極道恋事情
◆21
彼の部屋まではメビィが案内してくれることとなった。
「ところで、少年の母親についてだが――今は別居しているそうだな」
メビィもまた、ああ――それはと言って経緯を話してくれた。
「実はあの子のご両親は数年前に離縁されているの」
「離縁だって? じゃああの子供はそのことを知らねえってわけか?」
「ええ……。ご事情がご事情なんで、子涵君には本当のことを話していないそうよ」
それというのは離縁の原因が子涵の母親の浮気だったからだそうだ。
「浮気?」
「ええ。他所に男の人を作って出ていってしまったそうなの」
相手の男というのは以前亭主の社に勤めていた者だったらしいが、離縁の際に彼もまた退社したということだ。
「なんでもえらく若い社員だったそうだけど。CEOと奥様は元々歳の離れたご夫婦でね、奥様は二十歳になる前に嫁いでいらしたらしいんだけど、お忙しいご主人の側で退屈されていたとか」
結婚当時、子涵の父親は既に四十を迎えていて、親子ほど歳の違うことから、周囲からの波風も厳しかったようだ。
「財力という面では言うことなしだから、奥様もそれで結婚を決めたんでしょうけど、いざ実生活に入ってみると理想とは違ったのかも知れないわね。お子さんが生まれて数年はそちらに手を取られて何とか夫婦生活を続けていられたようだけど、その子が小学校に上がる頃にはご夫婦の仲が冷え切っていたそうよ。まあ今はCEOもいいお相手がいらっしゃるようだけれど、さすがに子涵君のことも考えてか再婚には至っていないらしいわ」
「なるほど――そういうことだったのか」
数年前に離縁したということは、子涵の父親にとってもそろそろ新しい人生を考えても不思議はないといったところか。
「もしかしてその新しい相手というのは彼の秘書の女性か?」
「まあ、驚いた! もうそんなところまでご存知だったの?」
さすがに鐘崎組の情報網はすごいわねとメビィは感心していたが、実際は子涵少年に聞いただけだから手柄というほどではない。
「いや、実はあの坊主が二人の仲を気にしていてな」
「まあ! 子涵君が?」
「秘書のおばさんがお父さんに嫌なことをすると――な。父親が母親以外の女性と親密な関係にあるとすれば、ガキの目から見ても何となく不穏なものに映るのかも知れんな」
それで、その秘書というのはどういった人物なのだと鐘崎は訊いた。
「穏やかでやさしい方よ。歳はCEOより二つほど上らしいわ。元々はエンジニアとして開発の方の仕事をされていたようだけど、ご夫婦が離縁なさってからしばらくしてCEOから是非にと言われて秘書になられたんだとか」
「なるほど。仕事の面でも互いに理解し合える間柄だということか――」
「ええ。とても頭の切れる素晴らしいエンジニアだとかで、仕事の面で随分とCEOが頼りになさっていたとか。奥様が出て行かれてから何かにつけてたいへんだったCEOを公私共に支えていらしたそうよ。アタシたちにもとても丁寧に接してくださるし、周囲の方からお人柄も素晴らしいと評判だわね。傍から見ていてもCEOとはお似合いといった印象ね」
なるほど。彼らにとっては理想的な相手なのだろうが、まだ幼い子涵には複雑にしか感じられないといったところだろう。
◆22
「坊主にとってはその秘書のせいで母親が追い出されたような感覚でいるらしい。自分が側にいないと不安だからと、しきりに父親の元へ帰りたがっていた」
「まあ、そうだったの。じゃあ……あの子が大人たちに心を開かないのはそれが原因なのかしら」
「かも知れんな。まあ他人様の家庭の事情に口出しするつもりもねえが、とにかくは彼らを狙っている連中から守り切ることが先決だ」
「そうね。あなたたちを巻き込んでしまって申し訳ないと思うけど」
「構わん。ここで会えたのも縁ってもんだ。俺たちにできることは協力させてもらうさ」
「ありがとう。助かるわ」
子涵の父親が滞在している部屋はホテルのちょうど中間くらいの階にある部屋だった。通常であれば当然ペントハウスの高級スイートに泊まるような立場だが、屋上から狙われやすい為にわざわざ真ん中の階を選んだとのことだった。
「ここが敵にバレた際に移る場所は確保してあるのか?」
「ええ、もちろん。今のところホテルを三つほど押さえてあるわ。万が一の時は香港を脱出することも視野に入れて、常にヘリとプライベートジェットも待機させてる」
「さっきお前さんがあの坊主を俺たちに預けたことは割れていまいな?」
「大丈夫だと思うわ。アタシは昨夜着いたばかりなのよ。この香港から警護に加わったから、ヤツらに顔は割れていないはず」
「分かった。ではCEOにご対面といくか」
「ええ」
二人は子涵の父親と秘書のいる部屋へと向かった。
◇ ◇ ◇
実際に会ったCEOとその秘書は、鐘崎が思い描いていた印象とは少々違って――ひと言で言えば穏やかで出来た大人という感じだった。父親の方は鐘崎と同じくらいの高身長で、スタイリッシュな眼鏡をかけている。大企業の社長というから、何となくもっと恰幅のいいずんぐりむっくりとした印象を思い描いていたのだが、まるで真逆の青年実業家がそのまま年をとったという感じだ。性質も、子涵少年から聞いていたこともあり、もっとうがった人物像が浮かんでいたのが、いざ会ってみれば誠実で信頼のおけるといった印象だ。
「子涵君からお手紙を預かっております」
鐘崎が差し出すと、彼はとてもやさしい眼差しでそれを読んだ。秘書の女性もまた同様で、どう見ても卑しいことを企むような感じは受けない。おそらくは子涵少年のことも我が子のように大事に思っているのだろうことが窺えた。
「あの子は――何か申しておりましたでしょうか……。きっと私のことを怒っているのでしょうな」
彼もまた、自分と秘書との関係を息子が快く思っていないことを知っているふうだ。
「いえ――そのようなことは……。とにかく、あなた方を狙う者たちを一刻も早く突き止めて、平穏な日々をお送りいただけるよう、できる限りお力になりたいと存じます」
そうすれば子涵の気持ちも落ち着いて、父親と向かい合える時間が持てるだろうと思うのだ。
面会を終えると、鐘崎は子涵たちのいる周邸へと向かった。
◆23
その周邸では子涵が逸る思いで鐘崎からの報告を待っていた。
「遼兄ちゃん! お父さんは!? どうだった?」
玄関口にその姿を見ると同時に飛んで駆け寄る。
「ああ、子涵。お父さんとお会いしてお前さんの手紙もちゃんと渡してきた。お父さんは喜んでいたぞ」
「ほんと?」
「ああ、本当だ」
「そう……。それでその……おばさんとも会った?」
どうにも秘書の女性のことが気になってならない様子だ。
「ああ、おばさんとも会ったぞ」
「お父さんをいじめてなかった……?」
「ああ。いじめるどころか、あのおばさんはお前のお父さんのことも、それにお前のこともとても大事に思っている――俺にはそう感じられた」
鐘崎が子涵の目線まで屈みながらそう言うも、聞いた瞬間にキュっと眉をひそめては小さな拳を握り締めてしまった。
「嘘つき……」
肩を震わせながらポツリと小さくそうつぶやいた。
「――子涵?」
「嘘つきッ! お父さんを守ってくれるって言ったくせにッ! お前なんか……嫌いだッ!」
「おい、子涵……!」
子涵は駆け出すと、逃げるようにして玄関を後にした。その勢いに、紫月や冰らも驚いて顔を見合わせる。
「おいおい……いったいどうしたってんだ?」
「子涵君……?」
二人が声を掛けるも、子涵は部屋の隅のカーテンの陰に隠れて閉じこもってしまった。
