春朧
暦は三月に入ったというのに粉雪の舞い散る寒い日だった。
夕暮れ間近の薄灰色の景色の中、人影もまばらな埠頭の倉庫街で一人佇み、氷川白夜は寒空を見上げていた。
「こんな所にいたのかい? 随分と捜したんだぜ?」
聞き覚えのある、だがいつものそれより元気のない声音に後方を振り返れば、そこには粟津帝斗が弟の倫周を連れて立っていた。皆それぞれに喪服の黒に身を包み、その表情は重苦しく翳りを伴っている。高校時代からの仲間だった一之宮紫月の弔いの帰り道、切なさに胸が潰れそうなのは誰しも一緒だった。
式が済むと同時に、何時(いつ)ともつかずに姿を消してしまった氷川のことを心配して、帝斗が捜しにやって来たのだ。何せ氷川は紫月の最期に居合わせたこともあって、仲間内の誰にも増して辛い思いを抱えているであろうと思えたからだ。彼の側近たちに居場所を訊ねて、ようやくと捜し当てた場所がここだった。
朝方からのどんよりとした曇天は葬儀の始まる昼前になって雪へと変わり、酷な程の冷気がそれぞれの重たい心に、より一層の枷を強いるような一日となった。
そろそろ夕闇が降りてくる時分の今、まだ粉雪のチラつく中に漆黒の喪服姿で佇む氷川の後ろ姿からは、普段の精鋭な雰囲気は微塵も感じられない。どこを見るともなしに空に漂わせた視線に鋭さはなく、ただただぼんやりとそこに在るというだけの姿が、より一層悲しみの深さを物語ってもいるようだった。
「そろそろ日暮れも近い……こんな所でじっとしていたら風邪をひくよ」
互いにどんな言葉を掛け合っていいのかも分からない。そんな思いのままに、それでも彼を気遣いながら帝斗はそう言った。
「此処な、あいつらとタイマン勝負をした場所なんだ」
氷川は一瞥だけ帝斗を振り返ると、再び視線を遠くの空へと逃がしては、ポツリと覇気のなくそう呟いた。
「一之宮は最期まで此処での思い出を懐かしんでた……」
「……そう……。きっと紫月にとって忘れたくない大切な思い出のひとつだったんだろうね」
悲しみに暮れるというよりは殆ど何をも考えられないような放心に近い状態で、頬を撫でていく粉雪を見るともなしに帝斗はそう相槌を返した。その傍でやり取りを聞いている倫周も似たような状態だ。無論、氷川も同様で、帝斗らに話し掛けるというよりは、独白に近いような調子で先を続けた。
「……あいつにとってあの時のことは何より大事な思い出なんだろう。もしかしたらヤツの人生の中で一番幸せな記憶だったのかも知れない」
「……一番……?」
ぼんやりとしたままだった感情をようやくと取り戻したように帝斗がそう訊いた。
「あいつは事ある毎にここでの勝負のことを思い出してた。カネの葬儀の時にヤツが俺を殴ったのを覚えてるだろ? あれだってきっと俺の顔を見た途端、その時のことを思い出したからに違いねえんだ」
実際、それ以外には取り立てて紫月と氷川の間に直接的な接点は無かったに等しい。街中で互いを見掛ける程度のことはあっても、わざわざ声を掛け合う程には親しい付き合いをしていたわけじゃない。つまり、顔を合わせればその時のことしか思い浮かばないのは当然かも知れないが、けれども氷川にはそれだけの理由で紫月がその時の出来事を大事に温めているのではないということも解っていた。
「あいつが……一之宮があの時の勝負を忘れないのは、カネが命掛けでヤツを守ろうとしたからだ。俺の手管から守る為にカネは身を挺してヤツをか庇(かば)った。それが何よりうれしかったんだろう」
「……そう、そんなことがあったんだね」
