春朧
一方、帝斗の言いつけで遼平と紫苑の二人を追っていた倫周は、偶然を装って無事に彼らと落ち合えていた。
一応はメジャーデビューを果たしたミュージシャンのはしくれということもあって、こんな街中で堂々と顔をさらすことに躊躇していたらしい二人の行動を読むことなど、割合容易だ。案の定、行くあてに困ってコソコソとしている彼らにバッタリ鉢合わせたふりをしてみせれば、存外素直に言うことを聞いて、誘われるままに車へと乗り込んだのだった。そしてこちらから訊くまでもなく、少々拗ねたような口ぶりで、氷川と決裂してきたことまでをすぐに暴露する彼らをバックミラー越しに見つめながら、倫周はクスッと笑いを漏らしたりしていた。
自分より身長も高く、イキがることも一丁前の、なりだけは立派なくせにしてこんなところはやはりあどけない。そんな彼らが何だか可愛らしく思えて仕方なかった。
だがまあ、そんなことはおくびにも出さずに、ひとまずは彼らの意向を尊重するふうにしながら、倫周は高速道路を自宅のある横浜方面へと走らせた。
もうすっかりと暮れきった宵闇の中に、大黒ふ頭が浮かび上がる。ベイブリッジを超えれば、その向こうには港の灯りがキラキラと眩しく輝いている。
「ねえ、あんた。いったい俺らを何処連れてく気だよ……」
後部座席から少々バツの悪そうな声で、紫苑がボソリとそう訊いた。
帝斗の見込んだ通りというべきか、この倫周に対しては遼平も紫苑もさして反抗する理由が見つからないのか、彼の前では割合素直だ。
まあ氷川と違って、直接歌の仕事に関係のない倫周には歯向かう必要もないといえばそうだが、それ以前に、やはりこの倫周という男の持つ、何とも穏やかでおっとりとした性質に戦闘意欲を削がれるというわけなのか、とにかくは社長帝斗の思惑通りといったところだった。
「あと十分くらいで着くよ。僕の家、この先の坂を登ったところなんだ」
「は――? もしかアンタの家に向かってんの?」
「そうだよ。正確には僕と帝斗の家って言った方がいいかな? あ、勿論、両親も一緒ね」
その説明に紫苑は『ゲッ……』というように、うんざり気味で眉をしかめてみせた。そんな表情をバックミラー越しに眺めながら、倫周はまたもやプッと噴き出しそうになるのをこらえつつ、
「けど安心して。今、両親ともにアメリカへ行ってて不在なんだ。それに今夜は帝斗も接待があって遅くなるから、事務所に泊まることになってる。家には執事と使用人の人たちだけだから、気を遣わずにくつろいでおくれよね」
そう言ってニッコリと微笑んでみせた。
「執事に使用人だぁー? アンタらの家ってやっぱ金持ちなわけ?」
どうにも現実感のないような話に、二人はポカンと口を開けたまま互いを見つめ合う。邸に着けば、そんな表情が更に輪を掛けたように唖然となった。
「な……ッ、すげえでけぇ家……」
「何、この大邸宅……。あんたら、マジでこんなトコに住んでんのかよ……」
ここへ来しなの道すがら、洋館のような建物が立ち並ぶ一風変わった街区を抜けながら、坂道を登ってきた。その一等小高い丘の上に粟津邸は佇んでいて、それは今までに見てきたどの家々よりも広大な敷地に、それこそファンタジー映画にでも出てきそうな造りの洋館がドカンとそびえ立っている。その敷地を囲むようにアイアン造りの高い塀がぐるりと囲み、これではまるで異境の地だ。遼平も紫苑も、しばしは現実離れしたようなその館を見上げながら、ひと言の会話も交わせずに、呆然とその場に立ちすくんでしまったのだった。
◇ ◇ ◇
邸の中へ入ると、それこそ御伽の国の宮殿にでも迷い込んでしまったかのような造りに、更に驚かされた。
ダークスーツを決め込んだ初老の紳士が、幾人かのメイドらしき女性を引き連れて丁寧に頭を下げてよこす。さすがに悪びれた態度を取ることも忘れ、二人はタジタジとしながら倫周の後ろに隠れるように寄り添って歩いた。
高い天井に豪華なシャンデリアが施されている廊下を進み、ようやくのことで個室へと案内されれば、もうそれだけでドッと疲れが出たというようにして、二人は勧められたソファへと倒れ込みたいくらいの心持ちでいた。
「今、夕食を用意するからゆっくりくつろいでておくれよね?」
倫周がそう言って部屋を出て行ったのを見届けると、より一層緊張感が解けたのか、紫苑などはもうソファの上で大の字になる勢いで引っくり返ってしまった。
天井を見上げれば、細かい装飾が随所になされた美しいアールデコ調の造りが何ともいえない。高級ホテルのスイートルームなんていうものじゃ表しきれないだろうと思うようなそれは、まるで中世ヨーロッパの貴族の館そのものだ。天凱付きのベッドに大理石のテーブル、アーチ型の窓の外には白磁の手すりのバルコニー、その向こうには港の灯りが水面に揺れてキラキラと輝いている――まるで異世界だ。あまりの非現実っぷりに、先程までの怒りもすっかりと忘れさせられてしまうくらいだった。
部屋の中を一通り眺め終わった遼平が、ソファでノビている紫苑の隣へと腰掛けながら、不思議そうに首を傾げる。
「なあ……、俺さぁ、もしか前世は貴族とかだったのかも……」
突如そんなことを口走ったのに、紫苑は未だ寝っ転がりながら不思議そうに彼を見やった。
「急に何……?」
「いや、なんか前にもここに来たことがあるっつーか、さっきこの家に着いた時にそう思ったんだよ。何だか懐かしい感じがしたっつーかさ」
「懐かしい――?」
「や、実際来たことなんかねえんだけど……。だから前世が貴族で、こんな館に住んでたのかもって思ったわけよ」
は、バカバカしい――!
