春朧
「どこも怪我はないか?」
かもし出す雰囲気からはおおよそ想像できないような穏やかさで男がそう声を掛けたのは、遼平と紫苑の二人だった。
「あ……はい」
「大丈夫っす……」
驚きからか、言葉にならないような返答と共に、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしている二人の傍を通り過ぎた男は、そのすぐ隣で未だ身構えたような恰好のままでいる春日野を見やると、
「こいつらが世話を掛けたか?」
やはり穏やかなままでそう訊いた。
「え!? いえ、とんでもない! 巻き込んだのは俺らの方です」
世話を掛けたのは自分たちの方だと言わんばかりにそう返しながら、今の短いやり取りで男が遼平と紫苑の知り合いだと悟ったのだろう、春日野は機敏ながらも丁重にといった調子でぺこりと頭を下げた。
その春日野と、そしてたった今、無事を確認したばかりの遼平と紫苑らの背に囲まれるようにしていた男――つまりは倫周の安泰までをもチラリと確認すると、
「そうか、全員無事だな」
またひとたび、穏やかな笑みを浮かべて見せた。
その声音とやり取りで男の正体を確認し、と同時にとびきり安堵したような歓喜の声を上げたのは倫周だった。
「白夜……! 早かったね」
遼平と紫苑が驚くのも無理はない。その男は自分たちをプロデュースしてきた氷川白夜だったからだ。そう、この氷川に反発し、勢いのままに事務所を飛び出してきたのは、ほんの昨夜の出来事だ。その彼が何故こんな所にいるというのだろう。仮にし、自分たちを追い掛けて来た倫周が事態を案じて連絡を取ったとしても、こんなに早く駆け付けられるものだろうか。それ以前に、駆け付けてくれたという事実の方が信じられなかった。
しばし呆然としたままの紫苑らをよそに、氷川が視線を向けたのは、白井ら不良連中によって暴行され、地面に転がされている男だった。
すぐさま側へとしゃがみ込み、首筋に手を当てたりして容体を気に掛ける。そのまま身体のあちこちを探り、少し険しく眉根を寄せる。その様を見るなり、
「おい、おっさん! 勝手なことしてんじゃねーよ! そいつは俺らの獲物だ」
横取りするなというようにイキがってみせたのは白井だった。
周囲には自分らの仲間が大勢いる。また、兄貴分的存在のヤクザの男たちも数人が揃っているこの状況で、相手側に多少威圧感のある男が加勢として一人くらい湧いて出たところで、よもや事態が大きく動くわけもなかろうと自信満々なのだろう。或いはヤクザ連中の目の前で度胸のあるところを見せれば、今よりも自分のことを買ってもらえるとでも思ったのか。加えて、突如現れた氷川が一見したよりも穏やかそうな様子をナメたのか、おそらくそのすべてだろう、白井は屈んでいる氷川に唾を吐きかけん勢いで嘲笑してみせた。
「聞いてんのか、おっさんよー! てめえ、邪魔だっつってんの分かんねえのー?」
こう言っては何だが、ここにいる不良連中たちの中での白井は仲間内でも飛び抜けて一目置かれているというわけでもない。かといって、バカにされているというわけではないが、『数いる不良連中の中の一人』といった程度で、特には目を掛けられているわけではないのは確からしかった。そんな位置付けをここで一気に格上げしたいのだろう。
だが、そんな思いを知ってか知らずか、先程から幾度となく啖呵を切っても、依然として地面にノビた男の様子を診ながら返答の一つもしない氷川の態度が勘に障って仕方ないらしい。ついぞ、しゃがみ込んでいるその肩先目掛けて蹴りを食らわせんと足を振り上げた瞬間だった。その氷川にガッと靴底ごと掴まれて、片足を上げたまま動きを封じられてしまった。もう片方の足は地面についたまま、蹴り上げた方の足を掴まれて、非常にバランスの悪い態勢で微動だにできない。靴底を掴んでいるのはこの男の片手だというのに、振り切ることさえ儘ならない力加減に、みるみると冷や汗が浮かぶ。
