極道恋事情

32 台湾恋香2



 *恋、実る
◆21
 そうしていよいよ両親との会食の日がやってきた。場所は老舗ホテルの高級レストラン、もちろんのこと貸切の個室である。
 楊が見立てた中華服に身を包み、化粧や髪のセットなどは女官長自らが丁寧に行なってくれたので、元々美しい玉環はこの世のものとは思えないほどに美しさを増し、輝きの頂点といった感じだった。
 側近の趙という男と執事の|徐《シュ》が同行してくれて、両親の出迎えなどかゆいところに手が届くという完璧ぶりである。緊張も緊張、震えで視線が定まらないでいる玉環をサポートするように楊が逐次やさしくエスコートしてくれたり、笑わせてくれたり気を遣ってくれる。
 両親が個室に到着すると、楊と玉環は扉口に立って二人を出迎えた。
「父上、母上、こんばんは。よくお運びくださいました」
 楊の一礼の傍らで玉環もまた丁寧に膝を折って敬意を示した。その所作の美しさにも目を見張らされる。
「おう……! そちらが玉環さんか。何とまあ我が愚息にはもったいないほどの美人さんよの」
 なあ、母さん? と言って元頭領は瞳を細めた。確かに年齢はいっているが、楊を老紳士にしたような顔立ちはハンサムという他なく、身長も高く、身も引き締まっていて、思わず素敵と思わされるような男前のロマンスグレーである。
「本当に! なんてお綺麗なお嬢さんかしら。礼偉が夢中になるのが分かるわね」
 母親はおっとりとした話し方が穏やかな美人で、眼差しもとてもやさしかった。
「玉環、こちらは私の両親だ。父上、母上、彼女は林玉環、私と共に住んでくれている女性です」
「お初にお目に掛かります。林玉環と申します。礼偉さんにたいへんお世話になっておきながらご挨拶が遅れましたこと、恐縮に存じます」
 緊張の為か声は若干震えているものの、敬意のこもった挨拶に両親も満足そうだ。
「いやいや、どうせ我が愚息があなたを独り占めして隠しておきたかっただけであろう。お目に掛かれて嬉しいぞ」
「本当ね。こんな素敵なお嬢さんですもの。礼偉が独り占めしたい気持ちも分かるというものよ」
 両親はたいそう喜んで、和やかな会食の時となった。
 玉環にとっては初めて楊とディナーを共にした時同様、緊張で料理の味も満足に覚えていられないほどであったものの、両親が積極的に話し掛けてくれたり楊自身も何かと気遣って話題を作ってくれたりしたので、会食の時間はあっという間に過ぎていった。
 そうして食後のデザートと茶が振る舞われた時だった。
「――で、式はいつ頃にするのだ。私の方から声を掛けた方が良い招待客などがあれば遠慮なく申すがいい」
 父の言葉に楊はタジタジである。
 この両親は既に結婚が決まったものと思っているようだが、実のところプロポーズさえまだしてはいないのだから焦るのも当然といえる。
「父上――今日はとにかく顔合わせのみと心得ておりましたゆえ、そういったことはまだ……」
 息子の歯に物挟まったような言い方に、父親の方は思わず眉根を寄せたくなるような心持ちにさせられてしまった。
「なんとお前! まさかまだプロポーズもしていないと申すか?」
「はあ……それは追ってゆくゆく……」
「何がゆくゆく――だ! それで玉環さんを邸に閉じ込めているなど失礼も甚だしいではないか! 男ならはっきりせぬか、はっきり!」
「あ、はあ……おっしゃる通りではございますが――」
「まさかお前、プロポーズ以前の話だなどとは言うまいな? 告白すらしておらんのか?」
「いえ、それはいたしましたが……」
 どうにもはっきりしない息子に元頭領である父は呆れたようにあんぐり顔で仁王立ちしてしまった。



◆22
「まったく! 情けないにも程があろう。プロポーズもせんと若いお嬢さんを囲いもののように扱いおってからに!」
「お父上の言う通りですよ、礼偉。お若いお嬢さんをまるで物のように扱うなど紳士のすることではございませんよ」
 おっとりとした母親までがそう言うものだから、楊はさすがにバツの悪そうに頭を掻きながらタジタジとしてしまう。その時だった。黙って家族の様子を見ていた玉環が、恐れながらも話に割って入った。
「あの……ご両親様……! 礼偉さんは悪くないのです。私を好いてくださっているというお気持ちもうかがっておりました。ですが私が……本当に私のような何の取り柄もないような女が礼偉さんのお側に置いていただいていいものだろうかと……きちんとお返事を差し上げられずにいたのでございます」
 ところどころ言葉に詰まりながらも一生懸命に楊を庇う玉環に、楊当人はもちろんのこと両親も驚いたように彼女を見つめてしまった。
「お嬢さん――ではあなたもこの愚息のことを嫌っているわけではないのですな?」
 もしも嫌々ながら脅されて一緒に住まわせられているというのなら、こんなに失礼なことはないといった調子で両親が心配そうにしている。
「もちろんでございます……。礼偉さんはとてもおやさしくしてくださいますし、お邸の皆様にもとても良くしていただいて恐縮なくらいです。でも私……本当に貧しい一般の出でございますし、両親も既に他界しております。礼偉さんのいらっしゃる世界のしきたりなども分からずに足を引っ張ってはいまいかと、こんな私がお側にいたらいつかご迷惑になると……そう思って」
 恐縮しきりの玉環であったが、両親はかえってそんな彼女の素直さに惹かれたようであった。
「お嬢さん、そんな心配はご無用だ。あなたが愚息を嫌っているなら話は別だが、もしも好いてくださっているというなら――あなたほど愚息にふさわしい方はいない。いや、こいつにはもったいないくらいお心の綺麗なお嬢さんだ。我々はこの通り裏社会の者だし、あなたが不安に思われるのは当然だと思うが、もしも愚息のことを少しでも好いてくださるのなら――しきたりや環境など気にせずに向き合ってやってはくださらぬか」
 父親に続いて母親からもフォローの言葉が掛けられた。
「玉環さん、実はわたくしもこの人と一緒になる前は堅気の家に育ちましたのよ。実家は裕福ではなかったし、社交界などとも縁遠い普通の家庭でしたの。でもこの人に目に掛けてもらって、最初はやはりあなたと同じように迷っていましたわ。私には住む世界が違うし、いろいろなことが務まるとも思えなくてね。でもこの人の情熱に押されて……不安ながらも一緒になりましたけど、今はとても幸せよ。分からないことや不安なことがあっても、わたくしやこの人もおります。どうか周りのことは気にせずに礼偉と向き合ってやっていただけたら嬉しいわ」
 両親に揃ってそう言われ、玉環は驚きつつも胸の熱くなる思いでいた。
「ご両親様、もったいないお言葉……恐縮に存じます。私……」
 それまで黙ってやり取りを窺っていた楊が、逸ったようにして突如席から立ち上がった。
「玉環、それに父上と母上も――。私が至らぬばかりに数々のご助力の言葉、痛み入ります。こういうことは無理強いするものではないと思いつつも、既に玉環には我が邸に住んでもらうなど確かに順番を間違えていたことを反省します」
 真摯に頭を下げ、そして玉環を見つめながら言った。

「玉環、私は貴女が好きです。その気持ちのままに勝手なことを強いてきたが――どうか許して欲しい。こんな私でも――もしも貴女が少しでも好意を感じてくれているならば、私と生涯を共にすることを考えてはいただけぬか」

 それは正式なプロポーズだった。
 思いがけない両親の後押しもあってか、もう少し時間を掛けながらなどと思っていた楊の気持ちにも覚悟がついたようである。



◆23
「礼偉さん……」
「貴女には無理強いすまいと言いながらも、貴女を一人でアパートに住まわせるのは不安だからと私の家に住んでもらったり――貴女の気持ちも考えずにいろいろと押し付けてしまったことをすまないと思っている。貴女にどう思われているかと意気地のないこんな私だが、共に生きたいと願うのは本当だ。貴女に側にいてもらいたい。私の妻になってくださらぬか」
「礼偉さん……私。私こそ……貴方に散々良くしていただきながらきちんとお返事もせずに……ただ流れに身を任せてお世話になりっ放しでしたわ。本当に……こんな私でよろしいのでしたら……」
 楊に愛される嬉しさや感激、それとは裏腹に彼の住む世界で生きていく不安とが入り混じった思いからか、思わず涙を浮かべてそう言った玉環の肩を、堪らずに抱き寄せた。
「すまぬ、玉環――。我々の生きる裏社会は――貴女には確かに不安の多いことだろうとも思う。だが私は貴女に心から惹かれている。貴女を大切にして、できる限り不安な思いや付き合いなどさせぬように守っていくと誓う」

 妻として生涯を共に生きて欲しい――。

 力強い求婚の言葉に、玉環の美しい瞳から大粒の涙が出てこぼれて落ちた。
「ありがとう礼偉さん……。私……こんな私でいいのでしたら、精一杯貴方について参りますわ」
 ポロポロとこぼれる涙が彼女の心の内を物語っているようだった。楊個人には惹かれていても、家柄が良いわけでもない堅気の出だ。彼の住む裏社会に身を置くことや、社交界での付き合い――もしかしたら妬みや嫌がらせなどを受けるかも知れない。それ以前に何の後ろ盾もない身ひとつの自分が楊のような権力も財力も充分に持ち合わせている男性の妻として釣り合うのだろうか。お門違いではないだろうか。そんな気持ちを代弁するかのように涙となって肩を震わせる。
「大丈夫だ。貴女のことは生涯私が守ると約束する。どうか側にいて欲しい――」
「礼偉さん……。ええ、ええ……私……。私も貴方をお慕いしています。足を引っ張らないよう、ついて参ります。どうかお側に置いてください」
「玉環――ありがとう。ありがとう、本当に――」
 いいえ、いいえ、私こそ――その言葉に代えて逞しい胸の中でブンブンと首を横に振った。
 そんな若い二人を見守るように、両親もまた、互いを見つめ合いながら微笑んだのだった。



