春朧
その日の午後、遼平と紫苑の二人は倫周に連れられて都内にある事務所へと戻っていた。
昨日の夕刻に啖呵を切って飛び出してから、まだ一両日と経ってはいない。それなのにひどく久し振りに訪れたように感じられるのは何故だろう。
相も変わらずの無表情でじっとこちらを見据えている氷川の顔を見れば、何ともいえない複雑な感情がモヤモヤと胸をざわつかせる。
それに加えて、まるで自分たちと氷川との間を仲裁するふうな面持ちで同席している社長の帝斗と、何かと不安げで落ち着かない様子の倫周もいるせいで、ますます何を話していいか分からなくなる。いっそのこと、氷川の方から「少しは頭が冷えたか」くらいの嫌味でも浴びせられる方が楽な心地がしていた。
誰もがそれぞれの胸中を窺うふうな間合いが続き、しばしは吐息やちょっとした衣擦れの音までもが伝わるくらいの沈黙状態だった。
はっきりいって窮屈この上ない。
そんな重苦しい空気に堪え切れなくなってか、ひと言目を発したのは遼平だった。
「あの……昨夜はお世話になって……本当にすみませんでした」
そう言って深めに頭を下げる。これは社長の帝斗に対する礼と詫びを兼ねた言葉だろう。ともかくは一晩世話になったことへの礼を述べた彼を横目にしながら、紫苑もそれに同調するようにペコリと頭を下げてみせた。
「よく休めたかい?」
帝斗は軽い笑みと共に穏やかな口調でそう返した。
「はい、お陰様で……」
「そう。それはよかった」
そんな会話の傍らでは、倫周がホッとしたように安堵の面持ちを浮かべている。どうにも重苦しい沈黙が何とか打破できたことへの安心感なのだろう、分かりやすく思っていることが顔に出る彼の態度に安堵と癒やしを覚えると同時に、遼平も紫苑も何だか申し訳ない思いで胸がいっぱいになるのを感じていた。
そうだ。こんなふうに接してもらえれば、存外素直に自分たちの思っていることを打ち明けられるのかも知れない。例えば、もっと自分たちの表現したい音楽に挑戦させてもらえないだろうか、とか、或いは昨日は事務所を辞めるなどと言ってしまって後悔している、でもいいだろう。
いつも穏やかで紳士的な帝斗と、人が好過ぎるくらいの倫周が相手なら、自分たちも心から素直になれそうだ。戸惑いや我が儘、そして依頼心までをもひっくるめて、すべてを洗いざらいぶつけるのも悪くない。
そんな思いでチラリと視線をやれど、肝心の氷川は変わらずに仏頂面を装ったままなのに、一気に前向きな思考が削がれるような気がしていた。
だが、とにかくこのままでは進展しない。帝斗や倫周も、ただ見守るだけで格別には仲裁に入って話を切り出してくれるわけでもなさそうだ。そう思った紫苑は、胸ポケットの内側に忍ばせてきた例の黒革の手帳を取り出すと、おずおずと氷川の前へと歩を進めて、それを差し出した。
「あの、これ……」
卓上に置かれた手帳を目にするや、ほんの一瞬驚いたように瞳を見開いた氷川の様子に、思わずドキリと心拍数が上がる。
彼がどんな反応をするのだろう、何を言われるのだろうという心配は無論だが、それ以上に今の驚きの表情がひどく意外に思えて、紫苑も、そして遼平も思わずゴクリと喉を鳴らしてしまった。
「――何でこれをお前が持ってる?」
少しためらいがちに手を伸ばし、だが心の底からホッとしたような表情を浮かべては、そんな問い掛けを返して寄こす。たったそれだけで、氷川がどんなに必死になってこの手帳を探していたのかが分かるようだった。
おそらく失くしたと思って、ほうぼう探し回ったに違いない。驚きと安堵の入りまじった表情は、普段の彼からは想像もつかないほどの『素』の印象が色濃く映し出されてもいて、何だか感慨深い思いに胸が締め付けられるようだ。
