極道恋事情

32 台湾恋香1



※本エピソードは周ファミリーと懇意にしている台湾マフィアの若きトップ・楊礼偉の恋の話となります。BLではなくNL(男女カップリング)となりますので、ご留意くださいませ。



 *運命の一目惚れ

◆1
「モデルの調達が間に合ったそうだな」
「これはこれは|楊大人《ヤン ターレン》! わざわざのお越し、恐縮に存じます」
「いや、構わん。たまたま時間が空いたものでな。それに――今度のCMは我が社の企画部が心血注いだ新商品の宣伝だ。社員たちの熱意に報いる為にも良いものにしてやりたいと思っているのでな」
 わずかに口角を上げ薄く微笑まれた唇、大きな漆黒の瞳を包むくっきりとした切れ長の奥二重。凛とした鼻筋に男らしい頬から顎にかけてのフェイスライン、恐ろしいほどに整った顔立ちの男は一八〇センチを優に超える高身長の上、引き締まったボディは見ているだけで溜め息が出そうな男前だ。
 腰まで伸びた濃い墨色の髪は濡羽色というくらいに艶を放ち、彼が現れただけで周囲の景色が霞むほどに神々しいオーラを醸し出している。
 背後にはお付きの者だろうか、鋭い目つきに思わずたじろいでしまいそうな精悍な男たちを三人ほど連れている。彼らの一団に気付いた周囲の者たちは、皆気もそぞろといった調子で作業の手が止まってしまうほどであった。
 それもそのはず、男はここ台湾を治めるマフィアの頂点に立つ頭領だったからだ。
 名は|楊礼偉《ヤン リィウェイ》、三十代半ば。半年程前に先代である実父からマフィアの組織を継いだばかりの若き獅子である。
 彼らの組織では台湾裏社会の統治の他に、活動の資金源の一部として表の企業経営も行なっている。今日はその内のひとつである化粧品会社の新商品に関するコマーシャル撮影が行われていたのである。



◆    ◆    ◆



 撮影を請け負っている担当者からイメージモデルがダブルブッキングに遭い、今日の撮影に間に合わないと連絡を受けたのは、つい三日前のことだった。それが昨日になって代替えのモデルが見つかったからと急遽連絡が届いたのだ。
 企業としては大事な新商品のコマーシャルだ。たった三日で代替えが見つかったと言われても、間に合わせの為に適当なモデルを連れてこられたのでは不本意だ。たまたま時間も取れたことだし、楊自らが確認かたがた撮影現場に出向いて来た――とまあ、そういうわけであった。
「如何でございます? なかなかにいい女でございましょう」
 担当者の男が半ば冷や汗ながらもヘコヘコと腰を折っては必死の作り笑顔で愛嬌を遣ってみせる。彼にとっても、まさか頭領当人がわざわざ一企業のコマーシャル撮影を気に掛けて現場に足を運んでくるなどとは思ってもおらず、恐縮しきりなのだ。
 だが、確かに代替えモデルは見目麗しく、正直なところ本来決まっていたモデルと比べても群を抜く完璧な美女だ。若き獅子もさすがに文句のつけようがないのは認めざるを得ないといったところであった。
「ああ――良いモデルだ。我が社のイメージとして申し分ない。ご苦労であったな」
 褒めの他に労いの言葉まで掛けられて、担当者の男はホッと胸を撫で下ろす。
「お気に召していただけて何よりでございます。勿体のうお言葉、痛み入ります」
 平身低頭で腰を折った男に対して、楊はもうひと言を付け加えた。
「しかしこの短期間にあれだけのモデルを探してくるとはな。あまり見掛けん顔だが、新人かなにかか?」
 国内の有名女優やモデルならば大概は社交界で顔を合わせているが、この代替えモデルについては覚えがない。
「ええ、ええ。実はたいそうな掘り出し物でございましてな。ダークホース――とでも申しましょうか。新人で経験は少うございますが、あの容姿です。多少演技の至らないところは私どもの修正技術でいかようにもいたしますのでご安心ください」
 男は手にしていた資料を差し出しながら目一杯瞳を細くしてみせた。
 チラリとそれに視線をやると、美しい女のスナップに目を奪われる。
 正直なところ、楊とてその立場のみならず群を抜く男前ゆえ、これまでに数多の女性たちと関わってはきたものの、これほど美しい女を見たのは初めてといえる。一目で興味を惹かれずにはいられなかった。

「ふむ、名は|林《リン》――|玉環《ユーファン》だと?」

 林という苗字はともかく名前の方にも目を見張らされる。”玉環”といえば、かの有名な楊貴妃の名だからだ。
「驚かれましたでしょう? 私どもも最初、名を聞いた時にはどこの勘違い女かと鼻で笑ったものでございますがな。ところが実物に会ってみれば確かにその名に恥じないあの容姿でございます! これは――と思い、一発で採用を決めた次第でして」

「――なるほど。玉環か――」

 仮に自分が彼女を娶れば、ファミリーの掟として苗字も楊姓に入れることとなる。世間では婚姻後も妻は旧姓のままを名乗るのが一般的だが、ファミリーには独自のしきたりで妻となる女性は亭主の姓を名乗ると決められている。とすれば――|楊玉環《ヤン ユーファン》である。
 若き獅子はふと浮かんだそんな想像に、図らずも心浮き立つ思いを自覚するのだった。



◆2
 そうしていよいよ撮影が始まった。
 化粧品のコマーシャルにふさわしい優美な演出が美しい彼女を更に際立たせていく。
 新人とのことだが、まったくそんな危惧の感じられない立ち居振る舞いは見事だ。まあ、普通のモデルがしたならばたどたどしいと感じられるかも知れないが、何を置いても彼女の抜群の容姿が些細なことを忘れさせてしまうわけで、輝くような笑顔ひとつで撮影の場全体が光に包まれるような雰囲気を放つ。楊はつい周囲の視線を忘れて釘付けにさせられてしまったほどだった。



◆    ◆    ◆



 撮影が済み、後ろ髪を引かれる思いながらひとまずこの場を後にすることにした。担当者の男から後日完成した動画を届けがてら、彼女を連れてご挨拶に伺いますと言われたからだ。
 当の彼女とひと言二言言葉を交わしたい思いももちろんあったが、後日改めて訪ねて来るというのなら今はそうガツガツしないでもよいだろう、そう思ったからだ。

(楽しみは先にとっておくのも悪くなかろう)

 楊には初めてといえるくらいに珍しいことである。これまではどんなものであろうと望むものは即刻手に入れてきた。女とてまた然りだ。それが楽しみを先にとっておこうなどと思うこと自体が稀――というか特異なことであった。
 楊にとって彼女――林玉環――との出会いは、それほどに特別なものだったのだ。
「ちょうど昼時だ。この近くで飯でも食っていくか」
 今はガツガツせずとも良い――そうは思えど、何となく彼女のいるこの撮影現場から離れたくはなくて、楊は側近たちを昼食に誘った。都合の良いことに撮影はホテルの中庭を借り切って成されていたので、ここのレストランで食事をとれば少しでも彼女と近い空間にいられるからだ。そんなことを思う自体が既に虜というのだろうが、楊本人はその気持ちに逆らう気にはなれなかったのである。

 レストランに着き、個室に案内される。これまた都合よくか、窓から中庭が見渡せるとは運がいい。
 窓辺に立ち、覗き込めば、スタッフたちが機材の片付けを行なっている様子が見てとれた。惜しくも彼女の姿は見当たらなかったが、長い間モデルを直射日光にさらしておくわけもないだろうから仕方ないか。
 食事が運ばれてくる頃にはすっかり中庭の方でも片付けが済んだようである。慌ただしく動き回っていたスタッフの姿も減り、いつもの光景が戻ってくるのが少し名残惜しくも感じられていた楊であった。
「|煌《フアン》、素晴らしい撮影でございましたね」
 煌とはファミリーの間で独自に決まっている楊に対する呼び方だ。ボスという意味である。
「モデルがダブルブッキングされたと聞いた時はどうなることかと気を揉みましたが、良い結果となって安堵いたしました」
「ええ、本当に。CMもきっと素晴らしい出来でございましょう」
 側近たちが口々にそんなことを言っては朗らかな笑顔を見せている。察するに、彼らにとってはあのモデルに対する個人的な感情はないようだ。皆、綺麗なモデルで良かったですねなどと言ってはいるが、ごく一般的な感想であって、楊が感じているような特別な想いは見受けられない。それに安堵させられることも楊にとっては信じ難いくらい特別なことなのだ。



