極道恋事情

33 倒産の罠1



◆1
「え――? 倒産……ッ!?」
 元々大きな瞳を更にまん丸く見開いて、冰は大口を開けたまま固まってしまった。汐留の社長室でのことだ。
「……倒産って……それ、本当なの白龍……」
 愛しき伴侶の問いに、周はわずか苦そうにうなずいてみせた。
「本当だ。正しくは乗っ取られたといった方が正しいが――」
 さすがの周も日本語が曖昧になるほどの由々しき事態だ。
「どうしてそんな……乗っ取られたって……いったい誰に」
 冰はとてもじゃないが信じられないでいるらしい。
「このところ巷で横行している詐欺集団だ。中堅から割合大手といわれている企業が軒並み引っ掛けられている。うちもそれにまんまとやられたということだ」
「まさかそんな……」
 周は大学在学中からこの仕事に携わり、腕一本でここまで大きく発展させてきたやり手だ。むろんのこと香港の父親からのバックアップも大きいとはいえ、日本で本格的に起業してからは、ほぼ自分の力量だけで社を大きくしてきたのだ。
 表の経営だけではない。マフィアの頂点に立つ父親の下、生まれた時からどっぷりと裏の世界で酸いも甘いもを体験し、見聞きしながら育ってきた精鋭である。そんな彼がいとも簡単に詐欺集団などに引っ掛かるだろうか。冰はそう思いながらも、驚きを抑えられずにいた。
「急なことだが、社だけではなく今の住まいもすべてがヤツらの手に渡る。今週中にはツインタワーの邸も出ていかなければならなくなった」
 ますます驚愕な話である。今週中というが、今は週後半に入ったばかり。つまりはもうあと二、三日しか猶予がないということだ。
「出て行くって……」
「当面はカネの邸に身を寄せさせてもらえるようになった。新しい住処が決まり次第、またすぐに引っ越すことになろう」
 周はすまないと言って机に手をついたまま、下げた頭を上げられずに身を震わせた。
「お前にも苦労を掛けちまう……」
「白龍……ううん、俺は全然! 白龍と一緒にいられるならどんな所だっていいよ。ただ……社員さんたちはどうなるのかなって……」
 冰にとって気掛かりなのは、自分たちの今後ではなく社員たちの生活のことのようだ。
「倒産といっても実際は乗っ取られただけだからな。経営陣が変わるだけで、社員たちにはこれまで通りに勤めてもらえる。正直なところ、上が変わったことすら知らずに勤める者が殆どだろう。報酬も極端な減棒などにならないようにと新しい経営陣に約束させた」
 つまり、このまま社に残りたいと言ってくれる者には、今までと何ら変わりのない生活が保証されるということのようだ。
「そっか、良かった……。だったらひとまずのところ安心だけど」
 ホッと肩を下ろした冰に、周は胸の熱くなる思いを抑えられなかった。
 自分のことよりも社員たちの今後を即座に考えてくれること、そして何よりもすべてを失う自分を見限ることなく、当然といったふうにこれからも共に暮らしてくれるという意思。白龍と一緒にいられるならどこだって構わない――そう言ってくれる冰の気持ちが周には何よりも嬉しかった。

 すまねえ、冰――。
 お前にさえ本当のことを言えずに苦労を掛ける。
 だが分かってくれ。これは極秘任務、例えこの世で唯一無二のお前にさえ云えないシークレットミッションなんだ……!

 同じ頃、鐘崎の方でも似たような思いに苦さを噛み締めていた。
 周と鐘崎、そしてごく近しい側近の者たちにしか共有が許されない極秘の任務――。
 男たちの孤独な闘いが幕を上げようとしていた。



◆2
 川崎、鐘崎組事務所――。
「氷川の会社が倒産!? は、はは……なんの冗談だよ……」
 エイプリルフールでもないのに笑えねえ、と紫月が片眉をヒクつかせながら蒼白となっている。
「冗談なんかじゃねえんだ。お前も耳にしたことがあるだろう? 昨今国際的に問題になっている詐欺集団のニュースだ。氷川の社も遂にターゲットにされたというわけだ」
「ま……さか。あの氷川が……ンなチンケなヤツらに引っ掛かるわきゃねって」
「チンケで片付けちまえりゃ苦労はねえんだがな。日本国内だけじゃなく、アジアを中心に今や世界各国で横行している由々しき事態だ。このままいけば、遅かれ早かれインターポールが動き出すことになろう」
「マジかよ……」
 さすがに認めざるを得ないということか。
「んで、氷川たちはこれからどうなっちまうってんだ?」
「当面の間は氷川たちにはうちに来てもらうことになった。まあ早急にアパートを探すと言っていたから、長くても数日だろう」
「そんな……! アパートなんざ探さなくたって、ここにずっと居りゃいいじゃんかよ! なんなら俺ン実家の方だっていいんだし!」
 道場には父の飛燕と手伝いの綾乃木が住んでいるだけだし、部屋は充分に余っていると紫月は必死だ。
「むろんそう伝えはしたがな。氷川には氷川のプライドってもんがあるんだろう」
 いかに親友といえど、そこまで世話になるのは申し訳ないという男としての気持ちは理解できないでもない。
「それで冰君は? 冰君も……もちろん一緒に来てくれるんだろ?」
 そんなことは聞かずとも当然だと思いながらも、これまでの生活とは百八十度違う環境になるわけだ。汐留での豪勢な生活からから比べれば、天と地といっても過言ではないことくらい想像がつく。そんなことくらいであの二人の愛情が揺るぐとは思えないが、心配せずにもいられないというのも実のところなのだ。
「もちろん冰も一緒だ。ヤツは氷川と一緒にいられるなら何処だって構わないと言ったそうだ」
 それどころか、自分たちのことよりも社員たちの今後の生活のことの方を心配していたという。
「そっか……。良かった。安心したぜ……」
 実際には安心どころではないのだが、紫月にとっては冰が身ひとつも同然になる周を見捨てずについて来てくれるということが何よりの安堵と思えるのだった。
「李さんと劉さんは社に残り、新しい経営陣の下でこれまで通り勤めるそうだ。氷川とてこのまま黙っているわけもないからな。今後は社を取り戻す為に画策することになる」
 その時の為にも李らには残ってもらうことにしたのだそうだ。
「そっか……。氷川のことだ、なんとしても社を取り戻す為に動くんだろうが……。とにかく俺は少しでも冰君たちの力になれるよう、できることはなんでもするから!」
「ああ、俺もできる限り動く。|家《ここ》に帰れない日も多くなろう。お前にも苦労を掛けるが、よろしく頼む」
「もちよ! マジでなんでもするぜ!」
 紫月は早速周らが住めるようにと客用の空き部屋の準備に取り掛かった。

 すまねえ、紫月――。
 お前や冰にさえ本当のことを明かせずに気苦労を掛けることを許して欲しい。だが、これは俺たちの賭けでもあるんだ。
 いつかすべてが片付いたら、この借りは返すぜ。俺と氷川の持てるすべてでお前らを笑顔にしてやりたい。
 だからそれまで耐えてくれ!

 周に違わず、鐘崎にとってもまた同様――極道の男たちにとって厳しく荒れる大海原に挑む覚悟の瞬間が切って落とされたのだった。



◆3
 ひと月前、香港――。
「こちらの準備は整っている。既に敵の懐に我がファミリー第一側近の曹来を潜り込ませることに成功した。ヤツが上手く立ち回ってくれたお陰で、敵の上層部にも覚えがめでたい様子だ」
 周の兄である|風《ファン》が緊張の面持ちでそう報告する。ここは香港の裏社会を仕切る周ファミリーの数ある拠点の中でも、最高峰といわれる極秘のヤサであった。
 顔を揃えているのは頭領の|周隼《ジォウ スェン》と長男の|周風《ジォウ ファン》、次男坊である|周焔《ジォウ イェン》、それに鐘崎組|長《おさ》の僚一、つまり鐘崎の父だ。むろんのこと息子の鐘崎遼二も一緒である。
 その他に鐘崎組番頭の源次郎と、周の側近である李と劉、日本の警視庁捜査一課に所属する丹羽修司の姿もあった。総勢九人の男たちがファミリー中枢の限られた幹部しか知り得ない極秘部屋に集まって真剣な表情でいる。
 ここは周隼の本宅から少し離れた所にある地下施設の一室だ。本宅からは秘密の太い地下通路で繋がっていて、車での行き来も可能という広大な造りになっている。施設の真上には送電を管理する電力所を装った建物があって、感電などの危険を伴うという理由から関係者以外は立ち入りが禁じられているといった具合であった。もちろん電力所というのは周隼の管理下にある会社である。本来の業務も少なからず行われてはいるが、実質は隠れ蓑の要素の方が大きい、とまあそんな施設であった。

