春朧

新しい季節へ 5



 傍に来ないでくれ、俺を見ないでくれ、こんな格好見られたくはない、頼むから――!

 痛恨の思いで愛しい男を見つめた。
 だが、見つめただけで何もできない。氷川の拘束から逃れることもままならない。
 
「ふ……ざけやがって……てめえっ、許さねえっ……!」
 その叫びと同時に彼が氷川をめがけて突進してきた。完全に治りきっていない怪我も傷の痛みもどうでもいい――怒りなどという言葉では表せない程に煮え滾る激情をそのままといった調子で、遼二が氷川へと体当たりで突っ込んで来るのが、コマ送りの映像のように切り取られては砕けていく。
「……っの野郎っ! ……ブッ殺してやるっ……!」
 どう攻撃をするかとか、どう打ちのめしてやろうかとか、そんなことはどうでもいい。コントロールのきかないまま、何をしているかも分からないままに、拳を振るい蹴りを食らわせ、だがやはり退院したばかりの状態では敵うはずのないということなのか、一撃で氷川に沈められる彼を目にしながらも、何の手助けもできずにいる。
「無駄だ。怪我が治りきってねえそんな身体で無茶したって勝ち目はねえよ」
 地面に這いつくばる彼を目の当たりにし、土埃の味のする唇を噛み締めながら、頭上から降りてくるそんな言葉が耳を掠めるのを苦々しい思いで聞いていた。
 すぐ側では、激痛に悶えながらも必死でここまで辿り着かんと手を伸ばしてくる愛しい男の声が苦しげに呻いている――
「……ひっ、氷川ー、何で……てめえが、こんなトコで……どう……して」
「別に。俺だって好きこのんでこうしてるわけじゃねえ。ま、簡潔に言えばこいつがさ、一之宮がお前の仇討ちに乗り込んできた流れでこうなってるってとこかな」
「仇……打ち? ……って、紫月……! ッカヤロ……お前っ、勝手にンなことしや……がって」
 苦しげに腹を抱えながら遼二はそう言った。
「遼二! おい遼……ッ!」
 一度は立ち上がらんと膝を立てたものの、すぐにまた地面に崩れてしまった遼二が気掛かりでどうしようもなくて、狂気のような声を上げてその名を叫んだ。
 苦しげに歪められた表情、土埃に汚れた頬、乱れた髪、前の傷も相まってかボロボロにのめされたように映るその姿に、心臓がもぎ取られるようだ。なのに後ろ手に縛り上げられた自身の両腕は言うことをきかない。日頃、家の道場で鍛えている精神も技も肝心なこんな時に役に立たない。歯がゆさが募ってどうしようもない感情を持て余し、ただただ叫ぶしかできなかった。
「てめえ、氷川ッ……! 遼二をよくも……マジ、ただじゃ置かねえッ……!」
 両腕の拘束を外そうとガシガシともがけども、氷川は依然、口元に薄い笑みを浮かべた余裕の態度を崩さない。それどころか、
「まあとにかくそーゆーことだから。せっかく駆けつけてくれたところ悪いが、こっちはまだお楽しみの最中なんでな。続きやらしてもらぜ? そこでゆっくり見学でもしてるんだな」
 地面に這いつくばっている遼二の頭上へと容赦のない言葉を投げつけた。
「ほら一之宮、ギャラリーも揃ったことだし、しっかり見せ付けてやろうか」
「……っなせ! 放せっつってんだよ、クソ野郎ッ! てめ、マジでいい加減にしねえと、ただ置かねえぞ!」
 威勢よく怒鳴り上げるも、氷川にとってはハッタリにしか映らないのだろう。わざと見せ付けるように濃厚に拘束してくる。
「……め……ろっ! や……めろっつってんだ、クズ野郎がッ!」
 拉致のあかないそんなやり取りを幾度か繰り返し――、次の瞬間だった。瀕死の身体を引き摺って、いつの間に立ち上がったのか遼二が氷川を突き飛ばし、その手管から守るように自分を抱き寄せて覆い被さってきたのだ。そのまま、まるで親鳥が雛を保護する如く、腹の下に抱え込まれて驚いた。
 遼二は、おそらく既に氷川と対等に戦える力が残っていないと悟ったのだろう。最後の手段か、彼自身の身体全体を盾にしてでも守り抜くといった決死の覚悟のようなものがひしひしと伝わってきた。
「……紫……っ」
「遼二、てめ……ッ、何やって……」
「う……ごくな……このまま、じっと……してろ……」
「――!?」
 側では遼二によって突き飛ばされた氷川が「よっこらしょ」というように立ち上がると制服についた土埃を余裕の仕草で払いながら、ゆっくりと歩み寄って来る気配を感じた。そしてまた、頭上からの冷淡なひと言が降り注がれる――
「ンなことして守ってるつもりか? ヘタすりゃ、てめえごとそいつもお陀仏だぜ?」
 今までの薄ら笑いとは違う、ドスのきいた低い声のトーンに敗北感を痛感させられる。だがこれ以上他に方法は無いといったようにして、遼二はその場から微塵たりとも動こうとはしなかった。
「何してんだ遼ッ! どけバカッ! ……ンなことしたらてめえが……っ、てめえがイカれちまうっ!」
 必死の説得の言葉が掠れて空を切る――
 このままでは彼が潰されてしまう。氷川に本気の蹴りを食らったが最後、既にズタボロ状態の彼は瀕死では済まないだろう。そう思って、気が違うほどに叫んだ。
「退けっつってんだッ! 遼二ッ! 頼むからっ……! 今すぐ俺から離れろっ! どけーーーッ!」
 持てる力の全てで自らに覆い被さっている彼の身体を蹴飛ばすように払い除けようとしたが、脱がされかかったズボンが脚に絡まり、邪魔をして思うようには動けない。遼二はその力ごと封じ込めるように更に体重を加えると、ますますもってガッシリと腕の中へと抱え込んできた。
 その直後、彼が放ったひと言が脳裏を飛び越えて身体全体を貫くかのようにこだました。

