極道恋事情

4 鐘崎編1



◆1
 時はさかのぼって、周焔と雪吹冰が再会を果たす二年ほど前の冬の夜である。


 それは深夜のこと――既に日付をまたいで午前一時になろうかという時刻だった。
 地下室に来客があったことを告げるインターフォンの音で、一之宮紫月は寝転がっていたベッドから飛び起きた。そろそろ休もうかと思っていたが、まだ服も着たままだったし、完全に寝入る前だったのは幸いだった。
 急いで駆け付ければ、見知った男たちが一人の怪我人を抱きかかえながら入り口から姿を見せたところだった。彼らは幼馴染である鐘崎遼二のところの一門、いわゆる極道一家の組員たちだ。
「容態は!?」
 紫月は一目散に駆け寄ると、素速く状況を確かめる。脇腹からかなりの出血があり、怪我を負った男は今にも息絶え絶えにもんどりを打って呻いていた。
「夜分にすいやせん! 橘の兄貴が刺されまして」
 男たちの一人が焦燥感をあらわにそう告げてくる。
「刺されてからどのくらい経つ!? 傷口は一箇所か!?」
「今から三十分ほど前です! 刺されたのは一回です。かすった程度かと思ってたんですが――思ったより傷が深いようでして」
 出血量が多い為、相当焦っている様子が窺える。ここへ運んで来る間にとりあえずの止血はされていたようだが、所詮は素人のやることだ。橘という怪我人の腹にはタオルのような布きれが押し当てられているだけで、服からズボンに至るまで、かなりの血の痕が見て取れた。おそらくは鋭利な刃物で刺されたと思われる。
「処置台に運んでくれ!」
 紫月が言うと、男たちが全員で血濡れた彼を抱え上げて、台の上へと横たわらせた。
「すぐに麻酔が効く。気をしっかり持つんだ!」
 そう声を掛けながら、てきぱきと処置の準備を整えていく。すると、怪我人の男は虫の息ながら礼と詫びの言葉を口にした。
「すまねえ、紫月の坊ちゃん……。世話……掛けちま……って」
「構わねえ。それよりしゃべるんじゃねえ!」
 服を切り取って患部をあらわにしたちょうどその時、やはり緊急のインターフォンを聞いてやって来たもう一人の男が姿を現わした。
「綾さん! 刺し傷が一箇所、出血量がかなりあります。麻酔は済んでます」
「分かった。すぐに取り掛かろう」
 綾さんと呼ばれた長身が逞しい彼は、紫月の家の敷地内に住み込みで勤務している医師である。名を綾乃木天音といい、紫月が兄のごとく慕っている人物だった。腕は確かだが、医師免許は所持していない。いわば潜りというそれだ。
 ここは都内とは川を挟んだ対岸にある工場地帯の一角に位置する――とある道場の地下室だった。

 一之宮家というのは代々武道家の家系で、現在は紫月の父親が当代主として道場を営んでいた。街外れの川沿いではあるが、それ故に広大な敷地を有していて、普段は主に青少年の指導に当たっている名のある道場である。だが、そのまっとうな道場の地下部分には一般の人々が知り得ない秘密の営みがあるのも事実であった。
 それがここ――今まさに紫月と綾乃木が怪我人の処置を施している地下室なのだ。




◆2
「すまない、遅くなった!」
 続いて駆け付けてきたのは紫月の父親だった。名を一之宮飛燕という。道場師範だけあって眼光鋭い研ぎ澄まされた雰囲気の男である。
 時刻は深夜だ。朝の早い彼は既に休んでいたらしく、少々遅れてやってきたのだ。
「刺し傷か……。塩梅はどうだ」
 飛燕が綾乃木に向かって問う。
「出血の量が少し多いですが、臓器には達していません。思ったほど重傷でなくてよかった」
 その言葉にホッと胸を撫で下ろす。
「紫月、お前もご苦労だった。まだ寝てなかったのか」
 飛燕は自身の息子である紫月にも労いの言葉を掛けると、部屋の片隅で手術の様子を気に掛けていた男たちに経緯を尋ねた。
「で、今回はどういった案件だったんだ。遼二坊はどうした」
「若は自分らとは別動隊で出ていらしたんですが、今こちらに向かってくれておりやす」
 若い衆の話では、ある大企業の社長から一人息子があまり好ましくない連中と行動を共にするようになり、困っているとの相談を受けたところから今回の一件が始まったということだった。
「その息子っていうのは今年の春に高校に上がったばかりだったそうなんですが、半年ほど前からあまり素行の良くない連中とツルむようになったんだそうです。夜も家に帰らないことが多くなって、注意しても聞く耳を持たないってんで、その不良グループから抜けさせてくれるようウチに依頼がきたってわけです」
 つまり高校に入るとすぐにそういった仲間たちと付き合うようになったということだろう。だが、調べを進める内に、彼らが単に粋がったり背伸びをしているだけでなく、違法な薬物にまで手を出しているらしいことが分かってきたのだという。ここ最近は特にエスカレートしているようで、夜な夜な廃倉庫にたむろしては皆で深みにはまっていたようだ。
「それで今夜、とりあえずその息子を引っ張って依頼主である父親の元に連れ帰ったわけですが、薬が抜けていなかったのかいきなり父親に斬りかかりまして。依頼主に怪我を負わせちゃならねえってんで橘の兄貴が咄嗟に庇って怪我を負っちまったってわけなんです」
「なるほど。そいつは災難だったな」
 彼らの話では、少年たちに薬を流したルートも既に目星がついていて、組の若頭である鐘崎遼二がそちらを押さえるべく、若い衆らとは別行動で出向いていたとのことだった。

 鐘崎の父親というのは裏社会では名のある始末屋と呼ばれる稼業を営んでいる人物だった。あまり聞き慣れない職種であるが、例えば司法などの関係で、真っ当なやり方では解決できない事案などを依頼主に代わって片付けるというような役割を担っている。
 クライアントは政府要人から大企業の経営者、はたまた警察の上層部に至るまで多岐に渡る。日本国内のみならず香港や台湾などを主とするアジア各国からインドネシアなどの広範囲で活動している凄腕の男だ。多国語を流暢に操り、各地に広い情報網を持っていて、サイバー関係にもすこぶる強い。それだけでも他の追随を許さないプロ中のプロだが、何よりも秀でているのは体術や射撃といった武道の腕前だった。
 元々は一匹狼で始めた稼業だが、経年と共に志を持って集まってきた若い衆らを束ねて、今では強靭な組織を率いる頭となっている男だった。



◆3
 名は息子と似たり寄ったりで、鐘崎僚一という。日本の裏社会でも一目置かれる存在だが、どこかの組に属しているというわけではなく、まったくの単独で一門を築いているという具合だった。いわゆる広域指定暴力団とは少し違った意味合いなのだが、世間一般的には極道と認識されているのも事実であった。

 僚一と飛燕は学生時代からの縁で、今なお親しくしている間柄だ。飛燕は医療の心得があったことから、道場を営む傍ら、いつしか僚一の組織の専門医として若い衆らの面倒を見るようになっていった。
 僚一も飛燕も互いに息子が一人ずつおり、偶然にも同い年の子供たちだった。それが鐘崎――つまり遼二――と紫月である。二人は幼馴染として育ち、幼稚園から高校までをクラスメイトとして過ごしてきたが、修業と共にそれぞれ家業を継ぐ道を選んでくれた。

