極道恋事情
◆1
川崎、鐘崎組――。
その日、組番頭の東堂源次郎を訪ねて来たのは、かくも珍しい人物であった。
中庭を彩る紅白の椿が艶やかに咲き誇る春待ちの宵、第一応接室に客人が来ていると呼び出された源次郎は、来訪者の顔を見るなり驚きとも感激ともつかない表情で大きく瞳を見開いてしまった。
「伯父上、お懐しゅうございます――」
深々と頭を垂れた若き青年は、今にも涙ぐむ勢いで源次郎を見つめた。
「お前さん……もしや――」
「はい、幼い頃に伯父上にお助けいただいた町永汰一郎でございます」
「汰一郎……君か! お元気そうで何よりだ……。ご立派になられたの……」
「勿体ないお言葉、痛み入ります。今日までこうして何とか生きて来られたのも……ひとえに伯父上――いえ、東堂さんのご助力のお陰でございます」
町永汰一郎と名乗った男は今一度丁寧に頭を下げてよこした。
歳の頃は鐘崎や紫月とほぼ同じくらいだろうか、決して高級というわけではないがきちんとしたスーツを纏い、清々しい身なりの青年だった。源次郎は彼にソファを勧めると、自らも対面に腰を下ろしては感激のままに眼差しを細めてみせた。
「まさかキミが私を訪ねてくれるとは――。達者でやっているようで何よりだよ」
「お陰様で――。今は都内にあります証券を扱う会社に勤めております。中小企業で――主には得意先様を回る営業の仕事ですが、上司にも恵まれましてお陰様で元気にやっております」
「そうか、そうか。それは良かった」
「それもこれも――すべて伯父上……東堂さんのご厚情のお陰でございます。幼い日に両親を一度に亡くした見ず知らずの私のような者に……暮らしていける施設を手配してくださり、成人の日まで欠かさず生活費のご援助までいただいて……。お陰で真っ当な職にも就けまして、人並みに生活できております。本当はもっと早くに御礼に伺うべきでございましたが、就職してからこのかた、仕事に慣れるまでにあれよあれよと月日が過ぎてしまいました」
伺うのが今になってしまったことをお許しくださいと言って、汰一郎はまた深々と頭を垂れてみせた。
「いいや、とんでもない。こうして忘れずに訪ねてくれてどんなに嬉しかったことか」
源次郎もまた、感慨深げに瞳を細めたのだった。
「実はこの度、身を固めたいと思う相手ができまして――。その前に是非とも伯父上にお会いして、これまでのご助力にひと言御礼を申し上げたくお訪ねした次第でございます」
「おお! そうでしたか。所帯を持たれるのですな」
「はい……その、私などにはもったいない女性ですが……」
そう言って汰一郎は照れたようにはにかみながら頭を掻いた。その様は誠清々しい青年の仕草だ。源次郎はまるで我が事のように喜び、こうしてわざわざ報告に来てくれたことを嬉しく思うのだった。
伯父上にも是非お会いして欲しい、近い内に結婚相手となるその女性と共に改めてご挨拶に参りますと言って、汰一郎は邸を後にした。
まさかこれが痛恨の涙を噛み締めることになる始めの出来事とは知る由もなく――源次郎と汰一郎の運命の歯車が動き出そうとしていた。
◆2
その日、組若頭である鐘崎の帰宅は珍しくも早かった。いつもは夜半過ぎになることもザラなのだが、こうして早めに戻れることもある。ちょうど汰一郎と入れ違いというタイミングで帰って来た鐘崎は、玄関を入ったところの第一応接室で一人ソファに腰掛けている源次郎に気がついて、不思議顔で首を傾げた。
「源さんじゃねえか。どうした、こんなところに一人で――」
卓の上には未だ片付けられていない茶器が二つ――。来客があったことを示している。
「客人が来ていたのか? 依頼人か?」
この第一応接室を使うということは一見の依頼人くらいだろう。ソファに腰掛けている源次郎の様子も普段とは少々異なり、何だかぼうっと考え事をしているような表情であった為、鐘崎は何かあったのかと思ったようだ。
「あ、ああ……若。お帰りなさいやし! ええ、実はたいそう嬉しい御仁が私を訪ねてくれましてな」
源次郎はハッとしたように鐘崎を見上げると、故あって以前に知り合った町永汰一郎が訪ねてくれたことを嬉しそうな素振りで話して聞かせた。
「そうだったのか。それは良かったな。源さんの昔の知り合いか?」
「ええ。立派に成長してくれて、わざわざ訪ねてくれたのです。有り難いことでございますよ」
にこやかにそう言いながらも、
「そうそう、そういえばもう一つ新しいご依頼の件でご報告したいことがございます」
と言って、源次郎は鐘崎を組最奥の事務所の方へと促した。
第一応接室の扉を閉め、廊下を歩き出した源次郎の横顔が次第に厳しい色へと変わっていく。それは、今の今まで喜んでいた柔和な表情からは想像もつかない苦渋の色が混じってもいるようだった。
永年共に暮らしてきた源次郎だ、その彼の微妙な顔色の変化に気付かない鐘崎ではない。組最奥の若頭専用の事務所へと着くなり、その原因が明らかとなった。
「若――申し訳ございません!」
いきなりガバリと頭を下げてよこしたのに、鐘崎は驚くでもなく椅子を勧めた。
「どうした、源さん。何があった」
驚くどころか、ことの他落ち着いている鐘崎に、源次郎の方が驚きを隠せないといった表情でいる。
「……お……どろかれないのでございますか?」
「応接室を出てからの様子でな。何年一緒に暮らしていると思ってる。源さんは俺にとって親父でもあり、時にお袋でもある家族だ。気付かねえわけあるまい」
「若……」
源次郎は申し訳ないとも感激ともつかない表情で肩を落としてみせた。
「実は――先程訪ねて来た青年ですが、応接室に盗聴器を仕掛けて帰りました……」
「――盗聴器だって?」
さすがの鐘崎も驚いたようだ。何かあるのだろうとは思ってはいたが、まさか盗聴器とは想像もつかなかったというところだ。
◆3
町永汰一郎とは今から二十年程前に起こった、とある事件がきっかけで知り合った。源次郎がまだ若かった頃だ。
「彼と知り合ったのは依頼に関する調査で出掛けた帰りでした。ちょうど夏祭りの花火大会が行われていて、駅までの道は混雑して思うように進めないほどにごった返しておりましてな。そんな中、ある出店の前で揉め事が起こっているところに出くわしたのです」
揉めているのは家族連れが四組ほどと、相手は粋がった感じの少年数人だったという。すれ違い様に財布を掏られたとかで言い争いになっていたようだった。
「家族連れの方は同じグループらしく、四組ほどおりましたが全員が顔見知りのようでした。その内の一人が不良少年たちに財布を掏られたと言って、返せと怒鳴っておりました。連れていた子供たちは皆十歳くらいでしたから、子供つながりで親たちも懇意にしていたようです」
母親たちはそれぞれ自分の子供を抱き抱えながら少し距離を置いて遠巻きに見ていたそうだが、父親たちは四人――当時まだ三十代くらいで、まだまだ血気盛んだったのだろう。相手の不良少年たちも四、五人いたようだが、まさか負けるとは思わなかったようである。
「多少酒も入っていたのかも知れません。双方どちらも引かずに、まるで周囲の野次馬たちに注目を浴びているのが誇らしいとでもいうようにして、ついには取っ組み合いが始まりました。このままでは怪我人が出ないとも限らない状況でしたので、私は仲裁に入りました。ところが不良少年たちはナイフを所持していましてな……」
皆で刃物を振り回しては大乱闘寸前にまで発展してしまったのだそうだ。源次郎が応戦して何とか三家族を救ったものの、一人の男が刺されてしまい、それに驚いた彼の妻が駆け寄ったところへ運悪く屋台で使用していた揚げ物の鍋にぶつかり引火、夫婦はそれに巻き込まれて命を落としてしまったのだそうだ。
