焔
こういうのが俗にいう四面楚歌っていうヤツか――
まるで珍しいモノでも見るような目つきが方々から飛んでくる。
隣りの席のヤツ同士、ヒソヒソ声で囁き合いながらチラリチラリとこちらの様子を窺っては、奇異の視線が冷たく嘲笑う。
何も聞かずとも、まるで『お前なんか畑違いだ』とでも言いたげな、冷ややかな視線が重苦しく渦を巻く。
「今日からこのクラスに転入することになった鐘崎遼二君だ。鐘崎君はご両親の仕事の関係で、小さい頃から香港に住んでいてな。だから日本語は勿論、英語と広東語の三ヵ国語ができるという、たいへん優秀な生徒だ。時期外れの転入だが皆、仲良くするように」
教壇の隣りで、俺の頭ひとつ分ほど小さい担任教師の男がそんなふうに紹介した。
「じゃあ鐘崎君、簡単な自己紹介を――」
そううながされ、俺は視線を上げて、ぐるりと教室内を見渡した。と同時に、ヒソヒソ声の噂話がピタリと止んで、代わりに如何にもシラけたような空気が流れて伝うのを感じた。
「鐘崎遼二です。半年前に事故で両親を亡くして、生まれ故郷の日本に帰ってくることになりました。と言っても別にここ(日本)に親戚があるってわけでも無えんで一人暮らしですが……どうぞよろしく」
軽く会釈をし、その瞬間に今度はシラけた空気がザワつきへと変貌する。生徒らは無論のこと、担任までもが驚いたように目を丸くしながら、俺の顔を凝視していた。
少々焦ったようにして、『そんなことは言う必要ないんじゃないか?』とでも言いたげなのがよく分かる。
「で、では……キミの席はこの列の一番後ろだから」
担任に指示されるままに、その席へと向かって歩き出せば、それこそ腫れ物に触るような調子で、教室中の視線が一気にこちらへと飛んできたのに、舌打ちしたいのを抑えて平静を装った。
なんでそんなヤツがこの学園に入って来られたんだという蔑み交じりの感情と、いったいこいつは何者なんだという興味の感情が入り混ざって、まったくもって心地のいいものではない。品定めの野次馬根性が、瞬時に阻害と敵視のような雰囲気にとって代わるのを感じていた。
此処はいわゆる進学校という処らしい。家柄よろしく、学園に通う者の殆どが何処ぞの御曹司というべき裕福な家庭に育った者たちの溜まり場だそうだ。
だからこそだ。自ら化けの皮を剥いでやった方が、後々面倒事が回避できていい、俺はそう思ってわざと天涯孤独の身であることを暴露した。
◇ ◇ ◇
半年前、俺の両親は香港で事故死した。
正確にいえば『事故死したことになっている』といった方が正しいのか――
俺の父親は少々変わった稼業に就いていて、そのせいで幼い頃から常に危険と隣り合わせにいるような生活を強いられてきた。
大雑把にいえば、政府や警察をはじめとする機関や各界の大物といわれるような個人らから依頼を受けて、表沙汰にできない闇の悪事などを秘密裏に片付けるという、いわば裏稼業と呼ばれるものだった。
親父は改めて口にはしなかったが、暴力沙汰は無論のこと、場合によってはヒットマンのようなことを請け負っていたのを、俺は薄々気づいていた。いわば殺人含めてということだ。
親父は腕の達つ始末屋として各方面から絶大な信頼を受けていたらしく、裏社会で『鐘崎僚一』の名を知らない者は皆無といわれた程だった。
その為、恨みを買うことも多い立場にあって、親父に潰された組織などが、俺たち家族を含めて復讐のターゲットにしてくることは茶飯事で、だから俺は幼い頃から必然的に武道をはじめとする様々な修行めいたものを叩き込まれて育った。ご当地の広東語は無論のこと、英語の他に一応母国語である日本語を身に付けさせられたのも同じ理由からだ。
一見、強制的なスパルタ教育のように思えるが、物心ついた時からずっとそうだったので、俺にはそれらを格別に苦労と感じたことは無かった。その理由のひとつには、同じ立場の幼馴染がいたということも大きかっただろう。
親父には常に組んで仕事を遂行する、表裏一体と呼ばれる相方がいた。名を柊麗(ひいらぎ れい)といい、幼心に酷く綺麗な人だと思ったのをよく覚えている。
