春朧
「……どういう意味だ」
遼平はそう訊いた。春日野は、そんな彼に歩幅を合わせるようにして自然を装いながら横へと並ぶと、早口で先を続けた。
「これは俺たちの仲間の厄介事だ。お前らを巻き込むわけにはいかねえし、それに……お前らがこんなことに関わったなんて知れちゃ、いろいろマズイだろうが」
「マズイって……」
「お前ら、ミュージシャンやってんだろ? それ以前にあと半月もしねえ内に卒業だし、所属してる事務所とかファンとかにも迷惑を掛けちまうことになる」
春日野の懸念していることはすぐに理解できた。無論、彼の気遣いも合わせてだ。だが、今更自分たちだけあっさり逃れられるとも思っていない。彼のそんな気持ちを聞けば尚更のことだ。
僅かな苦笑いと共に遼平は短く呟いた。
「ンなことできるわきゃねーべ?」
そうだ。こんな状況で彼らだけ置いて逃げるだなんて、胸糞が悪くてならない。確かに親しいといえる程の間柄でないにしろ、現状では同じ立場に立たされている仲間同士に変わりはない。因縁関係にあるとはいえ、隣校に通う高校生同士というのも事実だ。
「てめえ一人でどうにかしようって、心意気は分からねえじゃねえけどよ。現実問題無理があるっしょ? どうやらてめえ以外は皆腰抜けになっちまってるみてえだし」
周りでうつむき加減に歩かされている桃稜の連中を見渡しながら、軽い溜息を落とす。ここで俺らが加勢しなきゃ勝ち目はねえだろとばかりにそう言い放った。だが、やはり春日野にしてみれば譲れないところもあるらしい。
「確かにその通りだが……けど、何の関係もねえお前らを巻き込むわけにはいかねえんだよ」
さすがに桃稜の頭と言われているだけのことはあるようで、仁義にも厚く、また、けじめを付けるべきところも熟知しているようだ。そこは曲げられないとばかりの頑なな彼の様子に、それまで二人のやり取りを静観していた紫苑がクスッと軽い笑みを漏らしながら口を挟んだ。
――廃墟めいた倉庫がもうすぐ目の前に迫っている。
「なあ春日野よー、てめえの気持ちは有難てえけどさ――。俺らだってこのままトンズラなんてみっともねえマネしたくねえし。それに……」
それに――?
「それに……あいつだったら、やっぱ逃げたりしねえと思う」
「――あいつ?」
状況にそぐわないような意思のある笑みをたずさえながら、真っ直ぐ目の前の倉庫を見つめる。まるで誇りさえ感じられるような紫苑の言葉に、春日野は怪訝そうに彼を見やった。そのままちらりと遼平の方に目をやれば、彼もまた同じような表情で頷いている。二人だけで納得し合っているふうな彼らを横目にしながら、迫って来る倉庫までの距離に焦りの感情が色濃く疼き出す。
「おい……! あいつって何なんだよ」
「白虎――」
「は? 白虎?」
ますますもってワケが分からないというように、春日野は眉間に皺を寄せ、と同時に金属音を伴った耳触りな轟音と共に倉庫の扉が開けられたのに、一層焦って思わず前を歩く紫苑の腕を取った。
「バカ野郎! てめえらがもたもたしてっから着いちまったじゃねえかよ!」
機を逃してしまったとばかりに舌打ちをしながら顔を歪めた。だが紫苑も、そして遼平も全く動じていない様子で、逆に逃げなかったことが誇りだとでもいうように凛と前を見つめている。そして二人揃って笑みまじりにくるりとこちらを振り向くと、
「桃稜の白虎だよ。あいつならこんな時、ぜってー逃げねえ」
「だろうな。同感!」
さらに誇らしげに口を合わせてそう言った。
「桃稜の白虎だと――?」
「ああ、前にお前らンとこで頭張ってたってヤツ。……っても、もう二十年以上も前の話だけどな」
紫苑の言葉に春日野は大きく瞳を見開いた。
「二十年前って……もしかお前ら、氷川伝説を知ってんのか!?」
