極道恋事情
◆1
汐留、午後九時――、ラグジュアリーと言われているホテルのバーだ。
「しかし変わられましたね、|焔老板《イェン ラァオバン》も。すっかり企業人になってしまわれていて驚いた――」
カラカラとスコッチのグラスを弄びながら男が苦笑する。香港マフィア頭領の次男坊で今は東京の汐留にて大手商社を経営している|周焔《ジォウ イェン》についての話題だ。
男の対面ではその周焔側近の|李狼珠《リー ランジュ》が感情の見えない無表情でバーボンを傾けていた。
「――褒め言葉と受け取っておく」
仮にも侮蔑の意味で言ったのなら容赦しないぞという意味だ。
「何もそういきり立つことはないでしょう。悪い意味で言ったわけじゃありませんよ。あなたも相変わらずですね、李さん」
決して怒っているというわけではなかろうが、どうもこの李という男は感情の起伏が見えにくい。まるでそう言いたげに男は肩をすくめてみせた。
男の名は|郭芳《グォ ファン》、元は香港の周ファミリーに与していたことのある――李からすればいわば昔の同胞だ。とはいえ|郭芳《グォ ファン》がファミリーにいたのはほんの数年で、同胞と思っているのは彼のみかも知れない。
「他人のことよりお前さんの方はどうなのだ。確かモデル業一本で生きてみたいからヨーロッパに渡ると言って組織を抜けたと記憶しているが」
そうなのだ。この男、|郭芳《グォ ファン》は元々香港にいた頃から見目の良い容姿を買われて、表向きはモデルとして芸能事務所に在籍しながら社交界で情報収集に当たるというお役目を授かっていたという経緯の持ち主である。主には李同様、周焔の管轄下に置かれていた男である。
ところがそのお役目でやっていたはずのモデルという職業が性に合ったとかで、本格的に世界の檜舞台で勝負してみたいだなどと身勝手な理由からファミリーを抜けたのだった。――が、思ったようにうだつが上がらず、モデル業はほんの一年ほどでリタイア、ヨーロッパを出て以降は東南アジアに渡ったらしい。
「本来だったら到底許されまい我が侭だ。それをボスが寛容なお心でお赦しくださったのだ。他の組織では有り得んことではあるな」
無表情のままで李が言う。いわば嫌味である。男はバツの悪そうに苦笑いを繰り返してみせた。
「まあそう苛めないでくださいよ。私だって単なる身勝手でファミリーを去ったわけじゃない。モデルを隠れ蓑に情報収集するのなら、香港という小さな枠にとらわれず世界の舞台でより貴重な情報をファミリーに提供したいと思ったからです」
今でもファミリーのことは何より敬服しているのだと彼は言った。
◆2
「――心掛けは立派だな。だが実績が伴わないのでは身勝手と思われても仕方あるまい」
李の言葉には容赦も遠慮のかけらもない。正直なところこうして飲みに付き合っているのも気が進まないという胸中そのままである。
「本当に……あなたは相変わらず手厳しいですね、李さん。香港にいた頃から精鋭と言われていたあなたらしいと言えばそうですが。けれど私だって何ものうのうと過ごしていたわけではないんです。モデルを辞めたことは――まあ不甲斐ないと認めるところですが、東南アジアに渡ってからもファミリーのお役に立ちたいと常々思ってはいた。巨額の富を得られるブツを見つけて手掛けたまでは良かったんですが、結局しくじってお縄にされ、シャバへ出るまでに十年も費やすことになろうとは――。さすがに痛手でした」
彼曰く、そのヤマが成功したら、報酬である巨額の富を香港のファミリーの下へ持ち帰って役に立ちたいと、本気でそう思っていたと言うのだ。ところが結果は失敗に終わり、地元当局に逮捕されて監獄にぶち込まれ、出て来られるまでに十年かかった――とまあそういうわけだったそうだ。
出所後すぐに香港に舞い戻り、昔の仲間の伝手で頭領次男坊の周焔が日本の東京に移り住んで起業していることを知り、訪ねて来たという。それが今日の夕刻のことだった。得意先との商談が済んで周自らロビーまで見送りに出た時にちょうど訪ねて来たこの男と鉢合わせたのだ。
幸い冰は社長室で茶器などの片付けをしていてその場にいなかったので、それだけは良かったと思った李である。いかに昔の同胞とはいえ一度ファミリーを裏切るような身勝手をした男だ。そんな人間が周と冰の関係を知ったところで、どうせろくでもない噂を立てるくらいしか脳がないと思うからである。
周は突然の来訪に驚きつつも特には嫌味のようなことも言わなかったし、達者で何よりだと温情のある言葉を掛けていたが、その後すぐに接待の会食が入っていた為、ほんの挨拶程度で済んだことは幸いだった。
ところが|郭芳《グォ ファン》の方ではせっかく訪ねて来たのにそれでは物足りなかったのだろう、周の都合がつかないのなら李とだけでも話がしたいと言い出した。一緒に酒でもどうかと誘われ、気は進まなかったが了承したのは、この男が何の目的でわざわざ周を訪ねて来たのかを探る意味合いもあってのことだった。
李はハナからこの男を信用していない。面倒事の芽は早い内に摘んでおくに限るということだ。
◆3
「それはそうと――ご長男の周風老板はご結婚なされてお子も授かったそうじゃありませんか。しかも生まれた赤ん坊は男の子だとか。あの頃、妾の子だからという理由で焔老板を邪険にしていた側近の重鎮連中にとってはさぞかしご満悦でしょうね」
ふん――と、嫌味ったらしく言う。
「――おい、言葉が過ぎるぞ」
「ああ、失礼。別に悪い意味ではありませんよ。ファミリーもご安泰で実に結構と言ったまで。それより焔老板の方はどうなのです? もうあの方もいいお年頃、ご結婚はなされたので?」
少々図々しい質問に答えてやる義理はない。
「――そんなことよりお前さんの方だ。まさか焔老板に会う為だけに来日したというわけでもあるまい。この日本で一旗上げようなんざ考えているわけではなかろうな」
じろりと鋭い視線をくれられて男はタジタジと苦笑気味だ。
「そんな大層なことは考えておりませんよ。ですが、まあ……ちょっと仕事の用向きもありますのでしばらくはこの国に滞在するつもりです。ファミリーを離れたとはいえ、その後も東南アジアでは裏の世界にそれなりのパイプがありましたのでね。焔老板のお役に立てることがあればとは思っています」
「役に立てることだ? ファミリーを抜けたお前さんが今更何を言う」
「私はね、李さん。ファミリーを抜けたくて抜けたわけじゃないんです。あの頃――あなたも私も組織の重鎮たちからは何かと疎まれていた焔老板の下にいた。自分のボスが邪険に思われているのはどうにもいけすかなくてね。世界的に活躍できるモデルになれれば顔も広がる。少しでもいい情報が提供できて焔老板のお助けになれる。そう思ったからこそファミリーを去ったのです。今でも私のボスはあの人だけだと思っているんですよ」
だから少しでも周の役に立てることがあれば惜しみなく力になりたいなどと言う。李はますます呆れてしまった。
「焔老板はご覧の通りご自身のお力で起業なされて経営も順調だ。力を借りる必要などない」
