生まれ育った香港を離れ、日本の高校へ転入してからひと月余りが過ぎた。
 俺は一之宮紫月と雪吹冰とツルんで過ごすことが日常となり、クラスメイトたちとも普通に会話が増えた頃――紫月が冰を連れて俺の家へ遊びに来たいと言い出した。
「俺ン家にか?」
「そそ! 遼二、一人暮らしだべ? ちょっと憧れんだよねぇ」
 将来の参考に見ておきたいと紫月は乗り気だ。
 俺は天涯孤独の身だから確かにアパートで一人暮らしだが、そこを世話してくれたのは亡き親父が懇意にしていた裏の世界の情報屋だった。名を東堂源次郎といい、親父よりも年上で酸いも甘いも知り尽くしたベテランエージェントだった男だ。若い頃には親父や麗さんとも組んで各地を飛び回っていて、幼い俺や倫周ともよく遊んでくれた。俺は彼を『源さん』と呼び慕い、家族も同然の信頼できる人だ。現役を引退した今も情報屋として裏の世界と繋がっている。
 そんな男が世話してくれた住処だ。つまり、アパートといっても住宅街ではなく、繁華街にあるビルの一室を間借りしているといった具合である。三階建ての古いビルで階下はタバコ屋、情報屋の源さんが営んでいる店だ。
 俺の住処は三階で、二階には源さんが住んでいる。むき出しのコンクリートの壁は所々剥がれ落ちていたり、配管も壁の外側に出ているような造りで時代を感じるが、逆にレトロといえなくもない。
「来ても構わんがむさ苦しい所だぞ。お前らの家とは月とスッポンだろうが、それでもいいなら――」
 どうせ紫月も冰も良いところの御曹司だ。繁華街の古ビルなど、出入りしたこともないのではと思えたが、来たいというなら断る理由もない。まあ興味本位だろうから、一度見てみれば気が済むだろうと思い俺は快諾した。
 放課後、二人を連れて住処へと案内する。
「うっはぁ……すっげ街中なのな」
 紫月は大きな瞳をグリグリとさせながら、見るものすべてが珍しいといったように視線を泳がせている。まあ当然の反応だろう。学園は港を見下ろせる高台にあるし、周辺は高級住宅街だからどこもかしこも品に溢れていて閑静だ。こんな繁華街のど真ん中にある喧騒には慣れていないのだろう。夜になれば対面のビルには賑やかを通り越してえげつないほどのネオンがギラギラとし、バーやクラブに飲食店は当然のこと、しいては危ない闇カジノなども点在しているような街中だ。箱入り育ちであろう彼らには到底縁遠い環境に違いない。
「ふぅん、お前ここに一人で住んでて怖くねえの? なんか……夜中とか階下の道で喧嘩なんか起きそうじゃん」
 窓枠から遠慮がちに外を見下ろしながら紫月が言う。何事につけても好奇心旺盛なヤツのことだ、想像通りの反応といえるが、一方の冰もまた、相変わらずに紫月とは真逆の無関心な様子でいる。俺がいつも飯を食う小さなダイニングの椅子を陣取りテーブルに肘をついては、部屋を見渡すわけでもなく紫月の会話に乗るでもなく、差し出したウーロン茶のペットボトルに口をつけながら退屈そうにあくびをしている始末――。
 転入以来、俺は興味からこの二人についてそれとなく探りを入れる日々を送っていた。彼らの家柄やこれまでの交友関係などの調査である。
 クラスメイトについての調査など褒められたものではないが、これも香港時代の名残か――とかく雪吹冰についてはどうしても興味が抑えられなかったからだ。
 理由は冰本人に対して特別な感情があるというよりも、転入初日にヤツから見せられたいかがわしい写真のことが気に掛かってならなかったからだ。
 どうにかして彼をあのような酷な現状から救ってやりたい、その一心で情報を集める日が続いた。
「遼ちゃんも苦労性だのう。やはり血は争えんといったところかね」
 情報屋の源さんは半ば呆れ気味でいたが、そこは長年親父とツルんでいた裏の世界の人間だ。何やかんやと世話を焼いては情報収集に一躍してくれるのは有り難かった。
 調査によって次第に冰に関する様々な事柄が明らかとなってはきたものの、正直なところ俺にとっては眉をしかめさせられる事案ばかりだった。
 紫月も言っていたが彼は雪吹貿易という大会社の御曹司で、自宅は学園近くの高級住宅街にあった。一人っ子で、母親と数人の使用人と共に住んでいるようだったが、父親の方は海外にある支社に行っきりで家を留守にすることの方が多いらしい。大会社には違いないが、各国に支社を広げ過ぎた感もあり、経営状態という点では左程悠々自適というわけではないようだ。源さん曰く、社にはかなりの借入金があり、そんな点でも父親が各地を駆けずり回って自宅に帰れない日々が続いているようだという。
「それがな、遼ちゃん。ここふた月ばかり前のことだ。雪吹貿易に資金面の援助を申し出た企業が見つかった。比較的若い企業で、主にIT関連を扱っているらしいが――」
 長いことプロのエージェントで食ってきた源さんでもあまり聞かない名の企業だという。
「少々胡散臭いニオイがするが、もうちょい探りを入れてみようと思っとる」
「すまねえな、源さん。俺もその社について経営状況なんぞを当たってみるわ」
 もしかしたら冰がいかがわしいことに巻き込まれているのは資金援助のカタという可能性も無くはない。だが、大金を援助するのに一高校生相手の色遊びで代償になるとも思えない。ただし、あれを動画か何かに残して売り捌いているというなら話は別だ。ある程度の金が稼ぎ出せている可能性も高い。
 いずれにせよ何か裏があるのかも知れないが、とりあえずのところ、ここひと月ばかりの間に関して言えば、冰があの時見せてくれた写真のような目に遭っている機会は無いはずだ。俺は転入したあの日から冰の行動をそれとなく監視してきたが、彼が単身で何処かに出掛けるといったこともなかった。
 とはいえ、真夜中未明にヤツがこっそり自宅を抜け出しているというなら俺にも知り得ない事実があるかも知れない。さすがに二十四時間ヤツに張り付いて目を離さずにいられるわけもないからだ。
 ただ、冰が俺に打ち明けたあの日以降、ヤツの態度に変わったところは見受けられなかった。酷く落ち込んでいるといった様子もないし、だとすればあれ以来ああいった目には遭っていないだろうと思われる。まあこれは俺の希望的観測に過ぎないのだが、転校初日のあの日以来ヤツの感情の変化には常々気を配ってきた中で、危機感を感じなかった己の嗅覚を信じることにする。
 そんな思いが一転することになろうとは、さすがに予測できなかった。何と、冰がそろそろ帰ると言い出したからだ。
「はぁ? もう帰るってか? つか、まだ来てから十分も経ってねえじゃん」
 紫月も驚き顔でそう言ったが、当の本人は何やら時計を気に掛けながらソワソワと落ち着かない様子でいる。

