極道恋事情

33 倒産の罠3



◆41
 ふと、冰が思いついたように瞳を輝かせた。
「あ……! だったら俺……ひとつだけしたいことが……」
「何だ? 何でも言ってくれ!」
 身を乗り出した周だったが、冰の『したいこと』というのを聞いて思わず赤面させられてしまう事態となった。何と冰は汐留へ戻る前にもう一晩を川崎のアパートで過ごしたいと希望したからだ。
「あのアパートでもう一泊だと?」
 周にとっては驚かされる言い分だ。ところがその理由を聞いて堪らない思いにさせられてしまうことになるとはさすがに想像できなかった。
「あの……俺、その……。も一回……あの時みたい……に」
 頬を真っ赤にしながら声を潜めてうつむく。
「――あの時?」
「えっと……その、テ、テレビつけて……その……」
 茹蛸のように頬を染めたその様子で、周にもようやく言わんとしていることが分かったようだ。
「ああ――」
 冰が言っているのは少し前にアパートで激しく抱いた夜のことだと分かったからだ。変な話だが、汐留を後にしてからはゆっくりと夫婦の情を交わす時間は持てていなかった。慣れない肉体労働の仕事で疲れていたというわけではないが、布団に入るとすぐに爆睡といった日が多かったのだ。
 そんな中でも男の生理現象はきちんとやってくる。囮作戦のことも告げられないまま不憫な思いをさせているとの気持ちもあってか、無性に熱を重ね合いたいという欲でいっぱいになった晩のことだ。隣の部屋の真田に悟られまいとしてテレビをつけ、賑やかなバラエティ番組の声に紛れるようにして夢中で抱いた――冰はあの夜のようにもう一度抱いて欲しいとそう言っているのだ。
「冰……お前」
「あ、あの……ど、どうしてもっていう……わけじゃないんで、その……」

 ああー、もう堪らない! 何ていう可愛いことを言ってくれるんだ――!

 そんな思いのまま、目の前の華奢な身体を思い切り抱き包んでしまった。
「バカだな――そんなことなら何もあのアパートでなくともいくらだって、お前……」
 周とてあまりに嬉しすぎて愛しすぎて上手くは言葉にならない。
「う、うん……そ、そうなん……だけどさ。何ていうかその……」
 冰にとってはあの夜のことがそれほどうれしかったのだろう、普段は何事につけてもクールで取り乱さないことの多い周が、我を忘れたようにして激しく求めてくれたことがあのアパートの部屋とイコールという印象なのだ。
「分かった。じゃあ今夜はアパートへ帰ろう」
 とびきりやさしげに細めた瞳で周が感激の面持ちでいるのに、側で聞いていた鐘崎や紫月はいったい何のことだ――? と、不思議顔で首を傾げ合っている。
「まあ、荷物もまだアパートにあることだしな」
 どのみち引越しや賃貸解約の手続きなどで訪れる必要があるわけだ。
「何だったら一晩と言わずもう二、三日泊まっていくか? 部屋の契約期間はまだ残っているし、任務完了でしばらく休みを取るのも悪くねえ。それともこのまま借りっぱなしでも構わんぞ。そうすりゃたまにあそこへ行って――」

 またあの晩のようにめちゃくちゃに愛してやる――

 などと言いたげな亭主の胸元に思い切り顔を埋めてしまった冰だった。
「いやだぁ、白龍ったら……! え、でもホント? やだ、マジ? ウソ……嬉し……」
 まるで地団駄を踏む勢いでモゾモゾと頬染める。可愛いも可愛い、それこそどうしようもないほど愛しくて堪らなくなり、周は今すぐにでも押し倒してしまいたい気にさせられてしまった。