その後、ひとまずは子涵を寝室へと連れていき、彼のことは周の継母に任せることにして、鐘崎はダイニングスペースで皆に事情を打ち明けた。子涵の両親が既に離婚していることや、秘書の女性との関係などである。
「なーる、そういうことか……」
「それで子涵君は鐘崎さんに当たっちゃったんですね」
紫月も冰も気の毒にといった表情で肩を落とす。
「しかしなぁ……親父さんが子涵に本当のことを打ち明けてねえわけだべ?」
だとすれば自分たちの口から暴露するわけにもいかない。それ以前にそんな酷なことを子供に伝えるのも憚られるところだ。
「正直なところ、俺が会った印象ではあの秘書の女性は人格も備わった大人に見えた。メビィらも言っていたが、実際いい人のようだ。俺のような第三者から見ても、実の母親以上にあの坊主のことを大事にしてくれそうには思えるがな――」
「……っつってもなぁ、どう言や子涵が納得するかっつーと、難しいところだべな」
「まあそれについては俺たちは部外者だ。あの坊主の親父さんが直に向き合うしかなかろうな。母親が男を作って出て行っちまったってのは俺にも言えることだが、俺の場合は物心つく前のことだったしな」
鐘崎とて似た境遇ではあるものの、赤ん坊の時分だったから感覚としては子涵とはまた違うのだろう。
「そっか……。子涵君がもう少し大人になれば理解できるのかな……。早くそんな時がくるといいですね」
鐘崎と紫月、冰が三人で溜め息がちでいるところへ周が穏やかに口を挟んだ。
「いずれにせよ真実を打ち明けるしかあるまいな。あの坊主の親父さんとやらがこの先その秘書と一緒になろうがならまいが、母親が出て行っちまった事実については本当のことを告げるしかなかろう。親父さんにとっては胸の痛い話だろうが、いくらガキだといってもいつまでも欺くわけにはいくまい」
確かにその通りだが、実際は難しいことに変わりないだろう。
「ガキにとっても酷なことに違いはねえが、真実を知ることで救われることもある。いつまでもうやむやにしてガキを不安にさせれば、かえって気の毒な思いをさせねえとも限らんからな」
それよりも今は敵から彼らを守ることに集中しようと周は言った。
◆24
「その警護の点だが――万が一の為と思ってあの坊主の書いた父親への手紙にGPSを仕込んでおいた。メビィらには言っていないが、何かの時に役立つかも知れんと思ってな」
鐘崎がそう告げる。
「どうも今回のことは空中ディスプレイに関するシステム自体が目的じゃないんじゃねえかとも思い始めているんだ」
どういうことだと皆で鐘崎を見やる。
「子涵の父親の話ではシステムを狙っているのは同業者ではないだろうということだそうだ。チームの見方だと裏の世界の者の仕業じゃねえかということだが、だとすれば目的はもっと別のところにあるように思えてならねえ」
「確かにな――。空中ディスプレイが普及して困るという根拠が分からねえ」
周もまた鐘崎の意見に同調する素振りを見せる。同業者同士で我先にと争うならまだしも、裏の世界の者が開発を阻止する理由が分からないのは確かだ。
「メビィらの話によると、社にも侵入されてコンピュータ室を破壊されたということだが、肝心のシステム自体は無事だったそうだ。腕のいいスナイパーを抱えているような組織がそんなヘマをすると思うか? 本当にそのシステムとやらを欲しがってるなら、しくじるようなことはしないだろう」
「まあそうだろうな。とすれば、案外真の目的は別にあって、空中ディスプレイがどうのってのは目眩しということになろうが――」
「いずれにせよシステムの発表の日までに何かをやらかそうとしているのは間違いないだろう。本筋はメビィらのチームに任せるとして、俺たちは別の面から敵の目的を探ろうかと思うんだが」
「別の面って……どんな?」
紫月が訊く。
「実は――これは単なる俺の勘なんだが。もしかすると坊主の父親と離縁した嫁か、あるいはその不倫相手の男あたりが絡んでいる可能性もあるんじゃねえかと」
「というと、離縁の際に退社したという元社員の若い男ってことか?」
今度は周が相槌を入れた。
「ああ……。その男にしてみれば不倫が元で職を失ったことになるわけだ。今現在、ヤツがどんな暮らしをしているかにもよるが、仮にあまり裕福とはいえなかった場合だ。子涵の親父だけが幸せになるのを憎々しく思っていないとも限らない」
「なるほど、一理あるな。システムが発表されれば、あの坊主の親父の立場は更に上がろう。加えて私生活の面では秘書とよろしくやってるなんてのが知れれば、そいつにとっては面白くねえ話かも知れんな」
「とりあえずその男と坊主の母親が今現在どこでどうしているのかを調べてみようと思う」
「スナイパーが狙ってきているということだが、もしかしたらその男が雇ったということも考えられる。俺の方はそっちの線で当たってみよう」
鐘崎は源次郎と共に早速調べに掛かることにして、その間、周は懇意にしている台湾のマフィアに当たって、ここ最近で少々派手な動きを見せているような連中がいないかを洗ってくれるという。仮に子涵の母親の不倫相手が黒星だとして、彼が雇うとしたらどんな者かという線でも調べを進めることになった。
◆25
その結果、鐘崎らが睨んだ通り子涵の母親の不倫相手が絡んでいることが濃厚になってきた。周が当たってくれた台湾マフィアからの情報によると、かなり利の良い仕事を請け負ったと息巻いている組織が見つかったとのことだ。元々は繁華街を根城にしているチンピラグループの面々が持ってきた話のようだが、ターゲットが子涵の父親の会社だと分かると、すぐにその下っ端グループを取り仕切っている組織が腰を上げたらしい。
子涵の父親の社は台湾では有名どころである。表向きはシステムの発表を阻害するとの脅迫と共に、大金をせしめるつもりでいるらしかった。
「やはりチンピラグループに話を持ち掛けたのは不倫相手の男のようだ。実際誰にどういった条件で依頼したのかというところの確証は取れてねえが、李が引き続き調べを進めているから、そう時を待たずにはっきりするだろう」
周の報告に続いて、鐘崎と源次郎の方でも成果があったようだ。
「その不倫相手の男だが、どうやらマトモな職には就けていないようだな。離縁の直後に坊主の母親と共に上海に渡ったことが掴めた。酒場や裏カジノを転々としながら日銭を稼いで何とか生活しているようで、到底裕福とは程遠い暮らしっぷりだ。ただ母親の方が現在どうなっているのかが掴めてねえ。今も男と一緒にいるのか、あるいは別れたのか――こっちももう少し時間が掛かりそうだ」
とはいえ、一両日中には掴めるだろうとのことだった。
「じゃあ子涵君のお母さんとお父さんは離婚以来まったく連絡を取っていないっていうことなのかな……」
冰が気の毒そうな顔つきでいる。
「まあ最初の一度や二度はどうか知れんが、離縁から数年経っているそうだからな。子涵は父親の手元にいるわけだし、養育費などは必要なかろう。連絡が途絶えたとしても仕方ないといったところか」
「でもお母さんも子涵君には会いたいんじゃないのかな……。息子に会わせてくれって言ってきても不思議じゃないよね?」
ただ、幼い息子を置いて男と出て行ったような女だ。果たして子供に会いたがるかどうかは定かでない。
「もう少し年月が経ちゃあそういう気になる時もくるかも知れんがな。当面は不倫相手の手前、ガキに会いたいとは言い出しづらかろう」