 裏社会を仕切る男たち、そして警察幹部までが顔を揃えての異色ともいえる極秘会議だ。話し合われている内容も重いものであった。
「昨今、このアジアを中心に次々と中小企業が詐欺集団によって乗っ取られるという異様事態が後を絶たない。被害件数の点からすれば日本国内が断トツに多いとのことだが、ここ香港でも二、三年の間にいくつかの企業が倒産に追いやられているのは事実だ」
 皇帝の色とされる黄色の中華服姿で頭領の周隼が言う。まあ彼の|字《あざな》が黄龍なので、普段から選ぶ色は黄色なわけだが、男前の顔立ちによくよく映えていて、まるで映画の世界に迷い込んでしまったかのような印象を受ける。長男の周風も同じく|字《あざな》に合わせた全身漆黒の中華服がよく似合っていて、その出立ちだけを目にしても圧倒されるような雰囲気の中、警視庁から来た丹羽が珍しくも緊張気味に背筋を正していた。
 それというのも、今この面々がこんなところで顔を揃えているのは、そもそもこの丹羽に要因があるからだった。
 ここ香港で詐欺集団による企業乗っ取りが問題視され始めた少し後のことだ。一年ほど遅れて日本や台湾でも同じ手口が横行し始めた。当初、香港や台湾の企業が次々乗っ取られては倒産に追い込まれるというニュースが話題になったものの、その波は瞬く間に日本へと広がり、今ではどこの国よりもその数が増え続けているといった事態に、いよいよ黙って見過ごすわけにはいかないと丹羽から鐘崎組へと助力の要請がいったというのが発端だった。



◆4
「我々日本の警察も動いていますが、敵の手口が狡猾で、実態を掴むのに苦労を強いられております。上層部からも鐘崎の組に助力願うしかないということで、私がその窓口を仰せつかることになりました」
 丹羽は普段から鐘崎らとは懇意の仲だが、さすがに香港マフィア頭領本人を前にして緊張気味でいるらしい。次男坊の周焔は鐘崎の親友であるから、その周とも幾度か顔を合わせてはいたものの、ファミリーの中にいる彼を見るとまるっきり雰囲気が違うように感じているようだった。
 そんな丹羽の緊張を解すかのように周がクスッと笑む。
「そう畏まることはねえ。普段通りのアンタでいいんだ。余分な気遣いのせいで本筋に全力を注げなくなると困るからな」
 大海を眼前に気疲れしてしまっては元も子もない。周に続いて兄の風も父の隼も同意だと言ってうなずいた。
「焔の言う通りだ。我々に気遣いはいらない。それよりここ半年でヨーロッパでも同様のことが起こり始めたそうだな。インターポールも動き出したと耳にしたが」
「ええ。ヨーロッパではまだほんの数件ですが、アジア圏で横行している波がいよいよやって来たかという見解のようです。なんとか尻尾を掴まんと画策しているようですが、これといった突破口は掴めていないようで」
「なるほど。それで日本ではどのくらいの被害が出ているのだ?」
「我が国で狙われたのは中堅から大手一歩手前という企業がほぼ九割を占めています。さすがに全国民がその名を聞いたことのあるような大企業までは手を出されておりませんが、今は予行演習的な実験で中堅企業を狙っているとも窺えます」
「とすると、いずれはデカく勝負に出てくる前段階ということか」
「そうなる前に仕留めたいというのが我々の狙いです」
 丹羽の言うには、インターポールとしても今のところ被害の数が指折り数えられる程度なので、本格的に動くには至っていないという。
「現段階では各国ごとに独自の対策を取るようにという方針だそうです」
 詐欺集団が各国の中堅企業を乗っ取るということからして、相当大きな組織であることは間違いない。丹羽の話にもあったが、やり口が巧妙で、敵の実態すら掴みきれていない。つまり、まだどこの国でも黒幕の顔さえ拝んだことがないというわけだ。
「ここ香港でも被害が増えているのは事実だ。試しに乗っ取られた企業のひとつにウチの曹来を潜入させてみたところ、実行犯と思われる数人との接触に成功した。ただし肝心の黒幕までは辿り着いていない」
 下っ端をいくら押さえたところで、トカゲの尻尾切りで終わってしまうのは目に見えている。
「幸いにして曹が上手く立ち回ってくれているのでな。組織の中で信頼を積み重ねていけば、いずれは黒幕に当たることもあろうかとは思うが、期待は五分五分といったところだ」



◆5
「そこで考えたのが今回の策だ。香港にある我がファミリーの携わるホテルと|焔《イェン》の経営する商社を囮に使う」
 周隼に続いて周風がそう説明する。香港のホテルというのは世界的にも名の知れた五つ星ランクだ。大企業といえる。日本の汐留にある周焔の商社も一部上場企業であり、これまでターゲットにされた中堅企業からすれば比べ物にならないくらいの大手である。
「囮……ですか? ですがそれではリスクが大き過ぎやしませんか?」
 驚きつつも丹羽が困惑顔を見せる。如何に助力を依頼したとはいえ、まさかそんな作戦に出るとは思ってもいなかったからだ。万が一にも失敗した場合、警視庁としても責任を取りかねる。
「待ってください……。他に方法はないものでしょうか」
 さすがに同意し難いといった表情の丹羽に、周隼らは微苦笑した。
「だが、一刻も早く収拾したいのだろう?」
「それは……もちろんそうですが」
「我々とてみすみす敵にくれてやるつもりはない。|焔《イェン》の社には我々の側近である|曹来《ツァオ ライ》をCEOに据える方向で準備を進めている。李と劉にはそのまま残ってもらい、社の頭をすげ替えるだけという乗っ取り方をさせるつもりだ。幸い、|焔《イェン》の社は業績も明るい。詐欺集団が乗っ取った後も社の運営を上手く回して稼ぎさえ上げれば、倒産には至らずに済む」
 これまでの詐欺集団の手口では、乗っ取った後に経営が立ち行かなくなればすぐさま売却して現金に変え、そのまま放置して金だけを持ち逃げするといったやり口だ。つまり乗っ取ってからも業績が伸びるようであれば、その企業はこれまで通り運営され続けるということになる。要するに楽して金が稼ぎ出せればそれでいいわけだろう。
「だがまあ確かにこれは我々にとっても大きな賭けになることに違いはない。仮に万が一の事態が起こっても、曹来をトップに据えておけば本質的には乗っ取られたことにはならない」
 そこで一足早く曹来を敵の懐に潜り込ませたという経緯だ。
「曹には敵の上層部に次のターゲットとして|焔《イェン》の経営するアイス・カンパニーを提示させる。これまで引っ掛けてきた中堅企業から比べれば桁違いの大手だ。十中八九敵も乗ってくるだろう」
「曹来に乗っ取らせた後に業績を下げることなく経営させ、上手く金を上納できれば敵はいよいよ同等の大企業乗っ取りに掛かってくるだろう。そうなれば遅かれ早かれ黒幕が動き出すと踏んでいる」
 そこを押さえようという作戦である。
「焔には社を乗っ取られた後、当面の間は少々厳しい生活を演じてもらうことになろう。これまでの調べで、敵は乗っ取った企業の経営者がどのように生活をしているのかということに注目している様子だ」
 つまり、前経営者らに社を取り戻そうと画策する動きがあれば、その芽も摘むという方法で、徹底的に潰しに掛かるという。
「不可解なのは彼らの執拗さだ。乗っ取った企業の元経営者らがどのような暮らし向きに陥るかということに強いこだわりがあるようでな。分かりやすく言うと、仮に元経営者らに|箪笥《たんす》預金などがあったとする。会社は潰れても当面の生活に困らないで暮らしているような場合、ほぼ九割の確率でその家が強盗被害に遭うという点だ。それから考えて乗っ取り犯と強盗犯は同一人物と思われる」
 だが何故、そうも執拗に完璧な潰しに掛かるのか理解しかねるといったところだ。個人的な怨みでもあるのかと思いきや、狙われた企業にこれといった接点は見当たらず、いわば通り魔的ともいえる支離滅裂の犯行なのだという。
「何か目的があるのか、それともただ単に破壊行為で誰かが苦しむのを見て快感を覚える猟奇的な思考の持ち主なのか――その辺りがどうにも理解できん」
「それらをかわす為にも|焔《イェン》には汐留の社を|邸《やしき》ごと明け渡し、安アパートに住んで日雇い労働者として働いてもらう。日々の生活で精一杯という状況を見せつけて、敵を油断させるのが狙いだ」