 鐘崎は父親譲りの才能を受け継いでいて、武術にも優れ、頭も切れる青年へと育った。
 中身も精鋭だが、外見もそれに似合いの男前で、一八〇センチを優に超える長身の上に、ほぼ万人が見惚れるほどの整った顔立ちである。女性ならば誰もが放っておかない”雄”の色香もさることながら、それとは裏腹に硬派で圧をまとった雰囲気は、おいそれとは他を寄せ付けない鋭さをも兼ね備えている。その冷たさがまた女心を焚き付けるのだとかで、まさに極道の世界に咲く孤高の華などと言われていたりもするらしい。
 二十七歳になる今では、組の若頭として立派に父の片腕へと成長を遂げている。外見も中身も非の打ち所がないといった印象の彼は、女性のみならず組の若い衆たちからも憧れの的であった。
 一方、飛燕の息子の紫月も、鐘崎とはまた異なる雰囲気であるものの、こちらも万人が一目惚れしそうな美男子である。
 薄茶色で天然癖毛ふうの髪が、陶器のようになめらかな肌をよくよく引き立てていてなんとも艶かしい。逞しいというよりはスレンダーな体型ではあるが、長身美麗な彼は、女性にはもちろんのことながら男色の男たちにとってはすぐにも食指が疼きそうな色香をも兼ね備えているといった具合であった。だが、一見与し易そうな外見とは裏腹に、幼い頃から道場で合気道を学び、腕は達つ。それ故、男たちが群がろうとしても簡単には言い寄れない高嶺の花であるらしい。
 高校卒業と同時に、道場で少年たちの出迎えから稽古の準備や掃除に至るまで、様々雑用を担当して父親を手伝っている。その傍ら医術の方に関しても勉強熱心で、独学ではあるが、かなりの知識を身に付けているといったところだった。
 父親の飛燕にとっても頼れる一人息子である。親子で道場を営み、鐘崎の組にも陰ながら医療の面で助力を続けていたが、そんな中、僚一の伝手で綾乃木と知り合い、飛燕の人柄に惹かれた彼が住み込みで手伝うようになってくれたのである。綾乃木もまた武術に通じていたこともあって、普段は道場で青少年らの指導に当たってくれていたのだった。




◆4
 怪我を負った橘という組員の手当てが済んだちょうどその時、若頭である鐘崎が道場へと到着した。
「すまない、遅くなった! 橘の具合はどうだ」
「若! お疲れ様です! 先生方のお陰で兄貴は無事です」」
 若い衆らがビシッと腰を九十度に曲げて出迎える中、飛燕に気付いた鐘崎は丁寧に頭を下げた。
「遅くに手間掛けまして申し訳ありません」
「いや、構わん。お前さんも大変だったな。で、ガキ連中に薬を流した奴らの方はどうした」
「ええ、お陰様で売人を押さえて、あそこら界隈のシマを仕切ってる組の上層部に引き渡してきました。組では薬と拳銃はご法度としてるんで、後の始末は彼らがどうとでもするでしょう」
「そうか。ご苦労だったな」
 飛燕は労うと、
「それはそうと僚一の方はどうした。ヤツはまた海外か?」
 そう訊いた。
「ええ。今は香港です。年内には戻る予定だそうですが」
「香港というと例の周一族のところか?」
「そのようです。周家の頭領の隼氏の依頼で、ここひと月ほど向こうに行ったきりなんですよ」
「相変わらずだな。周といえば、お前さんとウチの坊主の同級生だという次男坊が日本で起業しているんだったな?」
「ええ。周焔こと氷川白夜です。ヤツとはしょっちゅう顔を合わせてますよ」
「そうか。彼がこっちに留学していた高校時代にはウチの道場にも顔を出してくれたことがあったが、さすが周隼の息子だ。あの頃からやたら貫禄のある男だったが……。今じゃ一企業を背負ってファミリーの資金面でえらく貢献してるそうじゃないか。大した男だ」
「そうですね」
 そんな話をしていると、処置を終えた綾乃木と紫月が二人の元へとやってきた。
「処置は済みました。傷の方も思ったより大事なかったですし、もう心配はいりません。しばらくはこちらに入院していただいて様子を見ましょう」
「綾乃木さん、ありがとうございます。恩にきます」
 鐘崎はそう言って頭を下げると、側にいた紫月にも「お前にも世話を掛けてすまない」といった意味なのか、視線だけで軽く目配せをした。
 時計を見れば、既に早朝という時間帯だ。今は冬の最中なのでまだ暗いが、夏場ならすっかり陽が昇っていることだろう。若い衆らはそのまま引き上げていき、鐘崎は幼馴染である紫月の部屋へと立ち寄ってから帰ることとなった。




◆5
 紫月の部屋は道場のある母屋とは渡り廊下一本で繋がった離れにある。親と同棟の煩わしさがないせいか、学生時代はよく悪友共と押し掛けては、気ままに騒いだのが懐かしい。
 部屋に入ると、鐘崎はすかさず背後から紫月の身体を引き寄せ、抱き締めた。
「夜中に叩き起こしちまったか。世話掛けてすまなかった」
「いや……まだ寝てなかったし構わねえ。まあ、地下のベルが鳴るってのは未だにちょっとは焦るけどな」
 そうなのだ。道場の表玄関からの来客用とは別音にしているそのベルが鳴るということは、緊急を意味する印だからだ。
 察しの通り地下には医療設備がある。そして、そこへやって来るのは鐘崎のところの関係者しかいない。つまり組の誰かが怪我を負ったか体調を崩したという以外に地下のベルが鳴ることはないというわけだ。
 彼らの組織は危険を伴う仕事を多く請け負っている為、特に怪我は付き物といえる。
 事前に電話連絡が入ることもあるが、今日のように余裕がない時などは直接怪我人が担ぎ込まれることも少なくないので、紫月らにとってはあまり心臓にいいものではない。下手をすると命にかかわるような重傷ということも有り得るからだ。
「今回は出血量が多かったからな。最初にそれ目にした時はさすがに肝が冷えたわ。橘には申し訳ねえが、やられたのがお前じゃなくて正直ホッとした……」
 溜め息と共にそんなことを言った紫月を抱き締めながら、鐘崎はチュっと軽くその髪に口付けた。
「心配掛けたな」
「……ッ、まあな。俺りゃー、まだてめえの亡骸なんぞ見たくはねえからよ」
 ぞんざいな言い方で目一杯強がるも、内心では深く心配している様子があからさまだ。
「大丈夫だ。お前がそう思ってくれてる内は簡単にくたばりゃしねえさ」
 鐘崎は言うと、背後からの抱擁を解いて紫月の頭をクシャクシャっと撫でた。
「――それじゃ、そろそろ引き上げるとするか」
 ハンガーからコートを手に取る姿を眺めながら、紫月はクッと瞳を細めた。
「ゆっくり休めよ。それと……あんま無理すんな」
「ああ。お前もあまり寝る時間がなくなっちまったな。少しでも寝ておけ」
 鐘崎は帰りざまにもう一度軽くハグをするように抱き寄せると、首筋に触れるか触れない程度の小さな口付けを落としてから部屋を後にしていった。
「ふぅ……。ったく、相変わらずなんだからよ……」
 紫月はその後ろ姿を見送りながら、小さな溜め息を漏らすのだった。




◆6
 鐘崎とは物心ついた時から幼馴染として兄弟のように育ってきた間柄だ。高校を卒業するまで学園もクラスも一緒で、片時も離れることなくというくらい側で過ごしてきた。もはや相手のことは良いところも悪いところも知り尽くしているわけだが、ただ一つ告げ合っていないことがあるとすれば、それは互いに対する想いだった。
 鐘崎も紫月も共に恋愛対象として意識し合っているし、どう想い想われているのかもよくよく理解できているのだが、それを言葉にして伝え合ったことがないのだ。
 かれこれ十年以上も胸の内にだけ抱え込んでいる想いを告げられずにいるのには、それ相応の理由があった。