 *恋、邪魔される
◆24
 急なことではあったが、こうして台湾マフィア頭領・楊礼偉の婚約が決まった。裏の世界はもちろんのこと、社交界にも瞬く間にその噂が広がり、行くところ行くところで祝いの言葉が寄せられる毎日――。楊の邸内でも執事の|徐《シュ》と女官長を筆頭に婚礼に向けての準備が進められていく。玉環もまた結婚の儀の衣装合わせや各方面への挨拶回りなどで忙しい毎日を送っていた。
 そんなある日のことだった。
 夕刻、楊から仕事が早く済んだので外で食事でもしないかと誘われて、玉環は老舗ホテルのレストランで食事を共にすることとなった。もちろんのこと個室であったが、さすがに化粧室などは共用である。デザートが済み、楊は支払いがてらレストランの支配人と立ち話をし、その間に玉環一人で化粧室へ用足しに行った際だ。幸いにして化粧室には他の客もおらず、唇の紅だけを直して楊の元へ戻らんとした時だ。
「ね、あなたが林玉環でしょ?」
 ふいに声を掛けられて振り返れば、そこにはにこやかに微笑む美女がこちらを覗き込むようにして立っていた。
 どこかで見たことのある顔だ――そう思うのも当然か、声を掛けてきたのはこの国のトップモデルと言われる|星星《シンシン》という女性だったからだ。
「あの……ええ。そうですが……」
「私のことは――ご存知かしら? |星星《シンシン》、一応これでもモデルをしているのよ」
 にこやかではあるが、どことなく自信満々というか、言葉の節々に剣を感じさせる口ぶりだ。
「……ええ、存じておりますわ」
「それは光栄ね! 実はさっき、あなたたちが個室に入るところを見掛けたの。あなたがレジーと一緒にいたから、もしかして噂の婚約者かなと思ってお話してみたかったのよ」
「……レジー……さんですか?」
 誰かと勘違いをしているのではと思ったが、『あなたが林玉環?』と訊いてきたところからすると人違いをしているわけではなさそうだ。
「あの、私……レジーさんという知り合いはいないのですが」
 玉環が戸惑っていると、女は呆れたようにしながらも侮蔑めいた笑みを向けてきた。
「なあに、あなた! まさか彼のイングリッシュネームも知らないの?」
「イングリッシュネーム?」
「そうよ! あなたと一緒に食事をしていた男性! レ・ジ・ナ・ル・ド! 通称レジーよ!」
「あの……もしかして礼偉さんのことですか?」
 そう訊き返すと女は少々苛立ったようにして眉間に皺を寄せた。
「礼偉さんですって? あなた、彼のことそんなふうに呼んでいるの?」
 やはり彼女の言う『レジー』とは楊のことらしい。
「え、ええ……」
「まあ、嫌だ! なんて図々しいのかしら!」
 女は敵意剥き出しといった調子で腰に手を当てては斜に構えた態度で玉環を凝視した。
「あの……私、何か失礼でしたでしょうか……」
「失礼も何も! 彼が『楊礼偉』っていうフルネームで呼ばせることを許しているのは……ファミリーか、よほど親しい裏の世界のお仲間たちにだけよ。それ以外の者はレジーって呼ぶのが当然だわ!」
 そうだったのか――。だが玉環は最初からそう呼んでいたし、何より楊自身からイングリッシュネームで呼べと言われたこともない。というよりも、楊のイングリッシュネームが何かも知らなかったわけだ。
「ふぅん? まあ婚約しようっていうくらいだから? 彼がそう呼ばせているのかも知れないけどね。それよりあなたご存知? アタシは以前あのレジ……楊礼偉と付き合っていた元恋人なのよ?」
 鼻高々にそう言われて、玉環は驚きに瞳を見開いてしまった。



◆25
 返事すら返せずにいると、女の方ではそれが満足に思えたのか、ますます驚くようなことを言い出した。
「彼とはアタシがモデルデビューした頃からの付き合いなの。彼の経営する企業のコマーシャルモデルに何度も使ってもらったのよ。その内に付き合うようになって、彼ベッドの方もすごく良くて最高だったわ!」
 玉環にとってはえげつない言われようである。確かに楊も三十代半ばのいい歳だし、過去に付き合っていた女性がいたことも直接本人から聞いて知っている。その相手が誰だったかまでは知らないが、彼のような立場も財産もある美男子ならば女性たちが放っておかないだろうことくらいは想像がつくというものだ。これまでは過去の恋人のことなど特に気にしたこともなかったが、こうして面と向かって名乗られれば少なからずショックといえる。
 玉環が黙っていると女は彼女が傷ついていると思ったのか、ますます嫌味めいたことを並べ立ててよこした。
「そうそう、それにね。今回もあの人の化粧品会社の新CMにも出ることが決まったの! 何でも一度はCM撮りを終えたそうなんだけど、そのモデルがズブの素人だったらしくてね。これじゃとても使えないっていうことになったらしくて撮り直しが決まったそうなの。そのイメージモデルにアタシが選ばれたというわけ! やっぱりあの人も社の顔としてアタシが最適と思ってくれたんじゃないかしら?」
 化粧品会社のCMといえば玉環が楊と出会ったきっかけとなった例の撮影である。女はその時のモデルが玉環だったということを知っているのか、嫌味ったらしく言っては鼻で笑っている。
 実のところ、あの時の撮影班が玉環を使っていかがわしいアダルト動画を撮ろうとしていたことで、楊からは別の撮影会社に撮り直しをさせると聞いてはいたものの、同居や婚約で目まぐるしい日々を送っていたのですっかり忘れていたのだ。つまり、例のCMのモデルにこの|星星《シンシン》を抜擢したということなのだろう。
 それだけならさして驚くことではないが、彼女が元の恋人と聞いてはさすがに複雑な気持ちにさせられる。玉環は押し黙ったまま、返答もできずにうつむいてしまった。
「ねえ林さん? あなたがどうやって彼に取り入ったのか知らないけど――彼の妻になるっていうなら覚悟しておいた方がいいわよ」
「……覚悟……?」
「そう! 彼、立場はもちろんだけど、あれだけのイイ男ですもの。方々から声が掛かるでしょうし、結婚後もおそらく女性関係は絶えないと思うわ。妻になれたからって安心していられないわよー。何て言ってもこの国を仕切るマフィアのトップなんだから、愛人くらい何人いてもおかしくはないわ。彼が他の女性のところへ行って一晩帰って来ないことなんてザラだと思うの! そんな時でも奥様として大きな心で見てあげてちょうだいね。ま、あえてアタシが苦言しなくてもそんなことくらい分かっていらっしゃると思うけど? そうじゃなきゃマフィアの嫁なんて務まらないものねえ」
 せいぜいお幸せにねと言って高々と笑い、|星星《シンシン》は化粧室を後にして行った。



◆26
 残された玉環は呆然である。まあ当然か――。
 次第に膝が笑うような気がしたと思ったら、次の瞬間には心臓がバクバクと音を立てて激しく脈打ち出す。しばしは洗面台に手をついたまま、その場から動くこともできなかった。
 ハタと意識が戻ったのは外から楊と側近の趙の話し声が聞こえてきた時だ。
「確か化粧室へ行くと行っていたはずだが――」
「左様でございますか……。お具合など悪くされていらっしゃらなければよろしいのですが……」
「女性の化粧室を覗くわけにもいかんしな。もう少し待って出てこなければホテルのスタッフにでも言って様子を見てもらうか――」

 心配を掛けてしまっている――そう思い、玉環は慌てて化粧室を飛び出した。

「ああ、玉環! 良かった。体調など悪くしていないかと思っていたところだ」
「ご、ごめんなさい。心配をお掛けして」
 そうは言うものの顔色は優れずに、明らかに様子がおかしい。
「どうした、体調が優れぬのなら遠慮せずに言ってくれ?」
 心から心配そうに顔を覗き込まれて涙があふれそうになる。
「い、いえ……どこも悪くはないの。少しお化粧直しに時間が掛かってしまって」
 ごめんなさいと微笑む。その時だった。側近の趙へと電話が入り、ロビーで楊らの車を回して待っていたもう一人の側近・|蔡《ツァイ》から連絡が入ったのだ。内容はロビーでモデルの|星星《シンシン》を見掛けたというものだったが、彼女の様子が少々気に掛かるものだったというのだ。どうやらマネージャーと連れ立っていたらしいが、そのマネージャーに向かって彼女が暴言のように投げつけたセリフが耳を疑うものだったという。
「煌、蔡からの連絡で、ロビーでモデルの|星星《シンシン》を見掛けたそうです。どうやら化粧室で玉環様とお会いになったらしく、玉環様に釘を刺しておいてやったとほざいていたそうで――」
「何だと――!?」
 楊は瞬時に険しく眉根を寄せると、玉環の肩を両の手で抱き寄せながら訊いた。
「玉環、女に何を言われた。今しがたこの化粧室で貴女に声を掛けてきた者がいたろう?」
 玉環は驚き、瞳を震わせながら楊を見上げた。
「い、いえ……特には何も……」
 そうは言えどもカタカタと全身が震えてしまい、今にも涙がこぼれてしまいそうだ。
「――分かった。では直接本人に訊こう」
 あまり聞いたことのない厳しい声音で楊がエレベーターを見やる。自ら|星星《シンシン》を追い掛けて問いただそうとしているのが玉環にも分かった。
「待って……! 待ってください礼偉さん! あの……お話いたしますわ。確かにこの化粧室で声を掛けられました。モデルの|星星《シンシン》さんとおっしゃる方ですわ」
「やはりか――! 何を言われたのだ」
「……あの……実はコマーシャルのモデルの件で……」
「モデル?」
「あの方は……貴方の化粧品会社のコマーシャルモデルをすることになったと……おっしゃられて。礼偉さんとは以前からの知り合いでいらしたと……。それだけですわ」
 蔡からの報告とは大分違う。おそらくはもっと酷いことを言われたのだろうが、楊には玉環がそれを言いつけるなどできない性質だということが分かっていた。