酷く驚いたわけか、思わず大声を出し掛かった春日野に対して、今度は遼平と紫苑の方が興味ありげに彼を凝視する。
「氷川伝説って、やっぱそんなに有名なんだ? けど実際は氷川伝説じゃなくて『氷川事件』とか言われてたんじゃなかったっけ?」
「どっちにしろ今でも語り継がれてるって、マジすげえじゃん」
この場にそぐわない程にあっけらかんとしてそう訊き返してくる二人に、春日野の方もつられるように唖然としながらも、更に険しく片眉をしかめて見せた。
学園に永い間語り継がれてきた一人の男の伝説。遠い昔に他校の不良連中によって学園が襲撃を受けた一大事の窮地を、当時中等部の三年だった氷川白夜という生徒が、たった一人で鎮めたという英雄物語だ。桃稜の、特に自称不良を地で行く連中にとっては神格的な伝記ともいえる話で、二十年以上が経った今でも知らない者はいない程に有名な言い伝えだった。そして、確かに遼平らの言うように『氷川事件』というのが正しい。今でも教師の間ではそう呼ばれているようだが、生徒間では『伝説の男、白虎』として崇め伝えられていく内に、自然と『氷川伝説』で語り継がれるようになったというわけだ。
だが何故、この二人はそんな昔のことに詳しいのだろう。そしてその伝説の白虎のことを物語る彼らの表情ひとつを取って見ても、まるでその当時を見たことがあるという程に誇らしげだ。春日野は不思議そうに首を傾げながら彼らを見やった。と同時にハッとしたように瞳を見開くと、
「……っていうかお前ら、氷川さんと……『桃稜の白虎』と知り合いなのか?」
酷く驚いた様子でそう訊いた。
「知り合いっつーか、何つーか……ま、とにかくあのオッサンだったら仲間置いて逃げるなんてこと、ぜってーしねえだろって思うわけ」
だから自分たちも逃げない。例えこれからどんなに都合の悪い展開になろうと、最後まで付き合うぜとばかりに意思を湛えた面持ちでこの場に腰を据える様子の二人に、春日野は何とも言い難い表情で言葉を呑み込んだ。
そう、例えばどんなに悪い展開になったとしても――
そんな例えが現実のものとなって彼らの目前に付きつけられたのは、その直後のことだった。
高窓から垣間見える僅かな空の色は、既に辺りに闇が迫っていることを告げている。早い雲の動きと、ボロいトタンの壁を叩きつけるような風の音がうるさく響き、と同時に遠くの方で鳴り出した雷の音が不穏を煽る。
全員が暗がりの倉庫の中へと押し込まれ、埃臭いガランどうのそこに裸電球が灯されれば、誰もが一瞬眩しさに怯えるように身をすくめた。瞳を瞑り、無意識に手で顔を覆う者もいる。視界が慣れてくるに従って、そこに映し出された光景に、言葉にならない程の衝撃が待ち受けているとは思いもよらなかった。
◇ ◇ ◇
薄暗い中に煌々と嫌味なくらいの灯りが目に痛い。それに照らし出されたのは、ニヤニヤと笑みを浮かべた大勢の男たちの気配だ。
暗闇に同化するような黒っぽい服装を身にまとったその集団が一体どこの誰なのか、何故こんな所にいるのかということに気付くまでに、少しの沈黙が皆を包み込む。ざっと見渡しただけで二十人は難くないと思えるその集団は、ヤクザ風の男たちが暗黙の了解で配下に置いている街の不良少年たちのようだった。
高校を中退した者、または社会人になっていても未だにゴロつきまがいの行為をやめられないでいる者、イキがり足りないそんな彼らを束ねているのが、ここいら界隈を仕切っているヤクザ連中というわけだ。それを証拠に、先程因縁をつけて此処まで連れてきた男たちを目にするなり、「兄貴、お疲れさまです!」などと言って、敬意を示す挨拶がそこかしこから上がっている。もっと確信に至ったのは、彼らの中に見知った顔ぶれを見つけた時だ。遼平と紫苑は別として、桃稜の一団は春日野を含めてほぼ全員が同じように驚いた表情で彼らの中の一人を凝視した。
