極道恋事情

31 春遠からじ1



◆1
 その日、汐留の周邸ではシェフが作ったという新作のスイーツを前に和やかな茶会が開かれていた。といっても客は鐘崎と紫月の二人のみ――。重い事件の後で彼らのことを気に掛けた周焔と冰が催したのだ。
 幸いにしてあの事件の後も紫月はこれまでと変わりのない様子でいたが、相反して鐘崎の中では自責や憤りといった様々な感情に苦しめられているようなところが見受けられ、表面上では何がどう変わったというわけではないものの、周も冰も少なからず心配していたわけだ。
「おわ、すっげー! めっちゃ綺麗なぁ!」
 これホントにケーキ? と言いながら紫月がマジマジとテーブルの上の菓子類を眺めては感嘆の声を上げている。
 イギリス風のアフタヌーンティーの食器類に並べられたケーキにはクリームで象られた様々な花が見事だ。
「薔薇に向日葵、この小ちゃい花がいーっぱいついてるのは……?」
「小手毬だそうですよ」
 ひとつひとつのケーキをしきじきと眺めながら大きな瞳をクリクリとさせている紫月に、冰がにこやかな笑顔で説明する。
「すっげえなぁ……。こんな細かい花をクリームで作っちゃうなんてなぁ」
「今回のケーキは生クリームじゃなくバタークリームっていうので作ったとか。少し固めのしっかりしたバターの質感でお花の形が綺麗に出せるんだそうです」
「ほええ、そうなんだ。こっちは紫陽花だべ? 桔梗に竜胆に――これは椿だ!」
「ええ、そうです。鐘崎さんと紫月さんをイメージしてね」
 チョコレートでコーティングされたスポンジの上にはバタークリームで彩られた鮮やかな紅椿が咲き誇っている。白椿の方の台は淡いピンク色で、ストロベリーチョコレートのコーティングだそうだ。
 周と冰の、二人を思うあたたかい気持ちが充分に込められたものだった。
「ふふ、このチョコレートのコーティングのところは俺と白龍も一緒に手伝ったんですよー」
「マジ? ふわぁ、すっげ綺麗にできてる。ありがとなぁ!」
「驚いたのは白龍がすっごく器用だったってことなんですよ! 俺なんかコーティングが固まるまでに上手く塗れなくて四苦八苦だったっていうのに、白龍は一発で綺麗に決めちゃうんですもん」
「ええー、マジかぁ。氷川って料理得意なん?」
「ええ、普段やらないだけで、何でもできちゃうんですから! 俺もびっくりしました」
 冰が大きな瞳をクリクリとさせながらそんなことを言う。
「ほう? 氷川が料理をな」
 少しの笑みを浮かべながらそんなふうに興味を示した鐘崎に、周と冰も心の中でホッと胸を撫で下ろした。
 こうして四人で顔を合わせていると、鐘崎の様子はこれまでと変わらないように思える。紫月の方は相変わらずで、あんな事件に遭った割には落ち込んでいるようでもないし、普段通り明るい笑顔も見せている。だが鐘崎にとっては全て自分のせいでああなったと責任を感じているようで、そんな思いが彼を苦しめているのではと、周りで見ている者たちにとってはついそんなふうに感じてしまうのだ。
 だからこそたまにはこういった時間を作ってやりたい。少しでも気分転換になればと思い、このような茶会を開いたわけだった。



◆2
 その数日前のことだった。夕飯を終え、リビングで寛ぎながら冰がこんなことを言い出した。
「ねえ白龍。例の事件以来、鐘崎さんがずっと仕事に没頭してて身体を壊さないだろうかって……源次郎さんたちも心配してるみたいだって言ってたでしょ?」
「ん? ああ、そうらしいな。えらく根詰めているとか――」
 これまでは週末になるとよくこの汐留にも顔を出してくれていたものの、あれ以来四人でゆっくり会えるような時間は持てていない。休みの日でも鐘崎は邸にこもりきりのようで、紫月を外に出したくないという以前に自身も必要以外は他人との交流を避けているようにも思えると聞いているのだ。
「それでさ、俺ちょっと考えてみたんだ。紫月さんは――っていうか俺も、それに白龍も鐘崎さんもだけど、俺たちって今までにも拉致されたりとか……いろんな事件に遭ったりしてきたじゃない? でもそのどれも皆んなで協力して乗り越えてこられたっていうか、たいへんな目に遭っても今回ほど傷が深くならなくて済んだように思えるんだ。白龍だって鐘崎さんだってDAなんていうとんでもない薬で記憶を失くしちゃったりとか、お兄様たちと一緒にロンさんたちに拉致されちゃったりとかあったじゃない」
 それでも何とか乗り越えて、その後は言うほど後を引かなかったというか――特にマカオの張や鉱山のロンなどだが――犯人たちとでさえ打ち解けて良好な関係に発展したりなど、今回の鐘崎のように深いダメージは残らなかったように思えると言うのだ。
「確かに――そうかも知れんな。今回のことはカネにとって今までで一番デカい衝撃と言えるだろうな」
「だよね。それでさ、思ったんだ。今回の犯人っていうか相手の人たちが……例えば裏の世界で敵対してる相手だったりとか、仕事上や組織の中での立場や利権を争っての恨みとか、そういった理由だったらまた違ったんじゃないだろうかって」
 周は興味ありげに冰を見つめてしまった。
「――と言うと?」
「うん……。鐘崎さんがあんなに責任を感じているのは……鐘崎さんのことを好きだった女の人が叶わなかった想いの逆恨みで起こしたっていうのが一番の原因になってるように思えて仕方ないんだ」
「つまり――カネがはっきり断らなかったことを含めて後悔しているってことか?」
「っていうよりも、例えば相手が男の人だった場合はさ、多分こう……殴ったりとかの目に見える形で制裁を下すっていうか、ケリをつけるっていうのかな……そういうことが可能じゃない?」
 確かに周自身も元社員の香山という男が逆恨みに出てきた際には、直接その手で制裁を下したわけだ。
「でも今回は相手が女の人だったから殴ることもできなかった……。こんな言い方したら良くないかも知れないけど、なんていうかスッキリできなかったっていうか……尾を引いちゃってるっていうか。それ以前に、相手の女の人が恨みの矛先を紫月さんに向けたっていうのが鐘崎さんにとっては一番辛かったのかなって」
 仮に鐘崎自身が誘き出されて同じことをされたなら、ここまで深く傷を引き摺らずに済んだのではないかというのだ。



◆3
「前に白龍のことを好きだった唐静雨さんだって……彼女が恨みの矛先を向けたのは直接白龍にだったでしょ? そりゃ俺のところに文句を言いに来たこともあったけど、その時だって彼女が一人で来たし、俺の側には紫月さんが居てくれていろいろと助けてくれたもの。唐静雨さんだってテロリストとかの怖い人たちを連れて来たわけでもなかった」
 つまりただ単に嫌味を言うとかだけなら世間でも有り得そうなことだし、好いた惚れたで揉めたとしても話し合いで解決するなどいくらでも方法はあっただろうと思うわけだ。実際、唐静雨の場合も最終的にはロンという男を巻き込んで周を亡き者にしようなどと企んだのは事実だが、その恨みの感情を向けたのは彼女を振った周本人にであって、連れ合いの冰に手を出したわけではなかった。
「しかもその時はお兄様や鐘崎さんも一緒にターゲットにされて、白龍一人だけっていうわけじゃなかった。ちょっと前の――ウィーンに行った時もそうだよ。お兄様のことを好きだった楚優秦さんの事件――あの時も拉致されたのはお義姉様だけじゃなく俺や紫月さんも一緒だった。皆んなで一緒に戦えたから傷も深くならずに済んだように思うんだ」
 だが今回はターゲットにされたのが紫月一人だった。それも傭兵経験のある大勢の男たちが銃撃までしてきて、命すれすれの事態にまでなってしまった。当然、鐘崎は責任を感じただろうし、万が一にも紫月が命を落としていたらと思うと、これまでとはまったく重さが違って感じられたのではないかというのだ。
 どんなに悪人だろうと相手は女だ。直接的に手を下すことも躊躇させられ、そんなことからも鐘崎の中で消化しきれていないというか、例えば思い切りぶん殴ってでも怒りをぶつけられればまた違ったのではないかと思えるというのだ。
「ふむ、確かにな――。源次郎氏の話じゃカネはあの後も取引先の女からちょっかいを掛けられているようだが、えらくきっぱりした態度で断っているとか。あいつにとって、自分に色目を使ってくる女はすべて敵のように思えているんだろうな」
 そんなところから考えても、鐘崎が――とかく色恋が絡みそうなことに関しては――必要以上に警戒心を強くしてしまっているのが窺える。
「鐘崎さん、確かに格好いいから興味を引かれる女の人の気持ちも分からないわけじゃないけどさ。これからもこんなことが続くと精神的に参っちゃうんじゃないかと思って……」
「あいつは何故か昔っから女に追っ掛けられることが多かったからな」
「でもさ、格好いいっていう意味では白龍だって同じだと思うんだよ。イイ男っていうなら鐘崎さんも白龍もだし、紫月さんや鄧先生にお兄様、曹さんや李さんたちだってそうじゃない? なのに何で鐘崎さんだけちょっと厄介……なんて言ったら失礼かも知れないけど、そういう女の人に好かれちゃうのかなって、不思議なんだよね」
「そう言われてみれば確かにな――面構えのいい男が全員そんな目に遭うってんなら、世の中は逆恨みだらけになるってことだ。あいつ、なんかヘンテコなフェロモンでも持ってるってのか……」
「う……! へ、ヘンなフェロモンって……白龍……!」
 飲み掛けた紹興酒を喉に詰まらせながら冰はゴホゴホと咳き込んでしまった。