◆3
「しかもあの女性のお名前は玉環だそうで。煌が娶られれば、かの有名な楊貴妃と同じ名でございますよ!」
「ですな! 如何でしょう、煌もそろそろよろしいお歳。あのような女性でしたら煌にはお似合いかと思うのですが」
 側近たちの目から見てもそんなふうに感じられるのだろう。まさか彼女にのことが気に掛かってならない――などと気付かれてはいまいが、楊にとっては少なからずドキッとさせられてしまう言葉だ。
「――ふむ、確かに私もそんな年齢だな」
 はにかみながら当たり障りのなくそう返せども、胸の内は躍るようであった。
 食事が済む頃にはすっかりいつもの頭領の顔を取り戻した楊であったが、まさかそこで運命の出来事が待ち受けているなどとは思いもよらなかった。乗ったエレベーターの途中階で、またしても彼女――林玉環――と鉢合わせたからだ。彼女を囲むようにして、先程よりは少ないものの、カメラなどの機材を抱えた数人のスタッフと担当者の男までが一緒だった。
「おや……楊大人……! これはまた……奇遇でございますな」
 担当者の男は少々たじろいだ様子ながらも驚き顔でいる。彼の顔つきからは何だか見られてはまずい――といった雰囲気すらも感じられる。
「――お前さん方も食事か? 先程はご苦労であったな」
 ひとまずそう声を掛けた楊であったが、そこはこの国の裏社会を仕切る精鋭だ。彼らのバツの悪そうな顔色に気付かぬわけもなかった。
「はぁ、じ、実は……これからもうひとつ撮影が残ってございましてな……。中庭から場所を変えて次の現場へ移るところでございます……」
「もうひとつの撮影――とな? それは我が社のコマーシャルとは別のものか?」
「へ、へえ……左様で」
「ほう? 引き手数多なのだな。――で、クライアントはどのような企業なのだ?」
 同じモデルを他社が使って悪いことはないが、こちらにとってもイメージモデルとなるわけだから、聞いておくに越したことはない。楊が尋ねるも、担当者の男はますますバツの悪そうに背を丸めながらも冷や汗を拭っていた。
「は、はぁ……その……」
 他社のコマーシャルを覗き見るつもりはないが、男の様子がどうにもおかしいのが気になって、楊は撮影に立ち合わせてくれるよう申し出た。
「他社がどういうコンセプトでモデルを使おうと我々が口出しする権利もないがな。だが我が社にとっても今回のコマーシャルには力を注いでいる大事なものだ。担当者にひと言挨拶だけでもさせてはくれまいか」
「は、はぁ……それは……」
「何なら撮影を見せろとまでは言わん。同じモデルを使う者同士として顔合わせだけでもしておきたい」
 担当者の男も楊がこの台湾を仕切るマフィアの頂点だという素性を知っている。頭領本人にそう言われては断る気概はないようである。だが、まるで知られては都合が悪いようなその態度が非常に気に掛かるところだ。何よりカメラマンの背に隠れるようにしてうつむいていた彼女の顔色も、心なしかあまり良くないように思えるのだ。この場の全員がまるで悪いことでも隠しているようなソワソワとした奇妙な素振りでいるのも気に掛かる。楊は是が非でも現場までついて行って確かめなければ気が済まないと、担当者を冷ややかな視線で見つめた。
 鋭いその圧に、さすがに抗うのはまずいと思ってか、担当者の男は渋々とうなずく。エレベーターが目的の階に着くまでのわずかな時間が奇妙な緊張感に包まれていた。



◆4
 案内されたのは客室のひとつだった。スイートタイプで設えはゴージャスだが、その豪華さには不似合いなほどにスタッフらは気もそぞろ気味だ。誰もが落ち着きのなく視線を泳がせながら、黙々と機材を組み立てたりしている。
「楊大人……皆様、どうぞこちらでお寛ぎください。ご昼食はお取りになられましたか? 何かルームサービスでも持って来させましょうか?」
「いや、食事は済ませたばかりだ。気遣いは不要だ」
「は! 左様でございますか。で、ではただいま飲み物をお持ちいたしますゆえ……」
 担当者の男がこれでもかというほどにおべっかを遣ってよこす。エアコントロールは快調で暑くもないのに首から額からダラダラと大汗をかいていて、やはり態度がおかしい。
「いったい何の撮影だというのだ。クライアントは立ち合わんのか?」
 楊が少々厳しめの声色で訊くと、男は更に顔色を蒼くした。
「じ、実は……今日は先方様のご都合が悪く……私どもにお任せいただけるとのことで」

「――――」

「お、おそらく……ですが、大人にもお目の保養のひとつになるかと……。たいした撮影ではございませんが……」
 と、そこへドアベルが鳴り、数人の男たちがドヤドヤと押し掛けて来た。
「よ! 待たせた? 悪い悪い!」
「ヒョー! この彼女が今日のお相手? めちゃくちゃ美人じゃん! ラッキーな!」
「よろしくぅ、お嬢さん!」
 男たちは三人ほどだが、その誰もが軽口に似合いの、見るからに軽率そうな者ばかりだ。ところが、続きの間に腰掛けていた楊らに気付くなり、ビクりとしたように肩を揺らしてみせた。
「うわ……ッ! もしかクライアントさん?」
「こ、こんちゃ……っス」
「お世話になりやっす」
 頬の肉を引き攣らせながらもヘコヘコと愛想笑いを浮かべてよこす。男の一人が担当者に向かってコソッと耳打ちをした。
「おい、いったいあいつら誰よ? もしかクライアント? あんな強面の連中の前じゃ演りずれえってのよ!」
「こら……失礼なことを抜かすな……」
 担当者の男は彼を宥めながらもこちらを気に掛けてビクビクとしている。
「……ディレクター、準備が整いましたが……」
 スタッフからそう声が掛かり、担当者の男が汗を拭いながら楊らの方へと近寄って来た。両手を胸前で擦るその姿はまるで最大のおべっかと受け取れる。
「ささ……どうぞ大人……少しでもお楽しみいただけたら幸いでございます……」
 奥の次の間からスタッフに連れられて彼女――林玉環が姿を現した。バスローブを羽織り、足元は裸足だ。俯き加減の顔を上げた瞬間に楊と視線が合って、彼女の美しい瞳がわずか苦しげに歪められた気がした。
「で、では始めようか……」
 担当者の男の声で玉環が羽織っていたローブをするりと脱ぎ捨てた。
 真っ白い陶器のような肌が窓から差し込む午後の陽に照られて震えている。肩を丸め、胸元を両手で覆い隠す彼女を、先程の軽口男たち三人が取り囲んだ。
 グイと細い手首が掴み上げられ、無防備な彼女の裸体が露わになる。そのまま背後のベッドに押し倒され、三人の男たちによって屈辱的な格好にさせられていく――。
 何と、撮影というのはいかがわしい動画の為のものだったのだ。

 担当者の男は未だ冷や汗ながら、もしかしたら楊がこの手のことに興味を示して見逃してくれるかも知れないと期待しているようだ。楊とてれっきとした健康な成人男性だ。群を抜く美男子で、女には苦労しているとは思えないものの、如何な彼といえど、男であるならば少なからず興味を示さないではいられないだろう。運良くその気になってくれれば何とかこの場を切り抜けられるとでも思っているのだろう。

