極道恋事情

37 封印せし宝物2



◆21
 香港――。

 あれから冰の精神状態は比較的落ち着いていた。近く皆で香港への小旅行という楽しみが不安を軽減させたのだろう。周は普段と変わりなく過ごしながらも、極力冰の側でぴったりとスキンシップを増やしながら見守るように心掛けていた。寝る時もしっかり手を繋ぎ、社への行き帰りなど連絡通路を歩く時も体温を感じられるくらいの近い位置で肩を抱きながら過ごした。冰にとってはいつでも周という大いなる存在が側に在るといったことで、安心感を覚えたようだった。
 そして待ちに待った清明節の日、今回も周のプライベートジェットで空港へと降り立った四人は、早速に黄老人の墓参りへと向かった。
「前にここへ来たのは去年の夏だったな。あの時はちょうど――俺も気持ちの整理ができなくて苦しかった時だった」
 墓の前で手を合わせながら鐘崎がそうつぶやいた。当時、紫月が逆恨みによって誘き出され、命を狙われたという非常に重い事件の直後だった。少しでも気持ちが落ち着けばいいと、周と冰で鐘崎らをこの香港への休暇旅行に誘ったのだ。その時も鐘崎はこうして黄老人の墓の前で手を合わせながら、長い間じっと何かを祈るようにしていたのをよく覚えている。
「俺は黄のじいさんに会ったことはなかったが、氷川を通して冰と知り合って――冰のやさしい性質や、どんな困難なことにぶち当たってもその時々で非常に賢明な判断をし、例え理不尽な悪党相手でも真っ直ぐに向き合う様をこの目で見てきた。そんなふうに冰を育てた黄のじいさんが生きていたら――俺にどんな言葉を掛けてくれただろうかと思ったものだ」
 縋るような気持ちで天国のじいさんに話し掛けたのだと言って鐘崎は瞳を細めた。
「あの時、迷いの中にいて藻搔いていた俺を――氷川や冰、そして紫月や皆が支えてくれた。自分を取り戻すきっかけをくれた。どんなに有難かったか知れねえ。今こうして――またお前らと共に黄のじいさんに会いに来られたのも、皆のお陰だと思っている」
 感謝している――鐘崎はそう言って今一度老人の墓に手を合わせた。
 そんな様子を見つめながら、冰もまたあたたかい皆に囲まれて過ごしていられる幸せをしみじみと感じるのだった。
「あの――鐘崎さん、紫月さん、それに白龍。それは俺も同じです」
 うつむきながらもそう言った冰に、三人はハタと彼を見やった。
「このところずっと……皆さんに心配を掛けてしまっていると思ってます、俺……」
「冰――お前……」
「紫月さんがお食事に誘ってくれた時、俺……変なこと言っちゃって。白龍も鐘崎さんも……もう知ってるんですよね? 鐘崎さんたちが汐留のお家に泊まってくれたり、白龍には忙しい時期にこうして香港にまで連れて来てもらったり、心配掛けてると思ってます。ごめんなさい、俺……」
 冰には紫月を通してあの昼食の際に言ったことが周や鐘崎に伝わっているはずだと分かっていたようだ。もちろん紫月が告げ口をしたなどと思っているわけじゃなく、心から心配してくれているからこそ周らに報告してくれたのだと理解していた。もしも逆の立場だったら自分もそうすると思うからだ。



◆22
「冰――」
「あの、だけど俺……有難いと思っています。白龍にはもちろん、紫月さんや鐘崎さんにまで迷惑掛けて申し訳ないんですけど」
「冰――。そんなことは気にするな。俺はいつでもお前の側にいる。悩み事があるなら無理して元気を繕う必要はねえ。一緒に悩んで一緒に解決したいと思っている」
「そうだよ冰君! 俺も遼も冰君のダチだ! 皆んなで一緒に考えたいよ!」
「その通りだ。俺も紫月も氷川も、皆んなお前さんよりは年かさだけはいってる兄さんたちだ。氷川のことはもちろん頼って当然だし、俺と紫月のことも本当の兄貴だと思ってどんなことでも言ってくれたら嬉しいんだぜ!」
 三人にそう言われて冰はすまなさそうに微笑んだ。
「ありがとうございます。とっても心強いです。それに心配掛けて……ごめんなさい」
 ガバリと頭を下げた冰の華奢な肩を周は思い切り抱き包んだ。
「バカだな。何も気にする必要はねえ。悪いなんて思う必要もねえ。俺は――俺たちは皆んな、いつだってお前の側にいる! 思いっきり頼って寄り掛かればいいんだ」
「白龍……」
 鐘崎も紫月も揃って冰の頭や背中を撫で、大丈夫だ、一緒に悩んでいこうというように大きくうなずいた。
「白龍、鐘崎さん、紫月さん……ありがとうございます……!」



◇    ◇    ◇



 その後、繁華街へ降りて四人で夕膳を囲んだ。ホテルの部屋は夫婦ごとに二部屋取ってあり、廊下を隔てた対面だった。
「じゃあカネ、一之宮。また明日な」
「おう! おめえらもゆっくり休めよ」
「はい、ありがとうございます」
 部屋は豪華なコーナースイートだ。窓からは香港の街並みが一望できる素晴らしい眺めだった。
「白龍、あの……ありがとうね。俺、ずっと心配掛けちゃって……ごめんなさい」
 細々とした声で謝る冰を周は背中からやさしく抱き包んだ。
「冰、俺たちは一心同体だ。謝る必要はねえ。お前の悩みは俺の悩みなんだし、共に考えていけばいい」
「白龍……ごめんね。俺、本当はあなたに一番最初に言うべきだったんだけど……」
「いいんだ。例え夫婦でも一心同体でも――だからこそ言いづれえこともあるんじゃねえかって、カネがな。嫁同士という立場の一之宮になら案外話しやすいかも知れねえと言ってくれてな」
 だからあの日、紫月と二人で食事に行かせたのだと打ち明けた。
「鐘崎さんが? そうだったの」
「ここ最近の様子で、お前には何か悩みがあるんじゃねえかとは思っていてな。問いただして聞くこともできたが、無理やり言わせるのもどうかと思ってな」
 抱き締めながら冰の肩に顎を乗せて、二人で香港の夜景を見つめた。



◆23
「――どこかに大事な何かを置き忘れてきたように思うそうだな?」
「……うん。でもそれがどこなのか、何なのかが分からなくて」
「それで|理由《わけ》も無く不安になるんだな?」
「……うん」
「それはいつ頃からだ?」
「……んと、紫月さんにも言ったんだけど、本当に最近なんだ。もしかしたらもっと前からだったのかも知れないけど、一番強く不安になったのは……ちょっと前に男の子が目の前で転んだ時。白龍が駆け寄って助け起こしたでしょ?」
「ああ。あの時のボウズな」
 つい自然と口に出てしまったその言葉に冰はビクリと肩を震わせた。
「そう……それ……。白龍があのくらいの男の子をボウズって呼ぶのを聞いて……急に心臓がドキドキしてきて……怖くなっちゃったんだ」
「――すまない、冰。怖がらせるつもりはなかった」
 つい口が滑ってしまったことに、周自身配慮が足りなかったと思えど、こればかりは仕方ないといったところか。
「だが――そうだな。それは俺の口癖なのかも知れんな。あのくらいの年頃の子供を見るとついそんなふうに呼んじまうんだろうな。まあ、カネも似たように呼ぶかも知れんが」
「だよね。紫月さんもそう言ってた。鐘崎さんならボウズとかガキんちょとか呼びそうだよなって」
「そうかもな。俺とカネは似た者同士だからな。お前や一之宮ならもっと丁寧に呼びそうだな」
 不安を拭い取ってやるようにしっかりと抱き包みながら周は穏やかに笑んで、温かい頬と頬を擦りつけるように重ねた。
 その温もりに安心感を得たのだろうか、冰もまた『ごめんね』と言いながらも少しの笑みを見せた。
「うん……紫月さんは『兄ちゃん』って言ってた。俺だったら『坊や』とか『ボク』とか言いそうだよなって」
「そうだな。お前や一之宮らしい呼び方だ」
「ね、白龍。俺さ、あれから考えてみたんだ。何で白龍が『ボウズ』って呼ぶのを聞くとドキドキしたり怖くなったりするのかなって。それでね、思ったの。もしかしたらそれは――俺のヤキモチなのかも知れないって」
「焼きもち?」
 周にしてみれば思いもよらなかった理由だ。
「……うん。初めて会った時、白龍が俺のこと『ボウズ』って呼んでくれて、俺はそれがすごく印象に残っててさ。ボウズっていうのは自分だけの特別な呼ばれ方だって、勝手にそんなふうに思ってたんじゃないかって。だから白龍が他の子にそう呼ぶのを聞いて、白龍が盗られちゃう気になってるのかなって」
 これにはさすがの周も驚かされてしまった。