◆42
 その後、冰の希望通りにアパートへと戻ることにし、ただし真田には李らと共に汐留へ引き上げてくれるようにと頼んだ。当の真田も最初は首を傾げていたものの、二人がわざわざアパートへ戻りたいという理由が分かってしまったようだ。
「ほほ、ご夫婦仲のよろしいことは実に良きことでございますな!」
 ニシシというふうに口元に手をやって微笑んでいる。
「ではお邪魔虫はお先に失礼させていただきましょうぞ」
 まるでステップを踏む勢いで真田が李の車に乗り込んだのを見て、鐘崎と紫月にもようやくと事の次第が理解できたようだった。とかく鐘崎の方は羨ましい思いがムクムクと顔を出し始めたようだ。周が張り切るというなら自分も負けてはいられないとばかりに、『男の沽券』を意識した勝負心に火が点いてしまったらしい。
「ふむ――それじゃ紫月、俺たちもこいつらのアパートに邪魔させてもらおうか? 真田さんが住んでた部屋も空いたことだしな。今夜は四人で打ち上げってのもオツだろう」
 鐘崎としては普段と違う環境で自分たちも燃え上がりたいと思っているようだが、周からすればとんだお邪魔虫もいいところだ。
「バ……ッ! っざけんな、カネ! あんな壁の薄い部屋だぞ? せっかく上手いこと真田を追い返したってのに、てめえらが乱入して来やがったら……台無しじゃねえか」
「ほう? ほーお、ほーーーお? 何が台無しだって? 壁が薄いと困ることでもあんのか? 俺らはただ打ち上げで飲んで、そのまま泊まらせてくれればと思っただけなんだがなぁ……」
 ニヤニヤと目をカマボコ形にして肘で突く。
「何が打ち上げだ。歩いて二分と掛からねえくせに。てめえの考えてることなんざ見え見えなんだよ……」
「そうケチケチすんな。せっかくデカい山ひとつ片付いたんだぜ? 俺たちも――つーか、今回はおめえらが一番苦労続きだったわけだからな。労を労いつつ共に祝おうじゃねえか」
「は? なに都合のいいこと抜かしてやがる……! ってよりも……誰がケチだ、誰がー!」
 旦那二人のアホらしい言い合いに紫月と冰は呆れ顔だ。
「い、いいじゃない白龍。皆んなで打ち上げやるのも楽しいじゃない! アパートに食材も残ってるしさ。俺、何かおつまみとおかずでも作るよ!」
 まあまあ――といった調子で宥めた冰に、
「何言ってんだ、俺のおかずはお前……。いや、違う違う! おめえは極上のメインディッシュっつーか……」
 アタフタとし始まった周に鐘崎はかまぼこ目を更に細くしてしたり顔だ。紫月はといえば、亭主の考えていることなど当にお見通しなのか、いつもと違うシチュエーションに燃えられて猛獣化されては身が持たないと冷や汗状態――。
「遼ぉー、大人げねえぜ! ンなことしてっと馬に蹴られて何とやらって言うじゃね?」
 邪魔せずにおとなしく帰ろうとうながすも、当のご亭主はむくれ気味だ。
「言っておくがな紫月。ウチでナニするよりも、こいつらのアパートの方がおめえにとっちゃ楽かも知れんぞ」
「は……? つか、ナニするって何? まさかとは思うがてめ……」
「当然だろう。労いの夜だ。おめえにも苦労を掛けたことだし、皆んなでお疲れさん会した後は――まあ、そういう雰囲気にもなるだろ? 俺ァな、そういうシチュになってもなるべくおめえに負担を掛けまいと思っているわけだ」
 アパートは壁が薄い上に二階だ。階下や隣室にも気遣いながらとなれば、猛獣化するどころか逆におとなしめになるだろうと鐘崎は訴えているのだ。
「あ……なるほど。そーゆう考え方もアリか」
 周にとってはあまりにもバカバカしい鐘崎の説得に、呆れを通り越してお手上げ状態だ。
「……ったく! 仕方ねえ。んじゃ今夜は打ち上げと腹を括るか」
 どうせ一晩泊まれば満足するだろうから、ここは素直に引き下がるのも手だ。
 結局四人で打ち上げをすることに決まり、皆揃ってアパートへと引き上げたのだった。



