春朧
――未明を過ぎ、東の空が白々とし始めていた。
[手は尽くしました。手術自体は成功したと言えます。……あとは、遼平君の生命力を信じるしか……]
鄧のその言葉に氷川の表情が不安げに揺れた。
[一両日中に彼の意識が戻ってくれれば……今はそれを祈るしかありません]
つまりは手術によって命は取り留めたものの、最悪の場合、このまま植物状態ということも有り得るという意味なのか、訊かずともそれが理解できた氷川の顔が辛く歪む。
この鄧とて、最善を尽くしてくれたのは重々承知している。あとは遼平の生命力次第というのも、頭では理解できる。今はただただ信じて待つしかないのだ。
氷川をはじめ、ずっと寝ずに手術室の前で付き添っていた帝斗も倫周も、誰もが同じ不安と苦渋を抑えながら、一心に祈るのみであった。
ふと、遼平の隣の部屋の扉が開かれた音に気付き、一斉にそちらを振り返ると、そこには手当ての麻酔から覚めた紫苑が立っていた。遼平程の致命傷は無かったにしろ、彼とて無数の傷の治療が済んだばかりの、その身体の方々に包帯が施された痛々しい姿だ。だが、そんなものは気にも留めずといった様子で、扉に寄り掛かるようにしながらも、気持ちだけは一心に何かを捜しているといったふうにしている。おぼつかない足元で、何度も転びそうになりながらも壁伝いに歩を進め、だがその視線はどこを見るともなしにぼんやりとしていた。
「紫苑君……! 気が付いたのかい?」
まだ寝てなきゃダメだよ――その言葉を呑み込んで帝斗と倫周がすかさずその両脇を支えるように駆け寄る。
「遼平……どこ……? あいつんところへ……行く……んだ。遼平ん……とこへ……」
「大丈夫だよ、遼平君の手術は無事に済んだんだよ。今、彼はまだとても大切な時だからね、一緒に待とうな?」
「ホント……? あいつ、だいじょうぶ……なの?」
「ああ、ああ大丈夫だ。命は取り留めたよ」
「会いたい……遼平に……あいつの傍にいたい……」
一通り返答はするものの、やはり紫苑の視線は定まらず、会話も届いているのかいないのかという程に呆然としたままだ。ともすれば、気が触れてしまっているかのようにも思えて、帝斗と倫周は焦燥に瞳を歪めた。
「分かった、一緒に遼平のところへ行こう」
そう言ったのは氷川だった。
当然、まだ面会などできる状況ではないのは承知の上だ。だが少しでも彼ら二人を離しておくことがためらわれて、氷川は紫苑の手を取った。
◇ ◇ ◇
病室に着くと、紫苑は格別の感情も見せないまま、ベッドに横たわって眠った状態の遼平の傍へと歩み寄った。黙ってその傍らに腰掛けると、まるでその胸元に顔を埋めるようにして彼の身体にしがみ付く。白い掛け布団の上で何度も頬をすり寄せ、時折、「遼平、遼平」と無意識のように名をつぶやく。つい先刻、事故直後の倉庫で見せた激情は全く見られないものの、そんな様がかえって彼の精神状態がおかしくなってしまっていることを示唆しているようにも思えて、氷川らの不安を煽った。
夜が明けて、陽が昇り、そしてその陽が西に傾き出しても、紫苑は遼平の傍を離れようとはしなかった。
ただただそこに腰掛けて、呆然と彼の眠る顔を見つめ、そしてまた時折シーツの上で頬ずりを繰り返しては、その名を呼ぶ。まるで壊れた機械人形のように繰り返し繰り返し、感情のないような声が室内にこだまする。夜が来て、月が昇り、そしてまたその月が白く色を変え西の空へと消えようとしても、依然、何も変わらない。
手術から後、一両日がとうに過ぎ、三日目の夜が更けようとしていた。
その間、何度も往診に訪れる鄧にとっても、それを祈るように見守る氷川や帝斗、倫周らにとっても辛さが増す。遼平の傍から離れようとしない紫苑は依然として腑抜けのような人形状態で、眠ることもせず、食も喉を通らない。毎日、代わる代わる訪れる遼平の両親や、輸血を協力してくれた春日野が見舞いに訪れても、ろくな挨拶さえできずに、ともすればそこに誰かがいるのかということさえ認識できていないような状態であった。身体の方は点滴でかろうじてしのいではいるものの、これでは遼平に同じく彼も日に日に衰えていくだけだ。