◆24
 周にはなぜ冰が不安や恐怖を感じるのか、その原因が遠い日に封印してしまった記憶を思い出し掛けているのだろうという本当の理由が分かっていただけに、まさか焼きもちだなどという答えを導き出すとは思ってもみなかったからだ。
 きっと冰なりに悩んで、その『どこかに置いて来てしまった大切なもの』の正体を一生懸命思い出そうと考えた結果なのだろう。正直なところまるでトンチンカンな答えだが、そんなふうに考えていてくれる冰が愛しくて堪らない気持ちにさせられてしまった。
「焼きもちか――。だったら俺にとっちゃすげえ嬉しいことだがな。他所の子供らには感謝せにゃならん」
「……白龍ったら、そんな……」
「本当だぞ。お前に焼きもちを焼いてもらえるなんてこんなに嬉しいことはねえ」
「……うっとうしくない? 何だかすごく情けなくなっちゃってさ、俺」
「うっとうしいもんか! それだけお前に想われてるって証拠だろうが。うっとうしいどころか嬉しくて顔がニヤけちまうくれえだ」
「白龍ったら……。でもありがとう。そんなふうに言ってもらえて」
 周は今一度しっかりと華奢な肩を抱き包みながら言った。
「だがな、冰。お前が不安になる原因はおそらく焼きもちとは別のもののように思うぞ。大事な何かをどこかに置き忘れたように感じるなら、それは焼きもちというよりもっと違うものなのかも知れん。俺はそれを一緒に探してやりたいと思っている」
 だから一人で悩む必要はない。怖がることもない。常に一緒にいて、一緒に探していこう。周はそう言った。
「白龍、ありがと……。ごめんね、俺」
「俺たちは一心同体だ。お前は俺で、俺はお前。だから一人で悩みの中を突っ走るなよ? 俺を置いていかねえで欲しい。常に頼って欲しい。お前と一緒に探して一緒に見つけたいんだ」
 俺を置いて行くなという周の言葉が、迷える冰の心に深く染みるようだった。
「そうだ、冰。香港に着いたら渡したいものがあると言ったろう?」
 周は胸ポケットに手を突っ込むと、小さなそれを取り出して冰の手に握らせた。

「――これ……?」

「時が来たら――お前に渡そうと思っていた」

 掌に握らされた小さなそれ――冰にとっては長い間見慣れた懐かしいものだった。何故これが今ここにあるの――? というふうに、驚きと同時に冰の双眸がみるみると潤み出す。
 それは黄老人と共に住んでいたアパートの部屋の鍵だったからだ。



◆25
「これ……俺とじいちゃんの家の鍵」
「そうだ。小さい頃からお前が毎日使っていた鍵だ。本当はな、お前が俺のところに来てからすぐに渡しても良かったんだが――」
 周は瞳を細めながら鍵を握る愛しい掌に自分の手を添えて、共に握り包んだ。

 三年前、黄老人が亡くなり冰が汐留を訪ねた時のことだ。周はその日の内に彼に部屋を与え、同じ邸の隣の部屋で共に住むように手配してしまった。半ば強引だったかも知れない。
 当時の冰にしてみれば、恩人である『漆黒の人』に会い、これまでの礼を述べることができたならば、一旦は香港に戻るつもりでいたのだ。その後、漆黒の人――周焔――が住む日本に移住したいとは思っていたが、引っ越しや職探しなどは追々考えるつもりでいた。ところが周は自分の社で働かないかと誘ってくれて、住む部屋まで用意してくれたのだ。元いた香港のアパートの解約から引っ越しまで、すべて彼の方で行うから任せろと言われ、その言葉に甘える形で今日まできたわけだった。
 まあ実際に様々な手続きを行ったのは側近の李あたりがやってくれたのだろうことは想像がつくが、すべて周の指示で動いてくれたのだろう。冰が再び香港に足を運ぶことになったのは、汐留へ礼に訪れてから二ヶ月後のことだった。その時は既に心通わせ合って、周の実家に行き、家族にも紹介されたものだ。
 アパートの鍵は引っ越し手続きの際、記念にと思って大家から貰い受けてくれたのだろうか――冰はそう思った。
「まさかこれ……白龍が取っておいてくれたの?」
「ああ。お前にとって大切なじいさんとの思い出の物だと思ってな」
 鍵は解約の際に貰い受けて、大家には新しい住人の為に鍵を付け替えてもらったのだろう。周ならばそのくらいのことを頼むのはわけもなかっただろう。
「そう、これ取っておいてくれたの……」
 ポロリとこぼれた涙を拭いながら冰は嬉しさを堪えるように、くしゃくしゃと顔を笑顔に染めた。
「白龍、ありがとう……! 本当に……!」
 こんなふうに気遣ってもらえることが嬉しくて堪らなくて、拭っても拭っても溢れる涙がとまらない。
「明日、行ってみるか」
「いいの?」
「もちろんだ。俺にとっても懐かしい場所だ。お前と初めて出会った所なんだからな」
「うん……うん! ありがとう白龍!」
 アパートの部屋にはもう新しい住人が住んでいるだろうが、外から眺めるだけでも懐かしい思い出が浮かんできそうだ。それに、長い間使い慣れた鍵はこうして取っておいてもらえたのだ。冰には心が震えるほどに嬉しいプレゼントに他ならない。
 日本を発つ前に周が『清明節にふさわしいプレゼントだ』と言っていたが、誠その通りだったというわけだ。