◆43
 アパートは普段と何ら変わらないはずだったものの、これが囮の作戦だったと知った上に真田がいないとなると、まるで初めて訪れる他人の家と思えるほどに雰囲気が違って感じられるのが不思議な気分だった。特に冰にとっては今朝までここで生活していたのが夢幻のように感じられるほどだった。
 郷愁とも何ともつかない思いにキュッと胸が締め付けられるようだ。明日からはまた汐留に戻って元の生活に帰れると思うと、うれしい気持ちと共にここで紡いだ三人の日々が妙に懐かしく思えたりもして、何とも言えない離れ難さを感じさせる。キッチンには今晩三人で食べるはずだった夕飯が支度途中になっていて、今にもそこで真田が料理をしながら微笑む姿が浮かぶようだった。
『冰さん、坊っちゃま、お帰りなさいまし! 今夜はシチューでございますよ』
 何事もなければ三人で夕膳を囲み、風呂に入り、この時間ならきっともう休んでいただろう。
「今日シチューだったんだ……。まだお鍋があったかい気がする」
 冰が温め直す傍らで、紫月もツマミやサラダ作りを手伝って、狭いテーブルを囲み四人で乾杯と相成った。
「冰、カネ、一之宮。この数ヶ月、本当に世話になった。改めて礼を言う」
 ビールのグラスを掲げて周がそう切り出せば、鐘崎もまた同様に皆の労を労う言葉で乾杯の挨拶とした。その後は賑やかに遅い夕飯の時を楽しんだ。
「んめ! このシチュー、マジで旨え!」
 紫月が感嘆の声を上げながらシチューに舌鼓を打つ。先程チラリと目にした台所にあった食材には、スーパーで普通に売っているルータイプのシチューミックスの箱が混じっていた。おそらくは具材を煮込んで市販のルーを溶かしただけなのだろうが、いつも汐留のシェフが一から作ってくれるようなコクも感じられて、とにかく旨いのだ。
「やっぱ真田さんの愛情だなぁ。おんなしように作っても氷川や冰君の健康の為にとか思って鍋を掻き混ぜるから、その思いが味に出るんだべな」
 それを聞いて、冰もじんわりと胸を熱くする。
「そうですね。真田さんのあったかいお気持ちがギューっと詰まってる気がします」
 金銭的にも気持ち的にも余裕のない生活ながらも、周と冰の健康を願いながら一生懸命に栄養のバランスなどを考えてくれていたのだろう。思えば洗濯物の畳み方やしまい方なども、汐留にいる時と何ら変わらない、まるで一流ホテルの設えのようにビシっと糊が効いていたり、小さな――タンスとも言えないようなボックスの中にも綺麗に整頓されてしまわれていたことを思い出す。
「真田さん……」
 どこにいても、例え汐留の豪邸で黒の執事服を身につけておらずとも、真田の思いはまったく変わらないのだ。いつも背筋を伸ばして笑顔を絶やさず、やさしい眼差しで見守ってくれていた。そんな姿を思い出すと、何だか目頭が熱くなるほどの思いに捉われてしまい、打ち上げというならここ数ヶ月苦楽を共にした彼とこそ一緒に杯を傾けるべきだったと思えてならない。そんな思いが冰の顔に表れていたのだろうか、周と鐘崎、紫月もまた、同じ気持ちでいたようだ。
「――真田も誘ってやれば良かったか……。一刻も早く汐留に帰してやった方がヤツの為だとも思ったんだが……」
「そうだな……。真田さんとはまたきちんと機会を設けて、改めて皆んなで労い会をしようじゃねえか」
「ンだな! そん時は俺と冰君で何か手作りのデザートでも作るか!」
「いいですね! 真田さんはケーキよりも和菓子の方がお好きかなぁ……。お饅頭とか餅菓子とかに挑戦してみましょうか?」
「お! いいね、いいね! 焼き菓子系の饅頭とかも美味そうじゃね? 白餡とか包んで焼くやつ!」
 組の調理場には釜もあるしと言って紫月と冰は早速に大乗り気だ。
「では俺たちは何か真田に似合いそうな物でも選ぶとするか」
「懐中時計なんかどうだ? 真田さんなら似合いそうじゃねえか?」
 例の宝飾店で特別に誂えてもらおうかなどと、旦那二人もビール片手に盛り上がっている。――と、ちょうどその時だった。玄関のチャイムが鳴り、四人はハタと互いを見合わせた。
「誰だべ? 組のヤツらかな」
「何か言い残したことでもあったのか」
 とにかく旦那二人が席を立って出てみると、何とそこにはケータリングさながら、銀の大盆を手にした真田が李に付き添われてニコニコと満面の笑みを見せていたのに驚かされた面々だった。