どちらかといえばガタイのよく、男臭い感じの親父に相反して、華奢で細身のその人は、人間臭さがまるで感じられないような、例えて言うなら人形のような印象の男だった。子供の俺や、俺のお袋に対してもあまり愛想の無く、口数も少ないという調子で、それが容姿の美しさと相まって、俺の中ではえらく冷たいオッサンというイメージが強烈だった。
その独特な雰囲気に圧迫されるような感じがして、俺はそいつのことを普通に『おじさん』と呼ぶことができなかった。ガキのくせに子供らしくないが、そいつに対してはいつも名前に『さん』付けで、麗さんと呼ぶようにしていた。何故ならそう呼んだ時にだけ、無愛想なそいつがフッと表情をゆるめて微笑いかけてくれるのがうれしかったからだ。
俺は美しく整ったその笑顔を見るたびに、なんだか良い行いをしたような心持ちになって、奇妙な優越感を感じていた。とはいえ扱いは難しく、会う度に顔色を窺うのが日課だということに変わりはなく、とにかくいつでも気を遣わせる人だったのは確かだった。
そんな中にあって、その麗さんの一人息子である倫周という奴が、打って変わって人懐っこく愛くるしい性質だったのが救いだった。ヤツは俺より一つ年上で、ほぼ生活を共にしているも同然だった。住んでいるアパートも隣り合わせ、特別仕様でコネクティングになった部屋の鍵を開ければ夜中でも自由に行き来可能な間柄だ。
同じ学校に通い、同じ武術を嗜み、俺たちは幼馴染というよりも兄弟というような間柄として育てられた。
危険と隣り合わせの特殊な環境での厳しい稽古や教育を、左程の苦難と思わずに来れたのは、この倫周の存在が大きかったからかも知れない。常に傍にいて、苦楽を共にできる相手があるということが、幼い俺たちにとって何よりの支えであったのは確かだ。
思春期を迎えてもそれらに変わりはなく、倫周をはじめ、麗さんら家族と共にいられることが当たり前の幸せだと実感してもいた。
そんな境遇が崩れ始めたのは、ついぞ一年程前のこと、俺が十七歳になって間もなくのことだった。
理由は親父の裏切りだった、とひと言では片付けられない体験をすることになろうとは、その頃の俺には想像さえ出来得ずにいた。
家庭を崩壊し、家族それぞれの心に深い傷痕を残すことになった出来事――
信じられないことに、俺の親父とその相方であるはずの柊麗は愛し合っていたのだ。
同性であり、互いに妻子も持ちながらにして、何故二人がそのような関係に陥ったのかは分からない。常に死を覚悟しながらの危険な任務の中にあって、信頼が愛情へと変わったのだろうか、今となっては計り知れないことだ。
その事実が発覚して間もなくのことだった。麗さんの妻であり、倫周の母親でもある美枝さんが自殺をした。
もともと麗さんの『感情の起伏の無い性質』に不安を抱いていたらしい彼女は、彼の裏切りを知ると半狂乱になって錯乱状態に陥ってしまった。そして湾に身を投げた挙句、往来の激しい船舶に轢かれるという惨い亡くなり方をした。
それまで、衝撃を受けながらも何とか理性を保っていた俺のお袋も、彼女の死を目の当たりにした頃から様子がおかしくなっていった。親父に対する怒りや絶望が、形を変えた狂気となって、お袋を苛んでいったのだ。
その矛先が異常な愛情となって俺へと向けられるようになったのは、それから間もなくしてのことだった。
あろうことか、お袋は俺に抱かれようとしたのだ。
最早、親父との区別がつかなくなってしまったのだろうかと、俺は焦り、驚いた。
年齢を重ねるごとに親父そっくりになっていく俺を、親父と勘違いしているのだろうかと、最初は本当に心配にも思った。
だが違っていた。
お袋の奇怪な行動は、勘違いでも区別がつかなくなったわけでもなく、俺と知った上で肉体関係を結ぶことを望んだのだ。
今でも耳の奥にこびりついて離れない声――
『遼二、あんただけはワタシを裏切らないわよね? あんただけは、私を見捨てたりしないわよね?』と、涙混じりに嗄れた声で迫りくる悪夢が消えない。