◆26
「それじゃ冰――そろそろ休むか。明日は朝一でアパートに回ってみよう。その後は散歩でもしながらお前の行ってみたいところがあればブラブラすりゃあいい」
「うん。あ、でも……お父様たちにご挨拶しなくていいの?」
 今回は短期間での小旅行だ。明後日にはもう帰らなければならないのだし、香港に来ているというのに実家に挨拶もせずに帰るというわけにはいかない。そう言いたげな冰に、周はクスッと不敵に笑んでみせた。
「構わんさ。親父たちにはまたいつでも会える」
「でも……」
 香港に行くと聞いて、冰はいつものようにファミリーへの土産を用意していたからだ。不安や悩みの中にあっても、そうした細かな気遣いを忘れないところは冰ならではだ。
「だったら夜にでも少し顔を出せばいい。行けば晩飯くらいは付き合うことになろうから――お前にも世話を掛けるが」
「ううん、そんな! 俺だってお父様たちのお顔を見たいもの!」
「そうか。ありがとうな」
「ありがとうは俺の方だよ。白龍、本当に俺……こんなにしてもらって。なのにヤキモチなんか焼いちゃったりして……恥ずかしい」
 未だ不安の原因が焼きもちによるものだと思い込んでいるような様子に、周はこの尊い嫁のことが愛しくて堪らない思いにさせられるのだった。
「それじゃ我が奥方、休む前に亭主の頼みをひとつ聞いてくれるかな?」
 ニッと意味ありげな笑みと共に今一度強く抱き寄せられる。
「カネじゃねえが、俺も獣の本能がな……。もう我慢できねえと言ってる」
 つまり抱きたいというサインだ。
「白龍ったら……」
 ポッと頬を染め、途端にモジモジとし出すところが可愛らしい。初めて情を交わし合ってから三年にもなろうというのに、いつまで経っても初々しい嫁に獣云々の冗談はともかく本当に野獣化しそうな気持ちにさせられる、そんな周だった。



◇    ◇    ◇



 次の日、清明節にふさわしく穏やかな晴天となった清々しい朝の空気の中、鐘崎らと共に四人でアパートへと向かった。
 建物はもう古いがアパートは当時のまま健在で、懐かしさが込み上げる。
「変わってないなぁ」
 紅潮した頬に朝日を受けながら、冰は昨夜周から貰った大切な鍵を握り締めては瞳を細め、黄老人と共に住んでいた部屋の窓を見上げた。
「冰君たちが住んでたのはどの辺り?」
 紫月に訊かれて冰はひとつの部屋を指差した。
「あそこです。あの三階の――」
 アパートといっても建物はかなり大きく、ビルといえる。五階建てで戸数も多く、日本でいえばマンションといった感じである。壁や窓枠などは確かに古いが、趣きがある。繁華街ゆえに道幅も広く、朝から車通りも結構ある賑やかさだ。
「ここ、交通量も多いでしょう? 俺が子供の頃はよくじいちゃんに言われたっけなぁ。車に気をつけて学校行くんだぞって」
「そうだったんか。黄のじいちゃん、冰君のことホント大事にしてたんだな」
「ええ。とてもやさしいじいちゃんでした。あ、でもディーラーの技を教えてくれる時は厳しかったけど」
「はは! なるほどー」
 そんな話に花を咲かせていると、道路脇に一台の高級車が滑るようにやって来ては冰らの目の前で停まった。

「あ――!」

 降りて来た人物に驚かされる。なんとそれは周の兄の風と、側近の曹来だったからだ。しかももう一人――鄧浩の兄の鄧海も一緒だった。



◆27
「お兄様……! 曹先生と鄧先生のお兄様も」
 冰は驚いていたが、周は平然と笑顔を浮かべている。どうやらここで落ち合うことは承知だったようだ。
「兄貴! ライさんも海さんも朝早くからすみません」
「いやいや、俺たちも会えるのを楽しみにしていたぞ。冰も元気そうで何よりだ」
「お、お兄様……! 皆様も……お世話になっております」
 慌てて頭を下げた冰に、風はニッコリと微笑みながら言った。
「それじゃ早速行こうか。曹来、頼む」

 行こうかってどこへ? そう訊く間もなく風らはアパートの階段を登って行く。

「冰、来い」
 周もまた笑みながら手招きしてよこす。わけが分からないままついて行った冰が更に驚かされることとなったのは、懐かしい部屋の前に連れて来られた時だった。
「冰、昨夜渡した鍵は持って来たな?」
「う、うん……ここに」
「開けてみろ」

「え――?」

 開けてみろとはいったいどういうことだろう。まさかこの鍵がまだ生きているとでもいう意味なのか――。
 周も兄の風も、それに鐘崎らまでがすべてを知っているようにニコニコと微笑んでいる。
「あの……まさかこの部屋……」
 皆の視線にうながされるまま半信半疑で鍵を当てると、ガチャリ――住んでいた時のままの懐かしい音と共に鍵が回った。

「どうして――」

 呆然と突っ立ったままの冰の肩を抱きながら周がドアを開ければ、そこには以前とまったく変わらないままの部屋――。
「白龍……これって……」

「お前とじいさんの家だ」

「…………!」

 つまり周は三年前冰が部屋を後にしたその時から解約などはせずにずっと借り続けていてくれたのだった。



◇    ◇    ◇



 未だ呆然として声にもならないでいる冰に、曹来が事情を説明した。
「冰君、ここはね。焔君がずっと借り続けている部屋なんだ。キミが焔君を訪ねて日本に行った三年前の日からずっとね」

 やはりそうか――。

「焔君はキミと黄老人が住んでいた思い出の部屋をそのままにしておいてあげたいと言ってね。今は掃除がてら私が時々来て資料調べなどの事務所として管理しているんだ」
 曹に続いて今度は鐘崎が冷やかし文句を口にする。
「氷川が今日までこのことを内緒にしてたのにはワケがあるんだ。当時、その鍵をお前さんに渡すこともできたんだが、もしも冰がやっぱり香港に帰りたいなんて言い出したら困ると言ってな。時期が来るまで黙っておこうと思ったそうだぞ」
 時期が来るまでというのは、冰と自分の仲が確固たるものになって、ここの存在を明かしたとしても決して帰りたいとは言わなくなるその日までということだったらしい。



◆28
 鐘崎に暴露されて、周はタジタジとバツの悪そうに苦笑してみせた。
「そりゃお前……冰に帰りたいなんざ言われたら困るからな。俺の側以外に居場所はねえって思わせておくに限ると思ったわけだ」
「こう見えて意外と小心者なんだ、氷川は」
「バカ言え……! それだけ愛情が深いってことだろうが」
 周と鐘崎がくだらないじゃれ合いをする傍らで、冰の頬には感激のあまりか滝のような涙がポロポロとこぼれて伝った。
「白龍……白龍! こんなにしてもらって……俺、俺……」
 まさに言葉にならない。両の手で顔を覆い、泣き崩れるほどの感動に身を震わせてしまった。
「実はね、冰君。去年の暮れにこのビルのオーナーが他界なされてね。オーナーにはご子息がいらしたんだが、もうここも古いし、いっそ手放してしまおうという話が持ち上がったんだ。それを聞いた焔君がね、ここを丸ごと買い取ってくれたのさ。お陰でアパートの住人たちも追い出されずに済んで、皆大喜びだったんだよ」
「白龍が……ここを?」
「キミと黄老人の思い出の住まいだからね。ただし確かにビルも老朽化しているのは事実だ。だから今夏から補修工事を行うことになったんだ」
 曹曰く部屋の内装などはこのままだが、耐震型の骨組みなどに補強して、壁なども塗り直し、ガス管や電気の配線などを新しく交換するとのことだった。
 そうまでして思い出の住処を残しておいてくれようとする周の気持ちに、涙は止まることなく冰はおいおいと声を上げて号泣してしまった。
「白龍、白龍……! ありがとう! ありがとう、ホントに……俺」
 どうしていいか分からないほど、礼の言葉さえ浮かばないほどの大いなる愛情に震えがとまらない。
「それなのに俺ったら……ヤキモチなんか焼いちゃって……ごめんなさい本当に」
 冰の中では未だ例の不安の正体がヤキモチだと勘違いしているようだ。周からその経緯を聞いた鐘崎らは、本当に可愛い発想だと言って、ゆるんでしまう表情をとめられずにいた。
 よくよく部屋を見渡せば、家具類の配置から食器棚の中にある物まですべてが当時のままだ。曹が時々事務所として使っているのは本当らしく、テーブルの上には見慣れない本や書類などが少し積み上げられていたものの、ベッドも香港を去った日のまま綺麗に整えられている。
 懐かしさに心震える中、ふとテーブルの上に置かれた曹の本を見て冰の脳裏に不思議な幻影が浮かんだ。

『ほら、ここの解き方はこうだ』
 誰かがサラサラとペンでノートに書きつけている。彼の隣には幼い一人の少年――。真剣な表情でその『解き方』を眺めている。

 あれは誰――?

