極道恋事情

35 陰謀1



◆プロローグ
 雪吹冰にとって幼い頃自分を窮地から救い上げてくれた漆黒の男、周焔との暮らしは大いなる幸せであり、信じられないくらいの深い愛情に包まれていることは言わずもがなだ。もちろん周と人生を共にすることで、これまで様々驚かされるような事件に巻き込まれたりしてきたのは事実だ。普通に生きていたならばおおよそ体験しないような事柄も多々あった。中でも一番多かったのが見知らぬ誰かに突如連れ去られる――などといった、いわば拉致だ。
 周焔は表向き大きな商社を経営する企業人で、年若くして大成功といえるだろう人生を歩んでいる精鋭だ。
 だがその素性は平凡とはかけ離れた裏の世界に身を置くマフィアである。彼の父親は香港の裏社会を仕切る組織の頂点にいる人物で、故に付き合いのある周囲の人々もまた、ほぼすべてが裏の世界に身を置く者たちといえる。側近の李、劉、医師の鄧、親友の鐘崎遼二と紫月、その他香港のファミリー。
 だがその誰もが信頼のおける人々で、今では本当の家族同然の付き合いでいる。例え拉致に遭おうと事件に巻き込まれようと、皆で力を合わせて乗り切ってきた仲間といえる。
 ある意味波瀾万丈ともいえる中、周りの人々との固い絆によって結ばれ、冰は幸せな人生を送れていた。そんな冰にとって、そしてその亭主である周焔にとってもさすがに驚かざるを得ない出来事が降り掛かろうとは、周囲の仲間たちを含め誰もが予想できずにいた。

 周と冰にとって互いの絆を試される、そんな波乱の日々が幕を開けようとしていた。



◆1
 その衝撃はある日突然にやってきた。
 汐留の商社ロビーに隣接する一般応接室でのことだ。
「……ちょっと待ってください……! そのようなでたらめが通用するとお思いですか」
 普段は何事に於いても冷静沈着な李狼珠が、珍しくも感情をあらわにした声音で表情を蒼白に変えている。
「でたらめ、違うます! 私、本当のこと言てるだけ」
 李に負けじと必死の抵抗を口にしているのはアジア人と見られる一人の女だ。会話からは明らかに流暢でないと分かるたどたどしい中国語――片言ながらそれでも必死に覚えてきたのだろうことが窺える。
「嘘、違うます! 私、本当に周焔サンの息子を生んで育ててきた! 子供、十四歳なった。父親に会わせてあげたい。それだけあるます!」
 女の言い分はこうだ。
 十五年前、中国南部の山あいに隣接する村で彼女は周焔に出会ったという。その時は周の兄である周風も一緒で、山中で怪我を負い、行き倒れ同然になっていた兄弟を助けたことが出会いのきっかけだったそうだ。
 彼女は村人たちと協力して兄弟を家へ運び、怪我が快復するまで面倒を見たのだと主張した。

(十五年前……中国山間部に隣接する村……だと?)

 李はすぐさまコンピュータも顔負けの記憶を辿った。その瞬間、蒼白だった顔色が更に色を失う――。

(まさか……あの時の……)

 十五年前、確かに周兄弟はその村に滞在した。
 ファミリーが手掛けている例の鉱山に視察に出向いた際のことだ。当時はまだ鉱石が見つかったばかりで、進められていた道路開発の工事が中断し、鉱石を掘り出すことに専念するか道路の場所を他へ移すかなどと意見が対立して揉めていた時期だった。李もまた、周兄弟と共に鉱山の視察に同行していて、他には周風の第一側近である曹来をはじめ幾人かの側近たちも一緒だった。
 その視察の最中で酷い雷雨に見舞われた一行は、麓へ下りる道すがら大きな落雷に直撃されて車が脱輪、滑落事故に遭い周兄弟と離れ離れになってしまった――という苦い記憶だった。
 李と曹ら側近たちは兄弟とは別の後続車に乗っていた為、全員が軽傷程度で無事だった。ところが兄弟と案内人の村長が乗った車はもろに山の斜面を滑り落ちてしまい、捜索には困難を要した。工事関係者も含めた村人総出で必死に捜し回った結果、運転手と村長はすぐに見つかったものの、兄弟は行方知れずとなってしまったのだ。おそらくは滑落後まだ意識があった若い二人は、助けを呼ぼうと山中を歩き回った結果、途中で事切れて行き倒れとなってしまった――そんなところだったのだろう。兄弟が滑落現場から少し離れた山深い小さな村で無事に救出されていたと知ったのは、事故から半月余りも経った頃だった。

(あの時の村に住んでいた女か……。確か、ご兄弟を介抱し、世話してくれた家には子供が一人いたな……。この女性がその時の娘御だとすれば……当時はまだ十五、六の子供だったはずだが)

 十五年前といえばちょうど周もその娘と年頃は同じか少し上くらいだ。

(あれは確か焔老板が十八歳の時だ――)

 李はまるでコンピュータに収められていた情報を引っ張り出すかのように、当時の記憶を遡っていた。
 彼女の一家が住む村は地理的には中国南部の山深いところにある本当に小さな村だった。とはいえ歴史的には古く、元は近隣のラオスやミャンマーなどから移り住んで来た少数民族だったと記憶している。ゆえに当時も言語の点では意思の疎通に少々苦労した覚えがある。村の総長という人が多少中国語を理解していたのでなんとか話は通じたものの、そんなわけだから今目の前にいる彼女が片言でも致し方ないといったところか。名は確か――スーリャンだったはず。いや、スーリーだったか――。
 いずれにせよこんなことが社員たちの耳にでも入ろうものなら一大事だ。李は驚いている場合ではないと頭を切り替えるのだった。



◆2
「話は分かった。だが、生憎周焔様は打ち合わせに出掛けていらして不在だ。改めてお目に掛かる機会を設けさせていただきたい」
 女はここから少し離れた下町に安ホテルを取って滞在しているという。息子はそこに待たせているそうだ。できれば一刻も早く周に目通り願いたいという彼女だったが、察するに金銭的な事情でそう長くホテル住まいをする余裕がないのだろう。意を理解した李は、早速今夜にでも都合をつけようと言ってひとまずは女をホテルに帰したのだった。

(――とはいえ、困ったことになった。焔老板には何とご説明申し上げれば良いか……)

 周は現在、もう一人の側近である劉と共に取引先での打ち合わせに出ていて帰るのは夕方だ。今は午後の二時を回ったばかり――冰はペントハウスの社長室で資料整理の仕事をしているが、さすがにこんなことを打ち明けるわけにもいかない。李はひとまず医療室に向かい、医師の鄧浩に相談してみることに決めた。
 鄧浩とは香港時代からの長い付き合いの上、彼もまた十五年前の鉱山視察の際に同行していた。当時の事情はよく知っているので話しやすいわけだ。
 そうして鄧に打ち明けたところ、酷く驚いたのは言うまでもない。
「鄧、お前さんはあの時の娘の名を覚えているか? 確かスーリャンだかスーリーだったか……私も今ひとつうろ覚えなのだが――」
「名前――ですか。私は記憶にありませんね。というよりも、あなたほどの人が彼女の名を訊くことすらしなかったのですか?」
 今しがたロビーで会ってきたばかりなのでしょう――と、眉根を寄せる。何事につけても神経質と言えるほど完璧な李にしてはずさんだと、鄧は驚き顔なのだ。
「仕方あるまい……それだけ衝撃だったのだ」
「まあ……確かに。いきなりそんな途方もないことを聞かされれば動揺するなという方が無理でしょうね……。それにしても焔老板の子供を生んだなどと――私にはタチの悪い冗談としか思えませんね」
 どう考えても有り得ない、もしくはその女が何か企んでいるのではと鄧も渋顔だ。
「第一、そんな話はこれまで老板からも聞いたことがありませんよね。仮にその女性の言うことが事実だというなら、当時老板はその女性との間にお気持ちを通わせ合ったということになります」
 ところが周は傷が癒えてその村を立ち去る際に名残惜しいような様子はしていなかったし、香港へ帰還してからも特にはその女について気に掛ける様子もなかったと記憶している。
「もしも焔老板が本当にその女性とどうこうあったというなら、あの後すぐにでも香港へ呼び寄せているはず。やはりガセとしか思えませんね」
 鄧はハナから女の陰謀ではないかと思っているようだ。李とてまた然りである。
「私もそう思う。老板のご気性から考えれば、仮にその女性との間に子供ができるほどにお気持ちを通わせ合ったというなら、すぐにも一緒に暮らそうとお考えになったはずだ。それに、当時老板が彼女にお気持ちを傾けていらしたという素振りも見受けられなかった」
 周のことだ。本当に気に掛けていれば何らかの行動を起こしただろう。現に冰に対しては長い間生活費の面倒を見たり、幼い彼が一人になってしまうようなことがあったなら自分が引き取ろうとしていたくらいだ。そんな彼が愛した相手を延々放っておくわけもないと思うのだ。



