春朧
「――言いてえことはそれだけか」
落ち着き払った態度で間髪入れずにそう返されて、紫苑は激情のままに声を荒げた。
「……っ、そうだよ……! 俺は紫月じゃねえし、こいつだって……遼二なんて奴じゃない! 俺たちはあんたらの思ってる生まれ変わりなんかじゃねえんだっ――!」
「それが辞めたい理由か」
「……っああ、そうだよ……どうせここに居たってアンタの期待には応えられそうもねえし……第一、俺らがその写真の二人にそっくりだってだけの理由でスカウトされたんなら、ここに居る資格だって……ねえじゃんよ」
語尾にいくに従って、僅かに消極的に声音を曇らせながら紫苑は言った。
しばしの間、沈黙の重苦しい空気が部屋の中を押し包む。
『辞めていい』とも『悪い』とも、いつまで経っても欲しい返事が氷川から返ってこないことに焦れた紫苑は、苦々しく唇を噛み締めながら、諦めたように踵(きびす)を返した。
「……お世話になりました」
そんな気持ちのままに、そっぽを向きながらもペコリと儀礼的に頭だけを下げると、
「行こう――」
隣にいた遼平の腕に縋り付くようにして彼を伴い、部屋を出て行こうと背を向けた。そんな成り行きに一等焦ったのは、他ならぬ倫周だ。
「ちょっと待って……! 待ってよ紫苑君! 遼平君も……っ」
もともとテノールの掛かった高めの声を裏返す勢いでそう叫び、引き止める。倫周の声音からは、こんな事態になってしまったのもすべて自分のせいだという呵責の念が痛々しいくらいに滲み出ていて、そんな様子に扉の一歩手前まで来てさすがに紫苑は歩をとめた。
「別に……あんたのせいじゃねえから」
押し殺したようにそう呟く紫苑の声は僅かに震えていた。
そうだ。例えこの倫周から二十年前の話を聞かなかったとしても、遅かれ早かれこんなふうになっていた。だから何も気に病む必要などないし、それどころかいろいろと世話になったことには感謝すらしている。そんなふうに言いたげなのを呑み込んで、再度深く頭を下げた。
重い気持ちで扉を押し開け、出て行き際にチラリと氷川を見やれば、こちらに背を向けたまま窓の外を見つめていて、その横顔が午後の陽射しでシルエットとなって視界を過ぎる――
彼が今、どんな表情をしているのかは逆光に遮られて窺い知ることはできない。
けれども確かにその視線が窓の外へと向けられているのだけはハッキリと分かって、振り返ろうともしないその態度こそが氷川の返事なのだと受け取らざるを得なかった。
最後の最後まで感情のかけらも見せない冷たい人だ。苦い思いを持て余すようにしながら、紫苑はくしゃりと瞳を歪め、遼平と共にまた軽く一礼だけを残すと、居たたまれないという気持ちをあらわにその場を後にした。
◇ ◇ ◇
呆然としたまま、何もできないままで二人を見送り、静まり返った部屋の中で倫周だけが祈るように自らの肩をすぼめ、そして堪らない思いに打ち震えていた。
「白夜っ、ごめん……! 実は昨夜、僕が……あの二人に昔のことを話して聞かせたんだっ……」
未だ窓の外に視線をやったままの氷川に懇願するようにそう告げる言葉も、喉がカラカラに乾いてしまっているせいでか、思ったようには綴れない。余分なことをした――、取り返しのつかない節介をしてしまった――、と言わんばかりに困惑する倫周の肩を、後方からそっと包み込むように手を伸ばしたのは兄の帝斗だった。
「倫、落ち着きなさい」
「帝斗……っ、だって僕が……全部僕のせいでこんな……っ」
「いいから。とにかく落ち着きなさい」
「でも……!」
そんな押し問答の合間にも、氷川は未だ微動だにしない。倫周を責めるわけでもなければ、焦って紫苑らを追い掛けるでもない。静か過ぎるその様は、まるで水を打ったように冷ややかで、そして穏やかで、だが裏を返せば呆然として何をも考えられないでいるだけなのでは――といった不安を募らせる。
倫周には、今の氷川の様子が二十年前に一之宮紫月を失った時に見た彼の横顔と重なるように思えてならなかった。
「僕、あの二人を引き止めてくるよ! 今ならまだ間に合うはずだもの……!」
無我夢中で部屋を飛び出そうとして、大きな革張りのソファの角に思いきりくるぶしをぶつけた。
「……ッ!」
そんな間抜けな失態に思わず涙が堰を切り、ボタボタと分厚い絨毯を濡らす。足を押さえ、引き摺りながらも立ち上がろうとする、その背中ごと抱き包むように引き留めてくれた帝斗の温もりを感じれば、ますます涙が止め処なくあふれ出した。
「まったく。少し落ち着きなさいと言ったはずだ」
見上げれば、僅かに眉間に皺を寄せた帝斗の顔面アップが視界に入って、だがすぐにそれが『仕方のない奴だ』と言わんばかりの笑みまじりになったのを見て取ると、倫周はまたしても頬を濡らした。
「僕はいやだよ……このまま彼らとこんな形で終わってしまうなんて……絶対に嫌だ。彼らが遼二と紫月の生まれ変わりだって確証なんかないし、そんなふうに考える自体、奇跡みたいなことだって分かってるよ……! でもあんなにそっくりだっていうのも何かの運命としか思えないじゃない!」
「倫……」
「彼らに余計な知恵を吹き込んだのは僕なんだし、ちゃんと責任を取りたいんだ! もう二度とあの時みたいな後悔はしたくない。あの二人と今度こそ離れたくないって、帝斗だってそう思うだろ? 白夜だって……っ」
本当は一番強くそう願っているんじゃないのか?