「順調とおっしゃいますが、それは表の企業経営に於いては――ということでしょう? あの方だって本来はマフィアだ。今ではすっかり堅気として成功なされているようですが、私は裏の世界でも……というよりは裏の世界でこそあの人には頂点にいて欲しいのですよ。その為ならどんなことだって惜しまない。ですが――正直なところ残念と思うのも事実です」
「残念――だ?」
◆4
「だってそうでしょう? 香港にいた頃のあの人は――いつでも抜き身の刃を懐に持っていらっしゃるような鋭さがお有りになられたが、先程お目に掛かった印象では随分穏やかになられてしまったというか……。まるでご自身がマフィアだということをすっかり忘れてしまわれたかのようで……それが残念だと言ったのです。私はね、もっとこう……ギラギラとした危うさとか冷たさとかを持ち合わせている――安易に触れたら命にかかわるような緊張感とでも言いましょうか、そういったあの人でいて欲しいんです。『マフィアの周焔』でいて欲しいんですよ」
「何を馬鹿な――! 老板は今でもれっきとしたマフィアのファミリーであらせられる」
「そうでしょうか。その実、李さんだって私と同じような思いは少なからずあるのでは?」
まったくもってばかばかしいことをいう男だ。李は返事すらする気にはなれなかった。
「まあこの話はこれまでということで。李さん、よろしければ連絡先を交換していただけませんか? 日本での仕事が上手くいけば、何かいい話が持ち込めることもあるかも知れませんし」
何がいい話だか――とは思うものの、彼の居場所を把握し手駒を増やすだけなら損にはならないだろう。李は懐から名刺を一枚引き抜くと、スイと彼の目の前へ差し出した。
「ありがとう李さん。感謝しますよ。焔老板にもよろしくお伝えください」
郭芳はコースターに自分の連絡先を書きつけると、
「ご存知の通り私はシャバに出たばかりなのでね。名刺なんていう洒落た物は持ち合わせていない。これで失礼――」
薄い笑みだけを残して店を後にしていった。
◇ ◇ ◇
翌朝、李の機嫌は悪かった。といっても顔つきや態度は普段と何ら変わらずではあるが、常に行動を共にしている舎弟の劉からすれば彼のご機嫌が斜めなのはお見通しだったようだ。
朝の九時過ぎ、まだ周と冰が出勤してくる前である。
「それで――どうだったのです、昨夜は」
コトリ、卓上に茶が差し出されて李はハタと相棒を見上げた。
「ああ、劉か。すまんな、いただこう」
淹れたての茶を一口啜りながらもやはり普段よりは口数が少ない。
「お会いになられたのでしょう? 例の郭芳――」
劉は昨夜、周の接待に同行して行ったので、郭芳との様子がどうだったのかと気に掛かっているのだろう。
◆5
「それなんだがな――相変わらずというか、変わっていないというか。ろくでもないことだけをベラベラと喋って帰っていった」
「……そうでしたか。焔老板もお気になされていらしたもので」
「後で老板にもご報告申し上げるが、あの馬鹿が良からぬことをしでかす前に摘める芽は摘んでおかねばならん。ヤツはしばらくこの日本に滞在するとぬかしていたから、ひとまず私の名刺を渡しておいた」
「……名刺を渡されたので?」
「ああ。密かにGPSを仕込んである方の名刺だ。ヤサを知っておいて損はないからな」
渡した名刺は社のロゴマーク部分にGPS機能を組み込んだタイプのものだ。余程のことがない限り使うことはないのだが、不測の事態が想定されるような場合にだけ使えるようにと特別に作った名刺である。記載の電話番号も簡単に変更可能な――いわばメールでいうところの捨てアドレスのようなもので、架ってきた通話は転送で李の携帯へと入ってくる仕様だ。むろんのこと劉も同様の名刺を持っているが、未だに使ったことはなかった。
「左様でしたか。すると彼がまた何か焔老板に不利益をもたらすような兆しがあったのですか?」
「今のところは何とも言い難い。だが、日本での仕事が上手く運んだ暁には老板にもいい話が持ってこられるかも知れないなどとほざいていたからな。用心しておくに越したことはない。お前さんも心に留めておいてくれ」
李は昨夜郭芳と話した内容を一通り話して伝えた。
「なるほど……。私自身はあの郭芳がファミリーを去った後にご縁をいただいたもので、彼についてはよく存じませんが、心しておきます」
そんな話をしていると周らが出勤して来た。
「老板、冰さん、おはようございます」
李は早速に昨夜のことを周にも報告することにした。
◇ ◇ ◇
「なるほどな。するとヤツは未だ裏の世界に未練があるというわけか」
「どうもそのようです。日本での仕事がどうのと言っておりましたが、またしくじってこちらにとばっちりが来なければいいのですが……。とりあえずのところヤサは突き止められましたので警戒しておくことにいたします。渡した名刺のGPSの反応から安ホテルに滞在しているようですが、ヤツがあの名刺を処分しない限り追えるところまで追ってみます」
「すまんな、李。要らぬ苦労を掛ける。だがまあ――少々思い込みの激しい野郎だったからな。てめえの力量を過信して、身の丈以上のブツに手を出さんとも限らん。ファミリーを抜けているとはいえ、お前の言うようにこちらにとばっちりが来ないよう気をつけておくに越したことはない」
「はい、その点は抜かりなく――。私見ですが、いずれまたヤツの方から接触を試みて来る気がいたしますので」
周に迷惑となるようなことだけは避けねばならない。李は気持ちを引き締めると共に重い溜め息が隠せなかった。
◆6
一方、郭芳の方ではここ日本での仕事とやらに夢中になっていたようだ。香港時代、多少親しくしていたことのある元の仲間たちに片っ端から電話を架けては、今の自分に相当の力やコネクションがあると自慢げに話す日々。どうやらこの郭芳という男は周ファミリーに復帰したいが為か、躍起になって大手柄を上げんと奔走しているようであった。
今度の仕事でこれだけの金が入る――とか、自身の伝手で日本のヤクザを動かしたとか、少々疑いたくなるようなことばかりを昔のよしみに話しては自慢して歩いているようだ。そうすることによっていかに自分が使える男かという噂がファミリーの耳に届けばいい――とでも思っているかのようだった。
昔馴染みだった連中の方もそんな郭芳の胸中が分かるわけか、少々呆れ気味である。彼らは今現在も周ファミリーに属している現役たちである。正直なところ、身勝手で組織を抜けた者と懇意に連絡を取り合っているなどということが知れれば、彼らの立場を悪くしかねない。
『お前、ファミリーに復帰したいってのか? だったら直接ボスにそう願い出ればいいじゃねえか。まあ……ボスがすんなり聞き入れてくれるとも思えねえが』
「別に復帰したいなどと大それたことは考えちゃいませんよ。ただ周一族に世話になったのは事実ですからね。何か恩返しできることがあればと思うだけです」
『は、恩返し――ね。日本のヤクザと組んでデカいヤマでも踏もうってか? だが気をつけろよ。どこのヤクザと組むんだか知らねえが、日本にはファミリー次男坊の周焔老板がいらっしゃるんだ。あの方に迷惑が掛かるようなことはしねえこった。焔老板の手を煩わせるようなことになれば、香港のボスも黙っちゃいねえだろうからな』
「分かっていますよ。あの人の迷惑になるようなことはしません」