◆3
「あの後、ご兄弟を救ってくれた礼として香港のボスが自ら現地の村に出向かれましたよね」
「ああ――。ボスと、それにご兄弟も同行して手厚い御礼をなさった」
 それこそ兄弟を診てくれた家には一生困らないくらいの金品はもちろん、彼らの村にも充実したインフラの設備を投資したりしたことは李も鄧も実際目の当たりにしてきたものだ。
「それが今になって実は子供ができていたなど――にわかには信じ難い話ですよ。あの時香港のボスが手渡した金品だって相当なものだったはずです。例えば一家が村を出て都市部に引っ越し、豪邸が建てられるくらいはあったでしょうに」
「……そうだな。とにかく彼女とその家族が今現在どこに住んでどのような暮らしぶりでいるのかを至急確かめようと思う。先程会った女の様子だと安ホテルに滞在するのもやっとといった具合だった。身につけているものも特に贅沢といった感じは受けなかったし、あの時ボスが渡した御礼金の額とは見合わない生活ぶりのように思えたしな」
 既にその大金を使い果たしたとすれば、よほどの贅沢三昧をしたか、あるいは身の丈に合わない事業でも始めて擦ってしまったか、はたまた悪人に騙されて奪い取られたか――。
「まあ金など使おうと思えば一瞬ですからね。それより老板には何とお伝えするつもりです?」
「……正直に話すしかなかろうな」
「女とは今晩会うのですか?」
「老板次第だが――女の方もそう望んでいるようだったし」
 周はあと一時間もすれば戻る予定だ。
「問題は冰さんだが……」
「急な接待の会食が入ったということにして、冰さんにはとりあえず何も告げずに行くしかないでしょうね」
 それも周次第だが、どちらにせよ冰にとっては衝撃に違いないだろう。
「李、よければ私も同行させてもらえませんか? その女性と……息子さんだという子供を見ておきたいというのもありますが、ちょっと医学的な意味で情報の収集をさせてもらえればと――」
「もちろんだ。お前さんがよければ是非立ち会ってくれたら心強い。しかし医学的な――というと、まさか……」
「お察しの通りですよ。彼女とその息子のDNAが入手できれば嘘など一瞬で解決ですから」
 彼らが使ったグラスなどから必要な素材を集めると共に、それらを持ち帰って親子鑑定にかければ一発だ。ただしそれが最悪の一発となることも皆無とは言い切れない。もしも本当にその息子が周の子だという結果が出たとすれば、それこそ一大事となり得るからだ。
「老板にご相談申し上げてからだが――いずれにせよ女と会う場所が問題だな。このお邸でというのは冰さんもおられるしまずい。どこか信頼のおけるホテルの一室でも借りるか……」
 密かにDNAを採取するなら人目につかない方がいい。李は早速に最適な場所を思い巡らせるのだった。



◆4
 一時間後、周が出先から戻るとすぐに李は事の次第を報告した。周は自分に息子がいるということに驚いたようだが、それと同時に子供ができるようなことをした覚えはないと言って苦笑した。
「あの時の一家の娘――か。名は確か――スーリャンだったな」

 ――やはりスーリャンで合っていたか。

「覚えておいででしたか……。私は不覚にも……先程あの女性から名前すら聞くのを失念しておりまして……」
 まあ李にとってもそれほどの衝撃だったということなのだろうと周は苦笑した。
「しかし――まさか俺のガキができていたなどとはな。お前がうろたえるのも当然だ」
「……失礼ですが、そのような可能性があったのでしょうか?」
「ふむ、身に覚えはない――と言えるが、俺はあの家族に助けられてから意識を取り戻すまでに一週間を要したと当時彼らから聞いた。兄貴もほぼ同じだったと思う。実際、カレンダーで確かめたが、確かに滑落事故に遭ってから気がつくまでの間は一週間ほどだったようだ」
 つまり意識がない間にそういったことがあったとすれば、子供ができた可能性もゼロではないということだ。
「むろん気がついてからのことはしっかり覚えているがな――」
「では老板が意識を取り戻すまでの間にあの娘がそのような行為をしたかも知れないと?」
「あくまで可能性として考えるならば――だ。とにかく女とその息子というのに会ってみんことには何とも言えん」
「……はあ、左様でございますね。それで老板、彼らとお会いになる場所ですが――」
 李は先程鄧から提案のあったDNA鑑定のことも含めて人目につかないホテルの個室がいいのではないかと言った。
「――そうだな。どこかのスイートでも取るか」
「この近辺ですと粟津財閥のホテルでは如何でしょう」
 粟津家のホテル、グラン・エーならばセキュリティの面でも信頼できるし、ホテルへの出入りも一般の客とは別に秘密裏の裏口を使わせてもらうことも可能だ。以前鐘崎組がドイツのブライトナー医師の警護で使った出入り口である。まあ粟津家の嫡男、帝斗にはある程度事情が知れてしまうかも知れないが、伝手のないホテルを使ってやたらな噂が立つよりはマシである。今の時代だ、いつどこで誰の目があるか分からないからだ。周辺には取引先である企業も数多い。アイス・カンパニーの氷川社長が見知らぬ外国人の女性を連れてホテルのスイートに入って行ったなどと、要らぬ噂が立たないとも限らないわけだ。
「――そうだな。では粟津に言って融通してもらうか」
 そんな話をしていたちょうどその時だった。鐘崎から電話が入って、今晩食事でもどうだと誘われたのである。鐘崎は仕事の依頼で今日は紫月も連れて丸の内まで出て来たので、もしも都合が合えばと思ったらしい。
「カネ! ちょうど良かった。実はちょっとこちらも厄介なことになっていてな……」
 簡潔に事情を説明したところ、鐘崎はそれだったら自分も同行させて欲しいと言ってくれた。しかも、冰に余計な心配をさせないようにと、彼の方には紫月から食事に誘わせるとまで気を回してくれた。
『こっちは橘と春日野が一緒に来ているから、護衛がてら四人で食事に行かせればいい。俺とお前はシノギのことで急な相談が入ったということにする』
 ついでに粟津の方にも連絡を入れてくれるとのことだ。
「すまねえな、カネ。助かる」
 偶然とはいえ鐘崎が一緒に来てくれるなら周にとっても心強い。紫月にも事情を話し、冰へは直接紫月から誘いの電話を入れてくれることとなった。



◆5
 丸の内、ホテル・グラン・エー――。

 時刻は午後の八時を回った頃だった。粟津家の帝斗に融通してもらい、一行は最上階にあるプライベートスイートで例の親子と対面を果たすこととなった。同行者は周と側近の李、劉、医師の鄧に鐘崎の男五人だ。帝斗は親子の到着を待って裏口から周らの待つ特別室へと案内してくれるお役目を引き受けてくれた。
 彼らを待つ間に男五人は対応についての談義に真剣だ。
「すると――もしもその息子というのが本当に氷川の子供だとした場合、怪我で意識を失っていた一週間の間にできた可能性以外考えられないということか……」
 鐘崎が当時の様子を尋ねている。
「そうなろうな。俺は意識を取り戻してから後のことはしっかり覚えているからな」
 だが、当時その女はまだ十五、六だったはずで、確かに彼女もその家の両親と一緒になって世話をしてくれたという記憶はあるが、恋愛めいた感情を感じた覚えもないと言って周は首を傾げていた。
「あの娘にそういった感情があれば気づいたはずだ。怪我が治癒して村を離れる際にも特には名残惜しそうな様子もなかったし、親父や兄貴と共に礼に訪れた時も俺や兄貴に気があるふうには思えなかったがな」
 それ以前に意識のない怪我人相手に子供を作るような行為を当時十五そこらの娘が成し得たかどうかも怪しいものだ。
「ふむ――まあ仮に周家からの礼金が目当てだったとして、親がかりでそういう工作を行ったというのも無きにもあらずだが、そうであれば子供ができた時点で何らかのコンタクトがあってもおかしくないはず」
 鐘崎もまた、何故十五年も経った今になって突然そんなことを言ってきたのかと渋顔でいる。
「念の為、鄧が親子鑑定に必要な物を採取してくれる用意はして来たのだがな」
「親子鑑定か――。確かに事実をはっきりさせるにはこれ以上ないが、万が一にも黒となった場合だ……」
 それは誰もが危惧するところといえる。だが周は意外にも落ち着いた考えでいるようだ。
「その時はその時だ。息子が俺の子供だというのが紛れもない事実なら認めるしかなかろうが、とにかくは今からやって来る女にどういった経緯でガキをこしらえることになったのかを詳しく尋ねてからだな」
 普通なら動揺して当然のところ、意外にも周がここまで落ち着いていられるのは、裏を返せばそんな事実は無かったという絶対の自信があるからなのかも知れない。
 女との話し合いの間は隣のコネクティングルームで劉が息子の相手を買って出てくれることとなった。いずれにせよそんなドロドロとした大人の事情話を子供に聞かせるのは気の毒だからだ。
 そうこうしている内に帝斗から連絡が来て、母子が到着したという。誰しも緊張の面持ちで迎え入れたのだが、女はともかく、その息子というのを見て全員が驚かされることになるとは思いもよらなかった。なんとその息子というのが周によく似た面立ちをしていたからだ。