◆27
「モデルか――。もしかして例のCMのイメージモデルがあの|星星《シンシン》になったということか?」
 楊は側近の趙に問いながらも玉環に向かって言った。
「すまない、貴女を不安にさせてしまったようだが――。実はあのコマーシャルだが、撮り直すに当たってこの間とは別の広告会社に諸々を依頼していたのだ。モデルに誰を使うかということも含めて一任していたのだが、それがまさかあの|星星《シンシン》だったとは私もまだ聞いていなかった。それに――本当は貴女にモデルをしてもらいたかったが、私の妻になる女性を全国放送のCMに出して晒すわけにはいかん。私のエゴ――というよりも独占欲と心配性のせいだが、大事な貴女を国民のアイドルにするつもりはないのでな」
 コマーシャルに出れば大々的に顔が知れてしまう。妻が有名人になって悪いわけではないが、楊としては玉環の美しさに目を付けられたら堪らないとの思いから、CMモデルは既存の女優や芸能人を選ぶよう広告会社に通達していたのだった。それがたまたまあの|星星《シンシン》になったというわけである。
「嫌な思いをさせてしまった。貴女を守ると言っておきながら――すまない」
 やさしく懐の中へと抱き締められ、玉環はフルフルと首を横に振った。
「いいえ、いいえ……私こそ……。貴方にご心配をお掛けしてしまいましたわね」
 おそらくはショックと思えることも言われただろうに、玉環は|星星《シンシン》をそれ以上悪く言うこともしない。そんな彼女のやさしさと謙虚さに、ますます心深く惹かれる楊であった。
 |星星《シンシン》には折を見て釘を刺しておかねばなるまいが、それをあえて玉環に伝え不安を煽る必要はなかろう。そんなところの処し方はさすがに裏の世界の人間だ。二度と玉環に不快な思いをさせないようにすることなど、楊や側近の趙らにとっては容易いことだった。
「煌、あの女の処理はお任せください」
「ああ、頼む」
 玉環には聞こえぬよう、男二人の間でのやり取りであった。



◆    ◆    ◆



 *恋、揺らめく
 その後、婚礼の準備などで目まぐるしかったこともあり、玉環にとっても|星星《シンシン》との出来事は過去のものとなっていった。楊はこれまでにも増してやさしく気遣ってくれたし、執事や女官長ら邸の者たちとの穏やかな日常が嫌な記憶を忘れさせてくれたからだ。
 そんなある日のことだった。
 結婚式がいよいよひと月後となったある晩のことである。楊から今宵は両親の住む本宅に泊まるとの連絡が入ったのだ。
 楊の仕事は相変わらずに忙しい様子だったが、一緒に住むようになってからこのかた、どんなに遅くなろうと彼が邸を空けることはなかった。だが、今夜に限って実家へ泊まってくると言う。
 婚約が決まってからも、初めて楊に抱かれた時以来、二人は別々の部屋で夜を明かしていた。つまり、情を重ねてはいなかったのである。
 最初の時に無体をしてからというもの、結婚式のその日まではそういったことをしまいと考えているのか、あるいは玉環から言い出すのを待ってくれているのかは定かでなかったが、楊の方から共に休もうというような誘いはもらっていないのだ。
 玉環は不意に湧き上がった不安に身体中が震え出すようで、思わず両手で自らの肩を抱き締めてしまった。

 もしかしたら礼偉さん……そういったことができなかったから他の女性の元へ行くのかも知れない――

 彼に女性の影を感じたことはないが、自分とは情は交わしていないのだから、そういった欲望を他所に求めても仕方ないのかも知れないと思う。湧き上がる不安に震えがとまらなかった。



◆28
(私……なんてバカなのかしら。プロポーズまでしてもらっておきながら休む部屋は相変わらずに別々のまま……。本当だったら私からあの人に抱いて欲しいと言うべきだったわ……)

 三十半ばといっても楊はまだまだ若く、健康な男性だ。そういった欲望ももちろんあるだろう。
 それなのに最初の時の約束を守ってくれていて、決して彼の方から夜を共にしたいとは言わずにいてくれる。本当は婚約した時に自分の方から彼の胸に飛び込むべきだったのだろう。今更ながらに思いやりのかけらもなかったと自己嫌悪に陥る。

(礼偉さんはきっと……結婚式のその日まではご自分からそういったことは言い出すまいと思ってくれているのよ。毎日毎日こんなにやさしく気遣っていただいているのに私ったら……そんな配慮すらできないで平然と甘えていたなんて……)

 ポロポロと涙があふれてくる。
 ごめんなさい――何度心の中でそう謝れど、既に遅い。自分の思いやりの無さを悔いてもどうにもならない。
 今はただ――楊が帰って来ないという事実が胸に突き刺さるのみだ。

 ごめんなさい礼偉さん……!
 私、貴方に甘えっ放しで、自分のことしか考えていなかった。男の方の……気持ちすら気付けないでいたなんて!

「……ッう、礼偉……ごめんなさい、貴方……」
 とめどなくあふれる涙を両の手で拭いながら身勝手だった自分を悔やむ。と、その時だった。
 階下から数人の話し声でザワザワとし始めたのが聞こえてきて、玉環は涙顔のままそっと部屋の扉を開けた。
 玄関ロビーからは執事の|徐《シュ》の声。それに重なるように逸り気味の弾んだ声音――紛れもなく愛しい男のものだった。
「坊っちゃま! まあまあ……旦那様に奥様まで! 今宵は御本宅にお泊まりになられるはずでは――?」
「いや、父上と母上にはそう言われたのだがな。玉環を一人にしておくのが心配で私は帰ると言ったのだ。そうしたら父も母もついて来ると言って聞かないものだから――」
「当たり前であろう! 結婚式の招待客のことで早々に取りまとめねばならんと言って来たのはお前の方ではないか! それなのにやはり帰りたいなどと抜かしおって」
「そうですよ礼偉。ご招待するお客様は諸外国の方々も多いのです。もうお式まで日が迫っているから、間に合わないといけないと言ったのはあなたの方ですよ」
 執事に楊、それに彼の両親の朗らかなやり取りが聞こえてくる。
 安堵と同時に、一瞬でも彼を疑ってしまったことにますます自己嫌悪感でいっぱいになり、玉環はまたもや号泣してしまった。



◆29
 もしかしたら彼が別の女性のところへ行ったのかも知れない――と、一瞬でも疑うようなことを考えてしまった自分がとことん情けない。配慮が足りなかったと悔やみながらも、その裏では彼を疑ってしまった。
 何と言って謝れば許されるのだろう。とめどない涙を拭いながらも、とにかくは彼に謝罪しよう――そう思った時だった。
 身軽な動作でロビーからの広い階段を駆け上がってくる足音が聞こえてきた。おそらくは二段三段飛ばしで少しでも早く顔を見たいというような楊の気持ちが窺えて、拭ったはずの涙が再びあふれ出す。
「玉環! 玉環、帰ったぞ!」
 逸るような嬉々とした声音と同時に愛しい男の姿を目にして、玉環は堪らずにその広い胸に飛び込んだ。
「貴方……! 貴方、お帰りなさいまし……」

 帰って来てくださってありがとう。
 こんな至らないところだらけの私、本当にごめんなさい――!

 そんな気持ちでしがみつく。
「玉環――! どうしたのだ……。また何か嫌な思いでもしたというか?」
 楊は楊で、心から案じているように高い背丈の腰を折って顔を覗き込んでくる。
「いいえ、いいえ……! 違うの。私……私、貴方に良くしていただいてばかりで……のうのうとして……配慮のかけらすらない女だわ。そんな自分が恥ずかしくて情けなくて……それで」
 さすがに他所の女性のところに行ってしまったのかも知れないと思った――とは言い出せずにいたが、楊にはその心の葛藤が分かってしまったようだ。
「玉環――バカなお|女《ひと》だ。私が貴女を放ってどこへ行くというのだ」
 今宵は本宅に泊まるなどと連絡を入れたせいで心配させてしまったのだなと言って、やさしく抱き包んでくれる。
「貴方……」

 ごめんなさい、ごめんなさい――!