◆6
 もうそんなところまで考えてあるわけか。丹羽は正直なところ驚きを隠せなかった。鐘崎組にこの件を依頼すれば、何らかの知恵をもらえるかとは思っていたものの、まさか囮作戦など考えもつかなかったからだ。しかもその囮役に周一族の社を使うなどということからしても仰天させられる。
 だが、方法としては確かに悪くない。周焔の社は敵にとって甘い汁といえる大企業であるし、例えば仮に敵が非常に優秀であったとして、アイス・カンパニーのバックに香港マフィアがついていると知っていたと仮定する。この作戦が敵を検挙する罠だと勘繰られたとしても、香港マフィア頭領一族である周ファミリーの息が掛かった会社をファミリー自ら囮に使うとはおそらく考えないだろうからだ。上手くすれば将来的にはマフィアの組織そのものを乗っ取れると踏んで、短期間で大々的に勝負に出てくる可能性もある。
 それとは逆にアイス・カンパニーとマフィアの接点を知らなかった場合でも、日本国内では大手の企業だ。金儲けが目的ならば話に乗ってくるはずだ。
 そうなることを見込んでの策なのだろうが、それにしても度胸がいいとしか言いようがない。一歩間違えば、本当に組織ごと乗っ取られることも皆無ではない。そんなことになれば責任問題どころではなくなってくるだろう。今更ではあるが、丹羽は鐘崎組に依頼したことを後悔することにならなければ良いがと祈る心持ちにさせられてしまった。
 そんな丹羽の危惧を他所に裏社会の男たちは着々と計画の手順を語る。
「この計画を実行するに当たって、もうひとつ重要な事柄を伝えておかねばならん。それは事が済むまで我々以外の者に計画を漏らさないということだ」
 どういう意味だと丹羽が首を傾げる。
「計画の実行部隊である我々数人を除く者、しいては我々の家族身内にも本当のことを伝えてはならないということだ」
 身内とはつまり周焔の伴侶である冰や、鐘崎の伴侶の紫月も含めた近しい者にも極秘にしたまま遂行するという意味らしい。
「ご家族にも内緒にされるので?」
「そうだ。我が妻や長男・風の嫁はもちろん、次男・焔の伴侶である冰、それに遼二の伴侶・紫月にも内密とする。理由は敵方からの探りに対する信憑性を確実にする為だ」
 隼に続いて長男の風が捕捉する。
「冰や紫月は我々と違って根が実直だからな。実際には乗っ取られていないと分かっていての演技は敵に不審感を抱かせかねない。逆に冰らが必死に生活を守ろうとする姿こそが敵を欺く要となるだろう」
 むろんのこと、冰らには心労を課すことになるが、この計画を遂行するには致し方ないと周親子は言った。丹羽からすればそれもまた仰天である。
「――鐘崎もそれでいいのか?」
「ああ。敵は企業を乗っ取った後もしばらくの間は前経営者一家の暮らしぶりを偵察しているようだからな。氷川と冰には安アパートに住んでもらい、特に氷川の方には日雇い労働者として工事現場で働いてもらう。冰には地元の図書館など、なるべく手堅い所に勤務してもらう予定だ。二人は表向き従兄弟同士ということにして、アイス・カンパニーは社長と秘書という立場の同族経営でやってきたことにする。ついでに真田氏にも二人と一緒に住んでもらい、年齢のいった父親を抱えて二人が生活に必死だということを認識させる」
 敵方の油断を招いたところで曹来には更に大きな企業乗っ取りを提案させ、いよいよ相手の黒幕が顔を出さざるを得ない状況を作り上げ、一気に摘発に乗り出すという流れだそうだ。



◆7
「その際には丹羽ら警察に協力してもらい、一気に畳む。それまでは俺たちに任せて欲しい」
「……分かった。検挙の際には役に立てるよう警察の方でも準備を万全にしておく。皆さんにはご苦労をお掛けしてたいへん恐縮ですが、どうぞよろしくお願いいたします」
 丹羽はできることがあればどんなことでも精一杯動くと言って、深々と頭を下げた。
 こうして詐欺組織の検挙に向けて、男たちの闘いが幕を開けることとなったのである。



◇    ◇    ◇



 汐留、周邸――。
 花曇りの朝、引越しの身支度を整えた冰と真田が、迎えに来た鐘崎組の車の前で不安げに表情を曇らせていた。周は新しい経営者に最後の挨拶をすべく、一人遅れて社長室に居た。側にはこのまま社に残る側近の李と劉、そして香港のファミリーから内密に敵組織へと潜入している曹来が顔を揃えていた。この曹は周の兄である|風《ファン》の第一側近である。
「では行く。曹さん、後のことは頼んだぞ」
「お任せください。連絡は鐘崎組を通して逐次入れます。ご辛抱をお掛けしますが、|焔老板《イェン ラァオバン》もどうかくれぐれもお身体をご自愛ください」
「ああ、頼む。李と劉も達者でな」
「はい、はい……|老板《ラァオバン》……!」
「社のことは我々が身命を賭して守りますゆえ……」
 これが作戦の一環だと分かってはいても、今後の周らの生活を思えばどうしても辛さを抑え切れなくなる。そんな側近たちを励ますべく笑顔を見せると、周は冰らの待つ駐車場へと向かった。その後姿を見送りながら、三人もまた覚悟を新たにするのだった。

「待たせたな。行こうか」
 冰と真田の肩を抱きながら迎えの車に乗り込む。この二人にも本当のことを告げていないので、周にとっては少なからず胸の痛む思いだ。
 車が走り出すと、真田が名残惜しそうに窓からツインタワーを見つめる様子に郷愁の思いを感じていた。
「皆様、組では若と姐さんが充分な準備をして待っておりますので、どうぞご安心ください」
 鐘崎組から迎えに来た運転手の花村がそう声を掛けてくれる。彼もまた、真実を知らされていない内の一人だ。なんとか自分も役に立とうと気遣ってくれているのがよく分かる。周は助手席で感謝の意を述べた。
「すまない。鐘崎組の皆さんにもご足労をお掛けする」
「とんでもございません! どうか我が家と思って寛いでくださいまし」
 後部座席でその会話を聞いている冰と真田にもすまないと思いつつ、周はこれからの展開を頭の中で思い巡らせるのだった。

(冰、真田、すまねえな。この一件、必ず成功させてお前らに笑顔を取り戻してやる。それまでしばらく辛抱してくれ)

 飛んでゆく窓の景色を眺めながら、周はここ日本で起業する為に香港を離れた日のことを思い出していた。
 あの時も少なからず郷愁を感じていた。見知らぬ土地での起業、幼かった冰を残して香港を去ったあの日の気持ちは生涯忘れることはないだろう。
 だが今はその冰が共にいてくれる。真田も然りだ。

(必ず成功させる。焦りは禁物だが、できる限り迅速に短期間で決着をつけてやる)