◆4
「ああ、すまん。大丈夫か?」
「ん……平気……ゴホ……」
 冰の背中をトントンと叩いてやりながら、周は案外真面目な顔で続けた。
「そういや――どこで聞いた話だったか忘れたが――墨ってのはいい香りがするだろう? あれはな、牡鹿のフェロモンが練り込んであるからなんだそうだぞ」
「牡鹿?」
「雄の鹿のことだ」
「そ、そうなの? そう言われてみれば確かにいい匂いがするよね。墨って書道の……あの墨のことでしょ?」
 何と言おうか安らげる香りというか、ふんわりと落ち着けるというか、心地好い香りなのは確かだ。
「あいつに言い寄ってくるのは厄介な女が多いってのは事実だ。まあ、フェロモンってのは冗談だが――カネのヤツにそういうのを引き寄せちまう何かがあるのは確かだろうな」
「で、でもさ。じゃあ鐘崎さんの周りにはそういう女の人しかいないのかっていったら、そういうわけでもないじゃない? 例えば里恵子ママさんとか銀座のクラブのホステスさんたちとかとは普通に仲がいいじゃない? それについこの前も鐘崎さんを陥れようとしたエージェントの女の人がいたけど、結果的には反省してくれて、今では鐘崎組とも良好な関係が築けてるっていうしさ」
「ああ、メビィとかいう女エージェントか。あの女の場合はカネに気があったというよりは鐘崎組と強い繋がりを持ちたいが為の単なる工作の一環だったようだからな。今じゃ後腐れなく裏の世界の同胞としていい関係でいるみてえだが――。つまり相手がまともな女なら――というよりも色恋が絡まなければカネも気張らずにいられるということか」
 だが、確かに今のままでは彼が人間不信に陥ってしまわないか心配である。
「何かいい方法はないかなぁ……。世の中にはそんなヘンな人ばっかりじゃないって鐘崎さんが思えるような……っていうか、警戒心は確かに必要だけど、人が変わっちゃうほど悩まなくていいように少しでも気持ちを楽にしてあげられるようなっていうのかな」
「――そうだな。このままじゃヤツ自身もしんどいだろうしな」
「多分……側で見てる紫月さんも辛いと思うんだよね。鐘崎さんはきっと自分を責めてて、必要以上に自分を戒めてるっていうのかな……。例えば二人のどちらかが勝手なことをしちゃったとかでそうなってるなら仕方ないかもだけど、鐘崎さんも紫月さんもお互いを何より大切にしてるんだし、悪いことなんて何もしてないのに……」
 それではあまりに気の毒ではないかと思えるのだ。
「まあな。仮にカネが浮気でもしてギクシャクしてるってんなら自業自得ということになるんだろうが――」
「ねえ白龍、うちでお茶会みたいなのってどう? 紫月さんに喜んでもらえるようなケーキとか買ってきて息抜きしてもらうの」
「ああ、いいかもな。案外特別なことをするより気兼ねない俺たちとたわいのない話をするってのも気晴らしになるかも知れん」
 せっかくならシェフに言って二人を象徴する椿のケーキでも作ってもらったらいいのでは――ということになり、茶会でもしようと決まったわけだった。



◆5
 思った通り紫月はとても喜んでくれているし、そんな彼の笑顔の側で鐘崎も嬉しそうに穏やかな表情を見せている。少しでもホッとできるひと時になればと願う周だった。
 もちろんその思いを鐘崎自身も感じてくれているのだろう、相変わらずに仲の良い嫁たちを横目にしながら、ポツリと礼を述べた。
「すまねえな、氷川――」
 いろいろ気を遣わせちまって――短い言葉の中にも心がこもっている。鐘崎にとってこの四人で過ごせるひと時は気負わずにいられる安寧の時間なのだろう。事件以前の素の彼が垣間見えるようで、周もまた安堵の思いがしていた。
「どうだ、カネ。世間じゃそろそろ夏の長期休暇の時期だからな。うちの社も盆休みに入る。今年は義姉貴も出産前だし、見舞いがてら香港の実家に顔を出そうと思っているんだが、お前らも一緒にどうかと思ってな」
 周の誘いに鐘崎はわずか驚いたようにして顔を上げた。
「――香港か。うちの組も盆休みは毎年取っているが――。組員たちにも盆暮れくらいは実家に帰してやらなきゃいけねえし」
「おめえらは何か予定を入れてるのか?」
「いや――今のところ特にはまだ」
「だったら一緒に来ねえか。たまにゃ羽を伸ばすのも悪くねえだろうが」
「――そうだな。休み中ずっと家に篭りきりじゃ紫月も気の毒だ」
「だったら決まりだ。ウチのジェットを出すから一緒にどうだ」
 なんだったら源次郎氏なども誘って――という周の気遣いに、鐘崎は素直に嬉しく思うのだった。
「ああ、じゃあ言葉に甘えさせてもらうか」
 そう言うと紫月らを呼んで香港行きを打ち明けた。嫁たちが喜んだのは言うまでもない。

 そうして盆休みには香港へと小旅行に行くことが決まった。仕事絡みではないので、久しぶりにのんびりと過ごせそうだ。周も冰も鐘崎らにとって少しでも息抜きになればと思うのだった。
 結局、周らの方では李と劉、それに執事の真田と医師の鄧も同行することとなった。真田以外は皆香港に実家があるし、たまの里帰りも悪くない。真田としても元々は周の実母の家の執事だったこともあり、長年仕えた周の母親・あゆみに会えるのも楽しみのひとつなのだ。
 鐘崎組からは源次郎が同行し、父の僚一が留守番を引き受けてくれた。仮に香港で不測の事態が起こったとしても、周ファミリーの本拠地だ。僚一としても安心して息子たちを送り出すことができるわけである。
 そうして一行は香港へと旅立っていったのだった。



◆6
「うーん、やっぱりこっちも暑いですねぇ」
 飛行機を降りるなり冰が伸びをしながら笑顔を見せている。
 緯度的には香港の方が東京よりも赤道に近いわけだが、暑さという点ではそう大差はない。真夏の街は観光客もたくさんいて、非常に賑やかだった。
 周の父と兄は夜まで仕事で戻らないということだったので、街中で昼食をとった後、皆で黄老人の墓参りをすることになった。冰を育ててくれた老人である。
「冰君のじいちゃんの墓には俺たちも一度ご挨拶したかったんだ」
 紫月らもそう言ってくれるので、周も冰も有り難く思っていた。
 墓地は街を見下ろす小高い丘の上にあり、灼熱の太陽を和らげるような海風が心地好い。
「じいちゃん、ただいま。今日はね、日本でお世話になっている白龍のご友人の方たちも来てくださったんだよ」
 冰が花を手向けながら老人に話し掛ける。皆で順番に拝んでいったのだが、そんな中、鐘崎が誰よりも長くじっと墓前で手を合わせている姿があった。
 黄老人と鐘崎とは面識はなかったものの、生前は冰に様々な知恵を与えたことはこれまでの冰を見ていて知っている。生きていく為に必要なこと、臨機応変に対応していく柔軟さなどだ。もしも黄老人が生きている頃に出会っていたら――自分にも何か学ぶことがあったと思うのだろうか。会ったことはないが、こうして墓前で手を合わせることによって老人に何かを話し掛けているような鐘崎の姿からは、彼の中での悩みや葛藤をどうにかしたいという切なる思いが感じられるようであった。
 その後、皆で冰が住んでいたという繁華街のアパート周辺を散策して歩いた。少し前に冰が記憶喪失になった際には、その原因を突き止められればと、鐘崎と紫月が訪れたこともあったわけだが、アパートは未だ健在で、その中のひとつの窓を見上げながら周が瞳を細めていた。
「懐かしいな――。ここに来ると香港を離れた日のことを思い出す」
 そう、あれはまだ冰が小学生の頃だった。幼い彼を残して香港を去った日のことを思えば、今でも昨日のことのように郷愁が蘇る。
「日本で起業することを告げに行った日、黄のじいさんがふるまってくれた茶の味が忘れられんな」
 あの日、老人に挨拶を済ませ、アパートを出たそのすぐ後で冰が学校から帰って来た。通りを挟んだアパートの窓から顔を出して、一生懸命にこちらのことを探してくれた少年の日の冰の姿が蘇る。幾度車のドアを開けて通りの向こう側に行きたいと思ったことか――。
「正直なところ、あの時は胸が潰れそうになったもんだ。生まれ育った街を離れる不安と、見知らぬ日本での起業。それに幼かった冰を置いていく葛藤、いろんな気持ちが入り混じっていたっけな。車の窓から見たあの日の空は生涯忘れることはねえだろうと思う」
 思い返せば今でもちくりと胸が痛む。だが、それを乗り越えて今の幸せがあるのだ。
 瞳を細めてアパートを見上げる周の隣で、鐘崎もまたその頃の友の思いに自らを重ね合わせていたのだろうか。共にアパートを見つめながら、じっと祈るように佇むその背中を黙って見守る紫月の視線が深い愛情を讃えているかのようだった。



