極道恋事情
◆23
「わしらが焔君を――あんたのご亭主を快く思っていなかったのは本当なんじゃ。というよりも――先行きが不安じゃったと言うべきか。焔君自体をどうこう思っておったわけではないのじゃがな。ファミリーの後継のことを考えれば、確かに疎ましいと思う気持ちが無かったとは言い切れん」
「わしらもまだ若かったからの。自分たちはファミリーの要だなどと意気込んでおった頃もあったんじゃ。今考えると粋がった若造の集まりじゃったと――懐かしくも恥ずかしい思いじゃがの」
「その通りじゃのう。あの頃――そう、あれは焔君が生まれる前のことじゃった。お父上の周隼殿、つまり現在のボスだが、彼がまだトップになる前のことじゃ」
というと、周隼の父――つまり周と冰にとっては祖父に当たる人が現役のボスだった頃のことだ。
「わしらは皆、隼坊っちゃんの御父上の側近じゃった。隼坊っちゃんが今の焔君たちと同じくらいの年頃のな」
「当時、わしら六人はボスから頼まれて隼坊っちゃんと共に過疎地の村へ道路を通すという事業の視察に行ったことがあっての。そこで焔君が生まれるきっかけとなるお人に出くわすことになったんじゃ」
「隼坊っちゃんは視察中に滞在していた村で一人の娘御と出会った。日本から来ていた氷川財閥というところの娘さんでな、歳は坊ちゃんより少々下じゃった。とても綺麗な、美しい娘さんでな」
「それが氷川あゆみ殿――焔君の母君だったのじゃ」
つまり、周の両親が出会ったきっかけの話である。冰は驚きに大きく瞳を見開いてしまった。
これまで亭主の周からも聞いたことのなかった両親の馴れ初め――。周が話さないということは彼自身もその馴れ初めを知らないか、もしくは言う必要のないことと思っているのかも知れないが、やはり興味を覚えずにはいられなかった。
「当時、隼坊っちゃんは既にご結婚されていらしてな。奥方は――ご存知と思うが香蘭様じゃ。長男の風君も生まれておった。ご夫婦はたいそう仲が良うてな。まさかわしらもあんなことになるとは思ってもみなかったんじゃ」
周隼のお付きでこの重鎮たちが過疎地の村に偵察に行ったのは今から三十余年前のことだったそうだ。周一族は祖父の時代からそうした支援事業に力を注いできたようで、今でもその事業は続いているとのことだった。例の鉱山がある中国南部の山の村のことである。
開発事業の傍らで珍しい鉱石が発見されたことから、今では道路開発を別の場所に移し、鉱山として本格的に運営することになったわけだが、当時はまだ鉱石も見つかっていなかったらしい。
この事業には周一族の他に近隣諸国からも財閥系企業が携わっていて、その内の日本企業が氷川財閥だったそうだ。つまり周の実母である氷川あゆみの実家である。彼女もまた、父の代理として視察に訪れていたとのことだった。
◆24
「当時はまだ掘削技術なども今ほど発達しておらんかったからの。現場では事故も多く、怪我人もしょっちゅう出ていたそうじゃ。そんな中、若い隼坊っちゃんは現地の工員たちと一緒になって掘削を手伝ったりしておった」
ところがある日、現場で落盤事故が起こり、工員を庇った隼が巻き込まれたのだそうだ。
「坊っちゃんの機転で工員たちの怪我は軽くて済んだのじゃが、落石と一緒に掘削中の斜面から滑り落ちたことで身体中に無数の傷を負っての。坊っちゃんは高熱を出してしまわれたのじゃ」
麓の村から多少医療の心得がある者が駆け付けては来たのだが、元々過疎地の上に当時は都市部からの交通も整っておらず、満足な薬も調達できなかったそうだ。
三日三晩経っても高熱は下がらず、寝具などもふかふかのベッドなどあるわけもない。隼はとにかく寒がって、容態は悪くなる一方――。そんな時、氷川あゆみが寝ずの看病をしてくれたのだそうだ。
「あゆみ殿はご自分の着ていた衣服を脱いで裸身になり、熱でうなされ寒さに震えておった坊っちゃんの布団になるように寄り添っては、体温で坊っちゃんを温めてくれなすった……」
「お陰で数日後には熱も下がって快復に向かったが、若い男女のことじゃ。あゆみ殿はとてもお綺麗で気立てのいい娘御だったし、嫁入り前だというのに裸を晒してまで坊っちゃんの為に献身的な介護をしてくれたのじゃ。坊っちゃんが心惹かれないわけもなかった」
二人がどのように惹かれ合って、どのように気持ちを紡いだのかは分からなかったという。だが、その時に情を交わし合ったことは事実だったのだろう。
「あゆみ殿が子を孕ったことを知ったのは、現地の視察から帰って|三月《みつき》もした頃じゃった。坊っちゃんはその時の礼を言いに日本へ出向き、懐妊を知ったそうじゃ」
ちょうど隼が氷川財閥を訪ねた時、あゆみは孕った子を堕ろそうと病院に出掛けていたそうだ。それを知った隼が急いで彼女を追い掛けて、何とか手術に入る手前で引き留めることが叶ったのだそうだ。
「その後もあゆみ殿は子を堕すと言って聞かなかったそうじゃ。理由は坊っちゃんのことを嫌っていたわけではなく、既に妻も子もある坊っちゃんに迷惑が掛かってはいけないと……ただそれだけの思いだったと聞いておる」
おそらくあゆみも隼のことを愛していたに違いなかろうが、妻子のある彼に迷惑を掛けまいと、たった一人でお腹の子を始末しようとしていたのだと皆は言った。
◆25
「そのことを知った奥方の香蘭様がの……坊っちゃんと共にあゆみ殿にお会いなすって、子供を生んでくれとおっしゃった。あなたは主人の命の恩人だとおっしゃってな。香港に来て自分たちと共に暮らさないかとまでお勧めなされた。これからは互いに友となり、生まれた子を一緒に育てていこうと――そう言いなすったのじゃ」
そこまで聞いた冰の頬には潤み出した涙が滝のように伝わっていた。
「それが……白龍だったの……ですね?」
「そうじゃ。その後、坊っちゃんご夫妻の希望であゆみ殿は香港に越して来られたが、一緒のお邸で住まうことはできないとご遠慮なされた。ご夫妻は彼女に少し離れた場所へ家を建ててお送りなすった。焔君が無事に生まれ、彼は周隼と香蘭夫妻の実子として大切に育てられたのじゃ」
あゆみのことを気遣って、長く氷川家に仕えてきた執事の真田が一緒に香港へと移り住んできたそうだ。隼夫妻とあゆみは別宅で暮らすことになったものの、香蘭は事あるごとにあゆみを邸へと呼んで、共に食事をしたり赤ん坊の焔を育てたりしたそうだ。
「香蘭様が焔君をご自分の手元で育てたのは、何もあゆみ殿に意地悪をする為ではない。彼が成長した際に、長男の風君と分け隔てのない周家の後継として、れっきとした立場でいられるようにと思ってのことじゃった」
香蘭は腹違いの兄弟を自分の生んだ子として大切に育てたという。かといってあゆみの存在も隠すことなく、主人と私の大切な家族であり友でもあるのだと言って、社交界でもファミリーの中でも堂々仲睦まじくしてきたそうだ。
冰もまた、周から継母が彼と実母を大切に扱ってくれたということを聞いている。誠、その通りだったというわけだ。
「香蘭様は、焔君が成人した際にファミリーの証である龍の刺青を送ってやりたいと申されての。図柄もボスの隼坊っちゃんと風君と、三頭の龍がひとつになるように香蘭様がお考えなすったんじゃ」
兄弟の父である隼の背中には字にちなんだ黄色の龍が天を目指して一直線に馳ける昇龍が刻まれていた。兄の風には字と同様の黒い龍が右方向に昇るように配置され、弟の焔には白い龍が左方向に昇るようにした。三つの龍を重ね合わせた時、同じ場所から放射状に天を目指して駆け上がるように見えるというものである。