「それが町永汰一郎の両親でした。二人の出身地は東北で、汰一郎には祖父母がいたのですが、引き取ることを拒否されましてな。どうやら彼の両親は結婚に反対されたのを押し切って、駆け落ち同然で上京してきたようでした」
天涯孤独となってしまった汰一郎はその後施設に預けられることになったわけだが、それを不憫に思った源次郎は毎月の生活費の足しとして、施設を通し汰一郎に金銭的援助を続けてきたのだそうだ。その施設も、これまで馴染んできた同級生らと離れなくて済むようにとの思いから、転校せずに今までと同じ小学校に通える範囲で源次郎が探したとのことだった。
「四家族の内の……汰一郎の両親だけを救えなかったことが悔やまれてなりませんでした。仲裁に入った私にも責任はあると思いましてな。親代わりというわけではございませんが、金銭的な援助の他に何かあった時の連絡先として、私は汰一郎の後見を引き受けました。修業のその日までは施設を通して金を振込み続けましたが、彼が就職を機に施設を出た後は連絡も途絶えてしまいました」
それが今日、汰一郎の方から訪ねて来てくれた――と、まあそんなわけだったそうだ。
◆4
「汰一郎君の話では証券会社に勤めて営業として働いているとか――。上司にも恵まれて真っ当に生きている、これも今まで気に掛けてくれた私のお陰だと言ってくれたのですが……まさか盗聴器を仕掛けて帰るなど……」
今は現役を退いたといえど精鋭の源次郎だ。素人の青年がソファに盗聴器を仕込むのを見逃すはずもなかった。
「汰一郎君の言うには近々身を固めるとかで、相手の女性を私にも紹介したいと言っておりましたから……おそらくは再度ここを訪ねて来るつもりでいるものと思われます」
盗聴器自体は始末しようと思えば容易だが、彼の目的を探る為にもしばらくは気付かぬふりをすべきかとも思っている――源次郎はそう言って肩を落とした。
「彼はこの邸の造りなど把握しているわけもないでしょうから、応接室に仕掛ければ何らかの情報が拾えるとでも思ったのでしょうが……」
鐘崎はそこまで黙って話を聞いていたが、一通りの状況が分かった時点でようやくと口を開いた。
「だが、その町永汰一郎にとって源さんはいわば恩人でもあるわけだろう? ヤツがこの邸を探りたい理由は何だと思う」
源さんには心当たりがあるかと訊いたところ、思いもよらない答えが返ってきて、鐘崎は驚かされてしまった。
「――おそらくは復讐かと」
「…………!? 復讐?」
「あの時、彼の両親だけを救ってやることができなかったわけですが、他の三家族は皆、汰一郎の同級生の家族でした。両親亡き後も彼らは級友として同じ小学校に通ったわけですが――そんな中で汰一郎はこれまでと何ら変わりのない友達を目の当たりにし、何故に自分だけがこのような不幸に見舞われなければならないのかと思ったはずです。あの時、彼の両親だけを救えなかった私を恨んだとしても不思議はありません」
結局、鐘崎は応接室の盗聴器をそのままにすることに同意し、しばらくは様子を見ようということになった。
父の僚一は例によって海外での仕事に出ていて留守である。彼がいれば何かと知恵を授けてくれそうだが、とにかくは自室へ戻り、夕卓を囲みながら紫月にもその旨を伝えた。
「そんなことがあったんか……。けどよ、その汰一郎ってヤツにとって源さんは成人するまで生活費を欠かさず援助してくれた恩人だべ? 彼の両親だけが亡くなっちまったのは気の毒としか言いようがねえが、そいつぁ源さんのせいじゃねえ。恨むとしてもその時財布を掏ったっていう少年グループに向けられるべきじゃねえか?」
確かに紫月の言うことも一理ある。
「まあ復讐ってのは単に源さんの想像ともいえる。もしかしたら目的は復讐ではなく、源さんにその時の少年グループを見つけ出して欲しいと思っている――ということも考えられる」
「その汰一郎ってヤツは源さんの――ってよりもウチの、鐘崎組の素性を知ってんのか?」
「おそらくはな。源さんが彼らの仲裁に入った事件の時、一応は警察も介入している。当時十歳そこらの子供だったとしても、生活費の援助まで続けてくれていたんだ。源さんがどこの誰なのかということを、施設を通して汰一郎はその素性を知ったはずだ。極道と言われているうちの組ならば、当時の犯人たちを捜すことも可能だと思ったのかも知れん。だが、もしそれが目的だとしたら、少年グループを捜し当てた段階で復讐を成し遂げるという可能性も出てくるがな」
◆5
「いずれにせよ目的は復讐……ってわけか。で、どうするんだ? 仕掛けられた盗聴器はそのままにしとくってことだけど」
「明日の朝飯の時に組員たちにも通達を出しておく。しばらく第一応接室の付近では当たり障りのない会話を心掛けるようにして、こちらが盗聴器に気付いていないと思わせることにする。特に欲しい情報が拾えないと分かれば、おそらくは近日中に汰一郎というヤツが盗聴器の回収を兼ねて再びここへやって来るはずだ」
現段階でできることといったらそれくらいであろう。鐘崎は念の為、当時の少年グループがどの程度の刑を食らって、今現在どこでどうしているのかということを調べてみるつもりだと言った。
◇ ◇ ◇
新たな事が動き出したのはそれから一週間が過ぎた頃のことだった。汰一郎の件とは直接の関係はなかったものの、なんと以前に知り合った地下の遊郭街を取り仕切る三浦屋の伊三郎から依頼の相談を受けることとなったのである。
「伊三郎の親父っさんからウチに正式の依頼? また何かやべえことでも起こったってのか?」
組最奥の若頭専用事務所で事の次第を聞いた紫月が驚いたように瞳を見開く。
「何でもここひと月ばかりのことだそうだ。タチの悪い客が集団で訪れるようになったとかでな。芸妓らの態度が気に入らないと怒鳴り散らすわ、料理の味がなっちゃないと文句をたれるわ、店中に聞こえるような大声で脅しを口にされて困り果てているらしい。そいつらが居座るせいで、他の客も怖がってここ半月ほどは寄り付かなくなっちまったとか」
「タチの悪い客か……。もしかしたら単に酒癖が悪いとかじゃなく、何か別の目的を持ってのことなのかね……」
「かも知れんな。伊三郎の親父っさんの話では荒らしに来るのは毎度同じメンバーのようだが、各置屋をまたいで暴れ回るそうだ。この前は花魁付きの禿が怪我を負わされたとかでな。そいつらについて調べると共に、見回り兼ねてウチの組にしばらく常駐してくれねえかと――」
「常駐か……。伊三郎の親父っさんがそこまで言い出すからには、かなり切羽詰まってるってわけか。けどよ、例の事件が落着して以来、あの地下街には警察――つか番所っつったっけ? 警視庁の丹羽さんたちの監視下で街の治安維持に警察関係者が常駐することになったんじゃなかったか?」
確かにその通りなのだ。そもそもあの地下街ができた時分は番所と称して交番のような施設も設置されていたわけだ。岡場所の子孫たちによって街を乗っ取られてからは、その番所も追い出されてしまったわけだが、事件が片付いて街に平和が戻った今では、番所も戻ってきているはずなのだ。
「――といってもな。番所に詰めているのは警官が二、三人ほどだそうだ。すべての案件に駆け回るには人手が足りないのは事実らしい」
まあ、これ以上騒ぎが大きくなるようであれば、大々的に警察に介入してもらう必要も出てこようが、現段階では酔っ払いの揉め事程度で片付けられているのだろう。
◆6
「で? 依頼を引き受けるんか?」
「ああ。とりあえず一度下見に行ってみようと思うんだが――」
だったら俺も伊三郎の親父さんの顔を見がてら付いて行くと言った紫月に、鐘崎も有り難く同意することにした。
ところがなんとそんな話が耳に入った周と冰が、自分たちも一緒に行きたいと言い出したのだ。