「一之宮はいつもカネのことを想ってた。例えば何か旨いもんを食ったりした時には、必ずといっていい程『あいつにも食べさせてやりてえな』って、そう言った。たまの休みに河川敷を散歩すれば『遼二と一緒によくここを歩いたんだ』と言い、買い物ついでに一服しようと喫茶店に入れば『あいつはコーヒーに砂糖は入れなかったんだよな』とか……そんなふうにいつでもカネのことを忘れなかった。何かある度にカネの携帯にメールをするのも欠かさなかった……」
それは帝斗も倫周もよく承知していた。自分たちと一緒にいる時にも同じような感じで、紫月は何かにつけて遼二のことを思い描き、そして語っていたからだ。
遼二の父親がまだ解約しないで取ってあるという彼の携帯宛てに、よくメールを送っていたのも知っている。そんな様子を側で窺いながら、切ないとも何とも言い難い思いで見守っていたものだ。おそらくは氷川や剛、京らと一緒にいる時もそうだったのだろう。遼二を失った悲しみから徐々に立ち直りつつも、それと同時に彼との思い出をより大切に自身の中で育もうとしていたのかも知れないと、誰もがそう思っていた。
「カネのことを話す時のちょっと切なそうなあいつのツラを見ているのは正直気の毒に思えないこともなかった。だから俺は……ずっとそんなあいつを見守り続けていこうと思ってたんだ……。カネを失った悲しみは誰しも変わらねえし、到底カネの代わりになんかなれるとも思ってなかったが……それでもずっと、ただずっと傍であいつを見守っていきてえって、この先ずっとあいつと一緒にいるのが当たり前だって、心のどっかで……思ってたの……に……」
こちらに背を向けながらそう言う氷川の幅の広い肩先が、僅かに震えを伴っているように感じられた。海風に掻き消されるような低い声が、悲しみを抱え切れないといったふうにそう呟く。滅多なことでは感情の起伏を見せない男がこんなふうに肩を震わせている姿に、帝斗も倫周もどう声を掛けてよいやら分からなかった。
正直なところ、氷川のこんな一面を目にしたのは初めてといっていい。実際、実の父や兄が狙撃を受けたという時でさえ、気丈にもたった一人で敵対組織を潰しに追いやったという程の男だ。その時の氷川の様子がどんなに精悍だったかということは、彼の取り巻きの者たちの絶賛を、自らの父を通して聞き及んでいる。その後、日本に戻った彼の励ましによって、傷心に暮れていた紫月も徐々に元気を取り戻していったのだ。
何事にも動じずに、ともすれば弱点など無いに等しいようなこの男が、まるで別人のように肩を落としている様を見て、帝斗も倫周も居たたまれない心持ちでいた。そんな気持ちを知ってか知らずか、氷川は未だ海を眺めたままで、相変わらずに独白のような言葉を続けた。
「俺はとんだ嘘付き野郎だったな……」
「――え?」
一瞬、気が触れてしまったのではないかと思われる程に放心した視線がこちらに向けられたのに、帝斗は驚きと不安で彼を見つめた。
「カネを亡くして傷付いてる一之宮によ、俺が言ったこと覚えてるか?」
「……?」
「いつか俺らが皆死んじまって、カネに再会できた時に……堂々と胸張ってヤツに会えるように……とか何とか……、尤もらしいことを言ってあいつを励ましたつもりでいた……どうしようもねえクズ野郎だ」
無論、そのことならよく覚えている。
いつかカネに再び会えた時に、堂々と胸を張って微笑い合えるように、今この時を精一杯生きよう――と、そんな意味合いの言葉だった。
だが実のところ、氷川のその励ましのお陰で、紫月が自分自身を取り戻すきっかけを掴んだのは誰しも承知していることだ。当の紫月とて、氷川には深く感謝し、そしておそらくは仲間内の誰よりも頼みにしていたのは間違っていないだろうと思う。剛や京に訊いても同じことを言うだろう。