 まさか、これから例の奴らと会う約束でもあるってのか――?

 危険が迫っている――俺の本能がそう告げた。

「――冰、帰るなら止めねえが、その代わり俺が家まで送る」
 そう言った瞬間に、冰も紫月も驚いた表情を見せた。
「……送るって、ガキじゃねんだ。一人で帰れるって」
 冰は言い張ったが、とてもじゃないがうなずける気分ではない。
「いいから言うことを聞け! 電車は論外だ。俺が車を拾って送る。おめえを一人で帰すつもりはねえからな!」
 少々語気を荒げて言うと冰はやれやれと肩をすくめてみせた。
「冗談! 勘弁してよ、そーゆーの! 俺ァてめえの持ちモンじゃねえっての。第一、今日だって紫月がどうしてもって言うから付き合ったけどよ。正直もうアンタの家は見たし、ここに居る理由もねえしな」
 俺は焦燥感からか、ついヤツの胸倉を掴み上げてしまった。
「本当に家に帰るんだな? まさかこの後てめえ一人で何処かへ出掛けようってんじゃあるめえな?」
「は? 出掛けねえって! つか、俺が誰と何処へ出掛けようがおめえにゃ関係ねえだろが」
「――関係なくはない! 俺は……」
「何だよ。つーか、手ぇ離してくんね? おめえ、背でけえんだからさ、いつまでこうされてりゃ首吊っちまうっつの」
「あ、ああ……すまねえ」
 咄嗟に手を離したが、やはり己の中の本能が彼を一人で帰してはならないと告げる。
「――分かった。だったら送るとは言わねえ。その代わり、せめて車を拾わせてくれ。階下でオートン拾うから、それ乗って帰れ」
 そうすれば送るのは諦める。車を拾い、運転手には俺自身でこいつの自宅を告げればいい。しばしの押し問答の末、冰が渋々ながらも承諾したので車で帰すことにした。
 それからすぐに階下まで付き添って車を拾った。運転手には俺の口から行き先を告げて、事前に料金も握らせる。
「運転手さん、頼んだぜ。くどいようだが行き先は絶対に変えねえでくれな!」
 わざと圧のある声色でそう頼み、冰を乗せて送り出す。部屋に戻ると紫月が怪訝そうな顔で俺を迎えた。

