「ダイナー・プルダウン――ここか」
 表向きは源さんの言っていた通り、普通のバーだ。湾岸べりの広大な敷地の中にポツンと建っていて、周囲には有刺鉄線で囲われた空き地や倉庫なども建ち並んでいる。洋画に出てくるような軍の基地を連想させられる。
 そんな混沌とした雰囲気の中、店は少し洒落た感があり、猫も杓子も気軽に入れる雰囲気ではないものの、一見にして危ない雰囲気は感じられない。とにかくは店内へと足を踏み入れた。
「いらっしゃいませ。お一人様でしょうか?」
 言葉じりは丁寧ながら、その視線は怪しげに俺を観察している。おそらくここに来る客は常連ばかりなのだろう、明らかに一見の俺を警戒しているのだろうことが窺えた。
「待ち合わせだ。相手は少々遅れるそうだから先に飲ませてもらう」
 そう言うとホッとしたように笑顔を見せて席を勧められた。
 客の様相は十人十色、年齢もバラバラだ。薄暗い照明はわざとなのか、メニュー表すら見にくいほどの不気味さだが、胸を張れない相談をするには打ってつけといえる。
「何を差し上げましょう」
 今度は先程のドア係とは別のボーイがやって来てそう聞いた。
「バーボンをロックで。つまみは相方が来てからだ。それからタバコを二つ持って来てくれ。切らしたばかりなんだ」
 テーブルにマッチが置いてあったので、おそらくタバコも置いているはずだ。そう思って銘柄を告げた。
「かしこまりました」
 ボーイは怪しむ様子もなく、わずかだが愛想のある笑顔も見せながらカウンターへと戻っていった。タバコを二箱と言ったのが功を奏したようだ。一箱では足りないヘビースモーカー、そう受け取ったのだろう。
 やはり香港時代のクセが抜けないわけか、こういった場所でも浮かないことに苦笑したい気分だが、今はとにかく目的が先だ。慣れた素振りで酒を含み、タバコに火を点けつつそれとなく店内を窺った。
 別に取り立ててどうということのない普通のバーのようだが、一箇所だけ暗幕のようなカーテンが掛けられていて、奥には別の入り口があるようだった。出入りを見ていると、どうやらそこを通るには会員証なる個別カードが必要なようだ。
 店内に冰の姿は見当たらない。とすれば、やはりあのカーテンの向こう側か。
 トイレに立つふりをして個室から天井裏へ潜り、様子を探ることにした。店に入る前に建物全体の造りを見た限りでは、やはりカーテンの奥にもスペースがありそうだ。しかもかなり広いはず。おそらく表のバーは見せ掛けで、奥がメインと見た。
 天井裏は思ったよりも広く、普通に立って歩けるほどの高さがあった。俺にとっては都合がいいが、建築的には少々疑いたくなる造りといえる。普通、こんなに広い天井裏が必要だろうか。何か別の使い道でもあるのかと思わされる。
 気を配りながら物音に注意して先へ進むと、この広さの理由が明らかとなった。半間ほどの廊下の先に小部屋のようなスペースが現れて、そこから階下の様子が覗けるようになっていたからだ。しかもその階下を監視する為か、数台のカメラが設置されている。

 監視カメラか――。録画機能付きのところを見ると、階下の様子を秘密裏に撮影しているというわけか。

 幸い人の気配はしないので、録画中の画面を覗いてみることにした。と、想像を絶する――というよりも、やはりかと思わされる光景が視界に飛び込んできて、思わず眉根を寄せてしまった。なんとそこには転校初日に冰から見せられたのと同じ光景が広がっていたからだ。
 中央にはベッドが一台、大きさからしてキングサイズを超えている。天蓋は無く、ベッドヘッドはスチール製の格子で作られていて四隅には拘束用の手錠や縄紐などが引っ掛けられている。部屋の壁といい、冰のスマートフォンにあった画像と一致する。

(あの野郎……やはりまだこんな仕打ちをされ続けてたってわけか――)

 それにしても冰は自らの意思でここへ向かったことになる。酷い仕打ちが待っていると知っていて自ら――だ。
 察するにヤツの父親が経営する貿易会社に資金援助を申し出たという誰かが、その借金のカタに冰をこんな目に遭わせているということか。あいつはそれが金のカタだと知っているから拒否できずにいる。とすれば気の毒にも程がある。是が非でも救い出してやらねばならない。
 今は誰もいないが、そう時を待たずして冰はここへ連れて来られるに違いない。

(クソ……ッ、やはり会員カードを手に入れるしかねえか)