 鐘崎の両親は、彼がまだ幼い頃に離縁した。危険を伴う仕事に身を置く環境についていけず、別の男に心を寄せた母親が出ていってしまったのだ。
 鐘崎自身も彼の父親の僚一も気にしていないと言うが、周囲からすれば少なからず気遣うところである。紫月にとっても同様で、なるべく母親の話題については触れずに付き合ってきたつもりだ。
 組織としてもいわば”姐”のいないことになるわけで、いずれ若頭である鐘崎に連れ合いができれば、今度こそ上手くいって欲しいと誰しもが望んでいることだろうと思う。二十七歳といえばそろそろ結婚を意識してもおかしくない年頃だし、実のところ鐘崎にはここ最近ちらほらと縁談話が持ち掛けられていると耳にするようになった。
 いかに彼のことが好きでも、紫月は男性であるし、姐になることはおろか後継を産むこともできない立場である。そんな自分が想いを打ち明けたところで彼を苦しめるだけだ。紫月はずっとそう思ってきた。
 だが、鐘崎の方ではどう考えているのか、割合堂々とスキンシップをしてきたりする。今しがただって部屋に入るなり背後から抱き締めてきたりと、紫月にとっては気持ちを揺さぶられる扱いだ。が、彼もまたそうした大胆な行動のわりには、はっきりと言葉に出して『好きだ』と告げてきたことは一度もない。
 互いが互いをどう想っているのか、はたまたどういう未来を望んでいるのかという肝心な部分が言い出せないまま、ズルズルと過ぎゆく日々に身を任せているといった状態なのであった。

「はぁ……、今からだと二時間くらいっきゃ寝られねっか」
 目覚ましをセットすると紫月はベッドへと潜り込んだ。
「寒……ッ」
 暖房は効いているものの、めくった布団の中は冷んやりと冷たい。こんな時に寄り添って温め合える肌が隣にあればと思うと、心にまで冬の冷気が沁み入るようだった。
「あの野郎、無事に帰れたかな……」
 距離的にはさして遠くない近所だが、すぐ手を伸ばすところに望めるはずのない温もりを思えば、心の中を冷たい北風が吹き荒ぶようだった。




◆7
 それから半月ほどが過ぎた頃。
 怪我を負った橘という組員も無事に退院し、一之宮道場にも平穏な日々が戻ってきた――そんなある日のことだった。
 クリスマスを間近に控えた週末のことだ。紫月は父親の飛燕と綾乃木と共に昼食を済ませた後、午後からの稽古の準備かたがた道場へと向かった。今日は今年最後となる小中学生らの剣道を見る日である。竹刀や胴着など備品の出し入れを済ませ、一段落ついたところで午後の日射しが暖かな縁側で一息ついていると綾乃木がやってきた。
「おう! もう準備してくれたのか。一人でやらせちまって悪かったな」
「いえ。綾さんこそお疲れ様です」
 綾乃木は紫月の隣に腰掛けると、『ほら』と言って温かいほうじ茶のペットボトルを差し出した。
「すんません、いただきます」
「今日はいい天気だな。もう冬至か――。早いもんだな」
「そうッスね」
「ところで鐘崎ンところの遼二坊だが、また見合いの申し出を断ったって聞いたが――」
「……そうなんスか?」
「何だ、お前さんは知らなかったのか? 遼二坊とはしょっちゅう行き来してるんだろ?」
「ええ、まあ。けど、あいつ……そういうことは全然言わねえもんで」
「ふぅん、そうなのか。何でも今年に入って五回かそこら見合いの話があったらしいが、片っ端から断っちまってるらしいぞ? 写真すら見ねえ内に即却下するんだとかって、若い衆らが騒いでたわ」
「五回って……そんなに?」
「相手は殆どが何処かの組長の娘だって話だが、またえらく気に入られたもんだ」
 ほとほと感心顔で言う。綾乃木からもらったほうじ茶を口にしながら、紫月は言葉少なに苦笑した。
「まあ……ヤツの親父さんは裏の世界では右に出る者がいねえってくらいの人ですから。本人も昔っから女にはよくモテてましたし、姐になりてえって娘はたくさんいるんでしょう」
 ありきたりの言葉を並べながらも内心で重い溜め息を漏らす。そんな紫月を横目に、綾乃木もまたやれやれと肩をすくめるのだった。
「俺が口出しする義理じゃねえが――お前さんらの気持ちはどうなんだって訊きたくもなるわな」
「どうって……言われましても」
 二人が密かに想い合っていることを、綾乃木には気付かれているのだろう。
「何を躊躇してるのか――分からねえでもねえがな。遼二坊もお前さんも――素直になっちまえばいいのに。……って、俺が焦れたところでどうにかなるってもんでもねえが」
「……綾さん」
「ま、他人様の恋路だ。あんまり節介なことは言いたかねえが、お前さんらを見てると……どうも焦れったくなっちまうのも本当のところでな」
 残っていたペットボトルの茶をグビリと飲み干すと、
「あんまり一人で抱え込むなよ? 俺なんぞでよけりゃ、いつでも話を聞くくらいはできるからな」
 綾乃木は笑いながら紫月の肩をポンポンと撫でたのだった。



◇    ◇    ◇






◆8
 同じ頃――鐘崎の方は公私共に付き合いの深い友人の周焔白龍の元を訪ねていた。彼は香港マフィアの頭領の次男坊だが、母親が妾であり、日本人女性である。
 生まれも育ちも香港で、本来はファミリーを継ぐ立場にあるのだが、香港には本妻の息子である周風黒龍がいる。周にとっては異母兄にあたるわけだが、ファミリーの中に後継となる男子が二人となると、周囲からは様々な思惑があるのは否めない事実らしい。後継争いを望まなかった彼は、実母の祖国であるこの日本で起業し、資金源などの面で陰ながらファミリーの役に立たんとしているわけだった。
 そんな周と鐘崎は物心ついた時からの幼馴染みのようなものだ。
 鐘崎の父親も裏社会に生きる凄腕の男である。しかもその活動の場は日本のみならず、香港や台湾といったアジア各国に及ぶことから、当然周ファミリーとも懇意の間柄だった。同い年だった二人は、周が高校の時に留学生としてやってきた学園で、偶然にも同じクラスになったことをきっかけに、いつしか互いに信頼を置くようになっていった。
 学園では鐘崎の幼馴染みである一之宮紫月とも意気投合し、よく三人でツルんだものだ。周はマフィアのファミリーである素性を隠して留学していた為、名前も氷川白夜という日本名を使っていた。”氷川”というのは彼の実母の性である。
 以来、鐘崎も紫月も周のことを『氷川』と呼ぶのが通常となっていた。

 汐留にある周の社屋で経済のことや世界情勢などについて世間話をした後、彼の方から切り出した。
「ところでお前の方はどうなんだ」
「どうって、何がだ」
 まあ、わざわざ訊かずとも周の言いたいことは分かっていたが、あえて話を濁す。
「聞いたぜ。また見合いの申し出を断ったそうじゃねえか」
 やはりそのことか。
「うちの真田とお前んところの源次郎さんだったか、二人は案外懇意にしてるようだからな。噂が耳に入るのも早えってわけだ」
「源さんが喋ったのか」
「そういう話ってのはある意味デリケートと言えなくもねえからな。断るのには多少なりと気を遣うだろう。源次郎さんも役目とはいえご苦労なことだ」
 源次郎というのは鐘崎の父親がこの世界に入った頃からの腹心といえる人物だった。年齢的には周のところの真田と同じくらいで、現在は主に鐘崎家の家令的な役割を担っている。腹心としての現役は引退したような形ではあるが、海外を飛び回ることの多い鐘崎の父親に代わって、組の面倒を見てくれている有り難い存在でもあった。
「まあ、源さんには昔っからうちの台所を預けてるからな。俺の気の回らねえところまで事細かに見ててくれるのは有り難えと思ってる」
 台所とは、主には資産などの管理から組全体を把握し、円滑に動かしていく役目のことだ。むろん、衣食住の”食の方の台所”でも組員の栄養面なども含めて調理人らに指示を出すことも源次郎の仕事であった。