「誰が……どくかよ……。誰がてめえに……指一本触れさせるかってんだよ……っ! お前に何かあったら……何か……されたりしたら――俺はきっと気が違っちまうだろうぜ……。お前をこいつにどうかされるくらいなら――死んだ方がマシだ」

 こみ上げる万感を必死で抑えるかのようにそう云われた言葉と共に、ボロリと頬を伝った遼二の涙の雫が自らの唇へと流れ伝ってきた。



◇    ◇    ◇



 倉庫の中にひとたびの静寂が過ぎる――

 氷川の靴はまだ彼の背中を踏み付けたまま動かない。一撃で終わりにできるはずなのに、まるで自分たちの会話を静かに窺っているかのように――動かないままだ。

「紫月……俺はさ、お前が大事だぜ……。紫月――お前だけが……何よりも……! この世の誰よりも、何よりも――」



 そう、てめえの命よりも大事なんだぜ――?



 そう言って微笑んだ。涙に濡れた漆黒の瞳がすべてを物語っていた。苦しげに掠れた吐息まじりの言葉を呟いて、そのまま唇が重ねられる――。
「……バカ……野郎、何……やってんだよ、こんな時に……お前ってホント……」

 馬鹿な野郎だ――

 だけどこうされてすごくうれしいと感じている自身も同じに馬鹿な奴だ。
 もうどうなってもいい。例えこのまま氷川にのめされても、お前とこうしていられるのならば、どうなっても構わない気がする。

 こんな時になってやっとの思いで解けた腕の拘束を振り払って、遼二の背中へとしがみついた。そのままギュッと抱き締め返して、重ね合わされていた口付けを受け入れた。むさぼるように受け入れた。

 もういい、お前と一緒ならばどうなったっていい――!

 そう思った次の瞬間だった。彼を踏み付けていた氷川の気配が突如としてやわらかなものに変わったのをはっきりと感じた。
「――ったく、見せ付けてくれんじゃねえかよ! お陰でこっちはすっかり萎えちまった」
 呆れ気味にそう呟く氷川の顔を見上げれば、酷く嬉しそうに、そして突き抜ける青空の如く爽やかな感じで笑っていた。
「ま、お前らの痴話喧嘩も無事におさまったみてえだし? 俺はそろそろ退散さしてもらうぜ」
 そして去り際にもうひと言を付け足した。
「カネ、果し合いならいつでも受けて立つぜ。その代わり――」
 その代わり――?
「その代わり、そんときゃ今日みてえに一匹づつじゃなく二匹まとめてかかって来い」
 ニヤリと笑みながら去って行く後ろ姿を、二人肩寄せ合って見送ったのだ。

「……ったく、あの野郎……どういうつもりだってんだよ……?」
 何だか狐につままれたような気分にさせられる。氷川が何をしたかったのか、それ以前に勝ちを目の前にして何故あっさりと立ち去ってしまったのかが理解できない。呆然とする遼二を横目に言った。
「最初っから何もするつもりなかったってことじゃね? それどころか、むしろ俺らの仲直りの仲裁してやったくれえに思ってっかも知れねえな。わざと俺に変態行為して、お前を挑発すんのを面白がってるみてえだったからな」
「はあ!? 何だよ、それ……! って、痛たたた……」
「おい、大丈夫かッ!?」
「ああ……平気」
「氷川の野郎、俺らが仲間割れしてんのが原因で桃陵の連中がお前を襲ったとかって、そんなこと抜かしてやがってよ。――ったく、何誤解してんだか。とんだお節介野郎じゃんか!」
「仲間割れって……」