◆7
 ゆっくりと旅の疲れを取り、次の日は太陽が高くなるまで各自の部屋で休んだ一行は、ブランチがてら星光大道沿いのカジュアルレストランに来ていた。李と劉は実家に里帰りし、真田はあゆみに会いに行ったので、今日は鄧と源次郎が四人のお付きで回ることとなった。
 目の前には香港島と九龍島の挟む湾が広がっており、眺めも最高だ。直射日光は相変わらずに暑いが、湾を渡る海風が心地好い。
「実はな、このレストランは兄貴と義姉さんが初めてデートをした時に来た店なんだそうだ」
 周が不適な笑みと共にそんな説明をする。
「ほええ、風兄ちゃんと美紅姉ちゃんの思い出の場所かぁ」
 紫月が興味ありげに店内を見渡している。
「何でも兄貴はえらく晩生だったそうでな。その初デートも曹さんがお膳立てしてくれたんだとか」
「へええ、風兄ちゃん慎重派だったんだー?」
「そうらしいぞ。それまでは色恋に関しちゃまったく興味無えって感じだったのに、義姉さんを見て一目惚れしたんだと」
「マジ? へええ、その頃の馴れ初め話も聞きてえなぁ」
 なあ遼、と紫月が隣の席の鐘崎を見やる。
「そうだな。風さんがどんなふうに打ち明けたのか興味があるな」
 鐘崎も薄く笑みを見せながら穏やかな表情で相槌を打っている。まだ完全にとはいかないものの、少しずつ彼の心が癒されているのだろうことが窺えた。
「義姉さんはここから少し行った繁華街のステージバーで歌い手をしていたそうなんだがな。その店の前で流れていた義姉さんの映像を観て、兄貴が一目惚れしちまったらしい。その直後に偶然チンピラに絡まれてたところを助けたとかで、一気に夢中になったらしいぞ。その時も曹さんが一緒だったそうでな」
 曹来は風の側近であり、周ファミリーの専任弁護士でもあるから、風の気持ちを悟った彼がすぐに美紅の住所などを調べてくれたのだそうだ。
「そんなわけで兄貴は曹さんに頭が上がらんらしい」
 周がおどけた口ぶりでそんなことを言うと、一気に場が湧いた。

 昼食後は近くの芸術館に立ち寄り、すっかり真夏の暑さを凌いだ一同は星光大道を散歩しがてらオープンカフェで喉を潤すことにした。周と鐘崎、それに鄧と源次郎はアイスコーヒー、紫月と冰はアイスクリームが乗ったソーダ水にご機嫌だ。パラソルの付いたテーブルでティータイムを楽しんでいると、珍しい相手に遭遇して、一同は驚かされてしまうこととなった。
 何と、そこにはアイスティー片手に隣の席へと腰を下ろそうとしているエージェントのメビィがいたからだ。
「え――?」
「あれえ、メビィちゃんじゃねえの!」
 互いに瞳を大きく見開いては驚き顔でいる。
「すっげ偶然! こんなトコで会うなんてさ」
 相変わらず真っ向親しげに話し掛けたのは紫月だ。メビィの方もまさかの偶然によほど驚いている様子だった。
「紫月さん! 皆さん! ご無沙汰しています。まさか香港で皆さんに会うなんて!」
「メビィちゃんは? 一人?」
 彼女の側に連れは見当たらない。
「ええ、アタシは今やっと休憩で出てきたところなの。すぐそこのホテルでウチのチームと一緒に任務中よ」
「そうだったのかぁ。お疲れさん!」
「紫月さんたちは? お仕事?」
「いんや、俺らは休暇さ」
 彼女は一人のようだし、どうせならこっちの席に来ないかということになり、メビィと共に茶をすることになった。



◆8
「そういえば紫月さん、たいへんだったわね! 事件のこと聞いたわ」
 同じ裏の世界の者同士だ。紫月が襲われた事件のことは当然彼女の耳にも入っていたようだ。
「遼二さんもお心を痛められたでしょう。チームの皆んなも心配していたのよ」
 今度は鐘崎に向かってそう言ったメビィに、
「――ああ。でもお陰様でこうして紫月も無事だったからな。その節はうちの親父の方にアンタのボスからも見舞いの言葉をいただいて――気を遣わせてすまなかったな」
 ありがとうと言って鐘崎は頭を下げた。
「いいえ、そんな……とんでもない! でも本当にたいへんだったわね。犯人たちのことも聞いたけど、裏の世界じゃ――あの鐘崎組に喧嘩を売るなんて大馬鹿者だって噂でもちきりだったわ。まあアタシたちも初っ端から遼二さんにとんでもない失礼をしでかした身だから……偉そうなこと言えた立場じゃないんだけれど……」
 あの時は本当に申し訳なかったと言って、メビィは深々頭を下げてよこした。
「でも……自分たちを棚に上げてナンだけど――犯人たちがしたことは本当に許せないわよね。テロリストを雇って紫月さんを亡き者にしようとしたって……。しかも原因は遼二さんへの横恋慕だっていうじゃない。色恋沙汰で殺戮まで考えるなんてって、チームの皆んなも相当憤っていたのよ」
「うん、まあなぁ。けど遼や皆んながすぐに気がついてくれて助けに来てくれたからさ。お陰で今もこうして無事でいられるって有難いよね!」
 明るく微笑む紫月に、メビィもまたホッとしたようにしながらも切なそうに笑ってみせた。
 そんなやり取りを黙って窺っていた周が、ふと意外なことを口走ってみせた。
「そういやアンタのチームが鐘崎を嵌めた時のことだが――アンタは正直どうだったんだ?」
 誰もが『え――?』といったように周を見やる。メビィもまた然りだ。
「……どうって、何が……かしら?」
「アンタはこいつ――鐘崎に対してどんな思いだったのかと思ってな。少なからず色恋の感情があったのか、それとも単に仕事として罠をかけただけなのかってことだ。少々興味があるんでな。良かったら教えちゃくれねえか?」
 何故周が今更そんなことを訊きたいのか分からないながらも、誰もが興味をそそられたようだ。メビィはバツの悪そうにしながらも、この周がそんなことを言い出すからには何か意図があると思ったのだろう、存外素直に答えてみせた。
「そうね、アタシはどっちかといったら仕事で――っていう思いが強かったわね。まあでも実際遼二さんに会ってみたらすごく男前だったし、万が一にも上手く事が運んだ暁には、こんなイケメンを恋人にできるならラッキー……とは思ったわ」
 メビィの答えに周は面白そうにしながらも先を続けた。
「ほう? ではアンタはこいつに惚れたわけじゃなく、仕事で罠に嵌めるってことの方が重要だったってことか」
「ええ、アタシはチームの中で一番の新参者だったし、特にこれといった実績も上げられていなかったから……。この機会にあの鐘崎組を落とせたらアタシの株もグンと上がるって思って……」
 これでも一生懸命だったのよと苦笑する彼女に、周は満足そうにうなずいてみせた。
「えらく向上心があることだな。感心ついでにもうひとつ教えちゃくれねえか」
「ええ……」
 何かしら? というようにメビィは小首を傾げた。



◆9
「アンタは女だ。俺たち野郎にとっては今ひとつよく分からねえ女心ってところで聞かせて欲しいんだがな。仮に今いる俺たちの中でアンタが惚れるとしたら誰を選ぶ? できればその理由も――例えばこいつとは付き合ってもいい、こいつは遠慮したい――ってなことも感じたままに教えて欲しい」

 え――? 

