極道恋事情

35 身勝手な愛2



◆23
「だいたい……! あんた、あの父親と男同士で結婚してるとか言うけど……それっていつよ。結婚したのいつ?」
「はい、かれこれ二年になります」
「ンだよ、たったの二年かよ! じゃあ出会ったのは?」
「出会ったのは十四年くらい前かな。周からはあなたのお母様ご一家に助けていただいた一年後だったと聞いています」
「なんだ、じゃあやっぱりウチの母親の方が先じゃん!」
 要するに『あんたの方が後釜なんだから勝負は見えてるだろ?』と言わんばかりだ。
「確かに……あなたのおっしゃる通りですね。僕はあなたのお母様よりも後で周と知り合ったのです」
「だったら話は早いじゃん! あんたがあの父親と出会った時にはもう俺が生まれてたわけだから! 順番から考えても邪魔なのはあんたの方ってことでしょ?」
 身を引くべきはそちらだと勝ち誇った表情で笑う。冰もまた、曖昧な笑みを浮かべるしかできずにいた。
「そう……ですね。本来僕が考慮すべきなのでしょう」
 シュンとしたように肩を落としながらも寂しそうな笑顔を見せる。息子の方もそんな冰の様子に根っから悪い人間だとは思えないわけか、
「と、とにかく……子供の俺がどうこう言うことじゃないよ。どうなろうがあとは父親と母親が決めた通りにするしかないでしょ……」
 それきり口をつぐんでしまった。

 一方、隣室の周の方でもまた、女との対峙が続いていた。
「ひとつ疑問に思っていることがある。あんたは俺に強要されてあの息子ができたと言うが、正直そんなことをした男を好きになれるものか?」
「……え?」
「好きでもなんでもない男から無理やりそんな目に遭わされれば、普通は好きになるどころか恐怖に思うか二度と顔を見たくないと思うのではないか? だが、当時のあんたは俺の怪我が快復して村を去るまで親切に接してくれた。俺に対する恐怖心も感じられなかったように思うがな」
「そ……れは……」
 女はしばし言葉に詰まりながらも焦ったようにこう言い訳をした。
「本当は……あなたが好きだた……! あなたにされたこと……嬉しいと思てた、私……」
「――そうか。本当はあの十五年前の時から俺を好いてくれていたというわけだな?」
「そ……です! 私、あなた好き!」
 必死の形相で再びしがみついてくる。
「あなた好き。だからあなたも私こと好きでいて欲しい。息子のことも認めて欲しい……」
「本気で言っているのだな?」
「もちろん本気! あなたと息子と……幸せになりたいの!」
 なぜだろう、不思議なことに交わす会話はどんどん流暢になってくる。実のところ二人きりになってから翻訳ソフトを通していないにもかかわらず、女は少々複雑なこちらの言い回しを理解できているようだ。
 思えば先程息子の方が親子鑑定のことで口を挟んだ際にも、この女は難なく理解したふうだった。

 彼女は中国語を理解している――というよりも本当は流暢なはず。

 女との触れ合いの中で周は陰謀を確信したのだった。



◆24
「――そうか。だったら望み通りにしよう。今日から共に暮らそう」

「…………え?」

「あんたと息子は俺の家に来て一緒に住めばいい」
「……住むって……。でも……だったらあの人は? あなたが結婚してるっていうあの冰とかいう……」
「出会ったのはあんたが先だ。しかも血を分けた息子までできていたんだ。冰には悪いが出て行ってもらう」
「出……ッて、そんな……ッ! あの人を追い出すつもり……?」
「構わんだろう? それがあんたたち母子の望みだ。早速今夜から俺の家へ移ってもらう。冰には――当分ここで何不自由ない生活をしてもらい、いずれ彼の為に新しい住まいを見繕ってやればいい。何も知らなかったとはいえ俺はあいつと結婚していたんだ。そのくらいの温情は許して欲しいところだ」
 話は決まった。早速家へ帰って親子三人、仲睦まじく共に暮らそうと微笑んでみせる。周は女の肩をグイと引き寄せながら言った。
「十五年ぶりの夜だ。今宵はたっぷり愛し合おうじゃねえか」
 華奢な顎を持ち上げて瞳を細める。今にも口づけられそうな雰囲気に女は思わず顔を背けた。
「待って……! 待って周さん! アタシたちは……何もそこまで望んでるわけじゃないの……! あなたと冰さんの仲を裂くつもりもない……。アタシはただ……あの子を息子だと認めてもらえればそれで満足なの。一緒に暮らすとか……そんな図々しいことは言わないわ……! ただ……あなたに息子を……」

「認めて金を都合してくれればいい――そういうことか?」

 見上げた周の真顔に圧倒されるように、女はガタガタと細い身体を震わせた。
「……周……さ」
「あんたは俺を好いてなどいない。本当の夫婦家族となって俺に抱かれるなど以ての外だ――そう思っている。言語が曖昧だというのも嘘だ。ただひとつ真実があるとすれば、それは是が非でも俺に息子のことを認知させたい。つまり目的は金か? 本当のことを言ってもらおうか」
 格別に脅すような口ぶりではなかったものの、まるで動じない真顔――感情の見えない真顔でそう言われて、女は返す言葉さえ失ってしまったようだった。ガタガタと身を震わせて『ここまでか――』とでも言わんばかりにギュッと瞳を閉じている。

「李、俺だ。引き上げるぞ」

 落ち着いた声音が耳に飛び込んできて頭上を見上げれば、スマートフォンを手にした周が隣の部屋の李にそう告げていた。
「待って……周さんッ! アタシたちは……」
「あんたらは当分ここで過ごしてくれて構わん。いずれその目的も明らかになろう」
「……そんな……」
 それ以上言葉にならずに立ちすくむ女の元に、コネクティングルームからやって来た李ら三人が姿を現した。
「老板――」
「今日のところは引き上げる。行くぞ」
 周はしっかりと冰の肩を抱き寄せると、李らを伴って部屋を後にしていった。

 部屋に残された女は呆然――身動きさえできずに男たちの後ろ姿から視線さえ外せないままだ。
「……母さん」
 息子にそう呼び掛けられてようやくと我に返る。そのまま糸に切れた人形のように彼女はソファへと崩れ落ちてしまった。



◆25
 帰りの車中で周は愛しい冰の肩をしっかりと抱き寄せたままで李らに状況を話していた。
「あの女の言っていることはほぼ嘘だ。中国語はしっかりと理解していて言葉も流暢だった。息子が俺の子かどうかというのは置いておいて、あの母子が何か目的を持って俺に近付いて来たのは確かだろう。正直なところあの女は何か余程の事情を抱えているか、誰かに脅されて操られているように思えてならん」
「――とすると、やはり裏であの母子を動かしている者がいると?」
「今の段階ではまだ憶測に過ぎんがな。とにかくもう少し様子を見るしかなかろう。カネと曹さんも調べを進めてくれているから、そう時を待たずにあの女の目的が明らかになるだろう。俺たちは女に直接接触してくる者がいないか目を光らせるとしよう」
「――かしこまりました。鄧の方でもブライトナー医師のご助力によって新たな事実が上がってくるやも知れませんし」
「ふむ、そうだな。それから――これも俺の勘に過ぎんが、女には大切に思っている相手がいるように思える」
「大切な相手――でございますか?」
「おそらく男だろう。あの女には心から好いた男がいる――。それがどこの誰なのかは分からんが、もしかしたらその男の為に必死に動いているのかも知れん」
「といいますと――?」
「その男を盾に取られて俺と接触を図るように脅されている――という可能性もある。兄貴からの情報で、あの息子には俳優をしている父親がいるということだが、もしかしたらその男を好いていると仮定すれば全体像が見えてくるような気がしてな」
「ではあの息子さんはその男性との間にできた子供かも知れないと――?」
「可能性としては無くはないかもな」
 それまで黙ってやり取りを聞いていた冰も、先程話した息子との会話で不思議に思ったことがあると言う。
「俺も……あのアーティット君が何となく寂しそうに思えたっていうか……。言葉じりは確かに乱暴と思えるところもあるんだけど、あれは彼がわざとそういうふうに繕っているんじゃないかなって感じたんだよね。そんなふうに……粋がった言い方をしなきゃならない自分を責めているようにも思えてさ」
 やはり彼ら母子には何かこちらに言えない理由があるように思えてならないと言うのだ。
「でもあの女の人が十五年前に白龍を助けてくれたのは事実だもの。もしも何か困っていることがあるなら力になってあげたいって思うんだ」
 本当に、冰というのはどこまでも気持ちのやさしい男だ。普通ならば自分の夫に隠し子がいたかも知れないなどと聞けば、錯乱し取り乱して当然のところ、自分の気持ち以前に相手のことを思いやるのを忘れない。それも無理をしてそう装っているのではなく、本心から力になれることがあればと思っているのが分かるから、周にとっては何ものにも代え難い気持ちになるわけだ。
「冰、ありがとうな。こんな事態だってのにお前はそうして皆を気遣い、俺を支えてくれる――。本当に有難いと思っている」
 抱き寄せていた肩を更に強く引き寄せて、周は心から愛しいと思う気持ちのまま黒髪にくちづけた。
「ううん、そんなの――」