 ガタリ――! ソファを蹴り飛ばす勢いで立ち上がった楊の額には、怒りのこもった青筋がメキメキと音をなすほどに震えていた。



◆5
 楊はそのまま一目散に玉環を目指して長いストライドで歩み寄ると、途中にいたスタッフや相手モデルの男たちを虫でも振り払うかのように片手でなぎ倒していった。ベッドの上では恐怖に慄いた表情で玉環が身を丸めながらこちらを見つめている。
 楊はその場で自らの中華服の上着を脱ぐと、震える玉環の素肌を包んだ。
「来い――。このようなところにいる必要はない!」
 そう言うと玉環の手を引いて扉口へと歩を進めた。担当者の男らは逆らうわけにもいかず、呆然とその後ろ姿を見送るのみである。
「すぐに車を回せ! 邸へ戻る」
「は!」
 楊は裸身の玉環を腕に抱えたまま無言で車へと乗り込む。その表情は怒りとも何ともつかない厳しいもので満ち満ちとしていた。



◆    ◆    ◆



 邸に着くと玉環はようやくと楊の腕から解放された。未だ彼が着せてくれたダボダボの中華服の上着の下は裸身のままだ。
 邸の豪華さにも驚かされるが、玉環にとってはそれどころではなかった。突如目の前に現れた美丈夫が自分を拐ったのだ。しかもここへ来るまでの間に乗せられた超が付くほどの高級車といい、この豪勢な造りの邸といい、今のこの状況といい、何が何だか分からずに戸惑うばかりである。
「あ、あの……貴方は……」
 玉環は震える声でそう訊くのが精一杯であった。
「――――」
 楊とてまた玉環同様だ。いかに怒り任せとはいえ少し冷静になってみれば今日一日のことが夢の如くに思えてくる。
 それより何より間近で見る彼女の姿にも動揺が隠せない。撮影時に遠目から見ただけでもその美しさに胸を掻き立てられたが、今はそんなもの比ではない。
 大きな黒い瞳、ぷっくりとした形のいい唇に乗せられた真っ赤な紅が彼女の陶器のような肌をより一層引き立てていて、まるで触れるのも憚られる人形の如く美しさだ。
 細い肩に絹糸のような黒髪が乱れ、はらりと掛かって艶かしい。自身が着せた大きな中華服の下には先程チラリと垣間見た豊満な胸が透けて見えるようで、思わず頬が朱に染まってしまいそうだ。
 女など数多抱いてきたマフィアのトップであっても動揺を隠せない、初めて覚える感覚であった。
「――私は楊礼偉。そなたがモデルをしてくれた化粧品会社を経営している者だ。今日は撮影を見に行ったのでな」
「あ……! あの会社の……社長様……」
「そうだ。たまたま撮影場所のホテルで昼食をとったのだが――偶然とはいえまたそなたに会えて良かった。担当者め、あんないかがわしいことをさせようとしていたとはな……」
 楊は憤りをあらわにしたが、玉環からは思いもよらない言葉を返されて面食らう羽目となった。
「あの……社長様……私、すぐにあのホテルに戻らねばなりません……。失礼とは存じますが……その」
 なんと自らホテルに帰ると言う。楊は驚いた。



◆6
「――何故だ。もしも着替えなどを心配しているのなら無用だ。すぐにそなたに合うサイズの服を用意させる。貴重品を置いて来たのなら部下に言って取りに行かせる」
「いえ……あの、そうではございません。もちろん……持ち物を置いて来てしまったのもありますが、戻って撮影を続けませんと……」
 楊はますます驚かされてしまった。まさか彼女の口から撮影を続けたいなどとは想像すらしていなかったからだ。
「……いったいどういうことだ。そなたは……いつもあのような仕事をしているというのか……?」
 もしかしたら彼女の本業はそういった動画のモデルであって、こちらが思うほど困っていたわけではないのだろうか。だがしかし、先程の様子からすると酷く怯えていたのは間違っていないだろうとも思う。
「いえ……ああいった撮影は今日が初めてです……」
「……初めて――だと?」
「……はい。あのディレクターさんからお誘いいただいて……私、モデルなどやったことがなく……右も左も分からずに……社長様の化粧品会社のCMも……初めてのことで緊張いたしました」
 玉環曰く、私などでお門違いではなくなかったでしょうかと恐縮している。
「いや……CM撮影は見事だった。そなたを置いて他に居まいというくらい素晴らしい出来だったが――」
 それを聞くと玉環はホッとしたように瞳をゆるめてみせた。その笑顔のなんと可愛らしいことか――楊はもう二度とこの女を自分の手元から離したくはない、そんな気にさせられてしまった。
 だが、モデル業など経験が無い彼女がどうしてまたわざわざあのような動画に出たいというのか、そこだけは到底理解できない。
「――そなたがこれまでにも仕事としてあのような動画に出ていたというのならば、私に止める権利はないかも知れない。だが――初めてというなら話は別だ。何故進んでアダルト動画などに出ようと思うのだ」
「それ……は」
 玉環は困ったように視線を泳がせた。
「それは……お金の為でございます」
「金――? 金に困っているというのか?」
「……はい。私の両親は……ついひと月程前に亡くなったばかりなのでございますが、大量の借金を遺して逝ったのでございます。このままでは借金を返すどころかお墓すら建ててあげられません。働けども自身の生活で目一杯でお金は一向に貯まりません……。途方に暮れておりました私にあのディレクターさんが短期間で高額の報酬がいただける仕事をご紹介してくださると……」
 だから戻って撮影に参加しなければならないのだという。



◆7
「そなたは――金の為に身を売ると申すのか? あの仕事がどんなものか知って言っているのか」
「……知って……おります……。多分……」
「多分――だと? あれはれっきとしたアダルト動画だ。しかも男が三人、おそらくは強姦ものだろう。商売ものの動画とはいえ、演技だけでは済まされぬぞ。そなたは見も知らぬ男どもに穢されても構わぬと言うのか……?」
「……そ……れは。ですが他に方法はないのです……。元々父が遺した借金というのも私の為に借り続けたものだから……」
「そなたの為にだと? どういうことだ」
 言ってみろと顎をしゃくる。一刻も早く撮影現場に戻りたい一心で、玉環は質問に答えることにした。
「私どもの家族は裕福ではありませんでしたが、幸せに暮らしておりました。父のところへは私を身売りさせないかと怪しい男の人たちが事あるごとに訪ねて来ておりましたが、父はそれを断って……私を身売りさせない為に借金を増やし続けていきました。男たちは何だかんだと理由をつけて、来る度に父からお金を巻き上げていきましたから……」
 そんなことが数年続き、母は気を病んで亡くなったという。父もギリギリまで娘を庇い続けたが、とうとう事切れて他界。おそらくは玉環の容姿に目をつけた悪人どもが一稼ぎしようとしていたのだろう。そんな両親の為に墓さえ建ててやれないのではあまりにも申し訳ない。この際自分の身がどうなろうと借金を返し、小さくてもいいからきちんとした墓を建て、安眠させてあげたい。そんな思いから彼女は覚悟を決めたのだそうだ。
 楊は眉根を寄せたまま溜め息を隠せなかった。
「お前さん――あの連中が本当に報酬をよこすと思っているのか?」
「……え?」
 おそらくだが、亡くなった父親の元に再三訪ねて来ていたのは彼らの仲間という可能性も高い。どうにかして玉環の美しさで商売にし、彼女には騙くらかして金など払わないつもりでいるのは見え見えだ。
「帰すわけにはゆかぬ。あの連中はゴミ屑も同然だ。あんなヤツらの言うことが信用できるはずもない。あのようなことに手を染めている会社だとは知らなかったが、こうなったら我が社のCMも撮り直しだ!」
「そんな……」
「まあそれは別として――そなたは金蔓としていいように使われるだけだぞ」
「ですが……他に方法はないのです。お願いです、ホテルへ戻らせてください!」
「ならぬ! そんなことはこの私が許さぬぞ」
「何故です……? 貴方様に私を止める権利はないはず……! お願いです。通してください!」
 必死の玉環の前に両腕を広げて立ちはだかり、行く手を塞ぐ。
「ならぬ! 絶対に行かせぬぞ」
「どうして……ッ!」

「そなたに惚れたからだ!」

 玉環は驚いたようにして美しい瞳を見開いた。
「惚……れた……。私に……?」
「――そうだ」
 楊はガラにもなく僅か頬に朱を差し、視線を泳がせる。咄嗟のことでつい本音がついて出てしまったものの、少なからず照れる気持ちは認めざるを得ないところだ。
 だが、そんなウブな思いも直後に放たれた玉環の言葉で吹っ飛んでしまった。
「……そんな……それこそ酷いご冗談ですわ……。貴方のような殿方が私などを……。からかうのはおやめになって」



