春朧
「ところで君たち――今からちょっと時間あるかい?」
もし良かったら皆に案内したい場所があるんだけれど、とそう言って帝斗に連れて行かれた場所――それを目にした瞬間に、遼平と紫苑は言葉にならないくらい驚かされることとなった。
◇ ◇ ◇
卒業式を三日後に控えていることもあって、社長の帝斗から式が済むまでの間は川崎の実家で過ごして来いと言われた遼平らは、とりあえずの荷物だけを持って東京の事務所を出た。帝斗が案内したい場所というのも川崎らしく、それならと春日野と徳永も帰りがてら同行することになった。
着いた所は埠頭の倉庫街――ここからだと遼平と紫苑、そして春日野の通うそれぞれの学園へも歩いて行ける距離だ。天井の高く、だだっ広いその倉庫に入った瞬間に、遼平と紫苑は何とも言えない表情で内部を見渡した。
「ここ……」
「俺らの学園の近くだよな……?」
何故こんな場所に連れて来られたというのだろう、二人は不思議顔で帝斗を見やった。
「キミらのプロモーションビデオだが、どうせなら初のライブがてら発表するのもいいんじゃないかと思ってね」
二人はビックリしたように互いを見合う。
「ライブ……?」
「それって俺らの……ですか?」
突然の夢のような話に、嬉しいよりも驚きの方が先立ったような顔で呆然状態だ。そんな様子に微笑みながら、帝斗は言った。
「ここがその会場。キミたちの初ライブはどうしてもここでやりたかったんだ」
その言葉に、先程とは違った意味で驚かされる。普通、ライブといえばライブハウスか、もしかしたらもう少し大きな会場でやらせてもらえるのかと期待してしまったのは正直なところで、だからまさかこんな倉庫で行うと聞かされては戸惑いを隠せない。未だ不思議顔でいる二人を前に、帝斗はやわらかに苦笑してみせた。
「本来、ライブをやる場所ではないのは重々承知さ。でもね、ここは白夜にとって特別な場所なんだ――」
それを聞いて、倫周から教えられていた話を思い出した。二十年前に氷川と鐘崎遼二、一之宮紫月の三人が番を張り合ったという例の場所――もしかしたらここがそうなのではないかと思ったのだ。それは直後の帝斗の説明からも理解できた。
「この倉庫はね、二十年前に白夜が遼二と紫月の二人とタイマンを張った思い出の場所なんだそうだよ」
やはりか――
だが、それを聞いた瞬間に、ドン――と、何か重く太い鋼のようなもので心臓を貫かれるような気がした。
「タ……イマン……」
「氷川さんと……例の二人が……ここで……」
遼平も紫苑も瞬きさえ忘れたような面持ちで、発する声も嗄れて上手くは言葉にならないようである。
「紫月が亡くなる際にね、最期のその瞬間まで、この倉庫での勝負を懐かしんでいたそうなんだ。いつかもう一度――ここで三人で勝負しようって、すごく嬉しそうに言いながら息を引き取ったんだそうだよ」
目頭に――訳もなく熱いものがこみ上げてくる。と同時に、胸を鷲掴みされるような切なさが二人を襲った。
「この倉庫は元々老朽化していてね、本当なら二十年前に壊される予定だったらしい。白夜はそれを買い取って、ずっと手入れをしてきたのさ。ここだけは何があっても失くすわけにはいかない、そう言ってね。今でも年に数回はここへ来て、自ら補修作業をしているくらい。だからキミたちのライブはどうしてもこの場所からスタートさせたかったんだ。勿論、その後はもっと設備の整ったきちんとした会場で……」ライブ活動が行えるようにしていくつもりだから安心して――帝斗がそう言い掛けた時だった。
「俺……知ってる……」
カタカタと肩を震わせた紫苑が、突如としてその大きな双眸を潤ませた。
「紫苑? どうした?」
遼平が抱き包むようにして覗き込むも、紫苑の視線は遙か一点を見つめて開かれたままだ。瞬きさえ惜しいというように、彼は倉庫入り口の扉を見つめていた。
「そうだ、あの日……俺はあいつと、つまんねえことで痴話喧嘩してた……。大好きだったのに……些細なことで……素直になれなくてすれ違ってた。そん時に氷川に出くわしたんだ」
まるで何かに取り憑かれたように倉庫入り口の一点を見つめたままで、紫苑は続けた。
「あの頃、俺と遼は喧嘩してて……殆ど口も聞かない日が続いてた……。放課後も別々に帰った。その隙を突かれて、桃陵の連中が汚え手口で遼を嵌めたんだ。俺らが一緒に帰ってたら、あいつはあんな目に遭わずに済んだんだ……」