 俺たちは一心同体の夫婦だもの。当たり前だよ。

 やわらかに微笑んだ視線がそう言っているようで、周は堪らない気持ちにさせられるのだった。



◆26
 その頃、上海に向かった鐘崎親子の方でも新たな事実を突き止めることに成功していた。香港で別ルートから調査に当たっていた曹来と偶然にもこの上海の地で遭遇、謎が次々と明らかになっていった。
 まずは鐘崎の父・僚一からこれまでに掴んだ情報が開示される。
「俺たちの方では周兄弟を助けた一家が移り住んだという家を突き止めることができた。ここ上海でも高級住宅街といわれている地区にたいそうな豪邸を購入している。一家が村を出た十五年前のことだ」
 ところがその豪邸に住んでいたのはわずか半年にも満たなかったそうだ。
「家はすぐに売りに出され、一家は町外れのアパートへと移ったことが確認できた。娘のスーリャンが出産したのはその数ヶ月後のことだ。だが驚くべきことにその産院を当たったところ、スーリャンが生んだのは女児だったそうだ」
 しかし彼女が周の子供だと言い張っているのは男児だ。生まれたのが女の子だとするなら、彼女が今連れている息子は彼女の生んだ子ではないということになる。そこで今度は曹の出番だ。
「こちらの調べで分かったのは、焔君の息子だといわれている子役はタイ人の俳優チャンムーンという男の実の子で間違いなさそうです。本名は焔君が聞いた通りのアーティットで間違いありませんでした。映画のタイトルロールにあったチャンサンというのはやはり芸名ですね。父親のチャンムーンは故郷のタイから上海に出て来て割とすぐの頃に芸能事務所からスカウトを受けています。そのまま俳優という職業を目指したものの、なかなか芽が出ない中、同じ事務所に所属していた女優の卵と知り合って結婚。二人の間にできたのがアーティットという息子です。つまり、あの子役は焔君とは何の関係もない他人ということになります」
 曹の調べでは息子が生まれて数年後に女優の卵だった母親が病で他界したそうで、父親である俳優のチャンムーンはやもめとなったそうだ。
「その後は男手ひとつで息子を育てながら細々と俳優業を続けていたようです」
「ふむ、なるほど。ということは――その俳優チャンムーンと息子のアーティットはどこかで周兄弟を助けた一家の娘・スーリャンと知り合ったということになる。もしかしたらその俳優と恋仲になったとも考えられる」
 まあ恋仲でないにしろ、顔見知りになったのは事実だろう。それがなぜ今頃になって周の前に姿を現し、赤の他人である俳優の息子を周の子供だなどと偽ったかである。
 僚一が続けた。
「俺たちの方では調べを進める中でひとつどうにも気になることが見つかった。十五年前、一家がここ上海へ移り住んだのと同じ時期に一人の村人が同じく村を出てどこかの都市部へ移住したということだ」
 その村人とは、乱暴者で村の誰からも恐れられていたという若い男のことだ。
「これは俺の憶測だが――案外その男に脅されて一家は村を出ることになった可能性もあるんじゃねえかと。狭い村のことだ、当時周家から莫大な礼金を手にした一家の噂は瞬く間に村中に広がったと思われる。そこに目をつけた乱暴者の男が一家を脅し、礼金を奪う目的でこの上海に豪邸を買わせたのだと考えればいろいろと辻褄が合ってくるように思えるのだがな」
「では僚一さんは今回の件にもその男が絡んでいるとお思いで――?」
 曹は驚きつつも、一理あると言って考え込んだ。



◆27
「話を整理してみましょう。僚一さんの想像通りにその荒くれ者の若い男が礼金目当てで一家を脅し、豪邸を購入させた。となると、その男と一家は一時期その豪邸で共に暮らしていたという可能性が出てきます。ところが半年後には売っ払って金に変えている。焔君の話では――スーリャンというその女の暮らしぶりからして金に余裕があるふうには思えないということですから、おそらくはその金も男が持ち逃げしたと考えるべきでしょう」
 続いて鐘崎が言う。
「その豪邸を売り払った時にはスーリャンは女児を孕っていた。アパートに移り住んで女児を出産、その後数年は家族四人そのアパートで暮らしたが、両親は都会の水に馴染めずに村へと舞い戻った。スーリャンは女児を抱えながら上海に残り、タイ人の俳優チャンムーン親子と知り合った――ということになりますね」
 金は村で乱暴者とされていた男に騙し取られ、生きるのに必死だったスーリャンがタイ人の俳優チャンムーンに惹かれ、頼みに思ったとて不思議はない。
「ここで問題になるのは――スーリャンが生んだ女児が誰の子供かということだ。十五年前、彼女が焔に強要されて孕ったという可能性がひとつ。だが、そうであるならなぜ俳優の息子であるアーティットが焔の子供だなどと嘘をついたのだ」
 本当に周焔に犯されて出来た子供なら、スーリャンが実際に生んだ女児を連れていくべきだろうと僚一は言うのだ。曹もまた、その通りだと言って首を傾げた。
「確かに――。生まれた女児が本当に焔君の子であるなら堂々とその子供を連れていけばいいだけのこと。仮に親子鑑定に掛けられたとして、わざわざ嘘がバレるような他人の子を連れていく必要はないですよね」
「そこから推測できるのは、スーリャンが生んだ女児は焔の子ではない――ということだ」
「――ではいったい誰の子だと……?」

 まさか――と言って曹も鐘崎も瞳を見開いた。

「そうだ。一家を脅して村を出た若い乱暴者の男――という可能性が高くなってくる」
 僚一の推測はこうだ。
 十五年前、周兄弟を世話したスーリャン一家はその礼として莫大な金額を手に入れた。もちろん、周焔とスーリャンの間には子供ができるような関係は一切無かった。一家が貰った大金に目をつけた乱暴者の男がその金を目当てに彼女を強姦。既成事実を作り上げて村に居づらくさせた挙句、上海に豪邸を買わせ、彼女が孕ったことを知るとすぐにその豪邸を売り払って金に変え、それを持ち逃げした。
 残されたスーリャンは女児を出産、両親は村へと舞い戻ったが数年後に他界。上海に残って女手ひとつで女児を育てていた彼女はタイ人俳優のチャンムーン親子と知り合って恋仲になった。
「そこで病むに止まれない何かが起こった。おそらくは金を騙し取った乱暴者の男と偶然にも再会したのだとすれば――」
「スーリャンはまたもその男に脅されて、周家から金を巻き上げようとこんな猿芝居に加担させられたということか?」
「そう考えれば辻褄が合う気がせんか?」
 僚一の推測に、鐘崎も曹もなるほどと肩を落とした。



◆28
「だが親父……。氷川からの報告によると、鄧先生が行った親子鑑定の結果、黒と認められたということだが……」
「おそらくそれも仕組まれた可能性が高い。どこかで焔のDNAを入手し、息子の毛髪に見せ掛けて陽性が出るように細工したのではないか? 今現在、女と共に汐留を訪れているのはタイ人俳優チャンムーンの息子で、しかも子役として映画にまで出演している。スーリャンが生んだ女児ではなく息子に演じさせる方がボロが出にくいと考えたのかも知れん」
 しかし周のDNAを採取するなど、本当にそんなことが可能だろうかと頭をひねらされる。
「なに、DNAの入手など、その気になれば大して難しいことではない。焔がよく行くホテルのラウンジなどで彼の使ったグラスなどを持ち帰ればいいだけだ。ただし――それに細工を加えて毛髪に仕立てるとなれば話は別だ。おそらくその手に詳しい闇医者か、化学者もどきに伝手があるはず」
 現在その毛髪についてはドイツの天才名医、クラウス・ブライトナーに助力を依頼して調べを進めているとのことだから、そう時を待たずしてメカニズムが明らかになるだろうと僚一は言った。
「とにかく――我々はすぐにこのことを焔に報告して、ブライトナーからの結果を待とう。それと同時に村人だった若い男の行方を捜し出すことに全力を尽くす! この推測が当たっているとすればすべての黒幕はその男だ――!」
 曹の方では引き続きタイ人俳優の居場所を捜索することとなった。
「チャンムーンという俳優が住んでいると思われるアパートは突き止めました。ですがここしばらく不在のようで、家には人の気配が見られません。スーリャンと息子のアーティットは焔君を訪ねて日本に行ったから留守としても――チャンムーンと女児はどこへ行ってしまったのか行方が掴めずじまいです。もしかしたらこの事件を操っている黒幕あたりに監禁されているということも考えられる……。何とか彼らを捜し出して会うことさえ叶えば、何か事情が聞き出せるはず。俺はそちらから当たってみます!」
 こうしてまた二手に分かれることとし、全貌解明に向けての日々が幕を上げたのだった。