 周の瞳の中には、まさに決意と覚悟の|焔《ほむら》が灯っているようでもあった。



◆8
 鐘崎組に着くと、紫月が玄関口で首を長くしたようにしながら待っていた。
「紫月さん……! お世話になります」
「冰君! よく来てくれたな!」
 紫月もまた、本当のことを知らされていない。周のことはもちろんだが、何を置いてもこの冰の身の上を我が事のように思ってか、彼が車を降りたと同時に抱き締めた。
「冰君、なんも心配はいらねえ! 自分の家だと思って自由にしてな!」
「紫月さん、ありがとうございます」
「真田さんも! 要る物とか用事があれば、些細なことでもいいっす。遠慮なく言ってください!」
 荷物を持ちましょうと言って、紫月は真田の手から大きな鞄をもらい受けた。
「紫月さん、お世話をお掛けします」
「いえ、とんでもねえ!」
 そこへ鐘崎もやって来て、まずはこれから厄介になる部屋へと案内された。
「うわぁ……素敵なお部屋」
 周と冰が泊めてもらうのは広々とした洋室であった。来客用に設られたその部屋は、バスルームなども完備されていて、ホテルのような感覚だ。真田には同じくバスルーム付きの和室が用意されていた。周らの部屋と隣同士である。急にすべてを失った彼らに少しでも明るい気持ちになってもらえるようにと、紫月が心を込めて掃除からベッド周りの設えまで準備したものだ。
「ありがとうございます……何から何まで……」
 丁寧に頭を下げる冰の傍らで、周もまた心からの礼を述べたのだった。
「カネ、一之宮、すまねえな。世話になる」
「構わん。気を遣わねえでくれることが一番だ。真田氐も冰も我が家と思って寛いでくれ」
「はい……ありがとうございます。本当に……」
 その後、軽く荷解きを済ませてから、周は早速にこれから住むアパートの契約に取り掛かった。
「住処はこの周辺でいくつか見繕っておいた。冰の仕事先は紫月が既に話を通してくれている。午後から案内させてもらうな」
 組事務所に移動して、鐘崎から資料を受け取る。
「カネ、一之宮、いろいろとすまねえ。俺はとにかく、手っ取り早く現金を稼げる日雇いの職に就くつもりだ」
 周はこの近辺で日雇い労働者として当座の生活費を稼ぐという。
「今は時期的にも年度末の調整の為、各所で道路工事が行われている。このすぐ近所で働けるように知り合いの飯場に話をつけておいた」
 周の仕事先も既に鐘崎が手配してくれていた。
「すまねえ、カネ。助かる」
 社が乗っ取られたと分かった時点で、冰からはこれまでずっと周に支援してもらっていた莫大な金を生活費に充ててくれと言われていたのだが、実のところその金も含めて新CEOの曹来にそっくり預けてきていた。当然のこと、冰は新しい経営者が曹来ということすら知らされていないわけで、彼の意識下では社も邸も、それに現金も全て失ったという認識でいる。つまり表向きは一文無しも同然というわけだ。
 冰は周が十年以上も掛けて援助してくれていたその気持ちまで洗いざらい失ってしまったことには心を痛めて号泣したものの、彼にとっては金を失ったこと自体よりも周の気持ちが踏みにじられたことが何より悲しかったようだ。
 まさに天から地へ真っ逆さまの貧乏生活となったわけだが、それでも冰が周や真田と共にいられるだけで充分だと言ってくれたことには有り難いと思うと共に申し訳ない気持ちでいっぱいであった。
 周はとにかく即金になる日雇いの労動夫として仕事に出ると伝えていた。真田にはこれまで通り身の回りの世話を頼み、アパートにいて食事や洗濯などを行ってもらうことにする。
 まあこれも敵方の目を欺く作戦のひとつなのだが、何も知らない冰や真田にしてみれば、先行きの不安だらけであろう。周も鐘崎も申し訳ないと思いつつ、彼らに真実を打ち明けられない胸の痛みを堪える日々であった。



◆9
 次の日にはアパートも決まった。結局、鐘崎組で過ごしたのはたったの二日ほどであったが、契約が決まり次第すぐにも引越しとなった。場所は鐘崎組から歩いて行ける近場である。組事務所の二階に登れば目視できる位置というのが、紫月にとっても冰にとっても安心できたことのようだ。
 ただ、一晩泊めてもらった鐘崎組の客室や、これまで住んでいた汐留の邸から比べれば、本当に真逆といっていいくらいの設えである。築年数も経っていて、外観からしてこれまでとはまるで違う。二階建てで、住居数は四世帯が住めるタイプだが、階段などはペンキが剥がれていたりして、洒落ているとは言い難い。紫月は冰が気落ちしないかとそれだけが心配であったが、当の冰は思ったよりもショックを受けなかったようである。
「うわぁ、何だか懐かしい感じ。じいちゃんと住んでたアパートに似てる!」
 香港で黄老人と暮らしていたアパートはもっと大所帯が住めるビルであったが、そちらも築年数はここよりもっと古かった。冰は部屋の中の雰囲気が似ていると言っては、大きな瞳をクリクリと輝かせている。
「お部屋が三つある! 真田さん、どこがいいですか?」
 冰らが住むのは二階だ。どうやら真田に一番好きな部屋を選んでもらいたいらしく、冰がニコニコと笑顔を見せながらひとつひとつ部屋を見て歩いている。その内の二つは寝室にもなる個部屋で、和室と洋室だった。もう一つはダイニングである。大きさはどれも一緒で、六畳ずつといったところだ。
「うは、ベッドを置いてきて良かった。これじゃベッドだけでいっぱいになっちゃう」
 家具類などはすべて汐留に置いてきた為、寝具やダイニングのテーブルなどはこれから揃えることになるのだが、これまで周と共に寝ていたベッドはそれこそ大きくて広かった為、この部屋には不向きだ。
「ベッドじゃなくて布団を敷いて寝た方がいいかも」
 冰は早速買う寝具などを思い描いているようだ。
 結局、真田が和室を取り、周と冰は洋室タイプの方に住まうこととなった。風呂とトイレ、ダイニングは三人で共有である。
「キッチンにはガステーブルも付いているんですね。じゃあ今日からもうお料理できますね!」
 冰はすっかりこれからの生活に馴染み始めているようだが、傍から見ている紫月らにしてみれば、どうしても気の毒な思いが拭えない。今は良くても、ゆくゆく彼が落ち込んだりしないかと危惧が否めなかったからだ。
 荷物を運び入れた後、午後からは寝具やダイニングテーブルなど必需品の買い出しで終わった。
 一文無しになったとはいえ、周の財布に残っていた現金だけは持って出られたとのことで、ふた月くらいは何とかしのげるだろうとのことだった。冰は真田と共になるべく安価で、且つ質もまあまあという家具類を一生懸命になって見繕っていった。寝具や家電製品といった大きい物はもちろんだが、シャンプーや洗剤など細かい備品を入れたら相当な量である。鐘崎自らがワゴン車を運転して、紫月も冰と共に必需品の買い出しに終始付いて回った。
 その夜は紫月らが是非にと言うので、鐘崎組で晩御飯をご馳走になることとなった。食事が済み、アパートに帰る三人を見送る紫月の表情は今にも泣き出しそうであったが、そんな彼の肩を抱きながら鐘崎もまた心の中で『すまない』と思うのだった。



◆10
「真田さん、お風呂お先にどうぞー」
 冰が荷解きをしながら明るい笑顔で言う。
「とんでもありません! 坊っちゃまと冰さんでお先にお入りください!」
 真田は恐縮しているが、冰は朗らかに笑った。
「俺はもう少し荷物の整理があるんで、ほんとお先に入っちゃってください。出たらお茶にしましょう」
 周もそうしろと言うので、真田も二人の厚意に甘えることとなった。その間、冰は買ってきた物の荷解きに精を出す。
「白龍、お布団出すの手伝ってー。ちょっと大きくてさ」
「ああ。割合デカいのを買っちまったからな」
 床に敷いて寝るタイプのものなので、布団は大きめのキングサイズを選んだのだ。敷いてみるとすっかり部屋を埋め尽くす勢いである。
「わは! これだけで部屋が埋まっちゃった」
 周は体格も大きいので、どうせ朝には畳むのだしということで、せめてゆっくり眠れるようにと冰がキングサイズを希望したのだ。
「ふかふかだね! これならよく眠れそう」
 冰は早速寝転んで笑顔を見せているが、周からすればやはり不憫な思いをさせていることに胸が痛んでしまう。
「冰、すまねえな。苦労を掛ける……」
 言葉通り申し訳なさそうに視線を翳らせた周の手を取ると、穏やかに微笑みながら冰は言った。
「ううん、苦労だなんて思わないよ。俺は白龍と一緒にいられることが何よりの幸せだもん。そりゃ確かに汐留のお邸と比べちゃえば小さなお家だけどさ。俺にとっては今までが豪勢過ぎただけで、本当だったら俺、日本に来て一人で暮らしてたらもっと小さい家に住んだと思うし、きっと不安だらけだったよ。今は真田さんと白龍が一緒なんだもん。それこそが何よりの贅沢だよ!」
「冰……」
「それに、紫月さんたちが就職先までお世話をしてくれたんだもの。職を探す手間がないだけですごく有り難いよ!」
 思えば冰は育ての親である黄老人が亡くなってから単身で日本にやって来たわけで、周に会ってこれまでの礼を述べた後は職探しをする心づもりでいたわけだ。その時の不安は相当に大きいものだったという。だから就職先が決まっていることの有り難さが身に染みるのだそうだ。
「俺、ちゃんと働いて節約もするから! 黄のじいちゃんに家計のやりくりとかはしっかり教えてもらったもの。任せといて。それにさ、この生活に慣れたらいつかまた三人で住める家を買うこともできるじゃない?」
 今はとにかく地道に働いて、少し余裕ができたら将来の夢も描けると言ってくれる。しかも夫婦二人で住むのではなく、当然のように真田も一緒にと思い描いていてくれる。周にはそんなあたたかい気持ちが身に染みるようだった。
「白龍は明日からもう出勤でしょ? 今日は早めに寝なきゃね」
「ああ。カネがこの近所の工事現場を紹介してくれたからな。通勤時間が掛からねえのが有り難い」
「うん、近くで良かった。俺の方も歩いて行ける図書館で働かせてもらえるって。明日は紫月さんが一緒に顔合わせに行ってくれることになっててさ。仕事は明後日からだから、白龍が帰って来る頃には晩御飯作って待ってるね。お昼は食材買って来たからお弁当ね。真田さんに教わって俺も何か一品くらい作れたらいいな」
 周は道路工事の現場で働くので、冰としてはなるべく腹の足しになる弁当の算段なども思い描いているようだ。
「――冰」
 クイと肩を抱かれ、大きな懐の中へと抱き締められた。
「――すまねえ」
「白龍……。ううん、そんなこと言わないで。俺、本当にあなたと真田さんといられれば幸せだもん。三人で楽しく暮らそ!」
「ああ……。ああ、そうだな」
 腕の中の黒髪に口付けながら、周はいつまでもこの温かいぬくもりを離したくないと胸を熱くしたのだった。