◆9
「源さんにも要らぬ手間掛けてすまねえと思ってはいるが……。だいたい――来る見合いの話といったら大概は裏の世界の組関係だ。俺自身には会ったことも見たこともねえって奴らもいるだろうによ」
 半ば呆れ気味で溜め息をつく鐘崎を横目にしながら、周もまたつられたように苦笑する。
「要はお前んところの組織と繋がりを持ちてえってんだろ? 親の思惑はさておき、相手の娘にとってみりゃ、お前さんを一目見ただけで気に入っちまうんじゃねえか?」
「――実際、それの方が面倒だ」
「おいおい、言い草だな」
 周が笑う。
「前に何度かそういうことがあったんだ。たまたま仕事を請け負った先の組に出向いた時だ。そこの娘が俺を気に入ったとかなんとかで、縁組みを前提に付き合わねえかってしつこく誘われてな。それこそ断るのに苦労したもんだ」
「相手の女が好みじゃなかったってわけか?」
「……俺にゃ女の好みなんてもんは元々ねえさ。そもそも結婚自体するつもりはねえしな」
「まあ――そうだろうがな」
 原因は言わずもがなだ。鐘崎が以前から一之宮紫月に惚れ込んでいるのを周も知っているからだ。
「だったら早えとこ一之宮の野郎に打ち明けちまえばいいものを。何だってそう悠長にしていやがる」
 他人様の恋路に口を出すつもりはないが、それにしても呆れるほど一途に想っているくせに――と、つい節介を焼きたくもなる。
「俺から見りゃ、お前ら二人は相思相愛だと思うがな」
 肩をすくめる勢いで呆れ気味にそう言われて、鐘崎の方も苦笑させられてしまった。
「――さぁ、どうだかな。紫月のヤツからそんなことは聞いたことがねえ」
「そりゃ、お前が云わねえからだろ? 一之宮もああ見えて案外健気なところがあるのかも知れねえぜ。お前さんから告げてくれるのを待ってるんじゃねえのか?」
「正直なところ俺には分かんねえ……。これでも俺はヤツに惚れてるって――常日頃態度に出しているつもりだがな」
 軽いスキンシップはしょっちゅうだし、時には抱き締めたりもするが、紫月の方は拒まずとも、一向に応えるつもりがあるのかないのかよく分からないのだと鐘崎は言った。
「――ったく! 焦れってえったらこの上ねえな。ンなもん、ガッと組み敷いちまえば事足りるだろうによ」
「他人事だと思って適当なこと抜かしてんじゃねえ。そういうてめえはどうなんだ。見たところ女の一人もいねえようだが――?」
「俺は単に女に構ってる時間がねえだけだ。今は社のことで手一杯だからな」
 確かに周は生まれ育ったファミリーの元を離れ、一人この日本で起業し一企業を築いている男だ。彼曰く、立ち上げる際には父親から元手を助力してもらったそうだが、それもわずか三年かそこらですべて返済したという。ここからが恩返しの本番なのだと、今は社を大きくすることで手一杯なのだろう。



◆10
「ま、確かにてめえは立派だと思うぜ。俺なんぞ、金銭面では未だ親父におんぶに抱っこだからな」
「謙遜するな。海外へ出る機会が多い親父さんの留守をしっかり守ってるじゃねえか」
「――内輪で褒め合ってりゃ世話ねえな」
 鐘崎はまたしても苦笑してみせた。
「じゃあ、そろそろ行く。もう師走だ、暮れるのも早い」
 壁一面がパノラマのガラス窓の下に、チラホラとし出した街の灯を見下ろしながら、鐘崎は腰掛けていたソファから立ち上がった。
「そう急ぐこともねえだろ。メシでも食ってきゃいいじゃねえか」
「いや――有り難えが、これからちょっと寄ろうと思ってな。例のラウンジが混み合う前に買い物を済ませにゃならん」
 それを聞いて、周はフッと口角を上げた。
「一之宮の好物のケーキか? なんだ、これからヤツの所へ寄ろうってわけか」
「――まあな。ここまで出てきたってのに、手ぶらで帰るんじゃ後で恨まれそうだからな」
 紫月の大好物であるホテルラウンジのケーキ屋は、周の社屋のすぐ近くなのだ。何だかんだと理由をつけては、結局好いた相手に会いに行こうとしている友の姿を微笑ましく思う周だった。
「また寄らしてもらう。てめえもあんまり無理すんなよ?」
 さりげなく気遣いの言葉も忘れない、そんな鐘崎の後ろ姿を見送りながら、やれやれと溜め息が漏れてしまう。
「……ふう。何かよっぽど突飛なアクシデントでも起きねえ限り、壁は破れねえってところか」
 独りごちたその傍らでは、秘書であり側近でもある李が茶器を片付けながら相槌を返した。
「鐘崎様と一之宮様のことでございますか?」
「ああ。まったく――どうしてああも意気地がねえのか。他人事ながら焦れて仕方ねえ」
 李とは物心ついた時からの付き合いで、彼の方が歳も少々上である。子供の時分からずっと側で周を見てきた彼は、経営の要のことはむろん、たわいもない愚痴や雑談にも付き合ってくれるのだ。
「鐘崎様にとっては――ただの色恋ではないのでしょう」
「それだけ真剣だってことか? そりゃまあ、あれだけ一途に想ってりゃ、そうなのかも知れねえが」
「――少々大袈裟な言い方かも知れませんが、全身全霊、命をかけた恋とでもいうのでしょうか。失くしてしまわれるのを恐れていらっしゃるのかも知れませんね。お心を打ち明けて、万が一現在の関係が壊れてしまうくらいなら、いっそこのままでいいと――そうお思いなのかも知れません」
「まあ、分からねえでもねえがな。だが、そんな弱気にならずとも、傍目から見りゃあいつらは完全に相思相愛と思えるんだがな」
「互いが良ければそれでいいというだけでは括れないのかも知れません。一之宮様にしても、周囲のことや鐘崎様の組でのお立場や面子に重きを置きすぎて、無意識の内にご自身の想いを抑えてしまわれているようにもお見受けできますが――」
「てめえの幸せよりカネの立場が大事ってか? 一之宮もああ見えて健気なところもあるからな。だからこそカネの野郎がビシッと決めてやらにゃいかんと思っちまうんだが。何をグズグズやってやがるのか……」
「良く言えば慎重であられる。悪く言えば必要以上に臆病になっていらっしゃる。老板のおっしゃる通り、意気地がない――と言えなくもない――といったところなのでしょう」
 いずれにせよ、ご本人たちが迷いながら手探りででも一歩一歩距離を縮めていくなり壁を乗り越えていくしかないのではと言って、李は微笑んだ。
「老板の焦れるお気持ちも分かりますが、まあ時期がくるまでお側で見守って差し上げればよろしいかと」
「――ったく、世話の焼ける奴らだぜ」
 苦笑する周であったが、まさかその二年の後、自らも同じように恋に慎重な自身を自覚することになろうとは、この時は想像すらできなかったのである。



