極道恋事情
◆21
いったいどういうことなのだろう。さっぱり分からないながらも、あの周の言うことだ。間違いなく鐘崎を発見したことは確かなのだろう。
「遼二が見つかったようだ! これから氷川が救出に向かうとのことだが、俺らも行くぞ! ヤツは銀座だ!」
紫月は清水にそう言うと、身支度を整える為、自室へと向かいながら父親の飛燕へと連絡を入れた。その間、清水にも動ける組員らを現地へと向かわせるように頼んでおく。地下へ戻ると清水が車のドアを開けて待っていた。
「紫月さん! お車へどうぞ! 我々の方は源次郎さんに言って既に現地へ飛んでいただきました!」
各人が車に乗り込もうとした時、若い衆がまた二人、大慌てで駆け付けて来たのに驚いて足をとめた。
「た、大変です! 今、道内のところの組長がうちの事務所に乗り込んで来まして……!」
「何だとッ!?」
「娘が若に……手籠めにされたとか……ワケの分からねえことを抜かしてまして!」
「手下共を大勢連れて来て事務所に居座っちまってるんです! 若を出せって大騒ぎになってます!」
息せき切らしながら二人が交互に言う。彼らの話では、道内組長が手籠めに遭った証拠だと言って、破れた服から下着が覗いているような格好の娘を伴って怒鳴り込んで来ているというのだ。
「娘の顔には張り手を食らったような青痣がありまして……嘘か本当か知らねえが、道内のヤツは若にやられたと言い張ってます……」
清水と橘はもとより、紫月は言葉を失うくらいに驚かされてしまった。だが、そんなことを言っている場合ではない。気を取り直すと紫月は気丈に言った。
「遼二ンことは氷川に任せよう……。ヤツが付いてるなら遼二は大丈夫だ。俺らはすぐ事務所に向かうぞ!」
「紫月さん……ご足労掛けてすみません……! 若に限ってそのようなことは……ないと思うのですが」
だが、催淫剤を盛られた以上、全くないとも言い切れないと思うところなのだろう。清水が心底申し訳なさそうに頭を下げる。
「構わねえ……。ンなことより行くぞ!」
紫月は清水らと共に事務所へと急いだ。
鐘崎組は紫月のところの道場からだと歩いて行ける距離だ。清水らは車で来ていたので、それこそ数分と掛からない内に到着した。
玄関前の路上には車が三台ほど停められていて、一目で筋者だと分かる男たちが辺りをチラホラとしていた。手下を連れて乗り込んで来たというのは本当のところだろう。中へ入ると、道内が応接用のソファのド真ん中に陣取って、組員たちに凄み掛かっていたところだった。
「てめえら、舐めてんじゃねえぞ! 若頭を出しやがれって言ってんだ! 隠し立てするとタメにならねえぞ!」
彼の隣には娘なのだろう、下着姿のまま破れた服で胸元を覆って、必死に肌を隠しているといった格好のまま、うつむき加減で座っている。若い衆らの報告にあった通り、彼女の唇は切れて青痣が見て取れる。紫月はその姿を見るなり眉根を寄せると、自ら進んで道内の前へと歩み出た。
◆22
「組長さん、そちらがお嬢さんで――?」
状況にそぐわないくらい落ち着いた声音でそう訊いた紫月を見るなり、道内は片眉を吊り上げながらソファから立ち上がった。
「なんだ、てめえはッ!? 若頭はどうした!」
「若頭は不在です」
「不在だとっ!? ふざけるな! こちとら娘が手籠めに遭ってんだ! どう落とし前つけてくれる!」
如何にもわざとらしく被害者面を装っている。娘の方も肩を震わせながらうつむいたままだ。はたしてそれが演技なのかそうでないのかは、一見しただけでは判断しかねる。だが、彼女の青痣を見る限り、紫月には鐘崎の仕業ではないことが確信できた。
「――失礼ですが、お嬢さんはお幾つですか?」
丁寧に紫月は訊いた。すると道内は、より一層いきり立ったようにして怒鳴り返してきた。
「よくぞ訊いてくれたな! うちの娘はまだ十九歳だ! 未成年に手を出しやがって、ただで済むと思うなよ!」
「――そうですか。ではこちらも失礼を承知でうかがいますが、未成年のお嬢さんを何故酒の席に連れて行かれたのですか? しかも今夜の会合は仕事絡みとうかがっておりますが」
道内にとっては痛いところを突かれた質問だ。
「それは……! か、鐘崎の野郎がそうしろと言ってきたからだ! 俺に娘がいることを知っていやがったのか、灼のひとつもさせろって言うから! こ、こっちも仕事を頼む以上……そんくらいの要望ならと思って、娘を連れてった。それなのにあの野郎……ッ、いきなり俺の鳩尾に一発食らわせやがって! その場で娘を強姦しやがった! 俺は身動きが取れねえまんま、ただ見ているしかできなかったが、あいつは嫌がる娘を引っ叩いて汚ねえ欲を剥き出しにしやがったんだ! 大事な商談だからって人払いまでさせたのもあいつの方だ! 最初っから娘が目当てだったに違いねえ!」
まるで立て板に水の如く、ベラベラと言いたい放題だ。鐘崎組の組員たちは怒りも心頭――若頭がそんなことをするはずがないと、今にも殴り掛かりたいのを必死で抑えているといった表情で唇を噛み締めている。
だが、紫月は冷静にその場で自らの上着を脱ぐと、対面でうつむいている娘の肩を覆ってやりながら言った。
「――組長さん、あんたそこまでして鐘崎組と縁を持ちてえか? うら若えお嬢さんにこんな格好させて、男連中の前で晒し者にして……! それが親父のすることかよ」
口調は冷静で、怒鳴るでもなければ至って丁寧だが、道内を見据えた紫月の視線の中には揺るがない怒りの焔が静かに燃え盛っているといったふうだ。
何より驚いたのは道内の娘だった。上着を掛けてくれた紫月を見上げたまま、驚愕の表情を浮かべている。まさかこんなふうに庇ってもらえるとは思ってもみなかったのだろう。道内にとってもまた然りだったようだ。
◆23
「な、何なんだ貴様は……」
「お嬢さんのこの痣はあんたがつけたんだろ? 遼二を陥れる為とはいえ、よく自分の娘にそこまでできたもんだな」
「何だとッ! よくもそんなデタラメを……! これは鐘崎がやったって言ってるだろうが!」
「いや、違う。あいつは女子供相手に手を上げたりはしねえ。仮にし――のっぴきならねえ事情で手を上げざるを得ない状況だったとしても、遼二は女を利き手で殴るようなことは絶対にしねえ奴だ。誰よりもそれは俺がよく知ってる」
「利き手……だと?」
言われている意味が分からずに、道内は険しく眉間を寄せた。
