極道恋事情
◆21
「女が大河内を殺ろうが殺らまいが、どちらにせよ末路は決まっている。カネはあの場で怒りをぶち撒けるよりももっと辛辣な方法で息の根を止めたということだ」
鐘崎にとってそれほどの怒りだということだ。あとは女がどうなろうが感知するところではない。逮捕されて監獄にぶち込まれようが、無罪だと言って発狂しようがどうでもいいのだ。
「仮にすべてが女の思惑通りにいったとしてもだ。警察だって馬鹿じゃねえ。滞在先のホテルでの様子なんぞも一応は調べるだろう。どうせ悠々自適に観光気分でチャラけていたに違いねえだろうからな。女の嘘なぞすぐにバレるということだ」
つまり放っておいても自滅する。本人たちは勿論のこと、父親の辰冨は間違いなく失脚するだろう。わざわざこちらが手を汚さずとも、最も辛辣な方法で葬ることができるということだ。
「そっか……。でもとにかく紫月さんが無事でよかった」
今はそれが何よりだ。
縁起でもない話だが、もしも救出が間に合わずに紫月を失ってしまったとしたら――また話は変わってくるだろう。鐘崎はそれこそ修羅と化していただろうし、その場合敵を自滅させるなどという甘いやり方は有り得ない。正当防衛どころか過剰防衛で鐘崎自らにも罪が課せられるかも知れないが、仮にこんな形で紫月を失ったとしたなら鐘崎にとってはそれ以上酷なことはないだろう。本物の修羅となって復讐を遂げた後は愛する者の後を追ってしまうかも知れない。
「今回のことを受けてカネが普段からの警備体制を見直すのは必須だろう。俺たちにとっても対岸の火事で済む話じゃねえ。カネと話し合って新たな体制を検討することになる」
例えばそれはわざわざ探査にかけずとも常にGPSの位置を把握できるようなシステムを敷くとか、緊急時に傍受される可能性のあるスマートフォンなどの一般的な機器以外で状況を知らせ合える新たな手段を講じる――などである。
「俺たちの生きる世界とはそういったことと切っても切れないものだというのは承知だが、お前や一之宮にも窮屈な思いをさせてすまないと思っている」
そんなことを言う周に、冰はとんでもないと言ってブンブンと首を振った。
「窮屈だなんて思わないよ。白龍や鐘崎さんが俺たちの安全の為に心を砕いてくれてるんだもの。紫月さんだって一緒だと思う」
周は『ありがとうな』というように黙って冰の肩を抱き寄せた。
「俺には――あのやさしいカネをこんなふうに追い込んだことが許せんな。ともすればヤツの性質を変えちまうほどのことをあの女はやってのけたんだ」
「白龍……」
「もしも俺がカネの立場だったら――危険にさらされたのがお前だったら――怒りを抑えられずに俺は連中を葬っていたかも知れん。そこを踏みとどまったカネの気持ちを思うと――やり切れねえ……」
そう――今回のことは周らにとっても決して他人事ではないのだ。いつ何時、自分たちにも降り掛かるか分からない火の粉だ。周は今一度気を引き締めると共に、今回のことで鐘崎と紫月の心に深い傷が残らないことを祈るのみだった。
◆22
一方、医療車で鄧に手当てを受けながら、鐘崎はその腕に紫月を抱えたまま片時も離さないといったように瞳を震わせていた。
「遼……ごめん……。俺……勝手なことしちまって……かえって皆んなに世話掛けて……」
誰にも言わずに組を出てきてしまったことを詫びる。
「謝るのは俺だ――。本来――俺が受けるべき恨みをおめえに背負わせちまった……。俺がウダウダやっていなきゃ、おめえが逆恨みに遭うこともなかった」
辰冨親娘に恩があるとの思いから、鞠愛の恋情に対してはっきりとした態度で断らなかったことは悔いても悔い切れない。いかに依頼されたとはいえ、デートさながらの状況で買い物の警護を引き受けたりしなければ、鞠愛をその気にさせずとも済んだかも知れない。もっと毅然とした態度で早い内に断りを口にしていたならば、例え逆恨みの感情を向けられたにせよ、それが紫月に向くことはなかっただろうと思うからだ。
