春朧

二十年前、逝く春―― 2



「あんたっ! この兄ちゃんの知り合いなのかっ!? おい、あんた!」

 突如戻った雑踏にハッと我に返れば、すぐ傍では側近の男が植え込みに倒れている若い男に寄り添うようにしながらこちらを見上げていた。
「老板(ラァオバン)! 一之宮様で間違いございません!」
 耳元で叫ばれるはっきりとした声の音が戻ってきた時には、氷川もまた、血に塗れた身体を抱き起こすようにして、その傍へと屈み込んでいた。間違いない、事故に遭ったのは紛れもない、一之宮紫月だ――。頭上では誰かが「救急車はまだか」と叫んでいる。
「……ンなの、待ってられっか……ッ! すぐに車を回させろッ!」
 自らの手で病院に連れて駆け込むつもりなのだろう、側近の男はその意を組むと、急ぎ運転手に告げるべく携帯を手にした。それにしてもこの混雑の状況では、そうそう直ぐには間に合うかどうか分からない。
「一之宮ッ、おいしっかりしろっ……!」
 あまり取り乱すことなどない主が、先程から必死にそう呼び続けている姿も痛々しい。焦る気持ちと祈るような気持ちが交叉する中で、とにもかくにも運転手へと指示を伝える――。



◇    ◇    ◇



「……氷……川……? おま……え、氷……」
「ああそうだ! 俺だ、分かるかッ!?」
「……あいつ……らは……無事……か?」
「え――?」
 呼び掛けにようやくと反応した紫月の視線が、抱きかかえる自分を通り越して頭上の誰かを捜しているように思えて、氷川は即座に後ろを振り返った。するとそこには在りし日の鐘崎遼二と、この一之宮紫月を思わせるような風貌の学ラン姿の二人連れの男が、衝撃の面持ちで様子を気に掛けているのが分かった。
 それを目にしただけで、氷川は何故こんな事態に陥っているのかということが読めてしまった。
 つい今しがた、誰かが言っていた『若い男が高校生のガキを庇って――』という言葉を思い出せば決定的だった。
 弱々しい声で、それでも必死に彼らの無事を気に掛ける紫月の気持ちが痛い程に理解できたのだ。
「ああ……、無事だから安心しろ……」
「そ……っか、よかっ……た……相棒を……失くすなん……てのは……俺だけで十分……」

 そうだ、あんな辛い思いはもう誰にもして欲しくない――

 そんな紫月の願いが身体中を貫くようで、氷川はどうしようもない思いに打ち震えた。
「なあ……氷……川……」
「しゃべるんじゃねえ……ッ、すぐに病院連れてってやるから……安心しろ!」
 ジャケットの肩や袖は擦り切れて、ジーンズもほころび、そこから血痕が滲み出して赤黒い染みが広がっていた。唇の端から伝う血の流れは、おそらく内臓を痛めた衝撃で吐血でもしたものと思われる。それを証拠にダウンジャケットの胸いっぱいに血の塊が飛び散ったような痕が点々としていた。彼の薄茶色のゆるやかな癖毛は、額からの流血でべったりと頬にかけて張り付いている。一見しただけで手遅れと思わせるような嫌な残像を必死に振り払いながら、氷川は紫月を強く抱き締めた。
「氷川……」
「しゃべるんじゃねえっつったろ……! 大丈夫だから……ッ、すぐに助けてやるから少し黙ってろ……!」
「……楽しかった……よな……またやりてえな……お前……とのタイマン……」
 突然の言葉に氷川は険しく眉をしかめた。いきなり何を言い出すというわけだろう。
「あの……倉庫で……また……してえな」
 ああ、分かった。きっと彼は、いつかの埠頭の倉庫で行ったタイマン勝負の時のことを言っているのだ。おそらく意識が混沌としているのだろう、そう思って氷川は彼の意を尊重するように話を合わせてみせた。
「ああ、そんなもん、お前のこの怪我が治ったら……いくらだってやってやる。好きなだけ相手になってやるから……!」
「……約束……だぜ……?」
「ああ、約束する。だからもうしゃべるんじゃ……」
「今度は……ぜってー負け……ねえ……」
「ああ……」
「今度……こそ……お前に勝つ……から……」
 血に濡れた震える指先を差し出しながら、とぎれとぎれの声で、紫月はまるでうれしそうにそう言って微笑んだ。

 そうだ、今度こそ絶対に負けない。あの埠頭の、煉瓦色の倉庫でもう一度。
 輝いていたあの春の日に戻って、必ず拳を交わし合おう。
 次は必ず勝って、これで相子(互角)だと微笑み合おう。
 氷川と俺と、そしてお前と一緒に三人で、もう一度――

「なあ、遼二よー」
 まるで誰かに語り掛けるようにそう言って微笑んだのを最期に、その瞳は次第にゆっくりと閉じられていった。
 彼の声音は幸せに満ちているというにふさわしい程の穏やかでやさしいものだった。

「……い……ち之宮……? おい……なあ、おい……ッ」

 笑みの形のままの唇も、閉じられたばかりの瞳も、すべてが穏やかで満ち足りているようなのに再び時が止まる。
 ふと、抱き包んでいた彼の身体を誰かが横からバトンタッチするかのように、さらっていくような気配がした。
 驚いて顔を上げれば、そこには確かに見知ったはずの懐かしい香りと黒髪の印象が立ち上り――
 特徴的だった漆黒色の瞳が穏やかに細められているのが分かった。まるで『ありがとう』とでもいうように心から優しげに、そして親しみのこもった微笑みを向けてくるのは、まぎれもなく在りし日の鐘崎遼二だった。
 そして何故かその遼二に抱き包まれるようにして傍に寄り添っているのは、今自分の腕の中にあるはずの傷付いた一之宮紫月に他ならない。重傷のはずの怪我の痕跡は見当たらず、二人共に至極満ち足りた笑みを浮かべている。

――氷川、約束したぜ? いつかまた、きっと三人であの時みたいに――

 肩を並べ合おう――

 自分を見つめていた二人の笑顔がだんだんと薄くなり、背後の街の雑踏の中に透けていく。
 夢幻のようなこの出来事は現実なのか。その意味するところは何なのか。第一、切羽詰まったこんな時にどうして鐘崎の幻が浮かんだりするんだ。何故、一之宮は笑っているんだ。
 そんなことが脳裏を巡り、ようやくと氷川は我に返った。
「カネ――!? 待て……待ってくれっ……!」
 幸せそうに微笑む彼らの幻が完全に空へと消えると同時に、心配な面持ちでこちらを見下ろしている学ラン姿の二人の顔が、まるで入れ代わるように鮮明になって飛び込んできた。彼らはたった今、紫月が庇って助けたという高校生の二人だ。
 その悲痛ともいえるような表情に驚いて、即座に腕の中の存在を見やれば、そこには先程までと変わらぬ傷だらけの紫月の姿があった。
 穏やかな表情で眠るように腕の中で動かない。
「……嘘……だろ……? なあ一之宮……? おい……」

 嘘だろうカネ――?
 まさかそんなこと。頼むから、嘘だと言ってくれ。お願いだからこいつを――

「連れてかねえでくれよッ……カネっ…………!」

 たったひと言で喉が焼けつき、焦げたように嗄れ尽くし、悲痛な叫びは届くことなく掠れて雑踏の中へと呑み込まれていった。



◇    ◇    ◇



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