娘の青痣は両頬にある。しかも、切れている唇は左の端で、何か固めの金属のようなもので引っ掻いたような痕がハッキリと残っているのだ。おそらくは指輪か何かの痕だろう。ゴツめの指輪をした手で引っ叩いたか殴ったかされたと思われる。
遼二は左利きだ。そしてどちらの手にも指輪はしていない。
左利きの彼が咄嗟に――利き手とは逆の右手で――振り払ったとするなら、金属で引っ掻いたような痕がつくはずがないのだ。
「組長さん、あんたのその指輪――だいぶゴツいな。それで思いっきりお嬢さんを叩いたってか?」
道内はバツの悪そうに舌打ちながらも、自らの手を背広のポケットの中へと突っ込んで隠した。そんな様子を冷めた目で見やりながら、紫月は道内が連れて来た組員らに向かって言った。
「おい、あんたら――このお嬢さんを車にお連れしろ。いつまで晒し者にしてんじゃねえよ」
一瞬、場が静寂に包まれる。言われてみれば確かに組長の娘に裸同然の破廉恥な格好をさせて、双方男しかいない極道の組事務所に連れて来るなど常軌を逸している。紫月の言葉を受けて、誰もが苦虫を噛み潰したような表情で互いを見合わせる。
すると、道内の組員の一人が紫月の前へと歩み出て、深々と丁寧に頭を下げた。
「お言葉、痛み入ります。さ、お嬢さん、とにかく行きましょう」
長身で端正な顔付きをしたその男は、組長の一番側に立っていたところを見ると、道内組の中でも幹部クラスなのだろう。他の舎弟たちも彼がそう言うならと、歯向かう素振りは見られない。唯一それを静止しようとしたのは道内本人だった。
「おい、こら! 春日野! 勝手なことしてんじゃねえ!」
すかさず娘の腕を引っ張ってソファへと座り直させる。
「組長、もうやめましょう。こちらさんのおっしゃる通りだ。お嬢さんにも気の毒ってもんです」
「ンだと、ゴルァ! 出しゃばったマネすんじゃねえ!」
道内は泥を塗られたとばかりに立ち上がってテーブルを蹴り飛ばした。
◆24
「鐘崎を出せ! 隠し立てすると為にならねえぞ! うぉい、早くしねえか! 娘を手籠めにした落とし前をつけてもらわねえ内はテコでも動かねえぞ!」
テーブルの次はソファを蹴り上げる。暴れて威嚇するしか面子を保てないとばかりに荒れる中、今度は事務所内に娘の金切り声が轟いた。
「いい加減にして! もうやめてよ! 悪いのはパパじゃない!」
さすがの道内も驚いたわけか、一瞬、水を打ったように場が静まり返る。娘は紫月に掛けてもらった上着で必死に身を隠すようにしながら叫び続けた。
「この人の言う通りよ! パパはアタシを道具にしただけじゃない! そりゃ……アタシだって鐘崎さんの奥さんになれるならって……最初はパパの作戦に協力したのは認めるわ! だってそうでしょ? あんなカッコいい人と結婚できたらどんなにいいかって……女なら誰だってそう思うわよ! でも鐘崎さんみたいな素敵な人がアタシなんかを相手にしてくれるはずがないって言ったら……大丈夫だ、彼が絶対にその気になるように薬を盛るから……とにかく既成事実だけ作っちまえばいいんだって、そう言ったのはパパじゃない!」
娘の口からは先程若い衆らが聞き出してきたことと同じことが語られた。
「な、な、何を言い出すんだ、このアバズレが!」
思わぬところで企みを暴露された道内は、終ぞ娘にまで暴言を吐き捨てる。娘も負けてはいなかった。
「最初はそれでもいいと思ったわ! 例え汚い手でもあの人と付き合えるならって……。でも……分かったの……。この上着を掛けてくれた人を見てはっきり分かったのよ」
そう言う娘の瞳には、今にも溢れそうな涙が潤み始めていた。
「アタシじゃ鐘崎さんの奥さんにはなれないって分かったのよ。もしもアタシが鐘崎さんと結婚できたとして、今日のアタシたちがしたみたいな企みを仕掛けられたとしたら……きっとアタシは正気じゃいられないと思うわ。彼を責めて、相手の女のことを恨んで、大暴れしちゃうと思う。でもその人は違った。例えどんなに酷いことを聞かされても鐘崎さんを信じてる。彼がそんなことするはずがないって信じ切ってる。そればかりか、アタシにまで気を遣ってこの服を貸してくれた……。鐘崎さんを支えて側にいる資格があるのはその人みたいな人なんだって思い知らされた。アタシにはそんなふうに大きな器もないし、ハナから奥さんになる資格なんてなかったんだって……よく分かったのよ……」
堪え切れずに頬を伝った涙まじりに彼女は言った。
◆25
「この……クソガキが……何をワケの分かんねえことをベラベラと抜かしやがって! だいたい! コイツは男じゃねえか! 男が鐘崎の嫁になれるはずがねえだろうが!」
道内の方は紫月と娘を交互に見ながら声を嗄らして怒鳴り上げる。
「アタシが言ってんのはそういうことじゃないわよ! この人のような大きな器がなけりゃ、鐘崎組の姐さんは務まらないって言ってんの!」
娘はそう啖呵を切ると、紫月に向かって言った。
「ごめんなさい。服は私が自分で破りました。この顔の傷もあなたのおっしゃる通り父がつけました。鐘崎さんは何もしていません。薬を盛られたことに気がついてご自分から座敷を出て行かれたんです」
素直に経緯を認めると、
「それから……ありがとう、これお返しします。嬉しかったわ……」
上着を脱いで差し出しながら丁寧に頭を下げてみせた。
「ごめんなさい。鐘崎さんには本当に申し訳ないことをしました。あなたのご厚意も忘れません」
さすがにヤクザの組長の娘だけあってか、ある種の潔さは兼ね備えているようだ。しっかりとした口調でそう告げると、ピンと背筋を伸ばして、側で警護するように立っていた春日野という組員にこう告げた。
「すぐに鐘崎さんを捜しに行って。きっと薬に苦しみながら、まだあの店の近くに居るかも知れないわ。急いで! お願い!」
春日野という組員は、組長に『もうやめましょう』と促した男だ。察するに、この馬鹿な組長の下には勿体ないような男なのだろう。常識もありそうだし、自らの筋を持っているように思える。
「承知しました。すぐに捜しに参ります。お嬢さんは別の車でお送りします」
春日野は紫月ら鐘崎組の面々にも今一度深く頭を下げると、紫月がしたように自らの上着を脱いで彼女に着せた。そして、このお詫びは後日必ずと言って、娘と共にこの場を立ち去ろうとした。――と、その時だった。
入り口で鉢合わせるように現れたのは、周と源次郎に両脇を支えられて戻って来た鐘崎その人だった。
「若!」
「ご無事で……!」
若い衆らの安堵と感嘆の声が事務所内に轟く。