そんな思いのままに、倫周は窓辺に佇んだままの氷川を見上げた。視界は涙で濡れ、よく見えないままで、縋るように言葉を詰まらせる。
◇ ◇ ◇
大パノラマの窓辺に、金色の陽射しが雲間を突き抜けて眩しく煌めきを放つ――
しばしの沈黙を挟んだ後、倫周の叫びにようやくと反応を示したふうな氷川の横顔が、セピア色のシルエットを背負ってスローモーションのように振り返った。
そこには涙で汚れた顔を気にもとめずに子供のような格好でしゃがみ込んでいる倫周がいて、そんな様子を目の当たりにすれば、自然と心が和らぐ気がするから不思議だ。
「誰もお前のせいだなんて思っちゃいねえし、責めてもいねえさ。それに俺は諦めるなんて微塵も思っちゃいねえよ」
百獣の王も可愛らしい仔ウサギを前にしては『かたなし』だというように、クスッと苦笑いが抑えられなかった。
「……白……夜?」
コトリ、と心地よく響く木目の擦れ合う音は、氷川が手を掛けた机の引き出しが開かれる音だ。彼はいつものそこからシガレットケースを取り出すと、余裕ともいえる動作でそれに火を点け、そして深く煙を味わうように吸い込んで見せた。
それを横目に帝斗もまたゆったりとした余裕のある笑みをその口元にたずさえていて、そんな二人の様子に困惑気味でいる倫周は、不安そうに彼らを交互に見やっては首を傾げる。
「ねえ倫、白夜の言う通りさ。よく思い出してごらん? あの二人に事務所を辞めていいだなんて、白夜は一言だって言ったかい?」
「え――!?」
「勝手に息巻いて飛び出して行ったのは彼らだけど、僕も白夜もそれを認めるとは言っていないよ? 無論、彼らとの縁を諦めるつもりも更々ないね」
「えっ!? じゃあ……じゃあ……」
「そんなことも分からないんじゃ、お前さんもまだまだ修行が足りないね?」
帝斗はにっこりと微笑むと、悪戯そうに瞳を細めながらそう言った。そしてこちらから質問の言葉を投げ掛ける猶予も与えないままに、間髪入れずといった調子で、ひとつの命令を告げて寄こした。
「倫、お前にはちょっとハードな任務になるかも知れないけれどね――」
そう切り出すと同時に、すぐに彼らの後を尾行するようにと促されて驚いた。
「え……っ!? あの、尾行って……それどういう意味」
すぐにはこの切り替わりに付いていけないでオタオタとする倫周を他所に、帝斗は流れるような所作で懐から携帯を取り出しては、既に通話の相手にテキパキと指示を出している。そんな様子を傍らでポカンと見つめながら、瞳を白黒させているのが精一杯だ。すると、会話を続けながらも、もう片方の懐から真っ白なハンカチーフを取り出しては、涙で汚れていた頬までをも拭いてよこした。
「あ……あの帝斗、ありがと。それで……僕はこの後どうすれば……」
未だグズグズと涙声を引きずっている倫周を横目に通話を終えた帝斗は、今度は卓上から肌触りのいいティッシュを数枚引き抜き、それを差し出しながら言った。
「ほら、鼻もかみなさい。今、ロビーに車を回すよう手配したから。お前にはすぐに彼らの後を追ってもらう。だが昨日とは違って、今度はあくまで尾行だ。彼らに気付かれないようにこっそりと後を付けて様子を窺うんだ」
その指示に倫周は驚きで目を丸くした。
「恐らく彼らは今夜、どこかのホテルにでも身を落ち付けるはずだ。あの不器用な二人がおめおめ実家に戻るとも思えないからね。行き所に困って、とりあえずは宿泊先を探すだろうから、お前はそっと見守りながら逐一僕にその動向を知らせて欲しい」
いわば付かず離れずで、こっそりと探れというのだ。つまりは夜も落ち着いては寝ていられないだろうし、いつ何時、何処へ動き出すか分からないターゲットから目を離さずに尾行しろというわけだから、多少は酷な思いを強いられるだろうが――と帝斗は付け加えた。
それを聞く倫周は、もう飼い犬が主人の言い付けを待つかのような調子で、大袈裟な程に頭をコクコクと揺らしながら瞳を輝かせて一心に帝斗を見つめている。
「僕、何でもするよ! 精一杯、本当に何でもするから!」
「いい子だ。それじゃ小まめに連絡を入れるんだよ。二、三日は様子を窺うだけにして、何か変わったことがあったら真夜中でも構わないから連絡をおしよ」
「うん、分かった! 帝斗、ありがとう! 白夜も……」
本当にありがとう!