「三人は本当の家族であり、その誰が欠けても周家とは言えない。男三人が一緒にいて、はじめて本物のファミリーなのだという思いを込めて香蘭様はご兄弟の刺青を考えられたのじゃ」
以前、そう――初めて周に抱かれた時だ。同じ話を彼から直接聞いた。その時も感動して涙をこぼしたものの、両親たちの馴れ初めを聞いた今、冰はあふれる涙をとめることができなかった。
◆26
「そ……うだったの……ですね。お母様が……そのようにお心を掛けてくだすって……」
「わしらとて隼坊っちゃんとあゆみ殿の経緯は直にこの目で見て知っておったし、香蘭様の思いも痛いほど分かっておったつもりじゃ。決してあゆみ殿と焔君をうがった目で見ていたわけではないのじゃが……それでも彼が成長するごとに……頭のどこかで彼らを心底から両手を広げて迎え入れられない気持ちが消せずにいての。そんなことを思ってはいかん、香蘭様が耐えていらっしゃるのに我々がそのお気持ちに添えなくてどうすると思いもしたが――」
重鎮方にとっては香蘭があゆみと焔を大切にすればするほど、彼女とて本心では少なからず傷付いているのではなかろうかと思えてしまったのだという。香蘭と風が気の毒に思えて、次第にその矛先があゆみと焔に向いてしまった――それは事実であったと皆は言った。
「焔君は頭も良く、武術にも優れておった。成人を迎える頃には人を従える風貌も備わって――とりわけ裏の世界でも末端のクズと言われているようなろくでなし共をも上手く手懐ける懐の深さというか、人望を身につけていた。御長男の風君には無い――どす黒い連中相手でも黙らせることのできるオーラといおうか、そんな堂々たる風貌が身について……。我々は正直なところ焦ってしまったのだ。このままだといずれファミリーに与する誰もが……風君よりも焔君がトップに向いていると言い出す日が来るのではないかと危惧するようになった」
郭芳という男が次男坊・焔の直下に置かれ、モデルとして情報収集のお役目を任されたのはちょうどその頃だったそうだ。
「あの男――郭芳は我々が焔君を快く思っていないことに気付いていたのだろう。直接の主人である焔君を邪険に扱った我々を恨んでいたとて不思議はない。こうして我々を監禁したということは――当時の復讐をするつもりなのかも知れん」
「そんな……復讐だなんてまさか……」
だが、重鎮方の言うことが当たっているとすれば、郭芳は周に対して今でも尊敬の念を抱いているということになる。とすれば、|自分《冰》を邪魔にする理由は何だろうと冰は思った。
郭芳が今でも周を敬っているのなら、その周の伴侶である自分のことも準じて扱ってくれてもいいはずだ。ところが彼は周家から籍を抜いて、今後は関わってくれるなという勢いだ。つまり周のことは大事だが、その伴侶である|自分《冰》は邪魔な存在ということになる。
◆27
こんなふうに拉致監禁までして邪魔にすれば、それを知った周は当然怒るはずだ。犯人が郭芳と知れれば周の信頼を失うことにもなろう。
「郭芳さんはいったい……何が目的なのでしょうね」
思い当たるとすれば、郭芳が周に対して尊敬以外の特別な感情を持っているかも知れないということだ。
(もしかしたら郭芳さんは白龍のことが好きなのかも……)
そうであれば一連の言動にも納得がいく。
(俺を白龍の側から追い出して、郭芳さんが白龍の伴侶となりたいということだろうか)
そうして二人で父・周隼の後を継ぎ、ファミリーのトップとなることが目的だとして、その際反対しそうなこの重鎮方を拐って監禁した――と考えれば筋は通る。だがそうであるならこの重鎮方を素直に帰すつもりなど到底ないということになる。解放すると言いつつ、密かに始末してしまうつもりでいるのかも知れない。
重鎮とはいえ、彼らは皆ご老体だ。屈強な感じの手下を連れてもいたし、その気になれば簡単に葬ってしまえるだろう。
(でもそれなら――俺のことも一緒に始末してしまえばいいだけじゃない? わざわざリモートで繋いでまで周家から籍を抜いてくれなんて言わせる必要があるだろうか。それとも俺を……この重鎮方を拉致した犯人に仕立て上げようとでもいうつもりなのか――)
いずれにせよ郭芳が何を目的とし、どう動こうとしているのかを知る必要がある。ここはひとつ、また大掛かりな演技をかまして彼の懐に飛び込んでみるのも手か――。冰は冷静に幾筋もの可能性を巡らせながら、どうすれば郭芳の気持ちを逆撫でせずにこの重鎮方を守り通せるのかを考えるのだった。
「皆さん……ひとつお願いがございます」
冰が神妙な顔つきで皆を見つめた。
「何であろう。我々にできることなら何でも言うてくだされ。あんたは我々の為に危険を顧みず薬を取り戻してくれたり……正直なところ皆申し訳なくて……自己嫌悪感でいっぱいなのじゃ」
「そうとも! わしらが焔君を邪魔に思ってきたことも事実じゃ。それなのに……こんな我々の為にあんたは良くしてくれる……。申し訳ない気持ちしかない」
老体揃いで何ができるということもなかろうが、それでも精一杯力になりたいと満場一致でそう言った。
◆28
「ありがとうございます、皆さん。僕はもう一度郭芳さんに会って、あの方が何を目的とし、どうしたいのかをうかがいたいと思います。これは僕の想像ですが――もしかしたら郭芳さんは白龍に対して上役を敬うという以上に特別な感情を持っているような気がしてならないのです。皆さんを拉致した理由は白龍をお父様の後継にしたいからで、その際反対しそうな皆さんが足枷になるという気持ちかも知れません。ですが僕を周家から遠ざけたいという理由が分かりません。考えられるのは、僕に代わって郭芳さんが白龍の伴侶になりたい――そう思っているのかも知れないということです」
それを確かめる為にも一芝居打って、郭芳の本心を引き出したいのだと冰は言った。重鎮方はさすがに驚いていたが、そう言われてみれば思い当たる節が無きにしも非ずだと逸る。
「確かに――あの郭芳は焔君の直下だった頃から異様に忠誠心の強い奴じゃった気がするのう」
「そう言われてみればそうじゃったな。我々を見る目はいつも反抗的だったし、焔君のことは自分が守るといったような態度じゃった」
「当時わしらもあの郭芳は焔君にとち狂った感情でも抱いているのかと疑ったことがある……。だがどういうわけか彼は自らファミリーを離れてヨーロッパでモデル業に専念したいと言い出したのじゃ。我々の勘ぐりは間違っていたのだと思い、その後はすっかり忘れておったわ」
ということは、やはり当時から郭芳は周に対して何らかの感情を抱いていたということだろうか。それを確かめる為にも打って出る他ない。
「僕は郭芳さんが何を考えているかを聞き出そうと思います。もちろんまともに訊いたところで本心は引き出せないでしょうから……策を講じます。その際、皆さんはこう訴えてください。昔はともあれ、今では風お兄さんと同様に弟の焔のことも大事に思っている――と。お父様の後継がどうのは別として、兄弟はファミリーにとって無くてはならない存在だと訴えていただきたいのです。そうすれば郭芳さんにとって皆さんは敵ではなく味方という考えに転じてくれるかも知れません」
しいては皆の安全の為にもなると冰はそう言うのだ。
「分かった。我々が焔君のことを誤解していたのは事実だし、今は本心から彼も風君同様ファミリーにとって大事なお方だと思っている。だがあんたはどうなさるおつもりじゃ。郭芳はあんたに周家から籍を抜けと言っておったが……それを阻止する良い方法でもあると言うのか?」
