春朧

二十年前、春浅し―― 2



「ま、実際、二人っきりってワケでもねえしな。心配は無用ってことだ」
 その言葉に紫月は一瞬不思議そうな顔で隣を振り向いたが、すぐに言われている意味が分かったのだろう、すぐに笑みをこぼしてはうなずいた。ふと視線をやった先の遠目に、さりげなく二人連れの精悍な風貌をした男たちの姿が確認できたからだ。そして彼らからまた少し距離を置いた所に黒塗りの高級車が待っていて、その車の周囲にも二~三人が配備しているといった様子だ。
 過日、氷川に助けられた時もそうだったが、こんな光景を目の当たりにする度に彼の置かれているその立場を否が応でも認識させられる。妾腹とはいうものの、香港マフィアの頭領を父に持つという、その現実離れした世界観が目の前にあるのだ。
 氷川の境遇を初めて知った時には酷く驚いたものだが、桃稜在学中から確かに彼は一風変わっていたという印象が否めない。長身に加えて、嫌みな程に整ったその容姿もさることながら、それに負けない威風堂々とした彼の醸し出す雰囲気もまた、確かに目を引くものに違いなかった。
 現在は日本での企業経営を全面的に任されているという形になるらしいから、ここでは彼がトップということなのだろう。つまりは頭領(ドン)だ。
 まだ十代のこの若さで配下を従え、立派に企業経営を行っているらしい彼を見て、大したものだと紫月は心底感服の胸中で隣に座る男を見つめていた。
 そんな気持ちのままに、
「ま、何だかんだいってお前ってすごい奴だと思うよ」
 大真面目な調子で突如そんなことを口走った紫月を横目に、氷川の方はポカンとしたように隣を見やった。
「すげえ奴って――俺が、か?」
「ん、遼二の野郎もよくそう言ってたしな」
「カネが、か――?」
「ああ。氷川はめちゃめちゃ器のデケェ男だって心酔してたぜ。お前がマフィアの一家だとかって聞いた後は、よく香港のそういった映画なんかも借りてきて一緒に観たっけなぁ……」
 懐かしむように瞳を細めてそんなことを言う紫月の口元は僅かに笑みを伴っていて、何よりとても穏やかだ。
 『行ってみてえなあ香港』、などと無意識のように漏らす彼を横目に、ホッとした気持ちは無論のこと、今は亡き鐘崎遼二を思えば少しの切なさが胸を過ぎるようでもあって、氷川は複雑な気持ちのままに対岸に目をやった。
 ふと、そういえば卒業式の日に遼二と交わした『二人で香港に遊びに来いよ』という約束は叶わないままだったなと、そんなことが思い出されれば、より一層の寂しさがこみ上げる。
 香港なんて来たければいつでも案内するぜと気軽に言ってやることは簡単だったが、それを言ってしまうと、まるで『お前だけでも来いよな』などと強調するようにも思えて、氷川はしばし言葉を飲み込んだ。
 だが紫月の方はそんな心配を他所に、生真面目な顔で意外なことを言ってよこし、氷川はまたしても驚かされてしまった。
「氷川さ、いろいろアリガトな」
「――え?」
「ん、あいつ亡くなってからさ……お前にはいろいろと世話ンなったから……なんかすっげえ迷惑も掛けたみてえだしよ」
 一瞬何のことかと思ったが、どうやら告別式の時に殴り掛かってしまったことを言っているらしい。
「俺もあの頃はどうしていいか分かんなくて、正直自分で何したかとかもよく覚えてねんだ。実際あいつの後を追って死んじまいてえって、毎日そう思ってたのも事実……」
「…………」
「けど、まあ……お前が香港から帰って来てくれて……目覚めさせてくれたっつーか、とにかくいろいろ世話ンなって……感謝してる。サンキュな!」
 照れ臭いのか、若干の早口でそんなことを言ってよこした紫月に、氷川は珍しく呆然とさせられてしまった。
 こんなことが自然と言えるようになったのかという安堵感と、やはり一抹の切なさが付きまとうものの、とにかく彼の中で遼二の存在がそんなふうに穏やかなものとなりつつあることに、安心させられた。
 この先も、少しずつでいい、穏やかさを取り戻せたらいい。
 遼二の代わりには到底なれないだろうが、出来る限り傍で見守ってやりたいと、心からそう感じていた。