◇    ◇    ◇






◆11
 すっかりと宵闇が降りきった年の瀬の夜、鐘崎は土産のケーキを手に一之宮道場の紫月の元へと顔を出した。
「ほら、お前の好きなやつだ」
 ケーキの箱を手渡すと、紫月は嬉しそうに早速それを開いて瞳を輝かせた。
「氷川ンところに行ってきたのか?」
「仕事がてらな。お前にもよろしく――とよ」
「ふぅん? わ! 俺ン大好物の生チョコケーキじゃん! クルミが入ってて超美味いんだ、これ」
 手際よくコーヒーメーカーをセットしながら、紫月はご機嫌な様子だ。
「てめえは? 何にする?」
「俺はいい。コーヒーだけもらおう」
「相変わらず甘いのは苦手かよー。こんなに美味えのに」
 人生損してるぜとばかりに笑う。無邪気な笑顔が愛しくて、鐘崎は普段は鋭い眼光を思いきりゆるめるのだった。
「数日後にはクリスマスだからな。今日はそれだけしか買ってこなかったぞ?」
「それだけって……六個もありゃ充分だって!」
 鐘崎が甘党の紫月の為に、毎年欠かさず立派なクリスマスケーキを予約してくれるのは恒例となっている。
「今年も頼んでくれてるのか? いつも悪ィじゃん」
「俺にとっても楽しみのひとつだ。気にするな。今年はバニラと苺とカカオの三段重ねってのにしたぞ?」
「マジ!? すげえ……!」
「俺も時間が取れそうなんでな。たまには一緒に外食でもとも思ったが、お前ンところは毎年親父さんと綾乃木さんと家でやるのが決まってるからな」
 だからケーキだけでも贈らせてくれという鐘崎の心遣いを紫月も心底有り難く思っていた。いつも仕事で忙しい彼は、毎年ケーキだけを若い衆に届けさせて顔を見せることはなかったのだが、今年は時間が取れるという。紫月にとってはそれもまた嬉しいことだった。実のところ、ケーキ以上に楽しみだと思えるのだが、それは胸の内にだけしまっておくことにする。
 黙っていると頬の熱を悟られそうで、紫月は視線を泳がせながら別の話題を探した。
「そ、それより……聞いたぜ。てめ、また見合いの話断ったんだってな?」
 早速にも貰ったケーキをペロリと平らげながら、わざと平静を装ってつぶやいた。
「……ったく、耳が早えな。今さっき氷川からも冷やかされてきたところだ」
 平然と言ってのける鐘崎はまるで他人事を語る口ぶりである。
「俺もついさっき綾さんから聞いたばっかしだけどよ。今年に入ってから五回も見合い話があったってけど……マジかよ?」
「さあ、どうだったか。いちいち数えちゃいねえよ」
「は、言ってくれるねぇ。大層おモテになって結構なことだ」
 呆れ気味に肩をすくめてみせた紫月を横目に、鐘崎はジロりと鋭い視線をくれた。
「結構なもんか。俺にとっちゃとんだ災難だ」
「災難だー? 相変わらず口が悪ィんだからよー」
「本当のことを言ったまでだ。見合いなんていったところで、単に組同士の繋がりを持ちてえってだけの話だからな。面倒が増えるだけでいいことなんぞこれっぽっちもありゃしねえよ」
「ンなの、会ってみなけりゃ分からねえじゃん? 見合い写真も見ねえ内から速攻断るって……そりゃあんまりだろうが。案外会えば気に入る女と出会えるかも知れねえぜ?」
 ツラツラと言われて、鐘崎はまたしても機嫌の悪そうに眉根を寄せてみせた。



◆12
「おい――、てめえはそんなに俺を妻帯者にしてえのか?」
 元々低めのバリトンに凄みが混じったような声音からは本気の不機嫌が見てとれる。さすがに節介が過ぎたかと、紫月はアタフタとさせられてしまった。
「ンな、マジんなって怒ることねえじゃん。俺りゃー、ただ……組の皆も早く姐さんを望んでるんじゃねえかって思っただけだって」
「ふん、形だけの姐なんぞ必要ねえよ」
「またまたそんな言い方しやがるー。てめえももういい歳なんだしよー、そろそろ先のことも……」
 そう言い掛けた時だった。
「他人のことよか、てめえはどうなんだ。いい歳だってんならお互い様だろうが」
 またしてもドスのきいたバリトンでそう詰め寄られて、紫月はタジタジと苦笑させられてしまった。
「俺ンことはいいんだよ。てめえン家と違って背負ってるモンもねえしさ。いずれはこの道場を継ぐだけだし」
 要は極道の裏社会で組を構えている鐘崎とは肩の荷の重さが違うと言いたいのだろう。
「――そんなに俺ン組のことを考えてくれてんならお前が嫁いで来りゃいいだろうが。それで万事解決だ」
 じっと見つめてくる瞳は真剣そのものだ。決して冗談や冷やかしで言っているというわけではなさそうであるが、それにしても堂々が過ぎる。こうもあからさまに言われると、逆にブラックジョークと受け取れなくもない。咄嗟の返しもままならず、紫月は至極一般的な返答しか思い付かなかった。
「おいおい……冗談言ってる暇があったら、ちっとは真面目に……」
 呆れたように肩をすくめんとしたが、未だ変わらぬ真剣な眼差しに見つめられて、そこから先の言葉が出てこなくなってしまう。
「――紫月、俺は組の為に女を娶る気はねえし、好きでもねえ奴と縁組みするつもりもねえ」
 さすがに極道の世界で育っただけあって、短い言葉の中にも凄みを感じさせる鋭さがある。食い入るような眼力を直視できずに、紫月は思わず視線を泳がせてしまった。
「わーったよ! 俺が悪かった。もう節介は言わねえから、ンなに睨むなっての」
「節介だなんて思っちゃいねえ。組のことを考えてくれてるお前の気持ちは有り難えと思ってるさ。ただ……」
 鐘崎はそこで一旦言葉をとめると、
「体裁の為だけの結婚なんぞするつもりはねえってことだ。俺が本気で……心の底から欲しいと思った奴なら何が何でも手に入れる。例えどんなに時間が掛かってもな」
 それだけ告げると、『そろそろ帰る』と言って鐘崎は腰を上げた。
「……ンだよ、まだ来たばっかなのに。つか……気に障ったんなら謝る……」
「気になんぞ障っちゃいねえ。お前は何も悪くねえ。――俺がガキなだけだ」
 わずか苦笑と共にクシャクシャっと頭を撫でてよこすと、『じゃあな』と言って部屋を後にした。
 広い背中がどことなく憂いを帯びているように思えるのは何故だろう。いつもは堂々と逞しい肩も、力をなくして落ちているようにも見えてしまう。
「ンだよ……相変わらずワケ分かんね……し」
 さすがに節介が過ぎたかと思いつつ、ブツブツと愚痴を呟いてみるも、急激な孤独感が襲いくるようで、次第に心が塞いでしまいそうだ。
「つか……俺もバカ……。何でいっつも……突っ掛かるようなこと言っちまうんだろ」
 遼二を目の前にすると、どうしてか言わなくてもいいことが口をついて出てしまうのだ。紫月はそんな自分が嫌だった。



◆13
 視線の先には空になったコーヒーカップと食べ終えたケーキの銀紙が何ともいえない虚しさを連れてくる。
 静かになってしまった部屋とは裏腹に、今度はザワザワと気持ちが騒ぎ出す感覚に、気重な溜め息がとまらない。
「はぁ、見合い……かぁ。あんなこと言ってっけど、いつかはあの野郎も結婚する時がくんだろうな……」
 あの逞しい腕で幼子を軽々と抱き上げながら、その隣でやさしく微笑む華奢で可愛い女房を愛しげに見つめる姿を想像してしまう。
「親父さんが僚一で、あいつが遼二だろ。ガキは暸三とかいったりしたら……笑える……」
 ”リョウ”の字が若干違うだけで、一、ニとくれば次は三だろう。独りごちてウケながらも、気持ちはひどく重くて仕方ない。
「……嫁に来いとか……例え冗談でもえげつねえっつの。俺が嫁いでいけるわきゃねえってのによ」
 自分は姐にはなれないし、”暸三”を産めるわけでもない。できることはただ側で彼が幸せな家庭を築いて組を繁栄させていく姿を眺めるくらいだ。
「……は! ンなの、めちゃくちゃ酷じゃんなぁ」
 想像しただけで無意識にこぼれそうになった涙を袖先で力一杯拭う。真冬の夜の静けさが、弱った心を更に凍てつかせるようだった。