紫苑の脳裏に遙か昔の初夏の日の出来事が、湧き出る泉の如く蘇る――
自分とそっくりの男、多分彼が一之宮紫月なのだろうか、不機嫌顔でいる。一等信頼を置いていたはずの相方は――おそらく彼が遼平と瓜二つの鐘崎遼二なのだろう、彼も気の重そうな表情で、二人は互いを気に掛けつつも避け合うような日々が続いている。そんな光景が酷く鮮明な映像となって紫苑を包み込んでいった。
日頃から因縁関係にあった桃陵学園の不良連中にとって、遼二と紫月という二人は目障りな存在だったのだろう。仲違いで二人が離れている隙に、一人ずつ罠に嵌めて潰してしまおう――事の発端はそんなことだったように思う。
”遼二”は彼らによって襲撃され、大怪我を負い、数日の入院を余儀なくされてしまったのだ。
その遼二が退院の日のことだ。いい加減、避け合うことにも疲れた。素直になって彼を迎えに行こう、そう思い病院へと向かった。だが、そこでまたしても二人の溝が開いてしまうような出来事に出くわしたのだ。
遼二が襲撃を受けた際、桃陵の連中が囮に使ったのは近隣校に通う一人の女子高生だった。無論、遼二とは何の面識もない女だ。単にその女を盾に取り、正義感の強い遼二を袋叩きにする為の餌にしただけなのだが、庇ってもらった彼女にしてみれば、遼二に好意を抱くには充分な出来事だったといえる。入院中も毎日のように見舞いに訪れる彼女の姿を目にする度に、モヤモヤとした気持ちが”紫月”を襲ったのは想像に容易いことだ。
退院の際も紫月が病院へ迎えに行くと、既にその彼女が一足先に訪れていた。当然、紫月にはショックだったことだろう。そこで聞いた彼女のひと言、それが引き金となって紫月は遼二を罠にかけた桃陵生への報復を決意したのだった。
「またあの不良の人たちがあなたを待ち伏せでもしに来たら困るから……。だから私の母の車であなたを家まで送りたくて来たの」そう言った彼女の言葉に同調するように、彼女の母親も似たようなことを口にした。
「そうですよ。ああいう悪い子たちは何をするか分かりませんもの。どうぞうちの車に乗っていらしてください。この子があなたのことを心から心配するものですから、私としてもあんな不良の子たちからあなたを守らなければと思いましてね」いけしゃあしゃあと鼻高々といった調子でそんなことを口走る母娘を見て、身体中の血が逆流するような思いに陥った。
あいつの背中に隠れて守られて、あいつを平気で盾にしやがったくせに――!
そうは言えども、か弱い女のことだ。桃陵の不良連中に囲まれ脅されて怖かったのだろうことは分からないでもない。だが、遼二が彼女を守ろうとして暴行を受けていた際に、この女は怖さからか自分だけその場を後にしてしまったのだ。一先ずは逃げて警察に駆け込もうと思った、彼女は後になってからそう弁明したようだが、結果として遼二を置いて逃げたことに変わりはない。その場で通行人に助けを請うことだってできたはずだ。紫月にしてみれば到底許せることではなかった。
そんな女が今まさに上っ面だけは尤もなことを言ってのけている。しかも遼二に好意を抱いているのも見え見えだ。紫月を突き動かすには十分過ぎる出来事だった。
本来、報復よりも先に遼二の容態の方が優先だった。大事な親友をこんな目に遭わせた桃陵の連中にお礼参りを――と、全く考えなかったわけではない。だが、そんなことをして何になるというのだ。それよりも何よりも怪我を負った彼が快復することが何より先決だ、そう思って自分を抑えてもきたのだ。無論、煮え滾る怒りを持て余していたのは言うまでもないが、それでも必死にそんな気持ちを抑えてきた。
それなのに――!
一番辛いのは遼二だ。そしてそれは自らにとっても同じこと。あいつの痛みは俺の痛みでもあるのだから。俺たちは一心同体というくらい強い絆で結ばれているのだから――
あいつを盾にしたてめえらなんぞに送ってもらわなくてもいい。要は桃陵の連中を遼二に近付けさせなければいいだけのことだ。
この俺が――遼二の傍にいるということがどういうことなのか思い知らせてやる。桃陵の奴らなど一人残らず叩きのめしてやる。誰であれ、あいつに指一本触れさせるもんかよ――!
そんな思いで駆け付けた埠頭の寂れた倉庫街。ここはいつも彼らが授業をサボってたむろしているとして知れた場所だ。病院へなど行かせない。遼二の退院を待ち伏せなんかさせやしない。その前に全員叩き潰してやる!
