り抜くといった必死の覚悟が窺えた。
愛しい者と共に対で背負った椿の花がみるみると意思を持ち、まるで己の主人を守るかのように目に見えないシールドの盾となって紫月の身体を包んでいく――そんな幻影が浮かび上がった瞬間であった。
◆16
紫月が決死の覚悟で闘っていたちょうどその頃、倉庫の外では鐘崎ら全員が到着し、まさに庭師の小川が天窓を目指して駆け登っていた。
「……! いた! 姐さん発見しましたッ! 無事です! 動いてます! 走ってます!」
支離滅裂ながらも小川は必死に踏ん張っては倉庫内を見渡して、下で待っている鐘崎らに状況を絶叫する。
「やべえっス! 拳銃持ってるヤツが姐さんに向かって撃ってやがる! ヤバそうな奴等が……五、六、七……いや、十人くらいいるっス!」
それを聞いた鐘崎がすぐさまシャッター前へと飛んで行った。拳銃を撃っているということは、少なくとも爆発物のようなものは仕掛けられていないと想像される。既に猶予はない。
鐘崎が強行突破するつもりなのだと悟った周は、側近たちに向かって即刻指示を出した。
「倉庫周囲にいる者、全員で天窓を撃て! 応援が来たことを知らせて中の注意を引きつけるんだ!」
窓が割れれば敵連中は気を取られるだろう。紫月を狙っている銃撃も一瞬止むかも知れない。
シャッター前では鐘崎が錠を撃ち抜くと同時に鉄の扉がひしゃげる勢いで蹴り飛ばしては転がり込んだ。
中にいた敵が一気にこちらを向く。紫月は――倉庫端の階段を駆け登っていた歩をとめてこちらを振り返っている。
鐘崎と紫月の視線が互いをとらえた。
無事か――――
紫月の無事を確かめた鐘崎は、ホッと胸を撫で下ろした。と同時に、その身体中からはまるで青白い炎が全身を包むかのような怒りのオーラが燃え盛り、轟々と音を立てて周囲を焼き尽くしていくかのようだった。
「紫月、今行く――」
鐘崎はそうつぶやくと同時に一番近くにいた男を初動なくいきなり蹴り上げた。
男はまるで宙に浮いたように吹っ飛んでは、後方にいた者を巻き込むようにして地面に落下、そのまま一撃で意識を失った。先程から対戦していた紫月もなかなかに強敵といえたが、今度はそれの比ではない。一瞬でも隙を見せれば即刻あの世が待っている――そんな幻影が浮かぶほどに、誰の背筋も瞬時に凍り付くほどの強烈な一撃であった。
「な、何だ貴様はッ!」
「か、構わねえ! 殺っちまえ!」
男たちが束になって襲い掛かってくる。
遠くからは銃で狙っている者も見て取れる。
「カネ、援護する!」
周が銃を構えながら目の前を行く鐘崎の体術をサポートしていく。源次郎と李もすぐさま後に続き、応戦して撃ってくる敵の銃を三人で確実に撃ち落としていった。
鐘崎は目の前へと襲い来る敵と丸腰で渡り合い、彼らの振り回してくるヌンチャクと鉄パイプを素手で受け止めながらもそれごと蹴り飛ばし、その勢いは弾丸さえも自らの肉体で弾き飛ばすといったくらいの壮絶さを漲らせていた。容赦なく拳を奮う彼の白いシャツには次々と敵の返り血が飛び散って、その形相はまさに修羅か夜叉かと思われるほどであった。
◆17
その間、敵の目を掻い潜って裏口から潜入した春日野が紫月の元へと急ぐ。
「姐さんッ! こちらへ!」
「春日野……!」
春日野は持ってきた防弾ベストを素早く紫月に着せると、
「退路を確保しています! 今の内に裏へ回りましょう」
そう言って、姐さんを守らんと盾になるように全身を使って紫月の身体を覆った。
「けど……遼が……」
「大丈夫です! 若にとって姐さんがご無事でさえあれば憂いは何もありません!」
「ん……分かった」
紫月は鐘崎を気に掛けながらも、ここでグズグズしていて春日野にまで怪我を負わせてはならないと、ひとまずは言われた通りに裏口へと向かった。
それを見届けた鐘崎にとって、恐れるものはもう何も無くなった。次から次へと向かってくる敵を重い拳と蹴りで打ち破り、ともすれば向けられた拳銃ごと掴み取っては素手で瞬時にその場へと沈めていった。