◇    ◇    ◇



 それから数日が過ぎたクリスマスイヴの日――。
 夕方になると約束の三段ケーキを持って鐘崎が一之宮道場へとやって来た。
 あれ以来、特には連絡も取り合っていなかったが、彼は普段と何ら変わらないように見えたことが紫月にとってはホッとさせられるといったところだ。今日は父親の飛燕と綾乃木も一緒なので、それほど気を遣うことなく案外普通に会話も進むことが何よりだった。
「ほら、お待ちかねのケーキだ」
 開けてみろと軽く顎をしゃくられて、紫月は素直にリボンを解いた。
「うわ! すげえ……」
 箱からして何が入っているのかというくらい立派だったが、中身も想像以上に見事なデコレーションで思わず目を見張らされる。飛燕も綾乃木も感嘆の声を上げてしまったほどだった。
「おいおい、またえらく気張ったもんだな」
「こりゃクリスマスケーキってよりは結婚披露宴のウェディングケーキくらい立派じゃねえか!」
 確かにその通りである。一般的な核家族の家庭で食べるにしては度を超した豪華さだ。先日聞いていた通りのバニラと苺とカカオの三段重ねは、見るからに美味しそうだった。
「うわぁ……食っちまうの勿体ねえ……」
 でも食べたい――と、顔にはそう書いてある。そんな紫月の様子を黙って見ている鐘崎の視線は穏やかで、やさしさにあふれるといった感じである。むろん本人は気が付いていないのだろうが、側で見ていた綾乃木などは、思わずつられて口元がゆるんでしまいそうだった。



◆14
「食う為のもんだ。遠慮する必要はねえ」
 いつまで経っても眺めているだけの紫月の横から鐘崎がそう声を掛ける。
「あ、うん……。そんじゃ、せっかくだし戴くとするか」
 紫月は取り分け用の皿とナイフをケーキのすぐ側に持ってくると、『――っと、その前に!』と言ってスマートフォンのカメラを立ち上げた。記念に画像として残しておくつもりなのだろう。カシャカシャと数カット撮ったところで綾乃木が横から手を差し出した。
「ほら、カメラよこせ。お前らも一緒に撮ってやる」
 鐘崎と紫月にカメラを向けながら、もっとくっ付けという仕草で指示を出す。
「あー、うん。綾さん、ケーキもちゃんと入れてくれよな」
 照れ隠しの為か、モゾモゾと遠慮がちにしている紫月の肩をグイと引き寄せて、鐘崎はその大きな掌で頭ごと抱え込むように頬と頬とをぴったりとくっ付けた。
「ほら、笑え」
「え……ッ!? あ、ああ……うん。そんじゃ……チーズ」
 ピースサインを繰り出しておどける様は、まさに照れ隠しだ。
「な、綾さんと親父も入ろうよ!」
 自分たちだけでは部が悪いのか、紫月は忙しなくカメラを受け取って、今度は三人をシャッターに納めた。
「じゃ、記念撮影も済んだことだし――!」
 ナイフを手にしてケーキを切り分けようとした時だった。
「ちょっと待て」
 鐘崎は言うと同時に立ち上がると、紫月の隣へとやって来て、彼が手にしているナイフへと自らの手を重ねた。
「……ッ!? ンだよ、てめ……いきなし」
「お前一人じゃ上手く切れねえといけねえからな。手伝ってやる」
「はぁ!? ンなん……ダイジョブだって……のに」
 これではまるで結婚披露宴のケーキ入刀ではないか――。
「し……信用されてねえなぁ、俺」
 図らずも真っ赤に染まってしまった頬の熱をごまかすことに必死な紫月の手は、フルフルと震えて定まらない。
「ほら見ろ。お前だけじゃ危なっかしいじゃねえか」
 鐘崎は自慢げに笑うと、紫月の手を包み込んだままグイとケーキにナイフを入れてしまった。
「うわ……ッ! 勿体ねえ……」
「何が勿体ねえだ。切らなきゃいつまで経っても食えねえだろうが」
「そりゃま、そうだけどよぉ……」
「ほら、皿をよこせ」
「あ、うん。俺がやるって」
「落とすなよ?」
「ダイジョブだってー! ちっとは信用しろっての」
 何とも仲睦まじいことである。その様子をこっそりとカメラに納めた綾乃木は、やれやれといった表情で隣の飛燕と目配せし合ったのだった。
 二人の仲については綾乃木のみならず、父親の飛燕も薄々気が付いているのだ。男同士ということが気に掛かってどちらからとも言い出せないわけか、いつまでも想いを告げ合えずにいる二人を焦ったいと思いつつも、一方では自分たちさえ良ければと突っ走ることなく、常識や周囲の目を考えることができる人間に育ってくれたことが嬉しくもある。だが、やはり互いに好き合っているのなら周りに気を遣い過ぎずに本人たちの幸せを大切にして欲しいと望むのも本当のところなのだ。飛燕としても複雑な思いながら、いつかこの二人にとって本当に手助けが必要となった時が来たならば迷わずに背中を押してやりたい、今はそんな気持ちで温かく見守りたいと思っているのだった。




◆15
「今日はクリスマスなんだ。てめえも食うだろ?」
 皿に取り分けながら紫月が訊くと、鐘崎はわずか苦笑ながらも素直にうなずいてみせた。
「まあ、少しならな」
「そうこなくっちゃ! じゃあ、小さめのやつにしといちゃる」
「いや――お前のを一口くれりゃそれでいい」
「はぁ? ンな、せけえこと言ってねえで、ちゃんと食えば」――いいじゃん、と言う間もなく、鐘崎は紫月の手を掴み寄せると、言葉通りに彼のフォークから”一口”を自らの口へと放り込んでしまった。
「――ッ、まあ、思ったほど甘くはねえな」
 そう言いつつも、決して美味しいという表情ではない。複雑なその顔に思わず笑いを誘われて、紫月はプッと噴き出してしまった。
「はは! おっかしいー! マジで甘いモンは苦手なんだな!」
「んなに笑うこたぁねえだろが」
「だってさぁ、お前のそのツラ!」
 二人のくだらない言い合いに飛燕と綾乃木も同時に笑いを誘われて、賑やかな食卓に花が咲く。始めの内は何かとぎこちなかった鐘崎と紫月の二人にも、いつも通りの空気が戻り、たわいのない会話で盛り上がっていった。

 そうしてケーキに舌鼓を打った後はいよいよメインの料理の出番だ。
「いつもは外で買って来るんだが、今年は紫月がチキンを焼いたんだぜ?」
 綾乃木が得意げにそう説明する。鐘崎も参加できるということで、出来合いのチキンではなく材料から紫月が調理したのだという。チキンだけではなく、スープにサラダ、副菜までと種類も豊富で、盛り付けも美しい。炊きたての白米もふっくらとしていて実に美味しそうだ。
 きっと朝早くから買い出しに走り、これだけ多種多様に準備するのは想像以上にたいへんだったことだろう。鐘崎は一生懸命に動き回る紫月の姿を脳裏に描きながら、そこはかとなく愛しげに瞳を細めたのだった。そして、『遠慮なく』と言ってそれらを大事そうに口に運ぶと、
「旨いな」
 ただひと言、そう言って、続け様に箸をつけていった。短過ぎるほどの褒め言葉ではあるが、心からそう思っているというのが彼の表情から見てとれる。目の前の料理を見つめる眼差しが幸せだと物語っている。綾乃木などはそんな様子を嬉しそうにうなずきながら眺めるのだった。
「味付けも最高だ。どれも本当に旨いぜ。紫月、お前はいい……」
 いい嫁になるなと言おうとして、一瞬言葉を止め、
「いい腕してるぜ。俺も今年は時間が取れて良かった。こんな旨いメシにありつけたんだからな」
 そう言い換えた鐘崎だった。



◆16
「ンな、おだててくれちゃってよー。これ以上はナンも出ねえぜ? つか、マジで口に合った?」
「ああ。正真正銘マジだ」
「あー、そりゃ良かった。まあ、俺は自分のメシの味とかはよく分かんねっつか……まあこんなもんかなって感じだけどさ。それよかやっぱケーキが最高だよな」

 何てったってお前が選んでくれたケーキなんだからさ!