◆8
「からかってなどいない! 私は本気で――」
「……だって私たち、お会いしたのは今日が初めてですのよ? それなのに本気だなどと……からかわれているとしか思えません」
「――好きになるのに年月が必要か? ではいったいどのくらいの月日を費やせば貴女は信じるというのだ」
「……どのくらいって……。と、とにかく帰してください……! 私にはお金が必要なんです!」
「金の為ならどんなことでもすると申すか! 男たちに穢されるような――あんな動画に出るというのか!」
「……いけませんか……? 貴方には分からないわ。大企業の社長様で……こんな立派なお邸に住んで……。とにかく退いてください! 私が誰に穢されようが貴方には関係ありませんわ! お金の為ならそんなこと……両親の為ならそんなことくらい……何でもないわ……!」
 涙を浮かべながらその美しい瞳に睨みまで据えてそう言い放った彼女に、楊はギュ――と拳を握り締める思いにさせられる。
「分からない|女《ひと》だ――。そこまで言うのなら――」
 ふうと溜め息をつき、『来い――!』といったようにして彼女の細い手首を掴んで足早に歩き出す。
「……待ってッ! どこへ行かれるのです……」
「寝室だ」
「寝……? 何を……」
 寝室に着くと楊はパタリと扉を閉めて錠を下ろした。
「……何を」
 玉環は掴まれていた手を振り解いては後退り、声を震わせている。
「男に穢されようが構わんのだろう? だったら私がそなたを買ってやる」
「……買う……ですって」
「そうだ。私とて何処の誰とも知れぬ男どもに惚れた女をくれてやる気はないからな。借金は返してご両親には立派な墓碑を建てると約束する」
 楊はシャツを脱いで床へと掘り投げると同時に玉環の腕を掴んで懐の中へと引き寄せた。
「……ちょと……待っ!」
「――こんなに震えていて、よくも穢されようが構わないなどと言ったものだ。お前さん、まだ男を知らぬのだろう」
「……ッ」
 クイと顎先を持ち上げられてビクッと肩が震える。大きな掌が首筋を掴み、そろりと下へ撫でられる。ダボダボの中華服越しに乳房に触れられて、玉環は『ヒッ……!』と声をうわずらせた。
「待って……! 待っ――」
「待たぬ――!」
 そのままベッドへと押し倒されて馬乗りになられる。ガッシリとした楊のような体格の男に組み敷かれては身動きすらままならない。
「待っ……! 嫌ッ……」
「貴女が望んだことだ。止める気はない」
「あ……、や……め……」
 抵抗の言葉とは裏腹に身体の中から熱い何かが這い上がってくるようだ。



◆9
 ふと重なり合った視線の先には酷く男前の瞳が熱を帯びたようにして見つめてくる。
「い……や……、やめ……」
「やめない。諦めろ――」
 そのまま唇を塞がれて、身体中の何かが一気に抜けていくような気にさせられる。最初は触れるだけの、ついばむようなキス。次第に塞がれたり離されたりしながら歯列を割って弄るように入り込んでくる濡れた舌先に掻き回されていく。
「ん……ッ! や……嫌……お願い離してッ」
「離して――そう言えばやめてもらえると思っているのか? さっきのような動画に出れば到底やめてなどもらえぬぞ」
「……ッう……」
「さっきの男たちのツラを覚えているな? 動画でそなたの相手役を演じるはずだった男たちだ」
「……知……りませッ……! か、顔など見ておりませ……」
「顔も知らぬ男たちにこの身を投げ出そうとしていたと言うか」
「……ッう……うう、そ……んな余裕はありませんでした……。顔など怖くて……」
「見ることもできなかったのだな?」
 玉環は自分を組み敷く男を見上げたまま、潤み出した涙をポロポロとこぼしては白いシーツを濡らした。
「よいか、よく聞け。あのまま私が連れ帰らなければそなたは身も心もボロボロにされていたのだ。金の為、両親の墓を建てる為という一途な思いを糧に身を捨て、その為ならばどんなことでもできると覚悟をしたのだろうが、想像するのと実際にやるのとは大違いだ」
 つまり、想像の中ではどんな目に遭っても構わないと覚悟したにしても、実際に動画に出て見知らぬ男たちに穢される現実は、その痛みも恐怖もまるで違うのだということだ。
「現に私一人を相手にそのように震え、泣きじゃくり、おそらく今――貴女は恐怖のどん底にいるはずだ。これがもし、今もあの撮影現場だったとしたらどんな気分だ。私もいない、助けてくれる者は誰もいない。周りは貴女で金を稼ぐことしか考えていないクズと、貴女を犯す演技を楽しまんとしている狼どもだぞ! そのような状況で貴女はどんな気持ちになったのか想像してみろ!」
 そう言われて全身が恐怖と嫌悪感に震え出す。
「よいか、二度と自分自身を粗末にせぬと肝に銘じろ! 立派な覚悟の下でならどんなことにも耐えられるなどとつけ上がったことは今後一切考えるな!」
 楊は言うと同時に中華服の袷を勢いよく引き裂いた。
「や……ッ! 嫌ーーーッ!」
 組み敷かれ、動けないままであられもない姿にさせられる。
「嫌ッ、やめてッ! 見ないでッ……」
 必死に胸元だけでも隠そうとするも、両の腕をガッシリと押さえ込まれて身動きができない。楊の長い黒髪が乳房に触れれば、恐怖とも欲情ともつかないゾワリとした感覚が背筋を這い上がった。
「お……願い……やめて……やめてください……! 分かりましたッ、もうあのような動画に出るなどいたしません! だからお願い……やめてください」
「――本当だな?」
「……本当です! 二度としない……だから許してください! 見ないで……! 離して……ください」
 ボロボロと涙を流しながら玉環は懇願した。だが、それとは裏腹に胸飾りは固く尖り、薄桃色の乳輪を盛り上げている。組み敷かれ、見られているという恥ずかしさに、意思とは関係なく身体が反応してしまっているのだろう。それを見て取った楊は、欲するがまま固く尖ったそれを口に含んでは舌先で転がした。



◆10
 驚いたのは玉環だ。
「嫌ッ……! やめてください! 何をなさるのですッ……」
 身を捩って逃れようにも楊のような体格のいい男の前ではどうにもならない。
「――諦めろ。言葉だけでは到底信用できぬ。貴女には――二度とあのような馬鹿げた考えを起こさぬよう身をもって教えておかねばならない」
 切なげに言うや、貪るように胸元から首筋、鎖骨に肩先と激しい愛撫が襲いくる。
「嫌ッ……お願い、やめて! やめてー……!」
「やめぬ! 男とはそういうものだということを――思い知るのだ」