 これにはメビィならずもこの場の誰もが驚いたように目を見張らされてしまった。周が何を言いたいのかまったく分からなかったからだ。
 だが当の周は嫌味を言っているわけでもなく、はたまたからかっているわけでもなく、至極真剣そうだ。わずか沈黙の後にメビィは素直に答えてみせた。
「……そうね。まずあなた、周さんは付き合ってもいい――っていう方に入るかしらね。理由は――あなたが真剣にアタシを想ってくれたとしたら、おそらく裏切るようなことはしないと思うから。でもアタシの片想いっていうか、あなたがアタシをどう思ってくれているのか分からない内は……自分から打ち明けようとは思わないかも。あなたは自分の芯を持ってる感じがするから、もしもアタシなんか眼中にないっていう場合だったら、告白しても絶対に相手にしてもらえそうにないから」
「ほう? それで――?」
 周は面白そうに続きを待つといった顔つきをする。
「そちらの――鄧さん? 彼も見た目はすごく素敵だけど、彼氏にするとしたら今ひとつ考えてることが読めなさそうでちょっと不安かな。っていうよりもすごく頭が良さそうだから、アタシ程度の女じゃきっと満足はできないだろうなって思うから――例えば第一印象でいいなと思っても、見下されるのが怖くて近付かないかも」
 鄧は『おやおや』と笑ったが、次第に皆も自分が女性にどう思われているのかという興味が湧いたようだ。冰などはドキドキしながら自分はどう見られているんだろうとキョロキョロ視線を泳がせている。
「周さんのご伴侶の冰さん――だったかしら? 彼は心底性質が良さそうで、人間的には素晴らしい男の方だと感じるわ。ただアタシのようなアバズレにはもったいないっていうか、一緒にいて申し訳ない気持ちになっちゃいそうだから恋には発展しないかな」
「ほう? なるほどな」
 なかなかに見る目があるじゃねえかと周はご機嫌だ。
「遼二さんは――見た目は抜群で、もしも相思相愛になれたとしたら最高の旦那様でしょうけど……アタシは……多分真剣にのめり込むことはないような気がするわね」
「ほう? そりゃまたどうしてだと訊きたいわな」
 周が不敵に口角を上げる。
「うーん、素敵すぎて――いつも誰かに盗られちゃわないかってハラハラするのがくたびれちゃう気がするから」
 ペロリと舌を出して笑った彼女に、周は「ハハハ」と声に出して受けてしまった。
「ってことは、アンタが選ぶとしたら一之……いや、紫月ってことか」
「そうね、紫月さんとなら――永く暮らしていく上で背伸びしないでいられそうって思うかも。時には喧嘩もできるし、でもちゃんとお互いを想い合っていられそうだし、何より人間性がすごく素敵! っていうか尊敬してるものアタシ、紫月さんのこと!」
 そう言った側から、『んー、でも……』とメビィは腕組みながら考え込む仕草をしてみせた。
「でもやっぱり紫月さんとは友達でいたいかなぁ。例えば仕事で何かしくじったとか悩んでいる時とかに思いっきり愚痴を聞いてもらえそうだし、その時々でちゃんとしっかり『そうか』って思える答えを返してくれそうだから。心の安寧の場所っていうのかな。恋人や夫婦になれば、例えばお互いに性格が合わなくて別れることになる可能性もあるわけでしょ? でも紫月さんとはずっと繋がっていたい。生涯いい関係でいたいって思うから、別れる可能性のある恋人っていう関係よりも一生付き合っていける友達でいたいかも」
 ひとつひとつ丁寧に詳しく答えた彼女に、それまで黙って聞いていただけだった鄧が興味ありげに口を挟んだ。
「なるほど、面白い考察力ですね。もしかしてあなたは何か心理学のようなことを学ばれたことがお有りですか?」
 医者ならではの視点なのか、周らとはまた別の意味で興味を引かれた様子だ。



◆10
 メビィは驚きながらもその通りだとうなずいてみせた。
「ええ……、実はそうなの。エージェントを目指している時に相手の心を読むっていうか、ちゃんと理論立てて分析できるようにって心理学を学んだわ。遼二さんを嵌めるっていう作戦の時も、チームがアタシに任せてくれたのはアタシなら彼の心を分析できると思ってくれたからなの」
「やはりそうでしたか。お話をうかがっていて、そうした方面のことを学ばれているのだと思ったものですから」
 鄧がそんなことを言うので、周もまたより一層興味が湧いたようだ。
「なるほどな。だったらちょうどいい、もう少し話に付き合っちゃくれねえか?」
「ええ、アタシでお役に立てることなら」
 周はまたしても皆が『え?』と思うようなことを口にしてみせた。
「だったら仮に俺たち全員がアンタに好意を持っているとしてだな。アンタがその気になりさえすれば確実に全員が振り向くだろうってな場合、アンタだったら誰を選ぶ? 実際誰にアタックするか――でもいい。できれば全員について答えられる範囲で構わねえから教えて欲しい」
 さすがのメビィも目を白黒させてしまった。
「そ、そうね……確実にアタシを愛してくれるならっていうことでしょう? だったら――鄧さんかしら」
「ほう? 鄧――とな」
 理由は――? と周が続きを待つ。
「頭のいい人の側でアタシ自身が成長できると思うから」
「なるほど」
 メビィは訊かれた通りに全員について思うことを答えていった。
「周さんでももちろん素敵だと思うわ。さっきも言ったけど、あなたは芯があって恋人や夫婦になったら一途で裏切らないと思うから。冰さんとなら穏やかで安泰な生活が送れそうね。でも幸せ過ぎて欲がなくなるっていうか――アタシ自身の成長が止まっちゃいそうだわ」
 だから冰を選ぶことはないだろうと言う。
「紫月さんとはお互いを高め合っていけそうだし、気取らずにやっていけそう。でも友達感覚の方が先行しちゃって恋人っていうよりも家族的な大切さになっちゃいそうね。だからドキドキできる恋っていう点ではちょっと物足りなく感じちゃうかも」
 えへへと笑いながら胸前で『ごめん』といったように手を合わせる仕草がチャーミングだ。
「だったら鐘崎はどうだ? 見た目は理想、誰かに盗られちまうのが心配ってほどにアンタから見てイイ男だってんなら、そんなヤツが振り向いてくれそうだとしたら、やはり猛アタックしようと張り切るか?」
 ところがメビィは意外な答えを言ってのけた。



◆11
「そうね……猛アタックは……しない。多分しないわ」
 これには周のみならず、当の鐘崎もどうしてだといったように目をパチクリとさせてしまったほどだ。その理由を聞いた一同は更に驚かされてしまった。
「確かに遼二さんは理想の男性だわ。男前だし、側にいたらドキドキするくらいハンサムだし、こんな人が彼氏だったら周囲にも鼻高々よ。片想いの内は何がなんでも手に入れたいと思うでしょうね。でももしも……本当に手に入ってしまったら案外その情熱が一気に冷めてしまうような気がするの」
 それはなんとも驚きの見解だ。
「例えば遼二さんと会って一目惚れしたとするわね。彼の方も満更じゃなさそうだと感じれば、とにかく猛アタックして手に入れようとする。でも実際手に入ってしまったら、急に現実が見えるようになる。例えば遼二さんはすごく男前だけど人形じゃないわ。こんな言い方したら下衆な女と思われるでしょうけど、人間だからオナラもするしイビキもかくでしょう。そういった現実を目の当たりにした時、それが普通の男性なら当然と思えるけど、こんな素敵な人が――って幻滅感がすごいと思うの。見た目が素敵過ぎるから勝手に理想化するのよね」
 さすがに心理学を学んだというだけあって、一般的な見方よりも少々奥深い様子だ。周のみならず皆はメビィの話に釘付けにさせられてしまった。
「アタシも例の作戦の時に思ったけど、遼二さんは自分がイイ男だっていうのを自覚しているんだろうなって感じたわ。おそらくこれまでにもたくさんの女性からアプローチを受けてきて、その回数が多すぎる為にいちいち断ることが面倒に感じているんじゃないかしらって思った。表向きは普通に接してくれているんだけど、どことなく距離を置かれてるっていうか敬遠されてるっていうか――誰に対してもある一定の壁のようなものを持っていて、ここから先は近付いてくれるなっていうオーラを放ってるっていうのかしら。多分無意識なんでしょうけど、これはなかなか手強いぞって思ったわ」
 大概はそんな雰囲気の男に会えば高飛車で嫌なヤツだと思い、ちょっと顔がいいからって気取ってるんじゃないわよ――と、自ら離れていく女も多いだろうと言う。だが逆にそんな男だからこそ振り向かせてみたいと躍起になるタイプも中にはいるのも現実だ。
「まさにアタシはそのタイプだったわね。こうなったら何がなんでもこの男を落としてやろうって思ったわ。特に遼二さんには男性の連れ合い――紫月さん――がいたし、それなら尚更女の魅力を教えてあげるわって気になったわね」
 メビィは苦笑ながらも先を続けた。
「アタシの場合は仕事がらみだったし結局失敗しちゃったけど、これがもし単なる恋心で失恋ってことになったら、女としては逆恨みの感情が芽生えても不思議じゃないわ。だって好きになってから何となく距離を置かれてるのかなって感じながらも、それでも精一杯自分を奮い立たせて少しでも遼二さんに振り向いてもらおうって努力してきた女がよ? まあ努力って言い方が合ってるかは別として、自分はあまり好かれてないんじゃないかと不安になりながらも何とか気に入ってもらおうと頑張ってきたのに、結局失恋――なんて結果になったら、それまでの想いがペシャンコにされてしまうような気になるでしょう? もちろん遼二さんは何ら悪くないし、恋が叶う叶わないなんていうのは誰の責任でもないんだけど、女からしたら自分を曲げてまであなたを好きだって言ってあげてるのに――って、だんだん恨みの気持ちに変わっていっちゃうこともあると思うのよ。この前紫月さんを襲ったっていう女性も遼二さんへの想いが叶わなかったことへの逆恨みだったんでしょう?」
 メビィの方からその話が出たところで、周はいよいよ核心へと振った。
「やはりアンタもそう感じるか。実はな、この鐘崎はどういうわけか厄介な相手に惚れられることが多くてな。アンタ、心理学をやってたというなら、どうすりゃそういうのを回避できるかってな方法を知らねえか?」
 客観的な目線でアドバイスがあれば聞いてみたいというその言葉に、皆はなぜ先程から周がわざわざこんなことを言い出したのかが理解できたようであった。鐘崎の為に少しでも彼が楽になれる方法があればと思ってのことだったのだ。



