春朧
二十年前、春浅し――
その日以降、紫月は徐々に落ち着きを取り戻していった。頃は新しい年が明けて、白梅の蕾が固い花びらをほころばせ始めた季節――
相変わらずに代わる代わるやって来る親友たちの前ででも、無理をすることなく会話も増えて、わずかだが笑みも戻ってきていた。
やはり氷川の存在は多大なのだと、剛などは心底そう実感していて、それは頼りがいのある反面、少しばかり寂しい気がするのも否めなくて苦笑する。
香港で重体だったという氷川の兄の容体もほぼ快復し、そのお陰で氷川自身も日本に留まれることになったようだった。春はまだまだ遠いだろうが、僅かずつでも穏やかさが戻ってくるような日々に、剛をはじめ、誰しもが安堵の面持ちでいた。
当の氷川は、香港を離れることを承諾してくれた肉親の厚意に報いようと、自らの責務に忙しい日々を送っていた。彼の主な役割は、組織の為の資金作りである。いわば表の顔とも言うべき企業経営だ。
その内容は多方面に渡っていて、ホテルや飲食店の経営から貿易などを軸とした多数の企業を管理運営することだった。無論、粟津財閥トップである帝斗の父親とも親密な付き合いは続いており、そういった意味でも帝斗や倫周らと会う機会も多かった。
そんな多忙の中でも、少しの時間を見つくろっては、氷川は紫月の元を訪ねることも欠かさなかった。紫月もそんな氷川の思いやりを素直に受け止めては、「無理しねえでいいのに」などと言いつつも、彼の訪問をうれしく思っている様子であった。
そんな或る日の午後のこと。まだ北風の冷たい河川敷を、紫月は氷川と共に散歩していた。
空には比較的薄めだが雲が覆い、澄んだ冬晴れとはいかない天気ながらも、時折雲間を縫って差し込む陽射しが早春の気配を告げている。格別には何を話すともなしに、二人は遊歩道から少し外れ、まだ枯れ色の草々の上に並んで腰を下した。
「あのさ、これ……」
紫月は少々照れ臭そうに、腰脇に置いたカバンからギフト用に包装された包みを取り出すと、氷川へとそれを差し出した。
「何だ?」
「うん、何つーか……てめえにはいろいろと世話ンなったし、その……礼って程でもねんだけど」
視線を合わせないままで、けれども色白の頬をほんの少し紅に染めながら包みだけを差し出す。氷川の表情からは、わざわざ礼の品物なんて――という内心が見て取れたのか、
「えっと、剛とか帝斗とか他の奴らにもやったから気にしねえで受け取って」
紫月はそう付け足すと、やはり照れ臭そうにしながら川面の方へと目をやった。
「ほう? なら有難くもらっとくぜ。ここで開けてもいいか?」
「……いいけど。ンな大したモンじゃねえから」
期待しないでくれと言いたげな包みの中身を見た瞬間に、氷川は少々意外だというように瞳を見開いた。そこに現れたのは黒い革製の手帳だったのだ。しかも一見にして割合高級品と分かるようなそれである。高価なものだからというわけではないが、氷川は遠慮なしに思ったことを口にしていた。
「お前、これを皆に配ったのか?」
「いや、違うけど。剛と京には奴らが欲しがってた特注のピックのセット、帝斗と倫周にはシルバーの携帯ストラップにした」
もしかして気に入らなかったかというような顔つきで、紫月が少々不安げに首を傾げたのを見て、氷川はそうじゃないと首を数回横に振った。
「いや、すげえ品のいい手帳だからうれしいが――、丁寧にしてもらって恐縮するって意味だ」
パラパラっと中身をめくり、新しい手帳の匂いに頬をゆるめる。そんな様子に、とりあえず気に入らなかったわけでもなさそうだと安心したような面持ちで、紫月はひょんなことを口にした。
「それさ、前に遼二と一緒に買い物に行った時に見つけたんだ。あいつが……氷川ならこんな手帳とか使っても嫌味なく似合いそうだとかって言ったのを思い出してさ」
「カネが?」
「ん、だからそれにした。きっと遼二もそれを選ぶような気がしたしよ」
