春朧
惜春
「――その時の白夜の姿を生涯忘れることはないだろうと、僕はそう思ったんだよ」
そう言う倫周の横顔を宵闇に浮かんだ月明りが照らしていた。
それを見るともなしに見つめながら、遼平と紫苑の二人は呆然と沈黙状態で立ち尽くす。そしてどちらからともなく隣に佇む肩を近付けては、無意識に寄り添うように手を伸ばし合い――まるで互いの存在が今現在ここにあるということを確かめるかのように、二人は同時に相手の身体を引き寄せ合った。
視線だけは共に窓辺の倫周へと向けながらも、しっかりと腰元に腕を回して抱き合う。そんな様子にある種の安堵の気持ちを感じて、倫周もまた二人を見つめ返した。
「その後しばらくしてからだった。紫月が遼二に宛てて送った何百通ものメールが彼らの携帯の中に残っているのを見つけて、白夜はそれを何とか形にして残したいと思ったそうだよ」
その為に氷川は忙しい仕事の合間を縫って、独学で作曲の勉強を始めたという。二人の残した想いを自分の手で形あるものにしたかったのだろう、それに賛同した帝斗と共に音楽事務所を立ち上げたのは、それから間もなくしてのことだった。
歌手を夢見る若者たちを育てる傍らで、けれども氷川はずっと二人の為に作った曲を表に出そうとはしなかった。事務所が軌道に乗ってからもずっと胸の内にあたためたままでいる様子を側で見ながら、何度となく帝斗と共に首を傾げる思いでいたのだ。
「白夜は待っていたのかも知れない。それを形にして自分の代わりに表現してくれるだろう誰かを、ずっとずっと待ち続けているのかも知れないと僕にはそんなふうに思えてならなかった。そんな時だよ、君らに会ったのは……」
懐かしく切ない思い出の染み付いた地元川崎の街に、氷川が足を向けることはそうそう多くはなかったと、倫周は付け足した。そんな彼が珍しくも訪れた繁華街の路上で、運命的ともいえる出会いがそこにあったのだ。
「あの二人に生き写しの君らを見た時の気持ちは、とても言葉では言い表せなかっただろうと思うよ。これが現実なら神様っていうのは本当にいるんだと、そのくらいに思ったかも知れないね。永い間あたためてきた思いを卓せるのは君らをおいて他にはないと思っただろう」
それがあのバラードの数々だというわけか。遼平と紫苑にしてみれば、何とも複雑な思いだった。信じ難いような運命も無論だが、実のところ自分たちの音楽自体を認められてスカウトされたわけではないということに気落ちするのは否めないからだ。そういえば、氷川自身もはっきりと断言していたのを思い出す。
『俺が認めたのはお前らの面構えと声だけで、お前らのやってた音楽じゃねえ』と、辛辣な台詞を突き付けられたのは、ほんの僅かに数時間前のことだ。どんな数奇な運命だろうが、切ない気持ちの詰まった思い出だろうが、若い二人にとっては気に病むなという方が無理なような現実――というのは否めない。それらすべてを呑み込んだ上で、紫苑は軽い溜息を抑えられなかった。
「氷川のオッサンの気持ちも分からねえじゃねえけどよ……そんなら何で俺らに対してあんなに冷てえのかなって、ちょっと不思議に思うよ。その『遼二と紫月』っていう二人に俺らがそっくりだってことでスカウトしたんなら、もうちょい親しみやすく接してくれてもいーのによ」
確かに氷川は彼らに対して酷く素っ気ないのは当たっている。まあ、元々誰に対しても愛想のあるという性質ではないが、特にこの二人を前にした時の冷静さには首を傾げる思いがしないでもないというのは、倫周も常々感じていたことだった。だが反面、その理由には思い当たる節もあった。
倫周は「おそらく――」と前置きをしながら、氷川が彼らに素っ気なくする理由を話して聞かせた。
「白夜はきっと怖いんだと思うよ」
「……怖い?」
あの仏頂面が似合いのオッサンに怖いものなんてあるのかといった表情で、紫苑が眉根を寄せる。言わずともそう思ったのが丸分かりな感じの彼の顔付きが妙に可愛いらしくもあって、ほころぶ思いのままに倫周は先を続けた。
「もう二度と君らを失くしたくないっていう思いが強過ぎて、感情移入するのが怖いんじゃないかな。だからわざと君らの前では冷静を装い、壁を作ってしまう。つい言葉もきつくなってしまう。本当は誰よりも君らと心を触れ合わせたいって思ってるはずなのにね」
語尾の方は少し物悲しげに声のトーンが落ちていく倫周を目の前に、何と反応していいのか若い二人は戸惑うばかりだ。
「それにね……こんなこと暴露しちゃっていいのかなって思うけど――、君たちの作ったデモの音源をね、白夜が一人でこっそり聴いているのを何度も見たことがあるんだ。多分、彼は僕らにそんなところを見られているなんて思いもしてないだろうけど、すごく幸せそうな顔をしていてさ。声を掛けるのも躊躇ためらわれるくらいなんだよ」
「……マジ……で?」