◆11
 汐留、旧周邸――。
 いつも周と冰が食事を共にしていたダイニングでは、香港から来た新CEOの曹来と李、劉。そして医師の鄧の四人が顔を突き合わせていた。鄧もまた、この計画を知る実行部隊の一人である。
 主人の周がここを留守にする間、扇の要となるサポート役は多い方がいい。鄧も香港出身なので、曹や李たちとも阿吽の仲だ。これからしばらくはこの四人でツインタワーを守っていかねばならない。
 これまで家事全般を取り仕切っていた真田は抜けたものの、調理場やハウスキーパーのメイドたちはそのまま残っている。周がここを出て行く時にそうしてくれと皆に頼んだからだ。
 実のところ、いずれこの極秘任務が片付けば、周らも戻って来るわけだ。そういった意味でも家具類や使用人に至るまですべて残したまま新しいCEOの曹に明け渡すといった形を取ったわけだ。
 むろんのこと使用人らにとっても本当のことは知らされていないので、心を痛めている者もいるようだが、元主人の周からも是非にと頼まれたからには精一杯務めようと思ってくれているようであった。
「社員さんたちはほぼ全員が今まで通り残ってくれたようだな」
 朝食のパンをちぎりながら曹が言う。
「ああ。ほぼというよりも一人残らずだ。まだ社のトップが変わったことは公にはしていないのでな。各部署の部長クラスには一応伝えてあるが、皆いずれは焔老板が社を取り戻してくださると信じてくれているようだ」
 李もまたスープを口に運びながら切なげに瞳を揺らした。
「さすがに|焔老板《イェン ラァオバン》だな。周風もそうだが、弟の焔君も人望が厚い」
 曹にとって周は自らの主人の弟だ。幼い頃からよくよく知っているし、年も少々離れているので『焔君』と呼ぶのは昔からの口癖である。
「さて、この先のことだが、まずはここひと月の間にアイス・カンパニーの業績を跳ね上げることから始めるとする。既に香港のボスの方で手を回してくれている」
 これまでも社の業績は申し分ない経営であったが、敵を触発する為には曹来CEOとしての実績を示さねばならない。曹がトップに座ったと同時に、目に見えて業績が伸びれば、次なる大企業の乗っ取りに向けて敵の信頼を得られるはずだからだ。そうなればいよいよこの乗っ取りを牛耳っている中核が姿を現すかも知れない。
「これまでの調べで乗っ取り犯らが使った手口が見えてきた。ヤツらは融資を必要としながら上手く運ばない中小企業に甘い言葉で助力を持ち掛けて、膨大な額を融資した挙句に返済ができないよう追い込むことで企業ごと乗っ取るというやり方をしている」
 曹が皆に資料を手渡しながら説明を続ける。
「まずはここ一ヶ月で当社の業績を跳ね上げ、頃合を見計らって次は香港にある周ファミリー直下の五つ星ホテルをターゲットにしないかと敵に持ち掛ける。その時点でここアイス・カンパニーとホテルの経営者が周ファミリーの息が掛かった関連企業だと打ち明け、マフィアの組織そのものを手に入れたらどうだと提案するつもりだ。おそらくその時点で敵の黒幕がいよいよ姿を現すと踏んでいる」
 そこまで運べれば後は丹羽ら日本警視庁の出番だ。



◆12
「悪党共の検挙は表向き警視庁の連中に任せるが、我々は彼らとはまた別の意味で敵の息の根を止めねばならない。冗談でもマフィアの組織を囮にするんだ。調子付いて今後良からぬ考えを起こされては迷惑だからな。そちらの方は香港のボスと鐘崎組が上手く始末をつけてくださる算段だ」
 曹の言葉を受けて李と劉が意思のある表情でうなずく。
「承知した。私と劉も滞りなく計画を進められるよう邁進する。その間、焔老板と冰さんにはご苦労をお掛けするが、一日も早くここへお戻りいただけるよう頑張るぞ」
「かしこまりました! 私も李さんと共に励みます!」
「うむ、社の方は李と劉に任せるとして、焔君へは逐次現状をご報告する。その役目は鄧、お前さんに任せたい」
「いいでしょう。では私は周囲に気付かれぬよう変装にて焔老板と接触します。同時に老板たちのご健康も窺えますし」
 鄧は医師であるから、周らが慣れない生活の中で身体を壊さぬよう健康面でも気遣ってくれるという。
「ではそちらは鄧に任せた。俺の方では今日から鐘崎組の遼二が秘書として就いてくれることになっている。香港の企業に潜入した当初から俺は日本人として|曹田来人《そうだ らいと》と名乗っているからそのつもりでいてくれ。遼二の方も|金山理央《かなやま りお》という偽名を使う。名刺などは手配済みだ。遼二と共に敵幹部たちとの接触が主になるが、社の業務に関する質問などを受けた際には李と劉に対応してもらう」
 曹は経営者というよりも次なる乗っ取り先を敵に提案する役目を担うという。
「各自、密に連絡を取り合いながら慎重にやっていくぞ」
「承知!」
 こうして裏社会の男たちの計画は本格的に動き出すこととなった。



◇    ◇    ◇



 一方、周と鐘崎の方でも敵の目を欺く為の日々が始まっていた。周は早朝から工事現場で日雇い労働者として働き出し、冰もまた紹介された図書館への勤務が始まった。その間、鐘崎は曹の直近の部下という形で秘書役を演じながらも、何とか敵組織の幹部連中と対面できる機会を窺っていく。と同時に、紫月には組の若い衆と共に目立たぬよう冰らの護衛を引き受けてくれるようにと頼んだ。
「いいか? 遼の話では乗っ取り犯たちが氷川や冰君の暮らしぶりを偵察に来るってことだからな。あろうことかヤツらは企業をぶん取るだけじゃ飽き足らず、強盗にまで入るって話だ。氷川ン家には昼間は真田さんが一人だ。会社乗っ取られた上に強盗なんざ冗談じゃねえ。何があっても真田さんが被害に遭わねえよう守ってくれ。それから冰君のことも同様に見守るぞ! まかり間違って変なちょっかい掛けられねえようにしっかり見張ってくれ。何かあっても氷川は自分で対処できるだろうが、真田さんや冰君に手を出されたらいけねえ。極力気付かれねえように二人をガードするんだ」
「了解です!」
 組員らは図書館に通う清掃業者や一般市民を装ったりして、がっしりと冰の警護体制を固めていった。むろん、アパートに残っている真田の周辺にも同じように護衛が配置された。



◆13
 こうして紫月らの完璧な警護体制の下、しばらくは何事もなく過ぎていった。周は早朝から工事現場へと働きに出掛け、続いて冰が図書館へ向かう。そんな二人を送り出した後、真田は掃除洗濯と食事の支度などをしながら一人アパートで留守番の日々だ。夕方になると冰が先に帰って来て、真田と共に夕飯の支度をして亭主の帰りを待つ。
「真田さん、お味噌はこのくらいでいいですかー?」
 今晩の味噌汁は野菜をたっぷりと使った豚汁だ。
「どれどれ――、ん! 美味しゅうございますよ!」
「わ! 良かったぁ」
 二人仲睦まじく味噌汁の鍋の前で微笑み合う。
「白龍は力仕事ですもんね。たくさん栄養つけてもらわなきゃ!」
 汐留の邸と比べれば雲泥の差といえるような小さな部屋の中、それでも冰は楽しそうだ。彼にとって周と共に居られれば何もいらないというのは本心なのだろう。真田はそんな冰を見つめながら、切なくも有り難い思いでいっぱいになるのだった。口には出さないまでも、本当に坊っちゃまは良きご伴侶を得られたと胸を熱くする。真田にとってはもう思い残すことはないと思えるほどであった。
 少しすると周が帰宅、アパートの階段を登ってくる足音に気づくと、冰はまるで飼い主を迎える仔犬のようにして玄関へと飛んでいった。
「白龍、お帰りー! 疲れたでしょ? お風呂沸いてるよー」
「おう! ただいま」
 周の作業着や首に掛けられているタオルを受け取って胸に抱き締める姿――朗らかな笑顔はまるで本当に仔犬のようだ。思いきり尻尾を振って主人を出迎えるような姿が浮かんでしまう。
「白龍……ん、ホント……どんな格好でも白龍はカッコいいんだから……」
 汐留にいた時のダークスーツ姿はもちろんサマになっていたが、タンクトップにニッカポッカという今のスタイルも誠良く似合っている。逞しい筋肉の張った肩や腕はドキドキするくらい雄々しいし、無造作に首に引っ掛けたタオルでさえ男の色香をたたえている。冰は目を白黒とさせながら視線を泳がせては頬を朱に染めるのだった。
「白龍、今日は豚汁なの! 真田さんが具材たっぷり入れてくれたんだよ!」
「お味噌は冰さんが調整されましたぞ! とっても美味しいお味に出来上がりました」
「そうか――。そいつぁ楽しみだ。お前らも疲れているところ毎日すまんな」
「ううん、全然! 真田さんにいろいろ教わってちょっとずつだけど俺もお料理覚えてくのが楽しいよー」
 明日の弁当はハンバーグだそうだ。周は工事現場の仲間たちと共に昼は定食屋やラーメンが定番なのだが、十時や三時の休憩時につまめるようにと弁当持参なのだ。
 冰は料理の本を買ってきて、あれやこれやおかずを考えるのが楽しみになっているようだ。どんなに環境が変わろうと絶えないその笑顔が、周にとっては真に宝物と思えるのだった。