黙ったまま、怒鳴るでもなく、単に鋭い眼光で自分の方を見据えているだけの氷川の様子が、逆にとてつもなく不気味に思えたのだろうか、ともすればこのまま殺されてしまうのではないか――そんな恐怖が白井に狂気の声を上げさせた。
「うぉおおおおー、放せっ! 放しやがれ、クソったれー! ぐぁああああ……!」
気が違ったようにわめき散らし、自らの両手で、掴まれている足先をガシガシと揺さぶり、引っこ抜く勢いで暴れ回る。やっとの思いで振り解いた反動で、白井は無様この上なく地面へと尻もちをつかされてしまった。
一瞬、場が静まり返る――
周囲で見ていたはずの仲間は誰一人として「大丈夫か」のひと言さえ掛けてくれる者はいない。それどころか、まるで情けない様を晒してしまったようで、居たたまれない雰囲気が白井を襲った。
「く……くそっ、ナメやがって……」
このままではヤクザ連中にも仲間たちにも認めてもらうどころか、蔑まれるのがオチだ。その羞恥の為か、ゆでダコのように顔を赤くして興奮する白井に、氷川が浴びせたのは酷く冷静なひと言だった。
「少しおとなしく出来ねえか? 脈が聞こえねえ」
「はぁッ!? ふざけてんじゃねえぞ、クソジジイが!」
やっとの思いで立ち上がろうにも、実のところ腰が抜けた状態なのか、フラフラとその足元はおぼつかない。まるで酔っ払いのように、すぐに地面に崩れ落ちては、また立ち上がりを繰り返している。そんな白井を他所に氷川は背後を振り返ると、
「倫周、表に帝斗が待ってる。ヤツに言ってすぐに車を回させろ。こいつを医者へ運ぶ」
テキパキとそう指示をした。
「うん、分かった」
すぐさま倫周が倉庫入口へと走り、今しがたまでの乱闘騒ぎが無かったことのように、まるで休戦状態だ。白井側の不良連中も、遼平と紫苑をまじえた春日野ら桃稜の生徒たちも、氷川の登場で完全に場を仕切られた感に、誰もがしばし唖然とさせられていた。
何はともあれホッと胸を撫で下ろしているのは桃稜の生徒たちの方だ。逆に面白くないのは白井らの方で、とことん不愉快な展開に怒りをあらわにしていた。
「ナメてんじゃねえよ、おっさん……!」
もうヤケクソの捨身のようになって、白井が足元に落ちていた鉄パイプを拾い上げ、再び氷川目掛けて襲い掛からんとした時だった。
「おい、こいつをヤったのはお前か?」
一瞬、怒りを削がれる程の落ち着き払った声で、だがしかし鋭い眼光をくれながら氷川は言った。この男を暴行したのはお前なのか――そう訊いたわけだ。
「ああ!? だったら何だってんだ!」
半ば捨身覚悟だから、言葉じりだけなら白井も負けてはいない。文句があるのかとばかりに、手にした鉄パイプを振り上げ威嚇する。だが、氷川の方はまるで焦りの色など皆無のように落ち着き払った無視状態だ。鉄パイプなど眼中にないといった調子で、裏を返せば例え振り下ろされようが簡単に止められるという余裕の表れなのだろうか。そう、先程白井の蹴りを片手だけで封じたように――だ。彼が今、気に掛けているのは頭上からのヘタレた攻撃などではなく、目の前に転がされている一生徒の容体の方というのがあからさまだ。
「じじい、てめえ! 無視こいてんじゃねえよ! 俺が本気でこいつを振り回すわけねえとかってナメてやがんの!? マジでぶん殴ってやるぞ、おい!」
鉄パイプを振り上げながら白井はますます興奮し、だが氷川は相変わらずの平静のままに、
「こいつをこのまま放っておけば、お前は殺人罪で刑務所行きになるぞ」
そう言った。つまり、すぐに処置を施さなければ危険な程の重傷という意味だ。氷川の真剣な顔付きからそれを悟ったのか、白井の方は今の今までしゃくり上げていた態度を僅かにひるませた。
「殺人って……こんな程度で大袈裟なこと……コいてんじゃねえよ……単にそいつが弱っちいだけじゃねえかよ……」
あの程度殴ったくらいでノびてしまった方が情けないだけだと言わんばかりだ。だが、相反してその声は僅かな震えを伴ってもいた。『殺人罪』という言葉に少なからず穏やかではいられないのだろう。
「だ、第一……ヤったのは俺だけじゃねえし……!」