◆44
「真田! おま……どうした」
 うれしいサプライズにさすがの周と鐘崎も言葉にならない。すぐに冰と紫月も出迎えて、皆は感激のまま玄関先で立ち尽くしてしまったほどだった。
「坊っちゃま。お邪魔かとは存じましたが、きっと皆様で打ち上げでもなされるのではと思いましてな。お夕飯のお支度も途中で放ってきてしまったのを思い出しまして、少々差し入れに参った次第で」
 銀製の大皿を開ければ豪勢なオードブルが見目麗しく盛り付けられていたことにまたまた驚かされる。他にも牛肉のステーキなどメインディッシュの他、カットフルーツにボトルのシャンパンやワインまである。李がそれら大荷物を抱えて『お邪魔いたしてすみません』と頭を下げていた。先程一足先に汐留に帰ると、なるたけ時短で揃えられるメニューを考えては、大急ぎで真田が用意したそうだ。
 真田曰く料理を届けたらすぐにも帰るつもりでいたようだが、周ら四人にとってはこの上ない喜びようで、是非とも一緒に打ち上げに参加してくれと言っては真田らを無理矢理部屋へと引っ張り込んだ。
「運転手は? 宋は下で待ってるのか?」
 李に訊くと、もう夜も遅いので李自らが運転して来たそうだ。
「ならちょうどいい。二人共一緒にやってくれ!」
 というわけで、急遽真田と李も交えての賑やかな打ち上げ会となったのだった。
 この囮作戦の期間中、汐留にいた李にとってアパートを訪れるのはこれが初めてである。男六人が六畳のダイニングに集まればそれだけでもう満員御礼状態。椅子は四脚しかないし、テーブルも小さい。皆はスタンディングスタイルで杯を交わし、椅子の上にも料理を並べる始末だったが、心許し信頼し合える仲間とのひと時はそれだけで最高に幸せだった。
 結局真田は料理を温めたり空いた皿を片付けたりと、忙しく動き回っていて労を労うどころの騒ぎではなかったが、彼にとってはそうしていることが励みでもあるのだそうだ。むろんのこと冰や紫月も手伝っては皆で明け方近くまで飲み交わしたのだった。
「では坊っちゃま、私めは一足お先にお邸に戻りますが、夕方にはお迎えに上がりますので」
 それまでアパート最後の一夜をごゆっくりお過ごしくださいと言って李と共に引き上げて行った。最後の一夜といっても既に空が白み始める時間帯である。それゆえ夕方に迎えに来るというわけだ。
 当初はここに泊まるはずだったお邪魔虫組の鐘崎らも自宅へ帰ると言ったのだが、周がせっかくだから泊まっていけと不敵な笑みを見せたので、言葉に甘えることとなった。
「カネ、確かに所変わればってな感じで、ある意味燃えられるのはお墨付きだ。だがな、ある程度セーブはしてくれよ? マジで壁薄いんだ」
 隣の部屋といっても、真田が咳き込んだりする音なども割合はっきり聞こえたという周に、鐘崎もまた半ば期待顔でうなずいた。
「心得た。まあ……なるたけ品良くいたす所存だ」
 それを聞いていた紫月が「いたすって……」と言って尻込みしているのが可笑しい。何だかんだと言いながらも、二組の夫婦はそれぞれ秘密の時を堪能したのだった。



◆45
「冰――苦労をかけた。すまなかったな」
 いつもの敷布団の上に座って向き合いながら周は言った。華奢な伴侶の手を取り、大事そうに自らの大きな掌で包み込みながらそう言った。
「ううん、苦労だなんて。俺よりも白龍の方がずっと大変だったと思うんだ。仕事も力仕事で体力的にも大変だったろうし、何より俺たちに囮作戦のことを黙ってるだけだって気苦労だったと思うよ」
 本当にお疲れ様でしたと言って大きな掌を握り返す。それが作戦だったとはいえ真実を隠していたことを責めることもせず、逆に労いの言葉を掛けてくれる――そんな伴侶が愛おしくて堪らなかった。
「冰――俺は全てを知っていて、ここでの生活にもいつかは区切りが来ることを知っていた。汐留の社も邸も人手に渡ったわけではないと知っての生活だった。だがお前には……本当のことを何も話せずに大変な心配をさせてしまったと思う。一文無しも同然になったこんな俺を――お前は見捨てず側に居てくれた。どんなに嬉しかったか分かるか――?」
「白龍……そんな、見捨てるなんて……! 俺の方こそお荷物になっちゃいけないって思って。でもさ、俺ここで生活してみてよく分かったんだ。俺は今まで白龍に贅沢三昧させてもらって、ホントにのうのうとしてたんだって。一文無しって言うけど……俺はあなたと、それに真田さんや紫月さんや鐘崎さん、皆んなと一緒に居られるってことが何より幸せなんだって改めて思ったの。確かに汐留にいる時と比べればいろんなことが違って環境も変わっちゃったって言えるかも知れないけど、白龍や皆さんと一緒に過ごせるっていうことが何より心強いっていうかさ。俺、あなたがいればこれ以上の幸せはないって心からそう思うよ」
「冰――」
 すっくと腕の中に抱き締めて、周は黒髪にくちづけた。
「ありがとうな、冰――。俺だって同じだ。お前が側に居てさえくれればこんな幸せはねえ」
 本当はもっと言葉に表して伝えたい気持ちがたくさんあるのに、何からどう言っていいか上手くはまとまってくれない。ただ愛しいと思う気持ちだけがあふれあふれて、周はひたすらに抱き締めることしかできなかった。
「愛している――」
「白……龍……」
「この世の何よりも――誰よりも。てめえの命よりも――お前が大事だ。――愛している。上手くは言えないが、これがすべてだ」