 一方、ちょうどその頃、汐留でもまた少々驚くべきことが起こっていた。冰を訪ねてアーティットという息子が単身で社にやって来たからである。
 社ではしっかり者の受付嬢、矢部清美が対応に困惑させられていた。
「冰って人に会いたい。呼んでくれないか」
 スマートフォンの翻訳ソフト画面を見せながら必死の形相で懇願する。しかも相手はどう見ても成人に満たない外国人の子供だ。さすがの清美もやたらと追い返すのもためらわれ、かといって『どうぞどうぞ』と安易に通すわけにもいかない。困り果てた彼女は秘書室の李へと対応を仰いだ。
 数分後、李に付き添われてロビーへと降りて来た冰を目にするなり、アーティットは逸ったようにしながらも苦渋の表情を浮かべてよこした。
「突然押し掛けてすみません……。でも……俺、あなたに大事な話があるんです!」
 周ではなく冰に聞いて欲しいという。生憎周はクライアントとの打ち合わせで外出中だったので、李としてもとにかくは話を聞くしかないと判断――自分も同席させてもらうことを条件に面会を承諾したのだった。



◆29
 応接室にて三人になると、アーティットは突如ガバリと頭を下げてよこした。
「ごめんなさい! 今日は……本当のことを伝えに来ました……!」
 まるで辛そうに身体を震わせる彼に、冰はもちろんのこと李も驚かされてしまう。
「アーティット君、とにかく顔を上げて。話を聞かせてください」
 冰が穏やかな口調で宥めると、アーティットはようやく少しの落ち着きを取り戻してか、ゆっくりと口を開いた。
「母さんには……黙って出て来ました。俺、俺……もうこんなこと耐えられなくって……。俺たちはあなた方に嘘をついていたんです……! 俺が周焔さんの息子だっていうのも嘘なんです!」
 冰と李は思わず顔を見合わせてしまった。
「――そうだったんですか。でも……ありがとう。本当のことを教えてくれて……。散々悩まれたでしょうに」
 冰はアーティットの肩に手を差し伸べると、労うようにやさしく撫でた。
「すみません……本当に。迷惑掛けて……」
「ううん、そんなこと。でも話してくれてありがとう」
 冰は経緯を訊くわけでもなく、ただ真実を伝えに来てくれた勇気に感謝の意だけを述べ、詳しい理由などは強要しなかった。息子の方はそんな冰の気遣いを感じ取ったのだろう、自らすべてを話すと言って涙ぐんでみせた。
「実は……俺の父親――本当の父親はタイ人で俳優をしているんです。その父が病気になって……」
「ご病気……? じゃあ今は……」
「上海の伯母の家で……お金が無くて入院できないから。伯父さんと伯母さんが面倒見てくれてます。父が上海に出て来たのも、元々はその伯母さんが上海に住んでいたからなんです。タイの実家は貧乏で……生活に余裕がないから大きな都市に行って少しでもお金を稼ごうと思ったそうです。最初は工事現場で働いていたそうですが、そこでスカウトされて俳優にならないかって声を掛けられたんだって聞いてます」
「……そうだったの……。お母様もそのことはご存知なんですか?」
「はい。あの人は……母は俺の本当の母じゃないんです。父と母が知り合って一緒に暮らすようになったのは俺が小学校に入ったばっかりの頃だった。俺の本当の母さんは俺がまだずっと小ちゃい子供の頃に病気で死んだって父から聞いてます。今の母には俺よりひとつ下の女の子がいて……俺の妹になります。俺たちは四人で一緒に暮らすようになりました。妹は可愛くて……父と母も仲が良くて、俺たちは幸せでした。でも……」
「お父様がご病気になられたんですね?」
「うん……そう。でもお金が無くて病院にも行けない。父さんの具合は悪くなるばかりで……困っていたらある日知らない男の人が母さんを訪ねて来たんだ。その人は……ちょっと怖そうな人だった。でも父さんの入院代を出してくれるって言って……」
 だが、その代わりにやって欲しいことがあると言い、今回の件を持ち掛けてきたのだそうだ。
「十五年前に母さんが村で助けた香港マフィアの周焔っていう人が日本にいる。そいつは大金持ちだから、父さんの入院費どころか見たこともない大金が手に入るからって言われて。それには俺がその周焔って人の息子だったってことにしてお金をゆすり取ればいいって」
 その男は手際良く日本への旅券や宿泊先のホテルまで手配してくれたそうだ。周のことだから息子がいたなどと言えば必ず親子鑑定に掛けられる。その際、潜り抜ける為の毛髪を男から手渡され、上手く周らに採取されるよう立ち回れと言われたそうだ。



◆30
「父さんは俳優をしていたけれど、正直に言ってあんまり売れない俳優だったんだ。俺は……いつか父さんと母さん、それに妹にも楽をさせてあげられるようになりたくて、父さんが出演する映画のオーディションを受けました。合格して、チャンサンという芸名をもらって映画に出た。端役だったけど、少しお金が貰えた時は嬉しかった」
 それが美紅の録画していた例の王子役の映画だ。チャンサンというのはやはり芸名だったというわけだ。
 彼は続けた。
「そのお金で妹に流行りの服を買ってあげたらすごく喜んでくれて……俺はそんな妹の顔を見てるだけで幸せだった。このまま本格的に俳優を目指してお金をいっぱい稼げるようになろうって……思ってた時に父さんが倒れて……」
 ポロポロと涙をこぼす彼の肩を冰はそっと抱き包んだ。
「そうだったの……。辛かったね」
 まるで我が子を抱き締めるように慈しみながら背中を撫でた。
「ごめん……なさいッ……! いくら困ってるからって……あんな話に乗った俺たちがバカでした! 周焔さんやあなたにも……迷惑掛けて」
 嗚咽して謝る息子の肩を冰はずっとさすり続けながら、自らもまた涙を流した。
「いいんだ。いいんだよ。キミのお母様は周の命を救ってくれた恩人だもの。キミたちがそんなふうに苦しい時に……気付いてあげられなかった僕たちこそごめんなさい。でも話してくれてありがとう。本当にありがとう!」
 冰はそれと同時に心配しないでと言って息子を抱き締めた。
「もうすぐ周も帰って来ます。全部彼に話そう。きっと力になってくれるから――!」
「う……っ、え……、冰さ……ごめんなさ……ッ」
 共に涙しながら抱き合う二人は確かに赤の他人だ。だがしかし、不思議な縁によって結ばれた強い絆が二人を家族のようにあたたかいもので結びつけた――そんな触れ合いに李もまた胸を熱くするのだった。

 その後、周が帰って来ると、ちょうど医師の鄧の方でもブライトナーから届いたという検査結果を手に興奮気味で駆け付けて来た。
「老板! すべて明らかになりました! やはり鑑定に使った毛髪には細工が仕込まれていたことが判明したのです!」
 ブライトナー医師の持つ最新の設備で分析を行なった結果、非常に精巧に作られた偽の毛髪であることが暴かれたとのことだった。
 アーティットの話と合わせてすべての駒が出揃った。残すは一家を嵌めた男を捜し出して制裁を下すのみだ。周は上海で調査に奔走してくれている鐘崎親子と曹来、そして香港の家族にもすべてを報告――一挙に解決に向けて動き出すこととなった。