◆6
 変な話だが、親子鑑定云々以前の問題だった。息子は十四歳とのことだが、身長も高く、体格は立派といえる。何より顔の造りが周と本当によく似ているのだ。若干違和感を覚えるとすれば彼の深く濃い黒髪の色合いくらいだ。香港の家族や周自身も黒髪ではあるが、ここまでくっきりとした深い黒ではない。東南アジアに見られる特有の黒さと言おうか、だがまあ母親の血を濃く引いているなら有り得ない話ではない。
 目鼻立ちは端正で、いわば男前だ。十四歳にしては長身で、一七〇センチはゆうに超えている。もう数年もすれば周と同じくらいには伸びるだろうと思わされる感じだ。目つきも鋭いというのだろうか、意思のある感じで、年の割には大人びた印象だった。
 母親だという女は当時の面影を残していて、周もまた、一目であの時の娘だと分かったようだった。
「スーリャン――だな? 周焔だ。その節は世話になった」
 周自らがそう言うと、女は少したじろいだようにしながらもおずおずと軽い会釈で応えてみせた。
「私の名前、覚えていた。嬉しい……」
「アンタたち一家は俺と兄貴の命の恩人だからな。もちろん覚えている。――それで、そちらが息子さんか?」
「はい……、そです。アーティット言います」
 母親に背中を押されて紹介されたのが分かったのだろう、アーティットと紹介された息子もまたチラリと上目遣いながら小さな会釈を見せたものの、言葉は発せず黙ったままだった。
 とにかくは話を聞こうということになり、劉が息子を伴ってコネクティングルームの方へ移動。女との対峙が始まった。
「あのボウズが俺の息子だそうだが――?」
 本当なのかと周が尋ねると、女は大きく首を縦に振って応えてみせた。
「本当あるます! あの子はあなたと私の子……!」
「――そうか。だが俺にはあんたとの間に子供ができるようなことをした覚えはないのだがな」
 いったい何を以てそうまではっきり『あなたの子だ』と言い切れるのだと問う。すると女は想像していた通りのことを口にしてみせた。
「あなた覚えてない言う。でも、怪我して覚えてないだけ。あなた……あの時わたし抱いた」
「――あの時というと、怪我で意識を失っていた時ということか?」
「怪我して覚えてない言う。でも、わたし本当のこと言う。あの子、あなたの子供!」
 女はある程度の中国語は理解できる様子ながら、こう片言では詳しいことまで訊くのは限界がありそうだ。ここへ来る前にそちらの言語が堪能な通訳を手配することも考えたのだが、話が話だけにやたらな他人を介することも憚られて、とにかくは会ってみてからにしようということになっていたのだ。
 周も鐘崎もそれこそ片言ならば彼女の国の言葉が分かるものの、小さな村独特の言い回しや民族の言葉などを出されれば流暢とは程遠い。正直なところ、ほぼ通じないというのが現実だ。皆が困ったなと眉根を寄せたその時だった。今は例によって海外での仕事に出ている鐘崎の父・僚一からリモート通話が入り、通訳を引き受けようと言ってくれたのだった。
 聞けばつい先程、紫月から連絡があって、事の一端を聞いたというのだ。紫月は通訳が必要になるかも知れないと言って、僚一に助力を頼んでくれたとのことだった。



◆7
 僚一の行動範囲は広い。主にはここ日本の他は香港や台湾だが、東南アジアやタイ、インドまでコネクションを持っている。当然言語にも詳しいというわけだ。
 紫月の機転に感謝すると共に、詳しく女の言い分を聞くことが叶った。
 それによると、彼女の一家が周兄弟を発見して村人総出で二人を運び入れ、怪我の手当てを施してくれたそうだ。兄弟がはっきりと意識を取り戻したのはそれから一週間の後だったそうだが、その間、看病で側に付いていた彼女を周が無意識に抱いたと主張したそうだ。

『彼女の言うには兄の周風の方が傷が重く、彼は一週間の間まったく意識がなかったそうだが、焔はうわ言を繰り返したり辛そうに寝返りを打ったりと、ある程度朦朧とした意識があったそうだ。そんな中、看病していた彼女を床に引き入れて、何が何だか分からない内に抱かれた――と言っている』

 そしてこうも付け加えたそうだ。
『多分、彼は自分がしたことを覚えていないかも知れない。私は強引に服を脱がされて体験したこともないようなことをされた。だが当時は何をされたのかよく分からなかった。その行為がどんな意味を持つのかも分からなかった。きっと彼は怪我が辛くてあんなことをしたんだと思っていた。女はそう言っている』
 子を孕っているのを知ったのは、それから半年も後のことだったそうだ。体格の変化で両親が妊娠に気付いた時には、既に堕ろせる時期を過ぎていて生むしか選択肢はなかったということらしい。
 とにかく経緯は分かった。ひとまずは僚一との通話を終えて、周らは今後についてどうするか決めることにした。親子にはこのままこのホテルの部屋に滞在してもらうこととし、対応に時間をもらいたいと女に告げた。DNA鑑定をするにもある程度は日数が必要だからだ。
 それと同時にもしも女の言うことが事実で、息子が本当に周の子供であった場合には、冰にも事情を打ち明けなければならない。いずれにせよ、周にとっては荷の重い事態が予測できた。

 ホテルを出て紫月らと合流する前に周と鐘崎らは一足先に汐留へと戻ることにした。今後の対応を話し合う為である。
「冰には何と言うつもりだ――。鑑定の結果が出るまでは一切を伏せておくというのもひとつの手だが」
 ところが周はすぐにでも打ち明ける心づもりでいるようだ。
「冰に隠し事はしたくねえ。先程のボウズが俺の子供であるないにかかわらず、こういうことになっているという現状は包み隠さず話すつもりだ」
「――そうか。まあそれが良かろうな……。お前さえ良ければ俺と紫月も立ち会うぞ」
 冰がいかに理解のある伴侶といえど、今度の事態はこれまでの拉致事件などとはまるで意味合いが違う。話を聞けば少なからずショックを受けるだろうからだ。



◆8
 そんな時に自分たちがいれば、少しでも精神面で支えてやることができるだろうと鐘崎は言ってくれたが、周は有り難くもやはりここは夫婦だけで向き合うべきだと言って微笑を見せた。
「冰には俺が言う。だがお前らの気持ちは本当に有難い。今後も世話のかけ通しになると思うが――すまねえ」
 真摯に頭を下げる周に、鐘崎もまたどんなことでも力になるから遠慮せずに言ってくれとうなずいた。

 その夜、冰が帰宅すると早速に周は事の次第を打ち明けることにした。
「冰――大事な話がある。お前を驚かせることになると思うが聞いてくれ」
「白龍……? うん、何でも言って」
 冰にしてみても亭主の真剣な表情から普段と少々違う雰囲気が感じ取れるのだろうか、不安げながらも言葉通りどんなことでも受け止めるよといった穏やかな顔つきを見せながら微笑んでくれた。
「実はな――」
 周は十五年前の鉱山での事故のことから、今夜あった出来事までを包み隠さずにすべてを告げた。
 さすがの冰も、当然だが驚いたようだ。しばらくはポカンとしたような表情で上手くは言葉にならなかったようだが、それでも嘆いたり詰ったりせずに精一杯の誠意で向き合ってくれた。
「……そっか……。そんなことがあったんだ」
「あれはお前と出会う少し前のことだった。当時俺は十八歳になったばかりの頃だ――」
 周が繁華街の抗争から幼き冰を救ったのは、それから一年以上後のことだったそうだ。
「正直なところ鑑定結果が出るまでは――俺自身肯定も否定もできないのが申し訳ないところだ……」
 お前がどんなに心を痛めるかというのも重々分かっているだけに本当にすまないと言って周は頭を下げた。
「そんな……申し訳ないないなんて……! そんなこと言わないで白龍! 白龍とお兄様を救ってくださったご家族なんだもの。俺が今こうして白龍と居られるのも……巡り会えたのも、そのご家族のお陰だもの」
 冰は確かに驚いたものの、それに対して取り乱したり嘆いたりすることはしなかった。
「白龍……あのさ、俺……どんな結果が出ても……白龍と一緒に考えていきたいよ。話してくれてありがとう」
 そう言ってそっと手を取り、包み込んでくれた。
 もしもその息子というのが本当に周の子だった場合、本来ならば親子三人の為に自分が身を引くべきだと――心やさしい冰のことだからそんなことを言い出さないとも限らないと、周は少し不安の思いもあった。だが冰は誰かが身を引いて我慢するとか、そういったことではなく、皆が無理なく一番良い方法で進めるように共に考えたいと言ってくれた。周にはそんな冰の思いが有り難くてならなかった。