 愛している――。

 周は幾度も幾度もそのひと言だけを繰り返した。
「白龍、俺も……あなたが大好き……! ずっと……ずっと死ぬまで側に居させて欲しい」
「ああ、もちろんだ。死ぬまで――いや、死んでからも、生まれ変わったとてお前と共にありたい」
「白龍……好き……。大好き……!」
「ああ――」

 じゃあ、またあの晩みたいに――お前を抱く。
 うん、あの時みたいにあなたに抱いて欲しい。

 そのまま組んづ解れづというほどに夢中で、激しく、二人は互いへの愛を剥き出しにして求め合った。
 耳元では小さなテレビから漏れる賑やかなバラエティ番組の声が、まるで二人の愛を応援するかのように高らかに繰り広げられている。隣の部屋に鐘崎らが居ようが、この激しい鼓動が伝わろうがどうでも良かった。布団に潜ればそこは二人だけの深海――。誰に遠慮することもなく、何に気遣う余裕もなく、例え片時も離れているものかというようにして二人は深く激しく愛し合ったのだった。



◆46
 一方、隣室の鐘崎と紫月の方では意外にも真面目な世間話に明け暮れていた。
「な、遼。今回の犯人たち――丸中と中橋だっけ。よく考えりゃヤツらも気の毒っつーかさ、元はと言えばヤツらも誰かに騙されたり嵌められたりして親の社を失ったわけだべ? まあ……復讐とか逆恨みっつー選択肢は間違ってっと思うけど、このまんま犯罪者として再起できなくなっちまうのは……ちっと気の毒だなって思ってさ」
 紫月が布団の上でごろ寝しながらそんなことを口にする。鐘崎は胡座をかきながらそんな紫月の髪を愛しそうに梳いていた。
「確かにな――。まあ、親父とも相談せにゃならんが、もしかしたらその件でまた少し俺たちも動くことになるやも知れん」
「動くって?」
「丸中らが失った社をすっかり元通り――とは到底いかねえだろうが、ヤツらが刑期を終えて出てきた時に再起できる足掛かりくれえになれるよう手助けしてやれたらなと思うんだ」
 事によると既に父の僚一の方ではそういったことを視野に入れているのではないかと鐘崎は言った。
「……っつーと、丸中や中橋の社を潰した張本人らの調査とか、当時の経緯を洗い返すとかってこと?」
「そうなろう。親父のことだ、今回丸中らを調査する間に彼らが倒産に追い込まれた経緯もほぼ調べはつけているだろうしな」
 彼らを嵌めた相手が誰かということも察しはついているはずだ。
「正直なところ丹羽さんたちにはどうしてやることもできんだろうしな。そういう時の為に俺たちの組織がある。親父もおそらくそう思っているんじゃねえかと――」
 警察をはじめとする組織や機関が司法や立場の関係から表立っては手が出せない、そんな案件を秘密裏に解決するのが始末屋の役目でもある。その為に自分たちが存在しているのだと言って鐘崎は微笑した。
「そっか……。じゃあまた忙しくなるな。俺にできることは――少ねえかもだけど、ちょっとでもおめえや親父の手助けができるよう俺もがんばるからさ!」
 そんなふうに言ってくれる紫月が愛おしくて堪らなかった。
 直接は調査に出たり関わったりせずとも、家で栄養バランスを考えた食事を用意してくれたり、いつでも少しでも気が休まるように整えて帰宅を待っていてくれる。鐘崎にとってはそんな紫月の存在があるからこそ、思い切り外で戦ってくることができるのだ。
「ありがとうな、紫月。これからもこんな亭主と――それから親父や組員たちのこと、頼む」
 存外大真面目にそんなことを言った鐘崎に、紫月は頼もしい笑顔でうなずいた。
「任せろ! それが俺ン役目だからさ」
 そう言って、先程から髪を梳いてくる大きな掌に自らの手を添えた。
「な、せっかく普段とは違うシチュなんだからさ。そろそろ猛獣君になりてえべ?」
 ニヤっと意味ありげに笑う。
「――いいのか?」
「ダメ……っつっても止まんねえのが猛獣だべ?」
「――こんにゃろ」
「へへ!」
 ペロリと舌を出して笑う。その小さくて赤い可愛い舌先を絡め取るようにすかさず奪い取った。
「うわ……ッ、変わり身早ッ……! さすが……」
「お前だけの猛獣――な?」
 組み敷きながらこちらも負けじと不敵に笑い――そのまま我を忘れたようにして猛獣タイムに突入した夫婦であった。