 幼い少年はどう見ても自分だ。小学生頃の冰である。では隣で彼に勉強を教えているのはいったい誰だというのだろう。黄老人ではない。もっと若い青年だ。
 だが、その青年の顔は靄が掛かったように不鮮明な幻影でしかなく、彼が誰なのかが分からない。

 しばらくすると幻影は消えた。



◆29
「どうした、冰?」
 呆然となっていたのだろうか、周に声を掛けられてハタと我に返った。
「あ、ううん。何でもない……」

 今のは何だったんだろう。
 酷く懐かしいような、胸を鷲掴みにされるような不思議な幻影。

「さて、それじゃあ我々は先に戻っている。焔、また後でな」
 そんな兄の声で再び我に返った。
「鄧海を置いていく。久しぶりの香港だ、一日ゆっくり過ごすといい」
 風と曹は先に帰るようだ。鄧海がこのまま残って付き合ってくれるらしい。
 兄の風もまた今回の冰の件について既に聞き及んでいるようで、冰の容体に何かあった時の為に医師である鄧海がいれば安心との配慮であった。
「兄貴、曹さんもお忙しい中ありがとうございました。夕方までには戻ります」
「ああ。本宅の方で待っているよ。夕飯はお袋たちと美紅が用意すると張り切っているのでな。食わずに来てくれ!」
 お袋たち――ということは、周の実母であるあゆみにも声を掛けてくれているということだ。
「兄貴、ありがとうございます! 楽しみに伺います」
 周が律儀な笑みと共に頭を下げる。そうして風らを見送った後、皆でぶらぶらと付近を散歩して歩くこととなった。
 アパートを出て懐かしい通りを散策する。冰にとっては幼い頃の通学路でもあった道だ。少し行くと公園が見えてきた。
「懐かしいなぁ……。ここでよく遊んだっけ。じいちゃんもこの公園で囲碁を打つのが好きだったな」
 朝の公園には在りし日の黄老人を思わせる年頃の人々が太極拳に励んでいて賑やかだ。
「太極拳か! そういや冰君も香港にいた頃はやってたりした?」
 紫月に訊かれて冰はこくりとうなずいた。
「はい、じいちゃんに連れられて日曜の朝とかに。夏休みには毎朝やってたなぁ」
「へえ! 俺たちがガキん頃のラジオ体操みたいなもんかな」
 子供の頃は皆勤賞で貰えるお菓子が楽しみで通ったよなと、紫月が懐かしそうにしている。
「皆勤賞か! そういや毎朝おめえと一緒に行ったっけ」
 鐘崎もまた瞳を細めながら遠い日を懐かしんでいるようだった。
 少し歩くとベンチが並ぶ広場に出た。
「今日は結構な陽気だな。喉を潤していくか」
 周はそう言って羽織っていたトレンチコートを脱ぎ、ベンチの背に引っ掛けた。目の前には饅頭などを売っている老舗らしき店――。
「お! 美味そうじゃね?」
 紫月が指差しながら『食ってかねえ?』と瞳を輝かせる。
「そういや小腹が空いたな。何か買ってくるか」
 ドリンクと共に饅頭や月餅などを食べていこうということになり、周と鄧海が買いに行く。その後ろ姿を見つめながら、冰は次第に逸り出す心拍数にギュッと拳を握り締めた。

(何だろう、この気持ち……。そういえば前にもこれと同じことがあったような気がする……)

 この公園自体は見慣れた場所だが、ベンチで饅頭を食べた覚えはない。黄老人がもっと別の大きな広場の四阿で囲碁仲間と興じていたのは何度も見て知っていたが、ここのベンチではなかった。同級生の友達と遊んでいる最中には間食をしたこともない。それなのに目の前の店が酷く懐かしく思えるのが不思議だった。



◆30

(そうだよ、俺覚えてる……。このお店でお饅頭を買ってもらって一緒に食べたんだ)

 だが、その相手が誰だったのかが思い出せない。ただひとつはっきりしているのは、相手が黄老人でも同級生の誰かでもなかったということだ。
 ではいったい誰とここへ来たというのだろう。ドキドキと胸が高鳴る――。
 そういえばその時もこうしてドキドキと胸を高鳴らせたように思う。とても幸せで嬉しくて、ずっとこの瞬間が続けばいいと思ったような気がする。

(俺は多分、その人のことをすごく慕っていたんじゃないかな……)

 肝心のその人が誰なのかは思い出せないが、一緒にいるだけで見慣れたはずの景色が別世界のように輝いて見えた気がするのだ。

(あの人は誰……?)

 強いて言うなら周と似たような感覚だろうか。側にいるだけで心が浮かれて、たわいのない普通のことがすべて薔薇色に輝いて見えるような――言いようのない高鳴りを運んでくる感覚。
 だが周であるはずがない。

(だって白龍とは初めて助けてもらった時に一度会っただけで……その後はまったく会えなかったんだもの)

 会いたいと思っても子供の自分にはどうすることもできなかった。黄老人は『あのお人は忙しい方なのだよ』と言っていたし、どこに住んでいるかすら知らなかった。幼い自分がおいそれと会いに行けるような相手でないのだろうことは黄老人の様子からも何となく窺い知れていた気がする。あのお兄さんはきっと家柄も立場もある立派な人なのだろう、幼心にそう思っていた。
 周によく似た感じの知り合いなんていなかったはずなのに、どうしてこれほどまでに胸が騒ぐのだろう。
 ふと、視線を上げた先に周と鄧海が饅頭やドリンクを手に目の前の店から出て来る姿が視界に飛び込んできた。

(そういえば白龍の格好……。いつもと違ってすごくカジュアルっていうか)

 ホテルを出る時からアパートまではトレンチコートを羽織っていたので気が付かなかったが、それを脱いだ周の服装は普段あまり目にしないラフなものだった。言い方は悪いが若作りというのだろうか、紫月などはよくそんな雰囲気の服装をしているが、周は休日であっても割合固めというか、クラシックな大人の装いでいることが多い。それが今日は真逆のスポーティ全開だ。
 確かに彼のような男前ならどんな格好をしても似合ってしまいそうだが、ここまでラフなのは南の島のリゾートに行った時くらいしか見たことがない。何故今日に限ってそんな服装を選んだのか分からないながらも、冰は呆然とこちらに歩いて来る亭主の姿を見つめたまま視線を外すことができずにいた。



◆31
「ほら、冰。出来立ての熱々だから気をつけて食えよ」
 真っ白い湯気の立つ饅頭を渡されて、それをじっと見つめる。

『熱々だからな。気をつけて食え』

 前にも誰かがそう言った気がする。
 あれは誰だったのだろう。

 しばし呆然としながら饅頭を握り締めていた冰の傍らでは、鐘崎と紫月が大慌てといったような声を上げていた。
「わっ……! こりゃ餡饅頭じゃねえか!」
 鐘崎が苦虫を噛み潰したような表情で慌ててドリンクで喉に流し込んでいる。甘い物が苦手な彼が口にしたのが餡子のぎっしり詰まった饅頭だったようだ。側では紫月もまた慌てた素振りで、『悪ィ悪ィ』と頭を掻いている。
「俺ン方が肉饅頭だったべ!」
 交換するべと紫月はタジタジだ。周も鄧海も微笑ましげに笑っていたが、冰はまたしても心逸る思いに心拍数が騒ぎ出すのだった。

