春朧

春雷 5



「見た所、お前ら皆未成年だろうが? 中には成人してる者もいるだろうが、いずれにせよ人生これからってのに、わざわざ自分から進んで道を外すんじゃねえって言ってんるんだ」
「……は? 何言ってんの、オッサン……」
「お、俺らは別に……つか、アンタに……ンなこと言われる筋合いも……ねえし……」
 言葉は反抗的ながらも、内心は裏腹という程に声音は弱かった。
 本当は分かっているのだ。わざわざ指摘されなくとも、この先もずっとこのままイキがり続けてひと時の高揚に酔っていられる程、人生は甘くないだろう。遠くない将来に誰しもが就職をし、いずれは一人立ちしなければならない。そんな現実にわざと蓋をして、見ないようにしているだけだ。若さに甘んじ、好奇心に駆られ、背伸びをして群れて不安を癒しても、心のどこかで揺れ動く葛藤が怖くもある。頭の隅のどこかで、今こうしていることが本当は正しくないのだと分かっていても、行動に移す勇気がない。つまりは何事からも逃げているだけの自分がここにある。言葉には出さずとも、少なからず誰しもが心の内に似た様な不安を抱えているのは確かだった。
 そんな思いを短い言葉でズバリと言い当てられたようで、反論ままならない。兄貴分たちも逃げてしまい、皆で制裁を加えていたはずの桃稜生も病院に運ばれてしまった今、この場にいる目的さえあやふやで、何をどうしていいか分からない。目の前で節介なことを言う見知らぬ男に楯突こうにも、器の大きさが違い過ぎて歯が立たないのは、今の今までの経緯を見るだけで明らかだろう。誰もが路頭に迷ったように立ち尽くすのみだった。

「行け――」
 氷川は静かにそう言った。
「え……?」
「この雷雨が治まれば遅かれ早かれ警察がここへ来る。しょっ引かれて灸を食らうのも結構だろう。或いは一人で頭を冷やすのもありかも知れねえ。それともさっきの”兄貴”って奴らの所へ戻るか? どうするもお前ら次第だ」
「……な……に言って……」
「てめえの行く道はてめえで決められる男でいろよ?」

――――!

 ふと、倉庫端の古びた擦りガラスがまばゆいばかりの金色に輝き出し、早い雲の流れと共に一筋の光が倉庫内に降り注いだ。そういえば落雷の音が次第に遠退いていることに気付かされる。激しかった通り雨が上がり掛け、雲の切れ間から夕陽がこぼれ出したのだ。
 まだ春浅いというのに、まるで真夏を思わせるような積乱雲の流れが速い――
 分厚い暗雲が通り過ぎ、宵闇が降りる直前の夕焼けがまぶしくて、誰もが斜光に目を細める。
「とっとと行け」
 何度も同じことを言わせるなとばかりに顎でしゃくり、そんな氷川の態度に不良少年たちは彼から視線を外せない。
 戸惑いながらも、一人、また一人と後退り、散り散りにその場を後にし始めると、
「っ……」
 最後に残った白井を含めた数人が一気に倉庫から駆け出て行く様を静かに見送った。
 そんな様子を驚いたように見つめていたのは、氷川の背後で彼らと対峙していた桃稜生たちだ。無論、春日野と遼平、紫苑も例外ではない。逃げて行ってしまったヤクザの男たちはともかくとしても、彼らの配下である不良少年たちをもわざと見逃してしまったような氷川の行動がいまいち理解できないような顔付きで、誰もがぼうっと言葉少なだ。
 だが少し考えれば、自分たちとて彼らと何ら変わりはしない立場だというのに気付かされる。例えばここに警察が来たとして、どちらが加害者だの被害者だのと言ったところで、傍から見れば大した違いはないように映るのかも知れない。喧嘩両成敗のような形で、敵も味方もなく、この場に集まった者たちは皆同罪という括りにされるのがオチかも知れない。
 こんなふうになって、もうすぐ卒業が近いことや春からの就職先のことなどが初めて脳裏を過ぎる――
 誰もが落ち着きのなく互いを見やる中で、氷川はそんな彼らの方へと歩を向けた。
「お前ら、桃稜の三年生だな?」
「え……!?」
「あ、はい……」
 声にならないような調子で、誰ともなしにコクコクと頷いた。
「お前らの仲間なら大丈夫だ。さっきは奴らの手前ああ言ったが、ザッと診たところ命に別状はないから安心しろ」
 白井らによって暴行された仲間のことを言っているのだろう。
「怪我の手当てをして二、三日も安静にしてりゃ、起きられるようになる。無事に卒業式にも出られるだろうよ」
 その言葉にホッと安堵の空気が皆を包む。
「お前らも桃稜生でいられるのはあとひと月もねえだろうが。卒業まで楽しく過ごせよ?」
 穏やかな笑みと共にそう言った氷川に対して、全員が顔を上げ、瞳を見開いて彼を見つめた。「ありがとう」とも「すみません」とも、何一つ言葉にはできずにいたが、その視線は熱くこみ上げる何かでいっぱいに満たされているといわんばかりなのが、それぞれの生徒たちの表情にはっきりと表れていた。
「さあ、キミたちも帰ろう。どうやら雨も上がったようだよ?」
 何となくその場から動けないでいる彼らの背を押すように、帝斗と倫周がそう促した。皆はいっせいに氷川に向かっておずおずと頭を垂れると、まばゆいばかりの夕陽射す倉庫の出口に向かってゾロゾロと歩を進めた。
 そんな後姿を見送りながら、氷川に向かって丁重に頭を下げたのは春日野だった。
「あの……ご迷惑をお掛けしてしまい申し訳ありませんでした! ありがとうございました」
 深々と腰を折りながら、礼の言葉を述べ、