青ざめたのは道内だ。自らが連れて来た道内組の者たちでさえ、鐘崎を見た瞬間にまるで安堵したような表情を浮かべながらも腰を九十度に折って丁寧に首を垂れている。今し方までの紫月や娘のやり取りを間近に見ていて思うところがあったのだろう。そんな雰囲気を肌で感じるわけか、道内はヘナヘナと腰が抜けたようにしてその場に座り込んでしまった。
「遼……無事で良かった……。すぐに駆け付けてやれなくてすまねえ」
紫月が万感持て余したように告げれば、鐘崎は未だわずか苦しそうにしながらも、その口元に笑みを浮かべて瞳を細めた。
「いいや。よく留守を守ってくれた。感謝している」
そう言って、周と源次郎の手から離れ、紫月に寄り掛かるようにして抱き締めると、
「話は全部聞かせてもらった。道内さん、あんたにも言いてえことはたくさんあるが、今日のところは引き上げてもらう。けじめは後日改めてさせてもらうとする」
そう――、周に救出されてから、ここへ来るまでの車中で、鐘崎は事務所内で起こっているすべての経緯を源次郎と清水の電話を通して聞いていたのだった。
◆26
周から鐘崎の居場所を発見したとの報告を受けて、清水はすぐに源次郎に言って現地に飛んでもらっていたわけだが、無事に救出を終えた報告を源次郎がしてよこした時には、既に事務所に道内が乗り込んで来て暴れているまさに最中だった。二人はそのまま通話を切らずにいたので、携帯電話を通して鐘崎は全ての経緯をライブで知ることができたというわけだ。
一部始終を知られてしまった道内には言い訳すらままならない。鐘崎は静かな口調ではあったが、道内にとってはその方がより恐ろしかったに違いない。
企みは全て娘の口から暴露されてしまった上に、何より裏の世界では右に出る者はいないという鐘崎組に喧嘩を吹っかけた以上、行く末は決まっているからだ。先程までの威勢はかけらもなく、がっくりとうなだれながら組員たちに抱えられて事務所を後にしていった。
そうして道内らが引き上げて行った組事務所では、若頭の帰還に歓喜で湧いていた。紫月は周にも改めて礼を述べたのだった。
「氷川、マジで世話になった。お前がいてくれなかったらどうなってたか……。本当に助かった……!」
「構わねえ。お互い様ってやつだ。それよりカネのことは頼んだぞ? とりあえずの処置は済ませたが、こいつはまだ薬が抜け切ってねえ状態だ。後のことはお前がしっかり面倒見てやれよ?」
周はニッと企んだように瞳を瞬かせると、『後でちゃんと報告しろよ』と言って李らと共に引き上げて行った。
ちょうど駆け付けて来た紫月の父親の飛燕も、鐘崎の無事を知るとホッとしたように安堵の表情を浮かべた。
「遼二坊、良かった……。遅くなってすまない」
飛燕は紫月に今夜はここに残って鐘崎の面倒を見るように言うと、自らは荒らされた事務所の後片付けを手伝うと言って、若い衆らと共に作業に取り掛かっていった。
「では紫月さん、若をよろしく頼みます」
源次郎もそう言って鐘崎を紫月に託す。二人は組員たちに見送られながら事務所の裏側に位置する住まいの方へと向かったのだった。
◇ ◇ ◇
「具合はどうだ? 歩きで氷川ンとこに向かってたんなら寒かったろうによ。先ずは風呂か。そうだ、風呂入れてくっからちょっと待っとけ」
肩を貸しながらそんなことを言っている紫月を、鐘崎は思い切り抱き締めた。
「紫月、すまなかったな。心配かけた」
「いいって。お前が無事に戻ってくれただけで俺りゃーもう……」
突然のきつい抱擁の中で所在なさげにモゾモゾと動く。
「俺が不在の間、道内の対応をしてくれたな。源さんと清水の通話越しに全部聞いていたんだが……お前は本当によくやってくれた。あの場にいた全員がそう思ったろうぜ?」
「……ッ、そりゃまあ、お前も親父さんもいねえんだ。道内ってヤツは怒鳴り散らしてるし、とにかくは何とかするっきゃねえと思ってよ……」
視線を泳がせながら紫月は頬を染めた。そっけなく聞こえる口調は彼が照れていることの裏返しだ。鐘崎にはそんな紫月が心底愛しくて仕方なかった。
◆27
「ごめんな、遼。ホントはさ、すぐにもお前を迎えに行きたかった……。けど、氷川が向かってくれてたし……今は事務所を守るのが先だって……思っちまって」
「ああ。ああ、それでいい。親父も俺も不在なら組を見るのは姐さんしかいねえ――」
「あ……姐さん……って」
「嫁いで来いと言ったろう? 俺が姐さんにしてえと思うのは――どこの組の娘でもねえ。この世でお前ただ一人だ」
「りょ……ッ、えと……その……あれは冗談かと思って……その……」
「俺に冗談が言えるようなユーモアがあると思うか? ンなの、お前が一番よく知ってんだろう……が」
「……ッ、そりゃ……そ、だけど」
「俺が悪かった――。お前に惚れてると……ちゃんと分かるように告げれば良かった。だができなかった――。万が一にもお前を失ったらと思うと――いっつも最後のところで躊躇っちまった。どうとでも受け取れる曖昧な伝え方しかできねえで、いつもどこかに逃げ道作って、どうしてもお前を離したくなかった……! 例え振られても……あれは冗談だったと言って、変わらずにお前の側にいられればいい、そんなふうに思ってた。どうしょうもねえ意気地なしだ、俺は」
「……遼……」
「情けねえと思うぜ……。たった一人、惚れて惚れて惚れ抜いた相手に気持ちを伝えられもしねえ……。振られんのが怖くて……お前とギクシャクしちまうくれえなら……いつまでも今のままでいい、そう思ってた。そのくせいつかは手に入れる……なんて格好ばかりつけて強がって……極道なんざ名ばかりの臆病モンだ」
抱き締めている体勢のせいなのか、はたまた薬が抜け切れていないせいか、くぐもった声が必死に告げてくる。消え入りそうな声音にいつもの自信や圧はなく、一世一代決死の告白とでもいうような言葉が耳元で震えていた。
「だが、さっき氷川んところへ向かう途中で思った。もしも道内の組の奴らが追って来て、とっ捕まって……最悪はくたばっちまったとしたらどうだろうって。お前に気持ちを伝えられねえまんま後悔すんなら死んだって死に切れねえ。もしも無事に帰れたなら、今度こそ伝える。振られようが二度と口を聞いてくれなかろうが構わねえ。とにかく俺の気持ちだけははっきりと伝える! そう決めて、お前の顔だけを思い描きながら歩いたぜ」
今はとにかく前に進む。一歩でも二歩でも追手から遠ざかり、愛する者の温もりを目指して前に進むことだけを考える。鐘崎はただそれだけを思って必死に歩いたのだった。
◆28
「遼二……」