◆9
 一方、鐘崎と紫月の方では早速に当時の経緯を今一度詳しく当たってみようと動き出してくれていた。鐘崎はちょうど台湾で任務中の父・僚一と合流することを決め、十五年前の村を訪ねてみることにしたのだった。その間、紫月は汐留に仮住まいすることに決め、周の社を手伝いながら冰の精神面での支えとなるべく側に居ることにする。事態が事態なので周も冰もやはりどこか気が落ち着かない中、皆の心遣いを有り難く感じていた。
 その汐留では鄧が親子鑑定で奔走の傍ら、李と劉もまた別の角度から当時のことについて調べを進めていたようだ。鐘崎と李ら、双方の調べで何か手掛かりが掴めることがあるかも知れない。周自身も香港の兄・周風にコンタクトを取り、当時のことを一から思い出さんと試みていた。
 夜、冰が風呂に入ったのを見届けると同時に周は自室の書斎に向かい、兄の周風とのリモートを繋ぐ。風もまた酷く驚いたようだった。
『――ふむ、にわかには信じられんな。あの時の状況を一番良く知っているのはこの俺だ。曹や李が我々を見つけてくれるまでの間はお前と二人きりだったのだしな。だが――正直なところそんな事実があったとは思えん』
「俺も同感です。もしもあの娘が俺たち二人のどちらかに好意を寄せていたとすれば、その時点で何となく気がついたはずだ。そんな印象は受けなかったし、仮にあの娘が言うように俺が意識朦朧の中で強姦まがいのことをしたというのが事実なら、意識を取り戻した後で娘は俺を恐怖に思ったはずだ」
『お前の言う通りだな。俺もそういった素振りは見受けられなかったと記憶しているぞ。俺たちが気がついた後もあの家族は親身になって世話をしてくれた。娘も同様だ。特に俺やお前を怖がっているふうでもなかったし、かといって好意や恋情も特には感じなかった。心底人の好い――というのだろうか、そんな感じで清々しく世話をしてくれた覚えしかないな』
 その直後に曹と李らが駆け付けて来たわけだが、彼らも当時の娘の素振りがおかしいと感じたようなことは言っていなかった。彼らは皆人間観察力に長けた精鋭だ。世話をしてくれた家族の様子がおかしければ気がついたはずといえる。
『焔、やはり何かの策略か罠――と考えるのが妥当ではないか? 仮に本当にお前に無理強いされたというなら、当時娘があのように朗らかにはしていられなかったはずだ。例え何をされたかその当時はよく分からなかったとしてもだ。人間の本能でお前に対する恐怖心や嫌悪感は感じたろうからな』
 風は女の言うことよりも陰謀を疑うべきだと言った。
「今、カネと僚一が当時の村に向かってくれています。念の為、鄧が親子鑑定を試みてくれているのですが――。気になるのは女が連れていた子供のツラです。正直、見た目は俺とよく似ていて、他人が見れば親子だと信じられるレベルのものだった」
『……そんなに似ていたのか?』
「――今、画像を送ります。客観的に兄貴の第一印象を教えて欲しい」
 周が共有したのは、ホテルで李らが隠し撮りした親子の動画だ。それを見て、風も女の顔には見覚えがあるようだったが、息子の方も確かに周とは似ても似つかない――とは言い切れないような印象を抱いたのか、考え込むような渋顔を見せた。



◆10
『ふむ、一見似ていると言われればそうも感じられるが、何も事情を知らずに見たのならまた印象は違うかも知れんな。いい男だから似ている気がするだけかも知れんぞ。あの地方特有の目鼻立ちとも言える』
 彫りの深い顔立ちはそれだけで美男美女に見えるし、外国人からすると個々の見分けが難しいこともある。差し支えなければ曹や美紅にも見せてみるかと訊いた風に、周も同意した。
『では二人には事情を知らせずにこの男の顔だけを見せてみるとしよう。どんな反応を見せるか――また後程こちらからかけ直す』
 一旦リモートを切り、兄からの連絡を待つ。ちょうど冰が風呂から上がってきたところだった。
「白龍、お風呂空いたよー」
 冰は事情を知った後も極力普段と変わりなく接してくれているように思える。彼の中での悩みや葛藤も当然あるだろうが、なるべくならそういった感情を見せないようにしてくれているのだろう。それが分かるから周は心底申し訳ない気持ちになるのだった。
「――冰。今ちょうど兄貴と話をしていたところだ。例の件で報告せねばと思ってな」
「そうだったんだ。お兄様は何て……?」
「当時のことを一番詳しく知っているのは兄貴だからな……。あの時一緒に鉱山の視察に行っていた曹さんにも何か覚えていることがないか訊いてくれると言ってくれた。また後で連絡すると言って一旦通話を切ったところだ」
「そっか。じゃあ待ってないとだね。何か飲む? 紹興酒でも淹れようか?」
「ん、そうだな。一緒に飲むか」
「うん!」
 冰はにこやかな笑顔を見せながらバーカウンターへと向かい、ポットの湯を沸かし始める。敢えて何も言わずに普段通りに接してくれる彼に感謝すると共に、気の毒な思いをさせていることに心痛む思いでいた。
「はい、できたよー。熱いから気をつけてね」
「ああ、いただこう」
 冰が作ってくれた熱々の紹興酒を手に二人並んでソファに腰を下ろす。そっと――湯上がりの肩を抱き寄せて黒髪にくちづけた。
「冰――よく眠れているか?」
「え……?」
「心配を掛けていると思っている――」
「白龍……」
「これまでも――いろいろなことがあって……お前には散々苦労を掛けたが。まさか中学生にもなろうというガキがいたかも知れない――なんてことはさすがに苦労や心配の次元を越している。俺自身はともかくお前にとっては心痛に値することだと思う」
 つまり拉致とか何かに巻き込まれて事件に遭ったなどという、自分たちが力を合わせて乗り切ることが不可能な事態であるのは確かだ。しかも血を分けた息子がいたなど、伴侶である冰にとっては信じられないほど心が痛むだろうことは聞かずとも想像に容易い。極力平静を装ってくれてはいても、周からすれば精神的に酷く負担をかけていると思うわけだ。
「すまないと思っている――」
「白龍……」



◆11
 だが、冰は穏やかな表情でそっと肩に寄り添うとこう言った。
「白龍――俺たちってさ。愛してる、一生側にいる、絶対離れないってよく言ってるじゃない? でもそれってだいたいが幸せな時っていうかさ。例えば拉致とかに遭ってもそれが無事に解決した時とかによくそう言い合ってるよなって思うの」
「――そういえばそうだな。もちろん普段からそう思ってはいるが、あえて口に出して告げ合うのは……確かにお前の言うように何か事が起こって解決した直後なんかが多い気がするな」
「だよね。でもさ、それって本当は一番苦しい時にこそ言うべきものじゃないかなって思うの」
「――苦しい時……」
「ん、例えば今みたいな……なんて言ったら語弊があるかもだけど……。何ていうかちょっとどうしよう、どうなっちゃうんだろうっていうような時っていうのかな。そういう時こそがっつり支え合いたい。ちゃんと側にいて、二人で悩んで考えて、一番いい方法を見つけたいって。お互いに申し訳ないとかそんなこと思わないで、しっかり手を繋いでいきたいなって」

「――冰」

「白龍、いつも言ってくれるじゃない。俺たちは一心同体なんだって。だから白龍が苦しい時には俺も苦しいし、嬉しい時には俺も嬉しい。逆も同じで俺が辛い時には白龍も辛くて、俺が幸せなら白龍も幸せで。だって一心同体なんだもの。俺はあなたと同じように悩んで同じように喜び合えればそれが何より幸せだなって思うの。だから――」

 申し訳ないなんて思わないで。すまない――なんて謝らないで。どんなことも二人で考えて二人で分かち合っていこうよ――!

