極道恋事情
◆21
「ああ……まあそうですけどね。実は香港や台湾は試験的な意味で手を付けただけでして、我々のボスの考えではここ日本で本格的に事業を展開していきたいという方向です。ですから……できれば次も、というより今後本格的に狙っていくのは日本国内の企業が好ましいのですが」
「――おや、そうですか。国内の企業ね」
さて、困った成り行きになった。計画では香港のファミリーが経営する五つ星ホテルをターゲットにする予定だったからだ。実のところ、日本国内ではここアイス・カンパニーの他はこれといって囮にできる伝手はないし、仮に事の全容を明かしたとしても囮として協力してくれるような企業は思い当たらない。
とはいえ、ここで困った素ぶりを見せれば今までの計画が水の泡だ。曹はとりあえず平静を装いながら余裕の態度をしてみせた。
「お考えは分かりました。では日本国内でまた目星をつけるといたしましょう。ただし少々お時間をいただきますよ。何せ私が目をつけていたのは香港の企業でしたからね。鞍替えするにもそう急にとはいきませんよ」
「結構です。まあとにかくこの社を乗っ取れただけでも大手柄です。当分はここの業績を上げることに専念してもらいつつ、次のターゲットのことも念頭に置いてもらえればと――」
「いいでしょう。考えておきますよ」
とにかくは面会を終え、中橋らは社を後にしていった。
残された社長室では曹と鐘崎が頭を抱えていた。
「さて、困ったことになったな。まさか日本の企業を狙えと言ってくるとはな」
「ということは――敵にとって一連の企業乗っ取りは単に金目当てというだけではないということでしょうか?」
「――かも知れないな。ただ金を儲けるだけなら、ターゲットが国内であろうが海外であろうが構わんはずだ。ヤツらには何か別の目的があるのかも知れんな」
「とりあえず紫月から報告のあった青山のヤサをもう少し重点的に探ってみましょう。さっきの中橋ってヤツは敵のボスとも割合近い間柄のようですし、もしかしたらいずれボスというのと接触するかも知れません」
「そうだな……。そっちは鐘崎組に任せるとして、我々はここアイス・カンパニー以上の大企業を探さねばならん」
これは難儀だぞと、さすがの曹も苦い顔つきだ。囮になってくれるような企業に伝手が無いのは事実だし、香港ならばともかく日本で――となると、顔が効く範囲も限られてくる。
「それについては親父とも相談して、ターゲットに協力してもらえそうなところを探すしかありませんね」
鐘崎は本拠地住まいの立場から、ここは自分たちが中心となって対処すべきと思っていた。
◆22
計画が一転、少々窮地に陥ったものの、何とその日の内に事態は急速好転することとなる。一旦組へと戻った鐘崎を訪ねて来た人物がいたからだ。
なんと、それは日本のみならず世界的にも名だたる大財閥の御曹司、粟津帝斗であった。彼は周の社のトップが変わったらしいことを聞きつけて、実際のところはどうなっているのだということを気に掛け、幼馴染の鐘崎に事情を窺いにやって来たとのことだった。
「粟津――!」
「遼二! 紫月も久しぶりだねえ。ああ、そうそう! これは紫月への差し入れさ」
驚くほど大きなケーキの箱を差し出しながら朗らかに微笑む。察するに立派なホール状の特大ケーキが入っているに違いない。彼の言うには自分たちの経営するホテルラウンジの物だそうだが、カットする前のホール状のままの物を持ってきたらしい。
「うわ……すげえデカさ……! 結婚式ばりのケーキじゃねえの」
紫月が目を白黒とさせている。
「お前さん方の組では若い衆も多いと思ってね。切り分けるのが手間だけど、まあそこは適当にやっておくれ」
相変わらずの王子気質は見ている方の気分も鷹揚にするほどの大らかさだ。さすがの周の社でも粟津と並べてしまえばすっかり霞んでしまうくらいの大財閥――そこの御曹司とくれば少々浮世離れしていてもそれが普通なのかも知れない。
「今日寄せてもらったのは汐留にある周焔の社のことで尋ねたかったからさ。僕は周焔とはお前さん方を通して知り合ったわけだからね。直接本人を訪ねても良かったんだけど、いきなり携帯にかけるのも憚られてね。まずは遼二に訊いた方が早いと思ってさ」
粟津家の本拠地は東京丸の内にある。むろんその他にも大手町や日本橋をはじめとした都内全域や日本国内各所のみならず海外にも散らばっているわけだが、本社というのは丸の内だ。汐留とは目と鼻の先である上、企業家同士の付き合いとして周の社のこともむろん知っているし、鐘崎らを通して周自身とも何度か顔を合わせている間柄だ。そんな周のアイス・カンパニーの噂を聞きつけて、事情を窺いにやってきたとのことだった。
「社のトップが入れ替わったと聞いたけど本当なのかい? 僕は周焔のことはそう深く知っているわけじゃないが、彼がトップを降りるなんて余程のことがあったんじゃないかと思ってね。お前さん方なら何か知っているんじゃないかと思ったわけさ」
ちょうど組長の僚一も在宅だったので、彼とも相談し、鐘崎はすべての事情をこの帝斗に打ち明けることにした。
「なるほど。そんな事情があったわけかい。それを聞いて納得したよ。まさかあの周焔が経営をしくじるわけもないと思っていたからねえ」
帝斗は合点がいったとばかりに安堵すると共に、それなら自分たちも是非協力させてもらえないかと言ってくれた。
◆23
「今の話だと次なるターゲットは日本国内の企業を狙いたいというわけだろう? だったらウチが一肌脱ごうじゃないか。正直なところ、我々の子会社がお付き合いさせていただいている企業も例の詐欺集団に引っ掛けられたところがあると聞いている。このまま放置すれば、この日本の経済にとっても悪影響を及ぼし兼ねない。悪の芽は早い内に摘むが得策さ」
鐘崎らにとっては願ってもない申し出だが、万が一にも粟津財閥に迷惑が掛かるようなことがあってはならないと、そこだけは危惧されるところだ。
だが帝斗は朗らかに微笑んでみせた。
「なに、心配はご無用さ。お前さん方が周焔の社を囮に使ってまでぶっ潰そうという意気込みなのだろう? だったら僕も安心して協力できるというものだよ。それに――これは我が国の経済にとっても重要な問題だ。悪の根が地中深く張る前に刈り取らなきゃ将来が危ぶまれるというものさ」
帝斗は周ファミリーと鐘崎組に絶対の信頼を置いているからこそだよと言って笑った。
帝斗の父への事情説明には改めて組長である僚一自らが赴くことにし、鐘崎らは曹と共に具体的な運び方を相談することに決めた。粟津財閥がターゲットであれば敵からの文句は皆無だろう。というよりも、相手が大き過ぎて尻込みするかも知れない。どちらにしても慎重を期する。一同、気を引き締め直して準備に取り掛かることとなった。
次の日、鐘崎は汐留に出向いて早速に曹へと報告を入れた。
「そうか、粟津財閥にご協力いただけるならこれ以上ないことだな。当初我々が計画していた――香港の周ファミリーのマフィア組織を囮に使う必要も無くなったことになる」
「そうですね。敵も粟津の名前だけで文句はないでしょうし」
「どのみち粟津財閥に迷惑を掛けるような火種を残してはならない。マフィアの組織を囮に使うも大財閥を囮にするも、後々のケアは完璧にしなければならんからな」
「そちらの方は当初の予定通り、うちの親父と周焔の親父殿が始末をつけてくれるそうです。我々は警視庁の丹羽と連携して、敵組織を頭から末端まで刈り取る方に専念しろとのことです」
「香港のボスや遼二のお父上にもご足労をお掛けして申し訳ないが、俺たちも刈り残しがないように神経を尖らせるとしよう」
「はい――」
一方、曹らと面会を終えた中橋の方では、曹や鐘崎らの思惑とは少々違った企てが話し合われていた。次は香港の企業をターゲットにするつもりでいるという曹の話を中橋が上へと報告したのがきっかけとなったようだ。青山のマンションに戻り、リモートで交信中だ。相手は今回の企業乗っ取りの中心人物、つまりは中橋のボスであった。