「うん。彼が部屋にこもってる時は大概そうだよ。ヘッドフォンをかけて、すごく穏やかな表情でさ。彼、ああいう性質だから、そういうところを知られるのは嫌がるかなぁって思って、僕も帝斗も見て見ぬふりをしてるんだけどね」
氷川がそんなふうに自分たちを見ていたなどとは、正直なところ驚き以外の何ものでもない。
「何か……信じらんねえ……けど」
「……ん」
目の前に豪華に並んでいるすっかりと冷めてしまった夕食も、今いるこの部屋も、今しがた聞いたばかりの夢幻のような話の内容も、すべてが絵空事のようだ。
「君たちにこんな話をしたのは、決して白夜の言いなりになって欲しいとかそういう理由じゃない。昔、こんなことがあったんだから白夜の為にあのバラードを歌ってやってくれないかとか、そんなつもりで話したんでもない。ただ――」
ただ知っていて欲しかったんだ――
「君らに本当のことを知っていて欲しかった。理解してくれというんじゃない。ただ知って欲しかった。僕らがどんなふうに共に過ごしたのかを……あの頃の僕らのことを是非君たちに……知っていて欲しかった」
そう言った倫周の瞳は真っ直ぐで、決して嘘偽りのない強い意志を湛(たた)えているかのようだった。少々天然系などと言われている彼にしては、ゆるぎのない強さを感じさせるような、くすみのない心をそのままにしたような言葉だった。
『知っていて欲しかった』ではなく、まるで『思い出して欲しい』と云っているようでもあって、遼平も紫苑もしばしは返答の言葉もままならずに、ただただ立ち尽くすだけが精一杯だ。
「悪かった……夕食がすっかり冷めてしまったね。シェフに言ってすぐに温め直すよ。とにかく今日はゆっくりくつろいでおくれよね」
気遣うように倫周が微笑んで部屋を出て行った後も、しばらくはどちらからとも言葉を交せずに、広い部屋には静寂だけが立ち込めていた。
◇ ◇ ◇
夕食が済み、豪勢な風呂にも入って二人きりになった夜半に、遼平と紫苑は未だ言葉少なでいた。
窓辺に立ち、外の景色を気に掛けるふりをしながら、その実、手持無沙汰の様子でいる遼平。その姿を横目にしながら、同じように視線を泳がせ持て余したような紫苑。互いに何か相手が話し掛けてこないかなといった表情で、話題を探しているふうだ。何とも間の悪い時間をしばらく過ごした後、そんな雰囲気に耐えられなくなった紫苑の方が、根を上げるようにソファにもたれて口を開いた。
「なあ――」
「……ん?」
「この部屋……煙草吸ってもいーと思う?」
「……え、ああ、どうかな……?」
大理石のテーブルの上にガラス細工の高価そうな灰皿が設えてあるのを何気に視界に留めながら、遼平が曖昧な言葉を返す。
「なあ遼、――持ってねえ?」
「……あ? 何を?」
「……だから煙草。俺ンは部屋に置いてきちまったし……」
人差し指と中指をクイクイと動かしながらそう言う紫苑が、遠慮がちに様子を窺うように視線を寄こすのを見て、遼平もやれやれといった調子でその脇へと腰を下ろした。そしてソファの背に脱ぎ捨てていた上着のポケットをまさぐり、少し皺くちゃになった煙草の包みを取り出すと、ライターと共にそれを紫苑へと差し出した。
「ほらよ。けど……こんなトコで吸ったのがバレたら、また氷川さんに睨まれんじゃね?」
そんなことは分かっている。それ以前に、互いにまだ高校生の身分だから、いいも悪いも言わずと知れている。だがどうしても吸わずにはいられない気分だった。
紫苑は遼平の忠告を聞かなかったふりをしながら、差し出された煙草を一本銜えると、視線を合わせないままでそそくさと火を点けては、大きく一服を吸い込んだ。そして天井を仰ぎ、薄茶色のゆるやかな癖毛をソファの上で遊ばせながら深い溜息をつく。
「俺さぁ、やっぱ氷川のオッサンの所にはいらんねえかも……」
ボソリと消極的に、ともすれば聞こえるか聞こえないかの独白のように呟かれた言葉に、遼平は無言のままで隣を見やった。
別に睨んだつもりもないし、そういうふうにも受け取れたわけでもないのだろうが、紫苑にしてみれば幾分バツの悪そうに苦笑まじりになる。
「や、だってそうでしょ? あんなこと聞かされちまったら余計に居辛えってのもあるし……。それに……」
「――それに、何だよ?」
そこまで黙って聞いていた遼平も「よっこらしょ」というようにテーブルの上の煙草に手を伸ばし、相棒と同じように深く一服を吸い込んだところでそう聞き返した。だが実のところ、紫苑の胸中などわざわざ訊かなくとも、何となく想像し得たのも確かだった。彼自身もどうしたらいいかよく分かっていないのだろうと思えたからだ。かくいう自身もそうだから、深くは追求しなくとも知れているといったところだ。
しばし無言のままで煙をくゆらせた後、まだ長めの煙草をねじり消しながら遼平は言った。
「お前の好きでいいぜ」
え――?