 その言葉を言う前に抱き締められた。強く強く、息もできないほどに強く抱き締められた。
「白……龍……」
「冰――そうだな。お前の言う通りだ……! 俺たちは一心同体の夫婦だ。冰、ありがとうな」
 確かに一心同体だの愛しているだの絶対に離れないなどと言い合いながらも、今のような窮地に陥れば相手に迷惑を掛けないようにしようとか申し訳ないという気持ちが先に立ってしまうのは事実だ。幸せで安泰な時にはポジティブなことを言い合える余裕があるが、いざ困った事態になったら遠慮し合うのであれば本当の意味で一心同体とはいえないのかも知れない。誠、冰の言う通りだ。
 こんなふうにきちんと言葉に出してしっかりと見つめ合ってくれることが、周にとってはどれほど心強いことか――。冰のあたたかい気持ちが有り難く、そして愛しくてならなかった。

 これまでは――どちらかというと自分が常に冰というこの愛しい存在を守って当たり前だと思ってきた。それは経済面でも、そして精神面でも、年もだいぶん上であり夫という立場の自分が、華奢で『か弱い』嫁を護って当然だと――そう思ってきた。だが支えられているのは自分もまた同様で、時に守り護られ、それが夫婦なのだと改めて知る。
 周は腕の中のこの大切な人をどれほど愛し愛されているのかと思うと、言いようのない気持ちに胸が熱くなり、自分は彼がいてこそこうして存在し得るのだと痛感するのだった。



◆12
 一方、香港では兄の周風が側近の曹来を自室へと呼び、例の画像を見せているところだった。
 とにかくは何も事情を告げずに弟・焔の息子かも知れないといわれる男の画像だけを提示して感想を訊くことにする。曹もまた、風の意味深な感じから画像の男にどんなワケがあるのかと不思議に思ったようだ。パソコンの画面を覗き込みながら首を傾げる。
「……この男がどうかしたのか? 薬でも流し歩いている売人関係とかか? ――にしては案外若く感じられるが」
 一見大人っぽくもあるが、その実まだ成人前ではないのか? と言って風を見やる。やはり事情を説明せずに画像だけを見せた印象では、弟・焔との親子関係を連想させることはないようだ。つまりぱっと見ただけではこの男が彼と似ているという印象は抱かなかったということになる。
「お前さんがわざわざ俺を自室に呼んでまで見せるということは――おそらく何か重要なことに繋がる人物なのだろうがな。画像だけ見た限りじゃ特に悪に手を染めているような印象は受けんな」
 いったい何をやらかした男なんだと曹は不思議顔だ。
「――そう思うか? 実は少々厄介なことになっていてな。お前さんの目から見てこの男にどんな印象を持つかを訊きたかったわけだが」
「それほど重要な人物ってわけか? どんな――と言われてもな。正直に言ってまだ子供にしか思えんな。まさかファミリーに不利益をもたらす敵組織の要――とか? そうは到底見えんがね」
 まあ見た目だけで人は判断できないだろうが、長い間この世界にいると顔つきを見ただけで胡散臭いかどうかは案外本能で感じられるということもある。だが、曹の第一印象では画像の男からそういった危険な臭いは受けないようだ。
「もしもこれがよほどの悪人というなら、俺の目も勘も鈍ってきたかと少々焦らされそうだ。俺たちは時代に追いついていけてないのか――とかな」
「ふむ……そうか。お前は我がファミリーの専任弁護士だ。人を見る目も俺よりは鋭い。だがそんなお前がそう感じるならばやはり危惧することもない……ということになるか」
「もったいぶってねえでいい加減事情を話さんか。いったいこの男が何をしでかしたってんだ?」
 曹は呆れ気味で風を急っつく。
「実はな――」
 風がようやく種明かしをすると、言うまでもなく曹は驚きに目を見張った。というよりも呆れて唖然としてしまったほどだ。
「は、はは……冗談だろ? こいつが焔君の息子だってのか?」
「――そうらしい。というよりも焔自身も信じられないといったところのようだ」
「――ふむ。十五年前の鉱山での事故で――か。あの時、俺や李がお前さん方兄弟を見つけるまでに要した時間は約半月ほどだったな。その間に子供ができるようなことがあったというのが相手の言い分――というわけだな?」
「半月といっても俺と焔が意識を取り戻したのは事故から一週間後だ。その後、お前さんたちが迎えに来るまでの一週間はしっかりと記憶がある。その間にそういった事実は無かったとはっきり言えるからな。本当にその女の言うことが事実とするならば、子供ができたのは事故に遭った日から俺と焔が意識を取り戻すまでの一週間だったということになる」



◆13
「だがお前さんたちは怪我の状態もかなり重かった。そんな状況下でガキをこさえるなんざどう考えても無理としか思えんがな」
 医学的にはどうなのだと曹は言った。
「あの時同行していたのは俺たち側近の他には――医師の鄧兄弟も一緒だったろうが。何なら鄧海にも訊いてみるか?」
 当時の焔が負った怪我の状態で、医学的にそういう行為が可能だったかということだ。
「ふむ、焔の方でも鄧浩が現在親子鑑定を進めているそうだが――。その鄧浩も陰謀を疑った方がいいのではという見解だそうだ」
「陰謀か――。普通に考えればそうなろうな。だいたい、相手の女はなぜ十五年も経った今になってそんなことを言い出したのかということだ。本当にこの画像の男が焔君の息子だというなら、孕ったことが分かった時点、もしくは生まれた時点で言ってきても不思議はないはずだ」
「汐留でも見解は同意見のようだ。俺も陰謀の線が濃いとは思う。となると、相手の目的だ」
 単純に考えれば『金』ということになるのだろう。
「焔君から養育費を取りたいというのが目的なのか――。相手の女は周家が香港の権力者だと知っているわけだから、やはり目的は金と考えるのが妥当だろうとは思うが……」
 あるいはもっと大掛かりな要求を考えているのかも知れない。
「それで――焔君は何と言っているんだ。親父さんやお袋さんはまだこのことを知らないのだろう?」
「ああ。それはもう一度焔と相談してからだが、いずれにせよ親父に黙っておくわけにはいかんだろうな」
 今すぐに告げずとも、隠し通すのは無理がある。
「とにかく――美紅にもこの男の画像を見せて印象を訊いてみようと思うんだが。もしかしたら我々男の目とは違った見方があるやも知れんしな」
 と、ちょうどその美紅がタイミングよく風の元へとやって来た。生まれたばかりの赤ん坊を風呂に入れて寝かしつけてきたところだったようだ。
「あら、曹先生! いらっしゃい」
「奥方、お邪魔しております」
「お仕事のご相談かしら」
 邪魔になるようなら向こうへ行っていましょうかと微笑んだ美紅の気遣いは相変わらずによく出来た嫁さんといえる。
「いや――実はな、メイ。貴女にもちょっと見て欲しいものがあるのだ」
 風はパソコンの画面を彼女に向けると、この男についてどう思うかと訊いた。女性の視点でどのように感じるか、風と曹とで彼女の様子を注意深く窺う。母になったばかりの彼女の目からすれば、案外自分たちの気付かないような何かを感じ取るかも知れないからだ。
 ところが美紅は二人が考えていた以上に驚くことを言ってのけた。
「あら……! この俳優さん。貴方もご存知でしたの?」

「え――?」
「俳優――?」

 俳優とは驚きも驚きだ。期待以上どころか、唖然とさせられてしまうほどの見解に、男二人は逸ったように瞳を見開かされてしまった。



◆14
「俳優……だって? メイ、この男を知っているのか?」
「ええ。確か……タイかどこかの映画に出ていた子役の方よ。実は私、このシリーズのドラマが前から気になっていて観ていたんだけれど、最近は紅龍が生まれたばかりでなかなかゆっくり観る時間が取れなくて。それで録画してためてあるの」
 紅龍というのは二人の子供の字だ。美紅の紅を取って、赤子の字は紅龍となったのだが、今はとにかくその子役の件だ。美紅曰く、気に入って観ていたそのドラマが劇場版になった際に子役で出ていた俳優だと言うのだ。
「……間違いないのかい?」
 もう一度よく見てみてくれと画面を確認させる。
「ええ、間違いないわ。映画ではそれほど出番が多いというわけじゃないんだけれど、王国の王子役だった子よ。ここに――ほら、見て。この子の額の脇の方。髪で隠れて見づらいけれど、ここにちょっと大きなホクロがあるでしょう? 映画では王子の衣装だったから印象も違うけど、ホクロの位置と形は同じだわ。この俳優さんで間違いないと思うわ」
 何とも驚きだ。
「メイ……もしかしてその録画というのは今も残っているかい?」
「え、ええ。後でゆっくり観ようと思って、ドラマと一緒に残してあるけど」
「それを観せてくれ!」
「ええ……もちろん」
 美紅にとっては何が何やら訳が分からないながらも、男二人がこうも逸るところを見ると、何かよほどの訳ありなのだと思ったのだろう。すぐにレコーダーのある隣のリビングへと案内してくれた。
「ほら、これよ。確か……王子様の出番は映画の中盤くらいだったかしら」
 録画を適当に送ると、まさに驚くべきか確かに同一人物と思われる子役が出演していて、風と曹は顔を見合わせてしまった。
「……本当だ。ホクロの位置といい形といい、この男で間違いないようだな」
「名前は――? この子役の名前がスタッフロールにあるはずだ!」
 ラストのスタッフロールを確認すると、彼の名が明らかとなった。
「チャンサンか――! 曹、急いでこれを」
「分かった! すぐに調べよう」
 逸る思いでネット検索をすると、件数は少ないながらもその映画の番宣などが引っ掛かってきたのだ。
「出演は……この映画が初めてのようだな」
「というよりも、今のところこれ一本だけのようだ」
 役的には端役同然で、美紅の言うように登場シーンも少ない。だが、間違いなく本人だ。
「でかしたぞ、メイ! これで突破口が開けるかも知れん!」
「風、俺はもう少し詳しくこの子役について洗ってみる! 少し時間をくれ」
 曹は急ぎ調査に乗り出すべく部屋を後にしていった。
 後に残った風は美紅に事の次第を説明。子役が焔の息子かも知れないと聞いて、彼女もひどく驚いていたが、何よりも冰のことが気に掛かってならないようだった。
「そうでしたの……。白龍はもちろんでしょうけど、きっと冰が心を痛めているわね」
 同じ妻という立場の義弟のことが何より心配のようだ。風はそんなふうに案じてくれる妻を有り難く思うのだった。
「とにかく――焔に連絡だ。曹と共に汐留でも調査すれば、互いに別の角度から情報が掴めるやも知れん」
 風は美紅と共に早速汐留の弟へとリモートを繋ぐことにした。