お袋が正気を保った上で俺を求めているのが分かった時、当然のことながら俺は拒絶した。最初はやさしく、なるべく傷を押し広げたりすることのないようにと精一杯の言葉で宥め、慰めようと努力した。
だがダメだった。
俺にまで拒絶されたと思い込んだお袋は、俺が寝入るのを見計らって催淫系の薬を盛り、思いを遂げんとまでした。
何かがのしかかってくるような鈍い重みで目が覚めた俺が見たものは、言葉にできないような地獄絵図だった。
素っ裸に薄い下着をまとっただけの姿で、髪を振り乱しながらお袋が腹の上にまたがっているのを知った時、全身に鳥肌が立ちのぼるのを感じた。
だが、催淫剤の効果は瞬く間に望まない欲情となって俺を惑わせ、その変化に歓喜するように、俺の太股へとうずめられたお袋の顔、頭、乱れた髪――
あまりのことに、気付けば俺は、お袋を突き飛ばしていた。
その弾みで狭い部屋の中の物がガラガラと音を立てて散乱する。テーブルから落ちて割れた花瓶の破片が、お袋の腕や頬に飛び散っては血痕まみれにし、その姿はまるで夜叉か何かのようで、凄まじい。
だが当の本人はそんなことにはおかまいなしで、再びベッドをよじ登り、俺を求めて迫りくる。肉欲に満ちた狂気の姿が恐ろしくてたまらなかった。
正直、腰が抜けそうになった。
だが、驚愕だったのはそれだけじゃなかった。心とは裏腹に、どんどん勢いを増す欲情の感覚が信じられずに、気が狂いそうになった。
少しでも気を許せば、目の前で乱れる女に手を伸ばし、醜い欲をぶちまけてしまいそうになる自分が恐ろしくて堪らなかった。
色欲に支配された俺にとって、目の前にいるのは母親でも何でもなく、ただの性欲処理の為の道具にしか映らない。
ベッド脇に降り立ち、突き飛ばされた女の腕を掴み、引き寄せて、もうどうなってもいいとさえ思った。頭は朦朧とし、思考は回らない。床の木目模様が歪んで眩暈がする。
そんな時だ。ふと、よろけて踏みつけたガラスの破片が足の裏に突き刺さって、俺は一瞬の正気を取り戻した。
俺は咄嗟にそれを拾い上げて、僅かな正気を失わない為にと、破片で自らの腕を突き刺した。
狂気のようなお袋の叫び声が脳天をつんざき、ドクドクとあふれ出す血の痕に意識が遠のいていく――
朦朧とする中で俺が最後に目にしたものは、扉口で驚き立ち尽くす親父の姿だった。
ちょうど帰宅したところだったのか、寸でのところでそれ以上の過ちに至ることは避けられ、安心した俺はそのまま意識を失ってしまった。
そのことに責任を感じたというわけか、両親が事故死したのは、それからしばらくして後のことだった。死因は銃撃による即死、いつもの通り、裏組織の密売隠滅という仕事中の出来事だった。
あれ程、腕利きと称賛されていた親父が、そんなヘマをするだなんて信じられないと、殆どの人間がそう思ったに違いない。仕事を依頼した側は唖然だっただろう。しかもその日に限って親父は傍らに相方の麗さんではなく、お袋を伴っていたのだから、皆が驚くのも無理はなかった。
わざと目に付きやすい遊歩道で狙撃されているという点から考えても、どうにも理解し難い行動に首を傾げさせられる。俺にはこれが親父の無理心中なのではないかと思わずにはいられなかった。
それは、その後の麗さんの行動からも窺えた。
妻が自殺し、相方夫婦が不審な事故死を遂げたことで独りになった麗さんは、親父たちの葬儀を手厚く済ませると、息子の倫周と俺に莫大な資産を託して行方知れずとなった。
驚いた俺たちは生前の親父達の仕事仲間などのツテを頼みに、懸命にその行方を捜したが、まるで手掛かりはつかめなかった。
親父の後を追って自ら命を絶ったのか、あるいはどこかで生きているのか、生死さえ分からずじまいだ。若干十七歳の俺たちには、どんなに手を尽くせども、その道のプロである彼の所在を突き止めるなど不可能に等しかった。
俺に残されたのは、幼馴染の倫周と莫大な遺産――