 言葉は確かに乱暴だった。
 だが、彼の表情は苦しげでもあった。
 切なくもあり、怒っているようでもあり、そして抑えきれない欲情の点った視線は淫らで熱い――。

 彼の舌先が触れるごとに、長く形のいい指先が肌を撫でるごとに身体中から力が抜けていく。自ら発する抵抗の言葉も次第にゾワゾワとした得体の知れない感覚となって身体中を這い回る。
「玉環――私を見ろ」
 切なくもどこか甘やかに囁かれたその言葉にギュッと瞑っていた瞳を恐る恐る見開くと、そこには険しく眉根を寄せながらも苦しげに揺れる形のいい双眸がじっと見下ろしていた。
 これまでの人生で見たこともないくらい整った顔立ちに、図らずも頬が熱を持つ。
 こんなにも恵まれた顔立ちの、しかも財力も持ち合わせているような男なら、それこそ女になど不自由しているはずもない。
 こんなことでもなければ、自分とて少なからず心惹かれただろうと思える男前ぶりだ。
 その完璧な男に組み敷かれている現状を想像すれば、心のどこかでどうなっても構わない――というよりもどうにかして欲しいと望むようなもう一人の自分が天井から見下ろしているような感覚に陥ってしまう。思わず湧き上がった淫らな想像に、玉環はたじろいだ。
「……あ……はッ……やめ……」
 抵抗の言葉はいつしか吐息に変わり、かすれ、まるで嬌声のようになっては身体中が熱くなる。
「礼偉だ」
「礼……偉?」
「そうだ。玉環――お前は私のものだ。誰にも渡すつもりはない」
「あ……礼……、お願いですから……やめてください……。私……」
「掴まってろ」
 手首を優しく握られ、背中へ腕を回せと導かれる。
 と同時に、再び乳輪を吸われて舌先で器用に転がされる――。
「い……やッ! 嫌ぁ……こんな……私……」
 抵抗の言葉を言えば言うほど、背筋にはゾクゾクとした快感が這い上がる。腹の中心からキュッと摘まれるような何とも言い難い感覚が何度も何度も身体を突き上げていくようだ。
「い……ッ、は……ぁ……礼偉……ッ」
「それでいい。感じるまま素直になるのだ。よいか、玉環。覚えておけ。男が――ただの欲を剥き出す為に女を踏みにじるのと、惚れた女を愛しく想って抱くのとでは意味が違う。私は貴女に惚れ、愛しいと思うから抱くのだ」
 声音は厳しい。
 表情も強面だ。
 だがその意味するところはとことん甘く愛情を沸々と感じる。
「……はッ、あ……ん、礼……偉……」
 乱され、狂おしいくらいに高みへと押し上げられて、我を失いそうになる。と同時に、激しくも熱い――雄々しい楔を打ち込まれ、玉環はのけぞった。目の前が真っ白になりながらも逞しい背に目一杯腕を回し、しがみ付きながら、見たこともない靄の中へと呑み込まれていくようだった。



  *青蛇
◆11
 窓からは眩しいくらいの夕陽が差し込んでいる――。

 激しくも甘い衝撃の後で、玉環は広いシーツの海の上でぼんやりと視線を泳がせていた。
 すぐ側には逞しく筋肉の張った雄々しい男の腕。
「辛くはないか――?」
 囁くようにそう言われて、ゆるりと声の方に視線をやる。
「すまない――」
 わずか瞳を歪めながらそう言う男の声は心から申し訳ないといったように震えていた。
「あの……私……」
「無体なことをした。すまないと思っている。だが――我慢がきかなかった」
「……あ……なた」
「約束する。今後は――貴女の同意なしでこのようなことは決してしない。ご両親の墓碑のことや借金のことは私が責任をもってきちんとさせてもらう。どうか許して欲しい」
「そんな……! 許すだ……なんて」
 楊はゆっくりと起き上がり、
「風呂はそこだ。自由に使ってくれて構わない」
 そう言ってベッドを抜け出した。
「あの……ッ! 待って……貴方はどちらへ……」
「すぐに戻る。戻ったら一緒に食事をしよう」
 それまでに貴女は風呂にでも浸かり、疲れを癒しておいてくれと言って申し訳なさそうに笑む。
 全裸のままで扉を開け、出ていくその背には――うねる青い蛇の紋様。玉環は驚きで言葉を失いそうになってしまった。

(青い蛇の刺青……まさか、まさか……|青蛇《チンシゥ》――)

 青い蛇の紋様はここ台湾を仕切るマフィア、楊一族の象徴だ。青蛇の楊ファミリーといえば、この国に住む者なら一般人であろうと誰もが知っている。

(う……そ、だって……化粧品会社の社長だって……。でも名前は同じ――楊!)

 だが、考えてみればあの堂々たる素振りや言葉の節々に感じる威圧的な雰囲気は、マフィアトップのものだとするなら納得だ。威圧的といっても決して嫌悪感を感じさせるわけではないが、立場上、身についたものだというのだろうか。

(嘘でしょ……じゃあ私はマフィアに抱かれてしまったというの?)

 あの楊礼偉が本当にマフィアならばとんでもないことである。この先、いったいどうされるかと思うと恐怖で膝がガクガクとし、今にも気が遠のいてしまいそうだ。もしかしたら闇の組織あたりに売り飛ばされてしまうかも知れない。

(どうしよう……どうしたらいいの……?)

 あまりの困惑に両手で顔を覆う。嘆きながらも、ふと先程言われた言葉が脳裏を過った。

 今後は――貴女の同意なしでこのようなことは決してしない。ご両親の墓碑のことや借金のことは私が責任をもってきちんとさせてもらう。

 本当に借金を返してくれるというのだろうか。彼がマフィアであるか否か以前に、嘘をつくような男には思えないのも本当のところだ。たまたま成り行きで強引な抱かれ方をしたものの、それも元はといえば自分がアダルト動画の撮影現場に戻ると言い張ったからなのだ。
 彼はそうさせない為に敢えてあのような行動に出たわけで、決して身勝手な感情からそうしたのではない。玉環も頭ではそれを理解していた。
 今後は同意なしでこのようなことはしないと真摯に謝ってくれたし、どう考えても悪い人間だとは思えないのだ。



◆12
(もしも……もしもよ? あの言葉が嘘じゃなく、本当に借金を返してくれるというなら――今後はいかがわしい仕事をしなくても済む。借金さえなくなれば両親のお墓は地道にお金を貯めて、いずれ建ててあげられる……。そのカタとしてまたあの人に抱かれることがあってもアダルト動画に出るよりはよほどマシだわ……)

 このままあの楊の力に頼って借金さえなくなれば自由になれる――!
 ふと、そんな思いが浮かぶ。

(ダメよ、ダメ! 私ったらなんて図々しいことを考えてるのかしら。これではただあの人を……利用しようとしてるだけじゃない! 第一、たった一度寝たくらいで借金がサラになるなんて……そんなに都合のいい話があるわけない! 夢を見てはダメよ玉環)

 自分に対する嫌悪感やら罪悪感が込み上げて、どうにも切なくなり涙があふれ出した。
「……ッ、うう……」
 両手で顔を覆ったまま泣き崩れる。その時だった。
 コンコンと扉がノックされ、ハタと顔を上げると、扉の向こうから楊らしき男の声が聞こえてきた。
「玉環。玉環、いるか? 私だ、礼偉だ」
「あ……は、はい!」
 玉環は慌てて涙を拭うと、ベッド脇のスツールに置かれていたダボダボの中華服を羽織った。着るものといえばこれしかないからだ。
 楊は扉越しに声を掛けてくるだけで中へ入ってくる気配はない。戸惑いながらもそろりと扉口へ歩み寄った。
「あの……礼偉さん?」
 声を掛けると扉の向こうからは嬉しそうな返事が返ってきた。
「玉環! よかった、まだ風呂に入っていなかったか。バスローブを持ってきた。ここへ置いておくから、とりあえず使ってくれ。貴女が風呂から上がるまでには着るものを用意しておく」
「あの……ッ、私……その……」
「その後で食事にしよう。ああ、そうだ。貴女の荷物だが、部下が引き取りに行っているから心配しないでくれ」
 その声音はやさしくて明るい。まるでウキウキとしているふうにすら感じられるような朗らかな話し方だ。
「あの……」
「何だ? 他に何か要るものがあれば遠慮なく言ってくれ。用意しておくぞ」
「いえ……そんな。き、着る物だけで充分です」
「ではまた後で。貴女との食事を楽しみにしているよ」
「……あ、ええ……あの」
「ゆっくり風呂に浸かっておいで」
 朗らかで包容力のある声が扉から遠ざかっていく。
 ここは彼の邸なのだから、部屋に入ってこようと思えばいくらでも可能だろうに、こちらに気遣って扉越しの会話だけで済ませた彼に心がどよめく。

(礼偉……さん)

 やはり彼は悪い人間ではないのだろう。そう思うと同時に染まり掛けた頬の熱に気づいて玉環はハタと我に返った。

(私ったら……何を期待しているの。バカね、あの人は大きな会社の社長よ。もしかしたらマフィアかも知れない。それにあんなにハンサムでこんな立派なお邸に住んでいるような人よ。私なんかいっときの戯れ相手に過ぎない……。少し時が経てば飽きられて見向きもされなくなるに決まってる)