「いえ――籍を抜けと言うなら抜きましょう。実は僕自らそうしたかったのだと言って、郭芳さんにその手助けをしてくれと逆に頼み込むのです」
どういうことだ――? と、皆が驚く中、冰は自信に満ちた明るい表情でにこやかに笑った。
「大丈夫です――。とにかくどんな成り行きになろうと、僕は皆さんの安全を第一に考えて決して裏切るようなことはいたしません。場合によっては信じられないようなことを言うかも知れませんが、それも郭芳さんの目的を聞き出す為に必要な策と思って、どうか最後まで僕を信じていただきたいのです。皆さんは周兄弟を同じように大事に思っていると、それだけを強く訴えてください。あとは何とかします」
「わ、分かった。あんたの言う通りにしよう」
「お願いします」
冰は言うと、再び倉庫端の扉まで歩いて行き、郭芳に呼び掛けた。
◆29
「郭芳さん! 郭芳さん、いますか? お話したいことがあるんです。開けていただけませんか?」
ドンドンと扉を叩いて呼び掛けると、郭芳が怪訝そうな顔つきで姿を現した。
「今度は何だ、騒々しい!」
「ああ郭芳さん。良かった。あなたにちょいとお願いがありましてね」
「お願い――だ?」
「そうです。ちょっとこちらへ来ていただけませんか?」
怪訝に思ったわけか、郭芳は手下たちを引き連れて倉庫の中へとやって来た。
「それで? 話ってのは何です」
手下に重鎮たちを見張らせて冰と対峙する。
「――周家とのリモートの準備はまだ整いませんか?」
「……ああ、まだ返事は来ませんね。私の伝手があるのはファミリーの中でも下っ端の連中ですからね。上へ上げるのに少々時間が掛かっているのかも知れません」
「そう……。それは困ったな。できれば早くして欲しいんだけどなぁ」
冰はこれまでの態度とは一変、敬語もすっ飛ばした怠惰な素振りで呆れ気味に肩をすくめてみせた。
「実はね、郭芳さん! アンタが今回俺を拉致ってくれたことには感謝してるのよ。しかも周家との縁を切れときたもんだ! 俺にとっちゃこんな好都合はねえってことでね」
「好都合だ……? どういう意味だ」
「あんたは何も知らずに俺を拐って来たようだが、正直なところ俺はずっとこういう機会を待ってたわけよ。今は周家の次男坊の秘書として日本の汐留に住んでるが――実際はマフィアの檻の中に閉じ込められてるも同然でね。いい加減自由になりたいと思ってたわけ! けど俺一人であの次男坊を説得できるわけもなく――。半分は諦めの境地でいたんだけど――俺だって一応男だ。一生籠の鳥なんて冗談じゃない! いつか何かの機会が巡ってきたら……その時こそあいつの下から解放されてやるって――ずっとそう思ってきたわけ!」
郭芳はもちろん驚いたが、重鎮たちにしてもそれは同様だったようだ。皆、ほとほとびっくりしたように目を剥いては互いを見合わせている。それらを横目に更なる太々しい態度で冰は続けた。
「郭芳さん、アンタどういうつもりでいるか知らねえが、リモートが繋がって俺が周家から無事に籍を抜いてもらえたら――その先はどうするつもりだったわけ? あのファミリーのことだ、犯人がアンタだってのはいずれ突き止められちまうぜ? 俺のことはともかく、このご老人方を掻っ攫ったとありゃあ、当然タダでは済まないだろうよね? この香港を出てどっかの国に高跳びでもするつもりだった?」
冰は堂々たる素振りで郭芳が連れていた手下の胸ポケットに見つけたタバコをスイと抜き取った。
「悪い、火貸してくんない?」
あまりの堂々ぶりに押されてか、手下も目を白黒させながら冰の咥えタバコに火を点ける。
「さんきゅ!」
美味そうに煙を吐き出しながら冰は木箱の上へと腰掛けては笑った。
◆30
「それとも――俺を掻っ攫って来たのはこのお爺さんたちを拉致った犯人に仕立てる為か? でもそう上手くは辻褄が合わねえよ? この人たちが行方不明になった時、俺は日本で周家の次男坊と一緒にいたわけだから。つまり俺にはこれ以上ないアリバイがあるってわけ。この人たちの捜索の為に俺たちも駆り出されてこの香港へやって来たんだ。俺からすりゃあ、アンタの考えてることが今一つ理解できねえのよね?」
冰の口車に乗せられたのか、はたまたこの冰が周家から逃れたいと本気で思っていることに安堵したのか定かでないが、郭芳はついぞ本心と思えることを暴露し始めた。
「いいでしょう……私の考えを話しましょう。でもその前に――あなたがあの人の元から逃げたいというのは事実なのですか?」
「あの人――だ? もしかして次男坊のことを言ってるの?」
「……そうです。あなたはあの人――周焔と結婚した妻なのでしょう?」
「妻ぁ? は――! アンタらの間じゃやっぱそんなことになってんだ?」
「……違うのですか?」
怪訝そうながらも郭芳の表情からは期待に胸を逸らせるような思いが見て取れた。
「冗談じゃないよ、まったく! 誰が妻よ! 俺ァね、見ての通り男よ、オ・ト・コ! 確かに周姓になったのは事実だけどさ、何もあの次男坊の妻になったわけじゃない。マフィアのお父様の養子ってことで入籍させられたわけ!」
冰はほとほと呆れ気味に肩をすくめるジェスチャーをすると、苛立ったようにタバコを床に投げつけては踏み消した。
「どうせ入籍させられた理由も知りたいだろうから教えてやるよ。俺はね、自分で言うのもナンだけど、バイリンガルで日本語と英語と広東語が堪能なわけ。つまり普通の人間よりは優秀なのよ! たまたま日本で次男坊の商社に就職してさ。俺も人並みに出世欲はあったから、バリバリ仕事をこなしてたわけよ。そしたら目をつけられて秘書に取り上げられた――までは良かったんだけどね。俺が使えるからって次男坊は俺を離したくなくなったんだろ? ちょうど別の――もっと大手の商社から引き抜きの話をもらって、俺があの会社を辞めてそっちに移りたいって退職願いを出したら……否も応もなく周姓に入れられちゃったわけ。その後はもう籠の鳥も同然さ! 俺がいつ逃げ出すんじゃねえかって監視まで付けられて……もううんざり! これはもう一生こき使われるしかねえのかって諦めてもいたが、有り難えことにアンタがこんないい機会を作ってくれた。俺にとっちゃアンタは救いの神ってわけよ」
分かってくれる? と、親しげな笑みを向ける。郭芳は苦虫を噛み潰したような表情ながらも、半ば呆れてしまったようだった。
◆31
「で、では……さっきアンタが素直にサインしたのは」
「そ! 絶好のチャンスが転がり込んできて、これを逃す手はないと思ったからよ!」
「じゃ、じゃあ……キミはあの人……いや、周焔のことは何とも思っていないというのか? 噂じゃ結婚したということになっているが……」
「結婚? そんなふうにしときゃ、万が一俺が逃げ出しても、ファミリーの誰かが捕まえ易いとでも思ったんじゃねえの? 実際、そこのご老人方だって俺があの次男坊の妻だと思ってるようだしね」
チラリと重鎮方に視線をやりながら小馬鹿にしたように笑う。冰はダメ押しするように続けた。
「……ったく! どいつもこいつも勘弁して欲しいっての! 周風だか周焔だか知らないけどさぁ、そのお爺さんたちだってさっきっから二人のことを素晴らしいご兄弟だとか何とか言って、こっちはもう耳が腐りそうなんだけどー! 素晴らしい兄弟どころか、使える物は都合よく使って他所には絶対渡さない。本人の意思も尊重しない。言う通りにならなきゃマフィアの権限を使って籠の鳥にする。俺から言わせりゃ人間を道具のように扱うクソ野郎としか思えねえけどね!」