「紫月、好きだ。好きだ、好きだ。それしかねえ。上手い言葉なんざ思い浮かばねえ。俺はお前に惚れてる。どうしょうもねえくれえ惚れてる……!」
「遼……遼二……ごめん……! 俺、知ってた……。お前が好いてくれてることも、俺がお前しか好きになれねえことも。お前の気持ちも自分の気持ちも嫌ってほど分かってた! けど俺も……素直になれなかった」
「……紫……月」
「姐さんになるのは当然女じゃなきゃいけねえって……勝手に決めつけて勝手に悲しんで……俺らは一緒になれねえ運命なんだなんて自虐的な自分に酔ってただけなのかも知れねえ。それでもお前は俺を想い続けてくれるって、どこかでそんな期待して自惚れてる自分のことも嫌だった。けど、さっき……お前がいなくなっちまったって聞いて……もしもこのまま二度と会えなくなったらって切迫詰まってやっと気がついたんだ。このまま意地を張り続けてもひとつもいいことねえって。イジけて卑屈になって、お前を失うならそれは全部俺ン意気地のなさだって」
ちょうどその時に道内が組に乗り込んで来たとの報告を受け、姐として亭主が帰るまでしっかり組を守らなければという覚悟ができたのだと紫月は言った。
「俺が組を守り通せばお前はぜってえ無事に帰ってくる。もちろん氷川が付いてるから大丈夫だってのも……思ってたから……覚悟なんてカッコいいモンじゃ全然ねえけど。けど……例え側にいなくても、俺とお前は魂で繋がってるんだって思ったら肝が据わった……ってのかな……とにかく俺は……」
「紫月……!」
その先の言葉を取り上げるように激しい口付けと抱擁が嵐の如く奪い取っていった。
突然のそれは長く永く、息もできないほどに強引で荒々しい。荒れ狂うほどに、まさに魂と魂が一つになりたいといっているように、激しくも熱い口付けだった。
「……ッカ、いきなし濃いチュウ……とかよ……」
真っ赤に染まった頬を隠すように胸の中へと顔を埋める仕草が愛しくて堪らない。
「な、遼……。俺ら、似た者同士な?」
互いに臆病で、情けなくて、だが誰よりも何よりも強く互いを好きで好きで仕方ない。
「ああ、ああ、その通りだ」
「ほん……っと、しょーもねえな」
「ああ、しょうもねえ」
「バカだよな」
「ああ、大馬鹿野郎だ」
ヒシと抱き合い、互いの涙で互いの頬を濡らし合いながら笑った。
「紫月、俺の生涯の伴侶に、そして組の姐さんになってくれるか?」
「ん、うん……!」
「情けねえ亭主にゃ姐さんが必要だ」
「……ッカ! んじゃ、しっかりケツ叩いて立派な亭主になってもらわなきゃ……だな?」
「ああ、頼むぜ」
大好きだぜ。
愛してるぜ。
一人じゃ何も踏み出せねえ意気地なしだけど、お前が側にいてくれさえすれば、それだけで力が湧いてくる。どんな困難にも立ち向かっていける。どんな幸せも分かち合える。
この世で伴侶と呼べるのはお前ただ一人だ。
二人は固く抱き合い、しとど涙を流し合うと、急に照れたようにして肩を突き合いながら笑ったのだった。
◆29
「な、紫月……」
「ん……?」
「信じて……くれてたんだな。俺が道内の娘に手を出したんじゃねえかって、微塵も疑わなかったのか?」
「バ……ッ、ンなこと思うかよ……! てめえに限って……ンな」
「だが俺は薬を盛られてたんだぜ? 万が一とは考えなかったのかよ」
「……ッ考えるわきゃねって!」
真剣に想いを告げ合った直後の照れ隠しの為か、半分は冗談なのだろうが、鐘崎本人から不安を煽るような言葉を言われて、紫月はまたしても自分からしがみつくようにその胸の中へと顔を埋めた。
「……ったく! 今さっき冗談言えるユーモアなんかねえって、てめえで言っといてよー」
舌の根も乾かない内にそれかよと、恨めしそうに見上げながら、紫月は厚い胸板をコツンと突いた。
「ンな冗談言ってっと! マジでケツ叩くぞ!」
「ああ。ああ、そうだな。思いっきりカツ入れてもらわねえとな?」
「つか、薬! そう! ンな悠長なこと抜かしてっ場合かよ? 薬……まだ切れてねえって氷川も言ってたが……」
大丈夫なのか? と、しがみついたまま顔を見上げる。そんな仕草も愛しくて、だが確かに未だ違和感の残る身体もしんどくて、鐘崎は苦笑させられてしまった。
「……一応、氷川の車の中で一発だけ抜いたは抜いたんだが」
「抜いた……って、おま……」
「心配するな。自分で処理したさ」
「処理って……」
「氷川が背広の上着を御簾代わりにしてくれたんでな。こいつに関しちゃ解毒薬はねえっていうし、とにかく抜かねえってーと辛くて仕方ねえ。立っても座ってもいらんねえしでよ。この際、恥だの外聞だの言ってられる状況じゃねえと思ってな」
鐘崎はまさに苦笑状態ながら、そう暴露する。
「ホントはな、お前が側に居てくれたら手伝ってもらうのによって思いながら、氷川や源さんの前で醜態晒しちまったが」
おどけ気味に鐘崎はそう言って笑った。
こんなふうに冗談まじりに話しているが、実際は相当辛かったのだろう。催淫剤というものの効果はよく分からないが、雑誌や何かで見聞きする限り、かなり強烈だと思える。鐘崎とて、友や側近の目の前で痴態を晒したくなどなかったろうが、それ以上に身体がキツかったということだろう。如何に心配だとはいえ、いつまでもそんなことを言わせておくのは無体というものだ。紫月はわざと別の話を探すように話題を変えた。
「そういやさ、氷川は何でお前の居場所が分かったんだ? スマホもねえし、GPSは使えなかったってのによ? それに……あの野郎ったら、すっげヘンなこと訊いてきたし!」
「……? ヘンなことだ?」
「ああ。今年のクリスマスケーキの種類がどうとか抜かしてやがったが」
あれは一体何だったのだろう。すっかり訊くのを忘れていたことに気がついて、紫月は不思議そうに首を傾げた。
◆30
「ああ、それはな……」
鐘崎は言い掛けて、
「その前に風呂だ……。悪いが説明は後でゆっくりすっから……ちょっと待っててくれ」
笑顔を見せながらもひどく苦しそうだ。腰を折り、前屈みになって、額には脂汗まで浮かべている。やはりまだ催淫剤の効果が抜け切っていないのだろう。一人風呂場で処理をしようとしている彼が気の毒でもあり、と同時に水臭くも愛しくて仕方ない。紫月は無意識の内に、おぼつかない足元で風呂へと向かう彼の腕を掴んでいた。
「待て、遼二……! 風呂なんざ必要ねえ」
「――?」
とっさに引き止めて広い背中に思い切りしがみつくと、
「俺が……口でしてやっから……!」
そう言って頬を染めた。
――!?