(――もしかしてあなたが伝説の白虎なのですか)

 喉元まで出掛ったその一言を呑み込んだ。
 先程から四天の遼平と紫苑が、事ある毎に「氷川のオッサン」と口々にしていたのと、後から助けにやって来た倫周という男が彼のことを「白夜」と呼んでいたのを思い返し、そして何よりもこの派手な乱闘騒ぎを苦も無くといった調子で鎮めてしまった彼こそが『伝説の白虎』その人なのだろうということを、訊かずとも確信し得たからだ。
 白井ら不良少年の一団に対しても、そして自分たち桃稜生に対しても、鮮やか過ぎるような対処で場を収めた一部始終を目の当たりにできた。それだけで歓喜の思いがしていた。ゾワゾワと鳥肌が立つのを抑えられないような、感動ともつかない思いで目頭が熱くなるのを抑えられずに、春日野は下げたままの頭をなかなか上げられずにいた。
 そんな様子に氷川はまたやわらかな笑みを浮かべながら、
「構わん。俺も桃稜生だったんでな?」
 ニヤリと口角を上げ、そして悪戯そうに微笑んだ。
「それに、礼を言わなきゃならねえのは俺の方だな」
「え……!?」
「倫周を守ってくれたろ? 本当は俺が到着するまで無理はするなと言ったんだが。奴さん、そんなもん待ってられねえって言いやがってな。とりあえず時間稼ぎにでもなればと思ったんだが、やはりヤツ一人じゃ心配でな」
 氷川は笑い、そしてこう続けた。
「でもお前らもいるし、大丈夫だとは思ってたぜ」
 春日野から遼平と紫苑の方へと視線を移しながら、まるで誇らしげにそう言って笑った。
「え……あ、そんな」
「俺ら……なんて……」
「だが実際、守ってくれたろ?」
 まさかこんなふうに礼を言われるなんて、意外過ぎて返事もままならない。それ以前に、まるで揺るぎない信頼を置かれているようで、驚きやら嬉しいやら、照れ臭くもあるやらで、何とも表現し難い高揚感がどうしようもない。春日野同様、自分たちの方こそ助けに来てもらった礼を言うべきというのも重々分かっていれど、上手くは言葉になってくれずに、遼平と紫苑はただただうつむき加減で、時折上目遣いに互いを見やるのが精一杯だった。