ここまでズケズケと兄弟をこき下ろした冰の態度に、重鎮たちは呆気にとられたままポカンと大口を開けている。さすがに郭芳も信じる気になったようだ。
「じゃあキミは……本当に周ファミリーと縁を切りたいと思っているのだな?」
「その通りよ! さっきっからそう言ってるでしょ! だからね、ホントはこんな所でノコノコやってたくないわけ! 今すぐにでも逃げたいのは山々だけど、周家の籍に入ってる内は逃げたところで世界中どこへ行ってもいずれ捕まる。そうなりゃ元鞘に戻されるだけで済むわけもないことくらいアンタにも分かるでしょ? 酷い仕打ちが待ってるか、あるいはホントに殺されちゃうことだって充分に有り得る。だからアンタの力を借りて、一も二もなく籍を抜きたいのよ。早いとこリモートってのを繋げて欲しいんだけどね」
あーあ、とふてくされたように木箱の上で寝っ転がる始末だ。郭芳はすっかり冰の陽動作戦に嵌ってしまったようだ。
「……そうか。まさかキミがそんなふうに思っていたとはな。私は……少々勘違いをしていたようだ。このご老人方を拐ったのも……あの人のトップ就任の邪魔をされると思ったから、少し怖い目に遭ってもらって早々に隠居してもらうのが目的だった。この口うるさい重鎮たちがいなくなれば、あとの側近連中など何とでもなるんだ。実際、風老板よりも焔老板にトップを取って欲しいと思っている派閥の人間もいるはずだ。そいつらと手を組んで焔老板をトップに押し上げられる。キミのことは……てっきりあの人をたぶらかして腑抜けにした毒婦だと思っていたから……この際、脅して周家から追い出すつもりでいたんだが」
なるほど――それが本音か。冰はおくびにも態度には出さないまま、心の中でそうだったのかとうなずいた。
彼の本音を知ってしまえばこっちのものだ。この後のリモートで周一族と対面した際、どのように話を持っていけばいいかが組み立て易いからだ。
◆32
「――で? リモート繋がったら俺はどう言えばいいわけ? ただ単に籍を抜いて自由にしてくださいなんて言ったところで、相手にしてもらえないことくらいアンタも承知でしょ? 上手くあいつらに『うん』と言わせる術は考えてあるんだろうね?」
冰が訊くと、郭芳は困ったように視線を泳がせた。
「……そう言われても……そうだな、やはり素直に聞き入れてはもらえまいか」
「はぁ? じゃあ何? アンタ、何の考えもなしにこんなことしたっての?」
「いや……待ってくれ! 考えなしにやったわけじゃない。私はあの人とキミが愛し合っていると思っていたから……キミから別れたいと言わせれば、あの人も裏切られたと思ってキミを見限ってくれるかと思ったのだ」
「そんなぁ! アンタね、相手は一応この香港を仕切るマフィアよ? もうちっとマトモな手段を考えてから行動を起こしてくれってのよ!」
「……いや、面目ない。私はてっきりキミとあの人がいい仲だとばかり思って……頭に血が昇ってしまったのだ」
「はぁ……もう! っていうかさ、さっきっからあの人あの人言ってるけど。アンタ、もしかしてあの次男坊に気があるってわけ?」
「い、いや……そうではないが……」
「別に隠さなくたっていいよ! 今時のご時世じゃん? 男が男に惚れたって珍しくも何でもないって」
はっきり言っちゃえ! とでもいうように冰はおどけてみせる。
「いや……本当にそういうわけじゃないのだ。私はただ……あの人にはマフィアの周焔でいて欲しい――そう思っているだけだ。この前、十何年ぶりかであの人に会ったが、すっかり企業人になられてしまって……表情も穏やかになられて、まるでご自身がマフィアのファミリーだということを忘れてしまったかのようだった。焦った私はすぐに昔の仲間に連絡を取った。そうしたら……あの人が香港を離れて日本で起業し、キミと結婚していると聞かされた。あの人を変えたのはキミのせいだと思ったのだ。あの人にはマフィアの――できることならファミリーを引っ張っていくトップに立って裏の世界で輝き続けていて欲しい。やさしい穏やかな笑顔なんて見たくない。抜き身の刃を懐に隠し持っているような――そんなゾクゾクするような感動を我々下の者に与え続けてくれる人でいて欲しい。そう願っているだけなのだ」
ここまで聞いて、冰の方でも少々思い違いをしていたことに気付く。てっきりこの郭芳は周に恋情を抱いているのかと思っていたのだが、どうもそうではないらしい。ということは、方向転換だ。やり口を変える必要がある。
◆33
「ふぅん、そう……。だったら質問。ねえ郭芳さん、もしも俺が本気であの次男坊に惚れてて、あの人も本当に俺を妻にしたいほど愛してたとしたら、どうするつもりだったわけ? 男同士で愛してるだの何だのとやってるせいであの人がマフィアの心を失くしちゃったと考える? それともマフィアの心さえ忘れてなければ、あの人に妻がいようがアンタはそれで満足できるってこと?」
まあ、その妻というのが『俺』に限った話じゃなく、別の誰かだったとしてもだけど――と冰は訊いた。
「そ……れは、もちろんだ。あの人がマフィアの心を忘れてさえいなければ――私は充分満足だ。私がファミリーを抜けてヨーロッパでモデルになろうとしたのも、元はと言えばもっと大きな世界の舞台で通用するモデルになって……もっと重要な情報提供ができると思ったからだ。そうすればあの人のお立場ももっと上がる。いずれはファミリーのトップに立ってくださる日が来るかも知れないと。その為なら私にできることは何でもしたいと本気でそう思っていた――! なのに……私はモデルとしても芽が出ず、東南アジアに逃れて大きなヤマを踏もうとして失敗。十年の刑を食らって辛酸を舐めた……。あの人の役に立ちたい気持ちはあるのに――いつも上手くいかずに、李狼珠のようにあの人のお側に立つことすら許されない……。こんな私だ……」
ともすれば涙をこぼしそうになりながらも郭芳は続けた。
「あの人がボスの後を継いで……この香港の裏の世界で君臨してくださるのなら、他には何も望まない。キミがあの人の妻というなら私にとっては大事な姐さんだ。この老人方がどんなに邪魔しようが反対しようが、私はキミとあの人を守る為なら身を捨てて闘う覚悟だ!」
床に手をついて嗚咽する郭芳に、冰はやれやれと苦笑させられてしまった。
もしかしたら彼も自分と同様、嘘ハッタリの出まかせを言っている可能性がゼロとは言えないが、これまでの彼の態度や言葉に嘘は無さそうだ。もしもこれが自分と同じく彼の演技であるとすれば狐と狸の化かし合いだ。勝負は互角――その時は素直に両手を上げて覚悟するしかない。
「――なるほど。それにしても、随分とまた惚れ込まれたものだね」
ポン、と腰掛けていた木箱から飛び降りると、床で突っ伏している郭芳の側に屈みながら冰は言った。
「郭芳さん、アンタそんなにあの次男坊をボスにしたいわけ?」
「……え?」
顔を上げた郭芳の瞳は真っ赤に潤んで涙目になっていた。察するに、これが彼の本心であって、演技でも嘘でもないと理解できる。
◆34
「それともあの人がこの香港に戻ってくれさえすれば、例えボスの座につけなかったとしてもある程度は満足できるの?」
「そ……れは……」
「抜き身の刃がどうとか言ってたけど、そんなおっかない人の側にいて幸せを感じるなんて――俺には理解できないけどなぁ」
