春朧
少し切なそうに瞳を細め、だがすぐに悪戯そうな表情で笑った遼二の口から出た理由を聞いた途端、氷川は半ば唖然とさせられてしまった。
それはつい先日、遼平と紫苑が氷川に楯突いて一悶着交えた日のこと、倫周の車に拾われ横浜の邸で一晩世話になった際の出来事だ。遼二の言うには、その時も今のように遼平の身体を乗っ取るというか、しばし拝借して紫苑を抱こうと試みたのだが、あえなく失敗した――というものだった。
「俺もアホだからさ、もう一度、この世でっつーか、生身の身体の感覚でっていうの? あいつと……その、ヤってみてえとか欲が出ちまってさ。今みてえにちょっとの間、遼平のカラダを借りたんだわ。けど、紫苑の野郎ったら思いっきり俺を拒みやがってさ……」
「はあ?」
さすがの氷川も呆気に取られたような表情で瞳をパチパチとさせるしかできない。
「や、上手くいくと思ったんだけどよ。紫苑の方から”紫月”の記憶を引き出せなくて失敗した。あいつってば『俺に触んな』つって、めちゃめちゃ怒りやがってさー。俺が”遼平”じゃねえって、本能でそう悟ったんだろうな。で、天国に帰ったら帰ったで、今度は紫月に呆れられて、ド突かれるしで……もう最低よ」
心底残念そうにそんなことを言う遼二に、氷川はしばしポカンと口を開けたまま、すぐには相槌さえもままならずといった調子で固まってしまっている。そんな様子に、
「やっぱ、バカな野郎って思うべ?」
バツの悪そうに、上目使いでそう訊く。少しスネた仕草がやんちゃ盛りの悪ガキそのもののように思えて、堪え切れずに氷川は吹き出し、大笑いしてしまった。
「あ……ははははは! お前らしいってのか……! ははははは、たまんねえ! 腹痛えよ」
「んな、爆笑すっことねっだろが!」
「はは、悪りィ、悪りィ! けどホント、どこに居ても……この世だろうが天国だろうが、お前らはお前らだなって思ったら嬉しくてよ?」
そうだ、何も変わってなどいないのだ。鐘崎遼二も一之宮紫月も、確かにそこにいるのだ。そう、例え年中傍で会話を交わさずとも、姿は見えずとも、確かにここにいる。二十年前も今も、何一つ変わらず揺るがない絆がここにある。そんな気持ちのままに、氷川は今一度強く掌を握り締めた。
「約束しろよカネ。いつかまた……天国でちゃんと再会した時には、今と変わらずこうして笑い合おうぜ。お前と一之宮、帝斗に倫周や、それにお前らの仲間だった清水や橘たちも一緒にな? また皆で騒ごうぜ?」
「ああ、もち了解だぜ! 何ならまたお前とタイマンでもやっちゃうってか?」
「お、いいぜ? そん時はお前と一之宮と二人まとめて相手してやるわ」
「言ったな、おい! 今度はぜってー負けねえからなぁ、覚悟しとけよ?」
「おうよ、楽しみだぜ!」
そうだ、今も昔も、そして未来も――何一つ変わることのなく、俺たちは共にいて、共に微笑み合おう。
「な、氷川さ、こいつらのこと……遼平と紫苑のこと、よろしく頼むな?」
「ああ、勿論。これからは俺も多少は素直に向き合えそうだ」
「多少かよ?」
「いや、とことん素直になるぜ?」
「マジか!」
「ああ、大マジだ。約束するぜ?」
おどけ気味に氷川はそう言って微笑んだ。
「会えて嬉しかったぜ、氷川……ありがとな」
「ああ、俺の方こそだ。こんなふうにしてお前と会えて……幸せだ。すげえ嬉しかった。礼を言うぜ」
「氷川……また会おう」
「ああ。一之宮にもよろしく伝えてくれな」
「あ? ああ、それならお前から……」
そう言い掛けて、遼二はハタと言葉をとめた。
(それはお前から直接云えばいい。きっと紫月のヤツも……きっと今頃は――)
そんな気持ちを呑み込んで、遼二は微笑(わら)った。
「おうよ、了解。伝えとくぜ!」
ゆっくりと、朝陽の中で深呼吸するように瞳を閉じて、ほんのしばしの間を置いて――そして再び長い睫毛が眩しそうにうごめいた。
◇ ◇ ◇
「……ん、……紫苑……?」
ここは何処で、自分が今どんな状況にいるのか、ぼんやりとは思い至るのだろうが、はっきりとは掴めずに、遼平は目覚めると真っ先に愛しい者の名を呼んだ。