 夢を見てはダメ。何度も自分にそう言い聞かせながら、玉環は広々とした湯船へと身を沈めたのだった。



◆13
 風呂から上がると更に驚かされる出来事が待っていた。何と扉の前に数着のドレスが用意されていたからだ。移動式のハンガーラックに綺麗に吊るされていて、そのどれもが目を見張るほどに豪華なものだった。
 ラックの台座には数足の靴も用意されている。タイプもデザインも様々で、ヒールの高いエレガントな物から歩きやすそうなローヒールの物、チャイナドレスに合わせた刺繍が見事な絹製の物までよりどりみどりだ。
「こんなにたくさん……いつの間に」
 どれも体型には申し分なさそうだが、風呂に入っているこの短時間にこれだけの物をと驚きを隠せない。
 しかもラックの脇の小さなテーブルには化粧品の山々。それこそ最新のブランド物だ。
「これ……礼偉さんの化粧品会社のものだわ」
 乳液やクリームなどの基礎化粧品の他に、ファンデーション、リップグロス、アイシャドウなどなど封を切っていない新品のパッケージのまま並べられている。ネイルチップまであることに驚いたものの、その中に小さなカードを見つけて更に目を見張らされてしまった。
 そこには手書きでこう書かれていた。

 我が社の製品で恐縮だが、使える物があれば自由に使ってください。
 七時に迎えに来る。
 礼偉

「これ、礼偉さんが書いてくれたのかしら」
 男性らしい雄々しい筆跡だが、丁寧に書かれているのがよく分かる。彼の真心が文字ひとつからも伝わってくるように思えるのだ。
「礼偉さん……」

(バカね、玉環……。夢を見てはダメって自分に言い聞かせたばかりなのに)

 こんなふうにされればどんどん心が揺れ動いて、ますます彼に惹きつけられてしまいそうだ。

(ダメよ、玉環! 今はただ……あの人にとって私は物珍しいだけの女なのよ。期待してはダメ! 夢を見てはいけないわ)

 何度そう言い聞かせても気持ちはとまってくれない。このまま彼にほだされて夢中になったとしても、やがてはきっと飽きられて捨てられるに違いない。玉環は甘苦しい胸の痛みを覚えつつも、のめり込んではいけないと固く心に誓うのだった。
 その後、ハンガーラックから一番おとなしそうな服を選び、刺繍の施されたペタンコの靴に足を入れる。
「気持ちがいい……。なんていう履き心地かしら」
 数足ある靴の中から一番地味目の物を選んだつもりだったが、いざ足を入れてみると今まで履いたことのないくらい素晴らしい履き心地に驚きを隠せない。服も然りだ。
「こんな高級な服……初めて着るわ」
 化粧品はリップグロスの封だけを切り、唇に薄く乗せた。どれでも自由に使ってくれていいと言われたものの、そのすべてが最新の高級化粧品だ。おいそれと封を開けてしまうのがためらわれるが、とはいえ風呂上がりのスッピンではそれも失礼かと思ってしまう。迷った末にリップグロスだけを拝借することにしたのだ。



◆14
 部屋の鏡に向かってふうと大きく深呼吸する。

(私、これからどうなるのかしら……)

 一緒に食事をしようと言われているが、それが済んだら今度はいつあの楊と会えるのだろう。そんな思いを抱く自体がお門違いだと言い聞かせながらも、きっと家に帰ってからもそんなことばかり考えてしまうのだろうと思うと気持ちが重くなる。
「夢……よ。そう、夢。今日一日のことは都合のいい私の夢だったのよ。そう思わなくちゃ……」
 鏡の中の切なげな笑顔が今にも泣き出しそうだ。
「バカね、玉環。これまでだって一人で生きてきたじゃないの。しっかりしなさい!」
 両の掌でパンパンと頬を叩き、スッと背筋を伸ばす。
「お食事が済んだら夢は覚めるのよ。あの人とも……お別れ。いいわね、玉環」
 鏡に向かって独りごちる。窓の外にはキラキラ――台北の街の灯りが宝石箱のようだった。

 七時になると楊が迎えにやって来た。その姿を見てまたもや驚かされる。
 先程の中華服とはガラリと印象が変わって、ダークスーツに身を包んだ楊がまるでエスコートするかのように手を差し出してくれていたからだ。
「礼偉……さん」
「おや、玉環! 化粧品はお気に召さなかったかい?」
 スッピンに近いリップグロスだけの姿に目を丸くしている。
「い、いいえ……! とても素敵な物ばかりで……。でももったいなくて封を開けられませんでしたの」
「なんだ、遠慮などせずとも良いのに。だが――素顔の貴女も素敵だ」
 軽く頬に手を添えられて一気に朱に染まる。
「あの……もしかしてちゃんとお化粧した方がよかったでしょうか」
 楊の出立といい、高級ホテルのレストランに似合いそうな雰囲気だ。玉環は今更ながらスッピンでは失礼だったかと恐縮してしまった。
「いや、構わない。食事はうちのダイニングで用意しているからね。化粧はまた外で食べる時にしてくれたらいい」
 楊は朗らかな声でそう言うと、紳士な仕草で手を取っては邸のダイニングへと案内してくれた。とはいえ、玉環からすれば高級レストランも同様の設えである。大きな全面ガラス張りの窓、中世の貴族館を連想させるような重厚なカーテン。その向こうには中庭だろうか、宵風にそよぐ木々が揺れて清々しい気持ちにさせられる。室内を見渡せば質の高い調度品にシャンデリア。まるで御伽の国に迷い込んでしまったような異世界だ。普通の家庭に育った玉環には目が回ってしまうような豪華さであった。
 卓上に備えられているカトラリーや食器類にも目を見張らされる。卓の中央には牡丹の生花が飾られており、グラスも数種類、そのどれもがシャンデリアの灯りを反射して宝石のように輝いている。
「さあ掛けて」
 楊が椅子を引いて座らせてくれるも、まるで雲の上にでもいるようで、フワフワと足元が浮いているような感覚に見舞われる。
 驚かされたのはそれだけではない。対面に腰掛けた楊から聞かされた言葉に、玉環は唖然とし、しばし言葉を失ってしまったほどだった。



◆15
「玉環、貴女の借金のことだが――。既にカタはつけた。もう何も心配せずともよい」
「……え?」
「それからご両親の墓碑だが、それは貴女とも相談しながら慌てず丁寧に探そうと思っている」
 場所などの希望もあるだろうしと言って穏やかに笑む。
「あの……礼偉……さん。私、その……」
 既に借金が片付いたと聞かされても驚きでしかない。それこそこの短時間にいったいどんな手を使ったのか、まるでマジックか夢幻のようだ。
「借金のカタがついたって……あの……」
「ああ、調べたところ元々その借金というのも|阿漕《あこぎ》な連中のしでかした不当な企みだった。二度と貴女に近付かないよう灸を据えておいたから心配はない。万が一にもまた貴女を悩ませるようであれば、ヤツらも命にかかわるということが身に沁みたはずだ」
 それ以前にこの私が側についているから大丈夫だと言って笑う。楊は平然としているが、玉環にとっては一から十までが戸惑いの渦だ。
「命にかかわるって……」
「ただの脅しだ。あの連中も私の素性を知っているからな。よほどの命知らずでない限り、貴女にちょっかいを掛けるようなことはしないだろう」

 素性――。

 そんな|阿漕《あこぎ》な連中が瞬時に黙るということは、やはり彼はマフィアなのだろうか。
 玉環が言葉を失っていると、楊の方からはまるで真逆の甘やかな言葉が飛び出して、またもや絶句させられてしまう羽目となった。
「ふむ、この花が少々邪魔だったな」
 テーブル中央に置かれた大きな牡丹の花瓶をスイと手でよけながらじっと見つめてくる。
「え……? あの、とても見事な牡丹ですのね」
「ああ。だが大き過ぎる。これではせっかく美しい貴女の姿がよく見えないからな」
 思わず赤面させられてしまうような気障な台詞だが、楊が言うとまったくもって嫌味がない。
「あ……! そういえばこの服。それに靴やお化粧品まで、ありがとうございます。どれをお借りしていいか迷うくらいたくさんあって」
 礼を言うのがすっかり遅くなってしまったことに恐縮する。
「それにサイズもピッタリで、本当に私、なんて言ったらいいのか……」
 染まった頬の熱を隠すように俯き加減で言うも、
「よく似合っている。他の服もみんな貴女の物だ。どれでも好きな物を着ればいい。それにサイズも――な。一度この手に抱いたのだ。貴女の寸法は既にこの頭の中にしっかり刻み込んでしまったよ」
 不敵に笑みながらもまたサラリと気障この上ない台詞――。もっと赤面させられてしまうような返事を返されて、玉環は口元をパクパクとさせてしまった。



