Wild Passion



「で――? 俺のどこが嫌なんだよ……。直せるとこは直すし、怒らねえから正直に言ってみ?」

 面倒くさいと思う気持ちも、多少は勘《かん》に障る感情も、すべてを抑えてそう訊いた。これは単なる痴話喧嘩だ。できることなら穏便に、今までと変わりなく付き合っていければ――と、そう思ったからだ。


「――全部」

 素っ気ないその一言を聞いた瞬間――、雪吹冰《ふぶき ひょう》は瞳をしかめた。パノラマの、ワイドスクリーンの高楼から見下ろす見事な程の街並も、瞬時に霞んで泥だまりのように思えた。

 背中から冷めた口調のひと言が、グサリと心のど真ん中に突き刺さる。
 露骨過ぎるその台詞に、不機嫌極まりなく眉間に皺を寄せ、背後でそうほざく男を振り返った。
「全部だ――? 何だよ、それ……」
「だから、全部だよ……! 理性のかけらもない動物のようなセックスも、高慢丸出しの態度も何もかも。全部……!」
 付き合って早一年になろうかというこの男と知り合ったのは、行き付けのゲイバーだ。
 スラリとした長身の、だがそれでいてどこそこ華奢なつくりの色白の肢体、紳士的でいて生真面目な性質、そのすべてが新鮮で、当初の軽い遊び心を通り越してすっかりとこの男に嵌まり込んだ。
 常に従順で穏やかで文句なしの理想の相手だったはずの恋人に、信じ難い言葉を突きつけられて面食らったのも束の間、仕舞いには『他に好きな男ができたから君とはもうこれきりにしたい』と驚愕極まりない突飛さで捨てられた。
 三行半の言葉に反論する気力も一気に失せる。

――こいつは誰だ。

 今、目の前でワケの分からない戯言をほざいているこの男を、つい先日まで腕《かいな》に抱いて、甘い夢を見ていたことさえまるで幻、それこそが夢戯言のような気にさえさせられた。
 冷や水をかけられた――などというどころじゃない。怒鳴る気も失せ、かといって今の彼の機嫌をとり持つ気力も到底湧かない。
「全部――ね。なら好きにすれば?」
 ちょっとばかり余裕をかますつもりで、苦笑いをして見せた。
 どうせ気まぐれか我が侭に決まっている。ちょっと拗ねているだけかも知れない。そうでなければ悪い夢だ。
 目が覚めればいつもの穏やかな笑顔でおはようの挨拶を交し合う。
 ああ早く目覚めたい。こんな嫌な夢の続きなどに興味はない。
 だが現実だった。
 考え直す時間を与えてやろうか――、そんな思いでほんの半日ばかり部屋を空けた隙に、半同棲状態だった彼の持ち物は綺麗さっぱり消え失せていて、残り香さえも感じられなくなっていた。
 ガランとした広過ぎるこの部屋は、独りだという実感を噛み締めるのにはもってこいと言うべきか。皮肉な話だ。

 財閥の御曹司として生まれ、何不自由なく今まで来た。
 学業を終えてからは好きなジュエリー・デザインの道に足を突っ込んで、今では他人も羨む都心のど真ん中の高楼に自社ビルを構えての左団扇、悠々自適の生活だ。
 若くして天才アーティストなどと呼ばれ、二十八歳の若さで、あっという間に都内一等地にスタンディング・ショップを持つまでにのし上がった。
 無論、実家の後ろ盾が大きいことは言うまでもないが、それも運と実力のなせる業と、現状には至極満足していた。
 何より、思春期を過ぎたあたりから気が付いた『同性にしか興味が湧かない』といった事実にさえ、周囲の誰一人奇異の視線を向けることもなく、両親でさえどちらかといえば理解を示したくらいだから、実に快適過ぎる境遇であったのは確かだ。
 そんな自分に憧れて寄って来る人間は数知れず、まさか誰かに捨てられるなどということは、夢にも想像し得なかった話だ。
 傍《はた》から見れば羨ましい限りの、自らでさえ世の中こんなにうまくいっていいのかと思う程の極楽人生の中で、それは雪吹冰にとって初めて味わう苦い体験であった。