 まばゆかった夕陽が金色から濃い橙に変わるまではほんの僅かだ――

 桃稜生たちも、そしてその後を追うように倉庫の出口に向かって歩く春日野の長身も、それらを見送る形で微笑む帝斗と倫周、その周囲には氷川に伴って来たのだろう運転手やら彼の配下らしき男たちの姿が数人、すべてが濃い橙色に染まっている。そんな姿を見つめながらぼうっとしたまま、最後の二人になった遼平と紫苑の長いシルエットが倉庫内に伸びていた。

「遼平、紫苑」
 ハリのある声にそう呼ばれて、二人はハッと我に返った。
「いつまでそんな所に突っ立ってるつもりだ? 帰るぞ」
 逆光に染まった長身がそう言いながら振り返る。表情の細かいところまでは見えないながらも、その口角が楽しげに笑みを携えているようで、二人はハタと互いを見やった。若干バツの悪そうにしながらも安堵と嬉しさを隠せないといった表情で、照れたようにうなだれ合う。
「あの……氷川さん……」
「俺ら……その……」
「何だ」
「いえ、その……」
 迷惑を掛けてすみません、来てくれてありがとうございました、先程から何度もそう言いたいと思っているのに上手く言葉が出てくれない。事務所を辞めるなんて言って楯突いて、そのことも謝らなければいけないのに、これもまた上手くは言葉になってくれない。歯がゆさを持て余したようにモジモジとその場から動けずにいるらしい彼らに、
「いいから早く来い。帰るぞ」
 そう言って氷川は瞳を細めてみせた。
 おずおずと二人は歩き出し、
「な、帰ったらちゃんと礼を言わねえとな?」
「ん、あと……ちゃんと謝んねえと。氷川のオッサンに、ちゃんと……」
「ん、だな」
 お互いに肩先を突っ付き合うようにして、それは照れ臭さの裏返しなのだろう。遼平も紫苑もバツの悪そうにしながらも、その表情はとびきり穏やかだった。氷川の広い背中を見つめながら、時折互いを見やる視線には幸せが満ち満ちていた。
 帰ったらちゃんと謝って、礼を言って、そうしたら氷川が作ってくれたバラードを歌おう。今度こそ気持ちを入れて、氷川の思いを、そして自分たちの思いをも込めて、心からのバラードを歌えるようにがんばろう。
 格別には言葉にせずとも同じ思いでいるだろう互いを見やり、橙色が褪せていく早春の空に視線を逃す。穏やかな宵闇が心地よく、どちらからともなく袖触れ合わせて歩きたい気持ちが二人の肩を包み込む。
 そう、このままずっと。ただただ互いを隣に感じているだけでいい。


――いつでもそこにお前がいればいい。
 そして周囲にはとびきりのダチがいて、仲間が笑ってて、ただただ変わらずに過ぎゆく時を共にできればいい。


 ふと、足元に降って来た砂のようなものに視線を取られ、遼平も紫苑も不思議顔で頭上を見上げた――次の瞬間だった。
 ミシッという嫌な感じの音を聞いたのも束の間、天窓らしきものが枠ごと落下してくるのが目に焼き付いた。
 さびれた焦げ茶色と、ささくれ立った古い木枠、そして風化による汚れで濁った擦りガラス、それらがいっぺんに頭上目掛けて落ちてくる様を確認できたのは、ほんの一瞬のことだったろう。



「危ねえッ……!」



 触れ合っていた袖を手繰り寄せ、咄嗟に懐の中に抱え込むように身体ごと抱き包み――
 いつかどこかで観た映画の場面のように、もしも一分一秒を何百倍もの長さに伸ばせるとしたならば、こんなもの、きっと簡単に避けられるのだろう。



「紫苑――――――――ッ」



 狂気のような叫びが、身もすくむ程の落下音に掻き消されて散った。



Guys 9love

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