◆24
「――ふん! 香港なんぞに用はないさ。アイス・カンパニーを乗っ取った手腕は大したものだが、正直なところあれほどの企業が手に入ればそろそろ我々も本題に取り掛かってもいい頃合いだ」
「では別の企業の乗っ取りはとりあえず必要ないということですか? あの曹田とかいう男の申すには、少し時間をもらえれば日本国内で新たなターゲットを見繕うということでしたが」
「ふむ……。その曹田だがな――元はと言えば香港や台湾の企業の株をかなり所有しているとかで我々の計画に乗っかってきたらしいが、正直なところ胡散臭いのも確かだ。これまではトレーダーで稼いできたと聞いているが、得体の知れないところがある。あまり深入りするとこちらが危険になり兼ねない。アイス・カンパニーが手に入った時点で計画としては充分とも言える。早いところ本筋を実行に移して、曹田を追い出すことも考えた方がいいだろう」
曹はこれまでのところ一切の素性を明かしてはいなかったわけだが、実際はマフィアの時代継承者の第一側近である。いかに素性を隠しているとはいえ、纏っている雰囲気がただならぬものを感じさせてしまうのだろう。鐘崎についても印象的には同様のようだ。
「その点については私も同感です。あの曹田にやらせておけば今後も金儲けという点では期待できそうですが、今日会った感じだとその内に我々を出し抜いて金を独り占めしそうな雰囲気も感じられましたし……。秘書の金山とかいうのも――外面は丁寧でしたが、体格もいい上に強面というか……。二人の様子から昨日今日知り合った仲というわけでもないようでしたし、これまで何で食ってきたのか掴めないような雰囲気を感じました。あなたのおっしゃるように早いところ本筋の計画を実行した方がいいかと」
「やはりお前もそう感じたか……」
「実はそのことでちょっといい案があるんです。昨日、下の連中をアイス・カンパニーの元経営者たちが現状どうしてるかと偵察にやったんですが、使えそうな男が見つかりました」
「使えそうな男だと?」
「ええ。あそこの社長は確か氷川とかいいましたよね? そいつの方は論外ですが、従弟で秘書だった雪吹とかいう野郎がどうも都合よく使えそうだって話なんです」
「――と言うと?」
「ヤツは今、川崎の図書館に勤めているようなんですが、その雪吹ってのがえらく優男らしく、あれなら拉致するのも簡単じゃないかと偵察に行った連中が口を揃えています。社長の氷川は日雇いで工事現場にいるようですが、それこそ体格も良く、雰囲気的に図々しいというか……腕っ節も強そうに思えたとか。ですから雪吹って秘書の方をとっ捕まえてくれば、計画もスムーズにいくと思うんですが」
「雪吹か――。本当に簡単にいきそうなのか?」
「ええ。社長の氷川に比べれば華奢なようですし、性質も優しいと言えば聞こえがいいですが、要は弱っちい雰囲気の男だそうです。あれなら男を三人も向かわせれば簡単に拉致できそうですぜ」
「――そうか。まあこのままズルズルしていて曹田にデカい顔をされない内に計画を進めた方が無難だろうな。では早速実行に移すとするか」
「じゃあこっちでは実行部隊を用意しときます」
彼らの言う本筋の計画とはいったい何か――未だそれを知らぬ鐘崎らにとって、新たな苦難に直面しようとしていた。
◆25
その鐘崎の方では、粟津財閥の囮化に備えて準備を進める傍らで、中橋という男らについての調査も並行していた。
青山のマンションは突き止められた。あとは中橋以下、連中がこれまでどういった人生を歩んできたのかということを洗い出す必要がある。警視庁の丹羽とも連携して調査が進められていった。
その結果、割合容易に彼らの素性が明らかになってきた。丹羽がこれまで入手できたことを報告する。
「まずは中橋という男だが――フルネームは中橋鉄也。ヤツの両親は先代から続く町工場を経営していて、中橋自身も役員としてそこで働いていた。ところが十年前に経営が立ち行かなくなって倒産、両親はそれを苦に無理心中で亡くなっている。その後はネットでブランド品などを販売して生活しているようだが、詳しく調べたところ偽物も相当数混じっているようだ。というよりも偽ブランド品を流して荒稼ぎしているというのが実情だ」
丹羽の報告に鐘崎と曹は眉根を寄せた。
「偽ブランド品で荒稼ぎ――か」
「ところがもっと奇妙な事実が出てきたぞ。その中橋とツルんでいると思われる手下連中だが――」
「ああ……先日、氷川と冰を偵察に来たって連中か?」
「そうだ。その三人を調べたところ、中橋と境遇がよく似ていることが分かった」
つまり、偵察にやって来た三人も中橋同様、両親が中小企業の経営者で、しかも倒産もしくは買収されるなどして社を手放す事態に追い込まれていたというのだ。
「……どういうことだ。ヤツら全員が同じような境遇だってのか?」
「とすると――彼らのボスというのも、もしかしたら似た境遇の持ち主だということかも知れんな」
丹羽はその線でボスなる人物を洗い出している最中だと言った。
「中橋ら四人が四人とも親の経営していた会社が倒産などで辛酸を舐めたということは、おそらく同じ境遇の者が集まっている可能性が高い。特に中橋はそれがきっかけで両親が心中している。自分たちを倒産に追い込んだ者を恨んでいたとしても不思議はない」
「つまり、今回の企業乗っ取りは金儲けが目的ではなく、自分たちの親が被った倒産や買収という同じ方法で世間に復讐しているというわけか?」
「断定はできないが、可能性としては有り得るな。彼ら四人の他にもまだ仲間がいるかも知れん」
丹羽の方ではその線で調査を進めるとして、鐘崎と曹は中橋を通してボスという人物に接触する機会を急ぐことになった。
「では遼二と俺は早速に粟津財閥の件を中橋に報告して様子を見るとしよう」
「頼んだ。我々警察の方でも何か分かり次第連絡を入れる」
こうして鐘崎らが中橋にコンタクトを取ったところ、粟津財閥を標的にすると聞いてさすがに驚いたようである。
◆26
「粟津って……あの粟津財閥ですか? いや、ちょっと待ってください。曹田さん、いくらアンタの腕がいいといっても、いきなりそんな大物をターゲットにしようとは……少し安易過ぎやしませんかね」
中橋はたじろいでいる様子だ。曹は一気に畳み掛ける手に出た。
「ええ、確かにおっしゃる通り今度の相手は超がつくほどの最大手です。我々もこれまで以上に本気で掛からねばなりません。そこで中橋さん、よろしければあなたのボスにお会いして、直にご相談しながら進めたいと思うのですが――」
そう打診すれども、中橋からは即答出来かねるとの返事が返ってきた。となれば、やはり丹羽ら警察の調査を待つしかないか――。曹はとにかく一考賜りたい旨を伝えて様子を見ることにした。
通話を切ってふうと軽い溜め息をつく。
「どうも我々との接触に前向きとは思えんな。粟津財閥のような最大手と聞けば、一も二もなく飛び付いてくると思っていたんだが――」
「そうですね――。ここアイス・カンパニーの業績も著しく伸びていることですし、ある程度満足したのでしょうか……」
「順調に行き過ぎているんで、逆に不安になっているのかも知れないが――」
とにかくは中橋らの出方を待つしかない。鐘崎と曹にとっては、このままズルズルとしていて周に不便を強いるのは本意ではないが、現段階では動きようがないのも確かだ。忍耐の時が続いた。
丹羽から新たな報告が上がってきたのはそれから数日後のことであった。中橋らのボスに当たるだろう人物をある程度絞り込めたとの朗報である。
それによると、丹羽らが洗い出したその誰もが企業経営者の子供たちで、親の会社が乗っ取り等に遭っている者たちだそうだ。中でも一番目を引いたのが大手の税理士として活躍していた丸中事務所というところの息子だという。