「あいつらも久しぶりに伊三郎さんたちと会いたいと言ってな」
どうせなら組員や李らも交えて皆で顔を出そうということに決まったのだった。
◇ ◇ ◇
鐘崎らが揃って伊三郎の元を訪れたのは、まだ店が開く前の昼過ぎ頃である。例の客たちがやって来る前に粗方の経緯を聞く為だった。
「紅椿! 皆さんも……! お久しゅうございます! この度はご足労をお掛けして申し訳ない」
伊三郎は紫月のことを未だ『紅椿』と呼んでいる。例の事件当時、花魁紅椿として店子であったそのままの感覚でいるのだ。
一通り再会を懐かしんだ後、早速に状況を聞くこととなった。
「とにかく酷いものでして……きゃつらが最初にこの街へ訪れるようになったのはひと月ほど前のことです。芸妓の態度や料理に文句をつけては、毎度酷い言葉で恐喝した挙句、暴れるようになり申した。ここ最近では飲み代も全てツケに変わってしまい、挙句は平気で踏み倒す勢いです。番所にも都度出向いていただいているのですが、こう頻繁ではどうにも対応が間に合いませんでな」
だが、この街へ来るには厳重な審査と既存の客からの紹介がなければ入り口の大門すら潜れない仕様のはずである。鐘崎がそこのところはどうなっているのかと訊くと、伊三郎からは意外な答えが寄せられた。
「実はその無法者らがこの街に出入りすることになったきっかけですが、最初は真っ当な方からのご紹介があってのことだったのです。これまでにも散々ご贔屓にしてくださっていた大きな企業のご紹介でした」
つまりれっきとした太客の紹介というらしい。初めの数回は普通の客として訪れていたそうだが、次第に接待だからと理由をつけては同行する連中が増えていき、あれよという間に無法化していったそうだ。
「ご紹介元は我々にとってもご上得意様でしたし、紹介された側も有名な銀行の頭取をなさっているお家柄のお客様でした。まさかこのような無体をするとは思いもよりませんでした」
「銀行家――か。親父さん、その客と紹介者のリストがあったら見せてはもらえまいか」
鐘崎が尋ねると、伊三郎はもちろんですと言って顧客リストを持ってきた。
「それから、あなた方にお見せしようと思って防犯カメラの映像も用意してございます」
大門には密かに監視カメラが設置されていて、誰がこの街に出入りしたかという記録が残してあるとのことだ。
「それは有り難い。早速拝見させてください」
鐘崎と周、それに李らで確認したところ、思い掛けない社名が見つかって驚かされることと相成った。
紹介者の名簿の中になんと源次郎の知り合いだという町永汰一郎が勤める証券会社を見つけたからである。
◆7
当の源次郎には組の留守番を預けていて、今日この場には来ていなかったのだが、間違いなく汰一郎が勤めている社の名前である。鐘崎は例の盗聴器の件以降、汰一郎の周辺について少々調べを進めていたので、すぐに気が付いたわけだった。
驚いたのはそれだけではない。なんと、汰一郎の社から紹介された側の銀行というのが、これまた鐘崎にとっては驚愕といえるものだったからだ。
「こいつぁ……二十年前に町永汰一郎の両親が亡くなった事件の発端となった不良少年グループの一人が勤めている銀行じゃねえか」
その銀行の頭取の息子が汰一郎の父親を刺した張本人だったのだ。
「じゃあ……まさか今回の件は……その汰一郎ってヤツが絡んでるってか?」
とすれば鐘崎や紫月にとっては他人事で済まされる話ではない。源次郎の知り合いであり、しかも数日前には組の応接室に盗聴器を仕掛けられたこともあり、不穏なピースが揃っていくように思えるからだ。
逸る気持ちで監視カメラの映像を確認すれば、その不安は現実のものとなってしまった。
「見ろ――こいつが町永汰一郎だ」
映像には汰一郎の他に三名ほどが映っている。皆スーツ姿なので、会社絡みの接待といったところか。
「一緒にいるヤツらは会社関係者だろうか」
「おそらくそうだろう……」
歳の頃からして汰一郎の上司と思われる。
「つまりこういう経緯だろう。汰一郎は社の接待を通してこの地下街に出入りする機会を得た。それと同時に地上のどこかで二十年前に自分の父親を刺した犯人が有名銀行家の息子だということを知ったんだ。そこでこの地下遊郭街に招待することで犯人との接触を試みようとした――と考えれば辻褄が合うんじゃねえか?」
「もしかしたらその汰一郎ってヤツは二十年前の犯人をずっと捜していたのかも知れんな」
「あるいは――そういう気はなかったにせよ、仕事繋がりで偶然犯人と接触する機会を得たのかも知れん」
証券会社と銀行の間柄なら、それも不思議ではない。
「汰一郎は当時まだ十歳そこらの子供だった。だが、相手の不良少年は既に高校生くらいにはなっていたはずだ。一目見てその時の犯人だと悟ったのかも知れん。仕事で銀行に出入りするうち、偶然にその時の犯人が頭取の息子だと知ったとしたら――」
「その不良少年の方は汰一郎のツラを覚えていなかったということになるな。まあ当時はまだ十歳のガキだったわけだ。大人になって風貌が変わっちまったろうし、それも当然というところか」
鐘崎と周が仮定を組み立てる中、紫月が口を挟んだ。
「そういや遼は当時の事件について調べてたろ? 犯人の少年はその後どういう経緯を辿ったんだ?」
「ああ、汰一郎の父親を刺したのはこの――見晴銀行頭取の息子で間違いねえ。当時はまだ頭取ではなく管理職だったが、その頃から息子には甘かったようだ。高校生にはおおよそ釣り合わねえような小遣いを与えていたらしく、息子の方は不良少年たちの間でも一目置かれていたようだ。ヤツは確かに汰一郎の父親を刺したに違いねえが、傷は思ったよりも浅かったそうでな。直接の死因は揚げ物の鍋に引火したことによる火災だった。傷害で一応は少年刑務所に送られたが、割合短期間で出所している」
「じゃあ出所後に親父さんと同じ銀行に就職したってわけか」
◆8
頭取の息子の名は代田憲といった。歳は三十七――、二十年前に事件を起こした時は十七歳の高校生だったということになる。汰一郎より七つほど上だが、現在は父親が頭取を務める見晴銀行で営業を担当しているようだ。
「同じ営業マン同士、接点があったのかも知れんな」
この地下街での接待を口実に代田に近付き、交友を深めることで探りを入れているのかも知れない。
「俺が調べたところでは、代田憲は四十近くになった今でも昔からの気質はあまり変わっていないようだ。頭取の息子という立場をいいことに、仕事はいい加減。態度もデカく、社内での評判はあまり良いとは言えんな」
そんな男だ、この地下街で無体を働いたとしても不思議はない。
「問題は汰一郎とその代田がどのように関わっているかということだ。仮に代田と近付きになる為に汰一郎がここへの出入りを手引きしたとして、目的は何だというのだ」
おそらく代田の方では汰一郎の顔さえ覚えていないのだろうから、よもや親の仇として狙われているなどとは夢にも思っていないだろう。
皆で考え込む中、紫月がとある仮定を口にしてみせた。
「なあ、こういうのはどうだ? 汰一郎は代田憲が大人になった今も相変わらずのならず者と知って、敢えてここを紹介した。おそらく代田のことだから、ここでもイチャモンをつけたり芸妓に手を出したり、迷惑行為をするだろうことを予想して――だ。それによって代田がパクられれば、親父の頭取もろとも失脚させられる。イコール復讐になると考えた――とか」
確かに一理あるかも知れない。
「だが、源さんを訪ねて盗聴器まで仕掛けた理由は何だ。それに――もしも復讐を考えているんだとすれば、暴行騒ぎでパクられる程度で気が済むだろうか。見晴銀行といえば国内じゃ有名どころだからな。そこの頭取の息子となればマスコミも一時は騒ぎ立てるだろうが、実際罪としてはそう重くもならんだろう。せいぜい執行猶予がつくか、実刑を食らったとしてもすぐにシャバへ出てくるのは目に見えてる」