◆12
 メビィもまた、周が何を知りたがっているのかが理解できたようだ。この前のような事件に発展させない為には、鐘崎が今後どのように振る舞っていけばいいのかということが訊きたいのだろう。
「なるほど、そういうことね。今後もしもまた厄介な女に好かれちゃった場合、はっきり断った挙句逆恨みを買わないようにするにはどうしたらいいかってことでしょう?」
 メビィは少し考えた後、彼女なりに思ったことを話してくれた。
「そうね、まずは遼二さんが無意識の内に持っている警戒心の壁を取り払うっていうことかしら」
「警戒心の壁――だ?」
 周が訊く。
「ええ、そう。さっきも言ったけど、ここから先は触れてくれるなーっていうオーラみたいなの? 俺に惚れるなよ、惚れられても困るぞ、そうだ――だったら最初からあまり愛想を使わないでおこう。必要以外は喋らないでおこう、相手に誤解をさせない為にもあまり笑わないでおこう、とかいう目に見えない壁のようなものを持たないようにすることって言ったら分かりやすいかしら?」
 それを聞いて一番驚いたのは鐘崎だった。何故なら同じことを父の僚一からも言われていたからだ。心理学の心得があるというメビィがそう指摘するのだから、やはり自分でも気付かない内に他人と距離を取ろうとする思いが働いているのかも知れない――と、そう思った。それにしても既にそういったことを見抜いていた父の僚一はさすがだと思わされる。
「多分、遼二さんにとっては無意識なんだろうと思うのよ。だから警戒心を取っ払えって言われても、何をどうすればいいのか分からないって悩むかも知れないけど――。だったらこう考えてみて? 今アタシたちはたくさんの人の目につくオープンカフェでお茶をしているわね。道ゆく人は『あら、イイ男の集団がいる!』って思ってアタシたちを見ていく。でも遼二さん、いつもよりも気が楽っていうか、ここではあまり人の目が気にならないでいられるんじゃないかしら?」
 メビィに聞かれて、鐘崎も確かにその通りだと思ったようだ。
「……そう言われてみれば……そうだな。全く意識していなかったが、普段よりは気持ちが軽い――というか、今言われるまで人の目が気にならなかった気がするな」
 指摘されて初めて気がついた思いだ。――つまり、今のこの状態こそが以前父の僚一が指摘した心に高い壁を持たないという感覚なわけだろう。直後に続けられたメビィの言葉でその思いは更に具体的となった。
「じゃあここが東京だったらどう? あなたはきっともう少し居心地が悪いと感じるんじゃないかしら?」
 言われてみれば確かにその通りかも知れない。鐘崎は驚いたようにしながらもその通りだと言ってコクリとうなずいた。
「確かに……ここだと気が楽っていうのはあるな。日本にいる時はどうしてもピリピリしちまってると思う」
「その原因は、東京だったら家も近い。万が一誰かに興味を持たれた場合、いつまた何処で偶然に会ってしまうかも知れない、下手をすると後をつけられて家を突き止められるかも知れない、そういった警戒心が湧くからなのよ。遼二さんにとっては自分がイイ男であるっていう自覚が強いが故に、付き纏われたらどうしようっていう警戒心がまず先に立ってしまうんじゃない? もちろん無意識だから遼二さんにはどうすることもできない自然現象のようなものなんだけど――」
「――実は同じことを親父に指摘されてな。俺が辰冨さんの娘の件でどうしたらいいかと思い詰めてた時だった。必要以上に警戒心の壁を高くするなと言われたが、実際はどうすりゃいいのかよく分からずじまいだったが――今のメビィの話を聞いて何となく形が見えたというか……具体的にどうしたらいいのかというきっかけが掴めそうな気がしてきた……」



◆13
 鐘崎曰く、自分で自分がイイ男だとは思っていないが、愛想がないのは認めるところだし、確かにそういった警戒心のようなものが全く無いとは言い切れないかも知れないと言った。
「俺には紫月がいるし、仮に恋愛感情を向けられても応えられない。だがそれをどう説明すれば分かってもらえるのかと悩むのは事実だ。せっかくの好意をあまり邪険にしてはすまないと思うが、断った挙句に逆恨みされても面倒だ――とも思う。その逆恨みが俺に向けられるならまだしも、紫月に向けられたらと思うと恐怖に感じるのは確かだ。実際、この前は紫月に向けられてしまった。今後もしも同じようなことがあったとしたらと考えると……恋愛感情を持たれること自体に嫌悪感が湧いてしまっている。実はあれ以降もそういう感情を向けられた際に、俺は失礼と思えるほどの態度で断ったのは事実だ」
 まるでカウンセラーに打ち明けるかのように素直な言葉がついて出る。と同時に、鐘崎が人間不信に陥りそうになっていることを周をはじめ周りの皆はずっと心配してくれていたのだということにも気づいたのだった。
 そうか――周が先程からメビィに『何でそんなことを訊くのだ』というような質問を投げ掛けていたのはそういう理由だったのだ。以前に自分を嵌めたことのあるこのメビィに、その時の気持ちを聞くことで少しでも自分が今抱えている悩みの突破口になればと思ってくれたのだろう。鐘崎は今更ながら皆に心配を掛けていたことを申し訳なく思った。
 メビィにしてもそんな鐘崎や周らの気持ちが分かったのだろう。もう二度とこの前のように紫月を危険な目に遭わせない為にはどうすればいいのかと思い悩む鐘崎の気持ちが手に取るようだった。
「ねえ遼二さん、さっきアタシがあなたには多分猛アタックはしないと言った理由だけど、それはあなたを手に入れるまでは必死になっても、実際手に入ったらいずれこうなるだろうっていう先が見えるからなの。それはね、こんなにイイ男でもオナラもするしゲップもする、なんだ普通の男とどこも変わらないじゃないの! だけどその割には気位高そうだし、正直言ってユーモアもないわ。顔がいいだけで安らぎも面白みもないなんて、これじゃもっと他の――一緒にいて気が楽な男の方が断然いいじゃないっていうことに気がつく時が来るから――っていうのが心理学上のアタシの意見」
 かなり辛辣な言い草だが、鐘崎には続きが気になって仕方ないらしい。気分を害するどころか、もっと自分を分析して欲しいといったような顔つきで話の続きを待っていた。
「何が言いたいかっていうと、要はそんなに気張らずにいられるようになった方が楽よという意味。あなたは確かに格好いいし、その見た目だけで女を惹きつけてやまないのは事実だわ。でもそれが鬱陶しいと思うが故に、あなたが相手との距離を取れば取るほど逆にこの男をどうにかして手に入れたいっていう天邪鬼な気持ちに火をつけちゃうこともあるんじゃないかしら。あなたが思うようにならないから、その腹いせにあなたが大事にしている紫月さんを傷つけてやるわっていうような感情を起こさせちゃうこともある。でもあなたが鷹揚に構えていれば、いずれ女の方からこの人も普通の男なんだって気がつく時がくる。いざ手に入ったところで理想なんてすぐに崩れちゃうものよ。一生付き纏われるどころか案外飽きられちゃって女の方から逃げていくかも知れないわ。だから――」
 あまり疑心暗鬼にならないで、もっと楽に構えていたらいいのよと言ってメビィは笑った。