「名は丸中拓実、四十二歳だ。彼の家は曾祖父の代から税理士事務所を経営していて、その業界では名だたる最大手といえたんだが、二十年前に担当していた企業の債務を被って事務所を畳む羽目に追い込まれている。息子の拓実は当時二十歳の大学生だったが、某有名大学にストレートで入学し、学内でも首席だったようだ。非常に頭の切れる男で、経済学はもちろんのこと法学にも精通していて、将来は税理士として事務所を継ぐ予定だったそうだが検事や弁護士でも食っていけるだろうにと言われていたそうだ。その辺りは学友たちから証言が取れている」
ところが突然の事務所閉鎖で状況は一変、多額の借金を抱えて生活苦に陥り、両親の夫婦仲も破綻して離縁。息子の丸中拓実は父親に引き取られたそうだが、学費が払えずに大学は中退せざるを得なくなり、程なくしてその父親も病で他界したそうだ。拓実にとっては将来の夢もろとも全てを失ったわけだ。
「事務所を畳む原因となった企業の負債だが、丸中に落ち度はなく、実際には嵌められたらしいことが分かった」
他にも似たような境遇の者が見つかったが、その丸中の交友関係を洗ったところ、めぼしき者三名ほどが浮上したそうだ。
「例の中橋という男らを入れると計八名といったところだが、丸中と共に浮上した者らは皆相当に高学歴で頭の切れる連中ばかりだ。国立はもちろん私立でもトップクラスの大学で経営経済部や法学部を卒業している。IT関連にも強く、おそらくはハッキングなどの知識にも長けていると思われる。これまでの中小企業乗っ取りに当たっても下調べをした実行犯と思われ、我々警視庁はこの四人が絡んでいると見ている」
おそらくその八名が軸となり、他にも実行部隊を入れれば相当な数になろうと丹羽は言った。
「末端まですべてを検挙するには時間を要するだろうが、頭を押さえることが出来れば後は我々の仕事だ。所轄とも連携して何としてでも刈り尽くす所存だが、問題は丸中ら中枢の動機だ。ヤツらは自分たちが被ったのと同じ方法で手当たり次第に企業を倒産へと追い込んでいるのが気になってな」
◆27
「――とすると、やはりヤツらの目的は自分たちを倒産に追い込んだ者への復讐というわけか」
だが、彼らが引っ掛けているのは倒産に追い込んだ相手そのものというよりはターゲットが点々バラバラである。
「そこのところが今一つ理解できんな。経営の苦しい企業を乗っ取って潰せば、昔の自分たちと同じく辛酸を舐める者が出るというのは分かっているはずだ。ヤツらのやり口を見ていると、明らかに関係のない企業ばかりを狙っている」
それどころか、肝心の――彼らを倒産に追い込んだ相手の企業は未だどこも狙われていないというのだ。
「――いったいどういうことだ。ヤツらにとってこれまでの犯行は本星を狙う前の予行演習といった意味合いなのか」
「我々警視庁もそう睨んでいる。今まで中小企業ばかりを狙ってきたのは、鐘崎の言うように予行演習とも考えられる。このやり口で上手くいきそうだと踏んだ段階でいよいよ本星を狙ってくると仮定して、対象企業には注意喚起を促すかどうか検討中だ」
「うむ、それにしてはこれまでに乗っ取ってきた企業の数が多過ぎるような気もするが――まあ、念には念を入れてのことなのか……」
「あるいは本星を狙うに当たって資金繰りの面でも相応の数をこなす必要があったか――。もしくは自分たちが失った生活を取り戻す為に多額の金が必要だったということも考えられる」
とにかく丹羽ら警視庁の方で、ターゲットにされるだろう本星の企業については密かに目を光らせていくとのことだった。曹と鐘崎の方でも引き続き粟津財閥乗っ取りの件を中橋らに打診していくことになった。
「焔老板たちにもご苦労を強いて申し訳ない限りだが……」
「その点は致し方ないでしょう。氷川のヤツにも逐次状況を報告しながら、もうしばらく様子見するしかないでしょうな」
「ああ――。香港の親父さんたちもご心配なされているだろうし、なるべく早く事を進めたいものだな」
「ええ、まったくです」
曹と鐘崎が心痛めながらも決意を新たにしていた、そんな中で事件は起こったのである。
何とその日の夜になっても冰が戻らないと連絡が入ったからである。
◇ ◇ ◇
「冰がまだ帰って来ねえだと? どういうことだ」
汐留から鐘崎が帰宅した時は周と真田も顔を揃えていて、既に組中が蜂の巣を突いたような大騒ぎになっていた。時刻は午後の八時を過ぎたところだ。
「図書館や近隣のスーパーを当たってみたんだが見当たらねえんだ」
周が飯場から帰宅したのは通常通り午後の六時半頃だったという。最初は図書館での残業だろうかと思い、真田と共に夕飯の支度をしながら待っていたものの、七時を過ぎても何の連絡もない。例え残業があったとしても、これまでは大概六時過ぎには帰宅していた。そこで周が図書館へ様子を見に行ったところ、既に閉館していて灯りも消えていたとのことだった。
「図書館に人の気配は無かった。念の為警備室に聞いてみたところ、今日は残業もなく、全員定時の五時過ぎには退社したはずだと――」
その後、いつも買い出しに寄るスーパーや道すがらのコンビニなども見て回ったが、見つからないというのだ。
◆28
「――クソッ! 何処へ消えちまいやがった……」
「携帯は? もちろんかけてみたんだろうな?」
「ああ、だが繋がらん。今、源次郎さんがGPSを追ってくれているんだが……いつも着けている肝心の腕時計はアパートに置いたままだから、期待はできんだろうな」
冰の腕時計には万が一の緊急事態に際してGPSが仕込まれているのは皆承知だが、図書館に勤務するには高級で目立ち過ぎるということで、ここに引っ越して来てからは着けていなかったそうなのだ。
「ということは――頼みはスマートフォンのGPSのみというわけか……」
仮に何者かによる拉致だとして、スマートフォンは当然取り上げられていると思って間違いない。
その後すぐに鐘崎組と汐留に冰捜索の拠点が設置された。
「図書館の帰りに拉致されたと仮定して、今考えられる犯人は中橋らの可能性が高い。仮に裏の世界の関係者だとすれば、汐留周辺での拉致を考えるはずだ」
周の経営するアイス・カンパニーが乗っ取られたという情報は裏の世界の関係者にも公にしていない。冰はこれまでにも幾度か拉致に遭ってはいるが、相手はマカオの張敏だったり周の後輩の唐静雨という、いわば周の関係者だった。今回もまた周の関係で狙われたとすれば、汐留近辺で拉致されるだろうし、現在周と共にこの川崎に住んでいることを知らないはずだ。
とすれば、やはり中橋や丸中といった企業乗っ取り犯の可能性が一番高いだろう。
「クソッ! こんなことなら冰君の警護を続けるべきだった!」
紫月が悔しげに唇を噛み締める。中橋の手下たちが偵察に来た際の話で、もうここへの見回りは必要ないとはっきり言っていたし、彼らが汐留の曹を訪ねて接触が叶ったことで、鐘崎からもこれまでのような鉄壁の警護は解除していいと言われていたのだ。もちろん日に一度は必ず図書館にも見回りに行っていたし、アパートへも訪ねたりしていたのだが、四六時中張り付いた警護は行なっていなかったことが悔やまれてならない。
外回りで出ている組員たちに連絡を取り、一番近くにいそうな者をすぐに中橋らのヤサである青山のマンションに向かわせたが、留守のようで人の気配は見当たらないとのことだった。汐留の曹らの方へも何ら連絡は入っていないという。
至急図書館付近の防犯カメラを当たると共に、警視庁の丹羽と連携して、警察のNシステムなどで行方を追ってもらおうと思っていた矢先だった。その丹羽から連絡が入り、驚くような事実が判明することとなった。