「だから、お前の好きなようにしろって言ってんだ。事務所を辞めんなら俺もそうする。また二人で路上ライブとかやってもいいし、歌うって夢は諦めても構わねえ」
「はっ!? 何それ……」
「もち、歌は好きだけどよ。できればこれからもやっていきてえって思うし……。けどそれがすべてじゃねえってこと」
どういう意味だと紫苑が怪訝そうに瞳をしかめる。
「俺はさ、歌やんのもやんねえのもお前と一緒なら何でもいいんだ。俺にとって大事なのは歌がどうこう以前に……」
そこまで言ったところでぷっつりと言葉を途切ってしまった遼平の顔をマジマジと見つめながら、ますます不思議そうに眉根を寄せる。そんな相棒を横目に、遼平の方は少しの苦笑いを漏らしてみせた。
「ん、何でもねえ。とにかくー、お前がしてえようにすりゃいいよ。俺に異存はナシ!」
「……って、何だよそれ。なーんか全部俺ンせいみてえじゃん」
そうだ。勝手に短気を起こして逆切れして、事務所を飛び出してしまったのもすべて自分のせいだというのに、それを責めるどころか、これからのことも好きなようにすればいいなどと言われて、紫苑は実際ひどくバツの悪い心地がしてならない。
が、そんな胸中を丸出しで、戸惑いながらも素直に謝れないでいる様子もまた、遼平にとっては笑みを誘われるもののようだ。
「誰もてめえのせいだなんて言ってねえし! お前のやりてえことが俺のやりてえことだってだけだよ」
「……ンなこと言われたって」
「ま、そのことはもういいじゃん。それよか、そろそろ寝っか?」
ポンと頭の上に掌が触れたと思ったら、軽く髪をワシャワシャっと撫でられて、思い掛けないそんな扱いに紫苑は不意にドキリとさせられてしまった。
ソファから立ち上がりながらこちらを見降ろしてくる瞳が少しおどけたように微笑んでいて、見慣れたはずのそんな表情にも頬が紅潮する思いだ。この遼平が、自分をこの上なく理解してくれていて、その上に気遣いのこもった台詞で宥めてくれるからというだけではなく、彼の大いなる愛情を改めて再認識させられるようで、言いようのないときめきに全身を揺さぶられるような気がするのだ。
「ほら、早く来いよ。すっげえ豪華なベッドだし!」
ベッドの上にゴロ寝しながらクイクイっと手招きをする。そんな仕草にも頬の熱が上がりそうだ。
時計を見れば、既に夜中の一時を回っている。確かにいろいろあり過ぎてくたびれたのも事実だ。だがそれ以上に急に高鳴り出した胸の鼓動がうるさくて、紫苑はしどろもどろになりながら、それらを隠さんと、わざと仏頂面を装ってベッドへと歩み寄った。そして少し大袈裟に、音を立てる勢いでドカリと腰を下ろす。と同時にスプリングが大きく揺れて、片肘を枕代わりにしていた遼平の腕が崩れた。
「……ッカ! 何しやがんだって……」
驚いて恨めしげに眉を吊り上げた彼を無視して豪勢なベッド上へと上がり、組み敷き、その腹に馬乗りに跨がりながら紫苑は微笑った。
「いいじゃん……こんな豪華な寝床なんだしよ。せっかくだから……」
ヤらねえ――?
内心、まだバクついている心臓音を隠すかのように、わざと大胆に不敵な笑みを装う。
「ヤろうぜ。今日は俺のワガママですっげえ迷惑掛けちまったんだし……その詫び!」
「詫びって……オマエなぁ、こんなトコで……」
仮にも所属事務所の社長宅だ。いかに広い邸だろうが、秘書の倫周だって在宅だ。そんな思いをあらわに複雑な表情をしていたのだろう、
「つーか、ホントは単にヤりてえだけ、俺が! だからお前の好きにしていい」
バツの悪そうにしながらも、珍しくも積極的に紫苑はそう言った。
「――は?」
「てか、好きにされてえ……。お前、さっき言ってたじゃん。この先どーするも俺の好きにしていいって」
「そりゃお前、意味違えし……」
「違わねえよ、俺も同じ……。何してもいーよ。お前になら何されても……全然……」
だから俺ンこと、好きにして――
ここ短時間で起こった様々な出来事を消化しきれなくて、一時でもそれらから逃避したいが為に欲情にまみれたい。そんな気持ちも少なからずあるのだろう。何もかも忘れるくらいに激しく求め合って、溺れてしまいたいのはお互い様か――。
「遼平……なあ、早く」
馬乗りの腰元を若干遠慮がちに擦り合わせてくる彼の雄が、はっきりと硬さを感じさせる。
「抱いてよ……俺ンこと……」
めちゃめちゃにして――
吐息まじりの逸った声を耳元に落とされて、遼平もつられるように頬を染めた。
「バッカやろ……」
短く熱いひと言だけを漏らすと、欲情に疼き始めている紫苑の腰元をグッと引き寄せて、と同時にくるりと体勢を引っくり返すと、衝動のまま、むさぼるように口付けた。