紫月は鐘崎の腕を引っ張っると、まっすぐベッドへと向かい、目の前で屈んでスラックスのジッパーを引き摺り下ろした。
「……ッ、おい紫月……!」
「楽にしてろ」
「――紫月ッ!」
「手伝って欲しかったって言ったろ? 俺が側に居れば手伝ってもらったのにって……さっきそう言ったろうが」
「……そりゃ、お前……! けど……ンなこと!」
「水臭えこと言ってんな。それに――これは俺ン役目だ。亭主の一大事に姐がボケッとしてられっかよ」
言葉じりは威勢がいいが、その頬を真っ赤にしながら視線を泳がせている。鐘崎は当然の如く――本能を抑えることなどできはしなかった。
「……ったく! お前を抱く時にゃ……素面でいたかったが……」
だが、正直なところもう限界だ。跪いて股間に顔を埋めてくる愛しい男を拒めるわけがない。白く形のいい指が下着を下ろせば、待ちかねたというように怒張した雄が熟れた頬を叩く勢いでぶつかった。
「……ッ」
紫月にとってはその勢いも少しの痛みも言い様のないくらい愛しくて堪らなかった。幼い頃から一緒に風呂に入ったこともあったし、それを目にするのは初めてというわけではないのだが、今はまるで別物に思える。
そこはもう溢れた先走りでヌラヌラと光り、これ以上ないくらいに張り詰めて天を仰いでいた。木綿のボクサーショーツの中からは独特の雄のニオイが鼻先をくすぐって、背筋にはゾクゾクとした欲情が這い上る。
自らも身体の中心を熱くしながら、紫月はガッつくほどの勢いで鈴口を咥え込んだ。舌先を使って突き、吸い、フクロを揉みしだきながら根元から竿の先端までを舐め上げる。
これまで幾度こんな想像を巡らせたことだろう。何年もの長い間、彼に抱かれることを夢見ながら自慰に明け暮れてきた。
寂しい時もあった。
虚しい時もあった。
どんなに望んでも決して叶うことはないのだと、涙にくれながら独り達した夜は数え切れない。
「遼二……、は……ぁ、遼……ッ!」
これは自慰じゃねんだよな?
俺だけの妄想じゃねんだよな?
「遼……遼……ッ」
マジで夢みたいだ――!
◆31
雄に頬を擦り付け、指で裏筋をなぞり、そうする度にビクビクと太腿が筋張る様が視界をよぎる。彼が快楽に力むと、固いシックスバックスの腹が更にギュッと引き締まるのをダイレクトに感じる。
「……ク……ッ、は……ッ……」
頭上からは吐息にまじって堪えきれないというような低音の嬌声が降ってくる。紫月の大好きな独特のバリトンだ。欲情したその声が耳元をくすぐるだけで、すぐにでも達してしまいそうだった。
口淫しながら自らもジッパーを下ろして逸った雄を握りしめ、擦り上げる。鐘崎はそんな紫月の両脇から手を突っ込んで掬い上げるように抱き締めると、背中からベッドへとダイブして、腹の上に彼を抱え上げた。
逸ったようにズボンを引き摺り下ろし、尻を鷲掴みにし、雄と雄とをグリグリと擦り付け合い腰を上下する。と同時に激しいキスを交わしながらシーツの海の中でぐちゃぐちゃになって求め合った。
「ああ……ッ、はっ……遼……! 遼……ッ」
「すまねえ……な、紫月! 薬のせいなのか俺自身がこうしてえのか……とにかくおめえをめちゃくちゃにしたくて堪んねえ……!」
もっともっと叫ぶくらい、泣き喚くくらいめちゃくちゃにしちまいてえ!
淫らな声ももっと聞きたい!
狂った獣のように犯し尽くしたい!
「挿れ……っぞ……!」
「ん……ッ、遼……」
「そうだ。もっと聞かせろ……お前のその声……」
愛するよりも強引に奪い取って犯す勢いで体勢をひっくり返し、両脚を持ち上げると、鐘崎は間髪入れずに愛しい男の中へと杭を打ち込んだ。前戯をしてやる余裕などとうにない。あるのはただ挿れたい、繋がりたいという本能のみだ。
「ッう……ああッ……あっ! りょ……ッ」
あまりの衝撃に紫月の爪が広い背中を引っ掻き、次第にミミズ腫れの如く痕が浮かび上がっていった。
「やッ……痛ッ! 待っ……ぁ……ッ、遼……あああッ!」
絶叫と共に幾度も幾度も引っ掻かれては血が滲み出るくらいに腫れ上がっていく。そこに汗が染みる度、ビリビリと衝撃が走る。鐘崎はその痛みさえも愛しくて堪らずに、シーツの上で乱れる髪を鷲掴んで、激しい律動と共に食いちぎらんばかりに唇を奪った。
「紫月……! 俺の側にいろ……! どこへも行くな! 二度とおめえを離さねえ……ッ。愛……している!」
そうだ、狂おしいほどにお前が欲しい。
気が違うくらい愛している!