「それは……! キミはあの人のオーラを知らないからそんなことが言えるんだ! 若かった頃のあの人は――この爺さんたちや、他にもいろんなところでいろんなヤツらに白い目で見られて……でもそんな敵対心など物ともしないくらいに堂々としていらした! まるで凍てついた氷のような目で周りを圧倒し、従えて……。そんなあの人が素敵だと思ったんだ。彼の側に居れば、いつかはすごいことをやってくれそうで……心が震えた。私はあの緊張感の中であの人を見ているのが堪らなく幸せだったんだ……!」
そんな話をしていると、また別の手下がやって来て周一族とリモートが繋がったとの報告が入った。
「うわ……繋がっちゃったって。郭芳さん、マジでどうするつもりさ。アンタが犯人だってバレたら、それこそおっかなーいあの人が見れるかも知れないけど……。っていうか、おっかないを通り越してあなたどうなっちゃうか分からないよ? 何なら今の内に逃げちゃうって手もあるけど――」
「逃げるだなんて……そんな卑怯なことはしたくない! 私は……例え自分が始末されようとあの人がマフィアの心を取り戻してくれさえすれば本望だ……」
「うわぁ……何てこと言うのよ。そんじゃ俺はどうなるのさ。籍は抜いてもらえない、アンタまでとっ捕まって、また元の鞘に逆戻りかよ?」
「……すまない……。キミのことを誤解していた私が悪いのだが、あの人が腑抜けになったのはてっきりキミのせいだと思っていたから……」
もう自分の手には負えない。あとはキミ自身で何とかしてくれと言い出した郭芳に、冰は深い溜め息を抑えられなかった。
「冗談じゃないよー! あんな紙切れに署名までして送りつけたってのにさぁ。今更あれはほんのジョークでしたなんて言って通用するとでも思う?」
「……はぁ、だからすまないと言っている」
「んー、もう! しゃーない。じゃ、自分で何とかするよ! それで――? この場所教えちゃっていいの? どのみちこの人たちを解放しなきゃなんないんだから、迎えに来てもらわなきゃでしょ? 彼らがやって来る前にアンタたちが逃げるってんなら止めないけどね」
そうこうしている内に手下がパソコンを手にしたままソワソワとし始めた。
「郭芳さん、相手が早くしろと苛立っている様子ですが――」
すると、郭芳は諦めたように肩を落として微苦笑した。
◆35
「私は――逃げない。どうせ逃げたところですぐに足がついて捕まりそうだ。そうなればよほど惨めだろう。それよりは潔くここで制裁を受けた方が良さそうだ。……私は何をやっても上手くいかないダメな人間さ。ここいらで覚悟を決めて……あの人の手で始末されるのが一番幸せなのかも知れない」
ただし、一緒にいる者たちに罪はない。彼らは東南アジア時代の仲間で、自分に同調してくれてついて来ただけだという。自分は残って始末される覚悟でいるが、彼らのことは見逃して欲しいと言って郭芳は頭を下げた。
「分かった。じゃあ通話には俺が出るからこの場所が何処なのか教えて」
「ああ……ここは……香港仔にある港の廃倉庫だ」
「了解――」
冰はパソコンを抱えている手下の男を手招きで呼ぶと、ヒョイと画面を覗き込んだ。えへへへと苦笑いまで浮かべて手を振ってみせる。
『冰――! 無事だったか! お前、今何処にいる……』
画面の向こうでは蒼い顔をした周が焦燥感をあらわに身を乗り出していた。
「うん、香港仔って港の廃倉庫。焔兄さん、迎えに来てくれます?」
『――――。香港仔の廃倉庫だな? 十分で行く!』
周の背後には鐘崎や紫月の顔もあって、すぐに彼らが散ったのが窺えた。即刻こちらに向かってくれたのだ。
『それより冰、こんな紙切れが届いたが――どういうつもりだ? 状況を説明してもらおうか』
画面の向こうの周は不敵な笑みを浮かべていて、余裕が窺える。今のおちゃらけた態度と『焔兄さん』という呼び方で、また冰が何か策を講じていると理解したのだ。冰もまた、周の不敵な笑みで彼が乗っかってくれたことを知る。
「あー、それはその……会ったら説明しますから、焔兄さん怒らないで僕の言うこと聞いてくださいね。ああ、それから! 兄さんたちが捜してたファミリーの重鎮の方々も僕と一緒にここに居ます。皆さんご無事ですから安心して」
『ほう? お前と一緒に居ると――な?』
「ええ、まあ……。とにかく待ってますから」
『いいだろう。ちゃんと納得のいく説明をしてもらうぞ』
「はいはーい……。それじゃよろしくね、焔兄さん!」
リモートを切った冰は大きく溜め息をついて肩をすくめた。
「十分くらいで迎えに来るって。郭芳さん、本当にいいの? あの人が来たらあなたマジでヤバいよ? 今からでも遅くないから逃げちゃえば?」
最後のチャンスだと促したが、郭芳にはもうその気概すらない様子だ。ガックリと肩を落としたまま床にへたり込んで動けずにいる。周が到着したと同時に始末される覚悟でいるようだ。
◆36
「まったく……しっかりしてよ! こんな大それたことやらかしちゃうくらいの人なんでしょ、あなた?」
「……もういいのだ。あの人が来たらこの世ともおさらばさ。せめてあの人の手に掛かって逝けるなら本望だ……」
「何情けないこと言ってるの! けどまあ……安心して、郭芳さん。焔兄さんは当然怒ってるだろうから、あなたをぶっ飛ばす――くらいはするかも知れないけどさ。本当にあの世へ送っちゃうなんてことはしないはずだから」
「……へ?」
「俺がそんなことさせないよ。あなた、そんなに悪い人じゃないもの。ここにいるご老人方を誘拐したのも元を正せばファミリーのことを思ってしたことに違いはないわけでしょ? そりゃまあちょっと先走ったやり方とは言えるけど、心底からファミリーに悪どい気持ちがあったわけじゃないんだって――俺がちゃんと説明するって! だから元気出しなよ」
「……いいんだ。だが気休めでも嬉しいよ……。キミは……案外度胸が据わっているのだな? キミだって結局は元の鞘に逆戻りで思うようにはならなかったというのに。正直なところキミが本当にあの人の妻なら良かったと……今はそう思うよ。突然私に拉致されて来て……屈強な男たちに囲まれても物怖じしない態度はあっぱれだ。私にもキミのような度胸があったら……少しは上手く立ち回れたかも知れないな」
「そんな弱気なこと言うもんじゃないって! あなたは確かにやっちゃいけないことをしたけど、腹の底から悪どい気持ちがあったわけじゃないんだから。ちょっとそそっかしかっただけさ」
そう言ってポンポンと郭芳の肩を叩きながらも大きく深呼吸で気持ちを整えると、冰はこれまで纏っていた空気を脱ぎ捨てるかのように芯のある真顔で倉庫扉の向こうを見つめた。
「郭芳さん、聞いて。周焔は今でもちゃんとファミリーの心を持っていますよ。傍目には穏やかな企業人に見えるかも知れないけれど、彼は誰よりもお父様やお母様、お兄様というファミリーに恩を感じて大切に思っています。例え香港を離れて遠く日本の地に居ても、その思いだけは揺るぐことはない。それだけは信じてあげてください」
今までの軽いノリの性質とはまるで違う、神々しいほどの空気が彼の身体中を見えないベールで包み込むようだ。つい今しがたまでの青年とは別人かと思うほどの雰囲気の違いに、郭芳は事の次第が理解できないでいるようだった。
「キミ……いったい」
「ごめんなさい、郭芳さん。俺もあなたに謝らなきゃ。本当は俺、周焔白龍の妻なんです。あなたを出し抜いてこの場をしのぐ為に嘘をついたんです」