「上海に飛ぶ。きっちり幕を引いてやる――」

 グラン・エーで待っているアーティットの母親・スーリャンも呼び寄せて、周らは一路上海へと向かったのだった。



◆31
 上海――。
 現地に到着すると鐘崎親子と曹来が待っていてくれた。
 俳優のチャンムーンが病に倒れ、伯母夫婦の家で療養していると聞いて、曹はなるほどと納得したようだ。そういう理由で彼が家にいなかったのもうなずける。
「では伯母さんという方の家へ急ごう。もしかしたら例の男が訪ねて来るやも知れん」
 渡航中の飛行機の中でその男の名も判明した。やはり皆の予想通り、村で恐れられていた男であることが分かった。名はダーウバンだそうだ。
 事の発端は当時、周らが礼に訪れた直後だったそうだ。一家が受け取った礼金に目をくらませたダーウバンが毎日のように訪ねて来てはスーリャンとの結婚を迫ったらしい。親子三人で断り続けたものの、男はスーリャンを強姦。既成事実を作り上げて無理やり夫婦にならされてしまったとのことだった。
 彼女らの村は元々ラオスやミャンマーといった隣国から移住して来た信仰心の厚い人々で、特に年頃の娘が夫となる者以外の男と通じるということについては非常に厳しい負の感情を持っていたそうだ。
 ダーウバンはそれを逆手に取ってスーリャンを我がものにし、村に居づらくさせることで大都市・上海に移住させたというものだった。
 礼金で豪邸を購入させられ、だが彼女が孕ったことを知るとすぐさまその家を売却し、金はすべて持ち逃げされてしまったそうだ。
「ですが……私たちにとってお金は失ってしまったけれど、あの男が消えてくれたことの方が有り難かったのです。あの男と暮らした半年は……例えどんなに素晴らしい豪邸であっても地獄でした」
 金は湯水のように使い、毎晩のように知らない女性たちを連れ込んでは色事に明け暮れ、その内に危ない男連中とも付き合うようになっていったという。
「怖そうな人たちをたくさん連れて来て、毎晩のように派手に飲み明かしていました。私たちは生きた心地もしなかった……」
 だから妊娠が分かって男が自分たちを捨ててくれた時は天国だと思ったそうだ。
「両親と共に小さなアパートを借りて生活は厳しくなりましたが、その内に娘も生まれ、親子四人で慎ましく暮らしていこうと思いました。ですが両親は都会での生活が肌に合わずに村へ帰りたいと申しました。私は……帰ったところで白い目で見られるだけと思い、上海に残りました。正直、生きるので必死でした……。娘を抱えて……日々食べるのもままならなくて、いっそ死んでしまおうと思っていた矢先にあの人に出会ったのです」
 それが俳優のチャンムーン親子だったというわけだ。
「私と娘はあの人に救われた。決して裕福とは言えないけれど、今までのように日々の食べ物を心配しなくていいだけで私はどんなに嬉しかったか……。あの人はやさしくて、ダーウバンとは大違いでした。アーティット君も娘の面倒をよく見てくれて、私たちは共に生きていこうと結婚を決めました。それから数年は本当に幸せでした」
 その後は夫・チャンムーンが病で倒れ、今に至っているというわけだった。



◆32
 話を聞いて、誰もが気の毒に――と思うと同時に、ダーウバンというろくでなしに対する憤りが込み上げてくる。クズ同然のそんな男を野放しにしておくわけにはいかない。それこそ自分たちのような者が始末屋の役目を買って出るべき時だと誰もが決意を新たにする。
「もう心配はいらない。あんたのご主人の治療費については俺が責任を持って引き受けよう」
「ダーウバンについても同じだ。二度とご一家を煩わせることのないように我々が必ず始末をつける」
 周や鐘崎の頼もしい言葉を受けて、スーリャンもアーティットも涙した。
「とにかくは伯母上の家へ急ごう。ダーウバンへの連絡方法は分かるか?」
 周が訊くと、彼女は男から指示のあった携帯番号を告げた。
「周焔さんに会って無事にお金が手に入ったら……ここへ架けろと言われています」
「よし。では連絡を頼む。すべて計画通りにいったと伝えてくれ。例の毛髪で親子鑑定をした結果、動かぬ事実を突き付けられて俺が息子の認知を承諾したと告げて欲しい。ダーウバンが姿を現したら――俺がこの手で幕を引く」
 周の漆黒の瞳には決意の焔が闇色に揺れていた。

 一方、報告を受けた香港では父の周隼と兄の風が別の方向からとある策に向けて動き出していた。ダーウバンという男が母子に提供した偽の毛髪作りに手を貸した闇医者を突き止める為だ。
 ダーウバンが十五年前にここ上海へ移り住んでから裏の世界と繋がりを持っていったのは明らかといえる。――が、おそらくは隼らが普段から懇意にしているマフィアの組織とはまた別の意味での闇社会が形成されている可能性が高い。
 悪というのはどこにでもはびこるものだが、金儲けの為に誰彼構わず陥れて世を乱すダーウバンのような輩を放置するわけにはいかない。彼らには仁義も流儀も、そして裏の世界に生きる者の役目も誇りも皆無だからだ。玄人堅気の区別もなく、やっていいことと悪いことの境界線も無い。隼は上海を仕切るトップに直接話を通して、それら闇組織を炙り出さんとしていたのだった。
 上海を仕切る組織の頭領は隼の父親世代が未だ現役でいて、彼はそれこそ昔気質の仁義や粋というものを重んじる長である。長男・風の結婚式の際にも、墨汁でウェディングドレスを汚された嫁・美紅の擁護を台湾の楊氐と共に先頭切って買って出てくれた恩もある。ものの善悪を心得た温情深い人柄なのだ。
 そんな頭領に話を通し、闇組織の存在を炙り出せるのは、同じく香港裏社会を仕切る頭領・周隼にしかできない――いわばトップ同士としての責任と役目といえる。
 目の前で起きている細かな処置は息子たち若い者に任せ、隼は隼にしかできない、もとい組織の長たる頭領こそが成さねばならない大きな視点で動いてくれているのだった。



◆33
 その後、伯母夫婦の家で再会を果たしたスーリャン一家はここ数日の図らいを悔やむと共に、一家揃って周らに深く謝罪した。俳優のチャンムーンが患った病を突き止める為、すぐに現地の大きな病院に入院の手続きを取り、周は治療費一切を持つゆえ手厚く診てやってくれと依頼、チャンムーンはその時点で即入院となった。
 看病は一旦スーリャンの生んだ女児と伯母夫婦に任せて、スーリャンと息子のアーティットにはダーウバンを誘き出すべく協力を仰いだ。

 夜九時少し手前――ダーウバンから指定のあった港の倉庫街へと母子を向かわせる。周らの他には鐘崎親子と曹来、汐留からは李と紫月、冰ももちろん一緒だ。それに香港の周隼がよこしてくれた応援の側近らでがっしりと周囲を固め、一行はダーウバンとの対面の時を待った。
「何も心配はいらない。この倉庫は完全に俺たちの仲間が包囲した。あんたは打合せ通りに話が上手くいったと言って、ひとまずこのアタッシュケースをヤツに手渡してくれ」
 ケースの中身は分厚い現金の束だ。
「すべて足がつかない古紙幣で用意した。今後の養育費等については俺から振り込まれることになったと伝えてくれ」
「分かりました……。周さん、ご迷惑を掛けて……申し訳ありません」
 スーリャンは心底恐縮していたが、周は心配するなと言って微笑みを見せた。
「大丈夫だ。あんたは何も心配せず、言われた通りにやってくれればいい。あんたら母子に危険が及びそうになっても慌てるな。包囲は完璧だ。必ず無傷で救い出す!」
「……周さん……。何から何まで……本当にすみません」
 スーリャンとアーティットは真っ暗闇でがらんどうの倉庫の中、必死にアタッシュケースを抱えてダーウバンらの到着を待つこととなった。二人の周囲には四方八方から隙のない警護態勢が敷かれる。
 九時を少し回った頃だった。倉庫周辺で警戒に当たっていたファミリーの側近たちから報告が寄せられる。
『焔老板、敵の到着を確認しました。車が二台、人数はダーウバン含め八人ほど確認できます』
「了解した」
『ヤツらの乗って来た車輌はこちらで押さえます』
 表を張っている者らでダーウバンらの降りた車輌を制圧、逃走手段を断つ。倉庫内を見渡せる欄干部分には狙撃手を配置、周と鐘崎親子らは至近距離での銃撃戦に備えて各自銃を携帯。紫月は日本刀を手に母子を見渡せる一階部分の木箱に身を潜めてその瞬間を待った。
「よう! 上手くやったようだな。それで? 周焔って野郎からはいくら搾り取れたんだ?」
 ダーウバンは母子が二人だけでガタガタ震えている様子を見て、完璧な包囲網が敷かれているなどとは夢にも思っていないようだ。スーリャンは縮み上がるようにしてアタッシュケースを差し出してみせた。
「周焔さんから……とりあえずの養育費だと言われてこれを……いただきました。残りは……毎月振り込んでくださるそうです……」
「ふん! どら? 見せてみろ!」
 ダーウバンが彼女の手からもぎ取るようにしてアタッシュケースを奪い、中を開いて瞳を輝かせる。
「は――! 見ろ、言った通りだろうが! 一時金でこんだけの大金をポンとくれてよこすような大物だ。こいつぁ幸先がいい!」
 ダーウバンは現金の山に興奮気味でいる。
「それで――? 毎月の額はいくら振り込むと言っていた?」
「……それより……約束した主人の入院代を……。一刻も早くあの人を病院に連れて行ってあげたいのです」
 スーリャンは周らとの打合せ通りにそう懇願してみせた。