「遼平か? 気が付いたのか?」
「え……あ、氷川……さん、俺……」
どうやら自分自身のことも、傍に居るこちらのことも理解できるようだ。口調も思いの他、しっかりとしていることに安心させられる。如何に鐘崎遼二と触れ合った直後だとはいえ――いや、触れ合ったからこそなのか、彼が『遼平』だと思えば、全くの別人という意識にさせられるから不思議だった。
「気分はどうだ? 手術は成功したから安心しろ」
「氷川さん……ずっと、付いててくれたんですか……?」
「ああ、勿論だ。当たり前だろうが」
氷川はそう言って瞳を細めた。とびきり穏やかに、これまでのように素っ気なくすることも感情を取り繕うこともなく、気持ちのままを表情に出しては微笑んだ。
「紫苑のヤツもずっとお前に付きっきりだったんだぜ? 睡魔に負けるのを見計らって、今は隣の部屋で休ませてるが、お前の傍から離れようとしなかった」
「あ……! そういえばあいつ、無事ですか!?」
思い出したように遼平はそう訊いた。事故の瞬間の記憶が瞬時に蘇ったのだろう、自身が身を挺して助けただろうはずの紫苑はどうなったのか、怪我はなかったのか、もしも完璧には守り切れなかったとしたらどの程度の容態なのか、次々と訊きたいことがあふれ出す。
「大丈夫、お前があいつを懐の中に抱え込んで守ったんだからな。紫苑はかすり傷程度で軽傷だったぜ」
「あ……そうでしたか」
心底、安堵したように大きく息を吐いて、ホッとした表情を隠さない。そんな様が”遼平”という彼の性質を体現しているようにも思えて、それは独特の――鐘崎遼二とはまたどこか違って、もっと穏やかともいうべきか、落ち着きが感じられるようでもある。遼二の場合はもう少し子供っぽいというか、やんちゃな感が強い性質だからだ。そんなところに二人の違いがはっきりと見て取れるようで、氷川にはそれがとても嬉しく思えていた。
「あれから四日もお前が目を覚まさねえから、ヤキモキさせられたぜ。とにかく良かった! 今、紫苑を起こして来るから待っとけ!」
氷川はそう言って、未だに握り締めたままだった掌に気付き、少し照れ臭そうに微笑んで見せた。
「心配させやがって……!」
「……すい……ません」
「とにかくゆっくり治療して怪我が治ったら、その分しっかり歌にも打ち込んでもらわねえとな?」
「あ……はい。はい、もちろんです……あの……氷川さん、俺ら……」
そういえばまだきちんと謝っていないことに気が付いて、遼平は突如焦ったように視線を泳がせた。いろいろあり過ぎて、すっかり脳裏から抜け落ちていたが、事務所を辞めるだの何だのといって、この氷川に楯突いて飛び出してしまったのはほんのわずかに数日前のことなのだ。
そんな思いが伝わったのか、氷川は少し悪戯そうに笑うと、
「俺も意地を張り過ぎてたところがあったしな? まあ、これからはもっと素直になれるように努力するさ」
だから何も気にすることはない、お互い様だ。そんなふうに言われているようで、遼平は驚きで瞳をパチパチとさせてしまった。そこにいるのは確かに氷川なのに、今までとは酷く印象が違う。いつもの仏頂面はなく、固い印象もなく、とびきり穏やかで朗らかな笑顔、そのどれをとってみても別人のように感じられる。だが、よくよく思い返してみれば、乱闘のあった倉庫に助けに来てくれた時の氷川もこんな印象だったのを思い出した。
『倫周一人で先に行かせるのは心配だったが――でもお前らもいるし、大丈夫だとは思ってたぜ』
そう言った氷川の笑顔は不敵で、だがものすごく厚い信頼を置いてくれてもいるようで、何とも言い難い絆のようなものを感じたのは確かだったからだ。
今までは年齢も立場も随分上という感覚が強く、何だか近寄り難かった氷川が、急に近しい存在になったようで、それは何だかこそばゆくもあり、そして何よりも不思議な程に安堵感を感じさせてくれるものでもあった。そんな感覚が嬉しくて、遼平は訳もなく幸福感に包まれるのを感じていた。
「氷川さん、俺……いや、俺ら、がんばります! これからもよろしくお願いします」