何と、中橋、丸中らと思われる連中から警察宛てに冰を拉致したという犯行声明が舞い込んできたというのだ。しかも、連れ去られたのは冰だけではなく、これまで中橋らが乗っ取ってきた中小企業経営者の息子や娘など複数人だという。彼らが監禁されている現場がリアルタイムの動画で送られてきて、自分たちが昨今の企業乗っ取りを行なった犯人だということを堂々暴露してよこしたのだそうだ。
動画には確かに冰も映っていて、他の者らと共に後ろ手に縛られて地下室のような空間に捕らわれている様子が見てとれるとのことだった。
◆29
とにかくは冰が無事でいることに安堵したものの、犯人たちの意図が分からずに丹羽ら警察も驚きを隠せないでいるようだ。
「――いったい何を考えてやがる……。てめえらが乗っ取り犯だと名乗った挙句、その乗っ取った企業の家族をまとめて拉致監禁するとは目的はいったい何だってんだ!」
周が舌打ちながら拳を握り締める。
「――とにかく、拉致された時間から考えて、この監禁場所がそう遠くではないと思われる。動画に映っていた人数は冰を含めて十人そこらだ。今、丹羽の方でどこの企業の家族かの割り出しを急いでいるそうだ。俺たちも合流しよう!」
鐘崎と周らは汐留の曹や李、劉、鄧らとも合流して警視庁へ向かうことにした。その間、鐘崎組に残った幹部の清水と橘らで図書館周辺の防犯カメラを当たってもらうことにする。丸中らの調査に出ていた父の僚一にも連絡して、ひとまず警視庁で落ち合うことに決めた。
移動中の車内では源次郎以下数名の若い衆らで冰らが監禁されている場所の割り出しが急がれていた。
「コンクリートの壁、剥き出しの配管、窓は見当たりません。おそらく地下と見てよろしいかと――」
源次郎が動画を元に3D画像で監禁場所の様子を組み立てていく。
「声の反響から部屋の広さはかなりのものと思われます。冰さんが定時で図書館を出たと仮定して、その近辺で拐われたとすれば――おそらくこの範囲内のどこかであるはずです」
地図に円で囲った薄い色が載せられる。
「図書館周辺で冰を拉致し、この動画が警視庁に送られるまでに約三時間――か。源さんの言う通り、この円の範囲内で当たりだろうな」
「おそらくはどこかのビルの地下でしょうが、範囲的にはかなり広うございます。清水君たちが防犯カメラから何か情報を拾えれば、もう少し範囲が絞れるかと」
仮にも拉致しようなどという者が防犯カメラに映り込むようなヘマをするとも思えないが、それらしい車などがどの方向へ向かったかなどが分かれば絞り込めてくるだろう。他にも拉致されている者が十名近くいるわけだから、丹羽ら警察の方でも当たっているだろう。それらの情報を合わせれば大まかな場所が絞り込めるはずである。
周らが警視庁に着くと、少しして僚一が駆け付けて来た。彼は丸中らの交友関係から監禁場所の候補をいくつか見繕って持参してきたのだった。さすがは僚一だ、やることが一線を画している。
その候補地は正に源次郎が当たりをつけた円の中に位置していた。
「動画に映っていた広さからすると――おそらくここか、ここ。もしくはここの三箇所だ」
僚一が地図を指差しながら言う。至急、捜査員たちが現場へ散って行く傍ら、またしても犯人たちからの新たな動画が届けられた。
◆30
それによると、今度は監禁されている者たちがアップで映し出されていて、犯人たちの姿は見えないながらも画面の外から監禁者たちに向かって指示が成されている声が聞こえてきた。その内容もまた驚くべきものだった。
『ほら、言え! この画面の向こうには警視庁のお偉方様がわんさと待機しているんだ。助けてください、僕たちの親が経営していた会社を乗っ取った犯人を捕まえて、そいつらから金と会社を取り戻してください刑事さん! って、そう言うんだ!』
『こんなチャンスは二度とないぞ! 刑事さんに助けてください、会社も金も元通りに返してくださいって懇願しろ! そうすりゃお偉い警察の方々だ、絶対何とかしてくれるだろうよ!』
『ほら! ここへ来て一人ずつ泣いて頼むんだ! 早くしねえか! 二度とないチャンスを潰してもいいってのか!』
犯人の手が一人の男の襟首を掴み上げて画面の前へと引き摺り出す様子が映される。
男が怯えて声も出せないでいると、今度はナイフが突き付けられて、男は涙ながらに言われた通りのことを懇願してよこした。
「け、警察の皆さん……た、助けてください……。ぼ、僕らの親が乗っ取られた会社を……取り戻してください……」
一人目がそう言うと、今度は別の男が引き摺り出されて、同じことを言えと強要された。
『よし、次だ!』
そうして五人ほどの男女に同じことを言わせた後、犯人の声がこう言った。
『聞いたか、刑事さんよー! 当然あんたたちは可哀想なこいつらを助けてやるんだろうなぁ? まさか見殺しにしようなんてことは夢にも思っちゃいねえよな?』
『もしも見殺しにするってんなら俺たちには考えがあるぜ。これ、何だか分かるな?』
犯人の手が持っていたのは爆弾のような代物だった。
『お察しの通り爆弾だ。もしもあんたらが全員を見捨てるってんなら、こいつでここを吹っ飛ばすぜ。その前に俺たちはトンズラだ。無事に逃げ切れた時点でタイマーで吹っ飛ばすって算段よ! それが嫌なら耳揃えてこいつらが乗っ取られた会社を取り戻せるだけの金を用意することだ』
犯人たちは一時間後にまた連絡するからリモートで会話ができるように準備しておけと言って映像は切られた。
「クソッ! 何てヤツらだ!」
丹羽は至急この動画の発信元を割り出すようにと指示を出した。
今の映像では冰は割合後ろの方にいたらしく、警察宛ての会話には引き摺り出されていなかったものの、捕らわれているのは皆冰と同年代くらいの若者たちばかりだった。
捜査班が声紋などを鑑定にかける傍らで、僚一や周らは犯人たちの動機の点から想像を巡らせていく。
「しかし変わった犯行声明だ。自分たちが乗っ取った企業を取り戻して、立て直す為の金を用意しろとはな……」
「それ自体は口実で、集めた金で高跳びでもしようというわけでしょうか……」
◆31
「うむ――、その可能性もゼロではないが。それより今の動画に出ていた犯人の声だが、一人は中橋という野郎で間違いねえな。もう一人は聞き覚えのない声だった」
鐘崎と曹は直接中橋と対面している為、彼の声だというのは分かったようだ。
「氷川と冰を偵察に来た三人とも違う気がしたが――」
その三人の声は紫月が送ってきたボイスメモで確認していたが、彼らの声とも違うようだ。むろんのことボイスメモから周囲の雑音を取り除いて声紋だけを取り出す作業も済んでおり、比較してみたものの一致しない。
「ということは、丸中ってヤツかも知れんな。あれだけの人数を拉致して、わざわざ警視庁相手にこんな動画を送りつけてくるくらいだ。いよいよボスのお出ましというわけか」
鐘崎らの推測の傍らでは、僚一と源次郎が動画から組み立てた3D画像の作成を急いでいた。
「よし、細かいところは多少違うかも知れんが、大まかにはこんな感じの造りの部屋と思われる。動画から目視できた出入り口は二箇所、鉄製の扉だろう。天井の高さは一般的な家屋の約二倍くらいだ」
「とすると、倉庫か何かに使われていた感じでしょうか。人質になっている皆さんの手前側の様子が分かりませんが、もしかしたら警備室か電気室とも考えられますな。コンクリートに所々ヒビが見られますので、割合古いビルの地下室かと――」
ちょうどその時だった。僚一が目星をつけた三箇所のビルに向かっていた捜査員たちから次々と現場の状況報告が上がってきた。
「僚一さん! どうやら三箇所の内の一つがクサいようです! 周辺に車が数台確認されて、人の気配が見受けられると。どうやら解体直前のビルのようで、周りが工事用の足場とトタンで囲われているとのことですが――」