(交換……そうだよ、交換……。前にもこんなことがあった……。お饅頭を交換して食べたんだっけ)

 ただやはり、その相手が誰で、自分とどのような関係だったのかが思い出せない。
 少し年の離れた誰かだったような気はするのだが、当時の自分がそんなふうに親しくしていた相手が思い当たらないのだ。

(学校の先生だったのかな……? さっきもアパートで宿題を見てもらったような気がしたっていうか、幻みたいのが浮かんだけど……)

 パクっとひと口、そんなことを思いながら饅頭をかじる。
「あ……俺のは肉饅頭だ」
「全部真っ白で印が付いてねえからな。日本だと中身によって饅頭のてっぺんに食紅で印が付けてあったりするんだがな」
 食べてみないと中身が分からないなと言って周が笑う。
「白龍のは? やっぱりお肉?」
 そう訊くと、周は穏やかに微笑んでみせた。
「いや、俺のはピザ味のようだな」
「ピザ……」
「なんだ、お前もこっちの方が良かったか?」
 周はニコリと笑い、交換するか? と言って饅頭を差し出した。
「あ、うん……。いいの?」
「もちろん! どっちの味も楽しめるのは夫婦のいいところだな」
 そう言って笑い、交換した饅頭を美味そうに齧る笑顔が心に染みる。何気ない仕草でも格好いいと思って見とれてしまうのは、夫婦となって何年経っても変わらない。
「白龍……ホント何をしてもカッコいいんだもん」
 ポツリと呟き、頬を染めながらもピザ味の饅頭をふうふうと頬張った。
 トマトソースに彩られたピザ味の中身を見つめながら、そのオレンジ色がまたしても心を逸らせる。

(そうだよ……。前にも同じことがあった。このお饅頭の中身の色……ピザ味も食べたいって思ってたら、あのお兄さんが交換してくれたんだ)

 お兄さん――?

 饅頭を交換してくれたのはどこかの『お兄さん』だったというわけか。

(そうだよ……アパートで宿題を見てくれたのも同じお兄さんだ……。すごくやさしくて、俺の頭を撫でてくれて……俺に向けてくれる目がすごくあったかかったお兄さん……)

 あの人はいったい誰だったの……?

 未だ霞が掛かったその顔の部分が思い出せない。
 冰は不思議な感覚にふわふわと雲の上を歩くような心持ちで饅頭を握り締めたのだった。



◆32
 その後、高台から香港の街を眺めたいという紫月の希望で、一同はピークトラムに乗ることになった。
 ピークトラムとは香港で歴史のある登山用の乗り物だ。一大観光地のひとつ、ビクトリアピークへ向かうケーブルカーで、街並みを一望できる山頂まで運んでくれる。登上する際の傾斜角度は飛行機が離陸する時と同じくらいあるそうだ。
「ほええ、なんかどこそこ綺麗になってんなぁ。俺らがまだガキんちょの頃にいっぺんだけ遼と親父たちと乗ったことがあったよね」
 懐かしいなぁと紫月が瞳を輝かせている。その頃から比べると、乗車口までの道のりもまるで別物のように整備されていて驚かされる。改札口はもちろんのこと、乗車口までの道も非常に綺麗になっていてすっかり別次元だ。
「すっげ! 天井が透けて見えるようになってる!」
 当時もこんなんだったっけと紫月はまるで子供に戻ったかのようなはしゃぎようだ。
「そういえば私も香港に住んでいながらピークトラムに乗ることなど滅多にないですからねぇ」
 鄧海も物珍しげに車内を眺めている。まあ地元の者にとっては案外そんなものなのかも知れないが、それ以前にマフィアのファミリーがこうした観光用の乗り物に乗ることなどおおよそ無いといったところなのだろう。
 冰もまた、周にぴったりと寄り添われながら乗車していたが、車窓からの景色を眺めながらどことなくソワソワと落ち着かない様子であった。何を隠そう、紫月がこのピークトラムに乗りたいと言ったのも、それが周と冰の思い出の場所のひとつだからだ。先程公園で食べた饅頭も然り、皆で十五年前に周らが辿った場所を巡っているのである。
 案の定、冰は何かを感じ取っている様子だし、何よりも周の出立ちからして当時を彷彿とさせる装いだ。こうして少しずつ自然に思い出を再現していく中で、もしかしたら冰の記憶の扉に何らかの影響を与えられるかも知れないと思ってのことだった。

 山頂にはピークタワーという特徴のある形の建物が象徴的で、その巨大さにも目を見張らされる。観光地なので人であふれていたが、そこから見下ろす香港の街並みはまさに絶景といえた。
 周らはなるべく観光客が少ない箇所を選んでゆっくりと散策して歩いた。時刻はちょうど午後のティータイムから夕刻へと差し掛かったところだった。もうあと少しすると夜景をお目当てに人々でごった返すだろうが、今はちょうど観光客も夜景ツアー前の夕食タイムに向かう頃合いだろう、比較的人影も少ない。
 紫月らは記念写真を撮ったりしながら観光客に混じってはしゃいでいる。その様子を見つめながら、冰は喉元まで出掛かっている記憶の一端を、懸命に手繰り寄せようとしていた。



◆33
「ね、白龍……あのさ」
「どうした」
「……頼ってもいい?」
 申し訳なさそうに伏し目がちながらも、懸命といったふうにそう言った。周は驚いたが、すぐに穏やかに瞳を細め、
「もちろんだ。どんなことでも受け止めてやる。それに――お前に頼られるのは他の誰よりも俺でありたいからな」
 すべてを包み込むようなその眼差しに嘘はないといったふうに、絶大な安堵感を滲ませてくれる。そんな亭主に、冰はありがとうと言ってから、ポツリポツリと自らの心の内を手探りするように話し出した。
「俺……俺ね、前にここ来たことがある気がするんだ。それでね、白龍に聞いて欲しいことがあって」
 生真面目な顔つきで街並みを見下ろしながら、冰は何かを決心するかのようにそうつぶやいた。
「こないだから俺……皆んなに心配掛けちゃってるでしょ? どこかに何かを置き忘れてきたように感じるっていうアレなんだけど……」
「ああ。お前の不安の原因だな?」
「うん……。あのね、今日一日ずっと感じてたことがあるの。朝、じいちゃんと住んでたアパートに行って……すごく懐かしかった。白龍がこんなにも俺のことを考えてくれて、あのアパートの部屋を手放さずにいてくれて、すごく嬉しくてさ。それでね、あの部屋で思ったんだ。幻影っていうのかな、そういうのが見えたような気がするんだ。俺は昔――あそこで誰かに勉強を見てもらってたような気がしてさ。でもじいちゃんじゃないんだ。もっと若くて……とってもやさしい人だったように思うの」
 その後、散歩で出掛けた公園のベンチでも同じような感覚に陥ったという。
「あのお饅頭……。あれも遠い昔に食べたことがあった気がするんだ。誰かと一緒にあの公園のベンチでお饅頭を食べた……。多分相手は……勉強を見てくれてたのと同じ人だと思うんだ。若くてとってもやさしいお兄さん……」
 そのお兄さんと先程のように饅頭を交換して食べた幻影が浮かんだのだという。
「ここへもそのお兄さんと一緒に来た気がするの。俺は小学生で、そのお兄さんは随分年上だったように思う。俺ね、その人といるとすごく嬉しくて……何を見ても何を食べても気持ちがウキウキしてさ。ずっと一緒に居たいって思ってたような気がする……」
 周は驚いた。やはり冰はあの頃のことを思い出し掛けているのだと、そう確信できたからだ。
「でもね、俺その人の顔がどうしても思い出せないんだ。一緒に過ごしたんだってことは本当のような気がするの。でもそれが誰だったのか分からない……。あの頃、俺にはそんな知り合いがいた覚えもないんだ。じいちゃんはもちろん、白龍の顔もはっきり覚えてる。同級生の友達の顔もちゃんと浮かんでくるんだけど。でも肝心のその人の顔だけがどうしても思い出せなくて」
 あと一歩なのだと――彼の懸命な表情がそう訴えていた。