――川面を撫でる風はまだまだ冷たくて、けれども時折掠める水面の陽射しはやわやかで、そこに微かな春の気配が見え隠れしている。

「寒いか?」
 遼二宛てにといっていたメールを打ち終わったのか、胸ポケットに携帯を仕舞うと同時に、ダウンジャケットの襟元を立てるように肩をすくめた紫月を見て、そう声を掛けた。
「え? ん、ああダイジョブ。ダウンだから暖っけーし」
 それよりお前はどうなんだと言いたげな彼を横目に、氷川は襟元にあったマフラーを引き抜くと、それをダウンジャケットの肩から掛けてやるようにして差し出した。
「えっ? いいの? けどお前は?」
 寒くないのかと言いたげにクリクリっとした大きな二重の瞳を見開きながら見つめてくる仕草が、まるで素直な子供のように思えて、氷川はまたひとたび口元にやわらかな笑みを浮かべた。
 それならそろそろ行こうかと言って立ち上がり、枯れ草の付いたジーンズの尻を払っている彼に向かって、至極小さな声で呟いた。
「構わねえさ。お前に風邪なんか引かせた日にゃ、カネの奴にどんな嫌味を言われるか分かんねえしな」
 まだ地面に腰を下ろしたままで、意味ありげな笑みをたたえながらじっと尻の埃を払うのを観察しているような氷川を、紫月の方は怪訝そうに見つめ返した。
「――あ?」
「ん、何でもねえよ」
「何だよ、ヘンな野郎だな」
「気にするな。それより家まで送って行くぜ」
 遠目に控えている黒塗りの高級車を顎で指しながら、そう言った。
「あー、そう……なら遠慮なく」
 紫月は照れ臭そうに上目遣いで笑うと、
「そうだ。お前、時間あるんなら家に寄ってけよ。旨いケーキ買ってあるんだ。お袋の知り合いが店を始めたとかでよ、景気付けにって今朝めちゃめちゃたくさん買って来たから……よかったらあの人たちの分もあるしよ」
 あの人たち、というのは車の周囲で待っている連れのことを言っているのだろう。氷川はそんな気遣いにうれしそうに瞳を細めると、「それじゃ遠慮なく邪魔さしてもらうかな」と言って、口元をほころばせた。

 ずっとこんなふうな時間が続けばいい。
 寂しさも、そして今しがたの会話のような些細なことで心が温まる気がする小さな幸せも、徐々に取り戻しつつある穏やかさも、すべてをひっくるめて変わらずに大切にしていきたいと思う。隣を歩く、自分よりも若干華奢なこの男の笑顔を見守りながら、ずっとずっとこうして過ごしていけたらいい。

 漠然とそんな想像を思い描く氷川の視線は穏やかで、静かな中にも深い温かさがありありと宿っていた。それを横目にする紫月の瞳もまた安堵の色を濃く映し出す。二人は互いの視線を感じて同時に見つめ合うと、すぐに似たようなおどけた表情で微笑い合った。
 こうしていられる時間がもうあと残り少なに迫ってきていることなど、この時の二人は当然知る由もなく、ただ巡り来る季節にそっと心を触れ合わせ――