◆14
 鐘崎はすっかり憑き物が落ちたような表情でいたが、逆に紫月の方は『おいおい』と言ってげんなり顔で肩を落として見せた。
「ひっでえなぁ、メビィちゃんってば! そんじゃ俺は屁もこくしゲップもするユーモアの無えつまんねえ男とくっついてるってことじゃん」
 紫月の言い方が可笑しかったのか、皆は思わず噴き出しそうにさせられてしまった。冰などは飲み掛けたソーダを喉に詰まらせてしまい、ブハッとテーブルにぶち撒けた挙句苦しそうにもがいている。
「あ……悪ィ! 冰君、ダイジョブか?」
 紫月が慌ててハンカチを差し出すも、既に周が自分のハンカチで冰の顔を拭いてやっていた。源次郎はここで笑ってはいけないと堪えた顔が苦虫を噛み潰したようになっていて、鄧はその真逆で額を手で覆いながら椅子の背もたれにのけ反って大笑いをしている。唯一真面目な表情で、スッキリ胸のつかえが取れたような顔つきでいる鐘崎の肩を、隣に座っていた周が突っついた。
「おいコラ、カネ! てめえの嫁が笑かすからー! うちの冰がソーダをぶちまけちまったじゃねえか! 可哀想にこんな咳き込んじまって!」
 よしよしと背中をさすりながらも、どーしてくれんだといったふうに目を逆三角に吊り上げる。まるで漫画でいうなら『カーッ』っと牙を剥いた絵面を連想させるような周に、再び場は大爆笑と化した。
 そんな中、鐘崎が皆を見渡しながら真摯な言葉を口にした。
「ありがとうな、皆んな。俺は――あの事件以来ずっと殻にこもっていて……皆に心配を掛けてしまった。ここでメビィに会えて、氷川が何とか突破口を見つけてくれようとしたこと――本当に有り難くて堪らねえ。メビィが心理学をやってたことは意外だったが、いろいろな意見を聞けてすごく為になった。すぐには変われるかどうか分からんが努力していく――。今までは好意を寄せてくれる誰かが現れたとしても、俺はてめえのことを棚に上げて、心のどこかでその好意自体に非があるふうに思っていたのかも知れない。そういったことを冷静に見つめ直して――いい方向に変えていけるよう努力する」
 本当にありがとう、心配を掛けてすまないと言って鐘崎は頭を下げた。
 その姿は以前のやさしい彼だった。優柔不断で口下手で、時には誤解もされるが本当は気のやさしい男――。事件以降、まるでその身を刃のように尖らせてきた深い傷が少しずつ癒されて、抉られる前の元の綺麗な大地が戻ってくるかのようだった。
「ん、いーじゃん! なんも気張るこたぁねえさ。おめえが屁ぇここうがつまんなかろうがユーモア言えなかろうが、俺ァおめえのそーゆートコロが大好きだからさ! 世界中のオナゴが寄ってこようが逃げてこうが、俺だけは一生おめえの側で笑っててやっから心配すんな!」
 紫月が鐘崎に向かって胸を張りながらそう言って笑う。
「紫月……」
 思わず滲み出した涙を堪えるように鼻を真っ赤にした鐘崎の隣で、
「ああ――つか、普段から屁はこき合ってっからなぁ。今更だけっども。なぁ、遼?」
 ごくごく当たり前のようにそう言った紫月に、再び大爆笑が巻き起こる。鐘崎もまた、その通りだと言ってはグイと涙を拭いながら笑った。
「ああ、俺だって同じだ。おめえのすることならどんなことでも――それこそ屁だろうがイビキだろうが可愛くて仕方ねえ」
「だろぉー?」
 紫月は満足そうに『うんうん!』と満面の笑みを浮かべている。人目も気にせず堂々のいちゃつきっぷりに、皆の視線も自然とゆるむ。そんな中、冰だけが真顔でパチクリと瞳を見開きながら意外なことを口にした。
「そういえば――俺、白龍のオナラって聞いたことがないかも」
 いいなぁ、聞いてみたいなぁと、大真面目な顔付きで周を見つめながら期待顔をする。
「マジッ!? 氷川、てめ、家で屁ぇこかねえの?」
 紫月は紫月で物珍しいモノでも見るような驚きぶりでいる。
 さすがの周もタジタジとさせられてしまった。
「――そうだったか? まあなぁ――屁くらいならいつでも聞かせてやれるがな」
「ホント!?」
 だったら早速今夜にでも――と瞳を輝かせた冰に、
「……つーか、出物腫れ物所嫌わずとは言うがな……出せと言われて待たれてたんじゃ、出るモノも引っ込んじまうだろうが……。っていうかなぁ、何で屁の話でこんなに盛り上がってんだ?」
 実際、いざ出せと言われてもそう都合良くいくものでもない。口をへの字にしながら悩む周の姿に、場は再び大爆笑と化した。
「ふふふ、本当に素敵なご夫婦ね! 周さんご夫婦も、それに――遼二さんも紫月さんも、皆さんこんなにカッコいいのにお互いの前では気取らずにいられるんだもの。そんな相手がいるっていうことこそが何よりの幸せだわ。怖いものなんて何もないじゃない!」
 だから肩の荷を下ろして、お互いに接するように楽に自然にしていればきっと大丈夫よと言ってメビィは微笑んだ。
「そうだな。お陰で今まで見えていなかったものが掴めそうな気がしてきた。メビィも氷川も、それに皆んなも――ありがとうな、本当に!」
 ああ戻ってきた、以前の鐘崎が帰ってきたのだと安堵する。午後の陽射しの中、皆は安堵の思いのまま朗らかに微笑み合ったのだった。



◆15
「あら、もうこんな時間! そろそろ行かなくちゃ!」
 手元の時計を見やりながらメビィは立ち上がり、『そうだわ』と言って閃いたように瞳を見開いた。
 そのままちょっと待っててと言い残し、一旦仕事場にしているホテルへと駆け戻ると、しばらくして息を切らしながら戻って来た。彼女の後方からはチームのメンバーだろうか、エージェントらしき男が小学生くらいの子供の手を引いてついてくる。
「ね、あなたたち今回はバカンスだって言ってたわね? だったら引き受けてくれないかしら」
 そう言って子供を紹介してよこした。
「この子は王子涵君、年は十歳よ。今うちのチームが引き受けてる事件が落着するまで預かってる子なんだけど――あなたたちが面倒見てくれないかしら?」
 三日もすれば依頼は片付くと思うからそれまででいいわと言って彼女は笑った。
「いや、ちょっと待て――。預かるったって……」
「俺たちゃ休暇で――」
 周と鐘崎が顔を見合わせるも、メビィは既にその気だ。
「いいじゃない、どうせ休暇でヒマしてるんでしょう? それにね――」
 鐘崎に耳打ちするように小声になると、
「あなたにとってもちょっといい経験になるかも!」
 そう言ってウィンクしてよこした。
「いい経験って――」
「この子ね、ちょっと気難しい子なの。悪い子じゃないんだけど、とにかく大人を信用していないっていうか、誰のことも受け入れないっていうか。何か心に鍵が掛かっちゃってるっていう感じなのかな。そんなところが遼二さんに似ている気がするの」
 心理学者ならではの見解なのか、なんとも自信ありげだ。三日でいい、共に過ごす中であなたにもこの子にも何かきっかけが掴めるかも知れないわと言って、メビィは笑った。
「お願い!」
「――ま、仕方ねえ。そんじゃ置いてけ」
 肩をすくめつつもそう言ったのは周だった。先程のカウンセリングで世話になったことだし、極道の世界ではそれに対して礼を重んじるのは確かに大事だ。周に続いて皆が承諾すると、メビィはよろしくねと言って子供を預けていった。
 その後ろ姿を見やりながら一番最初に声を掛けたのも周だった。
「おい、坊主。俺は周焔だ。お前さんは三日間俺たちと過ごすことになった。いいな?」
 すると子供はビクッとしたようにおずおずながらも素直にうなずいてみせた。
 陽が傾き出して湾の波間をキラキラと照らしている。
「夕飯の前に一旦ホテルに戻るか」
 預かった子供の着替えなど荷物もあることだしと、一同は宿泊先のホテルへ帰ることにした。
 フロントで鍵をもらい、エレベーターで最上階へと向かう。周と鐘崎の部屋はペントハウスのコーナースイート、隣り合わせだ。源次郎らは同じ階の隣接した――こちらもスイートタイプの部屋である。
「さて――と。部屋を決めにゃならんな」
 周は子供を見下ろしながら訊いた。
「坊主、お前の好きな部屋を選べ」
 皆でそれぞれの部屋の前に立ってどこでもいいぞと言う。
「……部屋」
「ああ。お前さんの過ごす部屋だ。誰と一緒がいい? 遠慮せずに好きなところを選べ」
 子涵という少年は戸惑いながらも大人たちを見渡すと、冰と紫月を指差してみせた。
「このお兄さんたちのところ……」
 子供といえども目は確かだ。瞬時に一番人畜無害な冰と紫月を選ぶあたりは感心させられてしまう。



