春朧
突如、先程までの落雷が再び落ちたかのような轟音が響き、その中に凄まじい程の叫び声が混じった気がして、氷川はギョッとしたように倉庫内に舞い戻った。既に表で待っていた車に乗り込もうとしていた――まさにその時だ。
後からやって来る遼平と紫苑を乗せる車、そして自分と帝斗や倫周が乗る車数台が縦列で待っている。誰をどの車に乗車させようか、やはり遼平と紫苑は二人きりにしてやった方が緊張せずに済むだろうか、それともここはいっそのこと自分と三人で乗って親睦をはかるというのも悪くはない。そんなことを考えている自分が少し可笑しくて、そして楽しくも思えていた。そう、まさにその瞬間の出来事だった。一瞬、何が起きたのか分からずに、だが轟音に驚いた氷川が倉庫内に戻ってみると、そこにあったのは信じ難い光景だった。
夕陽の赤など比べ物にならない程の紅色が土埃に点々とし、そこかしこに飛び散っていた。先程までの落雷と暴風雨で緩んだ窓枠が崩れ落ち、それらが無残にも遼平と紫苑の二人を直撃したのだ。
みるみると増す血だまりの中に、微動だにしない二人が折り重なるようにして倒れている。まるで地獄絵図を見た面持ちで、氷川は硬直してしまった。
尋常ならぬその轟音を聞いた帝斗も倫周も、そして常に氷川と行動を共にしている側近の男たちも、何事が起ったかというようにして続々と倉庫内へと戻って来た。
「白夜!? どうしたの!? 何があった! 今の音は何だ!?」
「如何しましたか!」
皆が口々に大声でそう訊くも、その声さえ瞬時には伝わらない程の衝撃が氷川を押し包んでいた。
二十年前の残像が蘇る――
この二十年の歳月が事細かに巻き戻しされていくような錯覚が脳裏を巡り巡る――
呆然としていたのはどのくらいだろうか、ほんの僅かだったかも知れない。氷川はハタと我に返ると、狂気のような叫び声を上げた。
「鄧(トウ)だ! 鄧をここへ! 医療車もだ!」
鄧というのは氷川の側近の一人で、医術の心得がある者のことだ。氷川はマフィア頭領の息子という立場上、何処へ行くにも側近の数人が付いて行動するのが常となっている。その中には必ず医学の心得がある者が同行するのもまた決まり事だ。いつ何時、どんな襲撃に遭うかも知れないということを仮定してのことなのだが、特に今日は倫周からの電話で、遼平と紫苑の二人が乱闘騒ぎに巻き込まれたようだと報告を受けていたので、怪我人の手当てが必要となることを見越して、救護用の医療が積んである車まで伴っていたのだ。ある意味、不幸中の幸いだったかも知れないが、まさかこんな事態になるなどとは思いもよらなかった。学生同士の小競り合いが行き過ぎて、万が一の大怪我などに対処する為の予備として――程度の考えだったというのに。
[老板(ラァオバン)、こちらの……紫苑さんの方は細かい傷は多いですが、心配するような致命傷は見当たりません。おそらくは転倒の衝撃で気を失っているだけです。重傷なのは遼平さんの方です。とにかく出血が酷いので、急いで手術が必要です]
よほど慌てているのだろう、日本語ではなく、広東語の早口でそう説明をした。氷川のことも、表向きで使っている『社長』とか『専務』とかといった役名ではなく、普段通りの――いわゆるマフィアとしての自身のボスという意味である中国名の『周焔白龍(ジョウイェンパイロン)』を意識した名の方で呼ぶ。
[とにかく救護車をすぐにここへ!]