そんな様を見ていると、否が応でも二十年前の記憶が蘇ってやまない。あのうだるように暑い夏の日の、鐘崎遼二を失くした時の一之宮紫月の姿と今の紫苑の姿が重なってしまうのだ。何をするともなしに、ただただ遼平のベッド脇に座り続けている彼から目が離せない氷川らにとっても、苦渋の思いが蓄積していく。
「紫苑の様子はどうだい?」
ずっと付きっきりで見守り続けていた氷川の元へ帝斗が様子を見にやって来た。
「ああ……今さっきウトウトしかけて、やっと眠ったところだ。帝斗、悪いが隣の部屋のベッドにこいつを運ぶのを手伝ってくれ」
睡魔に負けてようやくと眠りに落ちたらしい紫苑を少し休ませようと、氷川はそう言った。
「そう、やっと眠ったのか。今の内に少しゆっくり横にならせてあげないとね」
帝斗と共にやって来た倫周も手伝って、三人で紫苑をベッドへと運んだ。
「トウ先生にお願いして鎮静剤でも打ってもらうかい? またすぐに目を覚まして遼平の姿が見当たらないと不安がるだろうし」
「ああ、そうだな」
氷川の声にも疲れが見て取れる。
「お前さんも少し休むといい。遼平の容態に変化があればすぐに起こしに行くから」
持参して来た夜食を手渡しながら、帝斗がそう気遣う。
「いや、俺なら大丈夫だ。遼平の部屋にも簡易ベッドがあるからな、そこで休めるし。それよりお前らは紫苑の方を頼めるか? ヤツが目覚めた時に誰かが傍に居てやらねえといけねえし」
「分かった。じゃあそうしよう」
「すまない」
氷川は帝斗と倫周に紫苑を預け、再び遼平のベッドサイドへと腰を下ろした。
ふと、窓を見上げれば、凍る空に煌々と月が目に入った。日中は若干暖かさの感じられるようになってきた三寒四温のこの時期、だが夜はまだ凍てつく寒さに月さえも氷りそうだ。
心もしかり、このまま永久凍土のような思いを抱え、この闇に光が戻ることはないのだろうか――
そんな不安が重く圧し掛かる。二十年前、鐘崎遼二と一之宮紫月を失くし、そして奇跡的ともいえる巡り合わせで、この遼平と紫苑に出会った。どんなに衝撃だったか知れない。
繁華街で安いギターを抱えて路上ライブの真似事をしていた彼らを見つけた日のことを今でも鮮明に覚えている。どんなに嬉しかったことか、どれ程心が打ち震えたことか、言葉などでは到底言い表せない。それなのに、いつも彼らの前ではそっけない態度しか出来なかった。二十年分の思いを込めて接することもままならず、嬉しさを素直にぶつけることもできないまま、今日までいったい何をしてきたというのだろう。
再び彼らを失くすことが怖かったのか、二度とあんな辛い思いをしたくないという気持ちが素直さに歯止めを掛けていたのか、そんなものは単なる言い訳に過ぎない。もしもこのまま遼平を失くしてしまうとしたら、自らを葬ってしまいたくなるくらい後悔の念に苛まれるだろう。
――俺はこんなにも無力だ。どうしたら戻って来てくれるのか。どうしたらもう一度お前と話ができるのか。
窓の外には相も変わらずに凍えそうな月が止め処ない光を放っている。天心を射抜くその位置が時間を追うごとに軌道を巡り、やがて低く西の空へと傾いたとしても、次の夜が来れば再び天に昇り、同じ光を放つのだ。
あの月のように再びお前が微笑んでくれることを願ってやまない、再びお前と笑い合えることだけが唯一つの願いだ。切なる思いを込めて、眠る遼平を見つめていた。
そして月が光を弱め、胡粉の色に変わり、空が白々とし始めても尚、ずっとずっと――ただただずっとその側を離れずに氷川は遼平を見つめていた。ここ数日の心労も相まってか、途中ウトウトとしては、まるで紫苑と同じく、眠る遼平の脇で顔を埋めるようにしながらも、ずっと彼のベッドサイドから離れることはなかった。
もうすぐ四日目の朝を迎える。
表との寒暖差で曇った窓ガラスが外の冷気を伝えている。
薄墨色の空はやがて山吹のやわらかな色へと変化し、まばゆいばかりの朝陽を連れて来るというのに、それとは対極な重い不安で心が押し潰されそうだ。
(お前、また俺だけ置いてくつもりかよ……? また俺、一人にすんのかよ……? もう二度と……離れねえって……今度こそずっと一緒だって! 約束したじゃねっかよ!)