◆34
「はん! がめつい女だ! まあいい」
 ダーウバンは現生の束に満足したのか、その中からほんの一掴みをスーリャンの足元に投げてよこした。
「これだけあれば充分だろう? 今後の振込先はちゃんと俺の言った口座を伝えたんだろうな?」
「ええ……。でも……これだけでは……。主人の容態によってはもっとお金が掛かるかも知れません……。もう少し融通してはもらえませんか……?」
「は! 図々しい女だ! てめえらを生かして銭までくれてやってんだ! それで満足できねえってんならこの場でバラしてやってもいいんだぜ?」
「……そんな……」
「それが嫌ならがめつい考えは起こさずにサッサと消えるこった! それとも――そうだな、てめえを生かしておいたところで今後もこうチマチマたかられたんじゃ堪ったもんじゃねえ。やっぱり今ここで消えてもらった方がいいかもな」
 ダーウバンはニヤっと笑うと、とんでもないことをぬかしてみせた。
「お前、確か娘がいたな? 十五年前に俺が仕込んでやったガキだ。つまりこの俺様の娘ってことになるわけだ。てめえの旦那は放っといてもくたばるだろうから、わざわざ手を汚す必要もねえ。てめえら二人は今ここで始末するとして、娘が生き残ってたんじゃ後々面倒だ。そいつは闇市にでも売り飛ばして銭に変えてやらぁ」
 それを聞いて黙っていられなかったのは息子のアーティットだ。一も二もなくダーウバン相手に食ってかかった。
「ふざけんなッ! 妹に手を出したら許さねえ!」
 拳を握り締めて今にも殴り掛からん勢いで睨みをきかす。ダーウバンはせせら笑った。
「クソ生意気なガキが! てめえ、もしかして俺の娘に惚れてんじゃあるめえな? 俺ァこれでもあいつの父親だ。誰がてめえみてえな小汚ねえガキの好きにさせるかってんだ!」
 襟首を掴み上げ、思い切り張り手を食らわそうとしたその時だった。

「そこまでだ!」

 倉庫中に響き渡る怒号で、その場の誰もが声の主を振り返った。
「ダーウバンってのはてめえか――。救いようのねえクズだな。てめえのような輩は生かしておく価値もねえ。俺があの世へ送ってやろう」
「ンだとッ! 誰だ、てめえ――」
 ダーウバンは掴み上げていた息子の胸ぐらを放して声の主に凄み掛かった。――が、真冬の寒さに白い煙が立つ中、ゆっくりと姿を現した声の主を目にするなりギョっとしたように足をもつれさせて後退さる。そこには怒りの光背を背負ったような周が焔の如く姿で立っていた。
「き、貴様……誰だ」

「てめえのようなクズに名乗ってやる筋合いもねえがな。さすがのバカでも察しはつくだろう」
 ギラギラと光る鋭い瞳。ただ立っているだけで絶対に敵わないと尻込みさせられるような威圧感――。ダーウバンはしどろもどろながらもそれが周焔であると悟ったようだった。
「……ッ!? 貴様……ま……さか、周……か? クソッ! こんのアマッ! ふざけたことしやがって……」



◆35
 スーリャンを振り返り罵倒を浴びせつつもダーウバンは既に逃げ腰だ。目の前に向かって迫り来る周にどう立ち向かおうかと、この寒空の中、額にはドッと溢れ出た冷や汗がぐっしょりと濡れて滴り落ちる。それでもこの場には七人もの仲間がいることで、よもや負けるとは思っていないのだろう。その仲間たちもすぐに懐から刃物などをちらつかせては、八対一で何ができるわけもなかろうと薄ら笑いを浮かべてよこす。
「落ち着け、ダーウ! マフィアだか何だか知らねえが、たった一人でノコノコ乗り込んで来るなんざ自信過剰もいいところの抜け作だ!」
「違いねえ。てめえがマフィアだっつーだけで何でも思い通りになると勘違いしてやがんじゃねえのか? 俺たちも舐められたもんだぜ! それとも女の手前、ええカッコしいに出てきたってわけかー?」
 男たちは言いたい放題だ。やはり他勢に無勢で気がデカくなっているのだろう。調子づいているのは彼らの方だということにすら気付いてもいない。あまりのバカさ加減に呆れを通り越してげんなりとさせられそうだ。誠、馬鹿に付ける薬はないといったところだ。

 一方、男たちの意識が一斉に周へと向いたところで、物陰に潜んでいた鐘崎らは皆で加勢のタイミングを打ち合わせていた。人質のあるこの状況下で誰一人とて傷を負うことなく制圧するに当たって、僚一が手順を組み立てていた。
「いいか、皆。相手は八人だ。幸い銃は所持していないようだ」
 この時点で銃を隠し持っていれば、必ずこれ見よがしにチラつかせるはずだ。だがダーウバンら八人が八人とも懐から取り出したのは短刀の類のみ――。察するに武器は刃物だけと見受けられる。
「女と息子がいなけりゃ憂いはねえが、ヤツらは皆刃物を所持している。焔が応戦している間に母子を人質に取られる可能性が高い。銃撃で刃物を撃ち落とすにしてもこの暗がりだ――。ひとつ間違えれば女や息子に当たる。そこで――だ。まずは紫月のヤッパで一先ず撹乱してくれ。遼二は他のことに一切気を回さずに紫月の援護のみに集中しろ。紫月が敵の意識を逸らしたと同時に李は母子を保護。俺と曹来で一挙に敵を制圧する」
「了解! 斬り込み隊は引き受ける。あとを頼むぜ」
 まず紫月が日本刀で突進、この長刃を見ただけで相手は動揺するはずだ。その隙をついて僚一と曹で迅速に敵を制圧。万が一取り逃したとて、母子の側から連中が離れれば倉庫欄干で待機している狙撃組からも狙いやすくなる。表にはファミリーの側近たちが車を制圧して待ち受けてくれている。李は母子を保護。二人を盾にされる憂いが無くなれば周も動きやすくなろう。
 作戦が決まったところで一行は即刻制圧に向けて動き出すこととなった。
 闇の中から物音ひとつしない忍びの動作で紫月が長刃を手にして斬り掛かる。静寂の霧の中から突如目の前に現れたような光る切先に、ダーウバンらは絶叫さえ一瞬遅れるほどに驚いては腰を抜かした。
 数秒後、何が何やらわけの分からないままに、気付けば自分たちのズボンが床へとずり落ちたり、長髪を結っていた者はそのゴム紐が飛んでバサリと髪が垂れたりしたことに気がついて絶句――。闇の中に光る切先の動きだけがスローモーションのように視界を脅かす。手にしていたはずのナイフもいつの間に落としたのか見当たらず、やっとのことで誰かに斬り掛かられたのだと気付いた時には鐘崎親子と曹らによって意識を刈り取られていた。



◆36
 残ったのはダーウバン唯一人だ。
 母子は李によって迅速に保護され、目の前には般若か魔神のように恐ろしげな形相をした周のみ――。
「ひゃ……ひゃあああ……! よせ……ッ! く、来るなー!」
 七人もいたはずの仲間は皆地面に横たわって伸び切っている。
 地獄へ堕ちろ――とでも言わんばかりの周から重い拳を立て続けに食らって、ダーウバンは地面へと突っ伏した。
 ――が、虫の息ではあるが意識を失うまではいっていない。周はわざとその一歩手前でダーウバンの意識を残したまま恐怖と苦渋を強いたのである。
「あの世へ送ってやるのは容易いがな。そう簡単に逝けると思うな。てめえにゃ生きたままで地獄を見てもらわにゃならんのだからな」
 この十五年の間にスーリャンが背負った心痛、苦痛。また、彼女の両親が心身を病んだことにより早くに他界してしまったこと。そして愛する冰にどれだけの心労を課したことか――。
 それらすべての元凶が目の前にいるこの男だと思うと、周の心境からすれば幾度あの世送りにしたとて到底許せるものではなかった。
「てめえをあの世へ葬るのは簡単だ。だがそうはしねえ。てめえにゃ死ぬよりも辛い生き地獄を味わせるのが似合いだ」
 周は言うと、虫の息で動くことさえままならない男の腹目掛けてとどめの蹴りを見舞った。
 男はそのまま意識を刈り取られ、ファミリーの側近たちによって引き摺られながら車へと運ばれたのだった。そんな彼が意識を取り戻した先に待っているのはまさに生き地獄であろう。
 こうしてダーウバン一味はすべて拘束され、事件は一先ずの幕をおろすこととなった。