 猶予はない。ここからでは天井に大穴を開けてぶち抜きでもしない限り階下へ降りる術はない。のこのこやっていれば冰がまたあんな目に遭わされるのだ。一刻も早く誰かのカードを盗み取るしかない。
 そう思って戻ろうとした時だった。後方数メートル先に人の気配を感じて身構えた。ここには隠れるに都合がいいスペースが無いからだ。意識を刈り取り、とにかくは口を塞がんと思った時だった。
「ふふ――相変わらず勘がいいね」
 微笑めいたその声には聞き覚えがあった。忘れるはずもない、何と近付いて来たのは倫周だったからだ。

 柊倫周、麗さんの息子であり俺とは兄弟同然で育った男だ。

 香港に残してきたはずのヤツが何故ここにいる――驚く俺を見てヤツは笑いながら『しー、静かに!』とでもいうように唇の前で人差し指を立ててみせた。
「倫……お前、何故ここに」
「久しぶり、遼二。元気そうだね」
「……香港じゃなかったのか」
「うん、それは後で説明するよ。それより驚いた。まさかお前とこんな所で会おうとはさ」
「そいつぁこっちの台詞だ」
「お前さんがトイレに立つのを見掛けたのでね。後をつけてきたわけ」

 それよりこんな所で何をしているのだと倫周は不思議顔で俺に訊いた。それを知りたいのは俺の方だが、今は冰の件が最優先だ。素直に理由を告げることにした。
「転入した先の同級生がやべえことに巻き込まれているようなんでな。心配になって後を追って来たんだが――」
「転入した先の同級生? まさか遼二の通ってる学園って桜蘭学園なの?」
「――そうだが」
 何故俺の通う学園を知っている――? 一瞬そうも思ったが、倫周とて俺と同様どっぷりと裏の世界で育った男だ。その気になれば朝飯前で調べはつくはずである。それよりももっと驚くことをヤツは言ってのけた。
「じゃあもしかして同級生っていうのは雪吹冰君?」
「冰を知っているのか……?」
「あ、やっぱり冰君か。実は僕もちょっと訳ありでね」
「訳ありだ?」

 その訳というのに関心をそそられたが、今はそれどころじゃない。
「倫、すまねえ! 急ぎなんだ。その冰のことで一刻も早く下の部屋に行かねえと……」
 ところが倫周は、「まあ待て」と言って余裕の笑みと共に俺を引き留めた。
「冰君を救い出しに来たんでしょ? だったら大丈夫。実は僕も同じ目的でここへ来たんだ」
「同じ目的って……お前」
「彼が強要されていかがわしい目に遭ってる。遼二もそれを知ってるんでしょ?」
「――俺も……ってことはお前も知ってるってのか?」
「そう。でも大丈夫。既に手は回してあるから。この天井裏に仕掛けられてるカメラを始末するのが僕の役目でさ。冰君を救い出す役者はもう下で待機してるよ」
「待機って……。じゃあお前、誰かと一緒にここへ来たってのか?」

 まさか――麗さんか。一瞬そう思った。
 この倫周は父親の麗さんを捜す為に香港に残ったからだ。

「麗さんが……見つかったのか?」
「麗ちゃん? あはは、違うよ。麗ちゃんは未だ行方知れずさ。生きてるのか死んでるのかも分からない。ってよりも、お前さんが香港を後にしてからまだほんの数ヶ月じゃない。僕一人の力でこんなに早く見つけられるなら苦労はしないよ」
 こいつは幼い頃から自分の父親のことを「麗ちゃん」と呼んでいる。「お父さん」とか「パパ」と呼んだのを聞いた記憶がない。おそらくは幼少の頃から麗さんがそう呼ばせていたのだろうが、確かに外見だけ見れば『父親』という印象とは程遠い、あの人らしい呼ばせ方だと苦笑させられる。
 と、その時だった。階下に数人の気配を感じてカメラを覗けば、冰が見知らぬ男たちに引き摺られるようにしながらやって来たことに心拍数が跳ね上がった。冰を除けば男たちは五人程が確認できる。
「冰……! やはりあいつ」
 男の一人がヤツを突き飛ばし、ヤツはベッドを目掛けてつんのめった。今から例の画像にあったようなことが行なわれるのは確かだろう。焦る俺の肩を掴みながら、倫周は「大丈夫だから」と言って薄く笑った。
「大丈夫って……だがお前……このままでは」
「いいから見てなって。手は回してあるって言ったでしょ」
 冰がベッドの柵に括り付けられいる手錠で拘束されそうになったその時だった。突如部屋の扉を破って、また別の男が現れた。
 そいつはたった一人だったが、冰を取り巻いていた五人をあっという間にその場に沈めてみせた。腕前もさることながら体格も堂々としていて貫禄を感じさせる男だが、年齢的にいえば意外に若いと思われる。
「誰だ――」
 当然、倫周が一緒に来たという知り合いの男なのだろうが、今の動きを見ただけで素人ではないことは確かだ。それも酷く手際のいい――仮に俺がこの男とやり合ったとして互角に持ち込めるだろうかとさえ思わせられるような無駄のない動き。
 久しぶりに背筋に寒気が走るような感覚に襲われた。
 その男が隠しカメラの向こう側にいる倫周に合図を送るように、頭上を見上げてわずかに口角を上げる――。振り返ったそのツラには見覚えがあった。