◇    ◇    ◇



「……っ畜生ッ、好き勝手抜かしやがる……! 何なんだよ一体っ!」
 馴染みのバーでマスターに管を巻いて深酒、店を出てからもムシャクシャした気持ちは一向に治まらない。道を行くすべての人々にさえ苛立ちが募るようだった。
 頃は世間の学生たちが夏休みに入ったばかりの、本来楽しいはずのミッドサマーナイトだ。それなのに、何故自分はこんな惨めな思いと共に独りで不味い酒なんぞを煽らなければならないのか――、すれ違い様に聞こえてくるのは会社帰りの仲間内らしい数人のグループの楽しげな会話、熱々カップルの嬉しそうな声、声、声――誰も彼もが幸せそうに思えて、すべてが嫌になる。『お前ら全員邪魔だ』とばかりに、大袈裟なくらいのデカい態度で歩道をふらつき歩いていた。
――その時だ。急に目の前に現れた何かにドスンと肩をぶつけて、不機嫌をそのままに冰はそちらを睨み付けた。見れば五~六人の若い男が対抗意識丸出しでガンを飛ばしている。
「おいオッサン! 何処見て歩ってんだよー?」
 顎を突き出し、威嚇し、ヤル気満々といった調子で凄んでくる。そんな会遇に冰の苛立ちは頂点に達してしまった。
「ああ!? 誰がオッサンだ、誰がー!? てめえらこそ何処に目ェ付けてやがる! 小僧のくせにいきがりやがって!」
 酔いも手伝ってか、自身の中で何かがブチ切れるのを感じて、そう凄み返した。
 先程からの怒りを更に煽られたといってもいい。丁度いいうさ晴らしだ、そんなふうにも思えた。
 案の定、間髪入れずに小競り合いになって、だが深酒をし過ぎたせいか、或いは多勢に無勢だったわけで、気付けばズルズルと引き摺られるようにしながら袋小路へと連れ込まれて、しかもあろうことか残飯の積み上げられたゴミ箱の羅列の中に突き飛ばされて更にブチ切れた。
 ガラガラと音を立てて蓋やらゴミやらが引っくり返る。夏の夜の蒸し暑さも手伝ってか、ムーッとした悪臭が鼻をついて、怒りは更なる沸騰状態だ。
「てめえら、おとなしくしてりゃ調子コキやがって……! 舐めてっと燃やすぞ!」
「はあ!? 何言ってんの、このオッサン!」
「この状況でそーゆーこと言えるってのがすごくね? 調子こいてんのはてめえだろって」
「ぐははははっ! しかも燃やすってさ、マジ、頭どーかしてんじゃね? クソジジィが!」
 男たちの高笑いが頭上に響き、脳みそが溶け出しそうなくらい怒りは滾《たぎ》った。
 冰はフラフラとした足取りながらも、よっこらっしょと腰を上げると、一番手前にいた男の腕を捻り上げて後方の仲間ごと巻き込むような形で投げ飛ばした。
「何すんだてめえーっ!」
 逆上して向かってきた男の腰をど突き、蹴りを食らわせ、再び彼らの仲間ごと将棋倒しにするように突き飛ばしてやる。背後に逃げ道のない袋小路ならではの、こんな喧嘩なら慣れっこだ。
「おらおら、まだヤんのかー? ガキがでけえこと抜かしたって所詮大したことねえなあ? ――ってか、これって俺もまだまだ衰えてねーって証拠?」
 大っぴらに自慢することではないが、高校時代にはちょっと名の知れた番格だったから、この程度は朝飯前だ。大人になってからはこういったスリル感ともご無沙汰だったので、逆に懐かしささえ感じられる位だ。
 その頃の感覚が鈍っていないことを自負する気持ちと、久々の独特な高揚感に余裕の高笑いを漏らしながら、冰は路地に突っ伏した男らを満足げに見下ろしていた。

「やろう……マジいい気ンなりやがって……っ!」

 余裕の態度が逆上を煽ったのか、男らの内の一人が隠し持っていた刃物を取り出すと、勢いよくそれを振りかざして突進してきた。
「おっと……信じらんねー! てめえら、喧嘩の仕方も知らねーってか? 丸腰に刃物ってさ」
 鼻先で嘲笑し、身軽に交わす。やはり勘は衰えていないようだ。
 だが先程の深酒が災いしてか、急激に動いたので、突如予期せぬ眩暈が襲ってきた。
 グラリと足元を取られ、散らばっていたゴミ箱の合間に自ら転げ込んでしまった。その隙をついた男が再び刃物を振り上げたのが分かったが、今度はそう簡単には俊敏に避けられそうにもなかった。朧気に光った切っ先が目前に迫るような気がして、けれども意識は遠退く一方のようだ。
 自身では最早切られたのかも刺されたのかも分からないままで、冰は悪臭漂うゴミ溜めのようなその路地に突っ伏し、ひっくり返ってしまった。