◆15
 兄夫婦からの連絡を受けた周と冰は、驚きつつも一歩前進できたことにホッと胸を撫で下ろす思いでいた。
「あのボウズが子役をしていたとはな――」
『今、こちらでは曹来が更に詳しい経歴を洗ってくれている。素性の洗い出しはヤツの十八番分野だから早々にいろいろと明らかになろう』
「すまない、兄貴。俺の方でもその子役について早速調べることにする!」
『ああ、それがいい。双方から調べれば新たな事実が上がってくるやも知れんしな。それで、名前はどうなのだ? スタッフロールにあった子役の名はチャンサンだったが』
「女から紹介された名とは違うようだな……。あの娘、スーリャンからはアーティットという名だと聞かされた。映画には芸名で出ていたのかも知れません」
『そうか。まあ映画に出るくらいだ。所属事務所を当たれば素性はすぐに知れるだろうからな。その点、曹来は本業だ。弁護士という立場で顔も利く。二、三日もあればすっかり調べはつくはずだ』
「兄貴、手を煩わせてすまない……」
『そんなことは気にするな。お互い様だ。すまないなんて思わずに頼ってくれた方が俺たちも嬉しいさ』
 兄の厚情に、側で聞いていた冰もまた真摯に礼を述べた。
「お兄様、お姉様、ありがとうございます! お手を煩わせて恐縮ですが、本当に有り難く思っております!」
 すると風の後ろから心配そうな顔つきの美紅が顔をのぞかせた。
『冰、白龍! ご心配でしょうけど、くれぐれも身体には気をつけるのよ。何かあれば……夜中でも全然構わないわ。遠慮なくいつでも連絡してちょうだいね』
 美紅は生まれたばかりの赤ん坊にミルクを与えたり、夜泣きであやしたりしているので、昼夜問わずいつでも連絡して欲しいと言ってくれる。周も冰もそんな義姉の気持ちを心底有り難く、また頼りにも思うのだった。
『それで焔、親父たちのことだが――。事実がはっきりするまでは親父たちには黙っていた方が良いか?』
 いずれにせよ、いつかは報告せねばならないだろうが、ある程度調査が進んでからでも構わないと言った兄に、周もまたその心遣いを有り難く思う。
「……そうだな。既にカネと僚一が動いてくれているから――遅かれ早かれ親父の耳には入るだろう。他所から噂が届くよりも俺本人から親父には報告すべきと思っています」
『そうか。まあ確かにな。それがいいかも知れん。裏の世界は情報が伝わるのも早い。お前の言うように横から話が耳に届くよりはいいかも知れんな』
 風はリモートで報告するなら自分も一緒に立ち会うぞと言ってくれた。
「すまない、兄貴。助かります。本来俺が香港を訪れて直に報告すべきですが――」
『構わん。今は女と息子もそちらに――日本にいるのだろう? これが陰謀だとすれば、どこからか女にコンタクトを試みてくるような動きがあるかも知れん。お前の方ではそちらの様子にしっかり専念してくれ。調査は俺たちの方でも全力を尽くす』
 心強い言葉に胸を熱くする周と冰だった。



◆16
 兄・周風の言葉通りそれから二日もする頃には次々と状況が明らかになってきた。
 まず風の側近、曹来の調査によって子役のチャンサンが映画に出演した際の芸能事務所が割れた。それによると子役の父親も俳優であるらしく、同じ映画に出演していることが分かった。役柄的にはエキストラに近い端役だそうだが、この父親の方は元々俳優で食べているらしい。その伝手からオーディションを受けた息子が王子役に抜擢されたのだそうだ。
『あの子役に父親が存在するということは、単純に考えればお前の息子ではない――ということになる。ただし、その父親というのが本当に血を分けた実の親であるかは今のところ何とも言えん』
 つまり、養父という可能性も考えなければならないということだ。
『お前の言うようにあの息子の名がアーティットだとするなら、チャンサンというのは芸名か――もしくはアーティットの方が偽名かも知れんな。今、曹来が引き続き父親の私生活について調べを進めている』
「すまねえ、兄貴。助かります。こちらでもちょうどカネと僚一から知らせが届いたところです。例のスーリャンが住んでいた村を訪ねてくれているんですが、どうやら一家はあの後すぐに都市部へ移住して村を出て行ったそうです」
 周らが父の隼と共に礼に出向いたすぐ後だったそうだ。やはり大金を手にしたことで過疎地の村から出て行くことにしたのだろうか――。
「ところが二年もしない内に両親だけがまた村へと舞い戻って来たそうです。村人の話では、出て行く時とはえらく変わり果てた――というよりも、酷くやつれた様子で戻って来たとかで、移住先の都市生活には馴染めなかったようです」
『……そうか。それで――そのご両親は今も村で暮らしているのか?』
「いえ――カネの話だと、村に戻って数年後に二人とも病で他界したそうです。娘はそのまま都市部に残ったと見られますが、カネたちがこれからその移住先へ飛んで更に調べを進めてくれることになっています」
 一家が移り住んだのは上海だったそうだ。
『そうか――。やはりあの時我々が渡した礼金が移住のきっかけとなったわけだな……』
 まあ礼金を何にどう使おうと一家の自由だが、泡銭の感覚に浮かれてしまったのだろうか。結局は慣れない生活環境に馴染めずにやつれて村へ舞い戻り、しかも病で他界したなどと聞くと、残念な気持ちにもなろうというものだ。
 一旦リモートを終えて少しした時だった。鐘崎から再び報告が入って、今度は少々驚くべきことが告げられた。
『氷川、こちらでは少々気に掛かる事実が出てきたぞ。一家が村を離れる際だが、どうやら同じ村に住んでいた若い男が一人、同時期に村を出ていることが分かった』
 鐘崎によると、その若い男というのは当時二十歳くらいだったそうだが、村での評判はあまり良いものではなかったらしい。性格は凶暴で怠惰、村人たちからも敬遠されていた存在だそうだ。
『何かにつけて威張り散らしたり、村人を脅して暴力を振るったりと、いわば皆は腫れ物に触るような形で関わり合いになることを避けていたようだな。だからそいつが村を出て行ってくれて正直なところ安堵したと口を揃えている』
 問題は、その男が一家と同時期に村を後にしているということだった。
『もしかしたら一家が手にした周家からの礼金が目当てだった可能性も高い。一家を脅して金を巻き上げたとも考えられる。その辺りのことをもう少し詳しく洗ってみたいと思う』
 鐘崎らはそのまま移住先の上海へ飛んでくれるそうだ。



◆17
『――で、そっちの様子はどうだ。女と息子はまだグラン・エーにいるんだろ?』
「ああ。二人共ホテルを動いてはいない。粟津の話だと大分居心地がいいのか、割合リラックスした様子でいるらしい。特にすることもなく暇を持て余しているかと思いきや、東京の雑踏が怖いのか二人揃って出掛ける様子もねえってことだ」
 日に二度、午前中には劉が、そして夕方には李が様子窺いに顔を出してくれているが、特に変わったことは起こっていない。
「ただし、女の方が俺との面会をえらく望んでいるらしく、俺が会いに来ないのが不満のようだと聞いている。だが今のところ母子に外部からの接触は見られん。俺の方では母子の裏で糸を引いている人物が居ないかどうかの調査を念入りに進めているところだ」
『そうか。俺たちは女の一家が移り住んだ際に村を出て行ったという若い男についても洗うことにする。もしかしたらその男に上手いこと言いくるめられて、一家が移住を決めた可能性もあるからな』
 何か分かったらまた連絡すると言って、鐘崎は調査へと戻っていった。