「――! まさか周焔……か?」

 驚きに目を剥いた俺を横目に、クスッと倫周が笑った。
「ご明答! 今回、冰君を助ける為にちょっと付き合ってもらったの」
「付き合ってもらったって……お前」
「でもさすがだね。たった一人で苦もなく五人もの連中を片付けちゃうんだから!」

 周焔――ヤツは親父や麗さんとも深い繋がりがあった香港を仕切るマフィアトップの息子だ。
 歳は俺と同い年の十八歳。頭領の息子には違いないが、ヤツの母親は妾の立場にあり、確か日本人女性だったはず――。兄貴が一人いるが、そちらは本妻の息子だ。
 焔は次男坊に当たるが、妾腹ということもあってか、幼い頃から何かと気苦労を強いられてきたらしいと、当時親父から聞いたことがあったのを思い出した。
「ね、懐かしいでしょ? 小さい頃は俺と遼二もあの焔君と一緒に遊んだじゃない。覚えてるでしょ?」
「ああ、お……ぼえてはいるが……」
 一緒に遊んだといってもそれこそ幼少時のことで、かれこれ十年以上も会ってはいない。ガキの頃から大人びた面構えの男だったから、ヤツが周焔ではないかということだけは分かったものの、それにしてもヤツは香港では上がない裏の世界の頂点に君臨する周ファミリーの御曹司だ。そんな男が高校生一人を救い出す為にわざわざ異国にまで出向いてくるとは正直驚かされてならない。
「実はね、冰君のお父上には僕ちょっとご恩があってさ」
「恩――? お前、冰の親父さんと知り合いなのか?」
「そ! 遼二が香港を去ったすぐ後にね。知り合ったの」
 詳しくは後で話すよと言って倫周は仕掛けてあったカメラのチップを回収した。
「さあ急ごうか。もうここに用はない。おちおちしてたら要らぬ面倒に巻き込まれても迷惑だからね」
 俺たちは一旦店を後にし、倫周の泊まっているというホテルへと腰を落ち着けることとなった。周焔はここの後始末をつけてから後で合流するそうだ。



◇    ◇    ◇



 冰は俺たちが来たことに驚いていた様子だが、倫周から経緯を聞いて事の次第を理解したようだった。倫周の人懐こい雰囲気と、見た目がやさしそうに見える外見が安堵感をもたらすわけか、冰は案外落ち着いて話を受け入れることができているようだった。
 昔から倫周のこういうところは変わっていない。かくいう俺も、こいつのこの性質に何度気持ちを救われたことか知れない。過酷な環境の中にあっても、この倫周が常に一緒だったから俺は何とか生きてこられたんだ。
「僕は柊倫周。香港でキミのお父上にご恩をいただいてね。とても感謝しているの。そのお父上がキミのことを痛く心配していらしたからこうして出向いて来たんだけれど。でもまさかキミが遼二と同じクラスだったとは!」
 世間は狭いねと言って倫周は笑った。
 冰はといえば、俺がタクシーに乗せた時とはまるで人が変わったようにしょんぼりとしていて、さっきはすまなかったと言っては素直に頭を下げてきた。
「ごめんな、遼二……。せっかくお前が車まで拾ってくれたのに……俺」
 きっとこれが素のヤツなのだろう。これまで学園内で見せていたどこか張り詰めたような強張った表情や、何事にも諦めの境地のような無感情さは見受けられなかった。今のヤツは素直で年なりの感情を持った普通の高校生に見える。倫周と周焔によって助け出されたことで、ヤツの中で安堵という気持ちが生じたのだろうと思えた。もう二度とあんな目に遭わずに済む――その思いが冰を本来あるべき姿に戻したのだろうことは明らかだった。
「でもビックリした。お前が……この人たちを連れて助けに来てくれるなんて」
「いや――こいつらとは偶然あの店で出くわしたんだ。俺自身驚いている」
「そう……だったんだ? 前からの知り合い?」
「ああ。こいつらは俺があの学園に転入するずっと以前からの腐れ縁だ」
 そう言った俺に、「腐れ縁とは失礼だよね」と、倫周は笑った。
「とにかくお父上が心配してキミに会いたがっていらっしゃる。一度僕らと一緒に香港へ帰ろう。お父上は支社から離れられない業務が山積みのご様子なのでね。できれば冰君が香港に会いに行ってくれると有難いんだよ」
「そう……ですか。父が……。分かりました。俺が会いに行きます」
 冰は父親に会うことを決めたようだ。