「そういや来週の土曜にさ、剛のヤツがライブやるって言ってたけど」
「――土曜か」
「何、やっぱ仕事?」
「まあな。午後から会食が一つ入ってたと思うが、その他は何とでもなる」
 要は氷川の思惑如何によってはどうにでも融通がきくということだろう。紫月はうれしそうにうなづいて見せた。
「ふうん、なら一緒に行かねえ? ライブは夕方からだしよ。確か六時開場の七時スタートくらいじゃね? その後は軽い打ち上げもやるっつってたから」
「それじゃデリバリーの差し入れでも持って行くか。場所は何処だ? 何ならお前ん家に迎えに寄ろうか?」
「あ、いいや」
 首を横に振って即答した紫月に、氷川の方は不思議そうに首を傾げた。
「俺、ちょっとその日、本屋に寄ってから行きてえから。けどまあ、もし迎えに来てくれんなら駅前のロータリー出た所で拾ってくれると有難えな。ライブ会場って駅から歩いて行くにはちょっと距離あるし」
 そう言う紫月は、どうやらその日発売の何とかいうミュージシャンの著物をライブの差し入れとして持って行ってやりたいらしい。剛の心酔しているミュージシャンが初めて出す本だというので、それを軽いお祝い代わりに予約しているということだった。
「帝斗と倫周も来るって言ってたし」
 楽しみだなと言って笑う紫月を、車の扉を開けて待機していた男たちが丁寧な会釈で迎え、と同時に自分たちの頭領である氷川にも同じように深く頭を下げた。こんな光景はこのところ幾度か経験しているものの、そうそう慣れるものではない。
「こいつを家まで送って行く」
 紫月を先に後部座席へとうながしながらそう言った氷川に、
「かしこまりました」
 詳しい説明などしなくとも、短いひと言ですべてを心得たかのようにスマートな返事をして、品のよさそうな男が助手席に乗り込んだ。
「少しこいつの家に寄せてもらうつもりだ」
「承知致しました。本日は特にこの後の予定もありませんから、ごゆっくりと」
 それでは我々は周辺で待機していますということなのか、助手席の男が運転手に簡易駐車場などの場所を指示しているようだ。紫月はどうにも慣れない緊張の中で、どことなく落ち付かないながらも思わず身を乗り出すようにすると、
「あのっ、よかったら皆さんもご一緒に如何ですかっ!? ケーキでも食って行ってください……!」
 ガシッと助手席の背を掴むような前のめりでそう言った。
「……」
 勢い込んで大声になってしまったせいもあってか、助手席の男は勿論のこと、バックミラー越しに運転手の男までもがチラリと視線を寄こしたのに、緊張が一気に背筋を這い上がる。彼らの正体を知っているから尚更だ。
 一口に裏社会だのマフィアだのといっても、氷川に関しては前々から既知の仲なので、左程どうとも思わない。けれども同乗している男たちは少々別だ。
 おそらくは氷川よりも年かさがいっているだろうと思えるような彼らは、隙のないその身なりからしても圧迫感が並外れている。品も備わっていて紳士的だが、裏の顔とは分けているのだろう。語学は無論のこと、射撃や体術など、どれをとっても磨き抜かれて洗練され尽くしているのだろうことが窺える。事細かな説明をしないでも、先ずはそのオーラだけで参ってしまう。いわゆる本物というそれだ。そんな相手を前に緊張しない方がおかしいというものだ。
 紫月はアタフタとそんなことを思い巡らせながら、
「……えっと、あの……」
 旨いかどうか分からないですが、と言い掛けて、そこでハッとしたように言葉をとめた。
「あ……その、お口に合うかどうか分かりませんが、数だけは大量にあるんで……よかったら皆さんにも召しあがっていただければ……」
 慌ててそう言い直した。どうにも上品な言葉使いというのは難しい。だが彼らの方では、一生懸命にそんなことを言ってくる紫月に対して逆に好感を覚えたのか、すぐに柔和な感じで軽く会釈をしてよこした。
「お気持ちだけでもたいへん有難く存じます」
「いや、そんな……俺……じゃなくてこちらこそ……、その……送ってもらって申し訳ないですし、是非……」
 そんなやり取りを面白そうに静観していた氷川だったが、
「――だそうだ。お前らも遠慮なく邪魔さしてもらえ。こいつの家は道場をやっているから、日本古来の珍しいものが見せてもらえるぞ。いい経験ができるんじゃないか? 後ろの車の連中にもそう伝えておけ」
 満足そうな笑みまじりのその声音に、配下の男たちも紫月もホッと胸を撫で下ろす。特に紫月の方は思い切り助かったという面持ちで、大袈裟な深呼吸に肩まで揺らしているのが可笑しくて、氷川はまた人知れず口元をゆるめたのだった。