それではあまりにも子涵が気の毒だと、紫月も冰も肩を落としている。仮に母親が既に男と切れていたなら、女一人で生活も苦労続きかも知れない。自業自得といえばそうだが、子供の身になればやはり心配なところだ。
「いずれにせよ女の元亭主を脅迫して銭をせしめようなんざロクな野郎じゃねえのは確かだ。仮に今も二人で暮らしていたとして、女の方もそんな計画に乗っかっているようじゃどうにもならんな」
いかに子涵が恋しがっているにしろ、そんな薄情な女よりは秘書だという女性の方がよほど良いのではと思ってしまう。
皆、気重ながら調査の続きに精を出したものの、次の朝を迎える頃になると、またしてもとんでもない事実に行き当たってしまったのだった。
◆26
なんと上海に渡った子涵の母親が既に他界しているらしいことが分かったからである。
源次郎が引き続き調査を進めたところ、その悲痛な事実が明らかとなったのだった。
「その死因についてですが――どうも黒い疑惑が拭えませんな。現段階では憶測でしかありませんが、彼女の不倫相手というその男が始末したのではないかと思われるような事案がチラホラ見当たります」
「――というと?」
「子涵少年の母親は病死ということになっておりましたが、通院履歴などからして死亡するような病歴が見当たらないのです。上海に渡って二年程は男と一緒に暮らしていたようですが、その間彼女が罹った町医者の話では特に悪いところなどなかったというのです」
もちろんその時点では病気が見つからなかっただけかも知れないがと前置きした上で、源次郎からは更に疑惑が濃くなるような報告が告げられた。
「実は彼女が亡くなる半年程前から男の方に新たな女の影が浮上しているんです。相手は上海の裏カジノで知り合った両替役の女だとか――。かなりのいい女のようですが、闇カジノで両替などしているというところからして、裏に男がついているのは確実でしょうな。おそらくはそのカジノを仕切っている元締めあたりではないかと」
「つまりは何だ――その女に入れ上げて、子涵の母親が邪魔になったということか?」
「単に邪魔になっただけなら別れればいいだけの話でしょうが、子涵少年の母親が『うん』と言わなかったのかも知れません」
「――で、こじれた挙句に面倒になって葬ったと?」
「もしくは――新しい女についているのが裏カジノの元締めあたりなら、案外脅されて殺らざるを得なかったのかも知れませんが……」
「――ッ、何だかえらく話が逸れてきたな」
鐘崎と源次郎が頭を丸めていると、周がやって来て更なる難題にぶち当たったことが告げられた。なんと子涵の母親の不倫相手だった男は空中ディスプレイのシステムを横取りして我が物にしようと企んでいるらしいというのだ。
「李と共に兄貴の側近の曹さんも調査に加わってくれてな。どうもその男は王子涵の親父の社を乗っ取るつもりでいるらしい」
「社を乗っ取るだと――?」
「ヤツが雇った裏の世界の者がコンピューター室を破壊したといっていたろうが。そこで破壊された物を調べてみたんだが、大して重要とは思えない――というよりもその気になれば容易に復元が可能な物ばかりだったそうだ。だが肝心のシステムは無事だった。つまり破壊工作は単なる脅しの一環で、真の目的は画期的システムごと社もろとも乗っ取ろうってなわけだ」
李らの調べによると、不倫相手の男というのも在籍時は有能なプログラマーだったそうだ。社を追われたと同時に安定した生活も失った彼は、その才能を活かせる新たな土壌を探したようだが思うようにならず、いっそのこと子涵少年の父親の社を乗っ取って、業界トップとして返り咲くつもりでいるらしい。
◆27
「もしもそれが成功すれば、ヤツに加担している裏の世界の組織にも大金が転がり込むって算段だろう。逆に言えば、その不倫相手の男に社を乗っ取らせた後は用済みになって、いいように操り人形とされるか――あるいは始末されねえとも限らんな」
「――ッ、どいつもこいつも他人の作り上げた物を掻っ攫うことしか脳のねえクズばかりだ。是が非でも子涵の父親と社を守り抜く必要があるな」
とにかくはシステムの発表日まであと二日だ。その間を何とか凌がねばならない。
「父親の警護はメビィらのチームに任せるとして、今現在敵がこの香港の何処に潜入しているかを割り出すことを急ごう」
「そっちは今、李と曹さんで当たってくれている。入国経路が分かり次第、ヤサを突き止める」
鐘崎と周らが尽力していたそんな時だった。子涵少年が姿を消してしまったことが発覚して、一同は更なる大問題を抱えることとなった。昨夜彼を寝かしつけた周の継母が朝になって様子を見に行ったところ、ベッドはもぬけの空だったというのだ。
「バスルームやクローゼットの中、それにプールや他の階も捜したんだけれど見当たらないのよ……」
継母の香蘭は責任を感じて酷く心配している。こんなことなら無理にでも一晩付き添ってやるべきだったと涙まで浮かべて悔やむ様子に、誰もが彼女の責任ではないと宥める。
だがいったい何処へ行ってしまったというのか――。鐘崎らはすぐさまメビィに連絡を取って、子涵少年が父親の元へ戻っていないかを確かめたのだが、何とその父親自身も姿を消してしまったらしく、メビィらの方でも大騒ぎになっているとのことだった。
彼に持たせていたGPSの機器は外されて部屋のテーブルにあったことから、父親自らが置いて出た可能性もあるという。
「親子して行方をくらましただと……!? いったいどうなっていやがる」
「メビィの話では他所から侵入された形跡は見当たらないそうだ。秘書の女性にも確認したが、侵入者があったというわけではなさそうで、彼女が気がついた時には既に父親は部屋にいなかったと――」
ということはやはり自ら出て行ったということか。わざわざGPSを置いて行っていることから、行き先を突き止められないようにと敵からの指示があったのかも知れない。
「考えられるのは子涵も父親も誰かに誘き出されたということだろう……。おそらくは同じ相手か」
「確かあの坊主は携帯電話を所持していたな? とすれば、密かに誰かからメッセージなりが入り、誘い出されたという線が濃厚だが――」
とにかくはホテル内の防犯カメラ映像を当たることにする。と同時に、鐘崎が子涵少年に書かせた父親宛ての手紙に仕込んだGPSの現在地を追うことにした。
「あの親父さんが坊主の手紙を持って出てくれていればいいが――」
◆28
その後の調べによって子涵少年が部屋を出て行った経緯はすぐに明らかとなった。時刻は明け方少し手前の午前三時半頃だ。人目を気に掛けながら部屋を出て、エレベーターに乗り込む子涵の姿が確認された。その後ロビーに置かれた鉢植えに隠れるようにしながらエントランスを出た子涵は、通りでタクシーに乗り込んだようだ。
「すぐにタクシー会社を当たろう。こんな時間にガキ一人を乗せたなら運転手も覚えているだろう」
周がタクシー会社を当たる一方で、鐘崎の方では父親のGPSの探査を急いだが、生憎にも反応が掴めなかった。
「……ッ! あの親父さん、手紙は持って出ていなかったか」
鐘崎が残念そうに舌打つ傍らで、源次郎はまた別の見解を口にした。
「まだそうと決まったわけではありませんぞ。メビィさんたちの話からも手紙が部屋に残されていたとは聞いていませんし、持って出た可能性は十分あります。ただ電波が届かない場所にいらっしゃるのかも――」
とにかく根気よく探査を続ければ、どこかでふと電波が拾える時が巡ってくるかも知れないという。