◆16
 だが、冰と紫月の部屋は別々だ。冰は周と一緒だし、紫月は鐘崎と同室だ。
「ふむ、この兄ちゃんたちは別々の部屋だ。この冰は俺と同室、こっちの一之宮はそこの兄ちゃんと一緒だからな。どっちがいい」
 すると子涵はちらりと二組の男たちを見上げながら、迷った挙句に紫月の方に歩を寄せた。
「ほう? そっちがいいのか」
 周が訊くと、子涵は上目遣いながらコクンとうなずいた。
「だっておじさん、顔怖えもん……。こっちの兄ちゃんの方がまだマシ……」
 鐘崎を指差しながらポツリとつぶやかれ、その瞬間に『なぬッ!?』というようにして周は固まってしまった。

「おじさん――だ?」

 しかも今の言い草だと周のことはおじさんと言ったが、鐘崎のことは兄ちゃんと呼んでいた。
「おい……ガキ……」
 コミックでいうところの――顔面に闇色のトーンでも載っていそうな顔つきで、ジロリと見やるその表情は蝋人形のようだ。その様子を見ていた紫月がすかさず少年の肩を抱き寄せながら笑った。
「おいおいおい、ンなおっかねえツラで睨むなっつのー。可哀想に怯えちまってるじゃねえの」
 よしよし、大丈夫だからなと少年の頭を撫でる。周は依然苦虫を噛み潰したような表情で口をへの字にしている。
「プッ……ククク」
 突如鐘崎が噴き出したのに、少年はポカンとしたように彼を見上げた。
「――だそうだ。坊主はこっちで預かる」
 『じゃあな、おじさん!』と言いながらもヒラヒラと手を振って部屋へと入っていく鐘崎の後ろ姿を見つめながら、
「ンにゃろ……てめえだって俺と同い年のくせに――。おい、坊主! 言っておくがな、生まれた日からすっとそのオッサンの方が俺よか五ヶ月もジジィだかんな」
 まるで両方の鼻の穴からフーッと息を吹き出さん勢いで地団駄を踏みながらも、すっかり以前の性質を取り戻したろう友を見つめる瞳が穏やかに細められる。
「白龍ったら! ふふふ」
 冰はそんな亭主を誇らしく思うのだった。

 部屋に入り少年の荷物を置くと、ちょうどメビィから鐘崎宛てにメールが送られてきた。添付ファイルが付いていて何やら容量も多そうだ。鐘崎が開いて目を通すと、それは彼女のチームが請け負っている案件と少年との関係などが詳しく記されているものだった。その間、紫月の方は少年の服などをクローゼットにしまったりしながら、自己紹介を兼ねて交流を図っていた。
「王子涵《ワン ズーハン》君――だったな? 俺は紫月! 紫月でも紫月ちゃんでもいいぜ。んでもってあっちの兄ちゃんは遼二な! 遼でも遼ちゃんでも呼びやすいように好きに呼んでくれよなぁ!」
「紫……月ちゃんと遼ちゃん……?」
「ん! そうだ。仲良くしてくれなぁ!」
「う、うん……」
「よっしゃ! んじゃ、子涵のクロゼを決めるべ。ここは俺も遼も使ってねえから、子涵専用で自由にしてくれていいぜ」
「う、うん……ありがと紫月……ちゃん」
「いんや、どういたしましてー」
 先程聞いた話では少々気難しい子供だということだったが、話し掛けられれば一応は応える素振りを見せている。こういう時にフレンドリーな紫月の性質には本当に助けれらる。鐘崎は心の中で感謝しつつも送られてきた資料にザッと目を通すことにした。



◆17
 それによるとメビィらの護衛対象は預かった少年の父親らしい。台湾でIT関連の大手企業を経営しているCEOのようだが、彼の社が開発したシステムを巡って、とある組織に狙われているとのことだった。
 そのシステムが世に出回ると、どこぞの組織にとっては少々都合が悪いらしい。発売を阻止するだけでなく、ソフト自体を葬ってしまいたいが為に命を狙われているとのことだ。
 ここ一ヶ月の間はメビィらのチームが張り付いて台湾中のホテルを転々としていたそうだが、今朝からは香港へとやって来て、たまたま先程会ったカフェの近くに滞在する予定だという。まさか子供の命まで狙うとは思えないが、父親と共にいれば少なからずリスクはあるとのことで、メビィが鐘崎らに預けたのは彼らの手元にいれば安全だと思ったからだそうだ。
 体良く押し付けられた感は否めないところだが、確かに子供を抱えていては万が一の時に不安要素となるだろう。メビィの話ではあと三日もあればカタがつくとのことだが、ということはそろそろ大詰めにきていると思われる。
「こいつぁ……何かしら加勢が必要になるかも知れんな」
 鐘崎は周にも情報を伝えるべく隣の部屋へと向かった。源次郎と鄧にも一旦周らのスイートに顔を出してもらうことにする。
 経緯を説明する傍らで源次郎がすぐに少年の父親について調査に掛かった。インターネットで社のページを開いただけで源次郎にはその素性がおおかた分かったようだった。
「ああ、ここの社長殿ですか。IT関連の有名どころですな」
「源さん、知ってるのか?」
「ええ。少し前に僚一さんともこの社についての話題が上がったことがありましてな。問題のソフトというのは画期的なシステムだそうで、発表前に他社から狙われないかと危惧されていたそうですよ」
「何のソフトなんだ?」
「確か次世代コンピュータの大元になるとかで、いわゆる空中ディスプレイに関連したものだったような――。現在、開発は世界中で進んでいますが、コストと流通という面ではまだまだ課題が残ります。彼の社が開発しているシステムが広く流通の要になるとかだったような――」
 つまり同業者にとっては喉から手が出るほど欲する情報ということか。
「まあ、まだ段階としては第一歩といったところのようで、実のところスマートフォン並みに我々庶民の手に広く流通するまではもうしばし時間が掛かるようですが――」
「なるほど――」
「ただ、狙っている相手が少々厄介ではありますな」
「――と言うと?」
「おそらく同業種の企業でしょうが、メビィさんたちのチームが護衛につくくらいです。相手も裏の世界の者を抱え込んでいると見て間違いないでしょう」
「ふむ、台湾を出てこの香港に逃げてきたということから考えても、いよいよ緊張状態が切迫しているというわけか」
「まずはその相手を確実に絞るしかないでしょうな。この資料によると、メビィさんのチームでもまだ完全に敵の正体を掴めていないようですな」
「だがさっきの話だとあと三日もすればカタがつくってことだったが」
「そうですね。実はここ香港でこの週末にIT関連の大々的な会合が予定されています。もしかしたらその会合で彼の社が開発したシステムというのが発表されるのではないでしょうか?」
「――なるほど。メビィらがそのCEOと共にこの香港にやって来たのは、単に敵から逃げて来たというだけではないということか」
「あと三日でカタがつくということから考えても十中八九それで当たりではないかと――。まあ実際、台湾でもここ近日中で何かしらの実力行使を受けていたのかも知れません」
 諸々の理由から台湾を出て香港へと避難して来たということだ。



◆18
「では――敵は武装組織を雇って、あの坊主の父親を亡き者にしようと企んでいるということか」
「おそらくは――」
「そんな状況でホテルなんぞに対象者を置いておいて大丈夫なのか?」
「チームの方々も万が一の時の移動先は複数念頭に置いてあるでしょうな」
「うむ……一度メビィらのチームを訪ねるか。もう少し詳しい情報が欲しい」
「それと、預かった少年ですが、彼の居場所を突き止められない為にも変装が必要かも知れませんな」
 まあ極力ここから出ないに限るが、食事などでレストランに出歩けば、いつ何処で敵の目が光っているやも知れない。準備は手厚くしておいて損はないだろう。
「女装でもさせるか。あの年頃のガキならカツラを被せりゃ女に見えるだろうが」
 周が真顔でそんなことを言う。
「本人が素直に『うん』と言うかというところだが――」
「ガキ相手に命の危険が迫ってる――とは言えねえだろうしな」
 鐘崎と周が考え込んでいると、冰が名案を口にした。
「だったらこの際俺たちも女装するっていうのはどう? 俺と紫月さんとさっきの子涵君で女装して、仮面舞踏会に行こうって誘うの」
 突飛な発想だが悪くはない。
「仮面舞踏会か。案外いいかも知れんな。ガキの退屈凌ぎにもなるだろう」
「問題は場所だが――」
「俺の実家はどうだ。ファミリーが経営しているホテルのペントハウスはプライベートスペースになっていて一般の客は入れないからな。そこに匿うでもいい。親父と兄貴に言って、簡単なパーティをでっち上げるくらいはできるだろうぜ。何も本格的な仮面舞踏会にせずともガキにそれらしく思わせることができりゃいいんだろ?」
 だったら少々豪勢な夕食会程度で済むだろうという。ホテルといってもいわば周ファミリーの所有する別宅の内のひとつといったところだ。
「それに――親父の手元で預かりゃ、この香港の中ではどこにいるより安全だろう」
 周が頼もしいことを言ってくれる。
「――そうだな。有難いが、親父さんたちにとばっちりがいかんように細心の注意を払いたい」
 鐘崎は鐘崎で周ファミリーに要らぬゴタゴタを残さないようにと気に掛ける。相手も裏の世界の組織であることは間違いない。ファミリーが関わったことで後々新たな火種を香港に残しては申し訳ないとの思いからだ。
「なに、ガキ一人預かるくれえでどうなることでもないだろう。カタがつくまでペントハウスのフロアから出さんようにすればいい。一般的なホテルと違ってうちが経営しているところなら自由も効く。ファミリーの専用ルームにゃ部屋付きのプールなんぞも備わっている。ガキにとっちゃ天国同然さ」
 子供の件は周の厚意に甘えることにして、冰と紫月には早速変装の準備とファミリー経営のホテルへと移動を手配することになった。
「俺も老人か何かに変装してメビィらのチームと合流する。そっちのことは任せたぜ」
 鐘崎自身も変装で身元を隠すことにして、一同は二手に分かれることにした。