「驚れえた。もしかお前、マジで冰にイカれちまってるわけ?」
 呆れ口調――というよりも半ば侮蔑が勝ったような言い方で紫月が見つめてくる。窓辺を背に、何だか突っ掛かるような口ぶりで苦笑まじりだ。
「別に――そういうわけじゃねえ。ただあの冰は……」
「……何よ」
「いや――何でもねえ」
 紫月と冰は俺が転入する前からある程度親しい間柄だったはずだ。もしかしたら紫月も冰の境遇を知っているのかも知れないと思ったが、今のこの態度を見ていると、どうもそうではないらしい。もしも知っていれば一緒にとめただろうと思えるからだ。
「なあ、紫月――お前らは……」
 どの程度の仲で、どの程度互いのことを知っているんだ――そう訊きたかったが、仮に冰がまったく事情を打ち明けていなかった場合、ヤツの秘密をバラすことにもなり兼ねない。俺は言葉を呑み込んだ。
「遼二よー、おめえさ、初めてランチ食った時に女は抱けねえとか言ってたけど……やっぱゲイ? んでもってあの冰に惚れちまったとか?」
 図星だろうと冷やかすような視線を向けてくる。
 だが実際は違う。俺は単に冰の身の上が心配なのであって、あいつ自身に恋情を感じているわけではないからだ。
 とはいえ紫月の目にはそう映るのだろう。初めてのあの日から堂々自分はゲイだと暴露した男だ、その辺りの勘は鋭いんだと言いたげに不敵な笑みをぶつけてくる。
「勘違いするな。惚れたわけじゃねえ」
「ふぅん? ま、いっけどー。ちょっと羨ましいって思っただけよ」
「羨ましい――?」
「そ! 俺もあんなふうにムキになってくれる相手がいたらなって思うだけ」
「……ムキになってたように見えたか?」
「ああ、見えたね。おめえ一人で帰すつもりはねえ! とかさ。ありゃあ誰が見たって惚れちゃったとしか思えねえ入れ込みっぷりだっつの!」
「――そんなつもりはねえよ」
「自分じゃ気がついてねえだけじゃね?」
「そんなことはねえ」
「信じらんね!」
 段々語気が荒くなってくる。何故にこうまで突っ掛かってくるのか、紫月の意図が分からずに少しの苛立ちが募る。
「まあ座れ――。コーヒーでも淹れる」
 そう言うと、存外素直に紫月は窓辺を離れて、ついさっきまで冰が陣取っていた椅子に腰掛けた。

 コーヒー豆を挽き、セットする。

 落ち着け、落ち着くんだ。たかがガキの嫌味くらいで何を苛立つ必要がある。ガキと言うにはさすがに語弊があろうが、裏の世界にどっぷりと浸かって生きてきた俺からすれば、紫月や冰のような高校生などガキも同然――いちいち真に受けるのは大人げないと思ってしまう。そう自分に言い聞かせながら黙々とカップを棚から引っ張り出す。そんな俺の仕草を見るともなしに見つめていた紫月から意外な言葉が飛び出して、ガラにもなく一瞬言葉を失いそうになった。
「なあ、遼二よぉ。さっきさ、もしか俺が帰るっつっても――お前、おんなしように送っていくとか言った?」

「――え?」

「気になってさ。冰だから送りたかったのか、それともダチなら誰にでも同じこと言ったのかなって。例えばそれが俺でもおんなしように気に掛けてくれたのか――ってさ」

 どうだろう。もしも帰ると言ったのが冰ではなく紫月だったら俺は止めたろうか――。とめなかったかも知れない。
 理由は、紫月には冰が抱えているような事情が無いからだ。
 こいつの実家は名のある道場を経営していて、今は父親が師範となって切り盛りしているようだが、祖父や曽祖父に当たる人物は大きな寺の住職だそうだ。江戸以前の古くから続く立派な寺で、紫月の家は代々住職として寺を護ってきたようである。元々はその寺で青少年を集めて武術を教えていたようだが、近くの土地に道場を建てて、今では大々的にやっている。
 紫月はそこの一人息子で、幼稚園から今の学園に通い、エスカレーター式で高等部まで上がってきたという経歴の持ち主だった。彼自身も幼い頃から道場で学び、関東大会や全国大会まで進んだ記録を数々持っている。つまり、ある程度腕は達つといったところなのだろう。高等部に入ってからは部活動など積極的に参加している様子はなかったが、実家では常に修行を続けているようだった。
 裕福という点では冰も紫月も似たようなものだが、俺の調べた限りでは紫月に冰が抱えているような酷な現状は見当たらないといったところだった。
 そんな彼が帰りたいと言ったなら、『ああそうか、気をつけてな』程度で、特に気には掛けなかっただろう。
 だがしかし、素直に『とめなかったと思う』と言うのは憚られる思いでいた。何故なら紫月の縋るようでいて物憂げな視線が酷く悲しそうに見えたからだ。普段の自信満々でいて図太い性質のこいつとは思えない、それはどこか冰の抱えている苦悩にも通ずるような視線だった。



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