その程度で汰一郎の気が済むかというところだ。
「源さんを訪ねて来たのは……本当にこれまでの礼を言いたかっただけとか……? あ、けどそれなら盗聴器の意味が分かんねえか……」
「いずれにせよ、代田の一味がこの地下街を荒らしているのは事実だ。まずはそれを制圧するとして、汰一郎の出方を待つしかあるまい。うちの応接室に仕掛けた盗聴器を回収しにヤツが再び姿を現した時は、俺も源さんと共に会ってみようと思う」
ひとまず今晩から早速用心棒として鐘崎組の若い衆数人をこの地下街に常駐させることに決めた。
「それから――伊三郎の親父さん。町永汰一郎の証券会社が贔屓にしていた置屋が分かれば教えていただけないか」
「はい。大空証券様でございますな。その方々にご贔屓いただいているのは最上屋という店でございます。この街のちょうど半ば辺りに位置しておりましてな。涼音という芸妓が御職を張っており、なかなかに人気が高うございます。店のご主人も昔からよう存じておりますが、芸事のレベルも高く、粋を重んじるたいへんいい店でございますよ」
「最上屋か――。その店で少し話を聞きたいのだが――」
「ではご案内いたしましょう」
鐘崎らは最上屋に出向いて汰一郎らの様子を訊くことにした。
◆9
最上屋に行くと、更に詳しいことが分かってきた。
大空証券がこの店を贔屓にし始めたきっかけは、そこの常務と店の主人が高校時代の同級生だったからだそうだ。常務自身はそう頻繁に顔を出すわけではないそうだが、汰一郎の所属する営業部が取引先を接待する際にはよく使ってくれていたらしい。芸妓の中には汰一郎や代田のことを覚えている者たちが数人いた。
彼女らから直接話を聞いたところ、一等最初の頃は代田の父である頭取も訪れたことがあったという。息子の方も一緒だったそうだが、さすがに父親の前ではおとなしかったようだ。その後、次第に息子だけが出入りするようになり、汰一郎と二人だけでやって来ることも増えていったそうだ。
「それがおかしいんですのよ。支払いは毎回汰一郎さんがお持ちなさって――。代田さんは酒豪でしたから……かなりお代も張っておりましたわ。会社の経費で落ちるのかも知れませんけど、正直なところお仕事のお話をしていることなど殆どありませんでした」
「姉さんのおっしゃる通りですわ。どう見ても会社のお金で遊んでいるようにしか思えませんでしたもの。こんなことがバレたらたいへんじゃないかしらって、いつも皆で噂しておりました」
つまり、汰一郎は会社の金を着服してこの地下街に通い続けていたというわけだろうか。それはともかくとして、芸妓たちからはもっと驚くべき話が飛び出した。なんと、この店の御職を張っている涼音と汰一郎がいい仲のようだと言うのだ。
「汰一郎さんはお一人でいらっしゃることもあったんですけど、そういう日は必ず涼音さん姉さんをご指名されていましたわ。聞くところによると、将来を誓い合ったとか。涼音さん姉さんははっきりお認めにはなっていないようですけど、汰一郎さんのことを話す時はとても嬉しそうにされていて、周りで見ている私たちにとっては本当に幸せそうに思えましたもの」
「汰一郎が御職の涼音といい仲――とな」
そういえば源次郎もそんなことを言っていた。汰一郎には近々所帯を持つ予定の相手がいて、源次郎にも是非紹介したいと言われたらしいが、それがここ最上屋の涼音というわけだろうか。直接本人に確かめたいところだが、あいにく涼音は昨夜から公休だそうで、今日は地上へ買い物に出掛けていて留守であった。
「ふむ、少々話が入り組んできたものだ……」
ともかく一度組に帰って源次郎にこのことを報告するしかない。明日になれば涼音も戻って来るというので、出直すこととなった。
ところがである。一旦組へ帰ってみると、なんと源次郎の方にも再び汰一郎が訪ねて来たそうで、鐘崎らは更に驚かされることとなった。彼の要件は結婚を予定している女性が仕事先で危ない目に遭っているので、源次郎に助けてもらえないかと言ってきたのだそうだ。相手の女性というのは、やはり最上屋の涼音という芸妓で間違いないとのことだった。
◆10
汰一郎の言うには、涼音らの店に通う客の中に毎度嫌がらせ行為を繰り返す男たちがいて、ここ最近では金は踏み倒すわ、ともすれば暴力まで振るうとかで困り果てているとのことだそうだ。汰一郎は鐘崎組が裏の世界に生きる極道だということは理解しているらしく、そこの番頭である源次郎ならばそのような相手でも何とかしてくれるのではと思ったという。
「無法者の名は代田憲という見晴銀行頭取の息子だそうで、汰一郎君の証券会社とも取引がある男のようです。代田はあまり素行の良ろしくない連中を引き連れては最上屋へ顔を出し、荒らしまくっているとか――」
このままではいつ涼音に危険が及ばないとも限らない、是非とも助力をお願いしたいと汰一郎は必死だったそうだ。
「ふむ、まさかそういう展開になるとはな――」
鐘崎は伊三郎らの地下街で見聞きしてきたことを詳しく話して聞かせることにした。
源次郎にとっては驚きも驚きだ。まさか三浦屋伊三郎と汰一郎の双方から同じ案件で相談を受けるとは思ってもみなかったからだ。
「おそらくだが、汰一郎の方では俺たちが伊三郎の親父さんから依頼を受けたことは知らねえはずだ。たまたま偶然――という可能性もゼロではねえが、どうにもタイミングが良過ぎやしねえか?」
汰一郎には何か思惑があるのか、はたまた本当にただの偶然なのか――迷うところではあるが、盗聴器を仕掛けていったことがどうにも引っ掛かる。その盗聴器だが、今日も回収せずに帰ったという。
「では第一応接室にはまだ盗聴器が仕掛けられたままということか」
「は――申し訳ございません。もしかしたら我々が本当に力になってくれそうかということを探りたかったのやも知れませんが……」
源次郎としては汰一郎が何か良からぬことを企んでいるなどとは思いたくないのだろう。その気持ちは理解できるが、鐘崎の立場からすれば私情を挟まずに冷静に判断するのも大事といえる。とにかく現段階では誰にどんな思惑があるのかがはっきりしないのは事実だ。もうしばらく全員を泳がせつつ動向を探ることとなった。
◇ ◇ ◇
その夜、鐘崎は紫月と組員数名を連れて再び地下の遊郭街を訪れたものの、代田らは顔を見せないまま何事もなく一夜が明けた。ただし、客足がめっきり減っているのは確かなようで、街は何とも奇妙なほどに閑散とした雰囲気であった。
「こうなりゃ例の盗聴器を逆手に利用して一芝居打ってみるしかねえか――」
汰一郎に同情する素振りを見せて、遊郭街を荒らしている代田らを成敗する段取りを聴かせるのである。組を上げて動いてくれると知れば、何かしら動きを見せるかも知れない。そこで汰一郎の真の目的が掴めるだろうと思うのだ。
翌朝を迎え、地下遊郭街からの帰り道、鐘崎は組員たちを伊三郎の元へ残すと、紫月を連れて汐留の周邸を訪ねることにした。
ちょうど週末の連休に入ったばかり、周と冰も動向が気になっていたようで、快く迎えてくれた。
◆11
真田が提供してくれるブランチに呼ばれながら、鐘崎は自らの予想を話して聞かせた。
「俺なりに考えてみたんだが、やはり汰一郎の社が代田憲の銀行をあの地下街に紹介したことがどうにも気に掛かってならねえんだ。仮に両親を殺された復讐を企んでいるとして、わざわざあの特殊な地下街に引っ張り込む必要があるかということだ。その気になりゃ、何処ででも代田を殺ることは可能なはずだ」