いつも完璧で隙のなく、仏頂面が似合いのこの男が、実はひどく脆くてやさしくて、それは自分たちと何ら変わりのないただの男のようにも思えて、奇妙な程に心が揺さぶられる。
こんなふうに見える彼だって、迷いもするし傷付きもする。冷酷無比なのは取り繕った仮面で、本来は誰よりも情の厚い、やさしい男なのかも知れない。そんな思いまでもがジリジリと湧き上がる。昨夜、倫周に聞かされた昔の経緯も手伝ってか、ひどく懐かしい感覚を覚えるのも不思議だった。
「――お前らが拾ってくれたのか?」
「……え!? あ、えっと……そうです……。一昨日、便所の洗面台のとこに置いてあったんで……」
「そうか。助かった」
想像し得ない素直な礼の言葉までもが飛び出す始末に、驚きで目が白黒泳いでしまいそうだ。
そんなことを他所に、丸二日ぶりで手にするそれを見つめる氷川の瞳は、それこそ似合わない程に切なげに細められていて、心から安堵した様子が傍目からでもはっきりと分かるくらいだった。それはまるで愛しい者を手中に取り戻したとでもいわんばかりにも感じられ、とにかく見たこともないようなやさしい眼差しを細める氷川の様子に、それを手渡したばかりの紫苑も遼平も驚きのあまり立ち尽くすのみだった。
それこそ彼の『素』の部分を垣間見たような気にさせられて、次の言葉が出てこなくなる。
二十年前に『鐘崎遼二』が見つけて、『一之宮紫月』が氷川に贈ったという黒革の手帳――
おそらくは今、氷川が手にしているのがそれなのだろう。大事そうに見つめ続ける彼の視線は、手帳という物体を通して、かの友人らに向けられているのだろうことが、聞かずとも理解できた。
と同時に、急に頭の片隅でざわめき出した奇妙な雑踏の音に、目の前がグラリと揺らぐような感覚に襲われて、紫苑は思わずギュッと拳を握り締めた。
そうでもしていないと意識を持っていかれそうで怖い、咄嗟にそう思えたのだ。拳に力を込めて、ついでに唇も噛み締める勢いで、何とかその雑音に引きずられないようにと神経を集中させる。
だがそんな抵抗も長くは続かなかった。
遠く近く、次第に大きさを増しながら頭の中に巡り出したのは、聞き覚えのあるような声と楽しげな会話だ。
親しみを覚える誰かが、自分のすぐ脇で寄り添うようにしながら話し掛けてくる――
『なあ、おい見ろよコレ!』
『何――? これって手帳? うわ、すっげー高えー!』
『な、こんなのさ、氷川の奴がサリゲに(さり気なく)持ってそうじゃね?』
『はあ? なんで氷川よ?』
『だってあいつん家ってマフィアとかっつってたじゃん? 今頃、香港あたりですっげーオシャレなスーツなんか着てさ、高級車にでも乗ってそうとか思ってよ』
『お前、それって映画の見過ぎじゃん?』
『けど、あいつならそーゆー世界も嫌味なく似合いそうじゃね?』
『あー、まあ……言えてる。そんでこの手帳ね。確かに似合いそうっちゃ似合いそうだな? あいつ、気障野郎だしさぁ。クールに脚なんか組んでパラパラーとかめくったりしてそう』
『だろ、だろ?』
『それよかどっかで茶でもしねえ? 喉乾いちまった』
『いいぜ! ならそこの自販機でソーダでも買うか?』
『はあー!? シケたこと抜かしてんじゃねえよ! それこそ氷川なら高級ホテルのラウンジで優雅にティータイムでしょ?』
『はは、違えねえなぁ! あー、あいつ今頃何してっかなあ? 氷川くーん、今から自家用ジェットで飛んできて、ホテルで茶ー、奢ってくんねえ?』
『お、いいねいいね! 氷川君カモーン、ってか?』