 その言葉に変えて玉環は思いきり泣いた。自らしがみつき、決して離さないでという気持ちの如く泣いた。
「愛しています礼偉……。貴方を心から……! 私、至らないところだらけの女です。でも愛しております……!」
「玉環――」

 そっと――涙に濡れた顎先を持ち上げられ、触れるだけの口付けが交わされる。

「愛しているよ、玉環。私もこの世で貴女だけを一途に――! 愛しているよ」
「貴方――!」
 玉環は自らもう一度唇を重ねんと目一杯背伸びをしながら愛しい男の首筋に腕を回して抱き付いた。
 触れた唇は即座に奪われるように吸われ、深く激しいキスが襲いくる。身長の低い玉環は、その腰元を軽々と逞しい腕で抱き上げられて、二人は共に我を忘れんばかりの勢いで互いの唇を貪り合ったのだった。

 しばしの後、階下のロビーから半ば呆れ気味で冷やかすような父親の声が聞こえてきて、二人はようやくと我に返った。
「おーい、新婚さん! 熱々なのは分かるが、招待客の整理を始めんと! そろそろ降りて来てくれんかね?」
「嫌ですよ、旦那様ったら! 若い二人に水をさすのは不粋というものですよ」
 朗らかな母の声も重なって、楊も玉環もあたたかい家族や邸の者たちに囲まれ見守られている幸せをしみじみと感じるのだった。
「では――参りましょう、我が奥方! せっかちなお父上が首を長くしてお待ちだ」
 そう言ってクスっと笑い、楊は腕を腰に当てて玉環に『さあ、掴まって!』というように差し出した。
「ええ、旦那様。かしこまりましたわ」
 拭った涙の跡がキラキラとシャンデリアによって輝き、まるで宝石の如くだった。差し出された腕に掴まり、愛しい想いのままに頬を寄せる。そんな彼女を見つめる楊の視線は、言葉では言い表せないほどにやさしく細められ、幸せに満ち満ちていた。



 *裏の世界の友人
◆30
 その後、両親と執事もまじえて未明まで招待客の打ち合わせを行い、軽い夜食を摂った。両親は執事に案内されて客室へ――。
 玉環は頬を染めながらも楊の腕に自ら手を添えてつぶやいた。
「貴方……。私も貴方の部屋で休ませていただけますか……」
 楊はわずかに驚いた様子だったが、すぐにやさしく瞳を細めては添えられた手を取ってうなずいた。
「もちろんだとも! 共に休もう」
 そう言って額に軽いキスを落とす。
「――うむ、だが……そうだな。ゆっくり休ませてやれるか――少々自信はないのだが」
 照れたように視線を泳がせるその様はまるで初恋さながらの少年のようだ。玉環はあふれんばかりの幸せを噛み締めるように満面の笑みでうなずき、再びあふれ出した涙を拭いながらまた笑った。
「ええ、ええ……! 私も。貴方をゆっくり休ませて差し上げたいけれど……できそうもなくて……」
 頬を真っ赤に染め、熟れた林檎のようにして恥ずかしそうに――けれど精一杯勇気をもって告げられた言葉が愛しくないわけがない。
 楊はたおやかに笑うと、ヒョイと軽々姫抱きをしたままロビーから続く大階段を駆け上がっていった。
 目指すは寝室。二人きりの――本当の意味での愛を確かめ合う、かけがえのない巣だ。二人は心から互いを求め、空が白むまで望むままに愛し合ったのだった。



◆    ◆    ◆



 次の朝、というよりも若い二人が目覚めたのは既に太陽が天心に届く頃になった昼間近である。
 両親は朝食も済ませて――どころか、そろそろ昼食を待つ頃になってようやくと顔を見せた若夫婦に呆れ顔だ。
「まったく……! こう熱くてはもう少し大型のエアコンでも贈らねばなるまいな。なあ母さん?」
「ほほほ! おっしゃる通りですわね。でもこれからは秋に向かいますもの。暖房が要らなくて良いではありませんか」
 両親はとびきり嬉しそうに冷やかしの言葉を口にする。父親は豪快に笑い、母親はクスクスと微笑んでは若い二人の仲睦まじい様子を喜ぶのだった。
 すぐに昼食が用意され、楊は引き続き父と共に招待客の整理、玉環は義母と一緒に初秋の花々が蕾を見せ始めた中庭へ出てティータイムを楽しんだ。
「玉環さん、これから我が家に嫁いで来られるあなたには――いろいろと不安も多いとは思いますけれどね。裏の世界の付き合いやしきたり、楊の組織の者たちとの関わり方、戸惑うことも多いでしょう。でも大丈夫よ。あなたには楊がついているし、お父様や私もおります。困ったことや迷ったこと、悩むことに当たった時は、どうか遠慮せずに言ってちょうだいね」
「お母様――ありがとうございます」
「私もね、お父様に嫁いだ頃、それはそれは悩みの渦というくらいだったのよ。裏の世界のしきたりやなんかももちろんだけれども――私が特に心を痛めたのはお父様の女性関係。といってもお父様にそういったお相手がいたという意味ではないのよ。ただ……マフィアのトップなんて聞けば、妻以外にたくさんのお相手がいて当然なんだろうなって思っていてね。そういう時にお父様やお相手の女性たちに私はどうやって向き合っていくべきかって、とてもとても悩んだものよ」
 玉環は驚いたが、同じマフィアの嫁という立場での義母の言葉にたいへん興味を引かれると同時に、こんなふうに飾らない言葉を掛けてくれる義母の気持ちが有り難くてならなかった。



◆31
 もしかしたらこの義母は昨夜の様子を見ていて気持ちを察してくれたのかも知れない。そうではなかったにしろ、同じ女としての悩みや不安を自ら話してくれるその気持ちが有り難くてならないのだ。
「お父様も若い頃はとてもハンサムで素敵な男性だったの。今はもう白髪になって、お腹もちょっと出てきちゃったりしているけれどね」
 ふふふ、と義母は懐かしそうに笑った。
「お父様に嫁いだ私の一番の心配事は女性関係だったわ。立場もある、財力もある、美男子で――世の女性が放っておくわけもないと思ったものよ。例えば私の他に女性がいてもそれが当たり前なんだって思おうと必死に自分を奮い立たせていたの。でもある日お父様がおっしゃったの。『俺は確かに裏の世界でお前にも言えないようなことに手を染めてきた。けれどこれだけは信じて欲しい――』と。他所に妻以外の女性を作ったり、お前を不安にさせることは決してしないと。半分怒る勢いでね。もしも言葉の上だけでは信じられないというなら、俺がこれから何十年も掛けてこの誓いが嘘じゃなかったと証明してやる――ってね」
「お母様……」
「あなたにもきっと私と同じような思いはあると思うのよ。でもね、礼偉を信じてあげて欲しいの。あの子ね、あなたを私たちに紹介してくれる前の日にこう言ったのよ。林玉環を娶り、ファミリーの掟に従って楊玉環となれば世間では十中八九、かの楊貴妃と同じ名前ですなと言われるだろう――とね」
 だが、自分は彼女を貴妃にする気はないし、また別の貴妃も持たないと誓う。楊は大真面目な顔でそう言ったそうだ。
「貴妃というのは本妻の皇后とは別に皇帝が寵愛した女性の位よね。礼偉はあなたを側室――つまり今の時代では愛人ということになるんだけれど、あなたをそのような立場に置くつもりはない。そして本妻のあなた以外に貴妃――つまり他所に女性を作るつもりはないと、そう言ったのよ」
 とにかく両親が驚くほどに真剣で、父親と共にびっくりさせられたくらいだったという。
「私もお父様も嬉しくてね。礼偉が――あの子がそんなに一途に想う相手に巡り逢えたということが、とても幸せだと思ったの。だからあなたもあの子を信じて、ずっと二人で寄り添って生きて欲しい。あなたは既に実のご両親を亡くしていらっしゃって不安も多いと思うけれど、私もお父様もあなたの本当の母であり、父であるのですよ。どうか遠慮せずに甘えて頼ってくれたらこんなに嬉しいことはないのですよ」
 その言葉を聞き終える前に玉環の瞳からは大粒の涙が出てこぼれ落ち、滝のように頬を伝っていた。
「お……母様……ありがとう……ありがとうございます……!」
 両の掌で頬を覆う玉環の肩をそっと抱き寄せて母は微笑んだ。
「玉環、私の大切な大切な娘――」
「お……母様……! |マム《お母さん》……」
「ええ、そう。マム――それでいいのよ」
「マム……マム!」
「玉環。あなたにはいつでもこの母がついておりますよ。何も心配せずに礼偉の側で朗らかに笑っていてあげてちょうだいね」
「ん……、はい! マム――!」
 そっと、柱の陰からそんな二人のことを見つめている視線があった。
 招待客の打ち合わせが済み、一緒にお茶をしようと中庭にやって来た楊と父親の視線だ。
 男二人もまた、母と|嫁《むすめ》の姿に心打たれ、瞳を細め合って幸せを噛み締めたのだった。