「まず――彼ら二人が敵に誘き出されたと仮定して、その場合スマートフォンなどの位置情報は真っ先に潰されるでしょうが、手紙にGPSが仕込まれていることまでは気付かれない可能性の方が高うございます。こちらの探査は引き続き追うとして、もうひとつは父親本人が子涵少年をメッセージで誘い出したということも考えられます」
「確かにな――親父さんから呼び出されれば子涵が黙ってここを出て行ったこともうなずけるが――他に考えられるのはやはり敵から誘き出されたという線だが、その場合敵は子涵の携帯番号を知っているということになる。父親か――もしくは母親を装ってメッセージを入れたとも考えられるな」
まあ敵もプロだ。子涵少年の番号を入手するなど朝飯前だろう。
「子涵が俺たちの目を避けてでも自らこの見知らぬ土地でタクシーに乗るなどの危険を選んでいるということは――メッセージを送ってきた相手は父親か母親のどちらかと考えるのが妥当だろうな……」
だが母親は既に他界しているのだから、敵が装って送ってきたのは明らかだろう。
「おそらくは敵もこの香港に追い掛けて来たまでは良かったが、その先の足取りが掴めないので子涵を囮に父親を誘き出したというわけか」
つまり、母親を装って子涵少年をメッセージで誘い出し、次に父親にそのことを知らせ、息子の命が惜しければ一人で迎えに来いとでも言ったわけだろう。
鐘崎と源次郎がそんな仮説を立てていると、タクシー会社を当たっていた周からその足取りが掴めたという一報が入った。
『どうやら坊主は女人街の入り口で車を降りたようだ。そこに女が待っていて、タクシー代はそいつが払ったと運転手から証言が取れた。ドラレコの映像を解析したらまた連絡する』
女人街といえば、ここ香港では誰もが知るほど有名な観光地だ。幼い子供だろうがタクシーの運転手だろうが、間違いなく辿り着けるといっていい。
◆29
「女人街か――子供一人でも分かりやすい場所を選んだものだ。そこから先の足取りは掴めんな……」
八方塞がりに鐘崎が肩を落としたものの、タクシー会社のドライブレコーダーを当たっていた周から再び吉報が寄せられた。
それによると女人街の入り口で待っていた女が子涵を連れてレンタカーらしき車に乗り込むところが確認できたというのだ。
『今、レンタカー会社でナンバーを当たっている。借りた者の氏名はすぐに割り出せるだろうが、おそらく偽名だろう。とにかくはヤツらが向かった方向の防犯カメラを片っ端から当たるしかねえ』
とはいえ、足取りを追うだけで膨大な時間と労力を要すのは固い。いずれにせよ八方塞がりの窮地の中、源次郎が根気良く追っていた手紙のGPSに一瞬反応が見つかって、事態は一気に好転することとなった。
「GPSが示した場所が判明しました。白泥から少し入った山中のようです!」
「白泥か――。あの辺りは確か夕陽が絶景だとかで有名だったな。観光客も少なくないが、そこから山中へ入ったとなると民家などはあまりないはずだ。人目を避けて始末され兼ねない!」
鐘崎らはメビィのチームと合流することにして、すぐさまGPSが示す地区へと急いだ。幸い周の本拠地である為、武装の点でも事欠かないのは有り難かった。
◇ ◇ ◇
目的地へと向かう車中では王親子の救出に向けての手順が話し合われていた。鐘崎はこれまでの調査で分かってきたことをメビィらに打ち明けて、おそらく本星は父親の元妻だった女の不倫相手という線が濃いだろうことを告げた。
「敵の目的は明後日発表されるというシステムだ。そいつを手に入れた後でCEOを始末し、社ごと乗っ取る算段でいるはず――。おそらくは今頃CEOからシステムの在処を聞き出そうとしているだろう」
「じゃあCEOがシステムの保管場所を明かさなければ一先ず殺されることはないというわけね?」
メビィが訊く。
「その為に子涵少年を餌に使うつもりだろう。素直に吐かなければ息子を殺すと脅すに違いねえ」
既に猶予はない。現場へ急ぐ傍らで、メビィがふとこんなことを口走った。
「……ねえ、こういうのはどうかしら。今現在子涵君と一緒にいるCEOは――実は身代わりの別人だっていうことにするの。現場へ着いたら、そこにいるCEOはアタシたち警護班の一員で、本物は自分だって主張する。本当は警護班が――つまりアタシたちのチームだけど――危険だから身代わりになると言ったけれど、一旦は承諾したものの、やっぱり息子が心配でいてもたってもいられず自分が駆け付けたと言えば、ひょっとしたら敵も人質の交換に応じてくれるかも知れないわ」
すぐにチームの中からCEOの体格に近い男をピックアップして変装をさせるというメビィに、鐘崎はその役目を自分にやらせてくれないかと申し出た。
◆30
「遼二さん、あなたが――? でもそれじゃ危険だわ。万が一のことでもあったらさすがに申し訳ないわ」
メビィはためらっていたが、鐘崎は是非とも自分にやらせて欲しいと言った。
「昨日会ったCEOの感じだと身長は俺と大差なかった。彼は眼鏡をかけていたし、少し老けたメイクを施して帽子を目深に被れば何とかごまかせるだろう。何と言ってもヤツらの目的はシステムの在処だ。背格好さえ似ていればそうそう疑われることもあるまい」
アタッシュケースにパソコンをセットして持参し、そこからシステムにアクセスできると言って実際に彼らの目の前で開いてみせればおそらく飛びつくはずだ。持って来た人間が本物だろうが偽物だろうが、さして影響はないだろうというのだ。
「……分かったわ。確かに遼二さんの変装術は信頼できるし、うちのエージェントよりも様々なケースに対応していただけるのは事実ね」
メビィは了承すると、その代わり自分も秘書として付いていくと言った。
ところがそれを聞いていた本物の秘書の女性が、是非とも自分に行かせて欲しいと言い出した。
「どうか私に行かせてください! CEOと子涵君が心配で……気が気でないのです!」
「……お気持ちは有り難く存じますわ。ですが危険です。一般人を巻き込むわけには参りませんし、ここは我々に任せていただきたく思います」
メビィが説得したが、秘書の女性は頑なだった。
「元の奥様と一緒に社を去った男性が犯人だというのでしたら、彼は私の顔をよく知っているはずです。一時期は同じ部署で仕事を共にしたこともありますから……。それに――今の皆さんの計画ですと私が一緒にいればこの鐘崎様が本当のCEOだと信じてくれるはずです!」
何とか上手く話をごまかして信じてもらえるように持っていきますから――と、彼女は必死だ。それだけ本気でCEOと子涵少年のことを思っているのがひしひしと伝わってきた。
「――そうだな。危険には違いないが、彼女が一緒に行ってくれれば敵も信じるかも知れん。こうなったら援護の体制を万全にして、ここはご厚意に甘えるのが良さそうだ」
鐘崎が承諾を口にすると、だったらメビィも秘書の側付きということで同行させて欲しいと言った。
「確かに画期的というくらいのシステムだ。側付きが数人付いて来たとしてもおかしくはないだろう。メビィの他にもう一人二人――男連中にも同行してもらうか」
鐘崎はメビィのチームから男性を二人ばかり見繕うつもりでいたが、だったら俺が行こうと周が名乗りを上げてくれた。
◆31
「俺はCEO――つまりカネの側付きということで同行するとしよう。李と曹さんは車に残って俺たちの会話を傍受し、応援の体制を敷いてくれ」
特に鐘崎らがシステムへアクセスする際に、さも本当に作動しているように遠隔操作を行ってもらうことにする。周の配慮に、心強いと言って鐘崎も頭を下げた。
「すまねえな、氷川。恩にきるぜ!」