「すまない――」
無事でいてくれて良かった。
取り返しのつかないことにならなくて良かった。
自分の優柔不断さと甘さがお前を危険にさらしてしまった。
様々な思いが交叉し、込み上げて、今ここに一人でいたなら声を上げて泣きじゃくってしまいたい――。
地面に突っ伏し、涙が涸れるまで永遠に止まらない号泣の渦の中で自分を戒めたい。
そんな思いを、涙を、必死に堪えて一人胸の中に慟哭を呑み込む。
表面上では一滴の涙さえ溢さずにいる鐘崎の瞳の中には、狂うほどに泣きじゃくるもう一人の彼が映っているようで、紫月もまたこぼれそうになる熱い雫を必死に堪えては、彼の心ごと抱き締めるかのように返り血で濡れたその腕に黙って頬寄せたのだった。
車窓から飛んでいく景色は、地平線に沈む夕陽が橙を通り越してどす黒い溶岩のような色をたたえている。
誰の心にも鉛のように重い影を残したまま事件はとりあえずの幕を下ろしたのだった。
◇ ◇ ◇
それから数日後、鐘崎組には警視庁捜査一課の丹羽修司が訪れていた。経緯を聞く為、周らも呼ばれて紫月救出に携わった者たちが顔を揃える。組長の僚一もあの後すぐに大阪から戻っていた。
事件の結末は源次郎の通報で駆けつけた丹羽ら警察によって、紫月を殺害しようと企んだ全員が逮捕されたということだった。大河内が集めた実行犯の中には各地でテロリストとして指名手配されていた者もおり、非常に重い罪が課せられるのは明白ということだ。日本国内での刑というよりも、彼らの自国に引き渡されての処刑という線も濃厚だそうだ。流れ弾を受けて重傷を負った男も命を取り留め、今は全員が警察病院に収容されているらしい。
◆23
「その大河内についてだが――その後の調べでヤツにはかなりの借金があることが判明した。どうも博打に嵌っていたようでな。辰冨の公金に手をつけていたことを娘の鞠愛に知られて、仕方なく今回のことを引き受けたようだ」
鞠愛から提示された報酬は背負っていた借金を覆すに十分な額だったそうだが、今にして思えば本当に彼女が支払ってくれたかどうかは分からないと言って後悔の念を口にしたそうだ。
「いずれにせよ任務を解かれ、実刑は確実だろう。父親の辰冨は責任を取って辞任を決めたそうだが――」
驚いたのはそこに至る経緯だった。なんと辰冨鞠愛は鐘崎らが引き上げた直後に大河内の手にしていた拳銃を奪い、彼の口を塞ごうとしたとのことだった。それについては周も半ば仮定で口にしていたものの、唯一読みが外れたのは鞠愛が大河内を殺害しようとした理由の方だった。
丹羽の話ではなんと鞠愛は大河内を手にかけたのは鐘崎だと言い張ったというのだ。これには鐘崎と紫月はもちろんのこと、周らもひどく驚かされてしまった。
「大河内を片付けてカネの仕業にしようとするとはな。てめえの悪行を隠す為にヤツの口を塞ごうってんならまだしも、カネを陥れようなんざ……どこまでも下衆なことを考えやがる――」
怒り以前に呆れてものも言えないといったふうに周が腹立たしさをあらわにする。
「確かに――大河内を生かしておけばすべてがバレるというのも動機のひとつだったかも知れないが、鐘崎が殺ったことにしちまえば一石二鳥とでも考えたんだろう。たまたま大河内が手にしていた拳銃でトドメをさそうとしたようだ。殺ったのは鐘崎だと言い張っていたが、拳銃からはあの女の指紋がベタベタ出たからな。指紋の位置どり、力加減、すべてが間違いなく女が撃ったということを示している。言い逃れはできんさ」