◇    ◇    ◇



 その後、スーリャンとアーティット母子をチャンムーンの入院する病院へと送り届けた周らは、宿泊先のホテルにて父の周隼と兄・周風と合流した。
「父上、兄上、お手を煩わせて申し訳ございません」
「うむ、気にするでない。――して、無事にそちらの始末はついたようだな」
「はい、お陰様で。父上が応援に回してくださったファミリーと曹先生やカネたちのご助力で、一味はすべて拘束いたしました」
「そうか。ご苦労だった。我々の方でもダーウバンという輩に加担した闇医者らを突き止めることができたところだ。既にここ上海を仕切る頭目に引き渡してきた。あとは我々の感知するところではない」
 上海のボスはものの善悪をよく心得た、人望的にも信頼に足る人物だ。あとの処理は彼に任せて間違いはないと隼は言った。



◆37
「それで、ダーウバンという男についてだが。風と焔の命の恩人であるスーリャン一家を尋常ならぬ苦痛に追い込み、此度は焔に息子がいたなどと偽ってお前たちを掻き乱した悪事を放置することはできん。監獄にぶち込んで一生そこで缶詰にするという手もあるが、それだけでは私の腹の虫が収まらん。即刻あの世送りにしても構わんが、そう易々と楽にしてやるのも虫が好かん。ヤツのような極悪非道者には更なる極悪非道をもって、生涯生き地獄に住まわせるのが筋と思うが――」
 さすがの隼にも今度ばかりは温情をかけて更生させるという考えは無いようだ。周も兄の風もまた、父の意向に同意した。
「私とて同じ思いです。当時まだ年端もゆかぬ娘だったスーリャンを踏みにじり、彼女のみならずご両親の人生をも早々に断つきっかけを作ったクズです。ダーウバンのような輩には例え温情をかけたところで再びどこかの誰かが泣かされる羽目になるのは目に見えている」
 あの類の人間に自分がどれほど酷いことをしてきたのかを分からせる術はひとつ――世の中にはそんな自分よりももっと悪どく恐ろしい人間がいて、それら恐ろしい者たちによって自分がこれまでスーリャンらに課してきた悪事以上のことをされてようやく思い知ることができるかどうかといったところだろう。
「よろしい。ではダーウバンについてはこの私が引き受ける。二度とスーリャン一家やお前たちの目に触れることがない場所へ――生きながらにしてのあの世へ葬ってやることにする」
 隼はあとは任せろと言って、息子たちはじめ皆の労を労ったのだった。

 香港の裏社会を治める頭領は人望にも厚く、時に甘いと言われるほどに人情にあふれた人物と、内外からも認識されている。一方では称賛の声も聞こえるが、そのまた一方では甘ちゃんだと嘲笑されることも事実だ。だが、その有り余る人情温情を掛ける価値もない、心底悪といえる輩に対しては非常に厳しい制裁を下すこともあるのだ。また、その方法もよく心得ている。ただ単に甘ちゃんというわけでは決してないのだ。
 ダーウバンにとってこの先の人生は、それこそ葬られてしまった方がどれほど楽だったかと思えるような苛烈な道が待っているだけである。
 これが、身勝手な理由で真っ当に生きていた人々を陥れ、苦渋を味わせた男に対する行く末である。と同時に、わずかに足を突っ込んだだけで裏の世界を牛耳った気になって、本物の裏社会を治める者を舐めた罰といえた。



◆38
 それから一週間後、上海を治める頭領への挨拶回りなどを滞りなく済ませた周らは、皆揃ってスーリャンの夫・チャンムーンが入院している病院へと見舞いに訪れた。
 彼もまた、あの後すぐに緊急手術が行われて一命を取り留め、術後の経過も順調だそうだ。スーリャンと息子のアーティットはそれこそ平身低頭で詫びと礼を口にした。
「周焔さん、皆さん、この度は本当にご迷惑をお掛けいたしました。それなのに……このようなご厚情をいただいて……御礼の言葉もございません」
 スーリャンは夫・チャンムーンの無事に安堵すると共に、周らに対して本当に申し訳ないことをしたと言って涙した。
「よいのだ。貴女には十五年前、我が息子たちを救っていただいた。それこそどこの誰とも分からぬ二人を放置することなく、手厚く看病して命を救っていただいた。そのご恩は決して忘れない」
 周隼にそう言われて、スーリャンは恐縮しつつも本当に申し訳ない、有り難いと言っては、幾度も幾度も頭を下げてよこした。息子のアーティットも同様である。とかく彼にとっては冰に対して酷い言葉を投げつけてしまったことが悔やまれてならないようであった。
「冰さん、ごめんなさい……。俺、あなたに酷いこと言って……本当にごめんなさい!」
「アーティット君、ううん、そんな! どうか頭を上げてください! キミが勇気を出して本当のことを伝えに来てくれたから無事に解決できたんだもの。これからはお父様お母様、そして妹さんとお幸せに暮らしてくださるよう、僕も東京の地から祈っています」
「冰さん……」
 アーティットは感極まってあふれた涙を拭いながら、しっかりとうなずいた。
「はい……。はい! 父と母と妹と、これからも家族全員仲睦まじく生きていきます!」
 そしてこうも付け加えた。
「僕……今はまだ駆け出しの子役ですが……いつかちゃんとした俳優になれるようにたくさん勉強して、努力して……がんばります。いつか――僕の出演した映画を冰さんたちに観ていただけるよう」
 はにかみながらもそう言った少年の瞳はキラキラと輝き、その明るい未来に誰もが期待すると共に、若き俳優の卵の成功を祈ったのだった。
「アーティット、がんばれよ。応援しているぞ」
 周が不敵な笑みを見せながら黒髪の見事な頭を優しく撫でる。
「お前さんはほんの一時とはいえ、俺の息子だったわけだからな」
 まるで冷やかすようにニヤっと笑う周の傍らで兄の風もまた激励の言葉を口にした。
「つまり、この私にとっては甥ということになるな。それに――私の妻がね、キミの出演した映画のファンで、録画して観ているのだよ」
 きっといい俳優になろう――そう言って周兄弟は微笑んだ。
「周焔さん、周風さん、冰さん。それに皆さん、本当にありがとうございます! 俺、がんばります!」
「ああ。応援しているぞ」

 またひとつ、大きな事件を乗り越えた皆の間に温かくも強い絆が生まれた。
 真冬の上海の風はまだ冷たいが、誰の心にもやがて訪れる春の暖かな風がそよぐようだった。



◇    ◇    ◇






◆39
 一難去って無事に汐留の邸へと戻った周と冰は、久しぶりの水いらずに胸を撫で下ろしながら夫婦の時を過ごしていた。
「明日から商社の仕事に専念できるねー。今回もまた劉さんにはお留守番をお任せしちゃったことだし、俺たちもがんばらなきゃね!」
 大パノラマの窓辺から暮れゆく東京の景色を眺めながら冰が明るい声を上げている。そんな姿を見つめながら、周の胸には郷愁に近いような何とも言い難い気持ちが込み上げていた。

「――冰」

 そっと窓辺で景色を見渡している伴侶を包み込むように寄り添って立つ。
「此度も――心配を掛けた」
 低く、穏やかな声音が冰の華奢な肩の脇で揺れる。
「白龍――。ううん、そんなこと。でも無事に解決して良かった」
「ああ――そうだな。お前と――皆のお陰だ」
 いつもだったらきつい抱擁で包まれ、安堵と共に夫婦の絆を確かめ合うのがほぼ恒例というような状況で、だが今宵の周はその『いつも』とは少し雰囲気が違って感じられた。
 事件の解決を心から喜ぶといったふうでもないし、かといって苦しいほどに抱き締めてくるといったわけでもない。やはり自分の過去のことで多大な心配を掛けてしまったことで、後悔と戒めのような気持ちを抱いているのだろうか――そう思った冰は、亭主を気遣うように彼を見上げた。
「白龍――?」

 俺だったら何も気にしていないし、無事に解決できたんだから、すまないなんて思わないで。そう告げようとした矢先だ。ほんの一足先に周からの思いもよらない言葉を聞いて、大きく瞳を見開いてしまった。

「冰――。お前と初めて会った時、俺は――不憫な思いと同時に幼いお前のこの先が気に掛かってならなかった」

「白……龍……?」

「突然、一度に両親を亡くした幼い少年が不憫で――できることなら共に側で暮らしたい、幾度そう思ったか知れない。だが当時俺はまだ親父の傘の下で暮らしていた。自立もしていない状況でお前を引き取ることは叶わなかった」
「白龍……」
「だが、そんな無力な俺とは裏腹、運命に翻弄されながらも――前向きで健気な少年の笑顔をとても愛しく思った。あの頃から俺はお前のことが気に掛かってならなかった」