 風呂と夕飯が済むと、時刻はもう九時になろうという頃だ。
「明日も早いもんね。そろそろ休もうか」
 汐留の時から比べれば周の出社時刻は二、三時間も早くなっている上に体力仕事だ。疲れが取れないといけないと思い、冰は真田と一緒に洗い物を片付けると、すぐに布団を敷きにいった。
 六畳の部屋は布団以外は小さなテレビがあるのみだ。他の荷物は押し入れに詰め込まれていたが、実際は少しの着替え程度である。これまでは寝る前にバーカウンターで紹興酒を作ったり、大画面のテレビで雄大な世界の景色などを観ながらそれこそどんな寝相をしても有り余るほど広かったベッドも今はない。それでもキングサイズの布団はフカフカで、包まれると気持ちが良かった。
 常夜灯にして早速眠ろうとしたところ、周がパチリとテレビのスイッチを入れたのに驚かされた冰だった。



◆14
「白龍、眠くないの? 明日も朝早いんで……」
 言っている途中でガバリと抱き締められて唇を塞がれた。
「白……」
 テレビをつけたのは隣の真田に対するカモフラージュだったのだ。
 重ねられた唇はみるみると押し開かれて、逸るような口づけで掻き回される。馬乗りになられ押し付けられた身体の中心は既に硬くなっていて、見下ろしてくる視線は熟れたように熱い。まるで余裕のないといったこんな周は初めてかも知れない。
「白……龍……ッ」
「冰――」
「い……いの? 明日早……」
「好きだ――」

 疲れてないの? 眠らなくていいの?

 体調を気遣う気持ちとは裏腹に、怒濤のようにあふれ出した欲情が身体中を呑み込んでいく。
 よく紫月が鐘崎のことを『猛獣』だの『野獣』だのと言っているが、まさに今の周は野生の獣の如く欲の塊のようだ。腕を強く掴まれ、首筋に鎖骨にと襲いくる荒々しい愛撫が、瞬時に冰を欲情の渦の中へと引き摺り込んでいった。
「……ッ、白ッ……あ……こ、声出……」
「だからテレビをつけた――。大丈夫だ」
「う、うん……あ……ッ!」
 まるで強姦さながら、逸ったように下着を毟り取られて、冰はそれだけで達してしまいそうにさせられた。
「好き……白龍……好きッ……! もっとして――」

 そう、もっとめちゃめちゃに――犯して!

「ああ――望むまま」

 めちゃくちゃにしてやる――!

 小さなテレビからはバラエティ番組の賑やかな笑い声。
 低い天井がみるみると天高く遠のいて――この狭い部屋がまるで留めどなく広大な宇宙と化していくような感覚に陥る。

 ああ、この人の側でなら、この強く激しい愛情の中でなら、どんなことも幸せと思える。隙のないダークスーツ姿も、雄々しい作業着姿も何もかもが愛しくて仕方ない。冰は逞しい腕の中で何度も何度も高みを与えられ、昇天に果てながら欲情と至福の渦に身を委ねたのだった。

 汐留にいる時は味わえなかった感覚だった。
 日々の生活で目一杯というくらいの少ない月給、狭くて築年数が経った部屋、傍から見れば貧乏暇なしのような状況の中でも愛はとてつもなく大きく激しく強い。まさに順風でも逆風でも、病める時も健やかなる時も手と手を取り合って離さない。彼と共に居られさえすればこれ以上望むものはない。
 真の愛が二人の絆を強く強く結びつける――そんな日々であった。



◆15
 そうして半月が過ぎた頃、案の定敵の偵察部隊と思われる怪しげな男たちが周らの現状を確かめに姿を現すようになった。紫月の元に各地に就かせていた若い衆らから次々と報告が寄せられてくる。見知らぬ男が交代で、通行人を装いながら遠目から窺うだけの日が幾日か続いた後、いよいよ本格的に偵察にやって来たようだと各所から報告が上がってきていた。
『姐さん、こちら周焔さんの工事現場です。今日は男が三人ほどやって来てウロウロしています。どうも本腰入れ始めたようですね。周さんたちはこれから昼飯に向かうようですが、ヤツらも後を付けると話しているのを耳にしました』
 おそらく周らの会話が聞こえる範囲に席を取って様子を窺うつもりだろうと言う。
「分かった。お前らも客として同じ店に入り、ヤツらの動向を見張ってくれ」
『了解です!』
 その後、昼食が済むと、男たちが図書館へと移動したという連絡が入った。真田のいるアパートの方は無事だそうだ。
「今度は冰君の偵察か。そいつらが偵察部隊で間違いねえようだな。撮影班は気付かれねえようにしっかりヤツらのツラを画像と動画に残してくれ。後で捜査一課の丹羽さんに提出して、顔認証と歩様認証の資料に使ってもらうからな。俺もすぐに図書館へ向かう!」
『了解!』
 冰に何かあっては一大事だ。紫月は用意していた変装に着替えると、すぐさま図書館へと向かったのだった。



◇    ◇    ◇



「よ! ご苦労。様子はどうだ?」
 見張りについていた若い衆はポンと後ろから肩を叩かれて、その声で自分たちの姐である紫月が到着したことを知った。植え込みの陰に身を潜めながら、未だ敵の方に視線にくれたままで報告の言葉を口にする。
「今のところ動きはありません。図書館に来た客を装って三人共おとなしくしてますわ」
 そう言って後ろを振り返った途端に、
「おわッ!」
 ギョッとしたようにすっとんきょうな声を上げた。それもそのはずである。やって来た紫月の格好が驚くような姿だったからだ。
「あ、姐さんッスか? どうしたんです、そのカッコ……!」
 若い衆らが驚くのも無理はない。そこには一目でチャランポランだと思うような派手な出立ちの紫月が立っていたからだ。
 今は秋の終わり、この寒空だというのにシャツの襟をガバっと開けた際どい胸元、首にはいかにもなぶっとい金のネックレス。髪はといえばテカテカというくらいグリースが塗りたくられており、オールバックのように後ろへと流している。真っ黒なサングラスはどう見ても安物だが、紫月がしていると何とも艶めかしい。それはまあいいとして、手には大量のピンクチラシの山。
「な、なんちゅー格好ッスか……。つか、それどうしたッスか?」
 ピンクチラシを凝視しながら目を丸くしている。
「イケてるべ? 駅前の銀ちゃんの店からさ、チラシと衣装借りて来てたんだ」
 銀ちゃんの店というのはオネエ様方のキャバクラだ。そこのボーイから衣装を調達してきたらしい。普段から治安警備も兼ねて鐘崎組が何かと助力をしている馴染みの店である。
「変装の服借りる礼にさ、チラシ配りに貢献しようと思って! ついでにヤツらを威嚇しといてやれば、今後はそうウロチョロしねえだろうからさぁ」
 敵の三人を顎で指して笑う。
「はぁ、ご、ご苦労様ッス……」
 普段からフレンドリーで気のいい姐さんだが、それにしてもこんな格好を若頭の鐘崎が見たらなんと言うだろうと、眉根がヒクヒクと動いてしまいそうだ。