弾は数発発射されていたそうだが、そのどれもが急所から外れていて、大河内は九死に一生を得たとのことだった。鐘崎ならば一発で仕留めるだろうし、丹羽にとっては鐘崎が全員を峰打ちだけで済ませていた時点で、大河内を殺害するようなリスクは選ばないと確信していたそうだ。鞠愛はその場で大河内殺害未遂として現行犯逮捕され、その後の大河内らの証言から紫月殺害未遂の首謀者としても実刑となるのは確実であろうとのことだった。
「どうもえらく根深い恨みがあるようでな。取り調べでも呆れるほどにお前さん方への恨み言をほざいているとか」
手に負えないと呆れつつも、まあとにかくは紫月が無事でよかったと丹羽も肩の荷を下ろしたようだった。
「それで――既に僚一さんにもお話したが、今回のことは我々警視庁から公安の手に預けることになった。テロリスト同士の内紛ということで、内密に片付けられることになろう」
テロリストと大使館が絡んでいることもあって、通常の裁判といった公の形にはしないとのことだ。むろん、被害者が誰だったのかということや救助に当たった周らのことについてもすべての情報が伏せられるとのことだった。
◆24
「その点について俺に異存はねえ。あの女がどうなろうと知ったことじゃねえ。ただし――今後俺の前に姿を見せることがあったなら、あの女が何かをしでかそうがそうじゃなかろうが問答無用で容赦はしねえ」
例えば彼女が改心して謝りたいと言ってきたにしても、謝罪することすら受け入れない、自分たちの目に触れることは許さないということである。感情の見えない瞳のその奥には留まるところを知らない怒りが秘められているかのようだった。
鐘崎の表情からは『二度とシャバに出すな』とでも言いたげな思いがにじみ出てはいたものの、とにかくは方針を受け入れてもらえたことで丹羽は安堵したようだった。
「しかし世の中どうなってるんだってな事案が後を絶たねえな。俺が警察官になった頃は、一個人が――それもうら若い女がいとも簡単にテロリストを使って殺害を企むなんざ想像できなかったがな」
しかもその理由にもまた驚愕させられる。恋情が叶わなかったからといってその相手の大事な伴侶を陥れようなど、我が侭にもほどが有り過ぎる。気に入らなければ安易に始末排除しようなどと思い、それを平気で実行するような人間がいること自体頭の痛い話だと言って、丹羽は溜め息を抑えられない様子でいた。誰にとっても似たような思いでいるものの、とかく鐘崎には考えさせられることが多かったようだ。
「俺にとっても自他共に振り返る機会となったのは確かだ。今後は警備強化や不測の事態に備えての対処などはもちろんだが、俺自身の甘さを正すと共に、気構えについても改めねばならん」
あまり感情のないような落ち着いた顔つきでそんなことを言った鐘崎だが、その無表情の下には大切なものを守っていくという確固たる覚悟が沸々としているようでもあった。
鐘崎と紫月にとっても表面上は日常が戻ったものの、事件が落とした影は生涯消えぬ傷となって二人の心を抉ったことは間違いない。それでも周や冰という友や源次郎以下組員たちのあたたかい友情と絆が少しずつ二人を癒し、流れる時間がこの悲痛な出来事を解していくだろう。それと共に、大切なものを守り抜くという思いもまた、これまで以上に覚悟と信念を強きものにしていくだろう。
唯一目に見えて変わったことがあるとすれば、それは鐘崎の心構えという面だったかも知れない。
今はもう、かつてのような優柔不断な甘さは見られない。仕事の面ではこれまで以上に研ぎ澄まされた精神で臨み、とかく色恋に発展しそうな感情を向けられた際には、厳しいほどの態度で回避するようにもなっていった。
それとは裏腹――紫月に対する愛情は更に深く濃くなっていったようだ。若さ故かこれまではつい制御がきかないほどに求め欲した激しい抱き方はなりをひそめ、情を交わす時には穏やかでいながらして深い愛情を注ぐような求め方へと変わっていった。