「集団で殴る蹴るをしたってことか?」
「わ、悪りぃかよッ……!? つかよ、元はと言や、悪りぃのはその野郎の方だぜ!? そいつが兄貴のオンナに手ェ出したんだから、そんくらいされたって当然なんだよ! つか、俺は……いや、俺らは兄貴に言われて……」
氷川の険しい眼力に耐えられなくなってか、語尾にいく程にたじろぎを増し、言葉もしどろもどろだ。兄貴分であるヤクザの男たちに助けを求めん勢いで、白井は視線を泳がせた。
だが、氷川の方は容赦ない。
「このまま放置すればそうなるってことだ。もっとも、今の状況でも暴行と傷害に違いはねえがな」
すっくと立ち上がり、ちょうど倫周が呼びに行った車の手配が整ったのだろう、入口から一台のワゴン車がこちらに向かってくる様子を一瞥した。
「とにかくそこを退け」
怪我人を車に運び入れるのに、白井らが邪魔になるということだろう。完全に場の流れが仕切られ、別の方向に動き出したような状況に怒ったのは、白井らに兄貴と呼ばれているヤクザ連中たちだった。その内の親分格らしい髭面の男がブチ切れたふうに声を荒げる。
「黙って見てりゃ調子コキやがって! 途中から湧いて出た上に好き勝手してんじゃねえぞ、コラっ! てめえ、マル暴の刑事かなんかかッ!?」
これだけの数のヤクザや不良少年を目前にして、たじろぎもしない態度が『その筋』に慣れていると思ったのだろうか、そうまくし立てた。
「デカ?」
「違うってのか!? なら何なんだ! 学校のセンコーってわけでもなさそうだがよ。俺らが誰だか丸っきり分かってねえようだが、てめえヨソ者か!? なら、教えといてやるぜ。俺らはなー、ここいら界隈じゃ名のある組のモンだ!」
「組だ?」
「ああ、そうだ! 俺らを知らねえってんなら、てめえはボンクラだ! 逆らったらどうなるか分かるよなー? てめえ一人片付けるなんざワケねえんだぞ!」
「そうか。だが俺は知らん。いいからそこを退け、邪魔だ」
車がバックで入って来て停止する。
威嚇しようが脅そうが、まるで眼中にないといった氷川の態度に終ぞブチ切れたのだろう、男は懐の中をまさぐると、鈍色に光るサバイバルナイフのような代物を取り出し、振り上げた。
「ンの野郎ー! ナメんじゃねえッ!」
一瞬、場が騒然となる――
氷川の背後にいた春日野、遼平、紫苑らは驚きに目を剥き、だが瞬時には助けるどころか、咄嗟の叫びも儘ならない。まるでスローモーションで切り取られた別次元の出来事のようにすら感じられる程だ。白井ら不良連中も然りだった。
怒りに任せた一撃が氷川目掛けて振り上げられる。
だが、次の瞬間、カーンという乾いた音と共にナイフが地面に転がり、と同時に腕をハタかれた髭面の男も地面へと転がされたのを見て、その場の誰もが息を呑んだ。大した動作もなかったはずなのに、一瞬で男のナイフを叩き落とし、一撃でその場に沈めてしまったのだ。
まさに目に物くれる早さとでもいおうか、ともすればワケが分からない内にそうなっていたといった感じで、何事もなかったかのような平静さでその場に立つ氷川を、全員が唖然としたように見つめていた。
「こっ、この野郎ー、ふざけやがって……!」
しばしの後、また一人別の、今度は子分らしき男が叩き落とされたナイフを拾い上げ、全身体当たりといった調子で突っ込んだ。が、それもまた言うまでもなく、先程と同じように瞬時にかわされ、一撃で沈められる。
「く……そ、ナメやがって……! おい、こいつを轢き殺せ! 早くしねえかッ!」
後方でバイクにまたがって控えていた不良連中に向かってそう怒鳴り付けた。だが、氷川のあまりの鮮やかさというか強さに、半ば度肝を抜かれた感じでいる彼らも、すぐには反応できずにいる。そんな様子に激怒するように、
「轢き殺せって言ってんのが聞こえねえかッ!?」
「おいこら、ガキ共が! 逆らうってんなら、てめえらも後でブチ殺すぞ!」
ヤクザたちは口々にそう怒鳴り散らした。地面を這いずり、まるで未成年の不良連中の背に隠れるように後退りながら、威張りくさった怒号だけが、きな臭い倉庫内に飛び交っている。