「……っ、あの人、去年辞めた白井さんじゃねえか?」
誰かが小声でそう囁けば、皆が同時に喉を詰まらせたように蒼白となった。
当時三年だった白井というその男は、桃稜の中でも札付きのワルだったようだ。殆ど学園に顔を出さない上に、川向うにある都内の高校の不良連中とツルんでは、暴走族まがいのグループにも参加していたらしい。春日野たちにとっては一学年上の先輩ということになるが、素行不良が過ぎて学園側から中退を強いられたという経歴の持ち主だ。無論、桃稜の連中の間では、彼のことを知らない者はいなかった。
そんな男が薄暗がりの倉庫の中でこちらを見据えている。そこに集まった者たちの中でも割合中核的存在なのだろう、相変わらずの威圧感と目付きの悪さが、訊かずともそう物語っていた。
その白井という男を目にした途端、皆は無意識に隠れるようにして春日野の背後へと後退りし、気付けば遼平と紫苑、そして春日野の三人を先頭にして整列状態となっていた。
そんな様子が可笑しかったのだろう。白井という男は、真っ向から卑下したように鼻先に薄ら笑いを携えると、大袈裟に威嚇するように顎を突き出しながらこちらに向かって五、六歩前へと歩み出てきた。
「相変わらずだな、てめえら。ヘタレのくせして粋がりやがってよー。少しは骨のある奴はいねえのかー?」
ヘラヘラとうれしそうに下卑た調子で肩を揺さぶっている。一応、お目付役である地元ヤクザの傘下にいることが、より一層白井の気を大きくさせているのだろう。傍目から見れば、彼こそがヘタレそのもののような気もするが、この状況でそんなことを口にできる者など皆無というのもまた事実だ。殆どの者は視線を合わせることさえ恐ろしいといった調子で、うつむき加減でいる。あまり彼のことを知らない遼平と紫苑、そして春日野だけが歩み寄ってくるこの男の一挙一動を見つめていた。そんな様子が少なからず癇に障ったのだろう、白井は双方の距離を三歩程開けた位置で立ち止まると、
「へぇ、春日野かー。てめえ、まだ高坊やってんだ?」
大袈裟に肩を揺らして苦々しく口元をひん曲げながらそう言った。春日野から見ればどうやっても見降ろす格好になってしまうこの男は、普通からすればそこそこ上背もある方だろう。その彼よりも頭一つ分近く抜きん出ている春日野が、格別に長身だというだけだ。また、それには若干劣るものの、遼平と紫苑の二人も、この白井という男からしてみれば僅かに見上げるような形になる。それからして気に入らないといった調子で、白井は時折唾を吐き捨てるような真似事をしながら顎先を突き出して見せた。
「見掛けねえツラじゃん。てめえら、こいつの新しい子分か?」
当然、桃稜の学生と思って疑わなかったのだろう。自分が在学中には存在すらも覚えがないと言いたげで、思い切り小馬鹿にした態度を隠さない。卒業間際のこんな時期に何処から湧いて出たと言わんばかりに、
「新参モンの小者がデケぇツラしてんじゃねーよ! 邪魔だ、どけっ!」
そう言って、思い切り遼平と紫苑の間を割るように、二人の肩をどついた。
手を出されて黙っていられる程、温和な性質ではない紫苑が、すぐさまブチ切れた態度を顔に出す。相反してとにかく状況を見るのが先決だと、それを制止しようとする遼平の動きを遮るように、すかさず春日野がその間に割って入った。
「よしてください白井さん!」
「うるせーっ! てめえはスッこんでろ!」
言葉じりは荒いものの、春日野相手に単身本気でやり合うつもりはないのか、まるで自分には背後に大勢の仲間が控えているんだぞといった具合で、ほんの僅かに後退る。と同時に本来の目的である『兄貴分の女を寝取ったという男の始末』について、ヤクザの男らに話題を振って見せた。春日野を相手にするよりも明らかに分がいいというわけだろう、かなり意気込んでもいるようだ。裏を返せば春日野を相手にするだけの度量がないというのが丸見えだ。そんな様を鼻先で笑いながらも、本来の目的を達するのもまた道理とばかりに、男らはそれに同意、許可した。