心からの言葉を残すと、倫周はすぐさま新たな任務へと向かうべく、勢いよく部屋を後にした。
◇ ◇ ◇
まるで仔犬が散歩に飛び出して行った後のような静けさが戻ってきた室内で、帝斗はホッとしたように小さな溜息を漏らすと、窓辺に佇みながら二本目の煙草をくゆらしている氷川の隣へと歩を進めた。
「まったく、どいつもこいつも世話が焼けて仕方のないことだよ」
辛口の台詞とは裏腹に、穏やかな表情でウォーターフロントを見つめる帝斗を横目に見やりながら、氷川もまた煙を吐き出したばかりの唇に薄い笑みを浮かべて見せた。格別には言葉にしないが、その通りだと言わんばかりの態度に、帝斗はまたしてもフッと口角を上げると、
「お前さんも含めてだよ」
と、少々呆れ気味で、突っけんどんにそう言い放った。
「――は、相変わらず遠慮のかけらもねえ毒舌だな」
そう返す氷川の言葉もまた辛口だったが、やはりそれとは裏腹に穏やかな笑みをたずさえながら瞳を細めてみせる。そんな態度につい堪え切れず、帝斗は思わず「プッ」と声に出して噴き出したのだった。お前さんももう少し素直になれよ――と、そう言いたい言葉を呑み込んで微笑う。何も言わずとも氷川がそんな気持ちを重々理解しているだろうことを知っているからだ。
ただ隣にこうしているだけで互いの気持ちが分かるのだ。しばし無言のままで、二人肩を並べたまま、波間を跳ねてきらめく眩しい陽射しを見つめていた。
そんな光景が橙色に染まり、やがて宵闇を連れてくる頃――
尾行を続けていた倫周から今夜は川崎の繁華街にあるビジネスホテルで一晩を明かすことになりそうだと、帝斗の元にそんな報告が入ったのは宵の蒼が漆黒へと移り変わる夜の帳が下り始めた時分のことだった。
「一先ず安心したよ。何せラブホテルに入られたらどうしようって思ってたからね。こっちは一人だし、さすがにラブホは入りづらいでしょ?」
受話器の向こうで脳天気な内容を比較的真剣に訴えてくる様子に、帝斗はクスッと笑いを抑えながらも、これからの動向を思い巡らせていた。
「帝斗? あ、それじゃ……そろそろ切るね。ここ、案外壁が薄いっていうか……隣の音が筒抜けなんだ。今、シャワーを閉める音がしたからお風呂から出てきちゃう! 今夜はとりあえず何処かに出掛ける様子はなさそうだし。また何かあったら電話するね!」
「何だい、お前? 隣の部屋を取ったのかい?」
少々呆れ気味でそう訊けば、「だってその方が音も拾えて便利かと思って」などと、これまた真剣に言ってよこす。普通は斜向かいとか、通りを挟んだ位置などで部屋や入り口の様子を窺えるのがベターなのではとも思ったが、まあここは彼に任せてやることにした。
「それじゃ、少ししたら見張りを応援にやるから、お前も今の内に眠っておきなさい」
倫周が報告してきたホテルの出入り口に人員を配備しておけば、彼も安心して仮眠を取ることができるようにとの配慮だ。張り切っている彼の気持ちも尊重して、朝になればまた交代をさせるからと告げて通話を終えた。
一見、のどかで冒険気分のこの帳が明けた後、衝撃の事態が待ち受けているなどと、この時の誰もが想像し得ずに――
静けさを装ったままで、刻一刻と夜は更けていった。
◇ ◇ ◇