また一人、いつも氷川に従っている側近中の側近ともいうべき李(りー)という男がテキパキとそう指示を出す。少なからず平常心ではいられない主に代っての配慮だろう、自分がしっかりせねばと思っているのだ。
辺りには広東語が飛び交い、緊張感が走る。氷川の傍らでは、驚きで硬直する倫周の肩を抱きながら、自らもやはり氷川を支えねばといった表情で帝斗が佇んでいた。
そしてすぐさま医療具を積載した大型の救護車が倉庫内に到着し、担架が降ろされたりと、ますます場は騒然となっていった。
おそらく遼平は咄嗟の落下物から紫苑を守ろうとしたのだろう、まるで身を盾にするようにして自らの懐の中に彼を抱え込んだというのが分かる。その背には窓枠やらガラスの破片やらが突き刺さり、酷い流血にまみれた遼平の姿が目に痛い。
[東京の事務所に帰れば全て揃うのですが、それまでの間に至急輸血用の血液が必要です! 一番近い大手の病院に協力をお願いするか、もしくは彼と同じ血液型の人がいればいいのですが]
手早く処置を施しながらそう言う鄧の言葉に、氷川はすぐさま周囲を見渡した。気持ちだけでいうならば、誰を差し置いても真っ先に自身の血液を提供したい。だが、それは叶わない。遼平には輸血ができない血液型なのだ。
「クソっ……! 俺はAB、倫周もAB、帝斗はAか。誰のもこいつには合わねえってか……」
歯がゆさを抑え、今この場にいる者たちの中で彼と血液型が同じ者をと捜したが、氷川の記憶するところでは合う者がいなかった。
側近と、数台ある各車両の運転手も含めれば、それ相応な人数で出向いて来たというのに、何故こんな時に限って一人も一致する者がいないというのだろう。焦心に輪を掛けるように二十年前の残像がむごたらしく脳裏を巡って止んでくれない。
二十年前、やはり身を盾にして一之宮紫月を庇って亡くなった鐘崎遼二の記憶が蘇る――
葬儀の日の蒸し暑い夕暮れ、
やり場のない気持ち、
遼二らの親友であった清水剛と橘京が悲しみにくれていた姿などが、まるで昨日のことのように次々とフラッシュバックする。
[仕方がねえ、近くの病院で輸血を協力してもらえるよう手配を……]
氷川自らも広東語でそう指示を口にした、その時だった。
「何型ですか!?」
「え――?」
「そいつの……如月(遼平)の血液型は何型なんですか?」
見上げた先に真剣な表情でそう問う春日野の姿があった。
「……B型だ」
我に返ったようにして氷川が答えると同時に春日野は言った。
「だったら俺のを使ってください! 俺も同じB型ですから……!」
皆が驚いたように春日野を見上げ、そして互いを見合い、鄧も期待に瞳を輝かせる。
「すまない、恩にきるぜ」
祈るようにしながら氷川はそう言って頭を下げた。
◇ ◇ ◇
[ではすぐに輸血の準備を! それから紫苑君の方も救護車へ運んで、傷口の消毒をお願いします。担架をこちらへもう一台回して!]