◆16
 その後、黒燕尾姿の眼差しがやさしい老紳士によって食事がサーバーされ、どれもが素晴らしく美味しかったはずなのだが、玉環にとっては味わう余裕もないほどにドキドキとしたままディナータイムは過ぎていった。
 デザートのコーヒーと小さなクッキーが出される頃になって、この夢のようなひと時が終わりに近付いたのだと自覚する。このまま家に帰れば虚無感が襲ってきそうだ。
 名残惜しい思いを噛み締めるように玉環は残り数分、せめてこの楊と過ごせる時間を、しっかり記憶に刻み込んでおこうと思うのだった。
 ところが――だ。
「玉環、食事が済んだら案内したいところがある」
 少々はにかみながら楊が言う。
「案内したいところ?」
「ああ――」
 それはダイニングを出て玄関ロビーから続く見事なアールデコ調の大階段を挟んだ、先程の楊の部屋と左右対称の位置にある部屋だった。造りはほぼ同じようだが、壁紙などの色合いが淡いグリーンで統一されていてロマンティックな雰囲気だ。楊の部屋の方はシックな焦茶色と黒を基調にしていた気がするが、こちらはそれに比べて明るく和やかな感じだ。調度品やカーテンの装飾なども、まさに女性が好みそうな雰囲気であった。
「どうだ、気に入ったかな?」
「ええ……素敵なお部屋ですのね」
 それ以外に感想が出てこないほどのゴージャスさだ。だが、こんな部屋を見せてどうしようというのだろう。まさか邸内を案内して回ってくれるとでもいうのか――玉環が戸惑っている傍ら、楊は嬉しそうな笑みを見せた。
「良かった。そう言ってもらえて何よりだ。何せこれから貴女に住んでもらう部屋だからな」

 ――――⁉︎

 玉環は唖然としたように楊を見上げてしまった。
 今更ながらに気付いたが、こうして並んで立つとまさに見上げるというのがぴったりなくらいに背が高い。玉環は一五〇センチ代の中くらいだから、それよりは三十センチ程も違うだろうか。目線の高さにある胸元は広く逞しく、この胸に抱かれたのだと思うと瞬時に頬が染まりそうだ。
 それより何よりこれから住んでもらうとはどういうことなのか――すぐには返事さえままならずに立ち尽くすのみだった。
「――貴女の意見も訊かずに勝手な言い分だが、すまない。これからはこの家で私と共に住んで欲しいのだが」
「住むって……私が? このお邸に?」
「そうだ」
「……あの、でも……」
「身勝手ですまないのは重々承知だが、私は貴女を手放すつもりはない。先程は咄嗟のことで不躾にも本音が出てしまったのだが、貴女に惚れたというのは嘘ではない。だからといって、むろん――あのように強引で勝手なことは絶対にしないと約束する。貴女はこの家で――私の側で自由にしていてくれていい」
 楊はしっかりと向き合い、玉環の瞳を見つめながら真顔で言った。
「玉環、私の恋人として付き合ってはいただけまいか」
「こ……いびと?」
「嫌か――?」
「嫌……だなんて、でも……」
「やはり年月が必要か?」
 昼間に言ったことを覚えていたのだろう、私たちは今日会ったばかりなのよという言葉をさしているのだろうが、玉環にとってはこの急展開に言葉すら上手くは出てくれない。



◆17
「失礼ながら貴女の住まいも調べさせてもらったが、ご両親の亡くなられた今、あのアパートに貴女を一人で置いておくのは忍びない。いつまた例の阿漕な輩のような連中に狙われんとも限らんからな」
 あの連中には釘を刺したが、似たような悪人は他にもゴロゴロいる。楊は一人暮らしをさせておく自体が心配で仕方ないと言った。
「――もしも、私と恋人になるのが嫌ならば無理強いはすまい。ただ、ここに住むことだけは了承して欲しい。私は昼間は仕事で留守にしているし、夜も帰宅時間はまちまちで夜中や明け方になることも多い。貴女と顔を合わせる機会も少なかろうが、それでも帰る家に貴女が待っていてくれると思うだけで嬉しいのだ。我が侭勝手な言い分とは思うが、是非ともこの申し出を受けてくれたら有難い」
 ひと言ひと言丁寧に、真剣な眼差しでじっと視線を合わせながらそう言って頭を下げる。
「あの……私、と、とても有難いお言葉ですわ。でも私なんかが貴方のような方のお側に置いていただいてよいものかと……。貴方はあんなに大きな会社の社長様ですし、それに……」

 この台湾を治めるマフィアなのでしょう?

 さすがにそのひと言は言えずに呑み込んだものの、楊には何が言いたいか分かってしまったようだ。
「刺青に気がついたのか――?」
 寝室を出る際、楊は全裸のままだった。玉環がその背中にある彫り物を見たとしても不思議ではない。
「私の素性を気にしているのだろう?」
「……いえ、そんな」
「お察しの通りだ。世間では私のことをマフィアと呼ぶ。あの彫り物は我がファミリーを象徴する青蛇――貴女が怖がるのも無理はない」
「怖がってなど……」
「――いまいか? だが事実だ。父はこの台湾の裏社会を治めるマフィアの頂点にいた。しかしながらもういい歳でね。私がその後を継いだのは半年程前のことだ」
「では……貴方がマフィアのボス……ですの?」
「そういうことになろう」
 楊は今一度「怖いか?」と言って玉環の頬に手をやった。
「いえ……驚きましたけど、貴方のことを怖いとは思いません。ただ、そのようなお立場ならば尚更……側に私などがいたら」
 貴方の評判にかかわるのではないですか? そう言いたげに視線を泳がせた玉環に、楊はゆっくりと首を横に振った。
「正直に言うが、私とてそれなりの歳だ。これまでに女性関係がまったくなかったとは言わない。けれど共に住みたいとまで思ったのは貴女が初めてだ。マフィアのトップなどと聞けば不安になって当然と思うが、私は貴女に惚れた。確かに出会ってすぐにこんなことを言っても到底信じてはもらえまい。しかし嘘偽りのない本心だ」
 どうか気持ちを汲み取ってはくれまいか――そう言われて、信じ難い思いに玉環は瞳を細めた。
「あの……私。私も……本当はさっきのお食事が済んで貴方とお別れするのが……辛いと感じていましたの。ですが……」
「玉環! それは本当か?」
 楊は逸ったように瞳を見開いた。
「ええ……はしたない女だとお思いでしょう。でも……そう感じたのは本当ですわ」
「玉環――!」
 堪らずに目の前の細い肩を腕の中へと引き寄せた。



◆18
「すまない。もうこのようなことはしないと言っておきながら、舌の根も渇かぬ内に――。だが、貴女のそんな気持ちを聞いたら我慢がきかなかった」
 抱擁を解き、許してくれと頭を下げる。玉環は恐縮してしまった。
「そんな! 私こそこんなにまでしていただいて……どうしていいか」
「ではここに住むことを承諾してくれる――そう思って良いのだな?」
「え、ええ。本当によろしいのでしたら」
 けれど、もしも私が邪魔になったら遠慮なく教えて欲しい、そう言って玉環はうなずいたのだった。
「邪魔になるなど! そんな心配は要らぬ。そうか、住んでくれるか!」
 楊は喜びを抑えきれないといったように満面の笑みを見せては、玉環の手を引いて部屋のあちこちを案内して回った。ここがバスルーム、こっちが寝室、クローゼットはここだと、まるで少年のようなはしゃぎようだ。本当にマフィアの頂点に立つ男なのかと疑わされるくらいの明るい笑顔だった。