紫苑は唖然としたふうにポカンと口を開きながらも、先刻からのことで頭がいっぱいのせいか、『お前は余裕があっていいな』というような調子で彼をチラ見する。
「ちェ、バカにしやがって! けど俺、結構そーゆーの感じること多いってーかさ。ここ来たことあるかもとか、前にも似たようなことあったかもとか……よく思うんだよな」
「……マジ?」
その言葉に紫苑の方も、自分も同調だというようにして、ようやくとソファから身を起こした。
「そんなら俺もよくある。何つーんだっけ、既知感覚――だっけ?」
「そう、それな! デ・ジャヴュとかいうやつ?」
「ああ、うん、それだ。俺もさ、受験で初めて四天学園(してん)に行った時、ここ来たことある気がする、とか思ったわ」
「マジで? 実は俺も! 入学して初めて購買でパン買った時、懐かしいとか思った」
しばしそんな話題で盛り上がり、だが少しして会話が出尽くすと、いきなり現実感が戻ってきたように二人の表情から覇気が薄らいでいく。そしてまた、一気にダルさが襲ってきた。
「は――、面倒くせえー。俺ら、これからどーなっちまうんだろ……」
一寸先のことを考えるのも億劫だというふうにして、紫苑は再びソファへと背を預ける。
「仕方ねっだろ、てめえが短気起こすからこんなことになってんだ……」
遼平もつられるようにして紫苑の隣へと寝転んだ。そのまま格別の会話もないままにしばらくはぼうっと天井を眺め、だがふと何かを思い出したようにして、紫苑がいきなり身を起こした。
「――ッ!? ……ンだよ、急に!」
「や、そーいや俺、いいモン持って来たの思い出してさ」
いきなり飛び起きられて驚かされたこちらのことも眼中にないといった感じで、何やら夢中になってゴソゴソと胸の内ポケットを探っている。そんな様子に遼平は呆れ混じりで溜息を吐いて見せた。
「お! やっと出た。胸ポケ破れちまうとこだぜ」
相も変わらず暢気なマイペースで紫苑が差し出してきた物を、怪訝そうに見やる。それは古びた革の手帳で、大きさは文庫本を縦に長くしたくらいだろうか、確かにタイトな感じな紫苑のジャケットの胸ポケットには窮屈なくらいの厚さの代物だ。
ニヤニヤとしながらそれを差し出す紫苑の表情にも首を傾げながら、
「何それ――?」
遼平は不思議そうに手を伸ばした。
中を開けば黒いペン字でびっしりと文字の羅列が並んでいる。誰かの日記か何かだろうか。何枚か頁をめくる横で、
「それ、何だと思う?」
紫苑がおもしろ可笑しそうに言う。
「――? さあ、日記かなんか?」
「んふふ、違えよ。歌詞だよ歌詞! 氷川のおっさんがいっつも大事そうに持ち歩いてる手帳らしいんだけどさ。昨日、事務所の便所に忘れてったのを拾ったんだ」
「はぁッ!? じゃ、何? お前、これ盗んできちまったわけ?」
ギョッとしたように瞳を見開きながらそう訊いてくる遼平を横目に、紫苑はふてくされたように口をとがらせた。
「盗んだわけじゃねーよ。忘れモンを拾ってやっただけ! ホントはさっきおっさんに文句言いに行った時、返すつもりだったけど……すっかり忘れた」
まあ啖呵を切って飛び出してきたあの状況では無理もなかろうが、とにかく遼平は『俺、知らね!』とでもいった調子ながらも、パラパラと中身をめくり続けていた。紫苑の方はまたひとたびソファにのけ反り、
「しっかし今時、歌詞を手帳に手書きってさ――? てめえはいつの時代のおっさんよ、ってな?」
先刻のやり取りを思い出したわけか、少々憎まれ口調でそんなことを口走る。が、はっきりとした相槌を示さない遼平に物足りなさを感じたのか、不満げに彼を見やれば、案外真剣そうにメモされた歌詞に目を通している。紫苑は、そんな態度もイケ好かないといった感じで、更なる憎まれ口を叩いてみせた。