 頭上に高速道路をまたいで、駅前に続く大通りに入る。そのカーブで、車窓から後ろを走る車が視界に入ったのか、紫月は思わず感嘆のような声を上げた。
「しっかし、やっぱすげえ世界なんだな……」
 まるでヒソヒソ話のようにして隣の紫月が肘を突いてくるのに、氷川は何のことだといったように彼を振り返った。
「後ろに車付いてるって、やっぱりお前の護衛とか? すげーよなー。遼二が知ったらぜってー羨ましがる。香港の映画観ながらさ、いっつもこんな車に乗ってみてえとかって言ってたもん」
「なんだ、カネは香港映画が好きだったのか?」
「そりゃお前がそーゆー世界のヤツだって知ってからだよ。香港の街並みを見てるだけでも、ちっとは氷川の世界が分かる気がするとかって言ってさ」
「ほう、カネがそんなふうに思っててくれたとはな」
 リラックスしてうれしそうに笑う。そんな氷川を横目に、何となく二人きりの時とは彼の雰囲気が違うことに気が付いてか、紫月は怪訝そうな上目遣いで隣の男を見やった。
「……やっぱ雰囲気違う」
「何だ――?」
「や、お前。俺らといる時よか、偉そうに見える」
「はあ?」
「これが頭領の貫録ってヤツかな? なんかそーゆー姿、遼二にも見せてやりたかったなぁ……」
 半分は冷やかし気味に笑うその様子に、氷川はまたしても瞳を細めた。いつ何時(なんどき)でも最愛の男のことを胸に抱いている彼が微笑ましく思えて、ひどくやさしい気持ちにさせられる。と同時に切なさが過ぎるのもまたしかりだった。

――大丈夫、あいつもきっと見てるはずだぜ――

 その言葉を飲み込みながら氷川は言った。
「どこかで珈琲の豆でも買っていくか。ケーキをご馳走になるんならそのくらいしねえとな」
「え、いーよそんなん。気ィ、遣うなって」
「お前にってわけじゃねえよ。お袋さんたちへの土産だ」
「あ? なにソレ――」
 今までの感慨はどこへやら、途端に口を尖らせた様子にも安堵の溜息がこぼれる。こんな表情ができるのだから、やはりかなりのところまで立ち直れているということだろう、氷川はいつもそんな気持ちで紫月を観察するのを欠かさなかった。
「そんなにスネるな。ウチの連中も邪魔さしてもらうんだ。いいじゃねえか、それくらいさせろよ」
「ま、いーや。せっかくなら酸味の少ないヤツ頼むぜ。苦いのはイケるけど酸っぱいのは苦手」
「だろうな? お前、甘いモン好きそうだし」
「……よく知ってんじゃん」
「まあな」
 軽く鼻先で笑う氷川に、紫月は負けじと片眉をしかめてみせた。
「お前、やっぱ頭領だよ」
「――どういう意味だ」
「ん、どこそこ偉そう。つーか、他人を丸め込むのも上手けりゃ、納得させんのもプロ級。その上、態度もデケえし!」
「何だそれ。人聞きの悪いこと言うなよ」
「人聞き悪ィって何よ。俺りゃー、これでも褒めてるつもりなんだけどなー」
「それが褒めるって態度なのか?」
 阿吽の呼吸がよく噛み合って、詰り合う言葉とは裏腹に存外その会話を楽しんでいるふうな二人の様子は微笑ましい。助手席の男は表情に出さないまでも内心でそう思いながら、珈琲豆を購入する店までの道のりを運転手へと告げた。

 その後、紫月の家では氷川たち突然の来客にも大いに喜んで、歓迎した。例のケーキとお茶をふるまい、その後は日本の道場の造りを珍しがっている氷川の配下の男たちの為にと、居合抜きの実演までサービスしてもてなした。彼らはたいへん感激の面持ちで、それをきっかけに何となく打ち解けた雰囲気になっていくのを、誰もが心地よく感じているといったふうだった。と同時に紫月はまた後でこのことを遼二にメールしようなどと思い、一人こっそりと胸を温めてもいたのだった。
 お礼の手帳も渡せたことだし、何だかんだと今日は充実した一日だった。
 少し伸びてきた早春の日暮れは綺麗な薄桃色で、そんな光景にも春の気配が感じられる。
「今日は楽しかった。いろいろサンキュな!」
「ああ、こっちこそ大勢で押し掛けちまって済まなかった」
 次に会うのは剛のライブの日になるだろう。当然のようにそう思って笑顔で手を振り合う二人には、まさかこれが互いにとって心から触れ合える最後の機会であったなどとは、思いもよらなかった。

 待ち焦がれる春はすぐそこに確かな足音を運んできている。が、同時に、過ぎてしまう季節を惜しむような寒風がそれを引き留めんと吹きすさぶのもまた事実である。
 浅い春が逝こうとしていた。



Guys 9love

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