香港の銀行の他に、他国の銀行の貸金庫にも多額の金を預けていたらしい親父の遺産が転がり込んできたことで、とりあえず目先の生活に困ることはなく、それは倫周も同様だった。親父と麗さんは危険な裏稼業で稼いだ金を方々の銀行に預けていたのだ。
俺たちはショックを受けている暇もなく、葬儀の後始末やら遺産相続の手続きなどで、忙しない日々に追い立てられながら、しばらくの間、二人寄り添うように生活を共にした。
嫌な思い出のあるアパートを引き払い、通っていた学校も休学して、狭い部屋を借り、ただただ流れゆく日々を呆然と過ごした。
そしてすべてが一段落し、落ち着きを取り戻した頃、俺は香港を離れることを決意した。
壮絶な思い出のあるこの地に留まるのが苦痛だった俺は、生まれ故郷である日本での生活に夢を馳せるようになった。
何かに追われるような生活ではなく、普通の学生として暮らしたい。強くそう願った俺は、かつて親父から話に聞き及んでいたこの学園に転入することを決めたのだ。
元々、あんな事件が無ければ、高校最後の一年間を日本で過ごしてみないかという話向きだったというのもある。
両親の生まれ育った国であり、俺にとっての母国でもある日本で、少しの間でも普通の学生としての思い出を作らせてやりたいと、親父が再三口にしていたのが懐かしく感じられた。その思いを無駄にしたくないというのもあった。単に環境を変えたいという思いも無論だ。
俺は倫周を誘って帰国することを決めた。幸い、何処へ行っても金の心配は無い。それは有難いことだった。
だが、倫周は俺の誘いを断って、香港の地に残ることを望んだ。もしかしたら何処かで生きているかも知れない父親の麗さんを、どうしても諦めたくはないというのだ。
そしてヤツは父親を捜し出す為に、親父たちがしてきたその同じ稼業に就こうとしていることを俺に打ち明けた。
一人前のプロになれた時に、或いは麗さんが自分の前に姿を現してくれるのではないかという、一筋の望みに人生を賭けてみたいというのだ。
当然、俺は反対した。一人前のプロになるということは、イコール、殺しも含めた裏稼業に手を染めるということだ。
かくいう俺たち自身、どっぷりとその世界で育てられたということは、変えようのない事実に違いはないが、親父たちも亡くなってしまった今となっては、これ以上そんなことに関わって欲しくないと思ったからだ。
だが倫周の意思は固く、最早俺が何を言っても揺るぎようがないようだった。それが分かった時、俺たちは別々の人生を歩むことを決意した。
そうしてヤツを一人、香港に残し、俺は生前の親父が留学させるつもりだったというこの学園に入学したというわけだ。
今までとは打って変わった平凡な日々――
誰かに狙われる心配もなく、何より此処には俺の過去を知っているヤツは誰もいないというのが心地いい。親父の稼業のことを知る者も皆無だ。
だがやはり人間の嗅覚というのは大したものだ。このクラスの連中が先程から胡散臭そうに俺を見るのは、きっと俺にそんな雰囲気が沁みついて離れないからなのだろう、何も言わずとも自分たちとは違う危険なニオイが漂っているのを感じ取るのかも知れない。
こいつは何者だ、自分たちとは明らかに別の畑のヤツだ、いつか害を及ぼすに違いないと、まあそこまでは思っていないにせよ、露骨にそんな感情をぶつけてきやがる。ある意味、本能とは大したものだと感心しつつも、実際あまり感じのいいものじゃない。
だがまあ、香港にいた時に比べたら、こんなことくらいどうってことないと思えた。無視されようが、毛嫌いされようが、実害を加えられる心配など無いのだし、至って気楽なもんだ。いつどこで、いきなり銃口を突き付けられるか分からないと、刺々しかったあの頃を思えば、存外楽園に思えた。
――ふと、香港に残してきた倫周のことが頭に浮かんだ。
今頃ヤツはどうしているだろう?
それを思えばこんな所で平々凡々と、何の目的も無しにダラダラしているのもどうかと思えたが、とにかく今はこれでいい。やりたいことなどその内、自然と見つかるだろう。
そんなことを考えながら、俺はぼんやりと午前中の授業をやり過ごした。