『仕方ねえ。自販機やめて、そこのファーストフード店で奮発すっか!』
『はあ? それ、奮発って言わね!』
見たことのあるどこかの街角のショーウィンドウにへばり付き、額と額をぶつけるようにしながら笑い合う。確かに知っていたような気がする会話が脳裏を巡り、ざわざわと心の深い部分を揺さぶって止まない。
『な、そっちのアイスティーもちょっと飲まして』
『ああ? てめ、すぐそーやってヒトのもん欲しがるし!』
『いいじゃん。俺のメロンソーダも半分やるからさー』
『……ったく! しょーがねーなぁ……』
『まあ、そう文句言うなって!』
グイッと肩先を抱かれたと思ったら、そのまま身体ごと引き寄せられて、互いのソフトドリンクに差し込まれたストローを突っ付き合うように顔と顔とを近付け合う。
コツンとおでこを合わせ、照れ隠しのようにニヤッと笑ったクセのある瞳が、懐っこくこちらを見つめていた。
あれはいつだったか。もうずっと昔の、遠い初夏の日――
若葉が青葉に変わる頃の午後の公園の片隅で、ファーストフード店で買ったドリンクを交換して飲んだ。
視線をやった先の通りの向こうには、ついさっきまで覗いていた『黒い革の手帳』が飾られていたスタンディングショップのショーウィンドウが見える。
大きな樹の根元に置かれたベンチに腰掛けて、人目から死角になるのをいいことに、戯れる程度のキスを仕掛けられたのはこの直後だ。
『バカッ! 急に何さらすんだって!』
『いいじゃね、ちょっとくらい。ココ、誰にも見られねえし』
『そーゆー問題じゃねえって!』
『んじゃ、堂々と”そーゆーことできるトコ”に行くか……?』
『はぁ!? てめ、何急に……ドリンク代はケチるくせに、そーゆーことには惜しみねえってさ……』
『そーゆーことの為にドリンク代を削ってんのよ! ケチってるわけじゃねー!』
半ばふてくされつつも照れたように口角をゆるめた。ベンチから立ち上がる彼の横顔にゆらゆらと葉影が映っていたこの場面を、確かに知っている気がした。
『おい、そろそろ行くぜ』
『――は? ちょっ、待てよ! せっかちなんだよ、てめえは!』
『そりゃー、お前! これからすること想像したら、せっかちにもなるっしょ?』
『……っの、スケベ野郎が……! おいこら、待てって! 遼二!』
待てって、遼二――
そう叫んだのは自分だ。
間違いない。この場面をはっきりと覚えている。
それに対して彼は何と答えたのだったか。
頭の片隅でこもっているその声を思い出そうと、必死に記憶を追う。確か――
『トれえぞ! 早く来いって!』
そうだ。微笑いながらそう言った。後方で、飲み終わったドリンクを二つ分抱えてワタワタとしながらゴミ箱を探していた自分に、笑いながら手を差し出した。
そんな彼の横顔に、傾き出した午後の陽がキラキラと照り付けていて――
陽射しがまぶしくて、その笑顔もまぶしくて、思わずドキリと胸が熱くなったのを覚えている。
『遅えぞ紫月。早く来い』
ほら、早く! 紫月――
持て余していた空の紙コップをヒョイとかすめるように受け取って、遠目に見えるゴミ箱までの距離を軽々と走っていく後ろ姿。長いストライドにも心拍数が加速する。
ああ、そうだ。この後ろ姿をいつも見ていた。
いつの時でもこの背中を見つめながら歩くのが心地良かったんだ。
そんな彼の後を追って、人目を憚はばかるように狭い路地を歩き、二人だけになれる空間に辿り着けば、共にホッと小さな溜め息を落とし合う。間髪入れずに抱き締められれば、既に視界に入り切らない程の位置で欲情まじりのとろけた視線がこちらを見つめていた。
『……って、ちょっ……シャワーくらい浴びさせろって……!』