 それはもちろん恋情といった感情ではなかったかも知れない。ただ単に気の毒な状況になってしまった幼い子供に抱く同情の気持ちだったかも知れない。

「だが、成長していくお前を陰ながら見ていく内に、いつしか愛情が生まれた。この少年が笑顔で、元気で幸せでいてくれることが俺にとっての幸せだと思うようになった」

 そう言う周の瞳が心なしか潤んでもいるように思えて、冰は心のひだがフルフルと震えるような心持ちでいた。



◆40
「そんなお前が大人になり、俺を訪ねてくれた時は本当に嬉しかった。ずっと思い描いてきたお前の側で暮らすということが叶ったのだ。俺の出来得る限りのすべてを捧いでお前を幸せにしてやりたい。美味いものを食わせてやりたい、欲しい物があれば与えてやりたい、快適な暮らしをさせてやりたい、そんな思いは俺の生きる糧にもなった。共に過ごす内に――肉親的な可愛さや愛情といった気持ち以上に大きな恋情を抱いていることにも気付いた。俺はお前を――お前のすべてを、気持ちも身体もすべてを自分に向けてもらいたいと思うようになった」

 自分だけを見つめ、慕い、頼みにし、いつでも側でその可愛らしい笑顔を見せて欲しい。そんなふうに望んだ。彼もまた自分と同じように気持ちを傾けてくれていることが分かった時は本当に嬉しかった。高揚し、気持ちだけではなく身体も――すべてを手に入れたい、生涯を共にしたいと思ったものだ。

「俺は――お前を誰よりも何よりも可愛いと思っている。この世で唯一無二の、何ものにも変え難い――自分の命よりも大切な存在だと思い、心から愛している。だがそれ以上に――もっと深い……どういうふうに伝えればいいのか分からないほどの思いがあるのだということに気がついたんだ」

「白……龍……?」

 愛情以上の思い――それはいったいどういうことなのだろう。少しの不安と不思議な気持ちに瞳を揺らしながら、冰は愛しい亭主を見上げた。

「愛している、可愛い、好きだ――すべてを我がものにしてこの腕の中に閉じ込めておきたい。誰にも渡したくはない。俺はずっとそんな強欲な愛情を抱いてきた。だが――それと同時に、俺はお前を――敬ってやまない気持ちが大きいのだと気付き、今……この気持ちをどう伝えればいいのか戸惑っている」

「白龍……そんな……」

 敬うだなんて――畏れ多いよ! そんな思いに頬はボッと真っ赤に染まり、恐縮して顔さえまともに見られないまま、冰はしどろもどろで視線を泳がせた。
 だが周は大真面目な表情でじっと――射るように見つめてよこし、続けた。

「俺は――お前を心の底から敬ってやまない。これまで――欲しいと思う気持ちのままに我が物顔で抱いてきたことが悔やまれるほどに、触れることさえ畏れ多く尊いと思う。今のこの気持ちを――どんな言葉で伝えればいいのか分からないこんな俺だが――生涯ずっと側で生きていきたい。妾腹として生まれ、自分自身でも周囲からも望まれていない人間なのではないかと思ったこともあった。そんな俺がこの世に生を受けた意味があるならば、それはすべて唯一人の為なのだと、そう思うのだ」

 そっと、言葉通りに畏れ多いといったようにわずか震える指で手を取られ、敬うように手の甲にくちづけられた。

「冰――俺はお前を、いや――あなたを――心から尊く思い、愛している」

 膝を折って、まるで従者か騎士のように体全体で敬意を表す。そんな亭主の姿に、思わず込み上げた熱い雫がポロポロとこぼれては冰の色白の頬を伝った。



◆41
 これまでは歳もだいぶん下で、体格的にも華奢で可愛らしいこの嫁を心の底から愛しく思い、何よりも誰よりも大切に思ってきたのは確かだ。だが、そんな『守るべき存在』の彼は時に凛々しく、非常に賢く、そして何より人や物に対するやさしい気持ちであふれている思いやりの深い人間だ。
 例えどんなに理不尽な事件に巻き込まれようと、巻き込んだ張本人を詰ったり恨んだりすることなく、真正面から向き合う真心で相手を包んでしまう。そんな彼の素直さやひたむきさは、時に刃を向けてきた相手をも改心更生させるほどで、幾人もの人々と絆を築き上げてきたことか――。
 マカオのカジノオーナー・張敏による拉致事件から始まって、元恋人だなどと嘘を吹き込んだ唐静雨も然り。今では鉱山で頼もしい存在となったロナルド・コックス、そして記憶に新しいところでは元部下であった郭芳もそうだ。皆、最初は冰に対する負の感情やら邪な感情を抱いていた者たちだが、そんな『敵』にさえ真心で接して、最終的にはその敵を味方に変えてしまった。彼らは皆、自身の侵した罪を悔やみ、それと同時にこのやさしくも気高い人に崇拝の気持ちすら抱いて立派に更生して生きている。
 他にも、理不尽なやっかみで拉致された際であったとて、常にどうすれば相手の気持ちを逆撫でせずに無難な着地点へ持っていけるかを思い巡らせ、時に話術を屈指し、また時には神技ともいえる腕前を交えながらも様々降り掛かる厄介ごとや事件を乗り切ってきた。
 そして今回のこともまた同様だ。信頼していた亭主に実は隠し子がいたかも知れないなどという驚愕の事態を突き付けられて尚、彼は焦れることも詰ることもせず、それどころか共に悩んで手を取り合ってこそ夫婦だと言ってくれた。相手の女性や子供とされる息子にも、この上なくあたたかい気持ちで向き合ってくれた。
 まるで神か仏かというほどに大らかで清い真心の持ち主なのだ。そんな彼を心から敬わずにいられようか。
 周はこの大いなる冰という存在が、自分を心から慕い信頼して愛してくれていることが信じられないほどに思えてならないのだった。
「以前――そう、あれはちょうど一年程前のことだ。カネが同じようなことを言っていた」
「……鐘崎さんが?」
「そうだ。一之宮を心から愛し、慈しんでいるものの、我が物顔で触れることさえ憚られるほどにヤツにとっての尊い存在なのだと言っていた。俺も――カネのその気持ちは理解できたつもりでいた。お前と一之宮はよく似ている。二人とも他人にやさしく思いやりにあふれていて、俺たちのような亭主を心から愛してくれている。それがどんなに尊いことかと頭では分かっていたものの、今回スーリャンやアーティットに向き合うお前の姿を目の当たりにして、俺はあの時のカネの気持ちが手に取るようだった」

 触れることさえ怖いほどに尊く、本当にこの人が自分を愛し、自分と同じように想ってくれているのだと思うと信じられないほどだ。身体が震えるほどの高揚感と同時に、自分はこの尊い人に愛される価値のある人間だろうかと恐怖感までが込み上げる。

 あなたを愛している――。あなたは俺が生まれ、生きていることの証だ。

 ポロリ、周の双眸から熱い雫が頬を伝い流れ落ちた。
 どんなことが起こっても涙など見せるような男ではない、そんな彼が心からの涙を流すほどに感極まっている様に、冰もまたポロポロと色白の頬を濡らしたのだった。



◆42
「白龍……白龍……!」
 クイとつま先で立ち、白魚のような指で愛しい男の頬に伝う熱い雫を拭う。

 こんなふうに涙してまで自分を愛しいと言ってくれる。それこそが信じられないくらいで、身体中が震えてやまない。

「白龍……あなたに……そんなふうに想ってもらえるような人間じゃない、俺……。でも――ありがとう。本当に――俺」

 それこそ上手くは言葉にならない。

「泣かないで――。あなたと俺は一心同体の夫婦だもの。あなたの想いは俺の想いで、俺の想いはあなたの想いで――」

 一心同体というひとつのものは例えどんな悪意によっても、陰謀によっても裂くことなどできないのだから――!

 あなたの身が、心が、滅びることがあるとするなら、同時にこの身も心も滅びるだろう。この身が、心が、無くなる時はあなたの心身も共に消滅する。
 二人の間には互いを気遣い、自分が滅びても相手を救いたいというような思いすら存在しない。片方が壊れればもう片方も共に壊れ、片方が幸せならばもう片方も幸せとなる。

「だって俺たちは――」

 同じ重さの想いを分かち合い、同じ肉体を持ったひとつの存在なのだから――!

 どんなに尊い愛を抱こうと、深く強い想いを抱こうと、この世にこれほどまでに強い絆によって結びつけられる相手と巡り会えるだろうか。
 自分よりも相手が大事――その感情を遥かに超えて、真に一体となれるほどに強い愛情があるだろうか。

「俺たちには怖いものなんてない。どちらかのせいでどちらかが傷付くなんてこともない。互いに対する申し訳ないなんて思いも存在しない。いつか誰かの悪意によって引き裂かれるかも知れないなんていう心配も要らない。だって俺はあなたで、あなたは俺なのだから――」
「ああ。ああ――そうだな」

 俺たちは一心同体の夫婦だ――!