激しい律動にベッドはガタガタと音を立てて軋み、紫月の頬は無意識に溢れ出た生理的な涙でぐっしょりと濡れていく。噴き出した玉のような汗が鐘崎の肩に彫り込まれた紅椿へと降り注ぐ。
長い永い間、胸に秘めてきた甘苦しい想いが堰を切ったようにあふれ出す。
地獄絵図といえるほどに二人は激しく求め合い、気を失う直前まで溺れ合い、互いの肌の摩擦によって、互いに擦り傷を作らんばかりに欲し合う。
望むがまま、ひとつになって二度と互いを離すまいと絡み合ったのだった。
◇ ◇ ◇
◆32
その翌々日、晦日のことだ。すっかりと体調を取り戻した鐘崎は、紫月と共に汐留にある氷川こと周焔の元を訪れていた。
「今回は本当に世話になった。お陰でまだこうして生きてられる」
鐘崎が丁寧に礼を述べる傍らで、紫月も一緒になって頭を下げた。
「氷川、俺からも礼を言う。ホントにありがとな!」
「カネの体調も戻ったようだな。お前らの元気な姿を拝めて俺もホッとしたぜ」
周の社も既に年末年始の連休に入っているので、今日はリラックスした私服で出迎えてくれる。
「けどさ、さすが氷川だよ。俺が電話した時、ろくに話す前からすぐに事態を察してくれたもんな」
紫月が感心顔で言う。と同時に、あの時、何故すぐに鐘崎の居場所を突き止めることができたのかというのを聞き忘れていたことに気付いて、逸ったように紫月は訊いた。
「そういや忘れてた! 遼二はスマホを落として行ったわけだし、GPSもなかったってのにどうやって位置が分かったんだ?」
本当は鐘崎に訊くはずだったのだが、永年の想いがやっと通じ合った直後で、すっかり頭から抜け落ちていたのだ。周と鐘崎は同時に『ああ、それはな』と言って笑い、その理由の説明は鐘崎の口から語られた。
「俺と氷川はああいった緊急時のことを踏まえて、互いの位置が分かるようにしてあるんだ」
鐘崎はその場でグイと襟元をはだけると、肩先に入っている刺青を晒してみせた。
「俺は紅椿の花弁の部分に、氷川は龍の目玉の位置にGPS機能の付いた宝石をくっ付けてあってな。どちらかが非常事態に陥った際は互いの位置を知ることができるようにしてあるんだ」
鐘崎が見せた刺青の肩には、確かに紅椿の花の雄蕊雌蕊に当たる箇所に小さなピアスのようなアクセサリーが括り付けてあった。
「本当は体内に埋め込んじまうことも考えたんだが、それは追々――。とりあえずはピアスの形でくっ付けとけこうって話になってな」
紫月はめっぽう驚かされてしまった。
確かに二人は裏の世界に生きる者同士だ。一昨日のようなことから、もっと緊急を要する――例えば命の危険にかかわるような――事態に巻き込まれることがあった時のことを想定しているのだろう。その時は互いに助け合えるようにと、常日頃から二人で用意していたらしい。鐘崎が開けた襟元を正す傍らで、今度は周が説明を続けた。
「これにアクセスするにはパスワードが必要でな。セキュリティ面から年に一度はチェンジするわけだが、新しいパスに変えるのは毎年大晦日って決めてあるんだ」
「パスワード?」
「ああ。だが、コイツときたら、まだ大晦日前だってのにパスを更新してやがってよ。去年のを打ち込んでもエラーするしで、正直焦らされたぜ」
周が呆れ口調で苦笑する。
◆33
「それについては俺が悪かった。どうせもうあと何日かで大晦日だしと思って新しいのに変えちまったんだが。まさかこんな事が起こるなんて思いもしなかったからな」
裏の世界で生きる鐘崎にしては随分と手落ちである。
「おめえ、緊張感が足りねえぞ。いくら平和だからって、俺らの身の上にゃ、いつどんなことが起こるか分からんのだからな」
周は呆れたように肩をすくめる。
「ああ、まったくその通りだ。確かに気がゆるんでたな」
鐘崎は素直に非を認めながらも、ボソりとその理由を口走った。
「ちょっと嬉しいことがあったんで、早々と変えちまったんだ」
「嬉しいことだ?」
それはいったい何だというように周が片眉を吊り上げる。
「ケーキ入刀に成功したもんでな」
「ケーキ入刀だ? 何だ、そりゃ」
「こないだのクリスマスは俺も時間が取れたんで、コイツん家で一緒に過ごさせてもらったんだが……」
用意していったケーキを切り分ける際に、紫月と共にナイフを入れることができて、浮かれてしまったのだという。
「実はあれは俺の作戦でもあったわけだが……。思っていたより上手くことが運んだんで、つい……な?」
ケーキを三段重ねにしたのも結婚披露宴のそれに似せたかったからだと暴露した。二人で入刀の真似事をしたかったからというのが鐘崎の狙いだったようだ。周はそれを聞いて、大袈裟なくらいに溜め息をついてみせた。
「阿保か! ガキじゃあるめえし、ンなことに労力使う暇があったら、とっとと打ち明けちまえばいいものを!」
「まあ、そう言ってくれるな。これでも必死だったんだ」
鐘崎にしては珍しく照れたように頭を掻きながら苦笑顔だ。二人のやり取りを窺っていた紫月でさえも、思わず呆れてしまうくらいだったが、それと同時に、そんな子供のような発想を思い付くほど真剣に想われていたことが嬉しくてたまらない。みるみると染まり出した頬の色を隠さんとアタフタとさせられてしまった。
「つ、つかさ……それとお前らのパスワードと何の関係があんだよー……」
必死でごまかさんと話題を元に戻す。その答えを聞いたと同時に、より一層赤面させられることになろうとは思いもしなかった。
「ああ、それはな。俺らのパスワードってのは、毎年カネが考えるわけだが……。それはお前に贈るクリスマスケーキの種類と決まっているんだ」
「はぁ?」
「去年はイチゴショート、一昨年はチョコレートだったっけなぁ? それをな、化学式になおすわけだよ」
「化……学式……?」
「まあ、そのままでもいいっちゃいいんだが、あんまり単純でもな?」
つまり、ケーキの種類さえ分かれば、あとは主成分を化学式に変換すればいいらしい。周は笑うが、またえらくマニアックなことを考えついたものだ。
「とにかく、ぜってえ忘れねえパスにしてえからってよ。万が一忘れても、一之宮に訊けばいいとか何とか抜かしやがってよ?」
なるほど、それであの時、クリスマスケーキの種類を訊いてきたのだということがやっと分かった紫月であった。鐘崎がパスを更新した可能性を考えて、とりあえず片っ端から打ち込んでみたのだろう。その一つが見事にヒットしたというわけだ。
「てめえが三段ケーキなんてややこしいのにすっから! 李も頭をひねくらされてたぜ」
「あー、そいつぁすまねえ。李さんや劉さんにも後で詫びねえとな」
裏社会の男二人はそう言って笑い合う。紫月はそんな彼らに囲まれながら、こうして軽口を叩き合って和やかに過ごせていることが、しみじみ幸せだと思うのだった。
互いに命を預け合う、そんな大事なパスワードにまで自分に繋がるものを選んでいたという鐘崎に、言いようのない熱い気持ちが込み上げる。それほどまでに深く強い想いを寄せてもらえていたことを思えば、図らずも目頭が熱くなってしまいそうだった。
◆34
「つかさ、遼二にゃ覚えやすいパスでも、氷川にとっちゃすぐに忘れちまいそうな決め方じゃね?」