『どうだか――。まあ組織を抜けたおめえさんが何処で何をしようが勝手だが、今や焔老板も所帯を持たれて昔のような身軽というわけじゃねえんだ。せいぜい慎重にやって、今度は監獄にぶち込まれるようなヘマだけはしねえこった』
馴染みの男は親切心からそう苦言しただけだったが、郭芳にとっては今の会話でたいそう驚かされてしまったようだ。
「……焔老板が所帯を持っただって? ではご結婚なされたということですか?」
『なんだ、知らなかったのか? そうだな、かれこれもう二年になるかな。――ああ、おめえさんはその頃監獄暮らしだったか』
それなら知らなくて当然だなと言って昔馴染みは笑った。
「え、ええ……まあ……。それで奥様はどんな方なのです? やはり裏の世界のご縁とか?」
『さあ、馴れ初めまでは知らんな。俺も直接会ったことはねえが、兄貴分の話を聞く限りじゃえらくいい人みてえだ。とにかく謙虚で、野心家とは程遠い善人だとか言われているな。ただしご結婚相手は男だからな、一部の重鎮たちの間じゃあまり歓迎されてねえとかの噂も聞くがね』
「男――? 焔老板は男と結婚したっていうんですか?」
郭芳は心臓が止まるほどに驚かされてしまった。
◆7
通話を終えた後も郭芳は呆然、しばしは立ち直れないほどだった。
(あの焔老板が男と結婚しただって……? この前、李狼珠に会った時はそんなことひと言も言っていなかったが……)
とにかくはその相手の男というのがどんな人間なのか気になって仕方がない。
(冗談ではないぞ……。あの人が男と結婚だなど、それじゃ俺のこの十数年は何だったっていうんだ……)
いつかは周焔がファミリーのトップになってくれることを望み、その為に少しでも役に立ちたいとファミリーを抜けてまでヨーロッパに渡って世界的なモデルを目指した。だがそれも思うようにいかず、それならとせめて大金を手にできる危ないブツに手を出し、挙句捕まって監獄暮らしを強いられた。
思えば酷く屈辱的な十年だったわけだ。
(それなのにあの人は香港を離れて堅気まがいの企業家になり……しかもあろうことか男と結婚しただって?)
「クソ……ッ! なんてこった!」
ガツンと机を叩き、唇を噛み締める。
「いったいどんな男だってんだ……! まさかそいつのせいであの人は変わられてしまったかというのか……? クソ……クソぅ……! こうなったら焔老板の結婚相手を快く思っていないっていうファミリーの重鎮を抱き込んで――何とかするしかねえ」
まずはその重鎮とやらを捜し出す必要があるが、郭芳にとってそれは案外容易いと思われた。
「おそらくは当初から焔老板自体を邪険にしてたあの老害連中あたりだろう。何とかヤツらと連絡を取って手を組むしかねえ……。老板にファミリーのトップを取ってもらう為には男の配偶者など邪魔になるだけだ! クソぅ、毒婦めが! いったいどんな手であの人に近付いたってんだ!」
とにかくその結婚相手とやらがどんな男なのかその目で確かめなければ始まらない。郭芳は滞在先を汐留の社近辺に移して様子を窺うことにした。
「……チッ! あの辺りじゃ安ホテルを見つけるのも一苦労だってのに!」
荷物を整理しながら、ふと先日李からもらった名刺が目に入った。
「――ふ、こいつももう必要ないか。李の番号は登録したし、例え紙切れ一枚でも余分な物は持って行かねえに限る」
ビリビリと破いてゴミ箱へと放り込む。その切れ端が飛び散って絨毯の下に潜り込んだことに気付かないまま、郭芳はホテルを引き払ったのだった。
絨毯に潜り込んだのは幸か不幸かGPS機能が組み込まれているロゴマークの部分だ。損傷で電波は微弱になろうが、位置情報が拾えない程ではない。李にとっては郭芳の居場所が未だこのホテルであると思わされる事態といえる。運がいいのか悪いのか、郭芳という男にとっては運がいいということになるのだろう。
李が知らぬ間の水面下でまたひとつ厄介な企みが動き出そうとしていた。
◆8
汐留、アイス・カンパニー社長秘書室――。
郭芳が姿を見せてからというもの、日に数度は彼の居場所を探査に掛けている李である。今朝も出社するとすぐに渡した名刺のGPSを確認、ふうと小さな溜め息をつく。
「まだホテルを動いていないか――。あの野郎、名刺を部屋に置いたままで出歩いているな」
紙切れ一枚くらい財布の中にでも持って出てくれれば手間も省けると思う傍ら、ホテルから動いていないのであれば万が一の時に身柄を押さえるのはわけもない。正直なところ商社の仕事で手が塞がっている中、郭芳に張り付いてばかりもいられない。時間が空いた時に位置情報を確認するくらいでも手一杯といったところなのだ。
とにかくは何事も起こらなければいいと願う李の思惑を裏切るかのように、郭芳の方では着々と身勝手な夢に向かって目下まっしぐら――未だ誰も予期せぬ暗雲が遠くの海上あたりで生まれ出でようとしていた。
◇ ◇ ◇
香港、夜九時――。
高級住宅街と言われる高台の、とある一軒家にファミリー側近の重鎮たちが顔を揃えていた。
彼らは頭領の周隼がまだ組織を継ぐ以前から与していた古株で、いわば先代の頃からの第一側近と言われていた者たちである。つまり周隼の父の代から仕えてきた側近中の側近だ。それゆえ誰もが既に高齢といえる。近頃ではそろそろ隠居してゆっくりと余生を楽しみたいなどという話もチラホラと上がり始めた今日この頃、こうして一堂に会するのも久しぶりのことである。何か事が起こっても若い者任せになっていて、本人たちが表立って動くことの少なくなってきた今、わざわざ重鎮自らが顔を揃えたのには理由があった。それというのは現頭領である周隼の後継について少々放り置けない密告を受けたからだった。今夜の顔合わせも極めて秘密裏の集まりである。
「しかし本当なのか? 東京にいるボスの次男坊の周焔――彼がご長男の周風殿を出し抜いてボスの後釜を狙っているなどと。にわかには信じられん話ではあるが」
「リークしてきたのは以前ファミリーの情報役として芸能界に所属し、モデルをやっていたとかいう郭芳という男だそうだが――」
「何でもその郭芳が久しぶりで周焔と再会したとかで、この情報を持ち込んできたというが。ヤツによると周焔は表向き日本で商社を経営し、跡目争いからは一歩引いた素振りを装ってはいるが、密かに兄の周風殿を蹴落として自分がファミリーのトップに座るつもりで計画を進めているとか」
本当だろうかと皆で顔を見合わせる。
◆9
「確かに――ご長男の周風殿も所帯を持たれて男児も授かりなすった。そろそろ後継の話が出てきても不思議ではない頃合いと言えるがな」
「そうですな。お隣台湾の楊ファミリーのところも既に風殿と年頃の近い嫡男が組織を継がれたばかりだ。うちのボスもそろそろご令息に後を任せてもとお考えになったとて不思議はなかろう」
後継は当然のこと香港在住で長男の周風だと、ほぼ皆がそう思って疑わないところではあるが、実のところ現頭領の周隼から正式な公表があったというわけではない。いわば微妙な時期だからこそ弟の周焔がトップを横取りしようと密かに動いているとしても、それ自体は有り得ない話ではないとも思うのだ。