◆32
 その後、両親から結婚式の招待状配布について、若い二人に提案がなされた。
「実はな、礼偉、玉環。我が組織内の者や国内の関係者には私と母さんで挨拶に回らせてもらうのだが――。近隣の裏社会関係者、特に懇意にしておる香港と日本にはお前さん方二人で直に訪ねてもらった方が良いと思うのだ」
 香港裏社会を仕切るのは周一族、日本は極道鐘崎組という組織だという。
「周ファミリーのところはまだ私と同世代の周隼が現役で居るが、その嫡男の周風君は礼偉と歳も近い。彼もまたいずれは隼の後を継いで香港を治めることになろう立場の男だ。日本の鐘崎組も長は私と同世代の鐘崎僚一が仕切っておるが、彼にもまた一人息子がおる。今は組の若頭を背負って立ち、名は遼二君という。その二つの組織には礼偉と玉環で挨拶がてら直接ご招待の旨お伝え申し上げるのが良いと思うのだ」
 楊ももちろんですと言って快諾した。
「周風にはどこの国よりも懇意にしてもらっております。鐘崎組の遼二も同様ですし、玉環と共に直々のご挨拶をさせていただきたく存じます」
 楊の快諾に父も『そうか』と言って満足そうにうなずいた。
「そういえば香港のご嫡男の周風さんのところ、彼の奥様は台湾のご出身だそうでございましたね? 玉環と歳も近かったと記憶しているわ。きっといいお友達になれるのではありませんか?」
 母が言う。
「おお、そうじゃったな。わしも風君の結婚式に呼ばれたが、奥方は玉環同様の美人で、とても気立てのいい娘御だった。マフィアの嫁同士、いい関係が築けるだろうよ」
 父もそう言って微笑んだ。
「まあ! それはとても心強いですわ。是非お目に掛かって、お嫁さんの先輩にいろいろお話をうかがいたいです」
 玉環もそう言ってくれるので、楊ら二人揃って招待状を届けに行くことが決まった。まずは近場の香港から回ることとなった。



◆    ◆    ◆



 数日後、香港へ向かうプライベートジェットの機内で、楊は周風夫妻の結婚式の時のエピソードを話し聞かせていた。
「周風は幼い頃からの私の幼馴染でね。たいそう男前で懐も深い立派なヤツだ。その嫁さんは高美紅といったな。今は我々同様、ファミリーの掟に従って周姓に入ったから周美紅だな。彼女は台湾の出身で、やはり早くにご両親を亡くされたようでな。周風がとにかく目に入れても痛くないというほどに大事にしているよ」
「まあ、そうでしたの」
「とても美しい人で、きっと貴女とも良い友になれると思うぞ。だが、その彼らの結婚式ではとんだハプニングがあってな。あれは――今でも我々裏の世界で語り継がれるほどに衝撃的な出来事だった」
「まあ……。いったいどのような出来事でしたの?」
 楊によれば、なんと結婚式に着る純白のウェディングドレスに誰かの嫌がらせで墨汁が撒かれたというものだったそうだ。玉環は驚いてしまった。



◆33
「ウェディングドレスに墨汁……。なんていうことを……」
「それがな、何とヤツの嫁御は嘆くどころかその墨汁のシミを活かして、この世で二つとない最高のウェディングドレスに変えてみせたのだ」
 周風の嫁の美紅は、残っていた墨汁でドレスに黒い龍の絵を描き加え、亭主となる周風のタキシードには黒い蘭の花模様を描いて式に臨んだというのだ。
「周風の背中にはファミリートップの証である字にちなんだ黒い龍が彫られていてな。その嫁となる者には亭主の字と同じ色の蘭の刺青が贈られるという掟があったそうだ。その黒龍と黒蘭を式服に描いて結婚式に臨んだのだよ。周囲からは大絶賛の嵐だった。こんなに肝の据わった姐様は前代未聞だと言われてな、今でも語り継がれているエピソードなのだ」
「まあ……そうでしたの……。本当にお心のお広い御方なのですわね」
「ああ。そんな人だ、きっと貴女とも気が合うと思うよ」
「ええ、お目に掛かれるのが楽しみですわ」
 そうして香港に着くと、空港には当の周風から迎えの車が用意されていた。案内役の男が二人で出迎え、駐車場に着くと周風その人が顔を出したことにも驚かされた。
「楊礼偉! 待っていたぞ。よく来てくれた」
「周風! まさかお前さん直々に迎えに来てくれるとはな」
「当たり前だ! 何と言っても我が友の慶事とあれば尚更さ」
 男たちは肩を抱き合って再会を喜ぶ。
「して、そちらがご婚約者の?」
「ああ。私の妻となる林玉環だ」
「初めてお目に掛かります。林玉環と申します」
 丁寧に頭を下げた彼女に、周風もとてもお綺麗な方だと言ってはニッコリと微笑んだ。
「さあ、乗ってくれ。まずは私共夫婦の家に案内しよう。家内も一緒にと思ったのだがな、ちょうど臨月なのでね。家でキミたちと会えるのを楽しみに待っているのだ」
 そうなのだ。周風の嫁の美紅は出産を間近に控えており、もうあと半月後には予定日だそうだ。
「結婚式の頃にはもう生まれているのでな。うちのもお式に出られると言って楽しみにしているよ」
「それは有り難い! 周風、お前さんの方もめでたいことで何よりだな。それで、もう男の子か女の子か分かっているのか?」
 楊が訊くと、周風は照れたようにしながらも嬉しそうに瞳を細めてみせた。
「医者の先生の言うには男の子だそうだ。まあ、無事に生まれてくれればどちらでも嬉しいのだがな」
「ほう! そいつはでかしたじゃないか。ご両親もさぞかしお慶びだろう」
「ああ、お陰様でな。もう親父とお袋はすっかりおじいちゃんおばあちゃんしてるさ」
 そんな会話に玉環もまた心和む気持ちで自然と笑みが浮かぶのだった。



◆    ◆    ◆



 邸に着くと大きなお腹を抱えた周風の嫁・美紅が大歓迎で出迎えてくれた。
「まあ、遠いところをようこそおいでくださいましたわ! 周美紅です。林玉環さん、主人からお話を聞いて、お目に掛かれるのを心待ちにしていましたのよ!」
 美紅は玉環から見ても驚くほどの美人で、とてもおっとりとしてやさしい笑顔が印象的だった。
「初めまして、林玉環です。この度はお世話になります」
「こちらこそ! 楊様にはいつもお世話になって。ささ、とにかくお掛けになってくださいな。お茶をお持ちいたしますわ」
 美紅がそう言ってくれるので、玉環は自分も手伝いたいと申し出た。なにせ美紅は臨月だ。ティーセットなどを運ぶのを手伝おうと思ってのことだった。
「まあ、ありがとうございます! とても嬉しいわ。それじゃあお言葉に甘えてお願いしてしまおうかしら」
 美紅はやさしく微笑み、玉環と連れ立ってキッチンへと引っ込んでいった。その様子を見つめながら、
「あんなに綺麗な女性なのに、とても気遣いなされるやさしい方なのだな。お前さん、本当にいい嫁さんと出逢えたものだ」
 周風に肘でツンツンと突かれて、楊もまた照れつつもとびきりうれしそうに微笑み返したのだった。



◆34
 お茶が済み、一通りの挨拶を終えると、美紅と玉環は揃ってリビングでおしゃべりに花を咲かせ始めた。亭主二人の方は結婚式の段取りや世情の話などに興じている。同じ部屋の中ではあるが、男性同士、女性同士に分かれて、まるで古くからの友人のように楽しい時間を過ごしたカップルたちであった。
 特に美紅と玉環は同じ台湾出身ということもあってか、今日初めて会ったとは思えないくらいに馴染み、楽しそうに話に夢中になっていた。出産日のことや結婚式のこと、互いの馴れ初めなどでも盛り上がっているようだ。
「そういえば――美紅さんたちの結婚式のこと、礼偉さんからうかがいましたわ。ハプニングがあられたそうですが、それをとても素晴らしいお式に変えられたと」
「ああ、ドレスのことね」
 美紅は照れたように頬を染めて笑った。
「実はね、あのドレスは主人も、そして家族も皆で絶賛してくれたのだけれど――。お式にご参列いただいたお客様の中には驚かれた方も多かったのよ」
 まあ、当然であろう。純白のウェディングドレスに墨で絵が描かれているなど驚かない方がおかしい。これは嫌がらせで墨汁でも撒かれたのだろうと、誰もがそう思ったはずだ。
「式が始まると同時に会場内がザワザワとしてしまって、私も最初は意気込んで挑んだのだけれど、さすがに主人や家族に恥をかかせてしまったかも知れないと思い始めた時だったわ。ご参列くださっていた楊様のお父上がね、風君は素晴らしい嫁御を娶ったものだとおっしゃってくださったの。それを聞いて会場の皆様方も誰一人ドレスのことについて何も言わなくなって。逆に素敵ねってお声が方々から上がったのよ。私、本当にうれしかったの」
 あの時のご恩は一生忘れないわと美紅は言った。
「まあ……! そうでしたの。礼偉さんのお父様が――」
「ええ。本当に――お父上様がそうおっしゃってくださったお陰で、主人にも主人の家族にも恥をかかせずに済んだの。私、今でもあの時のご厚情は忘れないわ。とても感謝しているのよ」
 何という縁だろう。玉環はそんな機転を効かせた義父のことも、その義父の言葉が有り難かったと言ってくれる美紅のことも、何ともいえずに心があたたまるようで嬉しくてならなかった。
「ね、玉環さん。私たち、いいお友達になれるわね。楊様とご結婚なさって幸せなことももちろんたくさんあると思うけれど、中には傷付くようなことが耳に入ったり、悩んでしまったりすることも出てくるかも知れないわ。そんな時は愚痴でも悩みでも何でも遠慮せずに言ってくれたら嬉しいわ。私もあなたに相談させてもらえると思うと気持ちが軽くなるもの」
「ありがとう、美紅さん。何といってもマフィアの奥様の先輩でもあるんですもの! 私も心強いですわ。頼ってしまうことも多いと思いますけど、どうかよろしくお導きいただけると嬉しいわ」
「ええ、もちろんよ!」
 二人は微笑み合い、新しい友人ができたことを心から喜び合ったのだった。



