春朧
二十年前、逝く春――
時計を見ると、午後の四時半を少し回ったところだった。
今日は四天学園時代からの仲間である清水剛のライブの日だ。一緒に行く予定の氷川が車で来るというので、駅前で拾ってもらう手はずになっていた。それにしても待ち合わせの時間までにはまだ一時間以上もある。
「ちょっと早く来過ぎちまったな……」
剛へのライブ祝いにと予約していた本も既に取りに行ったことだし、仕方がないので紫月は軽く一人でお茶でも飲もうと、大通りに面したコーヒーショップへと足を向けた。幸い窓際の二人掛けの席が空いていたので、そこに陣取り腰を落ち付ける。ここならば通りの様子も見渡せるので、万が一、氷川が早めに着いたとしても気付けるだろう。何せ彼の車というのは黒塗りの高級車だから、多少ぼんやりしていても見逃さないだろうと思うわけだ。
甘党の紫月は、買ってきたコーヒーにスティックシュガーを四本束ねて封を切り、サラサラとカップに入れようとした、その時だった。
「わっ……!」
「あっ、すいません……ッ!」
ちょうど脇を通り掛かった学生らしき客のバッグが肩に当たって、勢いよくトレーの上に砂糖をぶちまけてしまったのだ。
「す……っ、すいませんッ!」
慌ててそう言った声の主を見上げれば、黒い学ラン姿の二人連れの男が驚いたようにして硬直していた。
ここいらで黒の学ランといったら、自らが卒業した四天学園しかない。何だか懐かしいような気持ちになって、紫月は穏やかな笑みを浮かべた。
「いいよ、気にしないで。俺なら大丈夫だから」
そう言ったものの、トレーの上いっぱいにばら撒かれている砂糖を見れば、どうやら彼らの方は平静ではいられなかったらしい。ぶつかった張本人はひたすら驚いたような顔つきで、はっきりとした二重の大きな瞳を更に大きく見開いて固まったままだ。そんな様子にすぐ後ろでトレーに二人分の飲み物を乗せていた男が、すかさず頭を下げてよこした。
「すみませんでした。あの、これよかったら使ってください」
自分たちの分だったのだろう、彼は持っていたスティックシュガーを数本差し出すと、申し訳なさそうに謝罪の言葉を口にした。まるで連れの男を庇うようにして迅速な対応をする彼に、紫月は思わず微笑ましい気持ちにさせられてしまった。
『これで足りますか?』と言って差し出されたシュガーは四本あって、咄嗟に彼らは二本づつ使うつもりだったのかななどと楽しい想像が浮かんだ。それとも片方が甘党で、片方はブラックなのかも知れない。もしそうならば、ブラックの方はきっと今、このステッィクを差し出している彼の方じゃないかな――と、興味本位の想像までもが浮かぶ。
「けど、いいの? 君らの分だろ?」
「いいんです。また取りに行きますんで使ってください」
「そう。じゃ遠慮なくそうさしてもらうな」
せっかくの申し出を断るのも何なので、紫月は有難く受け取ることにした。
彼らは二人揃ってもう一度ペコリと頭を下げると、奥の方のテーブルへと移動して行った。その様子を何とはなしに目で追いながら、もらったばかりの砂糖をコーヒーへと入れる。と同時に、席へと着いた彼らの会話が飛び込んできて、ふいと口元に笑みが浮かんでしまった。
「悪りィ。俺ンせいでまたお前に迷惑掛けちまった……。あ、俺ちょっと砂糖取ってくるわ!」
「いい。俺が行くからお前は座って待っとけ」
「え、ああ……うん、ごめん」
「……ったく、相変わらずそそっかしいんだからよー。ちっとは気を付けろっていつも言ってんだろ」
言葉はそっけないが、その言い方に何ともいえないあたたかさが垣間見えるのは間違っていないだろう。それを証拠に、砂糖を取りに席を立ちがてら、さりげなく相方を守るように添えられた腕が非常に印象的だった。