事故直後の倉庫内で紫苑が放った言葉が耳から離れない。
あれは紫苑が遼平に向けた言葉だったのか、あるいは――
やはりこの二人は今は亡き鐘崎遼二と一之宮紫月の生まれ変わりではないのか、そう確信せざるを得ないようなあの台詞がずっと頭の隅から離れてくれない。
どうすることもできない万感の思いと歯痒さを噛み締めながら、氷川は眠る遼平の手を取り、強く握り締めた。
「帰って来てくれ、遼平……頼むから目を開けてくれ……! お前、本当にこのまま……紫苑を、あいつを置いてっちまうつもりなのか? またあいつを一人にしちまうつもりなのか?」
ガッシリと握り締めた掌同士を震わせながら、まるで魂にでも呼び掛けるようにそう言った。やり場のない気持ちに眉をしかめ、祈るようにそう言った。
「お前が戻って来ねえってんなら……俺は……今度こそ俺があいつを……あいつを……俺のもんにしちまうぜ? お前、それでいいのか? 良かねえだろうよ? なぁ、どうなんだよ……カネッ――!」
――どうなんだよ、カネッ!
堪え切れない思いが涙となって、一筋、氷川の瞳から零れ落ちた。
『カネ』というのは、かつて自身がそう呼んでいた懐かしい名前――亡き鐘崎遼二のあだ名だ。彼に瓜二つな遼平を通して、その彼にぶつけるかのように、行き処のない気持ちを吐き出した。
頬を伝う涙も止め処なく、思いを代弁するかのようにあふれ出て止まない。温かなその雫が繋いだ手と手に滴り、流れ伝う。
ふと、握り締めていた掌が僅かに動き、温かみを増し、そして握り返されたような感覚に、ハッと我に返った。
「――!?」
驚いて顔を上げ、ベッドに横たわる彼に目をやると、そこにはうっすらと微笑みをたたえた遼平の表情があった。ゆっくりと瞳が開かれ、口元には次第にはっきりとした笑みが浮かんでいく。
「さすがにキいたぜ、今のひと言――」
「――ッ!? 遼平、気が付いたのかっ!?」
「……ん」
まだおぼつかない身体を懸命に動かすようにして、彼は枕の上で顔だけを氷川へと向けた。
「ごめんな氷川……あいつだきゃ、誰にも譲ってやれねんだ。あいつは俺の大事な宝物だからよ?」
「――――!」
とにかくも意識を取り戻したことに安堵する。だがそれとは裏腹に、思うように反応ができないでいる氷川の瞳は驚きに見開かれ、軽い硬直状態に陥ってしまっているかのようだった。そんな様子にまたひとたび穏やかな笑みを浮かべると彼は言った。
「ありがとな、氷川」
その声音と微笑みに、言葉にできない程の懐かしさがこみ上げた。瞬時に時が巻き戻り、胸を締め付けてやまないあの春の日が蘇る。
そして何より、遼平ならば自分のことを『氷川』とは呼ばない。この感覚、この感じ、二十年前の河川敷で交わした拳と拳の温もりが身体中を包み込むような感覚に、氷川は夢でも見ているのだろうかと思った。今、目の前にいるのは遼平ではなく、在りし日の鐘崎遼二そのもののような気がするからだ。
「カ……ネ? まさか……お前カネ……なのか?」
あまりにも驚いてか、現実か夢かという表情が崩せないでいる氷川を見つめながら、目の前の彼はまたひとたび穏やかな笑みを浮かべた。