裏口から脱出した紫月を待っていたのは医師の鄧らと鐘崎組の組員たちだ。すぐに鄧が持って来た毛布で紫月の身体を包み込んでは体温の確保を促す。
「紫月君、医療車へ! お怪我はありませんか?」
「ん、俺は平気……。お陰で怪我もねえし……」
とはいえたった一人で大勢の敵に囲まれて闘い抜いたばかりの彼の精神面が危惧される。
「もう心配はいりません。医療車へ参りましょう!」
皆に囲まれて小走りする中、その医療車から飛び出して来た冰が夢中で駆け寄ってくるのを目にした瞬間に、現実が戻ってくるような気にさせられた。
「紫月さん! こちらです!」
今にも泣き出しそうになるのを必死に堪えて迎えてくれた冰の顔を見た瞬間にホッと気がゆるむ。その後方からは庭師の泰造と小川も駆けつけて、紫月の無事な姿に安堵の溜め息を漏らした。
「親方……! 駈飛ちゃんも……」
「姐さん! 良かった……お怪我なくて!」
小川は前のめりになって大きく肩を揺らしながら胸を撫で下ろしている。安堵の気持ちの大きさがありありと感じられた。
「この小川が天窓まで駆け上がって状況を知らせてくれたんです!」
組員たちに聞いて、紫月は驚くと共に瞳を潤ませた。
「そっか……駈飛ちゃんが。皆んなにも世話掛けちまって……すまなかった。ありがとうな」
紫月は礼を述べつつも、倉庫内の鐘崎らのことが気になっているふうで、すぐにも表へ回って加勢に――と視線を泳がせる。
「とりま応援に回るべ! |日本刀《ヤッパ》でもありゃあ言うことなしなんだけっども……」
源さん、持って来てくれてないかな――? と、倉庫内を気に掛ける。この状況でまだ加勢に行かんとする紫月に、医師の鄧はその精神の強さをひしひしと感じていた。
「大丈夫です。既に粗方のケリはつきました! ご主人の方には焔老板と李さん、源次郎殿もご一緒です! 全員怪我もなくご無事ですのでご安心を!」
「……マジ?」
「はい! あとは首謀者をふんじばるのみです!」
周らと繋がっている無線でリアルタイムの状況を受け取っている劉に言われて、ようやくと本当に助かったのだと現実感が戻ってくる。紫月は鄧と冰らに見守られる中、一足先に医療車で治療を受けながら待機することとなった。
◆18
その倉庫の方ではまるで戦さながらの血の海と化していたが、誰一人葬ることなく意識を刈り取るだけで済ませた鐘崎の腕はもはや神業であった。
正直に言えば全員を葬ってしまいたいのは山々だが、仮にもここは日本国内だ。海外ならばともかく、例え正当防衛といえどもやり過ぎだとの非難が殺到するのもまた確かだ。こんなふざけたことをやらかした極悪人どもに例え一ミリでも世間の同情をくれてやるつもりはない。一番厳しい方法で沙汰を下すには、命を奪うという形ではないことを鐘崎は重々承知していた。だからといって温情をかけるわけでは決してない。殺さないことが最も敵を貶める方法だというのを知っているだけだ。
意識を刈り取られた敵連中は、おそらく肋が砕けるなどの重傷を負ったものの、命に別状はないギリギリの状態で仕留めてある。ただしすぐには動くこともままならず、治療後も二度と悪事に手を染めることはできないであろう。傭兵上がりという彼らにとって、いっそ葬ってくれた方が楽だといえるかも知れない生き地獄が待っているのみだ。これこそが生かしながらにして精神を折り、屍と葬り去る――鐘崎の見舞った決着の付け方といえた。
そうしていよいよ残ったのは鞠愛と指示役の男だけとなり、焦った男が鐘崎に向けて発砲してきたが、まるで見当違いの方向に飛んだ弾が床で伸びている彼らの味方の腹を抉って血が噴き出した。単に気絶していただけの傭兵は着弾の衝撃で意識を取り戻したわけか、凄まじい絶叫を上げて床を転げ回る。撃った本人は腰を抜かしたように後ずさっては、「ヒィイイイ……」と恐怖に慄いていた。