「……は?」
「だってこの状況でしょう? どんな手を使っても皆さんを無事にお父様の元へ帰すのが俺の役目ですから」
「……それじゃあ……キミは……私からこのご老体方を守る為に……?」
「ん――。ごめんなさい、郭芳さん」
「そんな……」
◆37
「ねえ、郭芳さん。この香港で――ファミリーのトップの座に座ることだけがマフィアなのでしょうか? 遠く離れた場所に居ても、常に家族を思い、敬い、ファミリーの為に少しでも何か役に立てることがあればと思う気持ちこそが大切なのではありませんか? 例え見た目が企業人だろうと、表情が穏やかだろうと、心の中に確固たる愛情と誇りがあれば――どこにいてもどんな|形《なり》でもファミリーの一員ではありませんか? 彼は決して腑抜けたわけではない。あの人は――今でも間違いなくあなたが知っているマフィアの周焔ですよ」
「……どういう……意味だ?」
「あなたの目で確かめれば分かりますよ。彼が本当に腑抜けになってしまったのかどうか――」
スイと指さすように倉庫入り口の扉へと視線を向ける。
と、そこへ外の様子が騒がしくなり、大勢の男たちが駆け付けて来る様子が視界に飛び込んできた。ファミリーの側近たちだ。
屈強な男たちの手には銃が構えられていて、あっという間に包囲されてしまう――。そんな中、皆に道を譲られるようにして、しっかりと地面を踏み締めながらこちらに近付いてくる男――堂々たるその背に立ち昇る龍図の後背を背負ったかのようなオーラを放っている。それは紛れもない、遠い昔に郭芳が見ていたそのままの周焔の姿だった。
「――郭芳か。やはり一連の発端はお前か」
「……焔……老板」
格別には怒っているわけでもないと思える穏やかな口調だが、その声を聞いただけで背筋に寒気が走るような感覚が郭芳の全身を金縛りにする。今、彼が『やはり』と言ったところから察するに、この企てをしたのが誰かということもおおよそ調べはついていたということを示している。周はぐるりと倉庫内を見渡しながら、短いもうひと言を付け加えた。
「まあいい。話はあとだ」
とにかくは捉えられていた重鎮方を救助させんと引き連れて来たファミリーの側近たちに視線で合図する。
「は! かしこまりました」
皆はすぐさま重鎮方を保護して車へと案内しようとしたが、当の重鎮方がちょっと待ってくれと言って周の元へと駆け寄った。
「焔君……すまなんだ! わしらのせいで迷惑をかけた。じゃが、この冰さんは何も悪くないのじゃ!」
「その通りじゃ! 冰さんはわしらを救う為にあんな紙切れにサインをしたのじゃ! 決して彼の本心ではありませぬぞ!」
「そうとも! わしらは皆、冰さんに守ってもろうた。冰さんはわしらの為に身を挺して闘ってくれたのじゃ!」
どうかあの紙切れに書かれていたことは信じないでくれと必死に訴える。周は穏やかな笑みを浮かべながらも、もちろん理解しているといったふうにうなずいてみせた。
◆38
「ご心配には及びません。どうせまたウチのやつがやらかしたことでしょうからな」
チラリと冰を見やりながらニッと笑む。その微笑みに深い夫婦の絆を感じてか、重鎮方は『そうか、そうか』といったように目頭を熱くした。
「焔君、赦してくだされ――。わしらが愚かじゃった」
「この通りじゃ。じゃが――誠、あなた方ご夫婦は……見事であられる。このような立派なご伴侶を持たれた焔君は幸せじゃの」
重鎮方はそう言うと、皆揃って冰を見つめ、深々と頭を下げてよこした。
「ありがとうございましたじゃ、姐様――!」
それには救助にやって来たファミリーの側近たちも驚いた様子で目を丸めてしまったほどだ。冰を『姐様』と呼んだことはもちろんだが、重鎮方六人が六人とも目頭を熱くしながら感動の笑みを浮かべて涙ぐんでいるのだ。冰がどのように彼らを守り通したのか、聞かずとも窺えるようだった。
そうして重鎮方が無事に保護されて行った後、だだっ広い倉庫内には周と冰、それに鐘崎と紫月、李に源次郎といったお馴染みの面々だけが郭芳を取り囲むようにして佇んでいた。
「さて――郭芳。言い訳があれば聞いてやる」
周の低い声音に郭芳はビクリと身体を震わせた。
「も、申し訳ありません……! か、覚悟は……できています……」
「何の覚悟だ」
「……は! その……」
「俺の一等大事な者に手を出した覚悟か?」
「……は、その通りで……。ボスのご側近方と……老板の奥方様を拐って監禁したのは私です。ど……うぞ、如何なるご制裁も……厭いませぬ……」
「如何なる――ね。父の側近を監禁した償いは俺の感知するところではない。後程父と兄から直々に沙汰が降ろうが、俺の妻を拐ったケジメはこの俺の手でつけさせてもらう」
「……は、も、申し訳ございません……! あなたに始末される覚悟はとうにできております……」
「よろしい。では望み通りあの世へ送ってやろう」
言うか終わらない内に周は初動なく郭芳の襟元を掴み上げては、重い一撃の拳を見舞った。
郭芳は数メートルほど吹っ飛び、倉庫床にぐん伸びてしまった。かろうじて意識はあったものの、既に今の一撃で立ち上がることさえできない虫の息だ。朧げな視界の先にぼんやりと映り込んだのは、気の毒そうに眉を八の字に寄せた冰の顔だった。
「郭芳さん、しっかり!」
「……あ……んた……」
「うん。もう大丈夫。痛かっただろうけど、これくらいは我慢してよね? あの人にもケジメってもんがあるんだからさ」
そう言って申し訳なさそうに笑む。
◆39
「ケジメ……こ……れだけで赦されるとは……思って……な……」
「そんなことねって! 言ったでしょ? 俺がちゃんと説明するからって」
冰は先程郭芳を騙くらかした時と同様、フランクな話し方で彼を抱き起こしては、周らを見つめて『これで赦してあげて』というように弱々しく微笑んだ。
「――ったく! 示しがつかんな」
周はそう言いつつもニヤっと不敵な笑みを見せる。
「良かったね、郭芳さん。許してくれるって」
「……ま……さか」
それを最後に郭芳はカクンと意識を失い、冰の腕の中に抱き留められたのだった。
すぐに李が駆け付け、冰の腕から郭芳を引き受ける。と同時に源次郎が担架を引いてやって来た。郭芳は収容され、医療車へと運ばれる。その後ろ姿を見やりながら、
「さて――と。冰、お前にもケジメをつけにゃならん」
言ったと同時にガバリと大きな胸に抱き締められて、冰もまたその広い背中におずおずと手を回した。
「心配掛けやがって――」
「ごめん、白龍。来てくれてありがと……」
「――よくがんばってくれた。礼を言う。重鎮方が無傷で助かったのはお前のお陰だ」
「ううん、そんな」
「また例の大博打でもかましたのか?」
「う……うん。ま、まあね……ちょっとだけ」
えへへと気まずそうに微笑んだ冰の頭をクシャクシャっと撫でると、周はそのまま大きな掌で頭ごと引き寄せて唇を塞いだ。
長い長い、冰にとっては息が止まるかと思えるほどの深く濃いキスだった。
「……ぷ……っは! 白……」
「無事で良かった――」
「白……うん、ごめんね。心配掛けて」
再びがっしりときつい抱擁で抱き締め合う夫婦を見つめながら、鐘崎と紫月らもまた安堵の笑みで見つめ合ったのだった。
◇ ◇ ◇
その後、郭芳の身柄は周隼と周風の下へ届けられ、重鎮たちを拉致監禁したかどで制裁を受けることとなった。それがどのような仕置きであったかは周も、そしてもちろんのこと冰にとっても知る限りではないが、とかく冰には気に掛かるところであったようだ。