丹羽が僚一らに向かってそう言い掛けた時、残り二箇所を偵察していた捜査員からはどうやらハズレのようだと報告が入った。その二つ共に規模は似たような大きさの建物だそうだが、個人経営の会社や事務所らしきが混在する雑居ビルのようで、人影は見当たらないとのことだ。
「解体間近の工事現場か――。そこで当たりだろうな。丹羽、現場には俺たちが出向く。お前さんの方は引き続き犯人たちからの連絡を待っていてくれ」
「承知しました! 先程の話ではもうあと三十分ほどで再び連絡が来るはずですから、僚一さんたちの方へも画像と音声を共有します!」
「頼んだ。では我々はすぐに移動だ!」
僚一以下、周に鐘崎、曹に李ら側近たちと源次郎、紫月も同行して目星のビルへと急いだ。
その車中で僚一が犯人たちの動機について自らの考えを述べていた。
「丸中を筆頭に、今回の犯人たちはいずれも高学歴の有能揃いだ。そんなヤツらがわざわざ警視庁宛てにあんな動画を送ってよこしたところからすると、おそらく逃げおおせることは考えていないんじゃねえかと思われる」
「――どういうことだ。じゃあヤツらは最初から捕まる覚悟でこんなことをしでかしたってのか?」
息子である鐘崎が訊く。
「さっきの動画では爆弾を仕掛けてトンズラすると言っていたな。例えそれが成功して、今は逃げ切れたとしても、いずれにしろ捕まるのは時間の問題だ。ヤツらとてそれが分からないほど無能ではあるまい。――とすればだ、ヤツらの目的は――」
「目的は……?」
「おそらく復讐だ」
僚一の推測に周も鐘崎も皆、息を呑んだ。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
◆32
一方、その頃捕らわれた冰らの方では犯人たちが逃走の準備に入っていたようだ。
二箇所ある鉄製の扉の一つに爆弾をセットして、次の動画を警視庁へ送る為の段取りが進められていた。
「いいか、てめえら。三十分後にもう一度警視庁宛てに動画を送る。さっきと同じように全員で『助けてくれ』と懇願するんだ。よほどの無能でなけりゃ、いずれは警察もここを突き止めるだろうからな」
「警察がやって来たらお前らは乗っ取られた会社を取り戻してくれと拝み倒せ。ヤツらが承諾すれば命は助けてやる」
犯人たちが交互交互にそんなことを口にする中、人質の一人が恐る恐る彼らに質問を投げ掛けた。
「あの……あなた方はいったいどういうおつもりなんです? わざわざ警察をここへ呼んで……そんなことをすればあなた方だって捕まってしまうんじゃないですか……?」
すると犯人たちは感心したように肩をすくめてみせた。
「ほーお? 随分と勇気のあるヤツがいたもんだ。自分たちの身より俺たちの心配をしてくれるってのか?」
人質は男性で、ここに捕らわれている者たちの中では一番の年長者のようだった。といっても周らと同い年くらいといったところか。彼は恐怖ながらも勇気を振り絞って先を続けた。
「だってそうでしょう? 僕たちの親の会社を乗っ取ったのはあなた方なのでしょう? 中には倒産に追い込まれたところもあるんだ。それを……取り戻してくれと警察に頼めとは……何をお考えなのかと思っても不思議ではないでしょう」
彼の言うことも尤もだ。犯人たちはせせら笑いながらもその理由を説明してよこした。
「ふん! アンタの言うことはご尤もさ! 親が経営していた会社を乗っ取られ、潰されて……アンタらの生活も地に落ちたはずだ。当然警察は犯人を捕まえるのが役目だが、仮に乗っ取り犯の俺たちが逮捕されたとして、被害者であるアンタらにとってはそれだけで満足できるか? できねえだろ? 会社を取り戻して元の生活をそっくり元に戻してもらいたい――そうは思わねえか?」
「……それは……もちろん思いますが」
「だったら警察にそう頼めと言ってるんだ。ヤツらはな、事件が起こりゃ一応捜査に乗り出すフリはするが、マトモに解決できた試しなんぞ無えのさ! 犯人は捕まえられない、例え捕まえても殺人やなんかの凶悪犯罪でない限り保釈金さえ積めばすぐにシャバへ出す! 特に銭に関することなんかにゃめちゃくちゃ甘い! 乗っ取られた会社は元には戻らない、結局泣きを見るのは被害者だ! 俺たちはな、そういう警察の怠慢を世間に分からせて……二度と被害者が泣きを見なくて済む世の中にしたいと思ってるだけだ! いわば世直しってヤツだ。その為なら俺たちが捕まろうと構わねえ。そういう覚悟の下でやっているんだ!」
驚くべき言い分に、監禁されている皆が互いを見合わせてしまった。
◆33
「で、ではあなた方は……その為に僕らの親が経営していた会社を乗っ取って……僕らを誘拐したとおっしゃるんですか……?」
「そういうことだ。有り難く思ってくれよー」
「……そんな……何故そんなことを……」
すると、これまでの成り行きを聞いていた別の人質が恐る恐る口を挟んだ。今度は女性だ。
「もしかして……あなたたちも……私たちと同じように誰かに会社を潰された被害者とか……?」
女性の言葉に犯人たちは揃って眉根を寄せては苦々しく表情を歪めてみせた。
「勘がいいな、お嬢さん。その通りよ――」
「俺たちの親もアンタらの家と同じように会社を経営していた。だが……面の皮の厚いクズ共に騙されて……社を乗っ取られたり潰されたり……。それを苦に俺の両親は首を括って死んじまったんだ……!」
吐き捨てるようにそう言ったのは中橋だった。
「だが警察は乗っ取り犯を捕まえることもせず……通りいっぺんの捜査で事情聴取に来ただけだった……。両親が死んだ時も……何だ、自殺かと苦笑い……まるで手間掛けさせやがってってな態度だった……! そん時の俺の気持ちが分かるかッ! はらわたが煮えくりかえるなんてもんじゃ到底言い表せねえ! 今だって俺は……あの日の……両親の死に顔を忘れたことはねえんだ!」
「こいつの言う通りだ。俺たちは皆、同じ境遇に辛酸を舐めてきた者の集まりだ。だからアンタらの会社を乗っ取ってアンタらを拉致した。人命がかかっていりゃあ警察も少しは本気で動かざるを得ねえだろうからな。もしも警察がアンタらを見捨てるようなら……この動画を世間に公表してヤツらの怠慢さを知らしめるつもりだ!」
まるで苦渋を呑み込むようにそう言った犯人たちに、誰も返す言葉を失くし、場は静まり返ってしまった。
確かに言い分は分かるし同情もするが、だからといってまったく関係のない自分たちの企業を乗っ取ったり潰したりすることが褒められるとは思えない。
先程の女性がまたも口を挟んだ。
「……ねえ、だったらどうしてアタシたちのようなまったく関係ない企業をターゲットにしたの? どうせなら……あなたたちの会社を潰したっていう張本人に復讐してやるべきじゃない……。それなのに何の関係もない、あなたたちには何もしていないアタシたちがこんな目に遭わされるなんて……それは違うと思う!」
悔しさ余ってかそう叫んだ彼女に、隣にいた別の男性が『よせ!』というように肘で突く。
「ふん! お嬢さん、アンタの言うことは尤もだ。だがな、もう後戻りはできねえんだ。アンタたちが失った生活は――今度こそ無能な警察に取り戻してもらうこった」
犯人たちはそう言うと、カメラを皆に向けて警察との交渉に取り掛かった。
◆34
同じ頃、僚一らの乗った車はいよいよ現場へと到着目前であった。
「親父、復讐ってのはどういう意味だ――。今拘束されているのは中橋らの企業を潰した当時の加害者とは何ら関係の無え――いわば被害者たちだぞ? いったい誰に向けての復讐だってんだ」
鐘崎が父親に向かって訊く。
「復讐というのは単に俺の想像だがな。おそらくヤツらのターゲットは警察だと思われる」
「警察――? 何故警察に……」