「ま、待て……っ! 待ってくれ……ッ! こ、殺さないでくれえーーー!」
叫ぶも既に嗄れて声になっていない。鞠愛は呆然としたように地面の上でへたり込んでいる。
鐘崎は、這いずりながら逃げようと立ち上がった男の脚先を蹴り飛ばすと、その場で羽交い締めにしてコンクリートの床へと捩じ伏せた。
「お、お、お、俺が悪いんじゃない……! 俺は雇われただけだ! そ、そこの小娘に……上手いこと乗せられ……うぐぁあッ!」
言い終わらない内に拳銃を握っていた手を思い切り踏みつけられて、地獄の業火に突き落とされたような絶叫が倉庫の天井まで届くほどにこだました。鈍いベキッという音は骨が砕けた証拠だ。もう二度と引き金を握ることすら不可能だろう。
「ひぃえああああー……や、やめろ……やめてくれえええええッ!」
鐘崎が男の髪を掴み上げると、その顔は涙か汗か鼻水かといったくらいにぐちゃぐちゃになっていた。
「大河内莧だな? ふざけたことをしてくれた――」
決して怒鳴っているわけではない声音が、逆にそら恐ろしい地鳴りを思わせるような怒りをたたえている。既にフルネームまで知られているということは、素性も身元もすっかり割れているのだろう。今更ながら鐘崎組を侮ったことに後悔の念が過ぎる。
「ヒ……ヒィイイイ……か、勘弁してくれッ! お、俺がやりたくてやったんじゃな……ッ」
「てめえは触れちゃならねえものに手を出した。この世で最も大事な俺の宝にな」
「し、知らな……俺は言われた通りにしただけだッ! そ、そこの女に……嵌められて……!」
「女のせいにするってのか」
「だ……っ、ほんとに……あ、あんたを恨んでるから……その嫁をぶっ殺してくれ……て、女が……」
言い終わる前にドカっとその頭を踏みつけられて、男は完全に意識を失った。
それを見ていた鞠愛は、恐怖に震えながらも鐘崎が自分を庇ってくれたと勘違いしたようだ。女のせいにするのか――という言葉が、彼女の耳には庇ってもらえたと聞こえたのだろう。まったくもって浅はかとしか言いようがない。
◆19
「りょ、遼二さ……怖かったわ……アタシ、アタシ……この人たちに紫月さんを誘き出せって言われて――!」
まるで縋り付くようににじり寄っては両腕を差し出した彼女には目もくれずに踵を返す。抱き付く的を失った鞠愛は勢い付いて床へと突っ伏してしまい、その瞬間初めて鐘崎に拒絶されたことを自覚する。当の鐘崎は手を差し伸べてくれる素振りもなく、視線すら合わせることもなく駆けつけてきた源次郎に向かってひと言こう言い放った。
「源さん、丹羽に連絡を――。大河内が撃ち損ねた流れ弾で傭兵の一人が重傷だ。くたばる前にふんじばるよう言ってくれ」
「かしこまりました」
今現在、丹羽がどこでどうしているかは知れないが、彼の指示ですぐに警察が駆けつけて来るだろう。
未だ床へと伏せたまま起き上がれずにいる鞠愛の存在を目にするも、この場の男たちは誰一人として様子を気に掛けようともしない。源次郎はスマートフォンを耳に通話し、周も李も――そして鐘崎も、まるで汚いゴミに蓋をするごとく完無視だ。鞠愛にとっては生まれて初めて味わう本気の拒絶に、恐怖さえ感じる思いでいたようだ。
「後の処理は丹羽に任せる。引き上げるぞ」
鐘崎はそう言うと、鞠愛には目もくれずにその場を後にした。
「ちょ……待って……! 遼二さんッ! アタシはどうすればいいのッ……」
まるでアタシを置いていかないでとでも言いたげに呆然としている。この期に及んでどの口が言うというところだが、鐘崎が女を振り返ることはなかった。
紫月を無事に取り戻した時点で鐘崎らの目的は達成された。
あとの連中がどうなろうがもはや関係ないのだ。もちろん気持ちの上ではこんなふざけたことをしでかしたことに対する許し難い思いはあれど、それに対して報復する手間さえ反吐が出る。仮にこの場の全員が逃げおおせて、再び襲ってくるようなことがあれば、その時こそ本当に始末をつければそれでいいのだ。