慟哭の焔が紫月の中でユラユラと点り、燃え、今にも爆発寸前であった。
「誰か……ッ! 大変だ! 四天の……っ、一之宮がー……! 一之……がっ!」
外で見張りをしていたらしい下っ端と思われる男たちが数人群れていたので、先ずはそれから潰していく。わめきながら仲間に助けを請う男をとっ捕まえて、次から次へとその場に沈めていった。
倉庫内に入れば、そこにはもっと大勢の軍団がたむろしているのが視界に入る――。
「随分と汚ねえことしてくれたじゃねえかよ? その上なんだ? こんな真っ昼間っからコソコソとこんな所に集まって? 次は何の相談だよ!」
つい先刻、病院で遼二を待ち伏せする云々という話題を例の母娘がしていたのが頭にあるせいでか、まさか図星だったのかと思うと、より一層の怒りを煽られたような気分にさせられた。
「俺ん相棒にちょっかい出してくれた礼をさせてもらうぜ。ついでに二度とそんな気が起きねえように、しっかり身体に叩き込んでやるわ」
そう吐き捨てた、その時だった。蒼白な表情で固まっている一団の中に、見知った顔を見つけたのだ。一団の中でも頭半分か一つ分は飛び抜けた長身の、そして物静かだが醸し出す雰囲気は他の連中とはまるで違う男。彼こそが『桃陵の白虎』という通り名を持つ程の氷川白夜という男だった。
「てめえ……氷川? へぇ、こいつぁ意外だな。まさかてめえが絡んでたとはね?」
氷川といえば、桃陵の不良たちの中でも頭を張っていると言われる程の男だ。街中で何度か見掛けたこともある。多少だが口をきいたことも――。
その際の雰囲気からして、この男だけは下っ端でイキがっているだけのチンピラ連中とは一線を画しているように感じていた。不良の頭だなどと言われてはいても、彼ならばむやみにつまらない小競り合いに進んで突っ込んで行ったりはしないだろう、そんなふうに思ってもいた。要は互いに暗黙の了解で、どこか敬服し合えるところのあるだろう相手と思っていたのに、まさかこのチンピラ連中に混じっているなどとは意外も意外だったのだ。
だが、まあこの場に居るという事実が答えなのだろう。そう思って氷川ごと打ち砕いてやるつもりで睨みをきかせた。すると、慌てた下っ端連中がすかさず間に割って飛び込んできた。
「ちょい待ちっ! 待ってくれ……! この人は……、氷川さんは今回のことに関係ねえんだよ!」
「はぁ!? ここまできて庇い合いなんてみっともねえことすんじゃねえ!」
「違うっ! 庇ってなんかねえんだって……! ホントに氷川さんは知らねんだっ! アンタの仲間の……鐘崎をヤったのは俺らで……氷川には今、初めてそのこと打ち明けたばっかなんだ」
必死の形相でそう訴えてくる男の背後で、氷川本人は落ち着き払った様子で佇んでいるだけだ。若干困ったなといったような呆れ気味の表情ながらも、特には何の弁明もしようとはしない。そんな様子を一瞥しながらも、今しがた氷川を庇った男の目の前へと歩み寄り、
「ふん、ならとっとと失せろ! 遼二をヤったのは誰だ。俺が用あんのは遼二にちょっかい出した奴だけだ」
「え、……あ、だからそれは……俺と……」
「てめえと? あとは誰だ」
そう言うか終わらない内にドカッとその男の腹を蹴り上げた。
「ぐわっ……ッ!」
呻き声も消えない内に襟元を掴み上げ脇腹に一発、そして背中側からもう一発、最後に首筋から肩にかけてもう一撃を加えると、ズルリと崩れ落ちた男の身体を靴先で蹴り飛ばしながらギロリと周囲を見渡した。
「おら、次は誰だよ! 俺ン相棒をヤッたの、誰だって訊いてんだッ!」
既に身動きできずに足元で転がされている仲間の姿に、その場がシーンと静まり返る。表の様子からしても、たった一人で全員をのめしてきたことは明らかで、それ以前に彼から発される独特のオーラと殺気に押されるといった感じで、桃陵の一団は揃って蒼白となってしまった。
「てめえはっ!?」
「……わっ! ……や、俺はっ……」
「ヤったのかヤらねえのか!? どっちだっ! ああッ!?」
また一人、掴み上げられた仲間を目の前にして、残った仲間たちは成す術もない。恐怖心の裏返しか、他に選択肢はないと覚悟を決めたのか、一同が体当たりで迎え打たんと身構えたその時だった。
「よせ――」
皆の間に割って入ったのは、それまで静観していた氷川だった。
「氷川さんっ……!」
「てめえらには無理だ。全員でよってたかったって勝ち目はねえよ」
「けどっ……!」
いいから下がってろと言わんばかりに顎先で追いやられて、一同は瞬時に後退った。氷川に庇われたことで、半ば安心したように胸を撫で下ろしているような者もいる。そんな様子に激怒させられたのは言うまでもない。
「何だよ、てめえは関係ねえんじゃなかったのかよ! それとも、ふがいねえこいつらの代わりにてめえが相手ンなるってか!?」
そう怒鳴った。