「しかしまあ……何と言ってもネタの出どころが怪しいものだ。郭芳といったか、ヤツは元々周焔の下についていた直属の部下というではないか。いくら組織を抜けているからといって、そんなヤツが言うことを信用してよいものか……」
「案外、当の周焔が送り込んできたスパイということも考えられる」
「ふむ、それならば無くはない……といったところか。だが彼はそんなことを企むような男ではあるまいとも思うのだが――。さて、どうしたものかの――」
正直なところ、この重鎮たちの見識では次男坊の周焔が香港に舞い戻って跡目を狙っているなどとは考えてもいなかった――というのがほぼ同意見だ。
「ボスがお妾を作って周焔が生まれた当初は……確かにそういった危惧がなかったとは言わん。後々厄介な火種になってはいけないと、我々自身周焔を危険視していたことは認めるところだが……」
「でも彼は自らこの香港を離れて実母・氷川あゆみ殿の故郷である日本に移住したのだぞ。今では表の企業経営で稼いだ金をファミリーの資金源として提供してくれている。そんな男が今更跡目を狙うなど考えられんことではあるな」
「わしも同意見だ。年に数回ご実家に帰って来た際も、我々にまで土産の心遣いなども欠かさんデキた男だ。まあ……連れ合いに男を選ばれたということだけは両手放しで賛同しかねるが……」
「だが、その連れ合い――確か冰といったか、彼は非常に謙虚で欲のない男だと聞いておるぞ」
「そのようだな……。周焔が帰省時に必ず持参してくる我々への土産もその連れ合いが気を回して選んでくるそうだ。そんな諸々の経緯から周焔が成長にするにつれ、我々も彼のことを邪険に思っていた昔を反省せねばという気にさせられたものだ。間違っても兄の周風殿を出し抜こうなどという考えでいるようには見えんがな」
◆10
「やはりガセではないのか? 元部下の郭芳というヤツが勝手なことをぬかしているだけでは?」
「そんな話にホイホイ乗せられたなどとあっては我々の信用にもかかわるぞ。わしらは皆、そろそろ隠居間近の身だ。最後までファミリーのお手を煩わせるようなことがあってはならんし、汚点を残さず綺麗に身を引きたいものだ」
皆一様にそうだそうだと頷き合う。ところが――だ。
そんな中に突然の来訪者を告げる玄関のベルが鳴り、出てみると何とそこには情報をリークしてきた郭芳当人が現れたことに驚かされた面々であった。
郭芳はたった一人でやって来たようで、他に連れは見当たらない。だからといってはなんだが、重鎮たちも少々彼をみくびってしまったのが運の尽きであった。彼は単身、こちらは六人。いかに老体揃いといえど、六対一で何ができるわけもなかろうと邸に招き入れてしまったことを後悔する羽目になろうとは、この時の誰もが想像すらしていなかったのだ。気付いた時には見たこともない廃倉庫のような場所に六人全員が拘束されていて、蒼白となる事態に陥ってしまっていた。
◇ ◇ ◇
汐留の周の元に父の周隼から一報が入ったのは、重鎮たちが姿を消してから数日後のことだった。側近六名が一度に行方不明になったことで、周の元にも調査方々助力の要請が届いたのだ。
隼の話では鐘崎組にも同じく助力を願いたいとのことで、周は親友であり組若頭でもある鐘崎遼二を連れて香港の実家へ赴くこととなった。二人の伴侶である冰と紫月も一緒だ。
鐘崎組からは若頭と姐の警護も兼ねて番頭の源次郎が同行することとなり、周の方では社の業務を李と劉に任せて家令の真田を連れて行くことに決まった。
鐘崎らとは空港で待ち合わせることにして、汐留の社長室では周が李らに留守を預ける算段をしていた。
「状況は逐次報告を入れるが、向こうに行ったらいつ帰れるかは今のところ何とも言えん。長期戦になるようなら一旦帰国も有り得るだろうが、留守を頼んだぞ」
「かしこまりました。経営の方はしっかりお守りいたしますのでどうぞご心配なく。老板もお気をつけて」
李は主人を送り出しながら、ふとある思いが脳裏を過って、自分たちの方でも独自の調査を考えるのだった。
(行方不明になったのはボスの第一側近の重鎮方――か)
李が気になったのはその重鎮たちについての話題がつい先日訪ねて来た郭芳の口から出ていたということだった。
◆11
郭芳はその昔、まだ周が香港在住時に重鎮たちから疎まれていたことを話題に上げていた。まあ久しぶりに会った昔の同胞との会話の中に当時の話題が偶然に上がっただけともいえるし、今回の失踪事件と直接の関わりがあるとは言い切れないが、調べておくに越したことはない。李は郭芳に渡したGPSの位置情報を基に彼の動向について把握しておくべきと思っているのだった。
夕刻、社の業務を終えると李は郭芳の滞在先を訪ねてみることにした。別段彼に会うつもりはなかったが、様子窺いだけでもと思いGPSが示す安ホテルへと向かったのだ。
ところが夜遅くになっても郭芳の出入りは見られない。次の日も同じようにホテルを訪ねたものの、一向に気配すら感じられない為、思い切ってフロントを訪ねてみた。すると郭芳らしき男は何と十日も前にチェックアウトしていることが判明し、李は彼が滞在していたという部屋を取って、室内を探ってみることにした。
(おかしい……GPSは確かにここを示している。だがチェックアウトしたとはどういうことだ)
考えられるのは郭芳がこの部屋に例の名刺を置いて行ったということだ。
部屋をくまなく探すと、絨毯の下から破れた名刺の一部が見つかって、李は蒼白となった。
(クソ……ッ! 何てことだ……。私としたことが……)
急激に焦燥感が襲ってくる。李はすぐさま汐留に戻ると、香港にいる周宛てに連絡を試みたのだった。
ところが――だ。
その周の方でも厄介な事態に陥っていたようだ。なんと冰が姿を消してしまったというのだ。
重鎮たちの失踪と何らかの関わりがあるのか無いのかということも含めて、香港は蜂の巣を突いたような大騒ぎになっているとのことだった。
『李か! 連絡を入れようと思っていたところだ……。飯を食った先のレストランで冰が姿を消した。まだ何が起こったと断定できる段階でもねえが、かれこれ二時間は経つ。今、カネと一之宮たちが必死に行方を追ってくれているんだが……』
周にしてみれば重鎮たちの捜索に助力するどころか、逆にファミリーの手を煩わせる羽目になってしまった状況に苦しい立場のようだ。李はすぐさま自分も香港に飛びたいと申し出た。
◆12
社を劉に預けて香港へ向かう傍ら、李は郭芳の出入国記録を調べていた。すると、やはりこの日本を出て香港へと向かったことが判明――今回の重鎮失踪事件への関与が疑わしくなってくる。
(しかし……冰さんまで居なくなったとはどういうことだ。重鎮方を拉致したのが郭芳だとすれば、冰さんを拐ったのも郭芳である可能性も疑わねばなるまい。目的は何だというのだ)
先日会った際に彼が引っ掛かることを言っていたのは事実だ。周焔にファミリーを継いで欲しい、その為なら何でもするというような勢いだった。
(仮に焔老板が兄の周風殿を追いやって後継の座を手に入れるには、あの重鎮方が足枷になるのは目に見えている。郭芳はその邪魔者を排除して焔老板にトップを取ってもらうよう画策するつもりなのか……?)