四天の一年生だろうか。まだあどけなさが残るものの、二人共に結構な長身で、どちらかといったら昔の自分たちと印象が重なるような風体の持ち主だ。わざと丈をいじったような学ランも、腰元に飾られたシルバーのチェーンも、そして案外時間を割いて手を掛けているのだろう髪型も、それぞれによくサマになっている。そんな姿が数年前の自分たちにダブって思えたのか、紫月は何とも言い難い表情で、だがとても穏やかな笑みを浮かべながら、しばし彼らの方を見つめていた。
「遼二と俺もあんなんだったなぁ……」
在学中はよくこうして放課後にこの近辺をブラついたものだ。いつも隣には遼二がいて、そしてそんな自分たちの脇を固めるようにワイワイとはしゃぎながら、剛と京がいた。
商店街のアーケードを我物顔で闊歩したのが本当に懐かしい。そんな思いのままに携帯を取り出し、いつものように遼二へと報告のメールを入れた。
*
今、駅前のコーヒーショップ。四天の一年っぽい野郎の二人連れがいるんだけどさ、なんか妙に可愛いくってよ。俺らもあんなんだったなーって、ちょっと懐かしくなっちまった。
これから剛のライブ。ヤツが欲しがってた本もゲットしたし、楽しんでくる。また帰ったらメールすっから。
あ、そだ!
今日も氷川と一緒に行くけどさ。迎えに来てくれるっつーから。一応報告しとく(笑)
*
もう二月の終わりの夕暮れが春を告げている。窓の外のだいぶ陽の長くなった空を見上げながら、そろそろ行くかと席を立った。
時間にすればまだ若干早いものの、駅前で車を待たせるのは悪い気がして、ブラブラと待ち合わせ場所へと向かった。
頬を撫でる風はまだ冷たいが、ふと通りすがりの庭先に白梅の蕾がほころんでいるのが目に付いて、ほんわりとした心持ちになる。ガラじゃないが、こんなふうに情緒を感じながら歩くのもたまにはいいだろう。
普段は気にも掛けなかった花屋の店先には、桃の節句用のピンクの花を付けた枝々が大きなバケツにわんさと並べられていて、その隣の洋菓子屋にも同じような雛祭りの菱餅型のケーキのポスターが大きく貼り出されている。甘党の自分としては思わず食指が動きそうだ。本当に普段なら素通りで当たり前の景色が、今日はやたらと目に付くのは何故だろう。
だがやはりこんなのも悪くはない。そんな思いのままに、ゆっくりあちこちへと立ち止まるようにして紫月は歩いた。
ふと視線をやった先の交差点に、先程いたコーヒーショップで出会った四天の一年生らしき二人連れの制服姿が目に付いて、思わず足をとめた。
互いの肘で相手を突き合ったりしながら何やら楽しげな様子に、こちらも思わず笑みを誘われる。
「あいつら……」
彼らも同じ頃に店を出てきたのだろうか、再度見掛ける偶然に紫月は瞳を細めた。
会話の内容までは聞き取れないながらも、二人がとても楽しそうに話しているのはすぐに分かった。やはり以前の自分たちと印象が重なるのか、微笑ましい気持ちと同時に胸の奥底がキュッと掴まれるような切ない哀愁が過ぎるのは、仕方のないことだろう。願わくば彼らにはずっとこのまま共に笑い合っていて欲しいものだと、心からそう思ってやまなかった。
そんな感傷を振り払うように視線を外して、待ち合わせの場所へ急ごうと思ったその時だ。
もう一目だけ――と、ついそんな気持ちで何気なく振り返った彼らの姿の後方に、けたたましいブレーキ音が響いた。譲らない車と無理な追い越しでその脇をすり抜けようとしたバイクか何かが接触事故を起こし、その弾みで彼らが立つ交差点へと突っ込んでくる光景がスローモーションのようにして飛び込んできたのだ。
「危ねえ――ッ!」
そう叫んだ時には、紫月は既に彼らを庇うようにして車道へと飛び出していた。
◇ ◇ ◇