 結局、冰はしばらくの間休学して香港の父親の元へと向かうこととなった。とりあえずのところは短期間で帰って来るつもりだそうだが、倫周の話では行ったきりになる可能性もあるという。父親が家族離れ離れで暮らすことを不安に思っているらしく、香港の地にて一緒に暮らしたいと強く望んでいるからだそうだ。まあ行ってみないことには何ともいえないが、息子の顔を見れば手放したくなくなるのではとのことだった。
「じゃあ……転校ということも有り得るってわけか?」
 だとすれば、行く前にせめて級友たちに――とかく紫月には会ってからの方がいいのではないかと思う。
「まだ転校するって決まったわけじゃねえし。もしかしたらすぐ帰って来るかも……っていうか、仮に転校ってことになっても荷物なんかも取りに来なきゃだからさ」
 冰は笑ったが、俺は何となく本能でこいつが転校を決めることになるような気がしてならなかった。
「冰――お前が帰って来るのを紫月と一緒に待ってるから」
 そう言った俺に冰は素直に「うん」と言って淡く微笑んだ。
「な、遼二。紫月のことだけど――」
「ん?」
「あいつ、ホントはさ、すっげいいヤツなんだ。ノリが軽くて自信家で、チャランポランみてえに振る舞ってるけど――本当は人懐こくて寂しがり屋で、めっちゃ素直なヤツなの。普段のデカい態度はそういう部分を他人には見せたくないっていうヤツ特有の強がりっていうか、照れ隠しでさ。俺はガキん頃からあいつと幼馴染で育ったから、俺にだけは素直な自分を見せてくれるんだけど……」
「冰――」
「それにさ、あいつ。自分がゲイだなんてお前にも堂々公言してたけど、ホントはそういう……男の恋人がいるとかいうわけじゃねえんだ」
「そ……うなのか?」
「あいつ、見た目がめちゃくちゃ格好いいだろ? 昔っからよく女の子にもモテてさ。紫月を取り合って女たちが喧嘩することもしょっちゅうだったわけ。特に――あれは小学校の終わりくらいだったかな、紫月が原因で女子の一人がいじめに遭ったことがあってな。仲良く二人で掃除当番やったとか、ゴミ捨て行くのに一緒にゴミ箱持って歩いてたとか、些細なことでその子が他の女子たちから無視されたり嫌がらせを受けるようになって。結局その子、不登校になっちまったんだ」
 以来、紫月は自分はゲイだから女に興味は無いと言い張ってきたのだそうだ。高等部に上がる際に男子専用の校舎――つまりは男子校ということになるが、学園はエスカレーター式だから女子のいない男子専用高等部に進学したということらしい。冰はそんな経緯を知っていたから自分も同じ男子校部門へと進学を希望したのだと言った。
「そんなわけだからあいつ、未だに彼女の一人もできたことないんだ。もちろん男と付き合ったこともない。けど、あいつがゲイだって触れ回ったせいで女は寄ってこなくなったのはいいとして――今度はホントにそっちに興味あるヤツが寄ってきちゃうことになって。だからあいつ、わざとああいうデカい態度で『俺は怖いヤツなんだぞ』って牽制してるんだ。下手にちょっかい掛けられんが面倒だからって」
 だがまあ、実際道場育ちで腕は達つから自然と周りが一目置くようになったのだそうだ。
「でもさ、多分だけど……きっとお前のことは――遼二のことは本気で好きなんじゃねえかって。俺、小っさい頃からあいつのこと見てきてるから分かるんだ。あいつがゲイだってのは当初ホラだったわけだけど――お前に会って本当に男を好きになっちゃったんだろうなって思ってさ」
 嘘も方便が本当になってしまった、嘘から出た実といおうか何と言おうか――。
「あいつ、自分でも戸惑ってるはずだ。人を好きになること自体が初めてみたいなヤツだからさ。お前にもわざと突っ掛かったり強がったり……気持ちを上手く表現できてないかも知れねえけど。悪いヤツじゃねんだ」
 だから誤解だけはしないでやって欲しい、冰はそう言った。
 俺は何とも言いようのない――ともすれば涙が滲んでしまいそうな気持ちにさせられてしまった。