真摯な言葉や態度が、やはり”遼二”とはどこか異なり、彼が”遼平”なのだということが改めて幸せに感じられる。何だか心の中で宝物が倍増したような幸福感をひしひしと感じていた。
「とにかく紫苑に知らせてやらなきゃ。ちょっと待ってろな?」
氷川はまたひとたび、とびきりの笑顔でそう言うと、急ぎ部屋を出て行った。紫苑が休んでいるのはすぐ隣の部屋だ。今は帝斗と倫周が付き添っているはずだ。
昨夜から少し寝かせたので、もう起こしても差し障りはないだろうと思い、逸る気持ちを抑えて部屋を出た――その時だ。
廊下の壁に背をもたれた紫苑本人が既にそこにいるのに気が付いて、氷川はハッと目を見張った。
「紫苑……起きてたのか! 今、知らせに行こうと思ってたんだ。遼平の意識が戻って……」
そう言い掛けながら、語尾にいくに従って言葉が出なくなる――紫苑の様子に違和感を感じたからだ。
遼平の意識が戻ったことを告げても格別には驚いた様子もなく、また、飛び上がって喜ぶわけでもない。壁にもたれながら落ち着いた調子で、よくよく見ればその口元には僅かだが笑みさえ伴っているように感じられる。それも、単なる笑みではなく、随分と余裕を感じさせる雰囲気だ。まるで、遼平の意識が戻ったことを既に知っているとでも言いたげなのだ。
そんな様が変に思えて、氷川は眉根を寄せた。
「紫苑……? おい……」
もしかしたらまだ精神状態が不安定なのだろうか、ふとそんな焦燥感が過る。だが、そうではなかった。
もたれた背をゆっくりと壁から離し、こちらに向かって一歩、二歩と距離を詰める仕草に、いつか何処かで知っていたような懐かしさがこみ上げたからだ。まばゆい程の朝陽の逆光でその表情は掴みづらいが、とある心当たりがよぎり、一気に心拍数が加速した。
「紫苑……?」
彼の様子を覗き込むように少し顔を傾げたその時だった。
――――!
突如、すっぽりと胸元に収まるかのように紫苑が抱き付いて来たのに驚かされた。
「おい……どした? 紫苑?」
自分よりも僅かに背の低い紫苑のやわらかな髪が頬に当たり、戸惑いながらも視線をやれば、朝陽に照らし出されて金糸の束のように見える髪がふわふわと揺れている。まるで胸元に顔を埋めるようにしてしっかりとしがみ付き、背中に回された彼の両腕がぎゅっと力を込めて自らを抱き締めてくる。
「ありがとな、氷川」
極め付けのその言葉を聞いた瞬間に、驚きよりも先に、思わず涙腺にツンとくるような刺激を覚えた。
「ま……さか……お前……?」
つい今しがた、彼の相棒の鐘崎遼二に会ったばかりだからなのか、今、自分の胸元に顔を埋めて寄こすのが”一之宮紫月”なのだということを本能が悟ったのだ。
無意識に、氷川は腕の中の彼を抱き締め返していた。
「一之宮……だな? 本当に……お前……」
「ああ――」
「いっ……」
思わずガバッと抱擁を振り解き、逸る気持ちのままに腕の中の彼の顔を覗き込んだ。
「今……たった今、カネに会ったばかりだ……」
「ああ、知ってる」
大きな瞳を僅かに細めて穏やかに笑う。
「……ほんとに……こんな……」
未だに首を傾げて彼の顔を覗き込んだ状態のまま、視線を外せず、瞬きさえままならずといった調子で、氷川は目の前の存在にしばし言葉を失ってしまった。
「……なん……て日だ……! 俺は……こんな……こんなことって……」
懐かしさも悲しみも苦しみも切なさも、二十年分の万感極まって、とてもじゃないが言葉になどなってくれない。
――もう思い残すことなどない。
そんな気持ちを代弁するかのように潤み出した涙を隠すことも拭うことも忘れて、しばらくはそのまま動くことさえできなかった。
「バッカ……泣くヤツがあるかよ。お前らしくもねえ」
言葉とは裏腹に、とてつもなくやわらかな笑みで『彼』は言った。それと共に、あふれてとまらない涙を拭ってくれるかのように形のいい指先が触れ、その感覚はひやりと冷たくて、早春の朝の冷気を感じさせる。身体は硬直したまま、ようやくのことで視線だけを動かし、氷川は目の前の男を見つめた。
「まだ早えぜ、氷川」
(え――?)