氷川がそのことに関して何を気に病んでいるのかが分からなかった。だが次の瞬間、今にもあふれそうな大粒の涙を瞳いっぱいに溜めながら彼がこちらを振り返ったのを目にして、帝斗は思わず彼を支えんと一歩を踏み出し、だがすぐにハタとその歩をとめて氷川を見つめた。あまりにも辛辣な彼の表情に、身体が金縛りに遭ったかのように動けなくなってしまったからだ。
「カネを亡くした時は確かに辛かった……けど一之宮がいたから耐えてこられたんだ。俺やお前らや清水に橘、他の誰よりも辛い思いでいるだろうあいつを支えてやらなきゃいけねえって……まるでそれが使命みてえに思えてた。だから俺らがしっかりしなきゃいけねえって思ってきたけど……実際のところ、支えられてたのは俺らの方だったのかも知れない……そんなあいつを亡くして、今……本当にどうしていいのか……分かんねえ……」
がっくりとうなだれた氷川の声は掠れ、まるで絞り出すように呟かれる一言一言が重くて苦しくて、どうしようもない。
「なあ帝斗、カネを亡くした時のあいつの気持ち、こんなだったんだな……? いや、もっと辛かったのか……」
「……白夜」
「……あいつが傍にいねえってことが……こんなにも辛えなんてよ、思いもしな……った」
擦れて途切れた言葉を風がさらってゆく。
と同時に粉雪の積もり始めた地面にがくりと膝を付き、身体ごと震わせて氷川は言った。
「済まねえ帝斗、今だけ……お前の……」
――今だけお前の胸を貸してくれないか……!
まるで懇願するようにそう言う氷川の頬には、堪え切れなくなった大粒の涙が滝のように流れて伝っていた。傍にいてくれ、助けてくれといわんばかりに帝斗のコートにしがみ付き、放心したように泣きじゃくり――
「カネの……代わりになろうなんてつもりはなかった……ただあいつの傍にいるだけでよかったんだ……! あいつと二人でずっとカネのことを忘れねえで、ずっとずっとただ一緒にいるだけでよかった……ずっと傍であいつを……俺は……っ、あいつを、一之宮を……!」
海風の突風が彼の叫びを掻き消し、無情なまでに黒髪を乱し、頬を伝う涙までをも拭い飛ばす勢いで吹き荒れる。叩き付けるような強風に煽られて、舞い散る粉雪が酷な冷たさを突き付けてくる。思わず襟を立てて身震いしたくなる程の寒さの中で、そんなことを気にも留めずに帝斗に縋り付いたまま、氷川は泣き崩れた。嗚咽を隠すことも抑えることもなく、声を張り上げて泣き濡れた。
そんな氷川の姿を間近にしながら、倫周もまた、無意識に涙がこぼれるのをとめられなかった。
無論、紫月を失ったことが悲しいのは言うまでもない。だがそれ以上にこの気丈な男が――そう、例えばどんな困難や苦難に遭っても涙ひとつ見せないだろうこの男が、時に冷たく怖くさえ感じられることもあるくらい鋭さを伴ったこの男が、野生で例えるならば百獣の王のような存在のこの氷川が、まるで子供のように泣きじゃくる姿がこの上なく驚愕で哀れでならなかった。思わず傍に寄って抱き包んでやりたいような気にさせられる程に、今の彼は傷だらけだった。
そんな彼の広い背中を抱き締めてやりながら、自らの頬をも涙で濡らした帝斗が言葉もなく、ただただ頷うなずいていた。
何度も何度も氷川の肩を抱き締め、さすりながら、「うんうん」といったように頷きを繰り返す。まるで『お前の気持ちは全部分かっているよ』というように、そして『僕らも同じ気持ちなんだよ』と言っているように思えて、そんな二人の姿に涙がこぼれてやまなかった。
突風が巻き上げる雪の冷たさを、
頬を叩き付ける風の無情さを、
堪え切れない悲しみの嗚咽を、
この先に続く生涯の中で、二度と――
そう、二度と忘れることはないだろうと――
止め処ない全身の震えを、抑えることも誰かに預けることも儘ならずに、できることはただただ涙を流すことで遣りどころのない気持ちを慰めるのみであった。
◇ ◇ ◇