表面上ではこれまで以上に落ち着いたというか、感情の起伏を見せなくなってしまった鐘崎の――一見静かで穏やかそうに見える表情の下に鋭い刃物がなりを潜めていそうな危うさに、僚一と源次郎もまたこの事件が彼に与えた重さにやり切れない思いでいたようだ。まるで激しい慟哭を無理矢理押し殺しているかのような心の叫びが痛々しくてならないのだ。
◆25
「若はあれからますます仕事にも精を出しておられるようですが……ああ根詰められてはお身体が参ってしまわれないか心配です」
「今は仕事に集中することでしか己を保てんのかも知れん。気持ちのやり場がないのだろうな――」
「つい最近もまた依頼人の秘書だという女性が若に色目を使ってきたそうですな。ですが若はまるで相手にしなかったとか――」
「そのようだな。以前のあいつならはっきり断れずにウジウジやっていただろうが、えらく冷たい態度で一刀両断したと聞いている」
「ええ……一緒に打ち合わせに行った清水が驚いていましたよ。何でも交流を兼ねて食事でもどうかと誘われたんだそうですが、仕事に関係のない付き合いは一切しないと即答なさったとか。邪な感情を持っているならば依頼自体を断ると――」
「まあ今までのように優柔不断な態度でズルズルするよりは正解かも知れんが、まずは第一段階といったところだろうな。あの不器用な遼二にとっちゃ、そうするしか自分と紫月を守る手段が思いつかんのだろう。相手が気持ちを察して諦めてくれるのを待っている――なんていうやり方では、いつまたこの間のような逆恨みを買うかも知れんと思う恐怖があいつを駆り立てているんだろう」
僚一は言うと、普段は滅多に口にしない煙草に火を点け、スウと深くそれを肺に入れて吐き出した。
「恨みの矛先が紫月に向けられないようにと思うばかりに酷く冷たい態度で女たちからの恋情を退ける――か。万が一この前のような逆恨みを買うことがあった場合、それが自分一人に向くようにしているのだろうが……。これまでとはまた別の意味で心に高い壁を作っちまう結果となったのは哀れと思う」
僚一は、いつの日かもっと柔和でいながらして、そういった横槍すら上手くかわせるようになるまで側で見守ってやるしかないだろうと溜め息をついてみせた。
「あいつにとって何より大事な紫月を命の危険に晒しちまった――しかも今回は紫月たった一人で銃弾の雨にさらされるといった、一歩間違えば死に直結するといった状況だ。遼二にとっては心を抉られるような事態だったからな。その原因が自分の甘さにあると思い、鉛の弾丸のように心に突き刺さっているのだろう。攻撃は最大の防御とばかりに己を鋭い刃にするしか方法が思いつかんのだろうな」
「お気の毒なことですな。周殿があのやさしい若の性質までをも変えてしまうようなことをしでかした女が許せないとおっしゃったそうですが……」
「ああ――。だが乗り越えていかねばならん。今はいっぱいいっぱいだとしても、あいつがあたたかい人の心を取り戻す日がくるよう俺たちは陰ながら支えていくしかない」
「姐さんもそんな若の痛みが分かるだけにお辛いでしょうが――」
「そうだな。だが夫婦だ。紫月の愛情がいつかはきっと遼二を癒す――。凍ってしまった心を少しずつ溶かして、必ずまた元のようにやさしい心を取り戻してくれると信じている。時間は掛かるかも知れんがな」
いつの日か――この険しく重い記憶を乗り越えて、更なる躍進の糧に変えられる日がくるよう、今まで以上の愛情をもって育み、二人で共に歩いていって欲しい。
どんなに厳しく辛いことも二人でなら背負っていける。
肩に刻まれた対の花はどんな時でも鮮やかに咲き誇る。深い深い愛情で、強い強い覚悟で、嬉しいことも辛いこともすべてを分かち合っていって欲しい。
紅椿白椿、永遠に枯れることのない真の愛情と互いを慈しむ想いを象徴する大輪の花の如く――。
慟哭 - FIN -