またしても頬の熱をごまかさんと紫月は訊いた。
「俺の場合は李や劉にも伝えてあるからな。その点は心配ねえんだが。――そうだな、もしもこの先、俺に恋人ができた日にゃ、今度は俺が決めさせてもらうってのもいいかもな?」
ニヤっと笑いながら周が得意顔をしてみせた。
「ああ、早くそんな日が来ることを祈っとくぜ」
鐘崎もクスッと笑ってはうなずいてみせる。と同時に、
「俺も今後は紫月と……それから源さんにもパスを共有しとくことにしよう」
そう言って自らの手落ちを反省してみせた。
「ま、その方が安心だな。つか、氷川の恋人かぁ! そしたらダブルデートとかできそうじゃん!」
紫月もうなずきながら期待大といったように囃し立てる。
「ダブルデートって……お前なぁ。ってことは、お前らの方は上手く収まるところに落ち着いた……ってことでいいわけだな?」
ここを訪ねて来た時からの二人の様子を見ていて、おそらくは永年の想いを打ち明け合えたのだろうことが周にも薄々と感じられていたようだ。
「ああ、お陰様でな。年が明けたら親父たちにも報告して、紫月と祝言を交わそうと思ってる」
「おいおい……、またえらく急なことだな!」
さすがの周も驚きを隠せない。一昨日の事件がきっかけとなって互いに想いを打ち明けられたのだろうとは思ったが、まさか祝言などという言葉が出てくるとは思いもしなかったのだ。
「まあ、籍をどうするかとか具体的なことは何も決めちゃいねえんだが、俺と紫月の仲を組の連中や親しい周囲には伝えようと思ってる」
鐘崎が照れつつも穏やかな表情で言う。
確かに急な話と言えなくもないが、鐘崎にとってはそれこそ永い間胸に思い描いてきた未来だったに違いない。昨日今日の思い付きではないのだろう。周も友の幸せそうな顔が見られて、素直に嬉しいと思うのだった。
「そうか。じゃあ俺もお前らに負けねえようにそろそろ真剣に連れ合い探しでもするかな」
「探すって、お前マジでそういう相手いねえのかよ?」
周のことだ。数多の女性が放っておかないだろう魅力あふれる彼なら、黙っていてもいくらでも声が掛かりそうなのに、そういえば未だに色めいた話は聞いたことがないのを不思議そうにしながら紫月が首を傾げた。
「あいにくそういった相手はいねえな。お前らみてえに幼馴染ってのも日本にはいねえし、出会いが有りそうでねえってのも実のところだしな」
「はぁ、案外そんなもんなのか……」
せっかくダブルデートを楽しみにしてるのにと言いたそうな表情で紫月が残念顔だ。
「まあ、縁ってのはどこに転がってるか分からねえものだ。ある日突然降って湧いたように出会うってこともあるだろうしな」
焦ることはないと言う鐘崎の気遣いの言葉だったが、これから二年の後、彼の言った通り周にも運命に導かれる出会いが待っていようとは、この時は誰も想像し得なかったのだった。
◇ ◇ ◇
◆35
年が明けて初春を迎えると、鐘崎は香港での仕事を終えて帰国した父親に紫月とのことを打ち明けた。
父の僚一も息子たちが想い合っていることは前々から知っていたようで、紫月の父親の飛燕同様に時がくるのを温かく見守っていたようだ。
組の連中や親しい周囲に仲を公表したいという鐘崎の思いを受けて、近くささやかながら宴席を設けることも決まっていった。二人は男同士故、世間一般的にいうところの結婚という形ではないし、籍などについては当座はそのままということにして、とりあえずは鐘崎と紫月が伴侶として共に人生を歩んでいきたいという思いを皆に伝えるということで話は決まった。永い間秘めてきた想いが実を結ぶ、まさに春の訪れであった。
一方、鐘崎に悪事を仕掛けた道内組の行く末についても、新たな報告が上がってきていた。
道内は元々は広域指定暴力団の三次団体をおさめていたのだが、それらに属さない鐘崎組に手を出したということで、上から厳しい沙汰を言い渡される羽目となった。表向きは同系列の組の傘下に置かれることとなり、つまりは三次から四次団体に降格という形ではあるが、実際のところは解散も同然ということのようだ。
そうした沙汰を受けて、組員らも道内の下を離れ、他所へと鞍替えする者も多数出たらしい。
道内組長本人は完全に失脚した形となり、構成員らも散り散りになって、もはや組としての体をなさない状況に追い込まれていったとのことだった。
そんな中、道内組で幹部を張っていた春日野という男のみが先刻の無礼を詫びに鐘崎組へとやってきた。彼はあの時、紫月の言葉を受けて真っ先に非を認めようとした男である。たった一人で供もつけずに詫びを入れに出向いてきたのだ。
鐘崎親子の目の前で、春日野は土下座をして謝罪の言葉を口にした。
「この度は鐘崎様にはたいへん申し訳ないことを致しました。この通り、お詫び申し上げます」
既に組は無いに等しい状態であるにもかかわらず、こうして頭を下げに来たことに、鐘崎親子は心動かされるものを感じたようだ。
「あんたの気持ちは分かった。いいから頭を上げてくれ」
長である僚一に言われて、春日野はようやくと顔を上げた。
「それで、この先のことは決まっておられるのか?」
まさか道内の下に残るつもりでもあるまいにと思うわけだが、律儀にもたった一人でけじめをつけようとしている姿勢には感服させられるところだ。僚一は、この男さえよければ自らの組に預かり受けたいと思ったほどだった。
「実は私の曽祖父も祖父も任侠の道に生きる者でして。親父は全く別の生き方を選びましたので、祖父が亡くなればその意思を継ぐ者はおりません。いずれは私がと思い、道内組長のところで勉強させていただいておったのですが」
春日野の実家は規模は小さいながらも代々極道として組を構えてきたのだそうだ。むろんのこと、裏社会の事情に詳しい僚一だ、春日野一家の存在は既に知っていた。
◆36
「ご実家のことは承知している。御祖父様は春日野朧月殿ですな。私も若かりし頃に一度お目に掛かったことがあるが、古き佳き任侠の心をお持ちの立派な御方だった」
「――恐縮です」
「確か……ご尊父はお医者様でしたな?」
「はい。本来であれば父が継ぐべきところでございましたが、母と共に医者の道を目指したいという父の思いを尊重してもらったと聞いております」
「なるほど、それでキミが後継を。では今後はご実家に戻られるおつもりかな?」
「いえ、まあいずれはと思っておるのですが――。私が継ぐにはまだ経験が足りないと心得ております。道内の組長がこんなことになってしまった以上、他所様へ移って勉強させていただこうと思っております」
その心意気を聞いただけでも堅実なことが窺われる。すぐにも一家の長となれるだろうに、まだ勉強を積もうとしている姿勢も感服させられるところだ。見たところ年齢的にも鐘崎や紫月らと同年代といったところか。
僚一は、ますますこの春日野という男が気に入ってしまった。
「僭越ながら窺うが――もしもよろしければうちに来てはくれまいか? もちろんキミにもご都合があるだろうから無理にとは言わんが」
それを聞いて春日野は驚いたように鐘崎親子を見上げた。
「私が……こちら様にですか?」
「ああ。ご一考いただけると幸甚だ」