帰国を明日に控えて周家の実家に泊まった二人の元に、父の隼と兄の風が訪ねて来た。
「焔、冰。此度の力添え、誠にご苦労だったな。お陰で側近方も誰一人怪我もなく、無事に保護することができた」
「特に冰には拉致監禁という災難に遭わせてしまって面目ないが、本当に助けられた。この通りだ」
真摯に頭を下げた父と兄に、二人揃って恐縮してしまった。
◆40
「お、お父様、お兄様……! もったいないお言葉でございます……! 俺は……お力になるどころか自分が連れ去られてしまって皆様にご迷惑をお掛けしてしまって……」
確かに今回は結果オーライだったものの、重鎮方と冰の拉致犯がまったく別の人間という場合も有り得たわけだ。冰は自分がボサッとしていたせいで連れ去られるなどという失態を侵してしまったことに深く反省していると言って頭を下げた。
「まあ――冰の言うことも一理あるでしょう。こいつにとってもいい経験になったでしょうし、これからは街中などで気を抜かんように心掛けるでしょう」
亭主の周もそう言うので、父と兄も少しは気持ちが軽くなったようだ。彼らにしてみれば冰が一人で自分たちの側近方を守り通してくれた恩がたいそう大きく感じられていたわけだからだ。
「それでな、あの郭芳だが――例の鉱山へ送ることにしようと思っている」
「鉱山……って、あのロンさんのいる……鉱山ですか?」
「そうだ。本来ならばファミリーの重鎮といえる者たちを拉致監禁したとあれば、即刻手打ちにすべきであろうがな。ヤツ自身もそれを望んでいて、今ここで我々に始末されるのが何よりの望みであり、けじめであると覚悟はできているようだったのだが――」
「結果として拐われた者が誰一人怪我もなく無事に帰って来たというのと、郭芳が心底から我々ファミリーに悪意を持っているわけではないというのが分かるのでな。首の皮だけは繋げてやることにしたのだ。それに――ヤツは冰の心意気にすっかりやられてしまったようでな、人生の最期にあのような方と巡り会えたことは何よりの幸せだと心酔しきりだ」
今度生まれ変わってきたら自分もあの人のような大きな心を持てる人間になりたいと言っては涙していたそうだ。
冰にとっては照れ臭いやら恐縮やらで、困ったようにうつむいてしまったのだが、とにかくは郭芳が最悪の極刑とならずに済んだことは素直に良かったと思うのだった。
「鉱山にはロンさんもいますしね。郭芳さん、元気でやってくれることを願っています」
郭芳のような男にとっては体力的にも非常に厳しい生活となろうが、それでもこうして情けをかけてもらい、生かしてもらえただけでも御の字だろう。冰はまた、鉱山を訪れた際にロンや郭芳の元気な姿を見られることを楽しみに思うのだった。
◆41
その夜は周の実母のあゆみも交えて家族皆で賑やかな食卓を囲むこととなった。兄夫婦の生まれたばかりの赤ん坊を取り囲んでは、皆で抱っこの順番待ちとなったり、久しぶりに和気藹々とした幸せなひと時を過ごすことができて、誰もが笑顔であふれる団欒の会食会は夜遅くまで続いたのだった。
そうしてそれぞれの寝室へと戻った後、周と冰もまた忙しなかった数日を振り返りながら、無事に平穏が戻ってきたことを安堵し合っていた。
「白龍……今回もまた心配を掛けちゃって……ごめんなさい。俺……ほんとに……」
「冰――」
ふわりと抱き寄せ、艶のある黒髪に口づける。
「謝るのは俺の方だ。怖い思いをさせた。お前を守ってやる、愛していると言いながら――いつも俺の関係でお前を巻き込んでしまいすまないと思っている」
「白龍……ううん、そんなこと……。元はといえば俺がボケっとしてたせいで皆さんにもご迷惑を掛けることになっちゃって」
冰としては重鎮方の捜索に助力するどころか、逆に面倒事を増やして周の立場を窮地に追い込んでしまったのではないかと反省しきりなのだ。
「今回はたまたま重鎮の皆さんとお会いできたから良かったけど……もし拉致した相手が全く別の人だったらと思うと……」
「まあな。そういった可能性も確かにあったわけだが、俺も気配りが足りなかった。正直なところ日本での平穏な日々に慣れ過ぎていた感もあるのだろうな」
お互い様だと言って周は再びその懐に愛しき者を抱き締めた。
「それはそうと――お前、あの重鎮方から俺の両親の経緯を聞かされたそうだが」
あの後、ファミリーの拠点である高楼に戻るとすぐに重鎮方から呼び止められて、隼とあゆみの馴れ初めについて冰に話して聞かせたのだと報告があったのだそうだ。
「あ……うん、そう。皆さん、当時お父様と一緒に鉱山の視察について行かれたって」
「そういえば両親の出会いについてはお前に話したことがなかったな」
周はわずか苦笑と共に小さな溜め息をついては窓の外に視線をやった。
「両親の馴れ初めを知ったのは俺がまだガキの頃だった。当時親父と継母から聞いた話では実母が親父の命の恩人で、兄貴と俺は母親が違うんだということだけだった。大人になってから親父と実母の間に子供――つまり俺が生まれるような出来事があったと理解した時は複雑な気持ちになったものだ」
周は物心ついた時から継母の香蘭には大切にされている自覚があったし、何かにつけて側にいる実母の存在についても、彼女もまた母親の一人であるのだということはおぼろげに理解していたらしい。継母に対して申し訳ないという思いを抱くようになったのは思春期の終わり頃だったそうだ。
◆42
「実母が親父の命の恩人というのは理解できた。だが、だからといってあんなに人の好い継母を裏切るようなことをした親父の行動が……どうしても納得いかなくてな。俺は生まれてくるべきじゃなかった人間なんだと悩んだこともあった。継母と兄貴にも申し訳ない――その思いから親父と口をきくのも嫌になって、反抗的な態度でいた頃もあったんだ。だが、そんな俺を叱咤してくれたのが兄貴だった」
兄の風は自分たちに対して申し訳ないなどと思うお前の考え方は間違っている、親父も継母も、そしてむろんのこと実母のあゆみも――誰が悪いとか間違いを侵したなどということは無いのだと言ってくれたのだそうだ。
「兄貴は――俺が生まれてきたことを悔やむなど以ての外だと言ってな。逆に、運命が俺たち家族を巡り合わせてくれたのだ、こんなに尊いことはない。与えられた絆を大事にし、受け入れて精一杯共に生きようと言ってくれた。俺は情けなくて……と同時に有り難くて……兄貴の前で酷く泣いたのをよく覚えている」
風とは少し歳が離れていたこともあり、時に父親のようにして包み込んでくれたそうだ。
「兄貴はその言葉通り実母のことも姉のように慕ってくれた。何も恥じることなどない、俺たちは全員で家族なのだと言ってくれてな」
その頃から周はファミリーの為に何か役に立てることができないかと思い始めたそうだ。もちろん、家族以外の側近を含め、外では自分たち母子を疎む者がいることも知っていた。先程の重鎮たちもその一部だったのは事実だ。
「だから俺は――兄貴や継母の負担にならない場所から少しでもファミリーの支えになれる方法を探そうと思ったんだ」
それには香港を離れて、遠く日本の地で起業し、わずかながらでもファミリーの資金源を提供できたらと思ったのだという。初めて周本人の口から聞くその経緯に冰はまたしても大粒の涙をこぼした。
「お前はいつもそうやって俺の為に涙してくれるのだな――」