「構わん。俺が一緒の方がお前もやり易かろう」
「ああ、助かる。お前となら何かあっても表情だけで互いの思っていることがある程度分かるだろうからな」
長年の付き合いの中で言葉を交わせない状況であっても、視線の動きだけで互いの胸の内が何となく読み合えるからだ。
「とはいえ一通りの手順は決めておいた方が良かろう。まずは相手にシステムが本物だと思わせにゃならん。カネが持参したパソコンからアクセスする手順だが――」
「うむ、そうだな。こういうのはどうだ? 俺と秘書の彼女と――それから子涵の虹彩と指紋が必要だと主張するんだ。そうすればひとまずヤツらの手から子涵だけでも取り返せる」
「それは名案ね!」
ナイスアイデアだと言ってメビィも瞳を輝かせる。
「でしたら私たちの方で鐘崎さんの指示通りに鍵が開いていくように操作しましょう」
李と曹でそれを引き受けてくれるそうだ。
「まずは子涵少年の虹彩、次に秘書の彼女の虹彩、最後に俺の虹彩で第一の鍵が開くということにしよう。その次は子涵の指紋、彼女の指紋、そして俺の指紋で第二の鍵が開く。最後は俺がパスワードを入力してアクセスが可能となる――これでどうだ?」
「いいですね。ではそれに合わせてこちらからの遠隔操作を行います。ひとつひとつカギが開いていく様子を画面上ででっち上げましょう」
「なるべく時間を掛けて操作をするから、その間に応援部隊に裏口からの侵入を果たしてもらえればと思う」
「承知しました。侵入が叶った時点で画面にメッセージを表示するようにします。椿の花で如何でしょう」
画面に花が表示されたとしても敵にとっては意味が分からないだろうし、鍵が開く段階のひとつとしか映らないだろう。
「助かる。では椿の花を確認したら、応援部隊が侵入を果たせたという合図としよう」
「鐘崎さんはそれを確認後に最後のパスワードを入力してください。その際、画面を敵に向けていただき、鍵が開いたと同時に画面が閃光を放ってクラッシュするように仕込みます。閃光で敵の隙を突けるでしょうからその場で確保してください」
「了解した。頼んだぞ李さん」
「お任せください」
劉と源次郎は建物の裏口などから潜入できる箇所を探ってくれるという。周の兄が曹来の他にも側近たちを幾人も貸してくれたので、援護としては手厚い体制が敷けることが有り難かった。
◇ ◇ ◇
白泥付近の現場に着いたのは昼前だったが、分厚い雲間に覆われて今にも土砂降りになりそうな天候のせいでか辺りは薄暗く人影も見当たらなかった。
「GPSの反応があったのはおそらくこの辺りで間違いないのですが――」
源次郎が引き続き探査を進めていたものの、あれ以来反応はまったく見られなくなってしまったようだ。
「――とすれば、今は建物の地下室あたりに囚われているか、通信を阻害する機器を所持しているのかも知れん」
そんな話をしながら山中を走っていると、雑木林の中に埋もれるようにして建っている邸が見つかった。と同時に微弱ながらも手紙に取り付けたGPSにも反応が蘇った。
「反応がきました! おそらくここで間違いないかと」
◆32
建物の外観からして長い間放置されているような廃墟に近い印象だ。崩れかけた門らしき物も見つかったが、庭は雑草が伸び放題で、小木にまで育ってしまっているといった具合だが、近くに車が数台停めてあり、確かに人が居る気配が感じられた。
「あの中の一台が女人街で子涵少年を連れ去った女が乗っていた車のナンバーと一致しました。ここで間違いありませんね」
李の報告によっていよいよ敵との対面に緊張が走る。
源次郎と劉とで敵の乗って来た車をパンクさせるなどして足留めできるよう細工すると言う。李と曹は鐘崎らに持たせた無線の傍受に専念、兄の周風が貸してくれた他の側近たちには建物周囲を取り囲んでもらい、裏口などからの逃亡を阻止する体制を敷いた。あとは鐘崎と秘書の女性らが踏み込むだけだ。
天候はますます雲が厚くなり、時折遠くから雷鳴が聞こえるほどになってきていた。
「落雷で通信機器が効かなくなる前に何とかせねばならん。行こう――!」
鐘崎らは意を決して敵地へと向かった。
◇ ◇ ◇
一方、子涵と父親はまんまと敵の罠に落ちて捕えられてしまっていた。
鐘崎らが睨んだ通り、相手は元妻の不倫相手だった男で、名を馬民といった。彼の側にはいかにも筋者らしき屈強な男たちが顔を揃えていて、子涵はもちろんのこと父親の方も恐怖に慄きながら身を震わせている状況だ。
「馬君……まさかキミがこんなことをするだなんて……いったいどういうつもりなのだ」
息子の子涵を庇うように抱き締めながらCEOがそう訊いた。
「どうもこうもありませんよ。僕たちはただ、あなた――社長さんが開発された例のシステムを手に入れたいだけです」
一応は元社員だったこともあってか、言葉じりは丁寧を装っているものの、その表情は明らかに悪人だ。
「あなただって痛い目を見るのはお嫌でしょう? 素直にシステムを渡してくださればこれ以上のことはしませんよ。それともここで強情を張って怪我をしたいとお望みですか? それにね――何もあなたに痛い目を見てもらう必要もないんですよ?」
ちらりと子涵少年に視線を向けながら男は笑った。
「待ってください……ッ、この子には……子涵には関係のないことでしょう? 無体なことはせんでいただきたい……」
父親は必死になって我が子を守らんと声を震わせる。
「それは社長様次第ですよ。あなたが素直になってくだされば、子涵君だって怖い思いをしなくて済むんです。さあ、いい加減システムの在処を教えてくださいな」
男はニヤニヤと笑いながらも更なる脅迫を口にして親子を追い込んでいった。
「こう見えて僕は比較的気の長い方ではありますけれどね。ですがここにいる彼らは――そうとばかりは限りませんよ? 中には短気で気性の荒い者もいる。あなたが口を割らないようであればご子息のご無事は保証しかねますよ?」
そう言うと共に刃物をチラつかせて笑ってみせた。
◆33
――と、そこへ見張りをしていた者がやって来て、少々慌てた素振りで報告をしてよこした。
「お取り込み中すいやせん! 実は今、外に来訪者が数人やって来ているんですが……。ヤツらは自分が本物のCEOだと言い張ってます……」
如何いたしましょうと戸惑いを見せている。話を聞いた馬民らも驚いたようにして目を吊り上げた。
「本物のCEOだと――? じゃあここにいるのはいったい誰だというんだ……」
子涵と父親をしきじきと眺めながら眉根を寄せる。
「はあ……ヤツらの言うには……そいつは身代わりのエージェントだとかで、ガキは本物らしいですが、やはり心配になって自ら出向いて来たとか――」
馬民は元社員だったからCEOの顔を見間違えるわけもないのだが、当時単なる一社員だった彼にとって、実のところ社長の姿を間近で見たことは稀であった。だから顔を知っているといってもウェブサイト上にある画像で知っているといった程度だったのだ。
「……どう見たってここにいるのが本物の社長殿だと思うがね」
「ですがヤツらは違うと言ってます……。秘書だとかいう女が一緒に来ていて、そいつはただの身代わりのエージェントだからシステムの保管場所も知らないと……」
馬民はまたしきじきと王親子を見つめながらも首を傾げてしまった。
「……どういうことです? あなたは社長本人じゃないっていうんですか?」