仮にあの地下の花街で復讐を遂げたにせよ、その後逃げるという点から考えればこの地上で事に及ぶ方が安全といえるだろう。周もまた、鐘崎の意見に同調する素振りをみせた。
「確かにな。もしも汰一郎ってヤツの復讐が殺害ではなく、単に代田を嵌めたいだけだとするならうなずけるんだがな。この前一之宮も言っていたが、あの地下街で代田って野郎にひと騒動起こさせてパクらせるだけが目的とも考えられる。だが、それだとカネの邸に仕掛けた盗聴器の意味するところが分からねえ。それ以前に、てめえが一緒になろうって女がいる置屋に代田のような危ねえ連中を差し向ける気が知れねえな」
「俺もそれを考えていた。汰一郎はわざわざ涼音の店に代田を送り込んで暴れさせ、一方ではその涼音が危ねえ目に遭いそうだからと源さんに助力を頼みに来ている。やっていることがチグハグ過ぎて理解に苦しむところなんだが――」
鐘崎と周が予想を闘わせる傍らで、紫月がポツリと突破口になるようなことをつぶやいた。
「こんな時にメビィちゃんでも居りゃあなぁ……。汰一郎ってヤツが何を考えてるのか心理分析してもらえるんだけども」
何気ないそのひと言で旦那二人はハッとしたように瞳を見開いた。
「そうか、心理分析か! だったらメビィでなくとも――うちの鄧も頼りになると思うぞ!」
ご存知の通り鄧は医師だ。少し前、香港でメビィに会った際も彼女が心理学をやっていたことを真っ先に見抜いたほどだから、おそらく鄧自身もそういった知識があるのだろう。
周はすぐに鄧を呼んで、ダイニングに来てもらうことにした。
◇ ◇ ◇
「なるほど――確かに不可解な行動をなされるお人のようですね」
鄧は粗方の経緯を聞いた後で、これまでの出来事を時系列で書き出してみましょうと言った。
「まずは二十年前の事件のことから整理しましょう」
源次郎と汰一郎が出会った瞬間から、誰がどのように行動したのかという事実と、それとは別枠でその時々でそれぞれの人間がどのように感じたかという想像を当人たちの立場になって書き出していくのだという。それによって今まで見えなかったものが見えてくるような心持ちとなった。
◆12
鄧が書き出したリストはこうだ。
二十年前:
夏祭りの屋台付近で高校生の不良少年グループと四家族の揉め事が勃発。
当時十七歳だった代田憲が町永汰一郎の父親をナイフで刺し、母親が庇いに入るもその衝撃で屋台の揚げ物鍋が引っくり返り、引火して火災が発生。それにより町永夫妻が死亡。息子の汰一郎は当時十歳の小学生だった。
被害者側のその後:
汰一郎には東北に祖父母があったが、両親が駆け落ちで上京した為、誰も彼を引き取る者はいなかった。天涯孤独同然となった汰一郎は、源次郎が口利きした施設で暮らすこととなる。
その後、汰一郎には彼が修業する日まで源次郎から毎月の生活費が援助された。
加害者側のその後:
代田憲は傷害の罪で少年刑務所に入れられるが、短期間で出所。成人後は父親が頭取を務める見晴銀行に就職、営業職に就く。
――――――――――――――――――――
二十年後(現在)
町永汰一郎、三十歳。大空証券に入社後、営業職に就く。
代田憲、三十七歳。見晴銀行頭取の息子として同行に就職、営業を担当。
大空証券と見晴銀行は取引先として懇意にしていた為、二十年前の加害者(代田憲)と被害者(町永汰一郎)が偶然にも再会することとなる。
町永汰一郎は取引先の接待を理由に代田憲を地下の会員制花街に紹介する。
代田憲の飲み代はすべて町永汰一郎が支払っていた。
代田憲が悪友を連れて地下街を訪れるようになり、傍若無人の振る舞いを繰り返すようになる。
町永汰一郎が源次郎を訪ねて、これまでの礼を口にするも鐘崎組応接室に盗聴器を仕掛けて帰る。その際、近々結婚を予定していると報告。
町永汰一郎が再び源次郎を訪ねて、地下街で暴れる代田憲らをどうにかして欲しいと助力を願い出る。理由は、結婚相手が地下街の最上屋で御職を張る芸妓の涼音であることから、彼女に危険が及ぶのを危惧してのことらしい。極道鐘崎組で番頭をしている源次郎にならば、無法者相手の案件でも力になってもらえると思った――とのこと。
「――と、ここまでが実際に起こった経緯ですね。つまり動かない事実です。今度はここに誰のどんな思惑が絡んでこうなったのかをひとつずつ想像していきましょう。皆さんそれぞれ思ったことを率直に述べてみてください」
鄧を中心に皆で今書き出したリストを囲みながらその時々の彼らの行動と心境を想像していこうというのだ。まずは鐘崎が思うところを述べた。
「ではまず汰一郎からだ。両親を失った彼は祖父母にも引き取ることを拒まれ天涯孤独同然となった。当時十歳の子供には相当辛かっただろうな」
そう切り出した鐘崎に続いて今度は紫月が想像を口にする。
「けど、その後すぐに源さんが親身になってくれて施設を紹介してくれた。毎月の生活費も欠かさず援助してもらえた。――このことから汰一郎は源さんに対して有り難えって思いが芽生えたんじゃねえか?」
つまり汰一郎にとって源次郎は『良い人』であり、自分の味方をしてくれる頼れる大人という意識になったのではないかという。それについては冰も同調した。
「そうですよね。俺もこの汰一郎さんと同じ年頃で両親を失いましたが、黄のじいちゃんと白龍のご助力のお陰で今日までこうして生きてこられました。きっと汰一郎さんも源次郎さんに恩を感じると共に、頼りに思っていたのではないでしょうか」
同じような境遇に育った冰ならではの意見だ。
◆13
続いて周がその後の心境を想像してみせた。
「汰一郎は源次郎氏のお陰で無事に修業、就職して地道にやっていた。そんな中で偶然、二十年前の犯人・代田憲に再会した。きっとえらく驚いたことだろうな。と同時に、薄れていた記憶が蘇ったとしても不思議はねえ」
つまり、その時点で汰一郎が復讐を決意したとするなら、この偶然の再会がきっかけとなったのはほぼ間違いないだろう。皆から意見が出たところで、鄧が次なる段階へと話を進める。
「では、今度は町永汰一郎がなぜ代田憲を地下遊郭街に誘ったのか、その理由を考えてみることにいたしましょう」
「そうだな……証券会社と銀行で同じ営業マンであっても、仕事の上では大して接点が持てなかったのかも知れん。もっと代田に近付いて懇意になることで、ひょっとしたら二十年前の事件の話が出るかも知れないと思った――とか」
「そっか、そしたら当時の代田が何で父親を刺したりしたのか、その理由つか、当時の心境が聞けるかも知れないと思ったのかもな」
「そうですよね。何でお父さんが刺されなきゃならなかったのか、知りたいと思うのは当然だと思います」
「確かにな。代田の口から当時の心境を聞き出す為に地下遊郭街に誘って飲み仲間になるってのは一理あるだろうな」
これでひとまず汰一郎が代田を地下街に誘った理由は想像できた。
「では次に、懇意になった後、町永汰一郎はどうするつもりだったのかを考えてみましょう」
鄧が次の段階へと話を進めていく。
「そうだな。汰一郎の身になれば、やはり何らかの形で代田に復讐したいと考えたとしても不思議はねえといったところか――。例えばそれが極論の殺害ではないにしろ、代田の人生をちょっとばかし狂わせてやりてえ――くらいには思ったかも知れん」
鐘崎がテーブルに肘をつきながらそんな想像を口にする。周が続けた。
「とすれば、一之宮が言っていたように地下街で暴れた代田がパクられて、マスコミに取り上げられ、親子共々失脚させるってなところが妥当かも知れんな」
ところが当の紫月はまた違う考えも浮かび出したそうだ。
「まあなぁ……俺も確かに昨日はそう思ったんだけどー。でも、代田がパクられるように仕向けるだけだったら、わざわざあの地下街じゃなくても良くね? 汰一郎にとっちゃ結婚したい涼音がいる地下街だぜ? 彼女が危険な目に遭うかも知れないところよか、地上にだってバーやクラブはいくらもあるじゃねえの」