◆34
「ね、白龍は……知ってる――わけないよね? あの頃、俺の周りにそういった人がいたかどうかなんて」
 じいちゃんでも生きていれば訊けるんだけど――と、冰は苦しそうだ。
 ふいと、周は華奢な肩を抱き包むように腕の中へと引き寄せた。
「冰――。お前はその相手のことを慕っていたんだな?」
「う……ん、多分。ごめんね……本当は白龍以外にそんなふうに慕った人がいるなんて……俺も半信半疑っていうか……。ただ何となくね、思うんだ。その人、あの頃の俺にとって白龍のような存在だったんじゃないかなって」
「――俺のような?」
「うん……。一緒にいると嬉しくて安心できて、ずっとずーっとこのままでいたいって思ってたような気がするんだ。でも俺にはそんな知り合いなんていた覚えはなくて……。あの人は誰なんだろうって」
 それが思い出せれば胸のつかえがすっきり晴れるような気がする、冰の顔つきからはそんな思いが滲んで感じられた。

 陽が傾き出し、香港の摩天楼を黄金色に染めていく――。

 後ろからしっかりと懐に抱き包みながら周は穏やかに微笑んだ。
「そうか――。そいつが誰だか知りたいんだな?」
「……うん。ごめんね白龍……こんなこと、あなたに言っていいことじゃないんだって思うけど」
「構わん。言っただろう? どんなことでも受け止めてやると」
「うん、ありがと……。俺も信じられないんだ。俺があの頃からそんなふうに大事に思ってた人は白龍しかいないはずなんだ。じいちゃんの知り合いの誰かなのかなって思ったりもしたんだけど、ディーラーさんの人たちだってウチに遊びに来たこととかはなかったし」
「でもお前の宿題を見たり一緒に饅頭を食ったり、一緒にここへ来たこともある気がする――ってことだな?」
「うん……。もしもその人が白龍だったらしっくりくるんだ。でも俺が白龍と会ったのは助けてもらった時一度きりだったじゃない? ならその人は誰だったんだろうって考えても思い出せなくてさ。俺、今日一日皆さんとこの香港の街を歩きながら思ったの。その人と一緒に過ごしたのは多分間違いないんだろうって。でもさ、白龍と同じくらい会いたいなって思ってた人がいるはずないって思うのもホントなんだ。やっぱりあのお兄さんは俺が勝手に作り出した幻影で、一緒に出掛けたりしたことはなかったのかも」
 もしかしたら当時周にもう一度会いたいと思っていた強い願望が生み出した幻影なのかも知れないと、冰はそんなふうに考えているようだ。
「ふむ、そうか。だったらそれは幻影などではなく事実だろう。おそらくそのお兄さんとやらもお前のことを大事に思っていた。いや、確実に大事に思っていた」
「あの……白龍? それじゃやっぱりあれは俺の幻想とかじゃなくて……実際にあったことなの?」
「そうだ」



◆35

 まさか白龍は知っているの――? その人が誰なのかっていうことを。

 腕の中の冰は華奢な身体を震わせていた。抱き締めた腕を伝って次第に鼓動の脈打つ音が大きくなっていくのをはっきりと感じる。
「知ってる」
「……!? 本当に……?」
「ああ」
「もしかして……白龍のお友達……とか?」
 友達というよりは側近の誰かだった可能性もある。周があの事件以来、毎月欠かさずに金銭的な援助を続けてくれていたのは事実だ。直接会いにこそ来なかったとしても、自分たちを気に掛けて側近の誰かに様子見に来させてくれていたのかも知れない。だが、そうではなかったようだ。
「いや――そうじゃねえ」
「……違うの?」
「違うな」
 周はまるで会話を楽しんでいるかのように穏やかで嬉しげに笑む。
「少し――このままでいていいか?」
「白龍……?」
 抱き締めたまま二人で街並みを見つめる。
「冰――。そいつはな、お前のことをひどく大事に思ってた。本当の弟のように思ってたのかも知れない。お前と一緒に過ごす時間が楽しくて、何より幸せに思っていたはずだ。だがな、その幸せな時がずっと続かないことも知っていた。当時そいつは――あと少ししたらこの香港を離れなければならなかったからだ」

「…………え?」

「叶うことならずっとお前の側で過ごしたかった。一緒に宿題をして、公園を散歩して、饅頭を交換して食って。お前が元気で笑ってる顔を見てることが何よりの安らぎだったんだ。もちろんずっとそうすることもできただろう。何もかもを捨てて、お前と黄のじいさんと三人で生きる人生も選べたはずだ。だが――ヤツはそうしなかった。幼いお前をこの香港に置いて、てめえは異国に行っちまう。そんな薄情な自分が情けなくて堪らなかった」

「白……龍……」

「それが――あの頃のお前が慕っていたお兄さんの正体だ」

「白龍……それって」

「本当はお前に慕ってもらえる価値なんざねえ薄情な野郎だ。幼いお前を置いてこの香港を離れたことが――ただひとつのそいつの後悔だ」
 冰の瞳がみるみると見開かれていく。夕陽に染まる香港の街並みを映しては、大きな瞳の中でゆらゆらと高層ビル群の景色が揺れる。

「白……龍……? もしかして……あのお兄さんは」

 白龍だったの?

 そう訊きたいながらも、驚きの為か上手くは言葉にならないようだ。周は未だ抱き締めたままで静かにうなずいた。
「すまない、ボウズ――。俺がお前を置いてこの香港を離れたのは事実だ」