◆47
 その後、アパートの契約期間が切れるまでは借り続けることとなり、週末などに鐘崎らの家へ遊びに行った際などには周と冰でアパートに泊まるなどという日々が続いた。
 汐留での生活も元通りとなり、周にとっては自身が抜けていた期間の仕事の整理で忙しくしていたものの、留守を守ってくれた李らの尽力もあって、経営自体は滞りなく業績も上々であった。
 香港から出向していた曹来も、鐘崎らと共に丸中や中橋らが出所してきた際に少しでも足掛かりになれるようにと、今しばらくは日本に残ることとなり、彼らの親が潰された会社の再建に尽力してくれていた。
 以前と変わらぬ日常が戻ってきた、そんな中――周と鐘崎ら夫婦四人は改めて今回の件で力を合わせてきた真田をはじめとする皆への労い会を催そうと密かに計画を練っていたのだった。
 週末、真田に贈る懐中時計を選ぶ為に丸の内にある宝飾店へと出向いた四人は、久しぶりに買い物やティータイムを満喫。以前のままのダークスーツに身を包んだ周の横で、冰はしきじきと懐かしいその姿に見惚れていた。
「うん……やっぱりこういうスーツ姿の白龍も素敵だね。タンクトップにニッカポッカもすごくカッコ良かったし」
 結局、何を着てもどんな境遇でも格好いいものは格好いいのだと言って頬を染めている。そんな嫁さんが愛しくて堪らない周であった。
 そうして無事に懐中時計を選び終えた四人は、ティータイムをすべく同じ界隈にあるラウンジへと向かった。場所はホテル・グラン・エー、粟津財閥が経営する五つ星だ。今回の囮作戦では嫡男の帝斗にも世話になった。結果的には粟津を囮にすることは避けられたものの、窮地に陥っていたあの時に快く囮作戦に手を貸そうと言ってくれた帝斗の言葉にどれだけ助けられたか知れない。皆は報告と礼を兼ねて、帝斗を訪ねたのだった。
「やあ、皆んな! よく来ておくれだね」
 帝斗は相変わらずの王子気質な笑顔で出迎えてくれた。
「粟津、今回は本当に世話になったな。お陰でなんとか落着できた。また親父さんの方には改めてご挨拶申し上げるが、とにかくは礼を言う」
 鐘崎が菓子折を手渡しながらそう言い、周や嫁たちも揃って頭を下げた。
「いやいや、結局僕らの出番は無かったわけだし。でもまあ上手く片付いて良かったよねえ」
 朗らかに笑いながらも最上階にあるレストランの個室へと案内してくれた。
「それはそうと帝斗! こないだおめえが持って来てくれたホールのケーキ! あれ、めちゃめちゃ美味かったわ! うちの若い衆たちも超喜んでさ」
 紫月が礼を述べると、帝斗もまた嬉しそうにしながらも更なる王子ぶりで応えてよこした。
「そうそう、そのケーキだけれどね。あれからまたパティシエが新作を編み出してくれてね。紫月たちに味見をしてもらおうって思ってたところだったんだ」
 しばらくすると階下のラウンジからサンプルのケーキが届けられた。今度はホール状ではなく、一口大のミニケーキが銀の皿にビッシリと並べられてきて、紫月らは驚きと感激に興奮状態だ。
「うわ……ッ、すっげえ……。めちゃめちゃ種類ある」
 しかもひとつひとつは小さいのに、まるで芸術品のように精巧な作りにも目を見張らされる。
「紫月が美味しいって言ってくれれば太鼓判だからって、ウチのパティシエたちがそう言うもんだからねえ。どうか遠慮なく素直な感想を聞かせてやっておくれ」
 と言われても、実際口に入れてしまうのが憚られるような美しい代物だ。紫月も冰も目を丸くしながら凝視状態――しばらくはもったいなくてなかなか手をつけられなかったほどだった。
「まあそう言わずに食べてみておくれ」
 帝斗が自ら紅茶とコーヒーを注いでくれる。その手つきたるや、まるで一流のサーバーそのもので、それ自体にも驚かされる。
「帝斗……おめえすげえな……」
 紅茶のカップを片手にポットを非常に高い位置から注ぐ、その仕草はまるでプロだ。財閥のお坊っちゃまというと、こういったことはまったくできないものと思っていたが、帝斗曰く学生時代からホテル業の各部署に弟子入りして身につけた技だそうだ。社のトップが何の経験もなく胡座をかいているだけではいけないと、まずは現場を体験することからが修行なのだというのが粟津家の教えだそうだ。
「ほえええ……すげえなぁ。マジで尊敬する……」
 自分たちものうのうとしていないで頑張らなきゃなと紫月と冰は感服しきりだ。
「まあ、とにかく感想を聞かせておくれよ」
 帝斗に勧められて、もったいなくも有り難く相伴に与ることとなり、最高に楽しく美味しいティータイムを満喫した面々であった。