「早くしねえか!」
また一人、今まで経緯を見ているだけだった別の子分がバイクの少年らをド突く勢いで、そう怒鳴り付けた。
致し方なくといった調子で、急かされるようにエンジン音がこだまする。半分はヤケといったところなのだろう、引くに引けず、急っ突かれるままにアクセルを踏み込み、氷川目掛けてバイクを発進させた。
一台、また一台と、次々に土煙が舞い――
表の落雷なのか、暴風雨の音なのか、はたまたエンジン音か、それらすべてが混ざり合ったような轟音と共にヘッドライトの灯りだけが大きく回転するように倉庫内を照らし出した。
一瞬、何が起こったのか分からずに、だが舞い上がった土煙がおさまると、そこには二台のバイクが転がされていて、乗っていた連中はといえば、まるで犬猫のようにその首根っこを掴まれる形で、軽々と氷川の手に捕えられていた。突っ込んできたバイクの脇腹を蹴り飛ばすと同時に、乗っていた少年を掴み上げて捕えたのだ。
「なっ……何しやがんだクソオヤジッ! 放しやがれっ!」
「つか、てめえ……ふざんけんなよ……っ! 俺のバイクが……バイクが……!」
地面に無残に転がされたバイクはヘッドライトが点いたまま、転倒の衝撃でそこかしこに傷が入っている。ミラーやら部品が割れたのだろう、金属片やプラスチックの破片のような物も散らばっているのが分かる。
彼らにとっては大事な代物だったのだろう、襟首を掴まれ、半ば宙吊りにされている状態にかかわらず、自分の身を案ずるより先にバイクの心配をしている少年を地面に降ろすと、氷川は言った。
「バイクなんざ、修理すりゃ直るだろうが。まあ多少、銭はかかるがな?」
「ん……っだと、この野郎……!」
「だが人間はそうはいかねえぞ? 怪我すりゃ痛てえし、まかり間違えば”修理”のきかねえままお陀仏ってことも有り得るんだぜ」
舞った土埃で汚れたスーツをパタパタとは叩きながら、そんなことを言う。だが、バイクで突っ込んだという行為そのものを詰るでもなければ怒るでもない氷川に対して、少年らは苦虫を潰したように絶句させられてしまった。
サバイバルナイフを振り上げても一撃で沈め、バイクで体当たりしようが難なくかわされた。そんな攻撃を仕掛けられたにも関わらず、当の本人はまるで落ち着いていて、何事もなかったかのよう平静さを失わない。怒鳴って威嚇するでもなければ、必要以上に反撃を返すわけでもない。その余裕っぷりが逆に底知れぬ恐怖に思えたわけか、
「な、何なんだよてめえはよー……」
「あ、兄貴……こいつ、頭オカシイっすよ!」
何とかしてくださいといったように、兄貴分であるはずのヤクザ連中にそう助けを求めた。
だが返事はまるでない。先程のように「轢き殺せ」でもなければ「もう一度やれ」とも、指図の声すら聞こえない。焦る少年たちがキョロキョロと兄貴分を捜す視線の先で、仲間たちが放心したように立ち尽くしていた。
「兄貴たちなら……今さっき、裏口から出てっちまったぜ……」
「何だって……!?」
「ンな、まさか……」
「マジだって。けど、もしかしたら兄貴んトコの親分とかを……呼びに行ってくれたのかも知れねえけど……」
言葉ではそう言ったものの、その場の誰しもがそんな期待は望み薄だというのを何となく感じているのだろう。氷川のような男を相手に勝ち目はないと踏んだのか、自分たちを捨て駒にして逃げてしまったんだとしか思えない。本能でそれが分かるのだ。
皆、それぞれに黙りこくったまま、途方にくれたような、あるいは苦虫を潰したような面持ちでうつむいていた。
「お前ら、あんなヤツらを兄貴と呼んで、イキがって楽しいか?」
――――ッ!?
誰もが驚いたように顔を上げ、その言葉を発した主である氷川の方を凝視した。
「興味本位でグレてイキがって、挙句引っ込みが付かねえまんま、くだらねえことに足突っ込んで――、てめえらの大事な時間を無駄にするんじゃねえよ」
想像もし得なかったその台詞に、その場にいた全員がハタと瞳を見開いた。