◆35
 その後、周風の両親にも挨拶を済ませ、周一族の経営するホテルで一泊した。香港の夜景は見事で、初めて訪れた玉環にとっては感激のし通しだったようだ。
「明日は日本だ。少々慌ただしいスケジュールですまないね」
「いいえ、私日本へ行くのも初めてですの。楽しみだわ」
「日本には今日会った周風の弟が住んでいてね、周焔というんだ。風とは腹違いなのだが、継母さんも周風も本当の家族として大事にしているそうだ。彼はそんな家族の厚情に応えんと香港を出て日本で商社を経営し、大成功させている。結婚もして伴侶も周姓に入れたんだが、お相手は男性なのだよ」
「男性? では男の方同士で……」
「ああ。私も周ファミリーの春節イベントなどで何度か会ったが、とても気立てのいいやさしい青年だ。それに――もう一箇所日本で挨拶に伺う鐘崎組だが」
「礼偉さんとお年の近い遼二さんっていう方が若頭さんをしていらっしゃる組ですわね?」
「ああ。その遼二の相手も男性なのだよ」
「まあ! そうでしたの」
「とても綺麗な男でね。遼二がそれこそ目の中に入れても――というほどに溺愛しているよ」
 楊曰く周焔とその伴侶も、鐘崎組の若夫婦も皆揃って男前らしい。
「貴女に目移りされないかと心配になるくらいイイ男たちだからな」
 うーむと口をへの字にして腕組みをした恋人に、玉環は思わずクスクスと笑わされてしまうのだった。
「そんなご心配要りませんわ。礼偉さんより素敵な殿方なんておりませんもの」
 頬を染めて嬉しいことを言ってくれる。
「そうか、では安心だな?」
 肩を抱き寄せ、チュッと軽いキスを額に落とす。少年のようにはにかむ恋人が何よりも愛しいと思った玉環だった。



◆    ◆    ◆



 日本に着くと周風の弟・焔が空港まで迎えに来てくれていた。同性の伴侶だという男も一緒だった。
「楊大人、この度はおめでとうございます! 奥方様もようこそおいでくださいました」
 弟の周焔は兄の周風とよくよく似た顔立ちながらも、大企業の経営者というだけあってか、たいそう大人びて落ち着いた雰囲気である。伴侶は冰というらしい。男性同士ではあるが、ファミリーにも認められていて籍も周姓に入っている――いわば本妻だそうだ。その冰は年若いながらも楊の説明にあった通りに穏やかでやさしい雰囲気の好青年だった。
「楊大人、奥方様、いつも周がお世話になっております。冰と申します。玉環様は日本にいらっしゃるのが初めてとのことで、楽しんでくださいね」
 ペコリと頭を下げてにこやかに微笑む。そんな彼を周焔は愛しげに見つめている。
 楊から男性同士で結婚していると聞いた時は驚いたものの、二人を見ているとなるほど良く似合いのカップルだと思わされる。先刻、香港で会った周風夫妻もとても素敵な夫婦だったが、弟の焔夫妻も仲睦まじいのが分かるようだ。当初裏の世界での周辺組織との付き合いなど、さぞかし大変だろうと想像していたのだが、皆とても和やかな雰囲気で安心させられる。玉環はそんな人々の中で生きていけることへの幸せを噛み締めたのだった。



◆36
「楊大人、今回は鐘崎組にも挨拶に出向かれるとうかがっております。組若頭の鐘崎遼二は私の親友でもありますゆえ、よろしければ私どももご案内がてら同行させていただこうと思うのですが」
 周焔の言葉に楊は有り難く世話になると言ってうなずいた。
 周焔の経営する社屋は空港からも近い東京の汐留にあり、住まいはそのビルのペントハウスであった。大都会・東京の中枢だけあってか、素晴らしい窓からの眺めに玉環も溜め息の連続である。出迎えてくれた周家の執事は真田という老紳士で、楊家の執事・|徐《シュ》を思わせるやさしい眼差しが印象的だった。
「では鐘崎組の方へご案内させていただくといたしましょう」
 結婚式の招待状を受け取った周焔が早速に車の手配などをしてくれる。邸のあるペントハウスから直接車に乗り込んだまま階下の道路まで降りられる専用エレベーターが用意されていて、玉環はまたまた驚かされてしまった。
 楊から聞いていた通り、周焔というのはこの若さで非常にやり手の経営者であることは間違いないようだ。同性である伴侶の冰も何かにつけて気を遣ってくれて、楊も玉環も恐縮しつつも心温まる日本でのひと時を堪能したのだった。

 向かった先の鐘崎組は汐留の周邸から車で三十分ほど、都内から川を一本挟んだ対岸にあった。純和風の造りの広大な邸で、まるで庭園ともいえるような中庭では季節毎に咲く花々が楽しめるらしい。今は秋の初めの時期――秋桜と桔梗が見事に咲き誇って目にも鮮やかだった。
 出迎えてくれたのは鐘崎組若頭の鐘崎遼二と、その伴侶である紫月という青年だった。二人とも楊より少し年若いが、聞いていた通りの美男子揃いで驚かされる。
 若頭の鐘崎は楊や香港の周風、それに弟の周焔と似た雰囲気で、体格も風貌も男らしい魅力にあふれている。一家の大黒柱という堂々たる男前であったが、伴侶の紫月という男の方は女性の玉環から見ても羨ましいほどに綺麗な男で、目鼻立ちは完璧に作られた人形の如くだ。透き通る肌などは陶器の美しさで、思わず見惚れてしまう芸術品のようだった。
 ところがそんな容姿に反して非常に朗らかでフレンドリーな性質にも驚かされる。会うなり、
「楊大人! 玉環姉さん! この度はおめでとうございます! ようこそいらしてくださいました!」
 と、美しい顔を惜しげもなくクシャクシャにしながら両手放しでの歓迎ぶりにも心が和まされる。
「うっはぁ……話には聞いてましたけど、香港の美紅姉ちゃんとおんなしくらいの超美人さんで羨ましいっス!」
 などと言う彼に、玉環としてはついつい『あなたこそ!』と返したくなるように朗らかな気持ちにさせられる。
「玉環、この紫月はな、こう見えて武道の方もめっぽう腕が達つのだよ。彼のご実家は道場を開かれていて、親父殿は師範をされているのだ」
 楊からそんな紹介をされて、当の紫月は照れ臭そうに頭を掻いている。
「嫌だなぁ、楊大人ってば! そんな大層なこっちゃねえですって。ああ、けど――もしよろしければ是非道場の方へもご案内させてください。実家の親父も玉環姉さんに会ってみたい、直接お目に掛かれる俺たちのことが羨ましいってそう言ってましたし」
「それは有難い! 日本古来の道場を見せてもらえる機会なんてそう滅多にないからな」
「ええ、とても嬉しいですわ!」
 楊も玉環も大層喜んで、場はすっかり和気藹々となった。
 周風夫妻といい弟の周焔夫夫といい、そしてこの鐘崎夫夫といい、本当にあたたかい人々で安堵と共に心が躍るようだ。これから先、楊の住む裏の世界での付き合いも彼らのような面々と共に歩んでいけることが有り難くてならなかった。



 *楊礼偉の姐
◆37
 そうしていよいよ結婚式の日がやってきた。
 先頃挨拶に出向いた香港の周ファミリーをはじめ、その弟である周焔と伴侶の冰、鐘崎組の長と若頭夫夫なども顔を揃えてくれて、玉環にとっては裏の世界のそうそうたる招待客の中にあっても彼らの顔を見られただけで緊張が和らぐようであった。
 香港の周風夫妻の時と同様、純白のウェディングドレスに身を包んだ玉環の姿は、まさに溜め息が出るほどに美しく、新郎の楊もまた普段にも増して目を見張る男前ぶりである。麗しき二人に参列者の誰もが釘付けとなり、夢のような式は厳かに執り行われたのだった。
 頃はちょうど仲秋、爽やかなそよ風が心地好い中、新郎新婦が式場から姿を見せると華やかなライスシャワーで迎えられた。
 まだ紅葉前の木々がやわらかな秋の陽射しに照らされて清々しい。その木々の下の小道を新郎の腕に掴まって歩く玉環の美しさは例えようもないほどに美しく光り輝いていた。
「おめでとうございます!」
「お幸せに!」
 方々から祝いの声が掛かる中、小道を途中まで進んだ時だった。
 突如、頭上からポタリと一滴の雫が落ちてきて、玉環のはめていたロンググルーブに染みを作った。純白のグローブの上に一点の真っ赤な痕――一目で血痕だと思えるようなその染みに、楊も玉環も揃って頭上を見上げた。
 ――と、次の瞬間。
 新郎新婦の足元にボタリと何かが落ちてきた。