 その翌日のことだ。汐留では新たな受難に誰もが頭を抱えさせられる事態が勃発することとなった。
 なんと、鄧が行っていた親子鑑定の結果が黒と出たからである。つまり、女が連れて来た息子は本当に周の血を引く息子だった――という結果だ。
 正直なところ、鑑定結果が出ればこの奇妙な事件は解決すると、皆心のどこかで信じて疑わなかったわけだ。それゆえ、調査といっても、なぜ女がこのようなでたらめを言いに出向いて来たのかということを明らかにすべく方向に重点を置いて進められてきた。誰もが陰謀を疑い、女の裏で糸を引いている人物を引き摺り出すべく調べを進めてきたわけだ。まさか本当に周との血縁関係が明らかになるなどとは思ってもみなかったというのが実のところである。
 それゆえ、汐留では蜂の巣を突いたような大騒ぎに、蒼白となっていた。
「鄧浩、間違いないのかッ? お前さんの鑑定を疑いたくはないが――だがしかし……」
 李が蒼白顔で鄧に詰め寄る。
「私とて誰よりも驚いているのだ。だが、お前さん方がグラン・エーで採取してくれた息子の毛髪と焔老板からご提供いただいたDNA……。それらを鑑定にかけた結果こうなったのだ。正直なところ信じられないのは私の方だ」
 ともすれば声を荒げん勢いの二人に、周は『よせ』と言って彼らを宥めた。
「お前らが争うことはない。結果が黒と出た以上、それが事実だ。やはりあの時――十五年前の村で……俺は意識朦朧の中、あの娘との間にガキができるような既成事実があったのだと認めねばならんだろう」
「ですが老板……」
 李も鄧も驚愕といったふうで言葉にもならないでいる。



◆18
 これまでは陰謀を疑い、それ有りきで進めてきた調査だが、親子鑑定の結果からすればあの母子の言っていることは事実であり、裏で糸を引いている誰かがいるということも無い――ということになる。
「正直なところ――俺にも信じられんことといえるが、こうなったら認めるしかなかろう」
 周の言葉は平坦で、焦りや憤りといった感情は見受けられない。どちらかといえば諦めや覚悟の感情といったところだろうか。事実を事実として受け止める意思の強さは、ある意味男らしいといえるのだろう。だが、傍で見ている李や鄧にとっては心掻きむしられる思いでもあった。
「――俺はこれからあの母子を訪ねて結果を知らせようと思う。認知など手続きの面でまたお前さん方を煩わせるだろうが――すまねえ」
「老板……。もちろん……私共はどんなことでも精一杯お役に立てるよう……何でもいたす所存でございます……。ですが、冰さんには何と……」
「冰には俺が伝える。あいつさえ良ければ母子のところへも一緒に連れて行くつもりだ」
 周は母子と冰、双方誰にも事実を隠すことなく、ありのままを明かすつもりだと言った。
「母子には俺が冰と結婚していることを告げる。その上で息子を認知し、俺と冰の子供として育てるのか、それとも養育費という面で少しでも父親らしいことができるのか――とにかくは全員の意見を包み隠さず出し合って、とことん話し合って決めるつもりだ」
「老板……」
 李は今にも泣き出しそうになるのを必死に堪えながら肩を震わせている。鄧とて同様だ。自分のミスで検査結果が間違っていたとなってくれた方が嬉しいくらいの心持ちでいる。
 ――と、ここで鄧が思い立ったようにこんなことを口にした。
「ミス……そうか、ミスか――。そうだ、ミス――その可能性だ! 李、お前さんが持ち帰ってくれた息子の毛髪だが……あの時、劉と息子は我々のいたリビングとは扉を隔てたコネクティングルームにいた。劉が息子の毛髪を採取してくれたのでしたね?」
「……その通りだ。まさか劉が採取の際にしくじったとでも?」
「いや、そうではない! 劉がしくじったなどとは思っていませんが――彼が採取した毛髪はどのように手に入れたのかということを今一度詳しく訊きたいのです」
「どうのように……って。劉の話では、息子はあの時飲み物には一切手をつけなかったと聞いている。ただし、我々が隣のコネクティングルームでどんな話をしているのかが気になってか、終始ソワソワと落ち着かなかったそうだ。劉が話し掛けても殆ど応じずに、時折苛立ったように髪を掻きむしっていたとか。その際ソファに落ちた髪を数本、手袋をして採取したと聞いている」
 つまり、ソファから拾ってきた毛髪は間違いなく息子本人のものということになる。



◆19
「掻きむしった髪の毛――ですか」
「劉は彼が髪を掻きむしった際に抜け落ちた髪の毛を振り払う仕草をはっきりと見たそうだ。息子の手から落ちたそれを手袋をして採取したということだから……おそらく息子本人のもので間違いなかろう」
 何なら劉を呼んでもう一度詳しく訊いてみるかといった李に、鄧は是非ともお願いしたいと言った。
 その後、医療室にやって来た劉からも同じことが語られた。彼は自分が何かしくじったのだろうかと蒼白な様子でいたが、鄧はそうではないと言って彼を宥めた。
「劉がしくじったのではない。ただ――もしかしたら息子が振り払ってソファに落としたというその毛髪は――仕組まれたものである可能性も考えられるということです」
「仕組まれたもの……? 鄧、どういうことだ」
 李が逸った表情で身を乗り出す。
「――劉が彼の頭皮から直接抜き取った毛髪ならば動かしようのない本物ですが、掻きむしった際に抜け落ちた髪をわざわざソファに振り払ったという行動が怪しく思えてならないのです。しかも今の劉の話だと、劉が見ていると知った上で息子はソファに髪を落としている。もしかしたら我々が親子鑑定に必要なDNAを採取するのが分かっていて、わざと資料を提供した――とも考えられないことはないということですよ」
「わざと……だと? だが相手は十四、五歳の子供だぞ?」
 そんなことを思いつくだろうかと李は半信半疑だ。
「もちろん子供が思いつくわけもないでしょうから、彼は誰かにそうしろと指示されてやった――と考えるのが妥当でしょう」
 鄧は言いながらこうも付け加えた。
「あの息子は役者だということでしたね? 彼の父親とされている人物もまた役者だとか。――普通に考えるならば焔老板との親子関係が黒になるはずがないわけですが、その父親というのが血の繋がりのない養父だという可能性も確かに残ってはいます。どうも関係が複雑に思えてなりません。私が引っ掛かるのは、息子がわざと劉に見せつけんばかりにソファに髪を落としたという行動です」
「つまりは……なんだ。鄧は採取した髪の毛は息子本人のものではなく、あらかじめ用意されていた偽物ではないかと思うわけか?」
「――可能性としてはそういうことも有り得るかと。老板、彼の認知の件は少し待っていただけませんか? 正直なところ私の技術では、採取した毛髪からこれ以上新たな何かを見つけるのは限界があります。ですが――ドイツのクラウス・ブライトナー医師ならば……もしかしたら毛髪に仕込まれた何かを見つけられるかも知れません」
 鄧はドイツに調査の結果を共有してブライトナー医師の意見を仰ぎたいと言う。
「クラウス・ブライトナーか――。以前、カネの組が警護を引き受けたあの医師だな?」
 周もその時は助力したので、よく覚えているのだ。
「それにブライトナー医師には香港の楚光順氏と娘の優秦の親子鑑定の際にもご助力いただいております。彼の病院は最新設備が揃っている……。ブライトナー医師ならば私には見つけられない何かを見出してくれるやもと思うのです」



◆20
 鄧の必至の訴えに周もまた同意した。
「分かった――。とにかくやれることはすべてやってみなければならん。手間を掛けるがブライトナー医師に当たってみるのも手だろう」
「ありがとうございます!」
 鄧は早速にも共有の準備に取り掛かった。
「それで老板――あの母子にはお会いになられるので?」
 李が訊く。
「会おう。女の方も俺との面会を望んでいるようだしな。冰も連れて行く」
 親子鑑定のことはとりあえず告げずに、冰と結婚している事実は彼女に伝えておくべきと思うと周は言った。
「では私も同行させてください」
 李が言うと、劉もまた是非とも自分も――と言って懇願した。
「私も同行させてください! もう一度……あの息子のDNAが採取できるようであれば……」
 周は無理せずとも良いと言ったが、もしも密かに持ち帰る機会があれば、今度こそ失敗はすまいと劉は肝に免じているのだ。
「では今夜はとにかく俺と冰が夫婦であるという事実だけを伝えるとしよう。李も劉も手を煩わせてすまないが頼む」
「いいえ! 滅相もない!」
「我々にできることは何でもいたします!」
 そんなふうに言ってくれる二人の気持ちを心底有り難く思う周であった。