「ヤツらは当時被害者だった者たちの集まりだ。同じ手で複数の企業を潰し、今度は犯人側となった。その自分たちを警察に逮捕させることで事件を世間に知らしめようというのではないか? と同時に、当時何の手助けもしてくれなかった警察に逆恨みを抱き、復讐を果たそうとしている――。さっきの動画でヤツらは監禁している者たちに『警察に会社を取り戻してくれと頼め』と言わせていた。もしも今回、無事に人質が解放されず爆弾で負傷者が出るような事態になれば、マスコミは騒ぎ立てるだろう。警察組織がいかに無能で薄情かということを世間に知らしめたい――それこそがヤツらの目的だと思えるんだがな」
鐘崎も周も、他の皆も驚いたように互いを見つめ合う。
「とにかく俺たちは何としてでも拘束されている人質を無事に助け出さねばならん。今のところ割れている犯人は八人――その全員が現場にいたとして、取り押さえるのはさして問題じゃないが、ヤツらは刃物を所持している。爆弾もおそらく本物だ。その爆弾がどこに仕掛けられていて、且つ人質との距離がどのくらいあるかにもよるが、爆発すれば負傷者が出ることは免れない。最悪は死人が出る事態にもなろう」
上手いこと地下の様子が目視できればいいのだがと僚一は言った。
「まずは潜入できる箇所を探す。何を置いても第一は人質の安全と救出だ。犯人には逃げられても構わん」
というよりも、わざと逃がして爆弾を処理し、人質を救出する方向で取り掛かろうとのことで作戦は決まった。
現場に着くと先に行っていた偵察部隊の捜査員らが待っていた。
「組長さん、ご苦労様です!」
「ヤツらはこの中だな?」
「おそらく――。時折階下から物音が聞こえるような気がしますんで」
「よし。潜入は我々で行う。お前さん方はひとまずここで待機してくれ」
捜査員らに見張りを任せて一行は建物の中へと入って行った。
「地下への階段がある。解体前ならエレベーターは当然停まっているだろう。ヤツらがここから脱出するとすればこの階段を使うしかなかろう」
足音を立てないように一階部分の各所に散らばって、地下のどの辺りから人の気配がするかを確かめる。どうやらこの一階部分はロビーだったようで、解体が決まる前は一般的な会社だったと思われる。広さ的には地方銀行の支店くらいの規模で、大企業の巨大ビルというわけではない。
そんな中、僚一が地下へ通ずる階段の脇で壁に掛けられたまま放置されている額付きのポスターを見つけた。
「ふむ、割合しっかりしたフレームに入っているな。これを落とせば相当な音がするはずだ」
僚一は皆を集めると、フレームを落として地下室にいる犯人をこのロビーへと誘き出すことを告げた。
◆35
「いいか、まずは犯人が確実に丸中たちであるかを確かめる。このフレームを落とせばヤツらの内の誰かが様子を見にやって来るはずだ。そこで確保する必要はない。我々は身を潜めて何でもなかったということを確認させる」
見張りは地下へ戻って丸中らに報告するだろうから、その後で侵入できる入り口を探すという。
「見たところ地下へ通ずる階段は一箇所しかない。だが、さっきの動画では鉄製の扉が二箇所に見られた。おそらくは地下へ降りると入り口が二つあると思われる」
「親父、ヤツらがここから逃げおおせることを視野に入れているとして、爆弾を仕掛けるとしたら二つの扉の内のどちらかの可能性が高いんじゃねえか?」
警察がここを嗅ぎつけて踏み込んで来た場合、扉を開けたと同時に爆発するという、いわばトラップだ。もう一つの扉は彼らの逃走時に使うはずだから、トラップは仕掛けないだろうと予測される。
「遼二の言う通りだ。その可能性は高いな。あの動画に映っていた爆弾は一つしかなかった。仮に同じ物が幾つもあるとすれば、あの時点で我々に見せびらかしてくるはずだ」
犯人たちは皆、頭脳明晰でプライドの高い有能揃いだ。とかくそうしたタイプの人間は爪を隠すと思われがちだが、わざわざあんな動画を警視庁に送りつけてくるところからすると、自分たちが如何に優秀かということを誇示したい気持ちが先立っての行動とも受け取れる。
「心理的な線から勘繰ると、もしも爆弾を他にも所持しているとすれば必ず動画で大々的に見せつけてくるはず――。爆弾はおそらく一つしかない」
とすれば、あとはそれがどこに仕掛けられているのかということだ。
「復讐の矛先が警察であるなら、人質を殺すようなことは考えまい。万が一逮捕されても罪の重さがまるで違ってくるからな。そこら辺は頭のいいヤツらのことだ、人質に怪我を負わせるようなリスクは避けてくるはずだ。遼二の言うように、爆弾は警察へのトラップという目的で扉の一つに仕掛けられている可能性が高い」
問題は二つの扉の内のどちらに仕掛けられているかだが、現時点でそれを知る手立てはない。安易に開ければその場でドカンだ。
「とにかく――このフレームを落としてヤツらの出方を見よう」
僚一は皆に身を隠すよう指示すると、わざと大きな音が出るようにフレームを叩き落とした。
しばしの後、案の定地下から様子見にやって来る気配が感じられた。どうやら二人のようだ。
「クソ……! もう警察が嗅ぎつけやがったか……」
「まさか! この場所がバレるような情報は何一つ動画に残しちゃいねえ……」
犯人たちは恐る恐るといった調子で階段の上を窺っているようだ。
「仮にサツだとしたら――爆弾で吹っ飛ばしちまうしかねえんじゃありませんか?」
「ダメだ! あれはもうドアに括り付けちまってる! 今更外せるわけねえだろが!」
「けど……もし警察が大勢で待機していたとしたら……」
「その時は腹を括るしかねえな……。爆弾のスイッチは俺たちの手元にあるんだ。こいつを掲げて警察のヤツらを外に追い出すしかねえ。とにかくこのバットと鉄パイプを持って様子を見て来い。もしもサツがいたらスイッチを掲げるフリをしてすぐに戻って来るんだ」
「は、はぁ……了解です……。そんじゃ行って来ますが……」
どうやら指示を出しているのは丸中という男のようだ。様子見部隊は手下だろう、声の様子から尻込みしているのが窺える。
「やはり爆弾は扉の一つに仕掛けられているようだな。よし、ひとまず全員身を隠せ! ヤツらのツラを確認する」
僚一の指示で皆は物陰に身を潜めて犯人が登ってくるのを待った。
◆36
しばしの後、手下の二人が身を震わせながら階段を登って来る気配が感じられた。
「……真っ暗だぜ」
「サツは……?」
「……いや、誰もいねえみてえだ……」
すると、階段を塞ぐようにしてフレーム付きのポスターが転がっていることに気付いたようだ。
「もしかして……これじゃねえのか?」
「ポスター……?」
「さっきここへ来た時にはこんなモン無かったぜ」
「壁に掛かってたのが落ちたんじゃ……」
「……ンだよッ! 脅かしやがって!」
二人はホッとしたようだ。身を潜めていた僚一らにも分かるくらい大袈裟な安堵の溜め息が聞こえてくる。
「――は! そりゃそうだ。いくらサツだって、こうも早くこの場所を突き止められるはずもねえって!」
「よし、じゃあ戻るとするか」
「ああ。ホン……ッと、脅かしやがる」
男たちが地下へと戻ったのを見届けて、僚一らもまたホッと胸を撫で下ろした。
「今の二人、氷川と冰を偵察に来たヤツらで間違いねえな」
「ではやはりヤツらは丸中とその一味で確定だな」
まずは第一段階だ。
「さて――この後どうするかだが。そろそろ警視庁に二度目の動画が送られてくる頃だな。今度はリモート通話ができるようにと言っていたから、ヤツらは当分動画の前で掛かりきりになるはず」
鐘崎と周が密かに階段を降りて地下の様子を確かめたところ、通路が左右に分かれるようになっていて、鉄製の扉が確かに二箇所見つかったとのことだった。
「階段を降りた先はコンクリートの壁になっていて突き当たりだった。通路は左右に進むしかないが、扉は二つとも階段からおおよそ十メートルの位置だ。非常灯でうっすら見えた表示によると、B1東扉、B1西扉とあったのが確認できた」
「うむ、よくやってくれた。東西の扉か――。他に非常口のようなものはなかったか?」