助手となる男にそう告げて、鄧は念の為に春日野の血液型を採取する。テキパキと慌しく治療が施されていく中で、担架に乗せる為に抱き起された紫苑がぼんやりと意識を取り戻した。
「……ん、りょ……平? 遼……平?」
今しがたの記憶が瞬時に蘇ったのだろう、ガバッと身を起こし、目の前の惨い光景を目にするなり硬直してしまった。
「……い……遼平ッ!? 遼平!? ど……何で……」
「見るな……!」
血塗れの惨たらしい姿など見せたくはない、その一心で咄嗟に氷川は紫苑の視界を遮るように抱きすくめた。だが逆効果だったのか、紫苑は腕の中でもがき、氷川の拘束を食い破るようにして遼平の身体へとしがみ付いた。
「遼平ッ……何で……こんな……っ、どうしてっ……!」
血に塗れたガラス片が突き刺さる肌に手を伸ばし、触れ、今目の前にある光景が夢なのか現実なのか分からなくなる。
「どうしていつも俺はお前んこと……こっ……んな、こんな……酷え目に遭わせてばっか……」
ガクガクと身体中が震え出し、唇からは色が消え、視界に映るものすべてが鮮血色に染まっていく。と同時に、頭の奥の隅の隅の方からザワザワとした雑音が聞こえ始め、それらが次第に大きくなってくるような錯覚に陥った。
頭の中で誰かが話し掛けてくるような気がする。
『何で……俺ばっか……たまには俺もお前の……』
『だーめ! 俺とお前じゃ愛の重さが違うんだよ。だからダメ』
『何だ、それ。ワケ分かんねえこと言って……っあ……!』
乱された白いシーツの上で濃厚に愛撫をされている自分に似た男が、逞しい腕の中で陶酔した表情を浮かべている。その彼の股間に顔を埋め、そして彼の両方の太腿をがっしりと支え、黒髪を揺らしている男にも見覚えがある。遼平によく似た面持ちの男だ。絡み合う二人の間には淫らで甘い空気が止め処ない。
そうだ、この場面を知っている――
今、脳裏に浮かぶこの光景はいつかの自分と遼平の姿なのだろうか。それとも別の誰かの姿なのか。それよりも何よりも、何故、今このタイミングでこんな光景が浮かんだりするのだ。こんな切羽詰まった状況で、それとは真逆のような甘やかな映像が脳裏の中を巡り、めぐり、止んではくれない。
『俺の愛はお前のよりめちゃくちゃ重いのよ。んだからよ、お前に尺られたりしたら、俺、ブッ飛んじまって何すっか分かんねえし』
『……は?』
『きっとお前んこと、めっちゃめっちゃにしちまいそうでさ。暴走しちまうのが目に見えてるわ』
『何言ってんだ、このエロヘンタイが……っ』
『だろ? 俺さ、自分でもかなりヤベえヤツって思う時あるわ。何ちゅーか、時々怖くなるくらいお前んこと好きっての? マジでどうしようもねえくらい愛してる』
『バッカ……やろ、ンなこと……よくこんな時に……言……っ』
『こんな時だから素直に言えちゃうんだろ? 普段はこっ恥ずかしくて言えねえけどな? だからよく聞いとけよ?』
『……っあ、しつけ……ンなとこばっか……って、うあ』
『愛してるぜ……大好きだぜ……? ぜってー放さね……お前んこと……!』
『ばっかやろ……てめ、遼……!』
強く、強く、激しく荒く、だがとてつもなく甘く淫らで幸せで、欲望の到達と同時に理由のない涙があふれ出た。そうだ、この愛撫を確かに覚えている。
――俺とお前じゃ愛の重さが違うんだぜ?
愛の重さが――
違うんだぜ――
違うんだぜ――
何度も何度も脳裏を巡り、こだまして離れないその言葉が次第に遠ざかって小さくなっていく気がした。と同時に、そう言いながら微笑んでいた彼の映像も次第に薄くなり、頭の隅の方へと消えて失くなってしまう感覚に恐怖を覚え、ブルリと身を震わせて我に返った。
「嘘だ……そんなん、嘘だ……俺だって同じ……俺だって愛してる……」
遼平の身体にしがみ付きながら、声を震わせて同じ台詞を繰り返す。その視点はどこを見るともなしに定まらず、瞬きさえ忘れた人形のようだ。そんな紫苑の様子に、氷川をはじめ周囲の者たちは心配そうに眉をしかめた。
「紫苑? おい、紫苑!」
肩を掴んで揺さぶり、氷川がそう声を掛けても、紫苑の耳には何も届いてはいないようだった。
「愛してるぜ……俺だって同じ……お前と同じくらいお前んこと……! お前がいなくなったら生きてけねえくらい……愛してるんだって! なあ、約束したよな? 今度こそぜってー離れねえって……もうあんな思いすんのは嫌だ……俺のせいで、今も……あの時も……いつもいつも……俺はお前んこと、酷え目に遭わせてばっかなんて……嫌だ」
独白のように、ともすれば何かに憑かれたように同じ言葉を繰り返す。瞳の中には溜まり切らなくなった涙が滝のように頬を伝い、こぼれ落ちる。
「なあ、目開けてくれよ……? なあ、遼……! 愛してるんだって……お前、また俺だけ置いてくつもりかよ……? また俺、一人にすんのかよ……? もう二度と……離れねえって……今度こそずっと一緒だって! 約束したじゃねっかよ! 遼ーーー……!」
遼――――――――!