「そうか。じゃあ尚更大切にしねえとな」
そう、お前ら二人が選んでくれたんだから――まるでそう言うように瞳を細めた氷川の横顔をチラりと見やりながら、紫月はうれしそうにうなずいた。そして、思い付いたようにポケットから携帯電話を取り出すと、おそらくはメールなのだろう、器用に指を滑らせて何かを懸命に打ち込んでいる。
「何だ。メールか?」
もらったばかりの黒革の手帳を丁寧にギフトボックスへと戻しながら、氷川はそう声を掛けた。
「まあな、ちょっと」
若干楽しそうにそんなことを言う彼は、近頃ではめっきり落ち付いて、以前よりは覇気の無く感じるものの、ほぼ自身を取り戻したのだろうと窺えるふうだった。
視線は画面から動かすことなく、それでも紫月はやわらかそうな笑みと共に意外なことを口走った。
「遼二にな。ちょっと報告がてらメール」
「カネに――?」
その言葉に氷川は少し驚き顔で隣を見やると、覗き込むように画面へと視線をやった。
「遼二の親父さんがさ、まだあいつの携帯解約しないで持ってくれてんだよ。だから時々こーして打ってんの」
「へえ」
「特に今日はお前と二人だから。遼二のヤツが気を揉んでんじゃねえかって思ってよ」
「――?」
「ほら、あいつヤキモチ焼きだから」
クスッと軽い笑みと共に紫月はそう言った。
「前にお前とタイマン張り合った時のこと、覚えてんだろ? あン時、お前が俺に妙なちょっかいの出し方したのを結構根に持っててよ。あれ以来、氷川は油断ならねえってよく愚痴タレてたからさぁ……」
「妙なちょっかいってのはアレか。俺がお前を抱こうとした例のやつか」
「……ッ、抱……っ、ってなあ……、てめ、よくそーゆーこと平気で……」
苦虫を潰したように眉をしかめながらも、ほんのり頬を紅に染めて焦る様子が可笑しくて、氷川はクスッと笑みを漏らした。
その時のことはよく覚えていた。まだ桃稜学園に在学中のことだったが、埠頭の倉庫で一対一の勝負をした時のことを言っているのだろう。というよりも、この二人とタイマン勝負を行ったのは、後にも先にもその時一度きりだったから他にはない。
当時、遼二と紫月の仲が芳しくない雰囲気になっていたことがあり、それを好機と受け取った桃稜の不良連中が、一気に彼らを畳み掛けようと企てたことがあったのだ。連中の言うには、因縁付きの四天学園で頭を張っている遼二と紫月が痴話喧嘩をしているようなので、これを機会に彼らを一人づつ罠に嵌めて叩き潰してしまおうという計画を思い付いたらしい。
『桃稜の白虎』とまで異名を取るほどに崇められていた氷川だったが、その反面、不良たちの中にはその大き過ぎる存在感を疎ましく思っている者も少なからずだったようで、だから当然、事は氷川に内密で行われた。先ずは鐘崎遼二を陥れて集団暴行し、そしてその次は一之宮紫月を潰せば、四天に勝ったも同然だと思っていたようだ。
そして計画通りに遼二を襲撃した連中は、度が過ぎて彼に入院を余儀なくするまで痛め付けてしまった挙句、警察が学園内へと捜査に乗り込んで来たことを知って蒼白となった。四天側からの報復も気に病んだ結果、仕方なく事の成り行きを氷川に打ち明けることにしたのだという。
それを聞かされた時は驚き呆れたものだが、ちょうどそんな談合の折に、この紫月がたった一人で果たし合いに乗り込んできたのに出くわしてしまった。
氷川は表向きは自らの仲間である桃稜の不良連中をすべてその場から叩き出すと、紫月との一対一の勝負でケリをつけることを提案した、とまあそんな成り行きだ。
結局、その後に遼二も駆け付けて来たので、実際は二対一に相成ったわけだが、この時氷川はちょっとした思惑から妙な節介心が湧き起こった。どうやら仲違いをしているらしい二人を、からかいがてら仲直りさせてやろうと思い付いたのである。
遼二と紫月が男同士親友同士でありながら魅かれ合っていることに薄々気が付いていた氷川は、片方の紫月にちょっかいを掛けることで、相方の遼二の嫉妬心を煽ろうということに思い至った。