確かに春日野は道内組にいたくらいだから、その上部団体との縁を考えれば彼の一存ですぐに系列を外れることはできないかも知れない。僚一もそこは重々承知の上なので、彼の意向を尊重するべくそう訊いたのだ。
だが春日野はこの場ですぐに快諾の旨を申し出た。
「勿体ないお話ながら、たいへん有り難く存じます。私などでよろしければ、是非とも鐘崎様の下で勉強させていただきたく存じます」
また一度、土下座の勢いで深々と首を垂れてそう言った。
「そうか。嬉しい返事を聞けて何よりだ。ではキミの立場を悪くしないよう、上の方には私からもキミをうちに預かりたい旨伝えさせてもらいたいと思うが、それで構わないか?」
「――何から何までご厚情痛み入ります。こんなに光栄なことはございません!」
春日野は言うと、どんなことでも一生懸命務めさせていただきますと感激の様子で声を震わせた。
こうして春日野が加わることとなり、鐘崎組もまた気持ちも新たにより一層強靭な組として新年を歩み出すこととなったのだった。
その二週間後、春日野が属していた組の上層部にも話を通した僚一は、彼のお披露目として宴席を設けることにした。その場で鐘崎と紫月の仲についても内々ではあるが組員たちに公表され、二人の正式な披露宴に向けての準備が進められることになっていった。
「時期は春節が過ぎたあたりでどうだ? 香港の周ファミリーにもその頃なら来てもらいやすいだろう」
汐留の周はもちろんのこと、僚一とも付き合いの深い周の親や兄たちにも声を掛けるつもりなのだ。
鐘崎と紫月の二人は恐縮しつつも、色々と考えてくれる僚一に心から感謝を述べたのだった。
◇ ◇ ◇
◆37
そして春節が過ぎ、頃は春の訪れを待つ二月の下旬――。
鐘崎と紫月の披露目の宴は都内にある老舗のホテルで執り行われた。そこは周の社屋の近くであり、紫月が好きなケーキを置いている例のラウンジが入っているホテルでもあった。
入籍や結婚という形ではない為、披露目の席には両家の親族をはじめ、鐘崎組の組員たちというごく近しい者で行われることとなったわけだが、それでも香港からは周ファミリー、そして台湾やインドネシアなどで僚一と付き合いの深いマフィアたちも招かれ、錚々たる顔ぶれが揃って盛大な披露宴と相成った。
周ファミリーは荘厳な装飾の施された中華服で訪れてくれて、長の周隼はむろんのことながら、姐――つまりは周の継母――の美しさには周囲から溜め息が上がり、注目の的となっていた。
周の実母の氷川あゆみも祝いの席に相応しい和服姿で駆け付けてくれた。
ファミリーの意向もあって、あゆみも彼らと同卓に着き、継母と二人親友のように肩を並べて祝ってくれることとなった。周の腹違いの兄である風黒龍は婚約者の高美紅を伴って参列し、こちらもまた美男美女のカップルで人目を惹いていた。
「うはぁ……氷川の母ちゃんたちも兄貴の嫁さんも皆めちゃめちゃ美人で、これじゃ主役が霞むってもんだな!」
控え室では紫月がおどけながらもファミリーに見とれている。
「おい、紫月……。まさか今になってやっぱり女がいいなんて言ってくれるなよ?」
鐘崎の方は半ば本気で心配そうな顔つきでいるのに、周囲からはドッと笑いが湧き起こる。
そんな二人も立派な黒の紋付袴に身を包み、双方共に普段以上に男前を上げているといったところだ。
「心配すんなって! 俺にとっちゃ世界中のどんなイイ女よかお前が一番なんだからさ! つか、お前こそ目移りしてんじゃねえぞー!」
真っ向素直に言ってのけたその一言で、鐘崎の機嫌も上々のようだ。
「そうか。良かった。安心したぜ?」
チュっと髪に軽い口付けを落とすと、周の母親たちは黄色い声を上げてキャアキャアとはしゃいで喜び合っていた。女二人、まさに親友といえる仲の良さだ。そんな彼女らを横目にしながら、周もまた、別の意味での幸せをも感じるのだった。
主賓の挨拶は周の父である隼が重々しくも厳かな祝辞の言葉を述べてくれた。しかも、最初から最後まで流暢といえるくらいの日本語で祝ってくれたことには大層驚かされつつも、鐘崎も紫月も、そして両家の者たちは感動の思いで香港の大物からの祝辞を賜ったのだった。
友人代表はもちろんのこと、周である。彼もまた厳かな中にも学生時代からの二人の様子などをユーモアも交えて会場の笑いを誘うなど、記憶に残る素晴らしい祝いの言葉を贈ってくれたのだった。
◆38
そして縁もたけなわ、フルコースの料理がデザートへと移る頃――お色直しのタキシード姿に着替えた鐘崎と紫月の二人によるケーキ入刀の儀式が行われることとなった。
本来であれば、披露宴の始まりを告げる乾杯の発声の前に成されるべきものであるが、その場で二人が切り分けたケーキをゲストたちに振る舞いたいというたっての希望で、順序を入れ替えたわけだ。
担当のキャプテンから入刀用のナイフを受け取った鐘崎は、紫月の手を添えて二人でそれを持った瞬間に、思わず熱くなってしまった目頭を押さえた。
まだ想いを告げ合う前の昨年暮れのクリスマスには、例え疑似でもいいと入刀の真似事を試みた鐘崎だったが、夢にまで見た本番を迎えることができた今この時に、万感あふれる思いだったのだろう。まさに男泣きといえるその姿に、会場内も涙を誘われる。普段ならばどんな険しい事態が起ころうとも、無表情を崩さず決して涙など見せることのなかった鐘崎が男泣きするそのさまからは、彼がどれほどこの日を待ち望んでいたかがよくよく窺われる場面といえた。
そんな鐘崎を隣で誇らしげに見守る紫月にも、組の若頭を支える姐としての度量が充分にうかがえる。当人たちはむろんのこと、参列者にとっても心温まる素晴らしい宴であった。
無事に披露宴が済んだ後のロビーでは、タキシード姿の鐘崎と紫月が会場の出口に設られた金屏風の前でゲストを見送っていた。
「おめでとう! いい式だった」
幸せになと言って鐘崎の肩を叩いたのは周の兄の風黒龍だ。彼の隣には婚約者の高美紅が美しい面立ちにやわらかな笑みを讃えて微笑んでいる。
「次は俺たちの披露宴だからな。遼二も紫月も是非出席してくれよ!」
そう、周の兄の結婚式は三ヶ月後の五月に行われることが決まっているのである。
「ありがとうございます! 周焔と共に俺たちも楽しみに伺わせていただきます!」
香港マフィア頭領の次代継承者である周風黒龍の結婚式だ。それこそ盛大に行われるであろう。嬉しい想像を膨らませながら固い握手を交わし合う風と鐘崎であった。
「俺たちの後は白龍、お前の連れ合いだな!」
楽しみにしているぞと言う兄に、周も照れ臭そうにうなずいてみせる。
「兄貴も言ってくれるぜ! あんまり期待されても荷が重いってもんだが……まあ、カネと一之宮、それに兄貴と義姉さんに負けねえような伴侶を紹介できるよう励むぜ!」
ドンと胸板を叩いておどける様子に、周囲からはドッと囃し立てる歓声が上がる。今はまだ誰も、そう――周本人すら知らないが、そんな嬉しい報告ができる日は刻一刻と近づいている。これから二年足らずの後、周にとっての唯一無二となる愛しい相手は、秋のやわらかな陽射しと共にやってくるのだった。
天高きドームの窓を黄金色に染める光は燦々として、幸せな一同を包み込む。まさに春爛漫、幸福の時であった。
鐘崎編 - FIN -