 時が――止まる。

 ボウズ、坊主、ぼうず――その言葉が頭の中で幾度も幾度もこだまする。



◆36
「じゃあ、じゃあ……やっぱり……あのお兄さんは白龍……?」
「――そうだ」
「……ッ! え……あの……だって、じゃあ……」
「俺だ」
 しっかりと身を寄せ合ったまま、まさに時が止まったかのように景色の中、二人だけの姿が周囲から切り離されて、別の次元にいるような感覚に陥っていく。
 頬を撫でる風の音、観光客らのはしゃぐ声、それらの雑踏が耳に戻ってきた時は相変わらず周に抱き締められたまま、その脇には鐘崎や紫月、鄧海が自分たちを囲むようにして側にいてくれた。
「あの……じゃあ俺は……あの頃白龍と一緒に過ごしたことがあったの?」
「そうだ。お前が見た幻影は事実だ。当時俺は月に二度ほどお前とじいさんの家を訪ねて――お前と一緒に過ごしていた時期があった」
「あのお兄さんがほんとに白龍……? だったら俺……どうしてそんな大事なことを忘れちゃってたんだ……」
 未だ夢幻の中から抜け出せずといったように瞳を揺らす冰に、鄧海が穏やかな口調で助け舟を差し出した。
「冰君、キミはね、当時たいへんな高熱を出したことがあったんだ。街の医者も原因が分からずにサジを投げる始末――。そんな中で焔君はお父上と兄上に頼んでファミリー専属の医者に診せてやってくれとキミを連れて来た。私も父と一緒に診察に当たったんで、当時のことはよく覚えているんだ」
 周に代わって鄧海がその時の一部始終を丁寧に順を追って話して聞かせてくれた。
 当時の冰の高熱は原因が分からなかったこと。まだ子供の冰にとっては命の危険が考えられるほどの高熱だったこと。それを下げるには強い薬を使わなければならず、副作用としてこれまでの記憶を失くしてしまう可能性があったことなどだ。
「焔君と黄氏は例えキミが自分たちのことを忘れてしまっても構わない、とにかくキミの命を救って欲しいとおっしゃってね。私と父は投薬を決めた。熱は下がり、キミは焔君のことも黄氏のことも覚えていてくれた。ただやはり薬の副作用で焔君と過ごした約一年間の記憶を失くしてしまったんだよ」
 鄧海はその原因についても事細かに説明を加えた。
「キミが高熱を出したのは焔君がいずれ香港を離れるという話をキミに告げた日の数日後だった。キミは焔君と会えなくなることがとても辛かったのだろうね。幼いキミにとって毎日泣き暮らすだろう日々を本能で感じていたのかも知れない。そうなればキミ自身も苦しいし、黄氏にも心配を掛ける。焔君との楽しい日々の記憶に鍵を掛けることで心を保とうとしたのだと思うよ」
 ただし、今は周と共に暮らしていて幸せな状態にある。当時鍵を掛けたそれをそろそろ思い出してもいいのではないかという心の安寧によって、冰君の中で記憶が顔を出そうとしているのだろうねと付け加えた。



◆37
「すまなかったな、冰。俺はお前の不安の原因が過去に封じられた記憶なんじゃねえかと……おおよその見当がついていた。すぐにお前に打ち明けてやった方が良かったんじゃねえかとも思う。それでも幻影とはいえ、お前自身で当時の記憶を思い出してくれた」
 うれしかった、すまなかったと言って周は今一度抱き締めた腕に力を込めた。冰もまた、驚きつつも胸のつかえが取れたというように安堵の表情を見せながらもホッと小さな溜め息をもらす。
「そうだったんだ……。だから俺、白龍の『ボウズ』っていう言葉を聞いて……あの頃を思い出し掛けていたんだね」
 あの頃、お兄さんにそう呼んでもらえるのがとても嬉しかったから――。
「きっと白龍がくれた鍵のお陰だね。俺も思ってたんだ。白龍以外に一緒にいてドキドキしたり、踊り出したくなるくらいに嬉しくなったりするなんて、そんな人いるわけないって思ってたもん」
 そうか、やっぱりあのお兄さんは白龍だったんだと言って、胸に手を当てた。
「ほら、白龍と一緒にいるとこんなにドキドキするんだ。あの頃もそうだったよ。お兄さんと会える時間が本当に嬉しくて待ち遠しくて……。俺、あの頃から白龍が大好きだったんだね」
 ふと、瞳を大きく見開きながら抱き締められていた腕から抜け出すと冰は言った。
「あ……! だからこの服だったの? 白龍の今日の格好、いつもはあんまり見慣れないカジュアルな感じっていうか」
 それについては鐘崎と紫月が傍から口を挟んだ。
「その通りだ。こいつな、当時冰に会いにいく時はファミリーと気取られねえようにって、わざとラフな格好を心掛けていたそうでな。あの頃にしてみれば年相応だったろうが、今じゃ若作り過ぎやしねえかと言ったんだが――」
「そうそ! でも氷川ったら冰君が何かを思い出すきっかけになるはずだからってさ。当時着ていた服を引っ張り出してきたらしいぜぇ!」
 というよりも、そんな何年も前の服を未だ大事に取ってあることの方に驚いたと鐘崎も紫月も冷やかし気味に微笑んだ。
「そりゃ取っておくさ! 何てったってこいつは俺と冰との大事な思い出の服だからな」
 その思いを知っていた真田も、古い洋服が傷まないようにと時折クローゼットから出しては風に当てたり、時には洗濯をしてプレスもかけたりしながら大事に保管してくれていたそうだ。
「だがまあ……確かに若作りし過ぎと言えるな。三十越した男が着る服じゃねえ」
 少し恥ずかしそうに頭を掻きながら頬を染めてみせた周に、冰は破顔するほど感激といったようにしてクシャクシャと満面の笑みを見せ――その双眸からはポロポロと真珠のような涙をこぼした。




◆38
「ううん! そんなことない! すごく良く似合ってるよ……!」
 やはりあのお兄さんは周だった。それが分かっただけでも冰にとっては何ものにも変え難い安堵に違いない。
「白龍、ありがと……。ありがとうね……! 俺、俺……」
 やっと宝物を探し出すことができたよ!
 そう言って自ら広い胸に飛び込んだ。

 お兄さん、行かないで――。ずっと側にいて――!

 あの日、この場所で強く強くそう願った。夕陽が沈み、街に灯がともり、百万ドルの夜景に包まれながらもその煌めきが自分の涙の粒のように思えていた。
 その時の感情を思い出した瞬間に、次々と思い出が蘇ってきた。
 一緒に公園を散歩したことも、饅頭を交換して食べたことも、黄老人の帰りを待ちながら宿題を見てもらったことも、すべてが走馬灯のようにして鮮明に蘇ってきたのだ。

『ボウズ! おい、ボウズ! そう急ぐな。走って転んだりしたらいけねえ』
『大丈夫だもーん! だってお兄さんが一緒なんだもん! もしも転んでもすぐにお兄さんが助けてくれるもん!』
『こいつぅ! じゃあ、そうだな。転ばぬ先の杖だ。こうして――』
 周は小さな手を取ると、大きな掌の中にしっかりと握り込んだ。
『ころばる……? ってなぁに?』
『転ばぬ――だ。お前が怪我したりしねえようにだな、こうして俺が常に見ててやれば安心というような意味だな』
『お兄さんがいつも見ててくれるの?』
『そうだ。お前一人じゃ危なっかしくていけねえ』

 大きな掌のぬくもりがあたたかかった。何よりもずっと側で見守っていてくれるという言葉が嬉しくて堪らなかった。
 ドキドキと心臓が大きな音を立てて脈打つ感覚も早くなっていく。

 そう、そうだよ。ずっとこのまま――このお兄さんと一緒にいたい。
 ずっと側にいて欲しい。
 ずっとこうしてあったかい大きな掌で握っていて欲しい。
 お兄さんは特別な人だもの。僕にとって大好きな大好きな大切な人。
 できることなら……お兄さんが僕だけのものだったらいいのになぁ。

 そんなふうに思う時、楽しさや幸せな感覚とは裏腹に胸がキュウっと締め付けられるように苦しくもなった。
 幼心に芽生えた小さな独占欲や嫉妬心の意味などまったく分からなかったが、その頃からこのお兄さんが自分だけを見ていてくれたらどんなにいいかと思ったものだ。
 多分――あれは既に自覚こそないものの、恋の感情だったのだろうと思う。
 ずっと一緒にいたい。誰にも盗られたくない。自分だけを見ていて欲しい。
 彼の側にいると幸せだった。だが、同時に甘苦しくもあった。そんな気持ちを人は何と呼ぶのだろう。

 初恋――というのだろうか。

「うん、そう! 白龍だよ! あのお兄さんの顔、今ならはっきり分かる。白龍だよ……!」

 今ならば分かる。あれは紛れもない初恋だった。

 ポロポロとこぼれてやまない涙の粒を亭主の広い胸に預けて冰は泣いた。
 哀しい涙ではない。嬉しくて、満面の笑みと共にこぼれる幸せの涙だった。



◆39
「ありがとう。ありがとうね、白龍! あの時俺が仕舞い込んじゃった大切なものを……一緒に探し出して見つけてくれて」

 ありがとう――!