そう言いながら更に強く強く腕の中に抱き締める。愛しさ余ってか、周の低い声もわずかに震え、必死に堪えた熱い雫が今にも黒髪を濡らさんとするのを感じながら、冰もまた大きな背に両腕を回して抱き締め返した。
「白龍、生まれてきてくれてありがとう……! 出会ってくれてありがとう! 俺、俺……」
「それは俺の台詞だ。お前に出逢えて俺は――生まれてきて良かったのだと思うことができた。人を愛するという気持ちを知って――当時の親父と実母のことも素直に受け入れられるようになったんだ」
お前が俺を導いてくれた。
お前を愛し、愛されたからこそ今の俺があるのだ――。
その思いのままに強く強く抱き締めた。
◆43
「白龍……白龍……! 俺だってそう……! 白龍が……あなたがいたからこそ俺は道に迷わずに生きてこられたの。幼いあの日に両親を亡くして……黄のじいちゃんに育ててもらったことももちろん感謝でいっぱい! でも俺はいつかあなたにもう一度会いたいっていう思いが生きる糧だったから――」
「冰――」
「大好き。大好き、白龍……! ずっと側にいて。ずっとずっと……ずーっと永遠に側にいて――!」
「ああ。もちろんだ。側にいる。離さない――何があっても――!」
誰かを愛し愛されるという気持ちがどれほど尊く幸せなことかということを、今互いの目の前にいるこの人が教えてくれた。
それと同時に、様々運命に翻弄されながらも、それを悔やむのではなく受け入れて、誰もが誰かの手助けによって生かされているのだという事実と向き合う。そんな大きな心を持てる人間になりたい。
実母のあゆみ、継母の香蘭、そして兄の周風、彼らのように互いを思いやり、決して嘆くことなく不幸せを幸せに変えてしまえるような広い心を養っていきたい。
そんな思いのままに、二人は互いを慈しみ、幸せに震える心を抱き締めながら愛し合った。
夜が白々とするまで長く長く、時間を掛けて心のまま本能のまま、愛し合ったのだった。
◇ ◇ ◇
そして次の日、早速に鉱山へと送られることになった郭芳を見送るべく、冰は周と共に彼と面会した。
「郭芳さん、向こうにはロンさんっていうとても頼りになる方がいますから。くれぐれも身体に気をつけてお過ごしくださいね。僕らもまた年に幾度かは鉱山にお伺いさせていただく機会があろうと思いますが、その節はお互い元気でお目に掛かれるのを楽しみにしています」
冰にあたたかい言葉を掛けられて、郭芳は涙した。
「ありがとうございます姐さん! 私も心を入れ替えて……今度こそ一生懸命、地道に生きて参る所存です」
そんな彼に周からも情けのある言葉が贈られる。
「郭芳、達者でな。鉱山での生活は決して楽なことではないと思うが、冰の言ったようにロンという頼りになる男もいる。困ったことがあったらヤツに相談して自分一人で何でも抱え込もうとするな。仕事がきつくてしんどい時は、一人で思い悩む前に連絡して来い。愚痴くらいならいつでも聞いてやる」
そう言った周に、郭芳は堪え切れずか両の手で顔を覆って泣き崩れてしまった。
老板、姐さん、ありがとうございます。
今度こそ――生まれ変わるつもりで精一杯生きてみます!
涙で上手くは言葉にならないながらも郭芳はそう言って、鉱山へ向かう車に揺られて行った。その車窓から何度も何度も頭を下げては、周らの姿が見えなくなるまで涙を拭いながら心に刻み付け、新たな人生へと旅立っていったのだった。
「さて――と。では俺たちもそろそろ行くとするか」
汐留を出てから丸一週間、思えばひどく長いようでもあり、あっという間だったようにも思う。
「今頃汐留では劉が一人でてんやわんやしているだろうからな」
李までこちらに取られてしまって、劉が重責を負って四苦八苦している姿が目に浮かぶ。
「劉さんにはたくさん労いのお土産を買っていって差しあげなきゃね!」
相変わらずに思いやりの気持ちを欠かさない。そんな嫁を心から愛しく思う周であった。
◆44
そうして香港を発つ空港には周家の家族の他に側近の重鎮方六人も見送りに顔を揃えてくれた。
「焔君、姐様、この度は本当にご足労をお掛けしましたじゃ。心ばかりで恐縮じゃが、これはわしらからご夫婦への感謝の気持ちですじゃ」
そう言って渡された小さな箱を開くと、思いもよらない贈り物が出てきて冰は驚きに目を見開いてしまった。
「これ……」
なんとそれは雪の結晶を模った赤い宝石で出来た揃いのタイピンだったからだ。
「焔君と姐様のスマートフォンには宝石が付いておったじゃろう? 郭芳から取り戻した時に姐様のスマートフォンにストラップが付いていたのを目にしましてな」
その後、周のスマートフォンにも同じ形で色違いの宝石が付いていることに気がつき、此度の礼にと皆で相談して選んだのだそうだ。本当は赤と白の二色で何か選ぼうと思ったのだそうだが、ちょうど雪の結晶の宝石を見つけて、大至急でタイピンに仕立ててもらったのだそうだ。
赤と白で夫婦の名を表すのはストラップで体現している。となれば雪吹冰をイメージする雪の結晶を、焔の色の宝石で染め上げれば夫婦はいつでも共にあるという意味にもなると思ってのことだそうだ。
「姐様の宝石はガーネットじゃったからの。きっと焔君をイメージしていると思ったのじゃ。そのガーネットは焔君と姐様お二人だけの大切な物じゃろうと思うての。これはわしら側近の思いも込めてルビーで作ってもらいましたじゃ」
「焔色に染まった雪吹冰はファミリー周焔と周冰として末永く睦まじく、より一層ファミリーを繁栄させ我々を導いて欲しい。そういった思いを込めてありますじゃ」
それだけでも大いに驚くべきことだが、なんと今回の救出に尽力してくれた鐘崎と紫月にも同様のタイピンが用意されていたことに、言葉にならない。鐘崎らの方は濃い紫色のアメジストで作られた鐘の形をしたタイピンだった。鐘崎と紫月が揃いで身につけているのはブラックダイヤとアメジストだと、重鎮たちが密かに情報を収集して選んでくれたのだそうだ。
重鎮たちの粋な計らいに父の隼と兄の風もさすが我が側近たちだと言って、誇らしげに手を叩いて祝福してくれた。周と鐘崎もまた、皆の厚情に胸を熱くし、冰と紫月に至っては感激のあまりかジワジワと湧き上がった涙がとめられずにいた。
「皆さんありがとうございます! 本当に……なんとお礼を申し上げてよいか」
「冰君の言う通りです! 俺や遼にまで……このようなお心遣いをいただいて……」
とかく紫月はそれこそ大してお役にも立てなかったというのに――と恐縮しきりだ。
「そんなことはない。若い皆さんのお力があってこそ我々はこうして無事で戻って来られましたのじゃ」
「そうとも。それに、あなた方若い人たちのパワーを目の当たりにできて、わしらも希望と元気をいただけた。まだまだわしら老体でも役に立つことがあれば、全力でファミリーのお力になりたいと、改めてそう思いましたじゃ」
年も歳だしそろそろ隠居――などという考えは思い直して、動ける内は少しでもファミリーの役に立ちたいと思ったと言う。そんな重鎮方の思いを聞いて、隼も風も心強いことだと言って大いに喜んだ。
「では父上、兄上、側近の皆様方も。世話になりました。また春節には帰って参りたいと存じます」
「お母様、お姉様、それにベビーちゃん! 皆さんこの度もありがとうございました。またお目に掛かれるのを心待ちにしております!」
とびきりの笑顔で手を振ってゲートへと向かう。
今年もまた一年が締めくくられようとしている年の暮れ――幸せにあふれる皆の笑みは、まさに桃源郷に咲く満開の花々のようであった。
身勝手な愛 - FIN -