 ところが――だ。

 何と少年は仮面舞踏会などで遊んでいる暇はないと言って、鐘崎らの提案を拒んだ。
「まあそう言うな。変装してのパーティだ。きっと楽しいと思うぞ? 部屋にはプールもあるし、ここと違って他のお客さんは誰もいない。俺たちだけで悠々自適に遊べるぞ」
「……でも僕、夜はお父さんの所へ帰らなきゃ」
「親父さんにはお前が俺たちと一緒にいることを伝えてある。心配はいらねえ」
 鐘崎がしゃがみ込んで少年の目線と合う位置でそう微笑むも、彼は頑なだ。
「ダメだよ……僕が帰らないとお父さんがあのおばさんに嫌なことされる……」
「おばさん?」
「お父さんの秘書をしてるヤツ……。あのおばさん、お父さんのことが好きなんだ。お父さんにはお母さんがいるっていうのに……いつもベタベタして……すごく嫌!」
 だから自分が側にいて守ってやらなきゃならないのだと言う。
「けど、子涵の母ちゃんも父ちゃんと一緒にいるんだべ? だったら大丈夫じゃねえのか?」
 紫月も一緒になって説得するも、少年からは意外なことを聞かされる羽目となった。
「お母さんはいない……。もうずっと前に家を出て行っちゃった……。きっとあのおばさんが追い出したに決まってる……!」
 鐘崎も紫月も、そして周らも皆で顔を見合わせてしまった。



◆19
 大人を信用していない子なの――メビィがそう言っていたが、どうやら理由はそこにあるというわけか。
 しばし考えた後に鐘崎が少年の肩に手をやりながら穏やかに言った。
「分かった。じゃあ俺が確かめてやる。お前のお父さんがその秘書のおばさんをどう思っているのかってことをちゃんと聞いてやる。だからお前は安心してこの兄ちゃんたちと舞踏会へ行くんだ」
「でも……」
「大丈夫だ。俺が責任をもって必ずお父さんを守る」
 な――? と言って頭を撫でると、少年は渋々とうなずいた。
「よし、いい子だ」
 鐘崎は『そうだ』と言って紙とペンを取り出した。
「せっかくだからお父さんにお前からのメッセージを書け。何でもいいぞ。身体に気をつけてでもいいし、風邪引かないでねでもいい」
 俺が渡しておいてやると言う。
「……うん」
 少年は存外素直にペンを取って書き出した。
「よし! お父さんには必ず渡す。心配せずに待ってるんだ」
 その後、源次郎が手配してきた女装用の衣装に着替えると、紫月と冰は化粧も施してすっかり美女に変身。少女に変装させた子涵少年を連れて周と共にファミリーの元へと向かった。

 時刻は間もなく夜の七時になろうとしている。

 鐘崎はひとまずメビィらのチームと合流することにして、その間ホテルに残った源次郎が子涵の父親を狙っている組織について調べることとなった。
「私の方では日本にいる僚一さんにもお知恵をお借りして、詳細を突き止めることにいたします。若もお気をつけて」
「ああ、頼んだ。俺もチームに詳しい事情を聞いたらすぐに氷川たちと合流する」
 鐘崎は老紳士に化けると、細心の注意を払いながらメビィらのいるホテルへと向かった。



◇    ◇    ◇



「あら! もしかして遼二さん……!?」
 訪ねて来た老紳士を見てチームの面々は驚いていたが、以前組んだ警護の際に鐘崎の変装を見て知っていたメビィにはすぐに彼だと分かったようだ。
「相変わらず完璧な変装ね!」
「資料をどうも。それでな――ちょいとお前さん方にもう少し詳しい事情を聞きに来たんだが」
 鐘崎から仮面舞踏会のことなどを聞いたチームの者たちは、世話を掛けてすまないと恐縮していたものの、実のところ合流してもらえて助かったというように胸を撫で下ろしていた。
「鐘崎殿、此度はうちのメビィが勝手を押し付けてすまない。だが正直我々も切羽詰まっていてね」
 チームのボスが頭を下げてよこす。
「いえ、こちらもメビィにはいろいろと助けてもらったことだし、何か力になれれば幸いです」
「そう言ってもらえて助かるよ。周ファミリーにまでお手数をお掛けして申し訳ない限りだが――」
「いえ、お構いなく。それで早速現状を教えていただきたいのですが――」
「ああ、説明しよう」
 ボスを中心にチームのメンバー数人がそれぞれ把握している事柄を報告し合った。



◆20
 それによると、子涵の父親の社で開発した空中ディスプレイに関するシステムが狙われていて、そのシステムを引き渡さない限り命はないと脅迫されているとのことだった。ここまでは源次郎の想像通りである。ただひとつ違ったのは、システムを狙っている相手が同業者などではなく、もっと危ない連中のようだというのだ。
「危ない連中というとどのような――です?」
 鐘崎が訊くも、肝心の正体までは掴みきれていないという。
「我々も当初は敵が同業者だと踏んで調べを進めていたのですが、どうも違うようです。CEOのお話ではその同業者の中にも脅迫めいた行為に遭っている方々がいらっしゃるようで、それ以前に空中ディスプレイに関しては皆で協力し合って開発を進めようということだったらしく、同業者が犯人だとは考えられないと――。脅しのやり方から考えてもおそらくは裏の世界の者だろうと思われるのだが――」
「と言うと、どのような脅しなのです?」
 元々子涵の父親から警護の依頼を受けたのは台湾のエージェントチームだったそうなのだが、彼らは別の任務に携わっていて手が離せない為にメビィらのチームに護衛の任務が回ってきたらしい。狙われているシステムが世界的に公表され、特許が下りるまでの間の警護ということだったそうだが、台湾にいる間に幾度か武力行使を受けたとのことだった。
「ヤツらはスナイパーを抱えていましてな。これまでに三度ほどCEOの命を狙ってきましたが、そのどれもが威嚇の射撃でした。わざと外して撃ってきたのは明らかで、相当に腕のいいスナイパーだと思われます。またその間、彼の社にも侵入され、コンピュータ室のデータを破壊されるという実害も受けています。ただし肝心のシステムは別に保管されていた為に無事でした」
 システムの発表日が明後日に迫っている為、何としてでもあと三日を凌ごうと、台湾を出てこの香港へ避難して来たのだそうだ。
「――なるほど。それであと三日が勝負ということですか」
 メビィが三日でカタがつくと言っていたのはそういう意味だったわけだ。
「システムが発表されてしまえば敵も手出しはできなくなります。おそらくは既に敵もこの香港へやって来ていると見て間違いないでしょうが、ここにCEOがいるということを突き止められんようにせねばと思っています」
 彼には万が一に備えてGPSを所持してもらい、ホテルの部屋からは一歩も出ずに身を隠してもらっているという。
「しかしながらお子さんにとって、ここに缶詰というのも少々酷なことでしたからな。あなた方に預かってもらえたことは有り難く思っております」
「少年のことはとりあえず心配はいりません。我々が責任を持って保護します。今、うちの者が敵組織についても調べを進めておりますので、何か分かり次第お知らせします」
 鐘崎は一通り事情を聞いたところで、少年の父親に面会を申し出た。
「子涵君からもお父さんに渡して欲しいと手紙を預かってきておりますので――」
 これですと言って、先程子涵に書かせたメモを見せた。内容は取り立ててどうということもない親子の会話で、パパ風邪引かないようになどということが書かれてあった。
 チームもまさか鐘崎が敵と通じているなどとは思っていないが、念の為疑わしき種を作らないようにと鐘崎が自らチームの皆に公開したのだ。
「そうですか。子涵君もお父さんを心配しているのでしょうな。どうぞ、ご案内しましょう」
 ボスの許可を経て、鐘崎は子涵の父親との面会に漕ぎ着けたのだった。



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