「いや、扉はその二つだけだ。地下に非常口は無い」
「よし、後はその二つの内どちらに爆弾が括り付けられているかだが――」
階段を降りて、扉が手間側と奥側に位置しているのであれば、犯人たちが逃げることを考慮して爆弾は奥側に仕掛けられる可能性が高い。だが、実際には扉の位置が左右に分かれていて二つとも同じくらいの距離ということだから、どちらに仕掛けられているかは現段階で予測不可能だ。
「せめて東西どちらに仕掛けてあるのかが掴めればいいんだがな――」
僚一が方位磁石を確認しながらそんな話をしていると、警視庁で待機している丹羽からの連絡が届いた。
『僚一さん、ヤツらから二度目の通信が入りました。共有します』
「了解。こちらは犯人たちと爆弾を確認した。丸中一味で間違いない。人質の安全の為、俺たちは一旦犯人を逃す方向でいく。周辺の道路を封鎖して緊急配備を敷いてくれ」
『承知しました!』
源次郎と李とで持参してきたパソコンを確認すると、画面の向こうではちょうどやり取りが始まったところだった。
『金は用意できたか?』
丸中らしき声がそう訊く。対応は丹羽が買って出ていた。
『要求は理解している。だが、今この場で全額はとてもじゃないが無理だ。お前たちが乗っ取った企業をすべて立て直すには億の単位を軽く超える。兆だ――。要求をすべて呑むにしても日数を要する』
『は――! 相変わらずのご都合主義ですか! だったら構わない。全額用意できるまで待ちましょう? だがそんな悠長なことを言っていられますかね? 数日の内にはここにいるお坊ちゃんお嬢ちゃん方が干からびて死んじまいますよ?』
『待て! 他のことなら出来る限り要求を聞こう! 食料や水、長期戦になるとしたら寝具なども必要だろう』
すべて用意するから場所を教えてくれないかと丹羽は言った。
◆37
『冗談じゃない! 刑事さん、アンタら頭大丈夫か? 犯人がわざわざご丁寧にこちらでございますなんて教えるとでも思ってんのかよ! くだらねえ引き延ばしはいらねえ! さっさと金を用意しやがれ!』
丸中が憤っているのが分かる。
「修司坊、とにかく会話を繋いで引き延ばせ! その間に必ず侵入経路を突き止める!」
僚一がそう指示を出したその時だった。動画のカメラの前に突如一人の人質が歩み出て、何やらわめき出したのだ。
『すみません! 犯人さん! 僕にも話をさせてください!』
わめいているのは何と――冰であった。
「冰――ッ! 何を……。危ねえことはするな……!」
画面に食いつくようにして周が拳を握り締める。だが、冰は後ろ手に縛られたまま床を這いずるようにしてカメラの前へと歩み出て来た。
そして犯人たちを押し退ける勢いで喋り出した。
『刑事さん! お願いです! すぐに助けに来てください! 犯人さんたちの言うことを聞いてお金を揃えて……僕たちを助けてくださいッ!』
まるで涙目になりながら必死の形相でそう叫ぶ。驚くべき行動だが、丸中らにとってはやぶさかでもないようだ。人質が必死になって助けを求める様子は、動画として残しておけば後々マスコミにバラ撒いた際に有利となるからだ。
丸中らは咎めるどころか『良く言った』とでも言うようにして冰に喋り続けるよう顎をしゃくってみせた。
冰はますます必死の様子で懇願を続け始めたのだが、その訴えは誰もが耳を疑うような代物だった。
何と彼は自分の飼っている愛犬の様子が気になって仕方ないから、早く助けに来て犬に会わせて欲しいと言い出したのだ。
『お願いです、刑事さん! 犬たちは僕にとって家族も同然なんです! この世で一番大事な友達なんですよぅー! ウィスキーちゃんはまだ仔犬で……元気いっぱいだから心配ないけど、もう一匹のエコー君はもう老犬で……いつ死んでもおかしくないんです! 僕がこんなところにいる間にエコー君が死んじゃったらと思うと……居ても立っても居られないんです! だからお願い! すぐにお金を用意して僕たちをここから助け出して! お願い刑事さん!』
しまいには床に突っ伏して号泣の勢いだ。
これには丸中らはもちろんのこと、一緒に捕らわれている人質たちも苦虫を噛み潰したような表情で互いを見つめてしまった。冰の後方に映っている彼らが、まるで『こいつ、頭おかしんじゃねえか?』とでも言いたげに眉根を寄せているのが見て取れる。
『は――! さすがに大企業のお坊ちゃんは考えることがぶっ飛んでるぜ! この緊急事態に犬の心配ときたもんだ! てめえの命がどうなるかも分からねえ瀬戸際だってのによ!』
丸中は呆れたように高笑いをしていたが、ロビーでその様子を窺っていた周や鐘崎らにはその意図がしっかりと伝わったようだった。
「ウィスキーにエコーか! 死に掛かっているのがエコーなら――爆弾は東扉か!」
僚一が瞳を輝かせる。
「ふ――さすがは冰だな! 相変わらずに考えることがハンパじゃねえ」
鐘崎が脱帽だとばかりにそう讃えると、その場の誰もが興奮したように不適な笑みを交わし合う。周などはやれやれと頭を抱えてうなだれてしまったほどだ。
そう、冰の今の訴えには周らに向けた暗号が組み込まれていたことに気付いたからだった。
ウィスキーとは『W』の頭文字、つまり西側の扉を指している。エコーは『E』で東扉。そのエコーが死に掛かっているなら、死に直結するのは東扉――。冰は犬の名前をフォネティックコードにして、安全なのは西扉だと知らせてきたのである。
◆38
冰からのメッセージを受けて僚一らは早速救出に向けて動き出した。
「よし、迅速に西扉を破って突破する。万が一鍵が掛かっていた場合は俺が銃で壊す。中に入ったら紫月は日本刀で犯人たちの衣服を斬りつけて隙を作れ! そのヤッパを見ただけでヤツらは動転するはずだ。俺と遼二はその隙をついて体術で犯人を確保。焔は他のことを気にせず冰を救出。源さんたちはこの防護シートを広げて人質を部屋の反対側へ移動させ、万が一の爆発から皆を守ってくれ!」
僚一は一通りの手順を説明し終えると、次に警視庁の丹羽に通達を出した。
「修司坊、リモート通話で冰に向かって宥める言葉を掛けながら、広東語で|焔到着《イェン ダァオ》という言葉を折り込んでくれ。それで冰は俺たちが到着したことを理解するはずだ」
そう言いながらも、『もしかしたら冰はさっきのフレーム落下で既に我々の到着を悟ったかも知れんがな』と付け加えては笑った。
リモート画面では丹羽が言われた通りに上手く話をごまかしながら周らの到着を知らせて、『君たちのことは必ず助ける、犬にも会わせてあげられるよう努力するから心配しないで待っているんだ』などと会話を繋いでくれていた。
「よし、それじゃ突入する! 皆、頼んだぞ!」
一同は丹羽が犯人たちの注意を引き付けている間に一気に地下へと駆け降りた。
一方、冰の方でも助けが到着したことを確信、丹羽との会話に大袈裟な素振りで相槌を返しながらも人質たちに向かって小声でこう囁いた。
「皆さん、僕が合図をしたら爆弾のドアからなるべく離れるように部屋の隅へ走ってください。そのまま床に伏せて頭を手で守ってくださいね!」
ほんの一瞬のことだったが、監禁されている仲間たちは驚いたようにして冰を見つめた。
それも当然か――今の今まで犬がどうのと大騒ぎをしていたこの青年が、まるで違う精悍な顔つきでそんなことを言ったものだから驚くのも無理はない。誰もが冰のことを少々頭の弱い変わったヤツなのだろうと思っていた矢先だ。けれども今の一瞬のひと言で、彼のこれまでの言動は敵を欺く為のカモフラージュだったのかも知れないと悟ったようだった。
当の冰はすぐにまた号泣まがいの演技に戻っては、丹羽相手に『助けてください!』と繰り返す。
犯人たちが彼に気を取られている隙に、冰の一番近くにいた男が後方の仲間たちに声を潜めながら作戦を話し伝えていく。――と、ちょうどその時だった。サイレンサー付きの銃が西扉の錠を撃ち抜いた気配を感じ取った冰が、「今です!」と叫んだ。