そんな鐘崎に真の冷たさと恐ろしさを感じたのだろうか、これまで比較的どんな我が侭を言っても丁寧に接してくれていたのは、決して自分や立派な立場の父を尊敬していたわけではなく、好意があったからではないのだということを実感する。心のどこかで紫月さえいなくなれば彼も踏ん切りがついて自分を見てくれるだろうと期待していたものの、さすがに無謀だったのかと――こんな状況になって初めて気がつく。
「な、何よ……完無視することないじゃない……アタシはあんたの命の恩人よ? ……ッ、この……恩知らずのろくでなし……! あんたなんか助けてやるんじゃなかった! あの時、川に流されてくたばれば良かったのよッ!」
取り止めのなく絶叫するも、遠ざかる背中は振り返る素振りすらない。これだけ罵倒すればもしかしたら怒り任せに立ち止まってくれるかも知れない、その思いすらハナからの勘違いだったようだ。鞠愛は糸の切れた操り人形の如くその場から立ち上がることさえできなかった。
◇ ◇ ◇
◆20
その後、周は医療車以外の側近たちを汐留へ撤収させると共に、李ら数人を連れて一旦鐘崎組へと立ち寄ることにした。幸い鐘崎にも紫月にもこれといった致命傷はなくて済んだものの、医療車で一通りの手当ては必要だ。彼らの方には源次郎に付き添ってもらい、周らは乗って来た後続車で組へと向かう。その車中では冰が心配そうな表情を見せていた。
「ねえ白龍……あの人たち……あのまま放って来ちゃって平気なの?」
犯人が逃げてしまったり、挙句は再び紫月を襲いに来たりしたらといった表情で、冰が不安げにしている。
「心配には及ばん。源次郎氏が警視庁の丹羽へ通報済みだ。すぐに警察が駆けつけるだろう」
「でもその間に犯人が逃げちゃったりしたら……」
「逃げようが関係ねえ。放っておいてもヤツらは自滅する。カネにとって一之宮を奪還できた時点で事は既に完結しているんだ」
どういうこと? と、冰が不安顔で首を傾げる。
「カネがあの場の全員を葬らずに生かした理由だ。警察が介入すれば、いずれはヤツらの口から今回の全貌が知れる。大河内って野郎もあの女にそそのかされて実行に至ったことを暴露するだろう。大河内と一之宮の間に直接の接点が無いのは明らかだ。つまりヤツには一之宮を殺害したい動機がないことも調べればすぐに分かる。首謀者はあの女だということがすぐに割れるということだ」
仮に女が逃げたところで行き場などないも同然だ。
「それ以前にあの女にちょっとでも脳があるなら、大河内の口から真実が割れるのを黙って見ていられるかどうかというところだろうな」
「つまり……どういうこと?」
冰には何が何やらさっぱり分からないらしい。
「俺たちが引き上げた倉庫内には意識を失った男連中と大河内、それにあの女がいるのみだ。女以外のヤツらは全員気を失っている。少し頭が切れりゃ、警察が到着するまでの間に大河内だけでも始末しようと考えても不思議はねえ」
「始末って……? あの女の人が仲間を手にかけちゃうかも知れないってこと?」
冰は驚いている。
「例えばの話だ。警察が到着する前にだな、女があの場の全員をぶっ殺しちまえば、首謀者が誰だったのかということを知る者はいなくなる。あの女が主張するように脅されて仕方なく加担したという道理は通るかも知れねえ。だがさすがに十人もの男を始末する度量があの女にあるかといえば、普通に考えれば無理があろうな。だが大河内一人くらいなら――とは考えるかも知れない」
まあ女にそこまでの気概があるかどうかは分からないが、仮に鞠愛が大河内を手にかければ完全な殺人罪となる。あの鞠愛のことだから正当防衛を主張するかも知れないが、他の男たちからの証言でその言い分はすぐに崩されるだろうことは目に見えている。