だとすれば当然冰のことも邪魔に思うかも知れない。
(だが、郭芳は焔老板が冰さんとご結婚なされたことを知らないはずだ――)
李自身は言っていないし、十年以上も前にファミリーを去った郭芳がそんな情報を知る術もないだろう。もしかしたら昔の仲間に連絡を取った際にでも周と冰の関係を耳にしたというわけだろうか。李は香港に着くとすぐに、当時郭芳と顔見知りだったろう者に事情を訊くことにした。
すると思った通りか、ここ最近で郭芳から連絡を受けたことがあるという者が複数見つかった。それによると、やはり彼らの内の一人が周が男性の伴侶を娶ったことを漏らした事実が判明した。
「彼らの話によると郭芳は日本のヤクザと組んで大きなヤマを踏むとか何とかうそぶいていたようです。実際、私と会った際にも同じようなことを言っていましたし、当初の予定ではしばらく日本に滞在するつもりだったのでしょう……。それが何故急にこの香港に舞い戻ったかということです」
周に報告しながら李は焦燥感を露わにしていた。
「もしかしたら老板と冰さんの関係を快く思わずに冰さんを拉致したのだとしたら……」
李からの報告を受けて周もまた渋顔だ。
「ふむ、つまりヤツはこの俺を親父の後継にしたいが為に、それを邪魔しそうな重鎮方を拐ったというわけか――? 李の想像が当たっているとして、だが冰まで拐う目的が分からんな。俺をトップに押し上げたいという思いで動いているとするなら、その俺の大事な伴侶を邪険にするだろうか」
周を尊敬し、ファミリートップの座につかせたいと思うほどならば、冰はその姐という立場になる。本来ならば周同然に敬うべき相手だろうと周は言うのだ。重鎮方と冰の件は全くの別物という可能性もあると周は踏んでいるようだ。
◆13
「老板、冰さんはどのようにして行方が分からなくなられたのです?」
「ああ……俺たちはカネと一之宮、それに源次郎氏と五人で重鎮方の立ち回りそうな店に聞き込みに回っていたんだ。その途中、繁華街のレストランで食事をとり、俺が会計をしている間に居なくなったんだ。最初は厠にでも行ったのかと思って捜したんだが一向に行方が掴めねえ」
そこですぐさま拉致を疑い、源次郎が冰のスマートフォンとGPS付きの腕時計を探査に掛けたが反応が出ないということだった。
「周囲の防犯カメラを当たったが、いかんせん人の往来が激しい繁華街だ。それらしい人物の動きは見当たらなかった。もしかしたらカメラのない裏口か何かを使って連れ去られたのかも知れん」
だがファミリー内では重鎮方の捜索で手一杯の中、冰のことで人手を割いてもらうには周の立場を考えると非常に辛いところだ。李が来てくれて助かったというのが実のところのようだった。
「とにかく――手掛かりが皆無の今だ。冰の腕時計にあるGPSが効かないことからして、拉致犯は素人じゃねえだろう。おそらくは身に付けている物をすべて物色して、GPSが仕込まれていそうな物を潰したと考えられる。李さんの言うように、重鎮方と冰を拐ったのが郭芳という男だと仮定して動いてみるのも有りだと思う」
鐘崎は出来ることから手を付けるしかなかろうと、源次郎と共に郭芳が潜伏しそうな場所をしらみ潰しに当たっていこうと言った。
「私の調べた限りでは郭芳はこの香港から出てはいないと思われます。ヤツは金銭的にも左程自由が効く様子でもありませんでしたし、重鎮方六人を抱えてしけ込むとすれば――繁華街の空きビルか、あるいは港周辺にある廃倉庫、もしくは山中の空き別荘などに転がり込んでいると考えられますが……」
李が地図を広げながら言う。
「それから――これは私の想像に過ぎませんが、もしも郭芳が焔老板をトップに押し上げたいというだけの目的ではなく……老板に恋情のようなものを抱いていると考えれば、冰さんを邪魔に思っての行動とも言えるのではないかと――」
その意見に周はもちろんのこと、鐘崎らも驚いたように互いを見合わせた。
「郭芳って野郎が氷川に恋情を抱いていると――? 李さん、この前ヤツに会った時にそんな感じを受けたのか?」
鐘崎が訊く。
◆14
「いえ――はっきりそうとは言い切れません。あの時ヤツは『老板には堅気の企業人ではなくマフィアの周焔でいて欲しい』と言っていたので。ただ……よくよく思い返してみれば、老板のことを『あの人』と言ったり……もしかしたら単に後継を取って欲しいというよりも、老板個人に対する何らかの思いがあるようにも感じられて……」
それが恋情であるとは限らないが、純粋にマフィアトップの座に押し上げるという以外に思惑があるように思えてならない――というのが李の直感だそうだ。仮にそれが当たっているとすれば冰を邪魔に思って拉致したという線は色濃くなってくるだろう。
「うむ、やはり郭芳が糸を引いているという線で当たってみるしかなかろう。他に手掛かりが無え今だ。臭えところから着手するのも手だ」
「――そうだな」
鐘崎と紫月、それに源次郎の三人は冰が姿を消したレストラン周辺の聞き込みと、再度防犯カメラ等を当たることにして、周と李は郭芳が連絡を取ってきたという者たちから更に詳しく話を聞くと共に郭芳が潜伏しそうなヤサの割り出しを急ぐこととなった。
◇ ◇ ◇
一方、その頃――。
当の冰は混沌とした意識の図中にあった。頭の中にもやが掛かったように朦朧とする中で、幾度も脳裏に浮かんでくるのは同じ映像だ。それはつい先程まで周らと共に食事をしていたレストランでの出来事だった。
食事を終え、皆で席を立った。源次郎は車を回してくると言って一足先に表通りへと出て行った。周は鐘崎と共に会計をしていた。紫月もおそらくは周辺にいたはずだ。そこまでははっきりと覚えている。
異変が起こったのはその直後だった。入り口で周らを待っていたところへ見知らぬ男が近付いて来てこう言った。
『今、アンタと一緒に食事をしていた男たちだが――彼らのことを我々の仲間が銃で狙っている。ここでブッ放されたくなければ黙ってついて来い』
驚く間もなくその場から連れ出され、レストランの入っていたビルの裏階段を走らされたところまでは記憶があった。その後、薬物のようなものを嗅がされ意識が遠のいてしまったようだ。
未だ脳裏を巡るのはその時のことが一部始終――延々と頭の中でリピートされるのみだ。
……さん! 冰さん……!