人質たちはそれを合図に夢中で立ち上がり、ドアとは反対方向の部屋の隅を目指して駆け出し、皆で互いを庇い合うようにして床へと突っ伏した。
何が起こったのかと戸惑う犯人たちが最初に目にしたもの、それは鈍色に光る長刃の切先だった。
「うわぁああああ!」
「ギャアアアアア……!」
何事だ――とも、誰だてめえら――とも言葉にすらできない内に上着やシャツのボタンを刃先で飛ばされた各々は、腰が抜けたようにして地面へと倒れ込む。と同時に鐘崎親子が体術であっという間に犯人一味を制圧。源次郎と李、劉、曹の四人で人質たちを防護シートに包んで保護し、周は一目散に冰を自らの腕の中へと抱え込んでは万が一の爆発に備える。その間、わずか数秒――僚一が意識を刈り取った丸中の手にしていた爆弾のスイッチを取り上げて制圧は完了、見事最悪の事態を防ぎ切ったのだった。
◆39
その後、駆け付けて来た丹羽ら警察によって丸中らは逮捕され、未だ意識を刈り取られた失神状態のままで警察車両へと運ばれていった。
人質たちも無事に保護されて、爆弾は爆発物処理班によって回収となりホッとひと段落だ。
表に出ると物々しいほどのパトカーや護送車の赤いランプが都会の夜を染め上げていたのに驚かされたものの、誰一人怪我もせずに解放された人質たちは互いに手を取り合って安堵に胸を撫で下ろしていた。
「あの……キミ……さっきはありがとう。その……」
「キミのお陰で僕たちは助かった……! 本当にありがとう!」
人質たちが全員で冰を取り囲んでは感嘆の眼差しで声を震わせる。いの一番に彼を抱き締めたかった周もこれでは形無しだ。さりとて彼らの面前で熱い抱擁というのも、それはそれで後々面倒になりそうなので、この場は我慢だ。やれやれと肩をすくめる様子に鐘崎らもまた、まあまあと宥めるのだった。
「あなた、すごい勇気があったのね! 最初に犬がどうのって騒ぎ出した時は耳を疑ったけど……もしかしてあなたの乗っ取られた会社って警備会社か何かだったの?」
場慣れしている感じだったものねえと、女性の一人が感心といったふうに興奮気味に声を震わせている。
「ええ、まあ……そんなところです」
冰はタジタジながらも笑顔で応え、人質の仲間たちからはまるで胴上げの勢いで感謝の意を述べられては困ったように頭を掻く始末――。
「それにしても……助けに来てくれた警察の人たち! 皆んなめちゃくちゃイケメンでビックリしちゃった!」
「うんうん、ホントよねー! あの刑事さんたち独身かしら?」
周や鐘崎らの固まっている方をチラ見しながら期待に頬を染めている。彼女たちは周らを刑事と思っているようだ。
「さあ……どうでしょう。中には独身の方もいらっしゃるかもですね」
あははは――とごまかし笑いながらも、何はともあれ皆が無事に救出されたことに胸を撫で下ろす冰だった。
そんな人質たちが丹羽ら警察によってパトカーに分乗させられていくのを見送りながら、冰はやっとのことで愛しい男の胸へと飛び込むことができた。
「冰! 良かった! 無事で――」
「白龍……! 来てくれてありがとう!」
「ああ、ああ……。本当に無事で良かった……!」
痛いくらいの抱擁に胸を熱くしながらも、二人揃って鐘崎らにも礼を述べた。
「皆さんも……本当にありがとうございます! お手間をお掛けしてすみませんでした」
ペコリと頭を下げる律儀さはまさに冰だ。危ない目にあったにしては気もしっかりしているあたりはさすがにマフィアの嫁と言うべきか。
「いや、礼を言うのは俺たちの方だ。あのフォネティックコードのメッセージで爆弾が仕掛けられている扉が分かったんだからな」
「ホント! さすがは冰君だよな! あんな非常事態だってのに、咄嗟にフォネティックコードとは……!」
鐘崎と紫月、それに李らも全員で感服の表情を輝かせる。
「ええ、実はロビーの方で大きな物音がしたから……もしかして白龍たちが助けに来てくれたのかもって思ったんです。リモートの相手は丹羽さんでしたし、皆さんなら絶対この場所を見つけてくださるって思って」
「やはりあの物音で俺たちの到着を悟ってくれたわけか」
「ええ。それに丹羽さんが広東語で『焔到着』って言ってくださったんで、これはもう間違いなく上に皆さんが来てくれてるって思って」
「それにしても犬の名前をフォネティックコードにして伝えてくれるとは――あれを聞いた時は全員で鳥肌の立つ思いだったよな?」
鐘崎が言うと、皆も誠その通りだと言って興奮気味にうなずいてみせた。
◆40
冰曰く、フォネティックコードで伝えることを思い付いたのは、紫月のピアスに仕込まれているGPSにアクセスする為のパスワードを思い出したからなのだそうだ。
「紫月さんのピアスはRYOをコード変換するって聞いていたんで、実は俺の腕時計のGPSもフォネティックコードでパスワードを決めたんですよ。犯人さんたち、皆さん頭のいい方たちのように見えたんで、そのままウェスト・イーストとか言ったらバレちゃうかもと思って」
ちなみに冰の腕時計のGPSにアクセスするパスワードはYANだそうだ。周焔の『焔』である。
「ってことはぁ……ヤンキー、アルファ、ノヴェンバーか!」
紫月がパチンと指を鳴らしながら、
「まさにピッタシじゃね? 高防ン時は遼も氷川もヤンキーだったしさぁ」
あははは! と腹を抱えて笑う。
「おいおいおい……カネは別としても俺はヤンキーだった覚えはねえぞ!」
周が口をへの字にして仏頂面を見せると同時に鐘崎が反撃、
「何をぬかす! 俺は至って真面目で健全だったぞ!」
二人のくだらないやり取りに、場が大爆笑と化したのだった。
「さて――と。そんじゃ帰るとするか! 久々にデカい風呂に浸かれるぞ、冰!」
周が当たり前のように李が乗って来た高級車に乗り込もうとしたのを見て、冰は思わず上着の裾を掴んで引き止めた。
「白龍……あの、俺たちは……」
帰る場所は川崎のアパートであって、汐留ではない――とそう言いたかったわけだ。
この緊急事態に李や劉という懐かしい面々も駆け付けてくれたのだろうとは思っていたが、冰は未だに周の社が本当に乗っ取られたものだと信じ込んでいるからだ。
その時点でようやくと気付いたわけか、周も鐘崎も申し訳なさそうにして頭を掻いてみせた。
「ええー!? じゃあ……会社……乗っ取られたっていうのは……嘘だったの!?」
「すまん――! 例のヤツらをふんじばる為にな。社を囮に使ったというわけだ」
旦那たちが二人共に平身低頭で謝る姿を前に、紫月もまた両腕を腰に当てて大威張りである。
「俺も今さっき遼に聞いたばっかでさぁ。親父や李さんたちも皆んな知ってたっていうじゃん! ンなことなら最初っから言ってくれりゃいいのにって思ったトコー!」
「ですよね! まさか囮だったなんて……ビックリ!」
「すまんすまん! 敵を騙すにはまず味方からって……な?」
「そうそう! おめえらの必死な態度が敵を信じ込ませるには必要不可欠だったってことで……うむ」
「それは……分かるけど……」
「な? 酷っえべ? 何が敵を騙すにはーだよ。こちとらマジでえれえことになったって右往左往しちまったじゃねえのおー! なあ、冰君」
「ホントですよー!」
こうなると普段は怖いものなしの大黒柱たちも形無しだ。
「そ、その分と言っちゃナンだが……上手く事が片付いた暁には、おめえらに何でもしてやろうって……カネとも話していたんだ」
なあ? と言って鐘崎に助けを求める。
「そ、その通りだ! 行きたい所でも欲しい物でも……何でも叶えてやろうって氷川と言ってたわけだ」
まるで拝み倒す勢いで旦那二人揃って「すまん!」と手を合わせる。
「ふぅん? 何でも叶えてくれる――ねぇ? ほんじゃ何してもらおっか、冰君」
「ふふ、そうですねぇ」
嫁二人はニヤっとしながら案外嬉しそうだ。