紫月曰く、昨日の時点では汰一郎の結婚相手があの地下街にいることを知らなかったからそんなふうに思ったらしい。
「紫月さんの言う通りですよ。わざわざ自分の彼女さんがいるお店を紹介して暴れさせるなんて……本当に彼女さんを大切に思うならそんなことしないと思います!」
冰も意気込んでそんなことを言う。
「ということは、汰一郎にはあの地下街でなければならない理由が別にある――ということになりますかね。あるいは、涼音といい仲になったのは代田を地下街へ誘い込んだ後だったという可能性も残ってはいますが」
鄧は一旦、地下街については置いておくとして、次に汰一郎が鐘崎組に盗聴器を仕掛けた件について想像してみましょうと促した。
◆14
「そうだな。まずヤツが源さんを訪ねて来た理由だが、ヤツの言い分としてはこれまで世話になったことへの礼を言いたかったということだが――」
「まあ、礼ってのは口実だろうな。真の目的はどう考えても盗聴器の方だろうぜ」
周の言うには、汰一郎が源次郎を何かの形で利用したいのは間違いないように思うとのことだ。
「ヤツは鐘崎組が裏の世界の極道だと知っているということだったな?」
「そのようだな。そこの番頭の源さんになら代田らのような危ねえ連中でも抑えられると思ったってな話だが――」
「とすればよ、時系列がこう変わってくるんじゃね?」
紫月がリストに色のついたペンで書き足しながら言う。
「まず――汰一郎が代田と再会して、近付きになろうと地下街へ誘った。最初っから真っ向暴れ出すってのは考えにくいから、二人は何度かあの地下街で会う機会を重ねていったとするべ? そんで、最上屋に通う内に汰一郎の方が涼音とデキちまった。次第に代田が傍若無人な振る舞いをするようになって、ヤツがパクられるっつー最初の目的は達成目前までいったが、今度は涼音に危険が及びそうになって汰一郎は焦った。そこで源さんに礼を言いがてら助けてもらうつもりで組を訪ねて来た」
盗聴器は本当に源次郎が頼りになるかどうかを探りたかった為ではないかという。
「なるほど、それなら道理は通るか――」
皆の想像が出揃ったところで、鄧からは思いもよらない意見が述べられた。
「では皆さんの今のご想像をパターン壱としましょう。パターン弐は私の想像です。少々ひねくれた考えやも知れませんが、ひとつの考え方程度に聞いてください」
鄧はそう前置くと、鐘崎ら四人には考えもつかなかったことを話し出した。
「町永汰一郎は二十年前の事件で両親を失ったわけですが、その時一緒にいた同級生らのご家族は皆無事でした。源次郎さんはたまたま通り掛かったことで仲裁に入り、たった一人で刃物を手にした少年数人をほぼ制圧した。結果として町永夫妻以外の三家族を救うことに成功したということになります。幼かった汰一郎少年としては、こんなに強い人が何故自分の両親も救ってくれなかったのだ――とは思わなかったでしょうか」
それを聞いて四人全員が驚いたように瞳を見開いた。
「……つまりは、なんだ。鄧は町永汰一郎が源次郎氏に対して恨みを抱いているんじゃねえかと思うわけか?」
「ひとつの可能性としてです。汰一郎少年はその後も源次郎さんが口利きした施設で暮らし、それまでと同じ小学校に通ったとのことでしたね? だとすれば、事件の時に一緒にいた三家族の同級生らとも共に過ごしたわけです。彼らの両親は救われて健在、なのに自分だけは親も家も失って不幸になった。あの時、源次郎さんが自分たちのことも助けてくれていれば、こんな思いはしなくて済んだ――と、そのように思ったかも知れないということです」
周らは驚いていたが、鐘崎には思い当たる節があったようだ。
「――そういえば源さんが言っていたな。最初に汰一郎がウチの組を訪ねて来た日のことだ。ヤツが盗聴器を仕掛けていった理由は何だと思うと訊いたところ、彼の両親だけを救ってやれなかったことに対する恨みじゃねえかと……」
源次郎にはたった今鄧が言ったような可能性が頭にあったということになる。
◆15
「だとすると……どうなるわけ?」
紫月が不安そうに眉根を寄せる。その肩を抱き寄せながら、鐘崎もまた焦燥感をあらわにした。
「仮に汰一郎が源さんに逆恨みを抱いていたとして――代田と源さんをあの地下街で鉢合わせにさせてどうしたいってんだ……。まさか源さんに代田を始末してもらおうなんて思っているんじゃあるめえな」
それを聞いて周が続ける。
「仮に鄧の言う逆恨みが当たっていたとしても――だ。おそらくだが、汰一郎の中で源次郎氏は『悪人』という括りではないはずだ。助けてもらえなかったという逆恨みがあるとしても、頭では『この人は信頼するに足る善人だ』と理解しているはず。それでも尚、気持ちの上では『何故あの時自分の親だけ救ってくれなかったんだ』という思いが勝って、チグハグな行動に出ているのかも知れん」
当の源次郎にとっても、少なからず後悔と自責の念が拭えずにいるのかも知れない。
重い仮定に場が静まり返る。
「源さんはおそらく……汰一郎に頼まれたからにはどうにかして力になってやりてえと考えるだろう。例の地下街に行って暴れている代田のツラを見れば、ヤツが二十年前の犯人だと察するだろう。もしかしたら後悔と怒りから代田を成敗しようと考えるかも知れん」
むろんのことそれが殺害でないにしろ、代田が多少でも怖い思いや痛い目を見れば、汰一郎にとっては溜飲が下がるといったところなのか――。
「まさかそうなるようにと汰一郎が裏で仕組んだなどとは……源さんは夢にも思うまい――」
こうなれば何としてでもとめねばならない。
「万が一にも源さんが代田に手を出せば、傷害事件として最悪はパクられる可能性もゼロじゃねえ」
鐘崎らはすぐに地下遊郭街へと向かうことにした。
◇ ◇ ◇
そうして夜がやってきた。
「源さんには組の留守番を任せてきた」
ここで源次郎と代田を鉢合わせるわけにはいかない。組の留守番を預ければ、源次郎がこの地下街へ来ることはないとの思いから、わざと留守を預けてきたのだった。
とにかくは代田らが姿を現すまで三浦屋伊三郎の会所で待機させてもらうことにする。今宵は事情を聞いた紫月の父親の飛燕が綾乃木を助っ人として送り込んでくれた為、体制は万全といえた。
正直なところ鐘崎に紫月、周に綾乃木、そして鐘崎組組員らが顔を揃えていれば素人が酒の席で暴れるのをとめるくらいは朝飯前である。代田らを制圧した後、汰一郎に真の目的を聞き出せばいいわけだ。
しかしながら暴れると分かっていて芸妓らを座敷に上らせるのは気の毒だ。ついこの前は花魁付きの禿までが怪我を負わされたことで、伊三郎としては女たちがこれ以上無体な目に遭うのを見ていられないと言って肩を落としている。
「だったらさ、俺が芸妓に――つか、また花魁にでも変装するか? 御職の涼音が風邪でも引いたことにしてよ、代わりにお座敷担当させていただきますとでも言やぁ疑われずに済むんじゃね?」
ふと、紫月がそんなことを口走った。
◆16
「ふむ、おめえには苦労を掛けるが、案外そいつぁ名案かも知れんな……」
鐘崎は心配ながらも、自分たちが花魁付きの下男として座敷に上がれるならばそれも悪くないと思ったようだ。そうすれば芸妓たちを危ない目に遭わせずに済むし、代田らを捕えるにしても都合がいい。
それを聞いていた冰が、だったらこの際、賭場も開いて自分も紫月と一緒に座敷に出たいと言い出した。冰にしてみれば紫月一人を危険な目に遭わせるのは心が痛む、自分にもできることがあれば協力させて欲しいと言うのだ。
「賭場か――」