遠くから微かに誰かに呼ばれる気がして、脳裏を巡っていた映像が途切れた。その瞬間、ぼんやりと視界に飛び込んできたのは見知らぬ老人たちの顔――誰もが心配そうにこちらを見下ろしながら、焦燥感いっぱいといった顔つきでいる。
「ん……。あ……の……ここは……?」
ようやくのことで意識を取り戻したことに安堵したのだろうか、老人方は胸を撫で下ろすように誰もがホッと溜め息をついたのが分かった。
◆15
「良かった、気がつかれましたか」
「お加減は? どこか具合の悪いところはなかろうか?」
皆が口々に話し掛けてくる。意識がはっきりしてくるごとに、ぼんやりと霞んでいた老人方の顔や声が鮮明に感じられるようになっていった。
「あの……俺はいったい……? 皆さんは……」
上半身を起こして周りを見渡せば、まるで自分を取り囲むようにして不安顔の老人が数人いることに気がついた。それもどこかで見た覚えのある顔ぶればかりだ。
「……皆さんは……」
「気がつかれて良かった! わしらは皆、周ファミリーの者じゃ」
「……あ!」
そういえば思い出した。彼らは義父の周隼についている側近たちだ。
周と共に香港の実家を訪れた際に何度か顔を合わせたことがある。しかも確か側近の中でも非常に高い立場の重鎮たちだったはずである。冰自身は彼らと直接話をしたことはなかったものの、帰省時には義父の側にいる彼らと周が挨拶を交わしていたことを思い出す。
「皆さん、お父様の……」
「そうじゃ。周隼のお側にお仕えしている者たちじゃ」
冰は慌てて姿勢を正すと、床に両手をついてガバリと深々頭を下げた。
「は……! ど、どうも失礼を! 雪……」
雪吹冰ですと言い掛けて、慌てて言い直した。
「ひょ、冰と申します! い、い、いつもお世話になっております……!」
冰にとって義父の側近といえば畏れ多い存在だ。しかもここにいるのは目上も目上のご高齢揃い、それこそ身の縮む思いにもなろうというものだ。
老人方もそんな冰の態度に好感を覚えたのか、皆揃って軽く会釈をしながらも笑みを見せてくれたことにホッとする。と同時にハタと気がついて冰は大きく瞳を見開いてしまった。
「皆さん……もしかして今行方不明になっているファミリーの……」
そう、それこそ彼らを捜すべく周も鐘崎もこの香港に召集されて来た。まさにその当人たちが顔を揃えていることに驚きを隠せない。
そういえば、今いるこの場所もまるで廃墟といった雰囲気の倉庫のような所であることに気付く。天井は遥か見上げるほどに高く、声も響くほどにだだっ広い。薄暗がりで灯りはなく、ガラスの割れた天窓から差し込む陽の光がこの巨大な空間の塵や埃を浮かび上がらせているといったふうな状況だ。よくよく見れば、老人方の誰もが酷くやつれたような風貌でいる。
「……あの、皆さんに何があったのですか? 今、ファミリーの方々が総出で皆さんの行方を捜しておられるんです……。僕も……実は白……いえ、焔さんと一緒に皆さんの捜索に出ていたところだったんですが、その途中で知らない男の方に声を掛けられまして……」
「そうじゃったのか……。ボスにも皆にも迷惑を掛けてすまないと思っている。実はわしらも――」
――と、その時だった。倉庫端の扉が鈍い音を立てて開けられ、一人の男が姿を現した。郭芳である。
◆16
「おやおや、お気付きのようですね。雪吹冰さん――でしたね」
「……あなたは……?」
すると、重鎮の一人が男に向かって啖呵を切った。
「郭芳! どういうつもりだ! わしらをこんな所に閉じ込めた上に……この人まで拐いおって! こんなことがバレたらお前はただじゃ済まされんぞ」
ところが男はまるで動じていない。ヘラヘラと笑いながら太々しい態度でこちらへと近寄って来た。見ればあろうことかその手には短銃が握られている。
「――クッ……! 皆さん、僕の後ろへ!」
冰は咄嗟に両腕を広げて重鎮たちを自分の背に隠すべく前に歩み出た。
「ほう? 随分とまた威勢のいい――。そんなふうに庇えばあなたのお株が上がるとでもお思いで?」
男は重鎮たちの盾にならんとした冰の態度に苛立ちを覚えた様子だ。銃口をこちらに向けたまま、ツカツカと早足でやって来ると、いきなり冰のこめかみ目掛けて突き当てた。
「郭芳……! やめんかッ!」
「この方を誰だと思っておる!」
さすがに焦ってか重鎮たちが声を揃えて止めに掛かる。
「ふん! 誰だと思っている――ですって? そんなことは聞かずとも承知ですよ。僕にとっては目の上のたんこぶ――非常に鬱陶しい存在なんですからね!」
どうやら男にとって冰は邪魔者のようだ。
「と……とにかく……その銃を下ろせ……! 目的は何だというのだ」
重鎮の説得に男はニヤっと口角を上げた。
「いいでしょう。下ろせと言うなら下ろしましょう? だが条件がある。この雪吹冰には――これにサインしてもらいます」
懐から一枚の紙切れを取り出すと、冰の目の前へとぶら下げてみせた。
「それは一体何だ! 何に署名させようというのだ……!」
「ふん、そう怒鳴ってばかりいたら皆さんの体力を消耗するだけですよ? どうせあなた方は間もなく隠居を考えていいお年だ。おとなしくしているのが得というものです」
「……グッ、郭芳……貴様……」
「この書類はね、雪吹冰――ああ、今は図々しくも周冰でしたか。彼が周氏を抜けて元の雪吹姓に戻りたいという意思表明が記してあるものです」
「――! 何だと……?」
「今後一切周家との関わりを絶って、婚姻関係を解消させて欲しいという雪吹冰の意思表示ですよ! この男がサインをすれば皆さんのことも解放します。ですから皆さんからも彼にサインするようにご説得くださいな」
「何をバカな……。我々がファミリーのご事情に口を出せるはずもあるまい。それ以前に……貴様、こんなことをしてボスや焔老板に知れたら冗談では済まされんぞ……。覚悟はできていような?」
重鎮たちが凄み掛けるも彼は平然と笑ったままだ。
◆17
「ふん! 焔老板――ですって? まさかあなた方からそんな言葉を聞ける日がくるとは思っていませんでしたよ。散々っぱらあの人を邪魔にしてきた老害のくせして――!」
今更『老板』だなどと敬う言葉が出る自体、ちゃんちゃらおかしい――と、男は吐き捨てるように言う。
「とにかく! 助かりたければ素直にサインなさい。そうすれば最悪あなた自身の命も助けてあげますよ。このご老人方もすぐに家に帰れるんだ」
さあ、どうしますか? と冰を見下ろす。
「分かりました。サインしましょう」
しばし考えるでもなく、間髪入れずに冰は承諾を口にした。
「……冰さん!」
「いけませぬぞ……!」
「そうです! こんな男の言いなりになる必要などない!」
重鎮方は口々にそう叫んだが、冰の気持ちは変わらないようだ。
