清楚で淫らな俺のヒト
「センセ、ここちょっと解らない……この問題の意味がいまいち掴めなくてよ? ちょっと見てくれる?」
机を挟んで目の前で書き物をしている粟津帝斗にそう声を掛けた。
色白の肌が美しい彼は、三ヶ月程前から自分の家庭教師をしてくれている男だ。
時は大正末期。富豪で貿易商をしている父親の元で、時代に左右されずに裕福な暮らしを送ってきた境遇は幸せといえよう、何不自由のない広大な邸の一室でこうして家庭教師までつけてもらって、一之宮紫月は平穏な中に暮らしていた。
教師の帝斗は父親の仕事絡みで知り合ったという青年で、紫月よりは四歳程年上であったが、父が見込んだだけあってか、端正な感じのする好青年であった。
穏やかで物腰のやわらかく、整った外見からしても一目会うなり紫月はこの帝斗のことが気に入った。
やさしい兄のようでもあり、男気質の自分にはないものを持っている彼の雰囲気が何となく魅力にも感じられて、紫月は帝斗の前では素直な自分を表現できるような気がしていた。
紫月には帝斗よりも更に年の離れた実兄がいたが、どちらかというと冷淡な性質の持ち主で、その為かあまり仲良く遊んだ記憶などがなかった。
学業も達者な実兄は校内でも常に首席であったりして、そんなところも近寄り難い壁になっていたといえようか、とにかく肉親でありながらして親近感のない兄の代わりといったような感じで帝斗を慕っていたのだった。
そんな思いが淡い憧れのような感情に変化するまでにそう時間は掛からなかった。
毎日のように勉強を見てもらう内に、紫月の帝斗に対する感情は高まっていったのである。
「どこ? 解らないところって?」
にっこりと穏やかな微笑みと共に首を傾げて自身のノートを覗き込む。そんな仕草にもドキリと胸の高鳴るのに、紫月はガラにもなく頬の染まる思いがしていた。
窓越しのカーテンを揺らす春風が目の前の栗色の髪をもいたずらにかき揺らせば、次第に心拍数は上がっていった。
ドキドキとしながら質問をし、そうする度に帝斗は親身に、まるで我が事のように丁寧な対応で教えてくれる、そんな毎日の中で紫月の想いは膨れ上がっていったのだ。
「じゃあ又明日ね。今日はがんばったから宿題は無し、ゆっくり疲れをとってね」
にっこりとそんな言葉を残しながらノート類を片付けている彼の、自分よりも僅かに華奢な肩先に触れてしまいたいという想いが湧き上がるのを、必死で抑えるのは何度目になるのだろう。
帝斗が出て行った自室で、ぼうっと想いにふける瞬間に甘く胸がうずくのを持て余す、近頃はそんなひとときが歯がゆくも感じられたりしていた。
紫月の家庭教師の他にも父親の仕事関係を少し手伝ったりしていた帝斗は邸に住み込んでいて、だから夕食の時分になれば再び顔を合わせ、大きなテーブルの遠目に居る彼の姿を目にする度に胸が高鳴った。
そして夜が来て寝所に横たわれば、ふとうずきあがる身体の変調にも紫月は信じ難い思いでいた。
帝斗の仕草のひとつひとつを思い起こすように瞳を閉じれば、不本意にも浮かび上がってくる欲情の感覚が背筋を撫でるのには、さすがに羞恥心が込み上げる。
だがそんなものは最初の内だけで、近頃では抗えない感情に流されるように自身で欲望を慰めたりまでするようになっていて、そんな自分がほとほと情けないと感じる日々を送っていたのだ。
春風が揺らす彼の髪のやわらかそうな質感が脳裏を掠めれば、ビクリと身体の中心が熱くなる。
すぐ隣りで、吐息のかかるような距離で、勉強を教えてくれる彼の香りを思い出すもの容易なことだ。
しなやかに消しゴムを触る手の色白さ、走らせるペン先の音までがズキリズキリと心臓を煽るようだ。
「く……っそ、ヤバイ……」
またこんなこと――! 俺、どうかしちまったんだ?
だって先生は男なんだぜ?
同じ男相手にこんな気持ちになるなんて……幼馴染の女にだってこんなになったことねえってのに……。
俺、やっぱどっかおかしいんだろうか?
そんな思いに翻弄されながらも紫月は自慰に没頭した。
月明かりだけが照らし出す薄暗い闇の中、この時代には贅沢な自身のベッドの中で悶えるのだった。
そして日を追う毎に膨れ上がる恋慕の気持ちを必死に抑えながら、何とか平静を装おうと闘っていた紫月の心を打ち砕く出来事と遭遇したのは、そんな折だった。
◇ ◇ ◇
珍しくも実兄の白夜がにこやかな笑みを見せていたその夕卓で、紫月はひどく不機嫌な感情に襲われた気がしていた。
普段は無表情で愛想笑いのひとつもないような兄が、今宵に限って楽しそうな表情を映し出しているのである。
『ちゃんと学業に励んでいるか?』などといった、思いもよらないような言葉まで掛けられる有様に、嫌悪感が走る。
他愛もない事だといえなくもなかったが、奇妙な程の明るい兄に気味の悪さまで感じて、早々に食卓を引き上げた。
――衝撃の出来事への取っ掛かりはその夜半に起こった。
何となく寝付けずに涼みに出たバルコニーから兄、白夜の姿を垣間見たのだ。
まるで人目を忍ぶようにしながらキョロキョロと背後周囲に気を使っては、何処かへ急ぐその姿に理由の無い焦燥感が込み上げて、紫月はその後を追うように急ぎ庭へと降り立った。
新月のその夜、道しるべとなるものは何も無く、割合強い宵風が兄の着衣らしいマントを揺らすのだけを頼りに、必死で後を追って行った。
兄の白夜は足早に裏庭を通り抜けると、ボート小屋へと続く細い小道を湖の方へと向かっていた。
ここまで来れば人目を気に掛ける必要も無いというのだろうか、次第に緩やかになる足取りに何故か心拍数は上がっていった。
こんな夜更けにボートにでも乗るつもりなのだろうか?
湖なんかに行ってどうするつもりだ?
しかも月も出ていないこんな夜に灯りのひとつも持たないくせに、まるで慣れたように急ぎ足だ。
ドキドキと高鳴りだす心臓の音は、焦燥感でいっぱいになっていた。