 その言葉を飲み込んで、
「それにしてもお前、甘いモン苦手なわりには毎度毎度よくこんな美味いケーキを選んでこれるよな?」
 それだけは不思議! といった表情で紫月は感心顔をしてみせた。鐘崎はフッと笑むと、
「そりゃお前、愛だろ?」
 ごく当たり前のように平然と言ってのけたのに、紫月は思わず赤面させられてしまった。
 毎度のことながら、本気なのか冗談なのか分からないような、鐘崎の堂々過ぎる発言には困りものだ。一対一ならまだしも、他に誰がいようがおかまいなしに繰り出すものだから、紫月にしてみれば心中穏やかではない。心拍数は速くなり、みるみると染まっていく頬の熱を皆に気付かれまいと必死の形相でいる。
「あー……い……って、おま……」
 口をパクパクとさせながらも上手い相槌が出てこなくて焦っている様子は可愛らしいが、同時に気の毒にも思えたわけか、綾乃木がすかさずフォローの助け舟を出した。
「そりゃま、確かにな。ケーキってのは基本甘いものだからな。甘いとくりゃ、イコール愛だろ?」
 こっそりとウィンクを飛ばしながら飛燕の方へとタスキを渡す。むろんのこと、飛燕もよく空気を読んでいて、自然と話題を繋げてくれた。
「おお、その通りだ。ケーキも料理も愛がこもってて実に美味い! 最高のクリスマスじゃねえか! 遼二坊はセンスがいいし、紫月の方は普段からウチのおさんどんもやってくれてるからな。つくづく俺は幸せ者だ」
 実に自然な流れで和やかな雰囲気へと持っていってくれる。お陰で紫月の方もこれ以上赤面させられずに済んだといったところだった。
「ンだよ、ンだよー! 皆しておだててくれちゃってよー? ンな褒められっと照れるじゃねっか! なあ、遼?」
「そうだな」
 二人共、皆に喜んでもらえたことは素直に嬉しいのだろう。紫月は言葉通り照れ臭そうにしながら、鐘崎は口元に自然と浮かんだ笑みがそう物語っている。
「おかわりはいっぱいあるからさ。皆、遠慮しねえでどんどん食ってくれよな!」
 白米をよそったシャモジでガッツポーズを繰り出す紫月を囲みながら、一之宮家のクリスマスの夜は和やかに更けていったのだった。



◇    ◇    ◇






◆17
 事件が起こったのはその数日後――年の瀬も押し迫った師走二十八日、晩のことだった。

 既に道場も締めていて、紫月らは割合長い年末年始の休日に入り、ゆったりとした時を過ごしていた。綾乃木は京都にある実家へと帰っていき、戻るのは年明けの三が日過ぎの予定である。久しぶりに親子水入らずという飛燕と紫月だが、普段から母屋と離れに住んでいるので、取り立てて変わりはない。いつもの暮れだった。
 飛燕は夕方から武道会の寄り合いがあるとのことで、出掛けることが決まっていた。
「それじゃ行ってくる。晩飯を一緒にできなくて悪いが――」
「ああ、いいよそんなん。適当にやってる」
「帰りは多分夜半過ぎだ。戸締まりを忘れるなよ」
「分かってるって! ガキじゃねんだ」
 いつまでも子供扱いが抜けない様子に、紫月は苦笑しながらも一緒に門まで出て行って父親を見送った。毎年暮れにはこの寄り合いがあるのは恒例なのだが、酒豪が多いので帰って来るのはいつも深夜なのだ。ヘタをすると丑三つ時ということもある。
「ま、たまにゃ一人も気楽ってもんだろ。つか、寒ッ!」
 部屋着のままで出てきたので、師走の夜はさすがに寒い。紫月は急ぎ戻ると、暖房の効いた部屋ですることもなく、スマートフォンを手に取った。
「あの野郎、どうしてっかな……」
 頭に浮かぶのは当然鐘崎のことである。彼は依頼がある時は盆も正月もなくといったところだが、逆に暇な時はとことん暇である。先日のクリスマスも時間ができたということだったし、案外今は暇なのかも知れない。
「電話してみっかな――」
 一度はそう思ったが、仮に仕事中だったらと思い直して、今夜はやめておくことにする。
「風呂でも入るかぁ。そんでもって、撮り貯めておいた録画でも観よ!」
 することがないくらいゆっくりできるのもこの時期ならではである。たまには思い切りダラダラするのも悪くない――そんな暢気な気分でいた紫月を焦燥感が襲ったのは、それから三時間ほどが経った頃だった。
 スペシャル版のドラマを一本観終えて、ベッドに寝転がりながらウトウトとしかかっていたその時――突如鳴り響いた地下室のベルの音を聞いて、紫月は慌てて飛び起きた。
 地下へと向かいざまにスマートフォンの時刻を見れば、午後の九時を回ったところだった。言わずもがな、このベル音が鳴るということは、鐘崎の組でまた怪我人か病人が出たということだ。しかも事前の電話連絡がないということは、おそらく今回も急を要する事態であるのは確かだろう。焦燥感をあらわに駆け付けると、そこには案の定か――見知った男二人が青ざめた表情で息を切らして待っていた。
 一人は先日負った刺し傷が治癒へと向かっている最中の橘と、もう一人は鐘崎の組で幹部を張っている清水という男だった。