「構いません。周家から籍を抜けということですよね? それでここにいる皆さんを解放していただけるのでしたら喜んでサインします。ただし――僕がサインをしたら必ず解放すると約束してくださいね」
冰は言うと、男の手から紙とペンを受け取って迷わずに署名を書き入れた。
「ふぅん? もう少し骨のあるヤツだと思ったら――案外ちょろいものですね。まあ素直でいてくれて私は手間が省けましたが」
「サインはしました。さあ、皆さんを解放してください!」
ところが郭芳はまだ手続きが残っていると言って、解放を拒んだ。
「せっかちな男だ。まだ全てが済んだわけではありませんよ。これからこの書面を周一族に送りつけます。その後でリモート通話に応じてもらえたら、あなたの口からこの書面に書いてあることは紛れもなくあなたの希望であって、誰かに強要されたものではない本心であると言うのです。周一族がそれを受け入れれば今度こそ全員を解放すると約束しますよ」
郭芳は準備の為、一旦この場を後にすると言って倉庫を出て行った。
「……なんてこった! 郭芳め、調子に乗りおって……」
「すまない、冰さん……。我々のせいで」
だが、さすがに皆も冰があれほど簡単に要望に応じるとは思ってもみなかったようだ。いくら人質解放がかかっているとはいえ、殆ど会ったこともない自分たちの為にこうも簡単に周姓を捨てるなどとは驚き以外の何ものでもないからだ。誰もが戸惑いを隠せずにいた。
◆18
「冰さん……あんた……何故サインを? わしらの為とはいえボスがせっかく入れてくれたファミリーの姓を捨てるなど……」
「も、もちろんわしらが解放された暁には……ボスに経緯を話してあんたに周姓を取り戻してもらえるよう頼むつもりじゃが……」
「それにしても――あんな書面を見れば焔君は少なからず動揺するじゃろうて。あんた方ご夫婦の仲に溝ができてしまうのではと心配じゃ」
重鎮方の気持ちは有り難いが、冰は心配には及ばないと言って笑顔を見せた。
「大丈夫です。白……いえ、焔さんはあのような書面を見たところで驚くようなことはございません。それよりも今はここを無事に脱出することが第一です。あの郭芳さんという方ですが、どういった方なのですか?」
冰は郭芳と会うのは初めてだ。当然だが彼の素性も知らない。
とにかくは彼がこの場にいない内にできる限りの情報を手に入れることが必須といえる。重鎮方はあの男のことをよく知っているようだったし、聞けることは聞いておかねばと思うのだった。
その重鎮方の話によると、あの郭芳は以前ファミリーに与していた者ということだった。しかも周の配下に置かれていたらしい。
「もう十年以上も前になりますかな。焔君がまだ香港のご実家にいた頃の話です。郭芳――あやつは少々見てくれが良かったこともあり、ファッションモデルとして主には芸能界や社交界で耳に入る様々な情報や噂話を収集して歩くのが役目でした。我々にとって情報というのは命ですからな。まあ彼もまだ若かったですし、情報収集とはいえ実際は大して役に立つ話を持って来られるわけもないということで――一番若い焔君の直下に置かれたわけです」
ボスの周隼からすればそれも若手を育てる為の教育期間的な考え方で、年頃の近い次男坊、焔の直下としたらしい。
「ところがあやつはもっと大きい――世界の檜舞台で本格的なモデルとして活躍したいとぬかしましてな。ファミリーを去ってヨーロッパへと渡ったのです。その後はどこでどうしていたか我々もよくは知りませなんだ」
それが突然降って湧いたように姿を現したかと思えば、次男坊の周焔が兄の周風を差し置いてファミリートップの座を狙っているなどという情報を持ってきたというのだ。冰は驚いてしまった。
◆19
「白……いえ、焔さんがファミリートップをですって? まさかそんな……」
周からはそんな話を聞いたこともなければ、何より彼が兄を差し置いて大それたことを企むような男でないことは聞かずとも承知だ。
「我々もまさかと思っていたのじゃが、その話し合いの為に皆で別荘に集まっていた最中にあの郭芳がやって来てな……。気がつけばここに監禁されていたというわけじゃ」
「なるほど……。そうだったのですか」
経緯は分かったが、問題は郭芳の目的だ。重鎮方を拘束した上に、今さっきは冰自身に向かって周家から籍を抜くようにと言ってきた。
「考えられるのは……あの方の目的の為にはここにいる皆さんと僕が邪魔になる――ということでしょうか」
冰にとっては自分が邪魔にされるのは何となく理解できるものの、ファミリーの要であるこの重鎮方をも排除したいという動機が分からない。
「とにかく――あの方が戻って来て焔さんやお父様とリモートが繋がったら、僕に周家との縁を切りたいと言わせるつもりなのは確かです。僕は言われた通りに話そうと思います」
そうすればとりあえずこの重鎮方だけでも解放されることだろう。
「だが……そんなことをすればボスや焔君は心を痛めるのではないか? さっきの紙切れくらいなら強要されて書かされたものと思うじゃろうが、あんたが直接そんな話をすればさすがに焔君も動揺されるじゃろうて」
重鎮方は心配そうにしていたが、冰は問題ないと言って穏やかに微笑んだ。
「大丈夫です。僕たちはこれまでにもいろいろなことがあって、拉致された際には焔さんと敵対感情を持っているように演技したり……そんなこともありましたが、焔さんは僕が本心からそんなふうに思っているのではないと、ちゃんと分かってくれましたから」
「……冰さん」
「それに、皆さんは長年お父様たちと共にあられたファミリーの大事な要の方々です。何を置いても無事にお父様の元へお返しするのが僕の務めです。僕は見ての通りの若造ですし、裏の世界のことなどまるで存じ上げない素人ですが、どうか僕を信じてお任せいただくことはできませんでしょうか」
「……冰さん。わしらのことをそんなふうに思うてくれるのは有り難いが……その為にあんたが焔君と縁を切るなど……例え虚偽といえどそんなことをさせるのは胸が痛む思いじゃ……」
「その通りじゃ。何か他にいい方法はないものかの」
◆20
「わしらがもっと若くて力があった頃なら……あんな郭芳ごとき屁でもなかったんじゃが」
既に隠居前の老体揃いだ。気持ちの上では負けずとも、実際に暴力などを奮われれば勝目はない。
「情けないことよの……。何でも思い通りになって怖いものなどなかったあの頃が懐かしうて堪らんわい」
そんな話をしながらも胸を押さえたり足をさすったりして、大分に消耗している様子が見て取れる。
冰は皆の体調を気遣い、寒そうに肩をさすっている重鎮には着ていたジャケットを脱いで掛けてやったりしていた。
「香港は日本と違って比較的温暖ですが――ここは太陽が遮られているせいか肌寒いですね。皆さん、大丈夫ですか?」