『いいよ、そんなん。時間勿体ねえし』
『……そーゆー問題じゃねえって……おい、遼二ッ』
『お前の匂い嗅ぎてえのよ……シャワーなんかで消さねえ方が燃える……』
『バッ……ちょっ……!』
ふと目をやれば、決して豪華とはいえないありふれたホテルの壁紙が視界をよぎり、大して広くもないベッドの上にもつれるように倒れ込んでは、シーツがあっという間に乱されていった。
少し厚みのある形のいい唇に首筋を撫でられ、愛しむように髪を掻き上げてくるのは、長くてしっかりとした関節の指先だ。
『……な、風呂なんか後でいいだろ……?』
シャワーを浴びたいといったこちらの意向を少しは気に掛けているのか、窺うように問う声は低くて艶っぽくて、そして少し逸っていた。
『後じゃヤダっつったって聞かねえんだろが……』
憎まれ口を叩くのは、ただの照れ隠しだとお互いに分かり切っている。流されるように身を委ね、次第に激しく濃く絡み付いてくる愛撫に、自らも彼の服に手を伸ばしてくつろげた。
素肌をむさぼり、濡れた口付けを交わし、欲情の吐息を絡め合う。狭い部屋の壁に淫らな嬌声が籠った音で立ち込める――
そんな残像が脳裏を過ぎった瞬間に、紫苑はハッとしたように瞳を見開いた。と同時に昨夜、自らを抱こうとした男の顔が脳裏にジワジワと広がってくるのを感じて、思わず心臓辺りに冷たい何かが横切ったような感覚に、軽い身震いが背筋を撫でた。
違う。俺は遼二なんて知らない。
知っているのは遼平だけだ。
遼二なんて名前を呼んだこともないはずだ。紫月なんて知らないはずだ。
そう、俺は紫月なんて名前じゃない――!
何度も何度も胸の中でそう繰り返し、交叉する記憶を振り払う。
堪らずに、紫苑は思い切って氷川の前に歩み出ると、己を翻弄する奇妙な残像を断ち切るかのように言い放った。
「氷川さん、悪りィけど……俺、やっぱ……あんたンとこには居らんない……!」
絞り出すようにそう告げられた言葉に、その場にいた誰もが驚いたように彼を見つめた。隣に立つ遼平は『言っちまった!』というような表情で、だがしかしそれも想定の内だというように、特には何も反論めいたことを口にしない。
経緯が全く理解できないでいるらしい帝斗は無論のこと、倫周はもうとにかく驚きを通り越した衝撃の表情を隠せないようだ。氷川だけが無言のままで、今まで手帳に向けていた穏やかな視線をチラリと動かした。
じっとこちらを見据えるその瞳の中に、今の今まであったはずのやさしさやあたたかさは既に微塵も垣間見られない。そこにはいつものクールな無表情があるだけだ。
そんな変貌ぶりも引き金となってか、紫苑は再度胸ポケットをまさぐると、一枚の写真を取り出して、思い切ったように氷川の前へと差し出した。
春まだ浅い河川敷を背に、懐かしい学ラン姿でこちらを見つめている二人の男の立ち姿――
それを目にするなり、さすがに氷川の顔色が変わったのが分かった。一瞬、驚いたように瞳を見開き、だがすぐにどうしてこの写真を持っているのかという察しが付いたようで、みるみると普段のポーカーフェイスに戻ってしまう。どうせ拾った手帳の中身を無断で引っくり返している内に、挟んであったそれを見付けたのだろう。想像に容易いことだといわんばかりに、小さな溜息まで漏らすおまけ付きだ。
そんな態度に煽られるように、紫苑は喉元まで出掛かりながらも僅かに迷って口にしなかった言葉を抑え切れなかった。
「俺は……紫月じゃない。だからあんたの期待には応えらんねえから……!」
その言葉を耳にした瞬間、僅かに眉根を寄せた氷川が、冷たい無表情のままでジロリと紫苑を見やった。