◆48
 一週間後――。
 汐留では囮作戦任務完了の労い会が盛大に催されていた。
 香港から周の家族も駆け付けて、任務に携わった皆が一堂に会する。周邸の側近や家令たちはむろんのこと、鐘崎組の面々、粟津家の人々、それに警視庁の丹羽らも顔を揃えての大々的なパーティと相成った。
「皆、此度は誠にご苦労であった」
「皆の尽力に心より感謝する」
 周と鐘崎の父である周隼と鐘崎僚一が揃って労いの挨拶をし、警視庁の丹羽からも助力への礼が述べられる。乾杯を前にして皆にシャンパングラスを配って回っていた大忙しの真田を驚かせたのは、周による指名だった。
「乾杯の発声は――真田にお願いしたい」
 銀のワゴンを引いてボールルームを駆け回っていた真田はびっくり仰天である。壇上でマイクを持った周に手招きをされてあんぐり状態。
「わ、私めが……でございますか……?」
 キョトンと立ち尽くす真田を囲んで背中を押し、鐘崎と紫月、冰の三人で壇上へと押し上げる。あたふたとする真田を更に驚かせたのは、四人から渡された小さなプレゼントの箱を受け取った時だ。
「真田、今回も本当に世話になったな。何も知らせず、一文無しの状況でもずっと俺たちを支えてくれたこと、有り難くてならねえ。これは心ばかりだが、俺たちからの感謝の印だ」
「真田さん、いつも側で見守ってくださってありがとうございます! これからもずっと――白龍と俺のお父さんでいてください」
 周と冰からそう言われて、真田は思わず熱くなった目頭を押さえた。と同時に周隼、僚一、そして会場の全員から割れんばかりの拍手が湧き起こり、真田は抑え切れなくなった熱い雫を真っ白なハンカチで拭った。
「坊っちゃま、冰さん、そして皆様……この老いぼれめに有難きお言葉……。わたしはそれこそもう何も思い残すことはございません……!」
 おいおいと嗚咽しながら涙を拭う真田に、再び割れんばかりの拍手が起こる。
「何を言う、真田。お前さんにはまだまだうちの坊主共を立派な社会人に導いてもらわねばならんのだ。ここ日本での父親役は任せたぞ」
 周らの実父である周隼にそう言われて再び涙――。その幸せにあふれる涙声の乾杯発声と共に、賑やかであたたかい宴となったのだった。

 大パノラマの窓の外には煌びやかな大都市・東京の景色が一面に広がっている。
 信頼できる仲間と家族に包まれて、誰もが幸せを噛み締める。
 この仲間たちと共にあればこそ、どんな環境であれ、どんな境遇であれ、そこにはあたたかい幸せがあふれている。まさに病める時も健やかなる時も――永遠に共に在らん。
 またひとつ、絆を積み重ねた皆を見守るように大都会の夜景が今宵も燦々と輝き続けるのだった。

倒産の罠 - FIN -



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