そして後方の仲間にまぎれて小さくなっているターゲットの男を引き摺り出すと、白井に向かって好きにしろというように顎先で指令を出す。あっという間に白井の仲間たちも加わって、たった一人を相手に円陣で取り囲んでしまった。
「てめえらもなー、怪我したくなかったらおとなしくしてやがれ!」
ヤクザ風の男が桃稜の連中に向かってそう一喝する。この場で厄介になりそうな春日野と遼平、紫苑らを含めて誰も手を出すんじゃねえと言いたげなのが丸分かりだ。逆らうようなら本当に大乱闘にしてやってもいいんだぞとばかりに睨みを据えて、威嚇してきた。
「てめえら、あと少しで卒業なんだろ? 色々と損な目見んのも嫌だろうが?」
つまりは仲間がボコられようが見て見ぬふりをしていれば、無関係の者にはこれ以上の実害は及ぼさずに済ませてやるということだろう。大半の誰もがまるで忠犬のようにビクついて動かない。やがてイキがった怒号と共に、女に手を出したという男を目掛けて殴る蹴るの暴行が始まった。
ヒィっという悲鳴が聞こえたのは最初のごく僅かで、後は呻き声も罵倒と怒号に掻き消されて見るも無残だ。また、本当に使っているかは知れないが、白井を筆頭にした不良連中の手には鉄パイプのような代物も握られているのが分かる。ジャラジャラとした音はチェーンのような代物だろうか。
「ぐわッ……! っうー……」
時折耳を過ぎるのは仲間の男の苦しげな呻き声――。時間にして恐らく一分と経ってはいない。震えて縮こまる一団の中で、唯一人、何かを決したような様子で表情を固くする春日野と、その脇で僅かに苦笑いをたずさえた紫苑、そしてそれらを横目にした遼平の三人だけが切り取られた絵画のように静止していた。
◇ ◇ ◇
「まあ先に手ェ出してきたのは向こうだしな? 遠慮なく”正当防衛”さしてもらおうじゃん?」
クククッと苦い笑みと共にそう言ったのは紫苑だった。やる気満々なのか乾坤一擲のヤケなのか、既に参戦する体勢で身構えた紫苑の様子に、春日野は慌てた。
「ちょい待てって! いくら何でも数が多過ぎる。てめえらは退がってろ!」
「ここまで来てまだそんなバカ言ってるヒマねえだろ?」
既に仲間が暴行を受けているこの状況下、すべきことはひとつだろうと紫苑は逆に眉を吊り上げる。その気持ちは重々承知だ。
「お前らの気持ちは有難えし、お前らの腕が達つってことも分かってる。けど実際三人だけじゃ、先は目に見えてる。ここは俺が行くからお前らはおとなしくしててくれ」
それこそこんな大人数相手では怪我どころでは済みそうもないのは一目瞭然だ。春日野の言葉からは、例え自分がどうなろうが、関係のない四天学園の二人には指一本触れさせてなるものかという気概がひしひしと伝わってきて、紫苑はより一層瞳を細めて彼を見やった。
「だからってこのままスッこんで、指銜えて眺めてろってか? んで、仲間の代わりにてめえ一人がボコられて丸く治めようってさ、気障なこと考えてんじゃねーよ」
「……何とでも言え。けど、てめえらを巻き添えにするよかマシだ」
ニヤッとした苦笑と同時に、春日野は意を決したように暴行の輪の中へと突っ込んで行った。
「白井さん――!」
制止するようなその言葉に、白井をはじめ、皆が一瞬手を止めた。その円陣の中心に目をやれば、土埃の上がった地べたに仲間が無残な姿で転がされている。背を丸め、顔と腹を庇うようにして身じろぎしない。
「制裁ならもう十分だろ? その辺で勘弁してやってもらえねえか?」
誰もが一瞬、不意をつかれたような顔で春日野を凝視した。