 溶け合おう。慈しみ合おう。愛し合おう。
 今、目の前にある絹糸のような髪も、陶器のようになめらかな肌の温もりも。
 逞しく頼り甲斐のある胸板も、すべてを見抜くほどの鋭くキレのある瞳も。
 愛しい想いもすべてをひとつに混ぜてしまおう。
 二つの頬を伝うとめどなくあふれる涙をもひとつにすべく、無我の境地で温もりを重ね合わせよう。
 深く身体を繋ぎ、時の流れさえもとめてしまうほどに睦み合おう。
 次の朝が来ても、そのまた次の夜が巡っても、決して離れることがないように、魂と魂をひとつにすべく溶け合おう。

 そんな思いのままに二人は無言ですべてを絡め合い、溶け合った。夜が明けて空が白み、その空にまた蒼い闇が降りてもなお、果てしなく求め合い、溶け合った。




◇    ◇    ◇






◆43
 そうしていくつの朝と夜を迎えただろう。共に放心状態というほどに激しく愛し合った後、二人乱れたシーツの海の上、同じような表情で同じような体勢でぼうっと天井を見上げていた。大の字にひっくり返ったまま、肩を並べてただただ重力に身を任せる。ふと、冰が掠れた声で気怠げに言った。
「ねえ白龍……」
「ん――。腹が減った。メシを食おう」
「うん。けどその前に――」
「そうだな。お前の――」
「あなたの――」

 残り香を消すのはもったいないけど――

「とりあえず湯に浸かろう。その後で美味いメシを食って、腹が満たされたら」
「またひとつになればいいよね」
「だな。それじゃそろそろ起きるか」
「うん……!」
 二人同時にゆっくりと、シーツの海から半身を起こす。
「あ……たたたッ、うわぁ……全身ダルダル……」
「……ッ、俺もだ」
 さすがに張り切りすぎたか。というよりも没頭し過ぎた。
「あははは……! 俺たち、いったい何日こうしてたんだろ」
「何日……というほどじゃねえだろう。ほんの一晩、いや二晩くれえじゃねえか?」
「なんか、もう二年くらいこうしてたように思えるよ」
「はは……、すっかり社の方もサボってしまったな……」
「うん……。李さんと劉さんに謝らなきゃだね」
 こんなことは起業して以来初めてだ。社の仕事を放って、しかも無断欠勤――。いくら驚愕の出来事に見舞われて、それが一件落着した直後とはいえ、一国一城の主として――それ以前に社会人としてあってはならない怠惰さといえる。きっと李も劉も自分たちの気持ちを察して、好きにさせてくれていたのだろう。無断で社に顔を出さなかったこの日丸一日、彼らはしっかり業務をこなし、社を守ってくれていたことだろう。
「その分、明日からはバリバリ働かなきゃ!」
「ああ、そうだな」
 ようやくと身体も意識も目覚めてきた感覚に、再び額と額をコツリと合わせて微笑み合う。
 と、タイミング良くかダイニングの方から美味しそうな匂いが漂ってきて同時に腹が鳴った。それと共に『お食事のお支度が整ってございますぞ』と、ドア越しから真田の呼ぶ声――。
「さすがは真田だな。絶妙なタイミングでメシを用意してくれたようだ」
 満足げな笑みと共に周がベッドを抜け出してドアを開けると、そこには釈迦様か仙人様かというような笑みを讃えた真田がビシッといつもの黒服に身を包んで立っていた。
「おう、真田。すまねえな」

 ちょうど腹が減ったところだったんだ――そう言おうとした矢先だ。

「坊っちゃまぁ……」
 慈愛の笑みと思えた表情が段々と鬼のような形相に変わり、白目が逆三角のかまぼこ型になっていく。ふと見ればその手には掃除用のハタキ、それに脇にはベッドリネンなどが積まれた銀色のワゴン。
「坊っちゃま! 冰さん! 無断でお仕事をサボるとは何事! お食事も摂らず、ベッドリネンも変えずに二晩も!」
 まるで父親のごとくそう言って、アニメかコミックかというような表情で目を三角に吊り上げている。
「いや、待て待て……! サボったのは認めるが――二晩も経っちゃいねえだろう……。俺の記憶じゃ今日一日だけだったかと……」
 上海から帰国したのが昨日の夕刻だった。ということは、どう考えてもサボったのは今日一日のはず――。指折り数えながら眉根を寄せる『坊っちゃま』に、真田は額にビキっと青筋を立てて睨みを利かす。
「細かいことはどうでもよろしい! おサボりなすったのは事実でございましょうが」
 逆三角の目が再びカーッと吊り上がる。こうなってはさすがの周もタジタジだ。



◆44
「い、いやぁ……すまんな……。俺たちもその、今二人で反省してたところだ……」
 真田に喝を食らって、言い訳も逃げ場も失った周はボリボリと尻を掻きながら視線を泳がせるしかできず仕舞い――冰もまた慌ててベッドから飛び降りては、平身低頭で二人揃ってうなだれた。
「……すみません! ご、ご迷惑をお掛けしました!」
「この通りだ! 明日からはシャンとする」
 パンッと胸前で手を合わせ、シュンと肩を落とす夫婦を前に、
「よろしい。ではまず湯に浸かってお身体をお癒しなされ! その後にしっかり栄養を摂られること!」
 堂々、胸を張った真田にそう言われて、夫婦はちらりと互いを見やってはペロリと舌を出した。
「はは、親父に雷食らっちまったな」
「だね! そういえば真田さんに叱られたの初めてかも……?」
「俺はガキの頃から割としょっちゅう小言を食らっているぞ。真田はああ見えて意外に厳しいんだ」
「そうなの? ふふ、何となく黄のじいちゃんの怒った顔思い出しちゃった」
 そういえば小さい頃は黄老人に叱られたこともあったなぁと、冰は懐かしそうに頬をゆるめている。
「坊っちゃまぁ、冰さんー……」
 コソコソと小声で苦笑いを交わす二人のお尻を持っていたハタキで軽くペシッと叩き、
「はい、行った行った! 湯が冷めない内にお早く風呂を済ませて来なされ! その後はお食事ですぞ! しっかり栄養を摂ってサボった二日分のお仕事を取り戻されますように!」
 ガラガラとわざとらしい音を立てながら銀のワゴンを引いて寝室へと向かう真田を見つめながら、二人肩をすくめて再びペロリと舌を出し合った。
「是! 親父殿! 了解だ」
「精進いたしまーす!」
「よろしい! お風呂とお食事が済んだら李さんと劉さんにもご挨拶に出向かれますよう」
「ああ、合点だ!」
「反省してます、爹!」
 ポリポリ、タジタジと頭を掻きながら風呂場へと向かう若夫婦の後ろ姿を横目に、真田は「ふう」と苦笑まじりに溜め息をもらした。
「まあ、このくらいで勘弁して差し上げましょうな。まったく……仲良きことはよいことではありますがな」
 そう独りごちながらフッと笑む。
 あんな事件のあった後だ。真田とて夫婦の気持ちは充分過ぎるほど分かっているし、二人が丸一日中離れたくなかったという想いも、裏を返せば事件によって夫婦の間に溝ができずに済んだ証といえる。真田にとっても安心できるし、喜ばしいことなのだ。
 そこを敢えて叱るのは、二人してサボってしまったという後ろめたさを和らげてやる一種の潤滑油に他ならない。いわばこれも真田の愛情表現なのだ。
 周も冰もそんな真田の気持ちをよくよく理解しているから、ペロリと舌を出しつつ有り難いと思うのだった。
「さて――と! では始めますかな」
 やれやれと表情をゆるませながら、ぐちゃぐちゃに乱れたベッドリネンを頼もしげに取り変える真田であった。

 その頃、風呂場では二日ぶりの湯に浸かりながら若夫婦は二人まったりと頬を茜色に染めていた。
「ね、白龍。幸せだね、俺たち」
 何も言わずに社を守ってくれた李と劉。わざとらしい大袈裟な挙動で、コミカルに叱咤の言葉を口にしながらもせっせと世話を焼いてくれる真田。
 今回のような窮地に陥っても全力で支えてくれる鐘崎や紫月ら周囲のあたたかい思い。それらすべてに包まれて、こうして共にいられる幸せをしみじみと痛感する。
「ああ、本当にな。俺たちは――」

 こうして皆に支えられながら生きているのだな。

 この幸せがいつまでも永く続くようにまた明日からがんばろう。手と手を取り合って、精一杯生きていこう。
 そんな思いに微笑み合い、幸せを噛み締め合う一心同体の周と冰であった。

陰謀 - FIN -



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