周にとっては心配の種が増えることになるが、賭場を開けば中盆役や両替役として自分たちも堂々と側に居られることになる。
「悪くねえかもな。俺は中盆に扮し――」
周がチラリと鐘崎を見やり、
「それなら俺は用心棒として見張り役になろう」
鐘崎もそう続けてうなずく。
結局、綾乃木には両替役に扮してもらい、組員の春日野には花魁付きの下男として護衛方々紫月の側に控えてもらうことになった。
伊三郎らが協力してくれてそれぞれ着替えをし、花魁役の紫月には白塗りの化粧が施される。
「紅椿や。今回はいつぞやと違って男花魁ではなく女物のお服だからね。お前さん、少々声色を高くして、極力喋らないようにしていておくれ」
花魁が男だとバレれば代田らがどんな暴れ方をするか知れない。伊三郎にしてみれば一度は店子として抱えた紫月を大事に思うからこその言葉なのだ。
「ダイジョブだって! 親父っさん、俺たちを信じて任せてくれって」
「そりゃあもちろん信じているともさ。だが、お前さんや紅龍にもしものことがあったらと思うと心配なのだよ」
『紅龍』とは冰のことだ。以前、ここで賭場師をした際に決めた冰の源氏名ならぬ呼び名である。伊三郎にとっては未だに二人は花魁紅椿と賭場師紅龍といった感覚でいるのだろう。元はといえば今回の鎮圧を鐘崎組に依頼したのは伊三郎なわけだが、いざこんな流れになると、やはり二人のことが本当の子供のように思えて心配になってしまうのだろう。そんな伊三郎の気持ちが嬉しかった。
そうして支度が整った紫月が姿を現すと皆からは溜め息ものの歓声が上がった。
「どうよ、ちっとばかし背が高えが、座敷に座ったままでいりゃ問題ねえだろう。なかなかにイケてね?」
確かに群を抜いて美しい芸妓――というよりも本格的な遊女の出来上がりだ。冰の方も賭場師として少々強面のメイクを施し、準備は万端に整った。
それから待つこと一時間ほど。代田が現れ、仲間を引き連れて大門をくぐったとの知らせが届いた。
「来やがったか。まずは様子見といこう」
組員たちを客として最上屋に送り、いざという時には加勢できる体制を敷いて完全に外堀を固める。鐘崎らはそれぞれ持ち場に付いて代田らを迎えた。
驚いたのは当の代田だ。今宵は御職の涼音が居ない代わりにこの街きっての花魁が相手をするという。しかもその座敷には賭場が用意されていて、粋と雅に目を剥くほどの体制で迎えられたからだ。
◆17
「なんでい……いったいどうなってやがる」
最上屋の主人にも協力してもらい、今宵は御職の涼音が座敷に上がれない詫びとして、せめても楽しんでもらおうとの思いでこのような宴を用意したのだと説明する。代田にしてみれば、自分がケチを付ける前に先手を打たれたと思ったようだが、本格的な賭場の設えと群を抜く美しさの花魁を目の前にして気分が上がったようだった。
「ふぅん、この店もやりゃあできるじゃねえよ」
正直なところ賭場など初めてだが、興味は引かれているようだ。相変わらずのデカい態度はそのままだが、とにかくは珍しい賭場で遊ぶことに頭がいっている様子で、存外素直に賭場師の前へと腰を落ち着けた。
「あんたが壺振り? ふーん、今の時代にこんなことができるヤツがいるたぁねえ」
仲間たちにも賭けに参加するように言って、あっという間に席が埋まった。
冰と紫月の側には周や鐘崎らが陣取っていたものの、普段の強面の雰囲気は微塵も見せずにおとなしい紳士を装っている。素を出せばその姿を見ただけで圧を感じさせる彼らだが、そこはプロだ。わざと優男を装うくらいはお手のものなわけだ。ただでさえ普段とは違って鐘崎に周、綾乃木、春日野といった男連中が座敷を埋めているからには、ここで地を出して代田らに腰を引かれては元も子もないからである。
案の定、代田らはこちらに対して警戒心は持っていないふうである。
「へ! おもしれえ。時代劇みてえだな」
「確かにおもしろそうには違いねえけどよ。もしかして賭け金も俺らが出すのか?」
連れの男たちがそんなことを口にしたが、当の代田からは少々驚くような言葉が飛び出して、鐘崎らは顔には出さないものの、内心では驚きを隠せなかった。
「は! 構うこたぁねえ。どうせ金はいつものように町永にツケりゃいんだ。せっかくの賭場だ。賭け金無しでやるなんて面白みがねえだろー?」
そしてこうも続けた。
「なーに、勝ったらその金は当然俺らのモンさ。負けても町永の払いが増えるだけだ。存分に楽しませてもらおうじゃねえの!」
「町永様様だな!」
「ホント! あの野郎、ちょっと脅せばいくらでも出しやがるからなぁー!」
ガハハハと男たちは笑い、実際の掛け金はツケで払うと言い出した。
(なるほど――な。そういうことか)
面と向かって座敷に上がったことで段々と代田らのやり口が見えてきた。芸妓たちからもこれまでの払いはすべて汰一郎が持っていたと聞いていたが、事実だったというわけだ。この調子だと、飲み代の他にも何かにつけて汰一郎から巻き上げているやも知れない。鐘崎らは平静を装いつつも引き続き様子を見ることにした。
◆18
まずはこの賭場の席をどういう流れに持っていくか――である。実際に壺を振る冰も、今の代田らの会話を聞いていて汰一郎をカモにしていることを知り、正直いい気分ではない。ここはひとつ思い切り上げてから地獄に叩き落として、お灸を据えてやるのも悪くない。周もまたそう思ったわけか、ひどく端折った広東語でそのことを冰に知らせた。聞きようによっては江戸弁とも取れる言い回しに代田らには意味が分からなかったようである。
[持ち上げて落とす]
つまり、最初の内は稼がせてやれという意味だ。代田らに大金を握らせたところで一気に丸裸に剥いてやろうという策である。当然、取り返そうと挑んでくるのは見えているから、そこから先は立て続けに叩き潰して、膨大な払いを要求すれば間違いなく暴れ出すことだろう。とはいえ、最初から勝負など有って無いも同然だ。汰一郎がツケを負う必要もない。
「では――どちらさんもよろしゅうござんすか? 入ります」
冰が壺を振ると、中盆役である周が強面の掛け声で張るようにうながし始める。
「さあ、張った張った!」
代田らは本物の賭場の雰囲気に押され気味でいる。張れと言われても何をどうすればいいのかまるで分からない様子で、互いに仲間を見やりつつキョロキョロと視線を泳がせている。しかしながらさすがに『やり方が分からない』と言うのはプライドが許さないわけだろう、知ったかぶりでまずは代田が「丁」と言った。
すると仲間たちも何となく意味が分かったのか、続けて「半」という声が掛かり、皆それに倣うようにしてオズオズと賭け始める。丁半それぞれ半々くらいの割合に出揃ったところで、最初の勝負が告げられた。
「三ゾロの丁!」
まずは代田が賭けた『丁』の目を出して、いい気分に持ち上げてやることとする。案の定、代田は上機嫌で、次の勝負もやる気満々の様子だ。他の仲間たちもやり方が分かってきたのか、『なんだ、簡単じゃねえか』とでもいうように調子づいていった。
その後も代田に八割型勝たせるように目を操り、仲間全員合わせると目を剥くような額の現生を目の前に積んでやったところ、誰もが発狂するくらいに喜び勇んで賭場は大盛り上がりと化していった。
「うっひゃあー! たまんねんなー!」
「見ろよ、この札束の山! こんなの見たの生まれて初めてだぜ!」
「つか、チョロいチョロい! こんなおもしれえモンとは思わなかったぜ!」
誰もが浮き足立つ中、代田はマウントを取りたいわけか、皆に向かって鼻高々でしゃくってみせた。
「はん! 情っけねえなあ、てめえら! この程度の札束でビビってんじゃねーよ。俺なんか毎日飽きるほど見てるわ!」