◇    ◇    ◇



「おい、起きろ。大丈夫か? おい――!」
 肩先を揺すられながら遠く近くで叫ぶような声が耳に飛び込んできて、冰はハッと我に返った。
「……ッ、やっと気が付いたか……。怪我はしてねえか?」
 自身の身体を抱き起こし、あちこちを引っくり返すように触りながら、見知らぬ男がそんな台詞を言っている。いや、見知らぬというよりはどこかで会ったような、見たことのあるような気がしたが、正直そんなことを考えるほど思考がまわらない。
「大丈夫そうだな、刺されてはいねえみてえだ。……ったく、俺が通り掛からなかったら今頃救急車の中だな」
 呆れ気味に溜息を漏らしたその男は、見事な程の濡羽色《ぬればいろ》の髪が酷く印象的だった。
 少し怪訝そうにしかめられた眉は自らが無茶をしていたことを咎める気持ちの表れか、或いは仲裁に入って手を煩わせたからなのか、彫りの深い切れ長の大きな瞳で不機嫌に顔を覗き込まれて、冰はようやくと事の成り行きが理解できた気がしていた。
 ああ、この男に助けられたのか。
 さっきのチンピラ連中がナイフを振り回して、それを避け切れずに転倒して、その後僅かの間だけ気を失ってしまったというところだろうか。いや、気を失ったというほど大袈裟ではないかも知れない。
 一瞬だが、もしかして刺されちまうかも――と思って腹を括り、思いっきり目を瞑《つむ》った。酔っ払ってさえいなきゃ、と、ちょっとした癪な思いが過《よ》ぎったのも覚えている。その後、この男が仲裁に入って今に至るというわけだろう。
 そんな僅かの間のことがえらく長く感じられるのもやはり深酒の痛手か、冰は苦笑いを漏らしながら、助けてくれたこの男に対して礼の言葉を口にしようとした。
 その時だった。
「お前……っ! もしかして雪吹……か? 楼蘭学園《ろうらん》の雪吹だろ?」

 楼蘭――

 聞き覚えのある名前だ。
 そう、楼蘭学園というのはまさに通っていた高校の名前だったからだ。
 まだ酔いの醒めてはいない意識を呆然と追いながら、冰は男の顔を見上げた。
「……お前、誰?」
 そういえばさっきこの男に揺り起こされた時に、一瞬どこかで見た顔だという思いが過《よ》ぎったような気がする。
 何処でだったか――
 楼蘭学園の――というくらいだから、高校時代の知り合いか。
 そうこう考えている冰を他所《よそ》に、男の方はこの偶然に驚いたといった表情で自らを名乗った。
「桃稜《とうりょう》の氷川だ」
「桃稜の……ヒカワだ?」
「ああ。お前らんトコとはしょっちゅう睨み合ってた『桃稜学園』の――」
「……!?」
――思い出した。酷く印象的な濡羽色のストレート、彫りの深い鋭い瞳、嫌味なくらいの端正な顔立ち、そして確か自分よりも”タッパ”のあったはずのこの男の顔に見覚えがあると思ったのは、気のせいではなかったというわけだ。
 そこには高校時代に隣校で番格と言われていた男が自らを抱きかかえていて、冰は苦虫を潰したような思いでその腕の中から飛び起きた。
「……てっめっ、氷川っ!? ……って、あの氷川かよ……!?」
「そうだ。やっぱり雪吹か、お前」
 袋小路に長身の男が二人、座り込んで寄り添いながら硬直――、何とも言い難い偶然の再会に、しばらくはその場を動くこともできずに互いを凝視し合ってしまった。

 この男、氷川白夜《ひかわ びゃくや》と隣校で番を張り合っていたのは、かれこれ十年も前のことだ。
 地元では少々名の知れた二つの高校の『トップツー』と言われたのも、つまりは一昔前ということだ。
 年月の過ぎるのは早いものだ――、などと妙に懐かしい思いに陥り、何だか急に歳をとった気がして愉快な気分にさせられる。
 未だ足取りがおぼつかないことと懐かしさもあって、冰は『氷川に送られる』というような形で自宅へと向かう車の中で僅か苦笑を漏らしていた。



◇    ◇    ◇



Guys 9love

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