古びた倉庫のあちこちが軋み、またどこか別の個所が崩落するのではないかと思わせるくらいの絶叫がこだました。
「遼……! なあ、目開けろよ、遼! 俺一人にすんなって! ンなの、ぜってー嫌……! 嫌だ、嫌だ……嫌だ……! お前と離れてなんて……生きてけねえっつってんだろ……! 何とか言えって! 遼ーーー!」
散らばったガラス片で新たな傷が増えることも気に留めず、それどころかまるでわざと自虐せんとばかりの勢いで暴れる紫苑を再び氷川が後ろから抱きすくめた。
「落ち着け紫苑! 紫苑! おい、しっかりしろ!」
「嫌だ、放せっ! 俺はこいつと……もう二度とぜってー離れねえっ! 離れねえんだってば……!」
このままでは紫苑当人の傷も増えるばかりか、瀕死状態の遼平の手当てさえままならない。
[老板、紫苑君に鎮静剤を……! このままでは彼の精神が崩壊してしまいます! 遼平君とて一刻を争う状況です]
鄧の訴えはもっともだ。だが、氷川は一瞬、間を置いた。
[いや……こいつには俺が付き添うから鎮静剤はなしだ]
考えたくはないが、もしも――
万が一にも遼平がこのまま息を引き取るような事態になったとして、紫苑を鎮静剤で眠らせてしまったら死に目に会えないことになる。それがためらわれたのだ。例えどんなに酷な現実を目の当たりにさせることになったとしても、最期の瞬間まで二人を引き離さないでやりたい、そう思ったのだった。氷川は再び紫苑の両肩をガッシリと抱き締めると、
「しっかりするんだ紫苑! お前らは怪我をしてる。特に遼平の方は重傷を負ってる。すぐに手術が必要なんだ! 分かるな?」
ガクガクと肩を掴んで揺さぶり、紫苑に意識を取り戻させるかのように言い聞かせる。すると、手術という言葉に反応したのか、ふっと我に返ったように目の前の氷川の存在を認め、徐々にその瞳に視点が戻って来た。
「手……術?」
「ああそうだ! 手術だ。今から遼平を救護車に乗せる。お前も一緒に乗って、二人一緒に医者の治療を受けるんだ。分かるな?」
「手術……俺も、遼平も……一緒に手術……」
「そうだ。二人一緒だ。俺も付き添ってやるから、がんばれるな?」
「あ……氷川……のオッサン……」
「そうだ、俺だ。氷川だ。大丈夫だから、お前ら二人をぜってー引き離したりしねえから! 気をしっかり持つんだ。特に遼平にはお前の応援が必要なんだから。一緒に車に乗って手当てを受けられるな?」
「あ、ああ……氷川……俺……あいつと一緒に手術受けるんだ……よね?」
「そうだ」
抱き寄せ、頭を撫で、すっぽりとその身体ごと抱き包み――
すっかり気が抜けてしまったのか、ともすれば腑抜けのようにおとなしくなってしまった紫苑を、まるで子供をあやすかのように抱く。愛しい者を包み込むように、大切に大切に抱き包む氷川の様子を目に、倫周は二十年前のことを思い出していた。
どうかあの悲しみが繰り返されませんように――
震える両手を胸の前に組み、一心に祈るその頬に幾筋もの涙が伝わっていた。そんな倫周を見守るように肩を抱き続けている帝斗も、全く同じ思いに胸を震わせ、誰しもが祈るような気持ちでいた。
◇ ◇ ◇