◆    ◆    ◆



 こうして奇異ながらも楊と玉環の同居生活が始まった。
 彼の両親は別の本宅といわれる邸に住んでいるようで、ここには楊の側近でもある執事と使用人が居るのみだそうだ。といっても使用人たちは中庭を隔てた別棟に住んでいるそうで、邸内には実質二人きりの新婚生活も同然だった。
 同居を承諾して、次の日には早速にその使用人たちを紹介された。
 執事の男はディナーの際にサーバーをしてくれた老紳士であった。名を|徐《シュ》といい、楊が生まれる前からずっとファミリーの執事として勤めてきた、いわば育ての父ともいえる人物だそうだ。徐本人も非常に穏やか且つやさしげな表情で玉環を迎えてくれた。
「ほほ! お坊っちゃまがこのお邸に女性を連れていらっしゃるなど初めてのことでございましたのでな。しかも揃ってディナーをと仰られました。私めにはきっとお坊っちゃまにとってお大切な御婦人なのだとすぐに分かりましたぞ」
 どうぞよろしくと言って微笑む笑顔が亡き父をも思わせるようなあたたかい歓迎に、思わず涙腺がゆるみそうになった玉環であった。
 他には食事の支度を担当する料理人やハウスキーピング専門のメイドに、彼らを統括する女官長。それに運転手や側近たちなども一人一人丁寧に紹介された。皆、執事の徐同様に楊が女性を連れてくるなどと驚いてはいたものの、そろそろいい年頃の彼に良縁が訪れたと言っては喜んでくれた。玉環にとっては信じ難いくらいに光栄で、まさに夢でも見ているのかと思うほどであった。
 楊からは帰りが遅いことも多いと聞いていたものの、陽が落ちて程なくすると帰宅し、夕飯は例のダイニングで共にとる日が続いた。朝も軽めの食事を共にし、楊を送り出す日々――。玉環は特にすることもなく、また出掛けるわけでもなかったが、この広い邸の庭で使用人たちとおしゃべりしたり花々に水をやったりしながら、夢のような時間を過ごしたのだった。



◆19
 そんなある日のことだ。玉環がこの邸に住むようになって半月が過ぎた頃――。
「玉環、明日は休みを取った。買い物に出掛けよう」
 楊が帰宅するなり爽やかな笑顔でそう言った。玉環の服や靴などを揃えたいとのことだ。
「貴女の服は最初に用意した間に合わせの数着しかなかったからね。貴女の好みの物を一緒に選びたいのだ。それに、ずっとここに籠りきりでは気が滅入ってしまうだろう」
 楊はすっかり乗り気だが、玉環にとっては恐縮も恐縮な話だ。
「礼偉、とっても嬉しいお言葉ですけれど服も靴もこの間いただいた物で充分よ。それに普段着なんかは前のアパートから引き上げてきたのだし……」
 初めて会った際に楊が用意してくれた服はどれもよそ行きの高級品だが、正直に言って着る機会がないのも確かだ。この豪勢な邸に住まわせてもらえているだけでも夢のようですから――と遠慮したものの、彼にはそれも楽しみのひとつであるらしい。
「実はな、玉環。私の両親が是非とも貴女に会いたいと言うのだ。あっちは既にその気で、日程まで決められてしまった始末だ」
 貴女には煩わせることになろうが、一度顔を合わせてやってもらえないだろうかという。
「まあ……ご両親が? でも……そうですわね。私、何のご挨拶もなしに貴方のお邸でお世話になりっ放しですもの。ご挨拶をしなくては申し訳ないわ」
 玉環の快諾に楊は安堵の表情を見せる。
「すまんな。ほんの二、三時間食事に付き合ってくれればいい」
 なるべく煩わせないようにするからという彼に、玉環はとんでもないと言ってフルフルと首を横に振った。
「そういうことなのでとにかく買い物に出掛けよう。私も入り用の物があるのでな」
「分かりましたわ。ではお言葉に甘えてご一緒させてください」
 遠慮がちながらも頬を染めてうなずいた様子に、楊はありがとうと言って軽くハグをしてよこした。
 その瞬間、ふわりと彼の香りが鼻をくすぐる。いつもつけているのだろう、ほんのりとした香水の匂いが心地好い。そういえば初めて抱かれた日にも同じ香りだったことを思い出す。その時の約束通り共に暮らしていれど寝室も別々だし、あれ以来深い関係にもなっていないが、時折頬に手を差し伸べたり軽いハグをしてよこす彼に、ドキドキとせずにはいられない。いっそのことあの日のように強引に奪ってくれたら――などと思わされるほどに、日一日と気持ちが惹き寄せられていくのが怖いくらいだった。



◆20
 そして翌日――。
 連れて行かれたのは台北でも老舗の有名百貨店だった。
「ここは私の友が経営していてね。幼馴染でもあるのだが、彼もまた私同様に先代だったお父上から後を継いだばかりなのだ。今日は私が大切な女性を連れて行くと言ったら、喜んで自ら案内してくれるそうだよ」
 セレブの友はやはりセレブというものか、こんな有名店の社長が自ら案内してくれるなど玉環からすれば恐縮を通り越して信じ難い思いだ。着くなり得意客専用のサロンに通されて、目を白黒とさせてしまう玉環だった。
「しかし驚いた。お前さんが女性を連れてくるとはな!」
 本当に美人さんだなぁと言って幼馴染の彼は感嘆している。事前に言ってあったのか、サロンには服や靴、バッグなどの他にストールや髪飾りなども多数用意されていたことにますます驚かされてしまった。
「ここに持って来たのは一部ですから、よろしければ直接店内を回ってお気に召したものがあればお申し付けください」
 まるで『奥様!』とでも言うように幼馴染の男が玉環に向かって丁寧な礼をする。当の玉環は恐縮してしまって選ぶどころの騒ぎではない為に、楊が彼の好みでいくつかの服や小物を見繕っていった。
「ふむ、こんなものかな。あとは店内を回りながら貴女の好みのものを探そう」
 どうやら楊は玉環と連れ立って店内を歩きたい様子でいる。まるで彼女は自分のものなのだということを周知させたいふうな彼に、幼馴染の男は驚き半分で二人を眺めていた。
「玉環さん――でしたね? 楊のやつ、相当あなたにゾッコンですな。見てください、あのはしゃぎよう! 私も彼とは子供の時分からの長い付き合いですが、あんな彼を見るのは初めてですよ」
 多少猪突猛進のところはあると思うが、悪い奴ではないのでよろしく頼みますよと耳打ちしてよこす。そんな様子に気付いた楊が半ばムスッと口をへの字にしながら振り返った。
「おいコラ――彼女は俺の大切な|女性《ひと》だ。手を出すなよ」
 半分は冗談ながらもそんなことを言う。その様が何ともコミカルで、思わず吹き出してしまいそうだ。
「ほら――ね? 早速に独占欲が顔を出しましたよ。あなたもご苦労が多いかと存じますが、ヤツのことよろしく頼みます」
 幼馴染の男はニヤニヤと瞳に弧を描きながらも、楊に向かって笑う。「独占欲の強い男は嫌われるぞー」と言っては冷かした。

 その後、各ショップを巡りながら楊はピッタリと玉環に寄り添っては様々服や小物類を見立てていった。百貨店内のショップスタッフたちも目を丸くするほどの溺愛ぶりである。
「まあ! 何てイケメンかしら! 我が社の社長まで付いて回ってるところをみると、超上得意様なのは間違いないわね」
「いやね、知らないの? あの人は社長の幼馴染で、この台湾を仕切るマフィアの頭領よ!」
「ええー! うっそ! ヤバ……めちゃくちゃカッコいい……」
「じゃあ連れているのは彼女かしら? すっごい美人だけど――モデルか女優?」
「さあ、見たことないわね。デビュー前の新人とか?」
「いいなぁ。美男美女のカップルかぁ。それに……あんなにいっぱい買ってもらっちゃって羨ましい! 神様は不公平だわ」
「ホント! 美貌もお金も権力も立場も頂点とかね! まあアタシたちのような一般人には別世界の話よね」
 コソコソとそんな噂話が耳に入ってくる。楊は品物を選ぶのに夢中で、他人の噂話などは耳に入っていないようだが、玉環にとってはそれこそ身が縮まる思いで買い物を終えたのだった。



◆    ◆    ◆






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