だとすれば非常に良くできた変装だと言って眉根を寄せる。だが、本当にこの男が身代わりのエージェントだというなら、システムの保管場所も知らない可能性が高い。それに、出向いて来た者たちについてもこの場所を知っているということは、満更嘘を言っているわけでもないのだろうと推測される。馬民は迷いつつも来訪者と会ってみることを承諾した。
「仕方ない。とりあえず通してくれ――。会ってから考えよう」
仮にその来訪者らが救援にやって来た警察関係者だったとして、こちらには凄腕のプロが幾人もついている。万が一罠であった場合、この場で全員を葬ってしまえばいいだけだ。
こうして鐘崎らはひとまず邸の中への潜入を成功させることとなった。
◇ ◇ ◇
「鐘崎さんたちが無事に邸へと入りました。各人引き続き援護の体制を続けてください」
李と曹から各所へ通信が送られる。敵が乗って来た車への細工を終えた源次郎らも合流して、建物周囲から侵入できる箇所などを探ることとなった。
一方の鐘崎らは見張りに案内されて馬民一味の待つ地下室へと連れて行かれていた。
「――あなたが本物のCEOだそうですが、僕の記憶ではここにいるこの方こそご本人だと認識していますがね。いったいどういうことです?」
馬民は胡散臭いといったふうに挑戦的な態度で鐘崎らを迎えた。だが、一緒にやって来た秘書の女性を目にするや否や、少々気持ちが動いたようだ。
「馬民さん、お久しぶりです……。先程申し上げたようにその方はCEOの身代わりとしてあなた方のところへ出向いてくださった警護班の方です。CEOとお顔立ちが似ていらしたので、私たちを守る為に危険を買って出てくださったのですわ」
秘書の女性がそう説明すると、馬民は多少信じる気になったようだ。
「あんた、まだ社を辞めていなかったのか……。聞くところによると今じゃ社長秘書にまで取り上げられたそうだな? あの頃は僕と一緒の開発チームで研究をしていただけの一社員だったくせに――えらく出世したものだ」
「……そんなことより……あなたが欲しい物を持って参りました。関係のないその方とご子息の子涵君を解放してください!」
アタッシュケースを掲げて、これがそのシステムだと主張する。それを見てとった馬民はさすがに信じる気になったようだ。
◆34
「……いいだろう。とりあえず言い分は聞いて差し上げますよ。ですが、まだ完全にあなた方を信じたわけじゃない。その手に持っているシステムを引き渡していただいて、それが本物だと確認できたらこの二人を解放します」
馬民は引き連れている男たちに王親子を預けると、秘書が手にしていたアタッシュケースをよこせと言い張った。
そこで鐘崎の出番だ。極力CEOの話し方を装いながら肝心の交渉に踏み出すことにする。
「馬民君、まさかキミがこんなことをするだなんて――非常に残念だがね。息子たちの命には代えられない。この通りシステムはキミに渡すから、彼らの無事を約束して欲しい」
そう言って秘書の女性からアタッシュケースを受け取り、それを開いてみせた。中からはモバイル型のパソコンが出てきて、鐘崎はそれを立ち上げてみせる。
「これを開くには私とここにいる彼女と――それから息子の子涵の虹彩が必要でね。それが第一の鍵だ。次に私たち三人の指紋、最後に私のみが知るパスワードを入力して初めてアクセスが可能となる」
システムを開くには子涵自身が必要不可欠だと主張して、彼を解放するように要求した。
「……チッ! アクセスの鍵に息子の虹彩と指紋を組み込むとはね。あなたの溺愛ぶりには恐れ入りますよ」
馬民は仕方なく子涵少年を鐘崎らの元へと連れてくるように言った。
これでひとまずは子涵を取り戻すことに成功――あとは本物のCEOを何とかしてこちらの手に引き渡すよう仕向けるのみだ。打ち合わせ通り外で待機している李らがこちらの会話を傍受しながら、さも本当に虹彩や指紋で一つずつ鍵が開いていくように繕ってくれることだろう。その間できる限り時間を稼ぐとして、源次郎らが上手く侵入口を見つけて突破してくれれば、その時点で李から椿の花の合図が送られてくるはずである。鐘崎は極力怯えたふりを装いながら、なるべく不器用に時間をかけてアクセスする動作を続けることにした。
一方、子涵の方でもその声に聞き覚えがあったのだろう、助けに来たのが鐘崎だと分かったようだった。むろん子供が実の父親を間違えるはずもないから、彼が自分たちを助ける為にやって来たということを理解したのだろう。ここに連れて来られてから何かとんでもない事件に巻き込まれたのだということを実感していたようだ。
子涵は怯えつつも鐘崎の顔を見上げながら小声でこう囁いた。
「遼兄ちゃん……だよね? 助けに来てくれたの?」
その表情からは、昨夜は酷いことを言ってごめんなさいとでも言いたげな様子が窺えた。
「僕……その、迷惑掛けて……ごめんなさ……」
鐘崎は子涵の肩を抱き寄せると、表面上は父親のふりをしながら耳元で囁き返した。
「謝るのは父さんの方だよ、子涵。怖い思いをさせてすまなかったな。だがもう大丈夫だ。父さんの言う通りにしていれば何も心配はないからな」
幼い子涵にも今が緊急事態だというのは肌で感じるのだろう。鐘崎に合わせるように必死にうなずいた。
「うん……パパの言う通りにする」
子供が父親だと認めたことから、馬民らにも鐘崎が本物のCEOなのだと信じ込ませることができた様子だ。苦々しげに舌打ちながらも、吐き捨てるようにこう言った。
「はん……! やはりこっちの男は替え玉だったというわけですか。しかし社長さん、よく自ら出向いてくれましたよ。あなたが来なければこの替え玉と息子さんの命は無かったところですよ」
◆35
「当たり前だ――確かにこのシステムに関して私たちは全力を注いできた……。だが、息子の命に代えられるわけもない。今はキミたちにお渡ししようとも、いつの日かこれを凌ぐ新しいシステムを開発してみせるさ」
鐘崎はなるべく疑われないようにと、半ば口惜しい素振りも交えながら、わざと怯えたふりを装うように手を震わせて操作を続けていく。
「は――! ご立派なお心掛けですね! あなたのそういう向上心には感服いたしますよ」
馬民は憎々しげにしながらもアクセスを待っている。鐘崎は子涵を懐に抱えながら画面に向かって瞳を開くように言った。
「いいか、子涵。ここに視線を合わせて少しの間じっと目を開けているんだ」
「……うん、分かった」
子涵が言う通りにすると、虹彩を認知した画面が一つ目の鍵を開ける映像が表れた。
「次はあなただ」
続いて秘書の女性の虹彩を認証させる。鍵は次々と開いていき、脇から画面をチラ見しながら馬民らが浮き足だっていく気配が感じられた。
「今度は指紋だ。子涵、ここに指を置いて押し付けておくれ。少しの間動かしちゃいかんぞ」
鐘崎は子涵の手を画面に持っていき、一緒に手を携えながらわざとモタモタやって時間を稼ぐ。
「ん、もうちょっと手を開いて指の腹で押し付けるんだ」
いかにも親子の愛情あふれるやり取りに、馬民らはすっかりと信じ込んだ様子だ。鍵が開くのを今か今かと待ち焦がれる顔つきでいる。すると、ここで李から潜入成功の合図である椿の画像が送られてきて、鐘崎は内心ホッと胸を撫で下ろした。あとは未だ囚われている本物のCEOを何とか上手く奪還するのみだ。
三人の指紋認証が済んだところで馬民に向かってこう言った。
「第二の鍵が開いた……。あとは私がパスワードを入力するのみだが――その前に子涵と彼女と、それから私の身代わりになってくれたエージェントの男性を解放して欲しい。彼は私の為に人質になってくれたのだ。これ以上ご迷惑をお掛けするわけにはいかん」