とはいえ単に銀行内で動く金だろうがと突っ込みたいところだが、わざわざ仲間の前でも威張り散らしたい様子からするに、この代田という男の浅はかさがよくよく窺える場面といえる。
さて、そろそろ潮時であろう。ここまで散々持ち上げて一時の夢を見させてやったのだ。今からは地獄の方も味わってもらわねばならない。
周と鐘崎が目配せで合図をし合った折だった、代田の方からとんでもない案を持ち掛けられて、瞬時に場が凍りつくこととなった。
「なあ! せっかくの賭場だ。俺らだけで楽しんでるんじゃ味気ねえだろ? どうだ、こっからはその綺麗な花魁の姉ちゃんと勝負しようじゃねえか!」
なんと花魁相手に対戦したいと言い出したのだ。しかも、自分たちが勝てば、一晩花魁を好きにしていいということでどうだなどと言っている。
◆19
「この店ってヤるのもオッケだったよなー? 俺ら六人いるけど、天下の花魁ならそんくらい相手にすんのワケねえだろ? 俺たちゃ皆んなアッチの方のテクも上手いしさ! 花魁の姉ちゃんにもいい思いさしてやるし!」
なんと、六人で花魁を輪姦しようとでも言わんばかりだ。
鐘崎にとってはこの場で即刻叩き斬ってやってもいい――そんな気にさせられたが、当の紫月は面白がって座敷の最奥から立ち上がってみせた。
「おやまぁ、何ともそれは面白いご提案でありんすねえ。受けて立ちましょ」
膝を降り、高身長を悟られないように歩きながら、手にしていた扇を開いては、優雅な仕草でヒラヒラと仰ぎながらやって来て、壺振りの脇へと腰を下ろしてみせた。
代田らは快諾に上機嫌でいたが、次の瞬間、目を疑うこととなる。花魁が下男に向かって賭け金の札束を用意させたからである。その額なんと、これまで代田らが稼いだ倍は優にあるというほどの現生であった。
「主さん、いかがです? わちきとサシで勝負と参りゃせんか?」
「……は? てめ……いったいどういうつもりでいやがる……」
さすがの代田も腰が引けた様子でいる。言葉じりは威勢がいいものの、声は明らかにうわずっている。
「主さんが勝てばコレとわちきは主さんたちのモノでありんすよ」
それまで仰いでいた扇を閉じて、スイとそれで札束の山を指す。代田がゴクリと生唾を呑み込むのが見てとれた。
「……は……ッ、ちょ、調子コキやがる……。そ、その代わり……俺が勝ったらその金全部よこせよ? ハッタリで『やっぱり無かったことにしましょう』なんて冗談じゃ済まねえからな……! それに――お前も俺たち全員でヤってやる! 一晩中嬲ってやっからな! それで間違いねえな……!?」
代田にとってはこれでも精一杯の粋がりなのだろうが、所詮は素人のチンピラだ。いかに丁寧な女言葉を使おうとも本物の極道の前では敵おうわけもないのだ。紫月も鐘崎らもこれまでは極力地を見せないようにしていたわけだが、やはり隠し通せないオーラが目に見えない光背の如く背中に漂っているのかも知れない。
「ようござんすよ。わちきは一度申し上げたこと、違えるなんてしやしません」
紫月は気品高くニコリと微笑んでみせた。
それと同時に壺振り冰の視線もまた、これまでとは打って変わって圧を纏う。ギラリと光るその上目遣いの瞳は薄く笑みを讃えていて、まるで『勝てると思うな』とでも言われているようだ。代田らは完全に腰が引けたようにして、勝負前からガクガクと足腰を震わせてしまった。
「か、構わねえ! どうせ負けたところでツケは町永が負うだけだ……! やってやろうじゃねえか!」
まるで武者震いのように全身をブルリとさせては、勢いよく賭場の上で片足をついてみせた。
「ほほ、威勢のよろしいこと。泣いても笑っても恨みっこなしで――ねえ、主さん?」
再び扇を広げてはヒラヒラと仰ぐ。
「どちらさんもようござんすか? では――入ります」
冰の白魚のような手にはおおよそ似合わないドスの効いた声色が座敷に響き渡った。
◆20
花魁と代田の一発勝負ということから、冰は紫月が告げるだろう『二六の丁』の目を用意して代田の出方を待つ。鐘崎と紫月の誕生日を示す目だ。
「主さんがお先に賭けなんし」
「ふ、ふん……! 随分と余裕ぶっこいてくれっじゃねえか……。俺が先に賭けろってかよ」
先に賭けろと言われてますます膝が震える。ここでしくじれば大金の山が一瞬で消えるわけだ、それも当然であろう。
「……クソッ……ちょ、丁だ! 丁!」
迷った挙句に代田はそう吐き捨てた。ところが紫月は少々呆れた素ぶりで軽やかに笑う。
「おやおや、主さん。これは一発勝負でありんすよ? 目の数も当てていただきませんと」
「……? 目の数だ?」
「サイコロの目の数字でありんすよ。一と二なら足して三。つまり奇数で半でありんしょ? 二と四の目なら足せば六。偶数だから丁」
そう言われて、『なんだ、そういうことか』と、ようやくやり方を理解したようだ。
「ふ、ふん……! ンなこたぁいちいち言われなくても解ってらぁ! そんじゃ……二と六。足して八の偶数になるから丁だ!」
なんという偶然か、紫月が告げるはずの『二六の丁』を選んでしまった。実際、今時点で壺の中の目は二六の丁になっているはずである。少々焦らされたものの、当の冰からは『問題ない』といったように余裕の笑みが浮かんでいる。壺を開く時点で目をごまかせるという合図である。
それを悟った紫月は、自分が告げる目を暗号に乗せて冰へと知らせることにした。
「ではわちき――紅椿はどういたしましょうねぇ」
紅椿、それは紫月の源氏名であると同時に、イコール鐘崎の彫り物だ。つまり鐘崎の誕生日である六月六日、告げる目は『六ゾロの丁』というわけだ。
冰は目線の動きだけで了解の合図を送る。
「決めた。わちきは六ゾロの丁にいたしましょ」
ここで中盆役の周がハリのある声で勝負を確認する。
「そちらさんは二六の丁、花魁は六ゾロの丁! どちらさんもようござんすか」
「構わねえ! 早いとこ勝負といこうぜ!」
「ようござんすよ」
確認が済んだところで誰も固唾を呑む。静寂と化した座敷内の視線が一点、壺に集中する。
ゆっくりと持ち上げられた壺から姿を現した目は――
「六ゾロの丁!」
中盆の雄々しい掛け声と同時に代田は蒼白となった。
札束の山が回収されて花魁の側に積み上げられる。
「……クソッ……クソぅ……! て、てめえら……まさかイカサマじゃねえだろうなッ!?」
声を裏返しながら代田は怒鳴ったが、当の花魁紅椿は余裕綽々で微笑んでいるだけだ。
「落ち着きなんし。うちの賭場でイカサマなんてありゃしません」
往生際が悪いですよと言いたげにクスっと笑む。
「クソ……クソぅ……! もういっぺんだ! 今度こそ……」
躍起になった代田から再度の勝負を挑まれたものの、結果は再び花魁の大勝ちとなった。
結局三度目の正直で対戦するも、完敗に至った代田はワナワナと拳を震わせながらもその顔色は蒼を通り越して真っ白である。いよいよ暴れ出すかと待ち構えていた鐘崎らだったが、何と代田は一旦手水に立つと言って座敷を出て行ってしまった。
「畜生ッ……こうなったらカモに聞くしかねえ……」
立ち上がりざまに吐き捨てた言葉から察するに、どうやら金蔓にしている汰一郎へと連絡を入れるようである。つまりあとどれくらいなら賭け金が出せるのかということを確認するつもりでいるらしい。
如何に汰一郎をカモにしているといっても、さすがに積み上げられた現生の山を目にして心配になったのだろう。これまでも散々吸い上げてきたのは事実だ。万が一汰一郎が『もう金はすっからかんで残っていない』と言えば、自分が負わされる可能性もゼロとはいえない――如何な低脳でもその程度の頭は持っているのだろう。
代田が厠で汰一郎に電話するのだろうと思った鐘崎は、客として別の部屋に潜り込ませていた組員たちに至急見張るように通達を出した。