「今のお前、もうこの世に思い残すことはねえってなツラしてる」
クスクスとからかうように微笑まれた口元から懐かしい言い回しが飛び出して、心臓が鷲掴みにされる思いでいた。紫苑よりも落ち着きを伴った低めの声音と、独特のクセのある言い回し――間違いなく目の前の彼は一之宮紫月だ。
「どうしたよ? 遼二とは話せたんだろ?」
なら何故、自分を見てそんなにも驚いているんだとでも言わんばかりだ。氷川は濡れた瞳をグイと拭い、鼻をすすりながら、やっとのことで相槌を口にした。
「……もちろん……話したさ。だからこそだ。カネだけじゃなく……お前とまでこうして会えるだなんて思ってもなかった」
「だよな?」
目の前の彼はまたひとたびやわらかに笑い、そしてこう続けた。
「遼二の野郎がどうしてもって聞かねえからよ。今、遼平と紫苑に手を差し伸べてやらなきゃ、俺らの二の舞になっちまうっつってさ。天国のじいさん連中にお咎め食らうの覚悟で抜け出して来たんだ。……っつっても、こんなこと――ああそうですかって簡単には信じらんねえような話だわな?」
そう言って笑う。彼の口から出るひと言ひと言が懐かしさで全身を埋め尽くすようだ。嬉しくて、幸せで堪らなくて、言いようのない感動で背筋がゾクゾクと震えるようだった。
「なぁ、一之宮……」
「ん?」
「俺は今まで神様なんてのは信じたことなかったが……いや、それ以前に神様がいるとかいねえとか、そんなことは考えたこともなかったって方が正しいか、けど今なら信じられそうだぜ。こんな幸福はねえ――何だかもう……この世のすべてにありがとうって叫びてえ気分だ」
「はは、お前がそんなこと言うなんてさ」
「ガラじゃねえってか?」
「ああ。ぜってー拝めねえだろうってくらいの、お前の違った一面を見られて得した気分かな?」
悪戯そうに微笑いながらそう言う彼に、氷川はとびきり瞳を細めて微笑んだ。それは誰にも見せたことがないようなやさしい表情で、おそらくは氷川本人でさえ、誰かに対して自身がこんなにも穏やかな微笑みを向けられるなど、自覚したこともなかったのでは――と思わせる程のものだった。
「幸せそうで安心したぜ、一之宮」
やっぱりお前はカネの傍で微笑ってるのが一番合ってる、そんな思いのままに、今一度彼をすっぽりと包み込むように抱き寄せた。
「こんなふうにしてると、カネにまたヤキモチ焼かれるかもな?」
氷川は楽しそうに言いながら抱擁を緩めると、
「果し合いならいつでも受けて立つ。またいつか――あの時みたいに三人で勝負しようぜってカネにそう言っとけ」
未だ鼻をすすりながら、とびきりはにかんだ笑顔で微笑んだ。
「ああ、ちゃんと伝えとくぜ。氷川――ほんとにありがとな! 昔も今もお前には助けられてばっかりでよ、お前に会えてほんとに嬉しいっつか、感謝してる。ほんとに……何度ありがとうっつっても足んねえくらい」
「ああ。ああ、どういたしましてだ。カネにも頼まれたが、これからも遼平と紫苑のことはガッツリ面倒見てやるつもりだから、もっともっと感謝してくれよ?」
「あ……ははは! そうだな、よろしく頼むぜ!」
「ああ、任せろ」
とどまるところを知らない楽しい触れ合いに後ろ髪を引かれつつも、氷川はハタとそこで会話を止めると、今一度、目の前の彼を見つめた。
「さあ、遼平が待ってる。カネもきっとヤキモキしてお前の帰りを待ってるだろうよ?」
そろそろ行けというように、うながした。その思いに応えるように、一之宮紫月は今一度大きな懐に顔を埋めると、名残りを惜しむかのように瞳を閉じる。
「じゃ、またな氷川――」
抱擁を解き、すれ違いざまにポンと一度肩を叩き、彼にとって最愛の男の待つ病室へと一歩を踏み出す。まぶしい朝陽を背中いっぱいに浴びた彼は、その光の中に吸い込まれるように消えて行った。
そして、遼平が待つ隣の部屋の扉を開ける間際に、こちらを振り返ってはペコリと頭を下げてみせた。その仕草に、今度は『一之宮紫月』ではなく『紫苑』を感じて、氷川はその一部始終を心に焼き付ける思いで見つめていた。
ふと、背後に気配を感じて振り返ると、そこには同じように感極まった表情でいる帝斗と倫周が佇んでいた。
「何て奇跡だろうね? こんな幸せな日が来るなんてね」
ああ、そうか。彼らもきっと『紫月』と会えたのだろう。
「そうだな。本当に――すげえ」
三人は互いを見つめ合い、至福を分かち合うように誰からともなく手を取り合った。
◇ ◇ ◇