鐘崎が言うと、馬民はまあいいでしょうと言って承諾した。とはいえ邸の入り口には見張りが数人いる。この場から逃すふりをしながら結果的には見張りに拘束させればいいだけだと薄ら笑いを浮かべている。
「キミ、二人を頼むよ」
鐘崎はお付きとして共にやって来ていた周に子涵らを預けると、自分たちの乗って来た車で無事に脱出してくれと告げた。周はうなずき、子涵少年と本物のCEO、それに秘書の女性とメビィを連れて地下室を後にした。
当然、鐘崎にも入り口に敵が待ち構えていることくらいお見通しである。周ならばそれら数人を片付けるくらい朝飯前と知ってのことだった。
その期待通りに周は易々見張りを打ち破り、王親子たちを外の李らに預けると、再び地下室へと舞い戻った。柱の陰に身を潜めては鐘崎がパスワードを打ち終えるタイミングを待つ。画面が閃光を放ったと同時に踏み込んで加勢に出る為だ。
鐘崎もまたそのわずかな気配で周が戻って来たことを悟る。裏口からは既に源次郎らが潜入を果たしてくれているし、最後のパスワード入力と同時に踏み込んでくれるだろう。
確保の瞬間までいよいよ準備は整った。
◆36
苦しくもといった表情で最後のパスワードを打ち込むと、
「さあ、これでシステムはキミの物だ――」
そう言って画面を馬民へと向けた。
ロードのバーがどんどん数値を上げていき、一味は釘付けになる。身を乗り出して画面に食いついたところでバーが一〇〇パーセントに達し――その瞬間、真っ白な閃光が弾けて馬民らは絶叫と共に目を覆い、一瞬よろめいた。
そこへ間髪入れずに鐘崎と周が襲い掛かり、周辺にいた敵数人の意識を刈り取る。その他の者たちは踏み込んで来た源次郎らによって瞬く間に制圧されたのだった。
「クソッ……! どういうことだッ!」
馬民は後ろ手に縛り上げられながらも半狂乱になって絶叫を繰り返していた。
「見ての通りだ。貴様はしくじったのさ」
鐘崎から冷ややかに見下ろしながらそう言われて、初めて本当に失敗したことを悟ったようだ。
「……じゃ、じゃあ……お前の方が替え玉だったってのか? だったら……さっき逃げたエージェントの男ってのが……」
「そう、本物のCEOだ。ついでに言っておくが、見張りの連中も既に我々の手中だ」
「…………クソッ……なんてこった……」
馬民はガックリと首を垂れたまま、糸の切れた人形のようにその場に突っ伏してしまった。彼に加担していた一味は捕えられて尚諦めがつかないわけか、『覚えていやがれ! 絶対に復讐してやる』と所々で暴言を繰り返していたが、ちょうどその時ゆっくりと地下室への階段を降りて来た男を目にするなり誰もが揃って蒼白となった。
何とそれは彼らが与する裏の世界で頂点にいる台湾マフィアの若き頭領だったからだ。
彼らからすればこのような間近で頭領の顔を拝めるなど生涯に一度有るか無いかだ。企みがバレてしまったことは不運に違いないが、そんな最悪の状況下であってもトップの姿を拝めただけで感激に身を震わせている者もいる。
その彼と共に姿を現したのは周の兄の周風であった。風は台湾を治めるマフィアトップに渡りをつけて、事の次第を報告――香港へと駆け付けてもらうよう手配してくれていたのだ。
「周風、此度は我が組織の者たちがあなた方の土地で大変なご迷惑をお掛けした。この通りだ」
台湾トップの彼もまた、半年程前に先代から後継を引き継いだばかりの若き獅子だ。名を楊礼偉《ヤン リィウェイ》といい、風とは同年代だ。二人は同じマフィアの後継として懇意にしてきた仲なので、事情を聞いて飛んで来てくれたというわけだった。
「いや――こちらこそ貴方直々にご足労いただいて恐縮だ。ご理解に感謝する」
風がそう言うと、彼はすまないというように軽く会釈を返してよこした。
「この者たちの処遇だが――本当に私の方で預からせてもらってよろしいのか?」
周一族の本拠地であるこの香港で騒ぎを起こしたわけだから、本来は風らが始末をつけても文句は言えないのだが、国は違えど同じファミリートップという立場であるし、処遇は任せると風はそう言ったのだ。
「構いません。とにかくも貴方のお国の方々が開発された世界的にも貴重なシステムが悪事に使われずに済んで良かった。処遇をお任せすると共に、この香港で開かれるシステムの発表日まであと二日――開発者殿の安全は我がファミリーで保証させていただこう」
風は王一家の安全を約束すると言った。
「何から何まですまない。厚情に感謝するぞ、周風。この礼は後程改めて――」
台湾トップの彼は軽く会釈をすると共に、馬民に加担した自国の連中を縛り上げて、ひとまずこの場を後にして行った。
◆37
「兄貴! ご助力に感謝します」
「風さん、ありがとうございます!」
周と鐘崎が兄の風に礼を述べると、
「いや、お前さん方もご苦労だったな。よく解決に導いてくれた」
彼もまた一件落着に笑顔を見せた。
一行が邸を出ると、そこへメビィに連れられて子涵が逸った顔つきでやって来た。彼は一目散に鐘崎のところへ駆けて来ると、その大きな懐に抱き付くようにして飛び込んで来た。
「遼兄ちゃん! ありがとう……ありがとう助けに来てくれて……! 僕、昨夜は兄ちゃんのこと嫌いだなんて言って……ごめんなさい……!」
瞳いっぱいに大粒の涙を溜めながらしがみ付いてくる。
「子涵、礼を言うのは俺の方だ。さっきはよく調子を合わせてくれたな。お陰でヤツらを欺くことができた。お前さんの勇気のお陰だ」
子涵がいち早く鐘崎の思惑を読み取って本物の父親だと認め、調子を合わせてくれたからこそ、すんなりと事を運ぶことができたわけだ。幼いながらもその理解力と勇気に感服すると共に心から感謝すると言って、鐘崎はもちろんのこと、風や源次郎らその場の全員が絶賛した。
「あの……それから……おじさんもありがとう。遼兄ちゃんと一緒に僕たちを助けてくれて……」
子涵は周にもそのように礼を述べたのだが、その後がまずかった。隣に立っていた周の兄・風にも頭を下げたのだが、その際投げ掛けた言葉が――
「お兄さんもありがとうございます」
だったのだ。
周のことはおじさん呼びだが、その兄である風には『お兄さん』と言ったではないか。周は眉を八の字にしながらも、唖然としたように固まってしまった。
「おい、ガキ……」
(何で俺が『おじさん』で、俺より年上の兄貴が『お兄さん』なんだ――)
プルプルと額を筋立てながら、またしても顔面に闇色のトーンでもまとったようなヌウっとした表情で子涵を見やった周に、一気に場は大爆笑と化したのだった。
◇ ◇ ◇
二日後、子涵の父親は無事にシステムの発表に漕ぎ着くことができ、事件は完全に幕を下ろすこととなった。
馬民に加担した台湾裏組織の連中は、駆け付けたマフィアトップ・楊礼偉によって自国へと連行され、処遇を受けることとなった。それがどのような結末であるかは周ファミリーにとっても口を出すところではないし、知る必要もないことだ。台湾を統治する若き獅子は精鋭で、物の善悪をよく心得た人物である。彼が下す判断ならば間違いはないだろう。
また、馬民については子涵の母親を手に掛けた罪が暴かれ、システム強奪を企てた件と共にこちらは司法によって裁かれることが決まったようだ。おそらくは生涯檻の中で暮らすことになろうということだった。
メビィらのチームからも助力に際して感謝の意を示され、鐘崎らは香港での休暇を終えたのだった。
◆38
帰りの空港では周の家族の他に子涵少年とその父親、そして秘書の女性が三人揃って見送りに来てくれた。