◇    ◇    ◇



 その夜、丸の内のグラン・エーに出向いた周は、母子と二度目の面会を果たすこととなった。冰にとってはこれが初対面である。緊張の中、母子の姿を目にした彼は、当然か――さすがにソワソワと落ち着かなかったようである。
「周さん……その人、誰ですか?」
 李と劉には面識があるものの、初めて見る冰のことを怪訝そうに見つめながら女が訊く。
「これは周冰。俺の妻だ」
「……? 妻? でもその人、男性……」
「その通りだ。男同士だが俺たちは結婚している」
「結婚?」
「そうだ」
 片言ながらもその意味するところは理解したのか、女は驚きに目を剥いた。
「結婚……そんな……! 困るます! 私と息子はどうすればいいです!」
 ともすれば半狂乱になる勢いで女は周に掴み掛かった。
「それを話し合いに来たのだ。俺は事実を隠すつもりはない」
「酷い……! あなた酷い人!」
 興奮して周の胸板をドンドンと叩く女を李が引き留めた。
「落ち着いてください!」
 女の両肩を掴んで周から引き離す。周は女とは真逆――この部屋に着いた時からまるで動じずの平静でいる。
「――ひとつ質問だが。あんたは息子が俺の子供だと言うが、それが事実ならば何故その子が生まれた時に知らせてこなかった。何故十五年も経った今になってこんなことを告げに来たのだ。その間に俺が別の人間と結婚していたとて不思議はなかろう」
 周の言葉を李が翻訳ソフトを使って訳し聞かせる。女は言葉を詰まらせたまま返答できずに口をつぐんでしまった。
「それ以前にあんたたちの村は――地理的に言えば中国だ。それなのに何故中国語で話さない」
 そう訊くと、女はこう答えた。自分たちは元々ラオスやミャンマーの隣国から村ぐるみで移住してきた少数民族で、ゆえに中国語では話さないのだそうだ。今現在片言でしゃべっている中国語は、周に会う為、必死に勉強したのだと訴えてよこした。



◆21
「――なるほど。言語の件は理解した。そこで提案だが――正直に言ってあんたと俺の間に息子ができていたと急に聞かされて、俺は驚いている。あんたの言うことを疑うわけじゃねえが、一度医学的に親子鑑定をさせてもらえないか? その結果、彼が本当に俺の息子だと判明すれば俺も納得できる。あんたらには気分を害する申し出と思うが、こちらの気持ちも汲んでくれたら有り難いのだがな」
 そう言った周に、それまで黙って皆のやり取りを窺っていた息子・アーティットが口を挟んだ。
「ふん……! 言いようだね。親子鑑定なんて言うけどさ、あんたらマフィアなんだろ? 本当はこの前ここで会った時に親子鑑定に必要なモンを採取して帰ったんじゃねえの?」
 その内容にも驚かされるが、それより何より注目すべきは言語の方だ。たった今、この息子が放ったのは流暢な中国語だったからだ。
「ほう――? お前さんの方は中国語が分かるのか?」
 周に指摘されて息子はビクリとしたように表情を強張らせた。
 が、すぐに開き直ってこうつけ足す。
「あ……当たり前だろ? お、俺が生まれたのは母親が村を出てからだ……。と、友達と話すのも……学校でも皆んな中国語だし……」
 確かに鐘崎の調べで彼ら一家は上海に移り住んだと聞いている。この息子が生まれたのも上海ということになろうから、流暢で当然といったところか。
 ところがそれを聞いて焦ったのは女だ。彼女はひどく慌てて息子を振り返った。
「あなたは黙ってて! 余計なことを言っちゃダメ!」
 言語は村の言葉で、しかも早口だったが、李はしっかりと録音して密かに翻訳結果の画面を確認――驚きに目を見張った。それとなく周に耳打ちして胡散臭いのではと伝える。
 女はさすがに大人なだけあって余計なことを口にせずにいたが、息子の方はつい本音に近いことが口をついて出てしまったのかも知れない――李は咄嗟にそう判断したのだ。
 やはり二人は母子ぐるみで周を騙そうとしているのかも知れない。そんな疑問が色濃くなったように思えてならない。周もまた同様、やはりこの母子は何かを隠しているように感じたのか、穏やかな口調ながらこう訊いた。
「まあいい――。言語の点では納得だ。それよりアーティット、お前さんは何故そう思う。この前俺たちがキミら母子の遺伝子でも採取して帰ったと――そう思うわけか?」
「べ、別に……! マフィアっていうならそういう汚ねえこと……平気でしそうだと思っただけだよ! 映画とかでも……そーゆうのいっぱい観てきてるし!」
 しどろもどろで息子は言うと、そっぽを向いてしまった。
「周さん、お願いあるます! あなたと二人で話したい……」
 女が焦りながらすがるようにそう言った。
 状況が芳しくなくなってきたから今度は色仕掛けか――李は咄嗟にそう思い、険しく眉根を寄せた。だが周は承諾し、冰を含め、李と劉、それに息子の四人は隣のコネクティングルームで待つこととなった。
 周にとっては、冰が息子を気遣いながら隣の部屋へと向かう後ろ姿に胸が痛む思いがしたが、とにかくは女が何を思い、何を目的としているのか、引き出せるだけ引き出さねば始まらない。むろんのこと、李が感じたように二人きりになれば女が抱きついてきたり涙を見せたりと、色仕掛け的なことが起こり得るのも予測できてはいたものの、そうした触れ合いの中でしか見えてこない本音もあることを周は知っているのだ。



◆22
 皆が隣へと移って二人きりになると、案の定か女の方から抱きついてきた。
 そしてこれもまた予想通りか、涙まじりといった声音ですがるように言う。
「あなたに今まで連絡しなかった私、悪い思うます。理由言うます。本当は会いたかた。子供のこと知らせたかた。でもお金無い。私、会いに行けなかった」
 つまり会いに行きたくても金銭的な理由でそれがままならなかったという主張だ。
「私、あなた忘れたことない。十五年、ずっと好きだた。会いたかた」
 そう言ってしがみつく。
 時折鼻をすするような仕草を見せ、だが顔はすっぽりと胸板に埋められたままなので本当に涙を流しているのかは分からない。
 しばしの後、周は感情の見えない平坦な口調でこう言った。

「あんたはどうしたいんだ――」

 女はぴたりと泣くのをやめて周を見上げる。
 やはりか、その頬に濡れた跡は見られなかった。
「泣いているのは素振りだけだろう。あんたの言葉からは心が伝わってこない」
「周さ……違う……私本当に……!」
「あんたが本気で俺を好きだというなら――十五年もの間ずっと会いたくて会いたくて仕方なかったというなら、言葉になどせずとも俺には分かる。あんたの表情を見ただけで分かるさ。だが今のあんたからは何も感じられない。好きだという気持ちも、会いたかったという思いもだ。だから正直なところを聞きたい。目的は何だ――」
 淡々とそう述べた周に、女はたじろいだように視線を泳がせた。
「目的……なんて無い。私、本当に……あなたに息子と会って欲しかっただけ……」

「――そうかな?」

 格別には睨んだわけでもない周の穏やかな表情に、女は視線を合わせることができなかったようだ。

 一方、隣のコネクティングルームでも冰が息子の方と似たようなやり取りをしていた。
「アーティット君――でしたね。僕は冰といいます。正直に言ってあなたが周の息子さんだと聞いて驚きました。ですが――本当に彼の息子さんであるなら、僕にとっても大事なお方です。あなたとお母様がご苦労されたこの十五年は――僕には到底理解できないくらい大変なものだったことでしょう。あなたにとって僕は邪魔な存在かも知れません。ですが、できることならあなたと、あなたのお母様と共に僕も周にかかわる一人でありたいと思うのです。一般の家族という形とは違うかも知れませんが、皆で手を取り合っていきたいと思うのです」
 彼は中国語が流暢のようだからその点は助かったといえる。丁寧に穏やかに――そう言った冰に、息子の方もまた面食らったようにして冰を見つめては眉根を寄せた。
 そしてフッと苦笑いを浮かべるように口角を上げてよこす。
「あんた――人が好いのな……。でもさ、そんなふうに他人のことばっかり気遣ってると……いずれバカを見るよ。俺は……あんたがどう言おうが……父親だっていうあの人と……母親と……俺と三人だけで幸せになりたい。皆んなで仲良く――なんて理想だよ。実際そんな上手くいくわけないじゃん!」
 小馬鹿にするように言うも、彼の表情はどこか苦しげに歪んでいるように感じられた。



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