少々破廉恥ではあるが、紫月を無理強いするような場面を見せ付けるという行動に出た氷川に、案の定逆上した遼二が、我を忘れたようにして突っ込んできた。
だが桃稜の不良連中から暴行を受けたばかりの病み上がりの彼をどうするも容易で、その場に沈めるのは簡単なことだった。
そして氷川はそんな遼二の目の前で、これ見よがしに紫月にちょっかいを掛け、少々陵辱めいた悪戯を仕掛けて見せた。無論、ハナから彼をどうこうするつもりもなかったし、それをきっかけに彼らが仲直りすればいいくらいに思い、暢気に構えていたものだ。
けれども、相反して遼二が決死という勢いで紫月を腹の下に抱え込み、自らの身体を投げ打っても手出しはさせないという覚悟を示してきた。
身を盾にして愛する者に覆い被さり、何があってもここを退くものかという死力を尽くしたような行動には少々驚かされたものの、氷川にとっては心温まる光景となって鮮明に脳裏に焼きつく結果となった。
その時から、より一層彼らに対する尊重の気持ちが強くなったことは言うまでもなかった。今までとて、犬猿の仲である隣校の頭同士と言われていても、お互いに心のどこかで相手の本質を見抜いていたふうなところはあったし、故に暗黙尊重し合ってきたのも確かだ。この辺の認識は他の不良連中とは一線を画すところだろう。
とにかくそんな経緯があったわけなので、遼二が氷川に警戒心を抱くのは当然といえばそうで、だがまあ遼二とて心底からそう思っているわけではないということは、氷川も紫月も内心承知していた。というのも、遼二には氷川がどうしてそんな妙なちょっかいを掛けたのかという本当の理由が解っていたからだ。
自分たちの他愛もない痴話喧嘩が原因で、桃稜の不良連中にいらぬ好奇心を芽生えさせてしまったことと、それを知った氷川が仲直りに一役買ってやろうという思惑で、わざとあんな行為をしたことに彼は気付いていたのだ。その方法だけは少々癇に障るものの、そこはご愛敬というものだろうか。
とにかくそれ以来、遼二は事あるごとに『氷川の奴は油断ならねえ』などと口を尖らせては愚痴を漏らしていたらしかった。無論、心底からそう言っているのではない。そうでなければ卒業式の日に河川敷で交わした友情のやり取りなどは存在しない。いわば紫月のことに限っては自分のものだから手出さしは許さないが、それ以外は大いに認めているというような、そんな意味合いを込めた彼なりの友情表現だったのかも知れない。
「……ま、とにかくー、あいつはてめえのことを警戒してたっつーか、ライバル視してたっつーか、要はヤキモチ焼きだったからさぁ……」
ブツクサと早口の言い訳をしながらも、どことなく懐かしそうな笑みをたずさえている。
いつの間にこんな表情ができるようになっていたのだろう。見るからに穏やかな感じの微笑みを見て、氷川は内心ホッとしたようにその瞳を細めた。そしてすぐにまた悪戯そうに口元をゆるめると、
「ふうん? そんなら、俺にも一応”趣味”ってもんがあるから心配無用だって付け加えとけよ」
ニヤッと笑いながらそんなことを口走った氷川に、紫月の方は怪訝そうに眉根を寄せて見せた。
「……趣味って何よ? つまりは何だ。俺はてめえの趣味じゃねえって言いてえわけ?」
これ見よがしに口を尖らせる様が可笑しくて、氷川はニヤニヤと含み笑いを隠さない。
「そーゆーことにしといた方がカネが安心すんだろ? それとも、実はお前に惚れてるとかって言えばいいのか?」
からかわれているだけだと分かっていても、ここは素直にうなずくところではないと焦るのか、赤面したり考え込んだりと、とにかく紫月は参ったなというようにコロコロと表情を七変化させている。
「や、まあ……それはそれで問題だけどよ」
まるで小さな子供がふてくされるような調子でブツブツとそう呟いたのが可笑しくて、氷川はまたしてもクククッと声を上げて笑ってしまった。