事件をきっかけに父親は子涵に対して母親が出て行ってしまった経緯をきちんと打ち明けたそうだ。子涵はさすがに消沈していたようだが、長い間心の中で抱えていたモヤモヤに踏ん切りがついたようである。幼いながらも何故母親がいなくなってしまったのかという本当の理由を、心のどこかでは何となく感じ取っていたのかも知れない。
周が『例えそれが残酷なことだとしても、真実を知ることで救いになることもある』と言っていたが、まさにその通りになったようであった。
また、秘書の女性に対しても同様で、子涵自身彼女が本当はどのような人間かというのを頭では分かっていたようである。ただ、母親が突然姿を消してしまった現実を受け入れたくなくて、秘書の女性を疎むことで心のバランスを保とうとしていたようだ。彼女が危険を顧みずに鐘崎と共に助けに来てくれたことを目の当たりにして、心の中にかかっていた意地が解けたようであった。
まだ彼女を新しい母親として迎えられるまではいかないにしろ、共に過ごす内に子涵の思いも少しずつ変化していくことだろう。鐘崎らは彼らの幸せを願いつつ、別れを告げたのだった。
「遼兄ちゃん、元気でね! 台湾に来ることがあったら絶対に教えてね!」
子涵はすっかり鐘崎に懐いたようで、別れ際に二人で連絡先を交換するほどになっていた。最初に彼を預かる際に、メビィが『あなたたち似ている気がするの』と言っていたが、まさに年代を超えた友情が芽生えつつあるようだ。別れを惜しむ二人を目にしながら、紫月や冰も安堵の思いでいるのだった。
「それじゃ皆さんお元気で!」
「気をつけて帰るのよー」
王一家とファミリーに見送られてゲートへと向かう。
「遼兄ちゃん、紫月ちゃん、冰ちゃん、それから焔のおじちゃんも! バイバーイ! また会おうねー!」
元気のいい声で子涵にそう叫ばれて、周はまたしても絶句――。
(あ……ンのガキんちょー、最後までおっさん呼ばわりしてくれやがって)
ガックリと肩を落とし、額に手を当てピクピクとする青筋を押さえながらトボトボ――何とも情けない姿でゲートへと消えていったのだった。
◇ ◇ ◇
◆39
ジェットが安定高度に入ると、嫁たち二人は早速おやつタイムだ。源次郎や真田らと一緒に亭主たちの分の茶を淹れながら、楽しいおしゃべりに花を咲かせ始める。それらを横目に周は密かに鐘崎を誘うと、化粧室にある大きな姿見の前に連れて来ては二人並んで鏡の中を見つめた。
「――いきなり何だ」
真顔でしきじきと鏡を凝視している周に、鐘崎は首を傾げる。
「うーむ、やはりこの髪型がいかんのか――? ツラはさほど変わらんが、確かにてめえの方が若く見えんこともない……」
髪をグシャっと乱しては唇をへの字に結んで悩み顔だ。どうやら子涵に最後までおじさん扱いされたことを気にしているようだ。真剣に悩む姿に、鐘崎は思わず噴き出してしまった。
「ぷ……っはははは! 氷川、てめ……」
「笑うな。俺ァ真剣なんだ」
鐘崎は腹を抱える勢いでひとしきり笑うと、涙目を擦りながら穏やかに微笑んだ。
「あとふた月もすりゃ本物の叔父さんになろうってヤツが何を悩むことがある」
そうなのだ。兄夫婦の子供が生まれるのは十月の初め頃――もうふた月を切っている。
「――うーぬぬぬ、この調子じゃホントに兄貴のガキにもおじさん呼ばわりされ兼ねん。まあ――それ自体は本当のことだから仕方ねえとしても……兄貴のガキにまでお前らのことを兄ちゃんと呼ばれた日にゃ……俺ァどーしたらいいんだ」
しばし頭を抱えた後に周は真顔でまたしても可笑しなことを言い出した。
「おい、カネ――ちょっとコレで髪を後ろへ撫で付けてみろ」
ヘアワックスとコームを渡され、オールバックになるように梳かしてみてくれと言う。普段周がしている髪型である。
鐘崎は半ば呆れつつも言われた通りに付き合ってやることに決めた。
「どうだ。これでいいか?」
梳かし終えてふと鏡の中の隣に目をやると、またしても噴き出してしまう羽目となった。なんと周が更に髪を乱して、いつもの自分と似たようなスタイルに変えていたからだ。
「お前……それ……」
「ふむ、こういう髪型にすりゃ俺も少しは若く見えるな――」
本人はかなりご満悦のようである。
「よし! このまま冰たちにも感想を訊いてみよう」
周は意気込んでリビングへと向かって行った。
どうせいつかは――遅かれ早かれ誰でも年をとるのだ。そこまでこだわる必要があるかと思う鐘崎だったが、案外真面目に気にしているふうな親友に心温まる思いが込み上げる。今回の旅でも自分や紫月のことを気に掛けてくれて、メビィに心理分析を頼んでくれたりと、様々頼りになるデキた男だが、そんな彼でも若く見せたいという些細な思いに一生懸命こだわっている様子が微笑ましい。鐘崎はつくづくこの友とこうして共に過ごせる幸せをしみじみと噛み締めるのだった。
◆40
リビングに行くと嫁二人は源次郎らとワイワイ楽しいおしゃべりの最中であった。こちらに背を向けて座っていた冰が、振り向きざまに開口一番、『あ、鐘崎さんー! お茶入ってますよー』と言った。パッと見の雰囲気で周と鐘崎を間違えたのだ。
「いよし!」
ガッツポーズまで繰り出して周は上機嫌である。
「あれえ? 白龍だったの? どしたの、その髪……!」
冰のみならず全員で呆気にとられたように大口を開けている。
「どうだ。少しは若く見えるだろう」
鼻高々の周の後ろからオールバックにした鐘崎が姿を現すと、皆は更にポカンとした表情で二人を凝視してしまった。
「おやまあ……坊っちゃま! なんと若々しいこと!」
真田がティーポットを片手にあんぐり顔でいる。しばしの後、一気に場が大爆笑に湧いた。
「氷川……遼も! なかなかに似合ってんじゃねーの!」
紫月はパンパンと自分の太腿を叩きながら笑い転げている。医師の鄧も同様だ。笑い上戸な二人は腹を抱えて大ウケしているが、側近の李と劉はさすがに笑ってはいけないと堪える表情がまた滑稽だ。
「老板……と、とても良くお似合いですよ! なあ劉?」
「ええ、本当に! 老板も……鐘崎殿も新鮮な印象でいいですね」
口をパクパクとさせながら、どうにか笑いを堪えておべっかに必死の二人である。
そんな中、真面目に頬を染めてみせたのは冰だった。
「白龍……そゆ髪型も素敵だね! なんかいつもとまた雰囲気が違って……うん、ホント素敵……!」
さすがは唯一無二の嫁さんだ。紫月も鐘崎の珍しいオールバックが気に入ったようで、『ほええ、似合うじゃね?』と言いながらしきじきと眺めつつも、これもまた渋くていいと親指を立てて絶賛してくれている。
実のところ嫁二人にとってはこれで若返ったとか老けたとかの印象はなかったものの、普段は怖いもの無しというくらいの亭主たちが若見えにこだわって少年のようなことをやっていること自体が愛しく思えたようだ。
今回の旅で鐘崎も自分を取り戻せたようだし、|王《ワン》一家との心温まる出会いもあり、一行にとっては充実したものになった。
「次は風兄ちゃんの子が生まれる頃にまた皆んなで会いに行くべ!」
「ですね! もう二ヶ月後ですもん。楽しみですねー!」
愛しい嫁たちの朗らかな笑顔の側で、周と鐘崎もまた穏やかな幸せをしみじみと感じたのだった。
冬来りなば春遠からじ――えぐられ、凍ってしまった大地を愛情と友情というかけがえのない絆で癒し、耕し、潤しては再びあたたかい芽吹きの時を心待つ。この仲間たちと過ごせる時こそがそれぞれにとってまさに曙光の希望といえるのだった。
春遠からじ - FIN -