「俺も最初の方だけチラっと読んだけどさー、あん時もっとああしておけば良かっただの、ホントはこんなふうに思ってただのって。おっさんってば誰かに片想いでもしてんのかよとか思っちまう。かといって失恋ソングってわけでもねえし……何が言いたいんだかサッパリ分かんねえ」
あーあ、どこか俺らの思う通りの音楽を目一杯理解してくれるところはねえのかなーとでも言いたげに、ますますダラけ気味で伸びをしたその時だ。ふと、手帳の間から一枚の写真のようなものが舞い落ちたのに気が付いて、遼平が慌ててそれを拾い上げた。
「ヤベッ、なんか挟まってた」
失くしたらマズいよなと身を屈めて拾い、だがそれを目にした瞬間に、驚いたように瞳を見開いた。
「何、これ――。なんであの人、こんなん持ってんの……?」
しばし呆然としたように写真を眺めたまま硬直状態だ。それを横目に紫苑も怪訝そうにして身を乗り出し、だがやはりその写真を見た瞬間に、遼平同様に酷く驚いたまま固まってしまった。
それはまぎれもなく自分たちが写っている写真だったからだ。
「何であいつが俺らの写真なんか持ってんのよ……」
「や、写真持ってるくらいなら別にどーとも思わねえけど……何つーか、その……」
まるでこっそりと、誰にも知られないように忍ばせてあるとでもいうような感じで、肌身離さず持ち歩いているらしい手帳に挟まれた写真――。しかも内容は氷川が書いたと思われる歌詞でびっしりと埋め尽くされている。
ちっとも自分たちの意見を聞いてくれない上、傲慢ともいえるようなプロデュースばかり押し付けてくるくせに、何故こんなにも大事そうに自分たちの写真なんかを持ち歩いているというのだろう。しかも四天の学ラン姿で二人肩を並べている、場所はどこかの原っぱのようで校内や街中ではない。こんな写真を一体いつ撮ったというのだろう。
「何、あのおっさん……気色悪りィよ。これじゃまるで俺らのこと……」
そうだ、ひどく大事にされているように思えて気味が悪いくらいだ。
それならどうしてわざわざ売れ筋から思いっきり外れたような曲ばかりを提供してくるのだろう。態度とて素っ気なく、どちらかといえばクール気取りの冷たい印象の方が強い。社長の帝斗や倫周らと違って、いつでも取っつきにくい感じのポーカーフェイスだ。だから今までだってなかなか自分たちの意見を言えず終いだったわけだが、ついには我慢の限界で直談判に行った挙句がさっきの始末というわけだったのに。
それ以前に、いつどこで撮られたのかも分からないような写真というのも奇妙で仕方ない。感じからしてごく最近か、どうさかのぼっても高校に入って以降のようだが、そもそもこんな写真を撮った覚えがない。CDジャケットの撮影分というわけでもなさそうだ。
第一、ミュージシャンとしての活動用には制服姿で撮ったものなど一枚もないはずだから、だとすれば誰かから拝借してきたとでもいうわけか。そう考えると余計に謎のような気がして、ますます気味が悪かった。
遼平も紫苑も、意外過ぎるというような面持ちで、しばしは互いを見合ったまま言葉少なでいた。
ふと、遼平が食い入るようにそれを見つめながら、
「なあおい、これ……俺らじゃねえ――」
少々掠れ気味の焦ったような声で、ボツリとそうつぶやいた。
「――?」
「俺らじゃねえ……。よく似てっけど……別人、多分――」
「……別人だ?」
遼平の言っている意味が分からずに、紫苑も身を乗り出し写真を凝視した。
どこからどう見ても自分たちに間違いないじゃないか。この野郎、一体何を言ってやがるんだと、そんな面持ちで隣の遼平を見やった。
「――やっぱ違う。つか、この写真自体ちょっと古ボケてるっつーか、だいぶ昔のもんって感じしねえか?」
無意識に裏返したそこに記されていたのは、
『x x x x 年、河川敷にて』
それは今から二十年も前の年号だった。