「キャアー!」

 参列者たちから悲鳴が上がる。なんとそれは体の一部に鋭い矢のような物が突き刺さった青い蛇だったのだ。
 まだ絶命には至っておらず、蛇は体をくねらせながら苦しそうにもがき続けている。矢の刺さった箇所から流血しており、その一滴が玉環のグローブに染みを作ったものと思われた。
 楊は咄嗟に玉環を抱き抱えては蛇から遠ざけたものの、式場前は突如の不穏な出来事に騒然と化す――。
 矢が突き刺さった蛇が頭上の木から落ちて新郎新婦の花道を塞ぐなど、前代未聞の不吉さだ。しかも蛇の色は青――だ。
 青蛇といえば楊ファミリーの象徴であり、組織を指す名でもある。明らかに結婚を快く思っていない誰かの嫌がらせと思えた。
「すぐに始末せよ!」
 楊は駆け付けてきた側近たちに向かってそう言った。ところが、玉環は咄嗟にそれを止めたのである。
「待って! 待って貴方――! いけないわ」
 玉環は楊の手を振り解くと、何と傷付いた青蛇に駆け寄って両の掌で救い上げたのだ。
 見ていた者たちは絶句――騒然としていた場が一気に静まり返る。楊もまた然りだ。
「玉環! 触れるでない――!」
 青蛇に毒は無いと言われているが、手負の状態だ。万が一にも噛み付かれたりすれば一大事である。楊はすぐにまた玉環を抱き寄せようとしたが、彼女の放った言葉に驚かされることとなった。
「まだ命はあるわ……。すぐに手当てをすれば助かるはず……!」
 そう言って慈しむように蛇の背を撫でた。
「玉環――」
「貴方……。青い蛇は楊ファミリーの象徴ですわ。こんな惨いことをされて……その上死なせてしまうわけには参りません! 何としても手当てをして救って差し上げたいのです……!」
 美しい双眸に涙を滲ませながら、純白のグローブが血に染まるのも気にせずに玉環は楊を見上げた。



◆38
 参列者たちもまた、驚きに目を見張る。しばしの沈黙の後、側近数人が玉環の手から蛇を引き取った。
「姐様! 必ずや手当てをして助けます――!」
「どうかご安心を!」
 口々にそう言い、玉環に向かって深々と頭を下げる。側近たちが蛇を持ち去るのを見つめながら、参列者たちが再びザワザワと騒ぎ出した。
「まあ、なんていうこと! ご結婚の儀になんて不吉な……!」
「きっとこのご結婚を快く思っていない誰かの仕業ですわね。それにしてもご新婦様の肝が据わっていることといったら……」
「本当ね……。アタクシだったら怖くて卒倒していますわ」
「やはりファミリーの敵対組織か何かの嫌がらせかしら?」
「そうとばかりも言えなくてよ。もしかしたら新郎様をお慕いする女性の仕業かも知れませんわ」
「おお怖ッ! 確かにご新婦様はお美しいし、こんなことをされてお気の毒ですけれど……まさか蛇を抱え上げてグローブやドレスを血で染めるなんて……」
 恐怖の為か口さがない噂話がところどころで上がる。
 楊は玉環を懐に抱き寄せたまま、他にも何か良からぬものが仕掛けられていないかと神経を集中させていたので、噂話に対処するどころではない。そんな中で、式に参列していた周ファミリーと鐘崎組の面々がすぐに連携を敷き、周囲からの攻撃などに備えてくれていた。
 周風と弟の周焔は他にも不審な物が無いかと辺りを見回し、どこからどんな攻撃が降ってきたとしても対処できるようにと身構えながら楊と玉環の盾になるよう二人の側で警戒を続ける。その間、鐘崎組若頭の鐘崎遼二とその伴侶・紫月の二人は、蛇に矢を突き刺して木の上に置いた犯人が近くにいないかどうかを捜して歩いた。
 すると、式場を見渡せる位置に掛かった小さな石橋の上に挙動不審な人物を発見。鐘崎と紫月は二手に分かれると、その人物を挟み討ちにするようにして左右から橋へと回り込んだ。
 石橋の上に着くと、全身黒い服と頰被りで身を包んだ一人の人物が鐘崎らに気付いて咄嗟に逃げんと走り出したのが分かった。体格からしてどうやら男のようだ。木の上に蛇を仕掛けた人物で間違いなかろう。
 男は慌てて逃げんとしたが、狭い橋の上だ。左右から挟まれては逃げ場がなく、それでも見た目が優男に見える紫月の側から突破せんと、体当たりで突進してきた。
 ところが――だ。紫月は極道・鐘崎組の姐であり、実家は道場を経営している武闘派育ちだ。合気道や空手といった体術に長けている。いとも簡単に攻撃をかわすと、次の瞬間には急所に拳を打ち込んで、鮮やかに男の意識を刈り取ってしまった。
「やっべ……軽く峰打ちにしたつもりだったんだけどな。気ィ失っちまった」
 これではこの男が単独犯なのか、はたまた他にも仲間がいるのかなどを聞き出せない。
「おい、起きろ!」
 橋のたもとで伸びている男の頬をペチペチと叩くも、白目を剥いてしまっていて一向に意識を取り戻す気配もない。
「おっかしいなぁ……。加減間違えちまったか? もうちょい骨のあるヤツに見えたんだけどな」
 まずいことをしてしまったと頭を掻いている紫月の元へ反対側からやって来た鐘崎が周囲を見渡したが、とりあえずのところこの男以外に怪しい人物は見当たらないようだ。
「仕方ねえ。こいつが目を覚ますまでふんじばっておくしかねえな」
 鐘崎は橋の下の楊や周らに『確保』の合図を送ると、紫月と共に男を縛り上げて楊家の側近たちに引き渡したのだった。



◆39
 犯人が捕まったことで一先ずは落ち着きを取り戻す。と同時に、安心した参列者たちが再びザワザワと噂話に花を咲かせ始めた。
「犯人は男のようですわね」
「あら、では嫉妬に狂った女性ではなかったということ? 楊様のファミリーに恨みを抱くどこかの組織の仕業かしら?」
「だとしたら大変なことですわよ! 楊家に宣戦布告したも同然ですもの。ただでは済まされないでしょうに」
「まあ怖いわね! それにしてもあのご新婦様! 肝が据わってるっていうのか……いくら楊家を象徴する青蛇だったとはいえ、花嫁衣装を自ら血で染めるなんてねえ」
「ホントね。何だか幸先の悪いこと! でも……まあ仕方ないんじゃなくて? 結果的には引き手数多だった楊様を独り占めにしたんですもの。良いことと悪いことは差し引きゼロということじゃないかしらね」
「バカね、あなた! そんなことが楊家の耳に入ったら……ワタクシたちだってタダじゃ済みませんことよ!」
「あ、あらいけない……つい口が滑ってしまったわ……」
 参列者の中でも特に女性たちにとっては楊を射止めた玉環に嫉妬の気持ちもあるのだろう。皆一様に表面上では祝う素振りでいても、心の隅では少なからず羨ましいという思いも捨て切れないのかも知れない。遠巻きに玉環を見つめながらも蛇の血で汚れたグローブやドレスを冷笑するような空気がジワジワと広がっていく。
 ――と、その時だった。
「いや、実に見事だ! 礼偉君は誠、器の大きな嫁御を娶られたものだ。普通ならばこのような咄嗟の出来事に驚いて尻込みするところ、楊家の象徴である青蛇を介抱し、救おうとした心根の何と美しいことだ! このような立派な嫁御を射止めた礼偉君もさすが先代に劣らぬ素晴らしい頭領よな。ご両親もさぞかしご安心なされていることであろう」
 豪快に手を叩きながらそう言ったのは周ファミリーの長である周隼であった。周風と周焔兄弟の父である。
 香港を仕切る周ファミリートップの絶賛に、参列者たちからもつられるようにして拍手が湧き起こった。
「し……周様の仰る通りですわね! 本当に勇気のお有りになる若奥様ですわ!」
「た、確かに! 素晴らしい姐様にいらして頂けて……楊様ファミリーもご安泰ね。さしてはワタクシたちにとっても安心して日常が送れるということですわ」
「そ、その通りね! 楊様、姐様、どうかお幸せに!」
 今しがたまで噂話に興じていたご婦人方も、コロリと態度を翻したようにして祝福の拍手を送る。次第にパラパラとしていた拍手の音が大きさを増してゆき、ついには大喝采となった。
 新郎である楊もその両親も、周隼の言葉に救われ、黙礼をもって感謝の意を示す。玉環もまた感激に瞳を潤ませながらも、少し前に周家の美紅から聞いた話を思い出していた。
 それは美紅らの結婚式の時に、墨汁を撒かれたウェディングドレスを目にした参列者たちが騒ぎ出した際の話だ。やはりその式に参列していた楊の父が、『誠、素晴らしい花嫁だ』と絶賛したのをきっかけに皆がドレスについての言及をピタリとやめて大喝采となったというエピソードである。
 まるでその時の恩返しとでもいわんばかりのタイミングで、今度は周家の頭領が自分たちを絶賛してくれた。
 何という縁であろうか――。
 玉環はあたたかくも素晴らしい縁との巡り合わせに、感激の涙を抑えることができなかった。