◆16
「で? ヤツらの様子はどうだ? 冰君にちょっかいなんか掛けてねえだろな」
 仕事の話になったと同時に鋭い視線を滾らせる。このあたりの切り替えぶりはさすがに極道の姐である。若い衆も思わずピンと背筋を伸ばして緊張の面持ちとなった。
「はい! そっちの方は心配ないッス。ヤツら、一応客のフリしてますから、本を選ぶような素振りが白々しいッスけど、冰さんには声を掛けちゃいません。ただジロジロ見てるんで、様子を窺ってるのは間違いないッスね」
「了解。んで、写真の方は撮れた?」
「はい、バッチリっす! けどアレですね、詐欺集団なんていうからもっとヤバそうな連中かと思ってたッスけど、見てくれは意外と普通ッスね。正直俺らとは畑が違うってーか、エリート集団って感じしますけど」
「なるほど、エリート集団ね。んじゃ、ちょいとカマ掛けてみっか」
 紫月はそう言うと若い衆の一人に手にしていたピンクチラシを半分分けて、ついて来いと目配せした。
 この辺りは一見閑静といえるが、少し歩けば駅近くの繁華街に出る。人通りもそれなりに多い。夜の商売のビラ配りをしていたとて特に不思議はないのだ。
 紫月は若い衆と共に通行人にビラを撒きながら敵が出てくるのを待った。
 しばらくすると三人が図書館から揃って出てきた。先程聞いた話の通りで、なるほどエリートサラリーマンといった雰囲気である。紫月はわざと彼らに背を向けながら、通行人らにビラを手渡してはウロウロとガラの悪い素振りで歩き始めた。
 ――と、そこへ通り掛かった三人の内の一人が、すれ違い様に肩をぶつけてきた。というよりも、わざと向こうからぶつかったような形に追い込んだのは紫月の方だ。ドスンと肩と背中が触れ合い様に、手にしていたピンクチラシの山を派手に道路へとぶち撒ける。むろんのこと、これもわざとである。
「おわッ! っ痛ってえな! 何しやがる!」
 極力品のない態度で紫月は男らに睨みをくれた。
「す、すみません……失礼を……」
 ぶつかった男は紫月の出立ちから、あまり関わりたくはない類の人間だと咄嗟に判断したようだ。存外素直に詫びの言葉を口にしてみせた。ところが紫月の方では到底許せまいとばかりに肩を鳴らして凄み掛かっていく。
「よー、どうしてくれんだって! こちとらでーじな商売道具をぶち撒かれたんだぜ! どう落とし前つけてくれんだ」
 路上に散乱したピンクチラシを指差しながら凄んでみせる。
「も、申し訳ありません……あの、す、すぐに拾います!」
 男たちは慌ててばら撒かれたチラシを拾い出したが、紫月の方は更に畳み掛けるように文句を並べてみせた。
「ごめんで済みゃケーサツはいらねえよなぁ。ちらし刷んのだって銭が掛かってんだ! ちゃーんと全部回収してくれよ!」
「は、はい! 申し訳ありません!」



◆17
 どうやら三人が三人共、こういった雰囲気には慣れていないようだ。紫月の側には強面の若い衆も居るし、どうにか絡まれないようにしようと必死でチラシを拾い集めている。その間、誰もがうつむき気味でいて、紫月らとは極力視線を合わせたくないといった感情が窺えた。
 そうして三人はほぼすべてのチラシを拾い終えると、未だ視線を合わせないまま土下座の勢いで紫月にチラシを差し出してきた。
「も、申し訳ございませんでした……」
 それ以上は言葉にならないようだ。
「まあ今日のところはこれで勘弁してやらぁな。これからは気を付けろよ!」
 わざと凄みをきかせてそう言うと、男たちは蒼白なまま逃げるようにその場合を後にして行った。どうやら駅へと向かうようだ。その後ろ姿を見送りながら、
「よし、後を付けてくれ。帰ると見せ掛けて真田さんの方へ向かうかも知れねえから、俺はアパートへ先回りする!」
 紫月は若い衆らにそう頼むと、急ぎ真田のアパートへと向かった。ところが先程の脅しが効いたのか、彼らがやって来る気配はないようだ。
 少しすると追跡部隊から連絡が入って、男たちはそのまま駅の改札をくぐったとのことだった。
『姐さん、どうやらヤツらは素直に帰るようです。そっちはどうです?』
「ん、真田さんの方は異常なしだ」
『では我々はこのまま追跡します。ヤサが掴めたらまた連絡入れます!』
「おう! 世話掛けて済まねえが頼む」
 そのまましばらくアパートを見張ってから、紫月も事務所へと引き上げた。



◇    ◇    ◇



 彼らを尾行していた若い衆らから連絡が来たのは、それから一時間ほど経った頃だった。
『姐さん、こちら追跡部隊です。ヤツらのヤサを突き止めました。三人共、あのまま電車で帰って来ましたから、おそらく下っ端連中だったんでしょう。青山の、何とも豪勢なマンションの一室に入って行きましたぜ。今しがたヤツらと一緒に別の男が一人出て来て、今度は車で何処かへ向かうようです。我々はここを張る組とタクシー拾って追い掛ける組と二手に別れます。それから、ヤツらの会話を録音したので送ります。電車の中なんで聞きづらいところがあると思いますが、面白い話をしてくれてましたぜ! それじゃ、また報告させてもらいます』
「オッケー。ご苦労だったな」
 紫月は録音を受け取ると、引き続き組事務所で続報を待つことにした。
「どら、面白え会話ってのを聴いてみるか」
 早速に送られてきたボイスメモを再生する。確かに雑音が酷いが、話している内容自体は聴き取れた。

『……ったく、冗談じゃないってのよ! 何なんだあの街は!』
『あんなガラの悪いヤツらがウヨウヨしてるとは思わなかったぜ』
『ホント! ヤバかったよな。あいつら、堅気じゃないだろ。あの辺りのヤーサンか?』
『ヤーサンってよりはチンピラだろ? 派っ手な格好しやがって!』
『しかもセンス悪ッ! あれで格好いいと思ってんのかね?』
『そうじゃね? 超ダサいってのが分かんねえのかね?』
『けど、アレだよな。実際あれ以上絡まれなくてホッとしたけどさ。正直、もうあそこの巡回は勘弁してもらいたいよな』
『まあな……。またあんなのに絡まれるなんてぜってー御免だよ! 街の治安が悪過ぎる!』
『中橋さんには何て言う? あの連中は生活に必死って感じだったから心配は要らないって報告しとかねえ?』
『ああ、それがいいな。実際、社長の方はドカタの日雇いやってるくらいだし、会社取り戻すどころの余裕は全然無いように見えたしな』
『秘書の方も図書館勤務だろ? 気も弱そうなヤツだったし、あれじゃ報復で会社取り戻すなんて脳はねえって』
『そうそう! 爺さん婆さん相手にニコニコしてよー。親切な方だとかって褒められてたじゃん。商社にいるよかよっぽど似合ってるって感じ』
『よく今まであんなデカい商社のトップでいられたもんだ。そっちの方が不思議!』
『案外アレじゃね? 表向きは立派に見えても、中はカツカツだったのかも』
『だな! そんじゃ、あそこは心配ねえってことで中橋さんに伝えようぜ!』
『ああ、そうしよう』

 どうやら降車駅に着いたようだ、ボイスメモはそこで終わっていた。



◆18
「は、なるほど面白えこと抜かしてくれて!」
 紫月は苦笑ながらも思惑通りに運んだことに笑みを浮かべた。これで頻繁に様子を探りに来ることもなくなるだろう。それにしても、冰は相変わらずに優しい性質のようだ。彼らの会話にもあったように、図書館に来る老人たちにも親切に接しているのが窺える。そんな彼のことを思えば、できることは何でもして力になってやりたいと思う紫月だった。