 ふっ――、と互いを見つめ合う視線の間に沈黙が流れる。一瞬途切れた会話を打ち破るかのように口を開いたのは遼二の方からだった。

「ごめんな、紫月――」
「――え?」
「やっとお前と……ちゃんとこうして向き合えた。こんとこ、ずっと……意地張ってて……悪かった」
「遼……」
「バカだよな、俺ら」
「ん、お前は何も悪くねえよ……。バカなのは……俺だ。謝んなきゃいけねえのは――素直になれなかったのは――俺ン方……だ」
「お互い様ってやつだな?」
 そう言って微笑った。ズタボロで、傷だらけの彼の笑顔に心臓を鷲掴みにされた。あまりにも愛しくて、あまりにも格好良くて、高鳴り出す心拍数を抑えられなかった。もう二度と、痴話喧嘩などするものかと思った。
 そして二人、見つめ合い、微笑み合い――抱き合った。固く固く、もう二度と解けないくらいに固く抱き合い――。

「遼――」
「……ん、何だ?」
「俺、今日のこと――忘れねえ……」

 この先、どんなことがあっても、またしくじって喧嘩をすることがあったとしても――
 ぜってー忘れねえよ――!

 強く、強くそう思った。こぼれそうになる涙を必死で堪えながら心の中で誓った。生涯、この男の傍を離れない。ずっと、何があってもずっと共にいると――固く固く誓った。

――一部始終が脳裏を巡る。
 二十年という月日を飛び越えて、今ここに、あの頃を生きただろう自分たちの姿が鮮明に蘇る――
 その瞬間に、紫苑の瞳からはボロボロと止め処なく涙がこぼれて落ちた。
「知ってる……思い出した……。氷川と俺とお前と……ここで――」
 そう、この日のこの出来事は人生最期の瞬間にも思い出した程の大切な大切な、今生で何よりも大切な記憶であった。



(……楽しかった……よな……またやりてえな……お前……との対番……
 あの……倉庫で……また……。

 そうだ、今度こそ絶対に負けない。あの埠頭の、煉瓦色の倉庫でもう一度。
 輝いていたあの春の日に戻って、必ず拳を交わし合おう。
 次は必ず勝って、これで相子(互角)だと微笑み合おう。
 氷川と俺と、そしてお前と一緒に三人でもう一度――

 なあ、遼二よー――)



「ここで……お前が俺を……守ってくれた……。てめえの身体、盾にしてまで……俺を……! 嬉しかった……ぜってえ忘れねえって思った。氷川は俺たちの仲を知ってて……ヤツなりの方法で応援してくれてたんだ……。だからって俺に手ェ出すマネするなんて許せねえって、すっげえ気障野郎だって、遼はブツブツふくれてたけど……でもちゃんと分かってた。氷川が俺らを仲直りさせる為にわざとあんなことしたんだって……」

 そう、忘れもしないあの初夏の日――
 人生で何よりも大事で、一番嬉しくて、一等輝いていたあの日――

「遼……、遼二……ッ、全部、全部……思い出した――」

 しゃくり上げながら泣き崩れた身体ごと包み込むように、遼平は紫苑を腕の中へと引き寄せ、抱き締めた。
 天高い倉庫から差し込む午後の日射しに照らされながら、それはまるで二十年という時を超えて――かの時代に舞い戻ったかのように――固く、強く、二人は抱き締め合ったのだった。



◇    ◇    ◇



 遼平が紫苑同様に当時のことを思い出していたのかは定かではない。
 紫苑の脳裏に巡った記憶も、果たしてそれが本当に二十年前に起こった真実であったかどうかも――定かではない。
 例えばそれが、あの倉庫が見せた幻であったとしても構わない。自分たちが二十年前に亡くなったという鐘崎遼二と一之宮紫月の生まれ変わりであるにせよ、ないにせよ、心の中に生まれ出でた思いは、しっかりとした記憶として刻み付けることができたのだから。
 遼平も紫苑も、ここしばらく彷徨ってきた闇から抜け出せたような、やっと大切な何かに辿り着けたような心地でいた。切なさを思い出し、だがそれを分かち合える大切な仲間が側にいることの幸せを思い知り、心は――、気持ちは――とても穏やかで、そして晴れやかだった。

 歌いたかった。
 氷川が作ってくれた楽曲の数々を、今なら心から表現できる気がする。
 胸が押し潰される程の、あのバラードを――今、心から歌いたくてたまらなかった。
 氷川の為に――ではなく、氷川と帝斗、倫周、そして春日野に徳永、そして自分たちの為に歌いたい。人生の中で触れ合えるすべての人々との絆を大切にしていきたい――そんな思いを歌に乗せて、この身体で、この声で、持てるすべてで表現してみたくてたまらない――。

 思いが止め処なくあふれてやまなかった。



◇    ◇    ◇



Guys 9love

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