◆18
「おい、どうしたッ!? 何があった!?」
 一見したところ、二人共に怪我を負っている様子はない。風邪でも引いたのかと思いきや、それどころではなく、紫月にとっては信じ難い事態であった。
「夜分にすみません! 若が来ていないかと思いまして――」
 橘よりは年長で、幹部でもある清水がそう訊いた。
「遼二が……!? いや、来てねえが。ヤツがどうかしたのか」
 紫月にとってはその名を耳にしただけで、とてつもない焦燥感が湧き上がる。
「実は――つい先程まで組の連中が若と一緒だったんですが、突然姿を消してしまわれたとの連絡がありまして――」
「……ッ、姿を消したってどういうことだ!?」
「今夜は依頼を請け負いがてら、道内組というところの組長と料亭で会食があったんです。うちの組からも若い衆数人が護衛がてら若に同行したんですが、肝心の会食時には人払いされてしまったんだそうです」
 清水の言うには、依頼主である道内組長がどうしても鐘崎と二人きりで話がしたいとのことで、付いていった者たちは料亭の外で待機を余儀なくされたとのことだった。
「それから半刻ほど経った頃です。急に店の入り口が騒がしくなったそうで……」
 様子を見に行くと、相手側の組員たちが数人でウロウロとし、怒号が飛び交い始めたのだという。
「終いには若と一緒だったはずの道内組長本人まで出てきて、ウチの若い衆相手に鐘崎を逃しやがったのかってすげえ剣幕だったそうです。何のことだかさっぱり分からねえってんで、一先ず我々のところに連絡がきたわけです」
 橘も口を揃えてそう訴えてくる。
「何か急な事態が起こったのだと思い、若に電話を入れたんですが出られないんです」
「それもそのはずです! 向こうの組員らが出て行った後で座敷を確認しに行ったところ、廊下に若の携帯が落ちてるのを見つけたそうで……」
 これですと言って橘が差し出してきたスマートフォンは、確かに鐘崎のものだった。
「つい今しがた、うちの組員の一人が持ち帰ってきたものです。スマホの中に我々へのメッセージでも残されたのかと思い、失礼かとは思ったんですが調べたところ、特にそれらしきは見つかりませんでした。たった一人でどちらへ行かれたのかも分かりませんし、もしかして怪我でも負われのかと思ってこちらへ伺ったわけですが……」
 相手側も捜していたところをみると、彼らが鐘崎を拉致したという可能性は極めて低いと考えていいだろうか。
「ですが、万が一その騒ぎが我々の目をごまかす作戦だったということも鑑みて、今ウチの組員たちを道内の組事務所に差し向けて様子を探っています」
 話を要約すると、こうだ。組長と鐘崎二人きりの会食時に何らかの緊急事態が起こり、鐘崎が姿を消してしまった。考えられる原因として、ひとつには鐘崎自身が組長の目を盗んで自ら身を隠したこと。ふたつ目は組長らによって鐘崎が拉致されてしまったこと、そのどちらかの線が強いと思うと清水は言った。
 仮にし拉致だとするならスマートフォンを落としていったことにも合点がいくが、相手側も必死になって行方を追っていた様子から察するに、その線は薄いかも知れない。では、もしも鐘崎が自分で座敷を逃げ出したというなら、何故清水らに連絡をしてよこさないのかという疑問も湧いてくる。
「もしかしたらお怪我を負われていて、スマートフォンも見当たらず、連絡の取りようがないのかも知れません」
 清水の言葉に紫月も蒼白となった。



◆19
「クソ……ッ! どうすりゃいんだ」
 せめてスマートフォンを持って移動していてくれればGPS機能で捜し当てることも可能だが、それもままならない。

(落ち着け……! 落ち着いてよく考えろ)

 紫月は自分に言い聞かせながら、どう動くべきかを頭の中で整理する――。と、その時だった。幹部・清水のもとへ道内組の事務所へ赴いていた若い衆らから新たな情報が上がってきたのだ。
 はたしてそれは耳を疑うような内容だった。
「……何だとッ!? 間違いないのか……?」
 焦燥感あらわな清水の様子に、心拍数が一気に跳ね上がる。
「紫月さん、事の次第が分かりました……。どうやら若は会食の席でいかがわしい薬を盛られたようなんです!」
「……!? いかがわしい薬だと?」
 若い衆からの報告によると、今夜の会食は鐘崎と自分の娘を縁組みさせる為に、既成事実を作ってしまわんとする道内組組長の罠だったというのだ。若い衆らが相手の組員をとっ捕まえて聞き出したところ、宴席で鐘崎に勧めた酒の中に催淫剤を混ぜて飲ませた後、座敷の次の間に待機させていた娘と肉体関係を持たせて、あわよくば子供を儲けてしまえばいいと目論んでいたらしいことが判明したそうだ。
 鐘崎にその気がなくとも、催淫剤によって惑わされた彼の目の前に女を当てがえば、意思とは関係なくその気にさせてしまうことができると思ったらしい。浅はかなことこの上ないが、何せ薬で強制的に欲情を促すわけだ。組長にしてみれば存外上手くいくと踏んだのだろう。
「畜生ッ! 汚ねえ手を使いやがって!」
 荒れる橘の傍らで、清水も唇を噛み締める。
「若はお身体の異変に気付いてご自分から料亭を飛び出したのかも知れません……。その際にスマートフォンも落としてしまわれたのでしょう」
 だとすれば、鐘崎は今なお催淫剤に苦しめられながら、たった一人で何処かを彷徨っているということになる。タクシーを拾うにしても、誰かに助けを求めるにしても、そこまで身体と頭がいうことを聞くかどうかは不安なところだ。逆に変質者扱いされて、通報されないとも限らない。彼自身もそれが分かっていて身動きがとれずにいるのかも知れない。
「おい……その料亭の場所ってのは何処なんだ?」
 ふと、思いたって紫月は訊いた。
「勝鬨です。一見、料理屋には見えない造りになっているようで、道内組では秘密の会合などによく使っていたようです」
 清水によると、鐘崎の組では馴染みがなく、相手側が贔屓にしているとのことで初めて訪れた店だそうだ。
「勝鬨か……。だったらひょっとして……」
 紫月はすぐさま携帯を取り出すと、とある人物へと連絡を入れた。相手は汐留に社を構える周焔こと氷川白夜である。



◆20
 勝鬨から汐留なら場所的にも近い。もしも鐘崎が緊急事態に陥って自ら料亭を飛び出したとするなら、周を頼って立ち寄る可能性が高いと踏んだのだ。
 相手はスリーコールもしない内に出てくれた。
「氷川か!? 俺だ! 一之宮! な、そっちに遼二が行ってねえかッ!?」
 その声音を聞いただけで非常事態を悟ったのだろう。周は余分な挨拶など一切端折って、すぐさまこう訊き返してきた。
「俺のところには来ていない。お前が今居る場所とカネの直近の足取りを教えろ」
 さすがに香港マフィアのファミリーだけあって、何も言わずとも事態を察したようだ。
「俺は今、自宅の道場だ。遼二ンところの連中が来て……ヤツが突然姿を消しちまったって聞いたところだ」
 紫月は清水から聞いた事情と鐘崎の今晩の足取りをはじめ、彼には催淫剤が盛られていることやスマートフォンを落として行ったことまで、できる限り端的に説明して聞かせた。
 通話の向こうでは、既に周が誰かに指示を与えているような会話がボソボソと聞こえてきている。おそらくは側近の李たちが側にいるのだろう。時間的にも深夜ではないし、まだ周らが休んでいなかったことは幸いといえる。
 わずかの後、電話の声が少々首を傾げさせられるようなことを訊いてきた。
「一之宮、一つ確認だ。今年のクリスマスにカネがお前に届けたケーキの種類を教えろ」
「……は?」
「いいから教えろ!」
「……三段ケーキだ」
「三段だと? ……ったく、ややこしく気張りやがって」
 周はチッと小さな舌打ちと共に、続けざまに訊いた。
「それはどんなやつだ? チョコレートかイチゴショートか? それともチーズケーキか?」
「……っと、上からバニラ、真ん中が苺、一番下はカカオの三段重ねだったけど……。つか、何で……」
 何故、今そんな話が出るのかまったくもって理解に苦しむ。だが、キレ者の周がこの緊急時にわざわざ訊いてくるのにはそれなりのわけがあるのだろう。理に合わないことは絶対にしない男だというのを、長い付き合いの中で紫月は知っているからだ。
 少しすると電話の向こうの声が逸ったようにこう告げてきた。
「よし! カネの居場所が掴めた。昭和通りの一本裏を汐留に向かって移動してる。この速度からすると歩きだろうが……足元がおぼつかねえ感じだな。やはりヤツは人目を避けて俺のところへ来るつもりなのかも知れねえ!」
「え!? ちょっ……何……?」
「俺は李と共にヤツを救出に向かう。心配するな、ここからならすぐにも落ち合える。お前はそのまま連絡を待ってろ!」
「……ちょっ、待っ……! おま……ッ、どうしてそんなことが……」
「説明は後だ。一旦切るぞ!」
 それだけ言うと、周は通話を切ってしまった。



Guys 9love

INDEX    NEXT