「皆さん……鐘崎さんも紫月さんも鄧先生も、本当にありがとうございます!」

 お陰で探し出すことができました。思い出すことができました。冰は止めどない涙を拭いながら何度も何度もそう言っては心からの礼を込めて頭を下げたのだった。
「よーし! それじゃ今夜はお祝いだな!」
「風の兄貴やご両親もきっと首を長くして待ってっだろうから!」
 鐘崎と紫月の明るい声で心が湧き立つ。
「はい、はい……! お父様たちにもご心配掛けちゃって……。ちゃんと思い出せましたってご報告したいです!」
 眼下には灯り始めた街の灯が、それはそれはキラキラと輝いて、まるで蘇った二人の思い出を祝福してくれているかのようだった。

 その夜、本宅での夕膳の時を和やかに過ごした周と冰は、鐘崎らと共にホテルへと戻って来た。明日はもう帰国の日である。強行スケジュールであったが、二人にとってはこの上なく実りのある小旅行となった。
 大パノラマの窓から夜景を見下ろしながら、二人ぴったりと寄り添っているだけで充分にあたたかかった。
「ありがとう白龍。俺、本当に……」
「いいや。思い出せたのはお前が一生懸命に探し出そうとがんばってくれたからだ」
「ううん、白龍が一緒に探してくれたからだよ。それにさ、さっきビクトリアピークで言ってくれたこと、俺を置いて行ったって言ってたけど。そんなことない! 白龍はずっと、この香港を離れてからもずっと気に掛けてくれてた。俺、置いて行かれたなんて思ってない!」
「――冰、お前……」
「だからすまなかったなんて思わないで。後悔してるなんて言わないで。俺、本当に幸せだった! 遠く離れても、いつかはきっとまた会えるって心のどこかで信じてた気がするんだ。だから黄のじいちゃんが亡くなる直前に白龍のこと聞いて、俺は間違ってなかったんだって思ったんだ。いつかきっとまた会える。今がその時だって」
「冰……」
 あの時、もしも周が家族も未来も捨てて自分と黄老人と共に生きる人生を選んだとしても、それは運命がそうじゃないよと言ってくれたからなのだと思う、冰はそう言った。
 今は寂しくとも、少しの間互いの距離が遠く離れたとしても、それは来たる未来により一層強い絆で結ばれる為に必要な時間だったのだと――。
「きっと神様がその方がいいって俺たちを導いてくれたように思うんだ。思い出を忘れちゃったのも、きっといつか思い出せる日が来るから――今は鍵を掛けて大切にしまっておきなさいっていうことだったのかも」
「冰――」
「ありがとう白龍。出会ってくれて、ずっと気に掛けてくれて……そして今はこうして一緒にいてくれて」

 本当にありがとう――!

「冰――」
 何も言葉にならないまま、並べられていた肩を抱き寄せて強く抱き締めた。強く強く、きつくきつく、苦しくなるほどに抱き締めた。
「お前ってヤツは……本当にどこまでも」

 純粋で俺を包み込む天使のようだ――!

 周の双眸にもまた、うっすらと滲み出した熱い雫が潤み出し、二人はひしと抱き合ったまま言葉を交わすこともなくただただ互いの温もりを確かめ合った。
 二度と離れぬと固く心に誓い合いながら、ただただ抱き締め合ったのだった。




◆40
「なあ、冰。時々思うんだ。もしもあの頃、香港を離れることなくずっと一緒に過ごしていたとしたらどうだったのか――とな」
「白龍……?」
「もしかしたら――俺はもっと早くにお前にプロポーズしていたかも知れんな」
「プロポーズ……!」
 途端に真っ赤に染まった頬の熱を隠すようにモジモジと視線を泳がせる。
「大学を出るまでは――そう、多分あのまま月に何度かはお前に会いに行っていただろうし、仕事に就いてからもそれは変わらなかっただろうとな。ただし、てめえ自身で銭が稼げるようになったことで案外早くにお前と一緒に暮らしたいと考えたんじゃねえかってな」
 その頃には冰も中学に上がっている年頃だ。
「俺も実家を出てお前と黄のじいさんと――それに真田もおそらく一緒だろうな。四人で一つ屋根の下に住んで、お前が修業する頃には結婚したいと言い出したんじゃねえかとな」
 もしも運命がそんなふうにもうひとつの道へ進んでいたとしたら、お前はその申し出を受け入れてくれたか――? はにかみながらもそう訊いてよこした周に、冰は破顔するほどの笑みでクシャクシャにしながらその首筋へと抱きついた。
「もちろんだよ! だって俺、あの頃から白龍のことが大好きで大好きで仕方なかったんだ。あ、でも……」
 あのまま一緒に過ごしていたら、今度はその恋情で苦しんだかもねと言って冰もまたはにかんだ。
「それを言うなら俺の方だな。お前を――家族や兄弟としての愛情を超えて恋愛対象として惚れちまったことを黄のじいさんに何て説明すりゃいいんだと悩んだろうな」
「白龍ったら……! でもそうだね、その時はきっと――真田さんが助け舟を出してくれたかも知れないよね」
「おう、そうだな。真田は頼りになる!」
「だよね。なんて言ったって爹だもんね! ねえ白龍、俺たちって頼りになるお父さんがたくさんいて幸せだよね!」
「そうだな。親父に黄のじいさんに真田――。それにカネと一之宮の親父さんたちも俺らの父親みてえなもんだ。皆んなそれぞれにあったかくて、でも厳しいところもあって俺たちのケツを叩いてくれるしな」
 あはははと声を絡ませて朗らかに笑う。

 ねえ、白龍。
 なあ、冰。

 いつから俺のことを好きだった――?

 そんなふうに言いたげな視線が重なって、二人同時に思いきり吹き出してしまった。
「うん、俺はね。多分……初めて会ったあの瞬間から」
「だろうな。俺もそうだったように思うぞ。このボウズは俺のもんだ、誰にも渡してなるもんかと、潜在意識の中でそう決めていたような気がするからな」
「本当?」
「ああ、本当だ!」



 お兄さん!

「お兄さん!」

 ボウズ!

「ボウズ!」

 互いを呼び合うその言葉は、二人にとってかけがえのない宝物。
 遠い日に封印せし大切な思い出をしまい込んだ扉の鍵が今、開く。
 その宝物を胸に、より一層互いを想い、絆を深めた夫婦を祝福するかのように街の灯は煌めき、そして新しい朝が白み始める。

 あなたと俺は、
 お前と俺は、
 唯一無二、一心同体の心を分かち合った何よりも大切な相手。今までも、これからも、ずっとずっと手を離さずに歩いていこう。
 例えばそれが肉体の滅びる死であったとしても、二人を分つことは叶わない。形が無くなっても――心は、魂は、決して離れることがない。
 どんなに険しい道でも、どんなにゆるやかな道でも、繋いだこの手を離さずあなたと共に歩んでいこう。
 どこまでも、
 いつまでも、
 病める時も健やかなる時も|永久《とこしえ》に――!

封印せし宝物 - FIN -



Guys 9love

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