「な、遼二。転校初日の日に俺、お前に例の画像を見せたじゃん? 会ったばっかのお前に……何であんなことしたのか自分でもよく分からねえんだけど。何となくお前にだったら打ち明けられるような気がしたっつーか、頼りたくなってーか……。それ以来、お前は俺のこといろいろ気に掛けてくれてた。さっきだって俺が帰るって言った時、一人じゃ帰さねえってムキになってくれたろ? 俺は嬉しかったけど、多分あれ見て紫月不安になったと思うんだ」
 今もこうして追い掛けて来てくれた。そんな姿を見て紫月は酷く心が揺れているのではないかと言って冰は心配していた。
「あいつ、まだお前ン家にいるの? それとももう帰ったのか……」
「いや――いる。というか、俺が戻るまで待ってて欲しいと言ったんだ」
 冰は驚いたようだが、そんなふうに紫月を待たせている俺の気持ちを察したのだろう。クスッと微笑んでは『そっか、良かった』と言った。
「じゃあ……行く。紫月にはお前からよろしく伝えといて。まあ俺からも後でメッセージ入れるわ」
 急なことではあるが、早速今夜達つという。ロビーへ向かうと周焔が待っていた。
「鐘崎――か。久しぶりだな。おめえ、裏の世界からは足を洗ったと聞いたが」
 結局まだ離れきれず、こんなことに首を突っ込んでいるのかと微笑する。間近で見るこいつはすっかりマフィアの風貌をたたえていて、堂々たる姿に何故だか胸が熱くなる思いがしていた。
 もしもあのまま香港に残っていれば、俺もまたこいつらと同じ世界で生きていたのだと思うと何故だろう――少しの後悔と懐かしさが込み上げてならなかった。
「しかし日本は治安がいいと聞いていたが、高校生のガキ相手にこんなことが横行しているとはな。警察も隅から隅までは手が回らんだろうし、変な話だが――俺やおめえのような存在がますます必要になる時代が来るのかも知れねえな」
 周焔はそう言って意味深げに笑った。はっきりと言葉には出さずとも、まるで『この世界に戻って来たらどうだ』と言わんばかりの不敵な笑みだった。
「鐘崎――俺は修業したらこの日本で起業するつもりでいる。お前ともまた会うこともあろう」
「起業って……」
 まさかこいつも足を洗って堅気にでもなるつもりなのか――? そんな俺の胸の内が読めたのだろうか、周焔は『勘違いするな』と言ってまた笑った。
「足を洗おうなんざ思っちゃいねえ。だが、香港には親父を継ぐ立派な兄貴がいる。俺は俺にできることでファミリーの役に立ちたいと思っているだけだ」
「お前にできること……」
 周焔は次男坊の上に妾腹だ。現トップの親父さんを継ぐ男は二人もいらない。というよりも、妾腹の焔が組織の中に存在するというだけで、要らぬ火種となり得ることをこいつは理解しているのだ。香港を離れ、お袋さんの故国であるこの日本の地にてこいつにしか歩めない人生を考えているのかも知れない。

 酷く心が痛む気がしていた。
 激しく心が揺さぶられる気がしていた。

 殺伐とした裏の世界を離れ、平穏な人生を歩みたい。そんなふうに思って香港を去った自分が情けなくも思えてならなかった。
 結局俺は――この日本に来て学生となって、何の心配もない日々を過ごすのだと決意しつつも、やっていることは裏の世界にいた頃と何一つ変わっちゃいない。というよりも、裏の世界に身を置く者を気取っていただけだ。級友である紫月や冰の調査をしたり、俺ならば冰を酷い目に遭わせている連中をぶちのめせるなどと勝手に思い込んでいた。裏の世界で生きる覚悟もないくせに、平凡な堅気とはスキルが違う――くらいの上から目線で悦に浸っていただけだ。単なる自信過剰な勘違い野郎じゃねえか――。
 たった一人で父親の麗さんを捜す為に香港に残った倫周。妾腹という立場を嘆くことなく遠い異国の地で陰からファミリーの支えになろうとしている周焔。彼らと比べて今の俺はどうだ。
 そう思うと、とことん自分が情けなくて身体中の震えが止まらなかった。


◇    ◇    ◇






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