 *未来永劫、あなたと共に――
◆40
 こうして結婚式は大喝采の中で無事に済み、楊と玉環の邸には両親たちの他、香港の周ファミリーと日本の鐘崎組の面々が招待されて立ち寄っていた。危うく不吉なものとなり掛けた式を絶賛の言葉で救ってくれた周隼への礼という意味もあったが、元凶となった青蛇を仕掛けた犯人についての処置の為でもあった。
 あの後すぐに鐘崎組の長である鐘崎僚一が犯人の素性を調査に掛かり、息子で若頭の遼二は捕らえた男を締め上げて、経緯を聞き出していたのだ。
 それによると、男は単に金で雇われただけの実行部隊で、楊ファミリーに対しても玉環に対しても恨みなどは無く、面識すら無い全くの他人ということが明らかとなった。男の話では高額報酬に目が眩んだだけで、今日の結婚式が台湾マフィアトップ・楊礼偉のものだったことすら知らなかったそうだ。
 問題は彼を雇った本星だが、調べを進めた結果、この国のトップモデルである|星星《シンシン》だということが判明した。
 |星星《シンシン》といえば婚約が決まった直後にホテルの化粧室で玉環に嫌味を言った女である。
「|星星《シンシン》め――二度と玉環に近づかぬように釘を刺したというのに」
 彼女にとってはそれ自体がおもしろくなかったのだろうが、それにしても楊ファミリーの象徴である青蛇を矢で突き刺すなど、度胸がいいのを通り越して命知らずであろう。察するに、以前いい仲であった楊を盗られてしまったことへの嫉妬と逆恨みであろうが、見方を変えればファミリーに対する宣戦布告も同然であるのは明らかだ。おそらくは単に行き過ぎた嫉妬や妬みが原因で、|星星《シンシン》にそんな大それた思惑はないだろうと思われるが、だからといってこのまま放置できる事柄でもない。
 ファミリーの力をもってすれば|星星《シンシン》をトップモデルから引き摺り下ろして失脚させることは容易いが、やり方を間違えれば後々にもっと酷い逆恨みを買うことにもなりかねない。どう対処すべきかと渋顔でいる楊に、鐘崎組長である僚一がとある事例を口にした。
 それはつい最近の出来事だったそうだ。若頭の遼二を慕う女が、その想いの叶わなかったことを恨んで伴侶の紫月を拉致して亡き者にしようと企み、海外のテロリストまで雇って襲いに掛かってきたという驚くべき出来事だった。
「幸い紫月は武術に長けていたし、遼二や組の者たちがすぐに気付いて駆け付け、大事には至らずに済んだのだがな。たかが好いた惚れたの逆恨みと侮っては、いつそのような大事に発展するか分からない。とはいえ、そのトップモデルに対して礼偉君が直に諦めろと言ったところで素直に聞き入れてもらえん可能性の方が高かろう」
 そんな厄介な相手を上手く退けるには、次の二つに一つだと言って僚一は提案を口にした。



◆41
 一つは|星星《シンシン》を公私ともに抹殺してしまうこと。つまり完全に彼女をこの世から消してしまうという方法だが、それ自体不可能ではないにしろ推奨はできないし、また楊ファミリーにとってもそこまでする気はないだろうと言って苦笑する。とすれば、残るは一つのみだ。
「先程、ザッとだが|星星《シンシン》というモデルについて調べてみた。彼女は己が美しいという自信と共に向上心もまたかなり高い女性のようだな。モデルとしても一人の女としても、常にトップと言われる位置で輝き続けていたいと思う気持ちが人一倍強いようだ。そこで――だ」
 彼女をここ台湾のトップモデルという立場から世界のトップモデルを目指せる環境を整えてやり、活動の本拠地をヨーロッパやアメリカなどへ移してしまうよう仕向けるのはどうだろうと僚一は言った。
「モデルとして喉から手が出るほどに美味い汁を楊ファミリーの力でお膳立てしてやるのだ。むろん、裏から手を回して、楊ファミリーの名は絶対に出さず、本当に彼女自身の実力で世界的に有名な舞台からオファーがきたように装うことが肝心だ。例えば世界屈指のファッションショーに出演しないかというオファーなどを用意してやり、彼女のプライドと向上心をそちらに釘付けにする。彼女の性質から考えれば間違いなく飛びつくはずだ」
 ただし、その後に彼女が世界の舞台で活躍し続けられるかどうかは本人の頑張り次第だという。そこで成功しますます有名になるも、実力及ばず失脚するも彼女自身にかかっているということだ。
 つまり、新たな向上心を掻き立てる舞台を用意して、彼女をこの台湾から遠ざけてしまうというものだった。僚一曰く、|星星《シンシン》のプライドの高さと性質から考えて、おそらくは世界の大舞台で輝かんと必死になり、楊への想いや玉環への妬みなどすぐに忘れるのではないかと思われるとのことだった。
「なるほど――。しかし僚一、お前さんもすごいことを考えなさる」
 楊の父親は驚きつつも感心の面持ちでいる。
「礼偉君にとって|星星《シンシン》に栄光へのチケットを用意してやるのは気が進まんことと思うが、後々のことを考えればここはひとつ我慢というのも方法の内かと思うのだが――」
 楊もまた、僚一の提案に対して理解の意を示した。
「確かに――結婚式をあのようなやり方で穢されたことは腹立たしいところですが、私にとって玉環が無事であることが何より重要です。|星星《シンシン》に制裁を与えることは容易いが、後々もっと大きな火種を植えつけては本末転倒です。ここはひとつ僚一殿のお知恵を拝借して、|星星《シンシン》を台湾から遠ざけるのも手かと存じます」
 楊の理解に玉環もまた安堵したようにうなずいた。
「|星星《シンシン》さんが台湾の誇れるモデルでいらっしゃるは確かですわ。あの方が世界の舞台でご活躍なされて、お幸せに生きてくださることをわたくしも願っております」
 思いやりにあふれるその言葉に誰もが瞳を細める。
 誠、礼偉君は心やさしき素晴らしい嫁御を娶られたものだと、絶賛の思いで新郎新婦を讃えたのだった。



◆    ◆    ◆






◆42
 翌日、早速にモデルの|星星《シンシン》を世界の舞台へと送り出すべく算段が立てられることとなった。これには周ファミリーと鐘崎組も協力して、それぞれの伝手があるところから|星星《シンシン》の所属事務所へオファーが届くように画作する。
「これでとりあえず美味みのある話が複数彼女の事務所へ届くはずだ。あとは成功するも失敗するも彼女次第といったところだな」
「皆さん、お知恵とご助力に感謝します。このご恩は決して忘れますまい。玉環と共にファミリーを――しいてはこの台湾裏社会の未来の為に精一杯尽くせるよう精進いたす所存です」
 若夫婦共々揃って丁寧な礼を述べ、周家も鐘崎家も楊ファミリーの発展を心から願ったのだった。

 その後、二日ばかり台湾での休日を楽しみ、観光地などを巡った周家と鐘崎家の面々は、楊ファミリーに見送られてそれぞれの本拠地へと帰ることとなった。
 離陸間近、空港では楊と玉環、それに両親や側近たちなどが見送りに集まる中、周ファミリーは香港へ、鐘崎組の面々は日本へと帰路につく。
 滑走路を見渡すデッキでそれぞれのプライベートジェットを見つめながら、玉環は名残惜しそうに瞳を細めていた。
「何だか……寂しくなりますわね。特に周家の美紅さんとは今度またお会いできるまでが待ち遠しく思えますわ」
 マフィアの嫁同士、すっかり意気投合した玉環と美紅は、もうずっと以前からの友のように互いを頼りに思う仲になっていたのだ。そんな妻の肩をそっと抱き寄せながら、楊はクイと膝を屈めて愛しい髪に口付けた。思えば玉環を見初めて強引に手に入れたあの日から、彼女にとってはこれまでの私生活はほぼ封じられた感じとなり、それこそ女友達と茶の一杯も共にする時間さえ取り上げてしまったように思う。
「玉環、すまなかったな。私は貴女を欲するあまり、貴女の友達との楽しいひと時さえ奪ってしまっていたように思う。窮屈な思いをさせているのではと申し訳ない気持ちだ」
「貴方。そんなことはございません。私、とても幸せですわ。元々出不精でしたし、女友達といえるのは学生時代の級友くらいでしたもの」
 だから余計に美紅との縁がうれしいものだったのだ。
 そんな彼女の髪を撫でながら楊は微笑んだ。
「そうか。では我が妻にひとつプレゼントを打ち明けようか」
 クスっと誇らしげに笑う。
「プレゼント? まあ……私に?」
 それこそこれ以上欲しい物などないし、恐縮だと言った妻を心の底から愛しく思う。
「実はな、玉環。美紅殿はつい先頃ご出産なされたばかりだ。その祝いに近々香港を訪ねねばならん」
「……え? では……」
「もちろんだ。貴女も私の妻として、それから楊家の代表として私と共に香港へ同行してくれると有り難いのだがね」
「まあ……! よろしいんですの?」
 玉環は既に頬を紅潮させながら、喜びに瞳を輝かせている。
「ついでと言っては言葉が悪いが、ハネムーンも兼ねて香港と――その後は日本を回ってこようと思っているのだが。ハネムーンが近場で申し訳ないが、遠出はまた折を見て……」
 最後まで言い終わらない内に玉環はうれしさ余って亭主の胸元に抱きついた。
「うれしいわ! こんなに素敵なハネムーンはありませんわ。貴方……本当に私、こんなに幸せにしていただいて……いいのかしら」
 うっすらと瞳を潤ませながら感激の面持ちを見せてくれた新妻を抱き締めた。
 強く強く抱き締めた。
「楊玉環、愛しているよ」
 早速にファミリーの姓となった妻の名を呼びながら、ありったけの愛情が漂う瞳を細める。
「貴方……」
「これからの永い人生を二人で共に歩いて参ろう」
「はい……。はい!」
 友らを乗せたジェットが滑走路から飛び立つのを見つめながら、二人は固く固く互いの手を握り合い――おそらくは空の上の友たちも同じようにして肩寄せながらこちらを見つめてくれていることだろう。その姿を想像すると、嬉しさに心が湧き立つようだった。

 彼らの愛情と友情を誇らしく思いながら、両親たちもまた、新しき時代を背負って立つ若者たちに明るい未来を想像し、心からの祝福を送るのだった。

台湾恋香 - FIN -



Guys 9love

INDEX    NEXT