 しばらくすると再び若い衆から報告がきた。追尾中のタクシーの中からのようで、今度は電話でなくメッセージで届く。

『姐さん、どうやらヤツらは汐留方面へ向かっている様子です。もしかしたらアイスカンパニーへ行くつもりかも知れません』

「……汐留だって? 野郎……早速乗っ取った社で我が物顔かよ」
 一連の出来事が囮だとは知らない紫月は腹立たしさに拳を握り締める。すぐさま鐘崎へと知らせることにした。
「遼、俺だ。ついさっき例のヤツらが氷川と冰君を探りにやって来た。うちの若いのが後をつけてくれて、ヤサのひとつを掴めたようだ。その後すぐに汐留方面へ向かったって話だから、もしかしたら乗っ取ったアイス・カンパニーに行くつもりなのかも!」
 紫月は鐘崎がその汐留の社長室にいるなどとは夢にも思っていないので、とにかくは偵察部隊が現れたことを報告する。
「ヤサは青山のマンションだそうだ。そっちにも若い連中が張り込んでくれてっから!」
 もしも合流できるようならしてやってくれと伝える。
『分かった。ヤサが掴めただけでも大手柄だ。よくやってくれた』
「そいから……ヤツらの映像も撮れたから!」
 今から送ると言ってパソコンを立ち上げた。
『了解した。俺はこれからその映像を持って丹羽に届ける。青山のヤサの方は――足労だが引き続き若いヤツらに張っておいてもらってくれ』
 鐘崎の立場からすればそうとしか言いようがない。紫月のことまで騙しているようで胸が痛むものの、これはシークレットミッションゆえ忍耐どころだ。
『おめえもご苦労だったな。俺の方は今夜もちょっと遅くなるやも知れん。丹羽に会ったら青山のヤサの方へも回ってみる』
「うん、了解。遼も気ィつけてな!」
『ああ、さんきゅな紫月』
 鐘崎からは、後は上手くやると言って通話は切られた。手元の時計を見れば夕刻である。
「さて……と。そろそろ氷川たちも仕事上がる頃だな。んじゃ、俺ん方は冰君迎えに行きがてら氷川に報告しとくか」
 紫月は紫月で、周らとの連携を取るべく事務所を後にしたのだった。



◇    ◇    ◇



 その頃、汐留では鐘崎が紫月から受けた知らせを曹へと報告していた。
「周焔の暮らしぶりを偵察にやって来たヤツらをつけて、ヤサのひとつを突き止めたそうです。汐留方面へ移動しているようですから、今からここへ報告にやって来るのではないかと」
「ご苦労だったな。これでここ日本で動いている敵の一部とコンタクトが叶うだろう」
 これまで曹が会ったことのある相手は、すべて香港を拠点に動いている連中だった。最初に潜入した先が香港で乗っ取られた企業だったからだ。
「実際に乗っ取られた企業の数という点ではアジア圏で一番多いのがここ日本だ。香港や台湾でも引っ掛けられてはいるが、日本と比べればごく少数だ。我々はおそらく敵の本拠地はここ日本にあると見ている」
「そうですね。被害の数でいえば日本がダントツだ。ということは敵の中枢は日本人の可能性が高いということでしょうか」
「まだ断定はできないが、それも今から来るだろうヤツらと会えばおおよその見当はつけられるかも知れない。遼二、隠しカメラの方はどうだ?」
「万全です。映像、音声共に気付かれることなく収集できるよう李さんと劉さんが準備してくれています」
「よし。では我々は可能な限り敵中枢に関する情報を聞き出すとしよう。遼二、頼んだぞ」
「承知!」
 しばらくすると受付から面会希望の知らせが届いた。いよいよ敵との対面である。



◆19
 応接室にやって来たのは三人の男たちだった。内二人は紫月から送られてきた画像にあった人物だ。周と冰を偵察に来た者だろう。もう一人は見ない顔だったが、他の二人が丁寧にしているところを見ると、この男が上役なのだろうことはすぐに察しがついた。一目で信用に足りないような悪人面かと思いきや、見た目だけでいえば案外常識がありそうな普通のサラリーマンといった雰囲気で、一応のところは丁寧な態度を装っているようだ。
「どうも、初めまして。あなたが曹田さんですか?」
「ええ、曹田来人です。こちらは秘書の――」
「金山理央です」
 曹来は曹田来人、鐘崎は金山理央、当然のことながら偽名である。相手の男も「中橋です」と名乗った。
 中橋――ということは、先程紫月からの情報にあった『中橋』当人なのだろう。偵察組の三人が『中橋さんに報告する』と話していたことだし、まずまずの立場であることは間違いない。曹は彼ら三人にソファを勧めると、太々しいくらい堂々とした態度で自らも対面に腰を下ろした。
「どうです、この社は。なかなかのものでしょう」
 乗っ取りに成功したのは自分の手腕だとばかりに不適な笑みを見せる。そんな曹に中橋と名乗った男たちも一目置いている様子だ。
「ええ、大したものですね。まさかこんな大企業の乗っ取りを本当に成功させてしまうとは……我々のボスも驚いていましたよ」
「それは光栄」
 曹はフフンと薄く笑いながら、余裕の仕草で煙草に火を点けては堂々と脚を組んでみせた。
 中橋も中橋で、負けず劣らずの高飛車な態度ながらも、ここを乗っ取った曹の手腕にだけは素直に感心しているふうだ。
「今さっきウチの連中がここの社長だったって男の生活ぶりを視察してきたんですがね。社長は日雇い労働者として工事現場で働いているって話です。秘書の方は図書館勤務だとか。しかしアレですな、こんな大きな企業の社長なんていうからには、なにも日雇いで働かなくたって当座暮らせる現金くらいは持ち合わせていると思ってましたけどね」
 中橋はそこのところだけは胡散臭いと首を傾げている。曹は曹で、何をぬかすとばかりに腹の中では苛立ちを募らせる。当座暮らせる余裕ぶりを確認すればしたで、強盗に入るつもりなのだろうと思うとはらわたが煮え繰り返る思いがするからだ。だがそんな思いは微塵も見せずに相変わらずに余裕の態度で、クスリと笑ってみせた。
「大企業のトップといえど、皆が皆金持ちとは限りませんよ。社を運営している内はそれなりに自由も効くでしょうがね。裕福そうに見えても実際は株を所有しているだけで、いざ社から離れれば個人的に自由になる金があるとばかりは言い切れない。私はね、ここを乗っ取る時にそういった資産の状況まできちんと調べ上げていますからね。まずは彼らが何とかして社を守り通そうと、所有していた私財をすべて手放した頃合いを見計らって畳み掛けたわけです。当然箪笥預金なども残っていないはず。日雇いで働いていたとして特に驚きはしませんね」
 逆にそれで当然でしょうと言って微笑む。中橋には今一理解できないわけか、僅か戸惑ったような顔つきでいたが、一応は納得したように調子を合わせてよこす。察するにこの男はさほどこういったことに詳しくはないのだろう。彼がボスという男に指示されて動いているだけなのは明らかと思われる。



◆20
「まあ……でも実際こうやって乗っ取っちまうんだから、あなたは大したものですよ。ボスも驚いていましたし。それに、ここひと月の間に業績も目に見えて上がっているそうじゃないですか。いや、ホントに恐れ入りますわ」
「ふ――お褒めにあずかって光栄ですがね。これからももっともっと業績を伸ばしてみせますよ」
 曹は冷笑ながらも煙草をひねり消した。
「ところで曹田さん、あなたのことだ。ここを乗っ取っただけでご満足しているとも思えないとボスも言ってるんですがね――」
 もしかして次の計画などもお有りかといったように中橋が身を乗り出す。曹と鐘崎にとっては予定通りの運びだ。
「次の計画――ね。まあ考えていないこともありませんがね。しかしまだここを手に入れたばかりですからねえ。もうちょっとこの社を成長させてからでもと思っているのですがね」
 曹はわざと焦らすようにそんなことを言ってみせる。
「まあそう焦らさんでくださいよ。あなたほどの腕の持ち主なら、もう次のターゲットを決めてあるんじゃないかって、ボスも期待していらっしゃるんだ。できればその期待を裏切らないでもらいたいモンですな」
「期待――ね。光栄なことですね。まあ考えていないこともないですが、そう先を急いでも事をし損じるというものでしょう」
「……そんなことおっしゃらず!」
 何か案があるならとりあえずそれだけでも聞かせて欲しいと中橋は急っ突いてくる。曹はニヤっと口角を上げながらも、わざと出し惜しみする態度を見せた。
「そこまでおっしゃるならひとつ案だけでもお話ししておきましょうか」
「ええ、是非ともお聞かせ願いたいですな」
「そうですか。では――まだ案の段階ですが、次は香港にある企業を狙おうかと考えております」
 それを聞いた中橋がクイと眉根を寄せた。
「香港――ですか」
「ええ。ひとつなかなかにいい物件がございましてね」
「はあ……」
 中橋は、どうもあまり期待にそぐわないといった顔つきでいる。
「おや、あまりご興味ありませんか?」
「いや、そういうわけじゃ……。ただ……」
「――何です?」
「……実はウチのボスとしては海外じゃなく、次もここ日本の企業を手に入れたいと考えていましてね」
「ほう? 海外にはご興味ないと――?」
「そういうわけじゃねえですが……」
「でもあなた方が最初に手を付けられたのは香港や台湾の企業だったはずでは? 私自身、あなた方とご縁をいただいたきっかけは香港の企業でしたよ?」
 曹がカマを掛けると、中橋は少々焦ったわけか、こちらにとっては都合がいい内情のようなものを暴露してくれた。



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