周囲を見渡せど、暖を取れるような物は見当たらない。しかも持病があって薬を飲まねばならない者もいるという。
「わしが普段から飲んでおる処方薬は郭芳に取り上げられてしもうてな。……そればかりではない。携帯電話やら腕時計やら……」
「わしのなんざ指輪まで持って行きおった。おそらく貴金属類には位置情報が組み込まれているやも知れんと思いおったんじゃろうが……」
そんなところだけは抜かりなく気が回るヤツだと言って悔しそうにしている。
「そういえば……僕の腕時計も見当たりませんね」
あれさえ有れば周らがGPSを追ってくれるはずだが、未だに助けが来ないところを見ると、やはり取り上げられたのが原因かと溜め息がもれる。
「とにかく少しでも固まって暖を逃さないようにしましょう。次にあの郭芳さんがやって来たら、まずはお薬を返してくれるよう頼んでみます」
冰は無造作に置かれていた木箱などを引きずってきては、皆を囲むように壁を作って隙間風をしのいだ。
「皆さん、ここに連れて来られてからどのくらい経ちますか? 食事や睡眠などはどうされていらしたのです?」
冰が訊くと、最低限の食事は与えられ、夜は寝袋を配られるとのことだった。
「ここに来たのは一昨日くらいじゃったな。それまではトラックの中に詰め込められたりしとったんじゃが」
「食事は日に二度、出来合いの菓子パンと飲み物が配られるんじゃ」
だとすれば体力的には限界か――。冰は何としてでも彼らの体調が尽きぬ内にケリをつけねばと思った。
郭芳に会わんと倉庫端の扉口まで行って呼び掛けてみたが、返事はない。
「……クッ! 困ったな……。このままでは皆さんの体力が持たない」
そう踏んだ冰は、床に落ちていた木片を拾い上げてガンガンと扉を叩き始めた。
◆21
「郭芳さん! 郭芳さん、いませんか? お話があるんです!」
すると、今度は郭芳とは別の男が三人ほど顔を出した。その誰もが一目で堅気でないという雰囲気の怖そうな風貌揃いだ。
「うるせえ、このガキが!」
「郭芳さんは今、外出中だ!」
「痛い目見てえか、このクソガキ!」
三人が三人ともたどたどしい英語まじりだ。見た目は東洋人だが、香港の者ではないようだ。とすれば東南アジアあたりだろうか。
さすがの冰もそちらの言語には明るくない。なるべく分かりやすい英語でこう話してみせた。
「すみません。薬を返してもらえますか?」
とにかくは常備薬が必要な重鎮のものだけでも取り返せればと思ったのだ。
男たちにも一応は通じたようだ。
「薬だ?」
「はい、そうです。その薬が無いと困る方がいるんです。体力を消耗していて、もしもその方が死んでしまった――なんてことになったら、あなた方にだって不利になるはずですよ?」
男たちも片言英語が通じる程度なのか、言われていることがはっきりとは分からないようだ。だがそれなら逆手に取ればいい。
「あなた方にとっても不利だ。薬を返せ」
ぶつ切りの単語を並べ立てて冰は必死にそう訴えたが、やはり思ったようには通じない。――が、ちょうどその時だった。出掛けていたという郭芳が帰って来て、姿を現した。
「何事です! 騒々しい」
「郭芳さん! 良かった! 薬を――」
冰は敵も味方もなく、喜んだように郭芳へと話し掛けた。
「薬?」
「はい、あの……お医者様から処方されているお薬が必要な方がいるんです! 重鎮の皆さん方は体力も限界だと思うんです。せめて薬だけでも返していただけないでしょうか?」
すると郭芳はテーブルにあった袋を取り上げながらニヤっと笑ってみせた。
「薬ってこれか――」
「そうです! 返していただけませんか?」
「――は! まあいいでしょう。しかしアンタも人がいいというのか……。あんな老害たちの為に一生懸命になって。運良く私が帰って来なければ、この者たちに痛い目に遭わされていたやも知れませんよ?」
郭芳が存外すんなりと薬を渡してくれたのには驚いたが、冰にとってはあまりいい気分にならない嫌味までがオマケでついてきた。
「アンタは何も知らないだろうが、あの老害たちはその昔、焔老板を邪険に扱っていたヤツらなんですよ?」
「……え?」
◆22
「あいつらは……あの人が妾の子だからと白い目で見ていた張本人たちだ。今でこそ『焔老板』などと丁寧な呼び方をしているが、腹の中では何を考えてるか分からない狸共ですよ。アンタがいくらあいつらの為に心を砕いてやったところで、ここから解放されれば百八十度態度を裏返すような腹黒い連中さ! まあバカを見たければ別に構いませんがね」
ほら、薬だと言って投げてよこしながら郭芳は勝ち誇ったように笑った。
「今しがたファミリーに例の書類を送りつけてきたところです。返事が来次第、アンタにはさっき言った通りにリモートで周家との縁を切りたいと話してもらいますからそのつもりで」
郭芳は薬と水を押し付けると、三人の男たちを連れて扉の向こうへと引っ込んでしまった。
倉庫の端から重鎮たちの元へ戻ると、彼らは先程冰がこしらえた木箱の囲いの中で固まりながら不安そうな顔で見上げてよこした。
「皆さん、薬を返していただきましたよ!」
皆、恐縮しつつも有り難いと言って手を合わせる。
「冰さん……あんた、わしらの為に……」
「ヤツは何と?」
倉庫内はだだっ広いので、郭芳が冰に話していた会話が聞き取れたわけではないのだが、重鎮方にしてみれば自分たちの為に危険を顧みずに郭芳らと掛け合ってくれたことに申し訳なさでいっぱいといった表情でいた。
薬を飲み終えた一人も、服用できたというだけで安堵感を覚えたようだ。
冰が木箱で囲ってくれたお陰で肌寒さもしのげたし、誰もが心から感謝の思いでか、はたまた自分たちの不甲斐なさを悔いる気持ちもあるのか、意気消沈したように肩を落としてはうなだれていた。
天窓から差し込んでくる陽射しが橙色に染まり、そろそろ夕闇が近いことを告げている。冰が拉致に遭ってから丸一日が経とうというところか――重鎮たちにとっては既に一週間余りこの状態が続いていると予測される。
「もうすぐ日暮れですね……。郭芳さん、早くお父様たちとのリモートを繋げてくれるといいのですが」
冰がポツリとそんなことを口走る傍ら、誰ともなしに冰への謝罪のようなことを口にし始めた。
「冰さん、さっきあんたが薬を取り返しに行ってくれた時じゃが……」
「――はい?」
「郭芳があんたに何を言ったか分からんが――おそらくヤツの考えていることはだいたい察しがついておるんじゃ。ヤツはわしらがその昔、焔君を邪険に扱っていたと、そう言ったのではあるまいかの?」
「え……? いえ、そんな……」
「隠さんでもええ。本当のことじゃからの……」
「皆さん……」
重鎮たちは昔を懐かしむように、あるいは悔やむようにといった方が正しいか。肩を落とし、瞳を細めながら当時のことを語り始めた。