同じ頃、その紫月を通り沿いで拾う予定だった氷川の方は、駅の反対側の改札を出たところにあるホテルのロビーにいた。今日はここで軽い会食の接待があったのだ。
「俺はこのまま駅を突っ切って、先に一之宮と落ち合おうと思うが」
手元の時計を確認すれば時間的にはまだ余裕があったが、渋滞を見込んでか、氷川は側近の男にそう告げた。確かに距離的には目と鼻の先でも、線路をくぐるとなると時間的には読めなくもある。
早春とはいえ、宵闇に親友を待たせるのも気掛かりならしい主の意向はよくよく理解できるのか、側近の男はすぐにその旨を運転手へと伝えた。
「では私もお伴させていただきます。車はお待ち合わせの場所へ向かわせて、待機させますので」
氷川を一人にさせるのは言語道断なのでそういう判断になるわけだが、この辺は氷川も重々理解の上だった。
そうして歩き出した男たちの周囲には、何処とはなしに好奇の視線があふれている。仕事の後ということもあって、きっちりと着込まれたスーツは無論のこと、もともと長身で端正なつくりの氷川は、その存在感だけで他人を惹きつけてやまないらしい。
そんな彼に付き従っている男もそれに負けず劣らずのキレ者といったふうだから、彼らが歩を進めるごとに自然と道が開けられていくような調子だった。
混雑している駅構内でも人にぶつからずにいられるというのは有難くもあるが、それでも何か事が起こってからでは遅いので、側近の男は常にそれとなく周囲に気配りを忘れなかった。
無事に駅を出ると、何本か通りを行った先の待ち合わせ場所へと歩を進めた。だがその途中で、何やら物々しい雰囲気の人だかりができ始めている様子に、氷川と側近の男は同時に眉をひそめた。
「何かあったのでしょうか?」
「……ああ、そうみてえだな」
黒山の人だかりに近付くと、どうやら事故のようである。誰かがしきりに「救急車」と叫んでいる様子が飛び込んできた。
これでは渋滞は免れない。氷川はやはり徒歩で先に来て正解だったと、そう思った直後だった。
「若い男が高校生のガキ二人を庇って轢かれたってよ!」
「マジかよ。救急車はまだなのか!?」
「誰かこの兄ちゃんの連れとかいねえのかっ!? 身元の分かるもんはねえのかよ!?」
慌ただしい怒号が飛び交う横をすり抜けながら、一応紫月に電話を入れて現在地を確かめようと携帯を取り出した。と同時にちらりと横目に視界を過ぎった見覚えのあるダウンジャケットが、血染めになって歩道の植え込み辺りに垣間見えたのに、氷川はギョッとしたように歩をとめた。
(まさか――ッ!?)
嫌な予感に携帯を握る手が瞬時に汗ばむ。ダウンジャケットの姿を凝視したまま、氷川は人垣をくぐり抜けて男の傍へと歩み寄った。
「一之宮ッ――!?」
狂気のようなその叫び声に、一瞬その場が静まり返り、すべての動きが止まったかに思えた。
夕闇が降り切る少し手前の濃い橙色の空も、点在し始めた街の灯も、慌ただしい人々の雑踏も、そのすべてが停止し、この世の中から音さえも消えてなくなる――。
呆然と立ち尽くしていたのはほんの僅かだったろう。だがそれが終わることのない永遠のように感じられたのもまた錯覚ではない。
目の前で誰かがしきりに何かを叫んでいる。
尋常でなく衝撃を受けているふうに映ったのだろうか、ガクガクと腕を掴まれて揺さぶられているような気もする。
(あんた、この兄ちゃんの連れなのかッ!?)
(おい、あんた! 俺たちの言ってることが分かるか!?)
そんなふうに言われているのかも知れないと思えども、実際には分からない。
見知らぬ男たちの必死の形相だけが視界に飛び込んでくるのに、何を言っているのか肝心のその声が閉ざされて聞こえない。
人の声だけではない。クラクションの音も雑踏も、すべてが無音の世界が目の前に広がっているだけだ。