春朧
その日の夜、東京の事務所へと戻っていった帝斗らと別れた遼平と紫苑は、春日野と徳永の二人と共に地元では有名だというレストランに来ていた。徳永の話では、何でも相当流行っているらしい店で、常に待合客が絶えないらしい。
思い出の場所での初のライブも決まったことだし、春日野と徳永にも演奏に参加してもらえることになった。今後の打ち合わせも兼ねて、四人で親交を深めようということになったのだ。
「うわ、マジで並んでる……」
「ホントだ。こりゃ、待ち時間三十分は固いか」
店に着くなり、五~六組の客が順番待ちをしている様子に、やれやれといった感じだ。しばし待機用の長椅子に腰掛けて雑談をして過ごし、三十分が経とうという頃になってようやくと目の前の客が案内されていくまでになった。
「俺ら、次だな」
「ああ、ようやくか。やっぱり時間掛かったね」
春日野と徳永が暢気にそんな会話をしている。順番が進んだせいで、店内の様子が見える位置まで進み、あと一組を待っていた――その時だ。ふと、紫苑が何かに気付いたように瞳を見開いた。
「なぁ、あれ……。氷川のオッサンじゃねえ?」
「え――?」
見れば、窓際の席に腰掛けて、長身の男が一人で珈琲を飲んでいる。割合遠目だが、確かに氷川のようだった。
「オッサン、こんなトコで何してんだ?」
「まさかデートだったりして!」
珈琲を飲んでいるということは、既に食後なのだろう。連れは化粧室にでも行っているのだろうか。
と、それを裏付けるかのように、氷川の荷物とおぼしきものに花束があるのを紫苑が見つけた。
「やっぱデートかよ……! あれ、これから渡すのかな。彼女、どんな人だろ」
興味津々である。
「なあ、やっぱ声掛けた方がいい? それとも邪魔しねえ方がいいのかな……」
気付いた以上は挨拶すべきか、それとも見て見ぬふりをすべきかと迷っていると、
「お待たせ致しました。四名様でお越しの徳永様、ご案内致します」
席の用意ができたのだろう、ボーイが案内にやって来た。遼平らはまだ高校生だし、とりあえず一番年長者である徳永の名前で順番待ちをお願いしていたのだ。
運良くか、同じ窓際に案内されたが、氷川の席とは端と端というくらいに離れた場所だった。
まあ、この際わざわざ声を掛けずともよいだろうか――もしも本当にデート中だったりしたならば、氷川の方も案外バツの悪い思いをするかも知れない。そう思って、一先ずはそのまま自分たちの席へと落ち着くことにした。
「はぁ……、氷川のオッサン、マジでデートなのかな?」
だったら相手はどんな女性なのだろう、見てみたいと思う興味は拭えないようだ。ソワソワと身を乗り出し、氷川のいる窓際を気に掛ける紫苑の様子を、春日野と徳永が可笑しそうに見つめていた。
「そんなに気になるなら声掛けてくりゃいいのに」
確かにそうなのだが、今一踏み切れない心情も分からないではない。
「あ――! オッサン帰るみてえだ」
見れば、ボーイの中でも割合年かさのいっていそうな初老の男が、氷川を見送るように丁寧に頭を下げているのが垣間見えた。おそらくはここの支配人といったところだろうか。二言三言会話を交わすと、氷川はそのまま店を出て行ってしまった。
ということは、連れはいなかったということだろうか。何だかホッとするような、それでいて益々興味を煽られるような、何とも言えない気分にさせられる。こんなに混雑している人気の店に――しかも恋人やら仕事帰りの仲間内やらで混み合う時間帯に――たった一人で何をしに来ていたというのだろう、今度は別の意味で気に掛かって仕方ないといった様子の紫苑を、他の三人は半ば呆れつつも微笑ましげにしながら見つめていた。
窓の外はすっかり闇が降りて、頃は帰宅途中の人々で賑わうラッシュアワーだ。ふと目をやった先に、店から出た氷川の姿に気が付いて、四人は一斉にそちらを見やった。
「オッサンだ! こっちに気が付くかな?」
紫苑がまだ気に掛けている。だが氷川は紫苑たちのいる席とは逆の方向へと歩き出した。
「駅とは反対方向だぜ? オッサン、何処行くつもりだろ」
「氷川さんなら電車で帰るなんてことねえんじゃねえのか?」
それもそうだ。大方、迎えの車でも待っているといったところか。氷川の背中越しには駅前の待ち合わせ場所として有名な花時計が見える。
「あそこで待ち合わせなのかな」
「あの花時計、有名だよね。確か僕が生まれた直後に出来たんだよね。今年で二十年になるとかで、ここいら界隈の商店街では花時計にちなんでフラワーセールイベントとかいうのが行われるって聞いたよ」
徳永がそう言う。すると春日野が、
「以前はここ、スクランブル交差点で人通りが多くてしょっちゅう接触事故とかがあったらしいぜ。それでどこかの事業家が全額寄付してあの花時計の広場を作ったんだとか。親父たちからそう聞いた覚えがある」
そんな相槌を返し、皆で氷川の後ろ姿を目で追いながら、たわいもない会話に花を咲かせていた――その時だ。隣の席にまた一組、客が来たようだ。案内係は先程氷川を見送っていた初老の男である。黒のタキシードに蝶ネクタイをした老紳士という出で立ちからして、やはりこの店の支配人かマネージャーなのだろう、お客を案内する仕草も洗練されている。高級ホテルのレストランにいてもおかしくないようなプロといった印象だ。
「今年も食前に珈琲でよろしいでしょうか」老紳士が客にそう尋ねると、客の方も「はい、例年通りで」と答えた。
どうやら男性客の二人連れのようだが、食前に珈琲だなんて随分とまた変わった客だ。紫苑ら四人は誰もがそう思ったのか、不思議そうに互いの顔を見合わせては首を傾げてしまった。
この店の窓際の席は全て衝立のパーテーションで仕切られているので、声は聞こえるが互いの顔は見えないようになっている。
そんなことに気を取られている内に、すっかり氷川の行方を忘れていたことに気付いて、紫苑がハタと花時計の方を気に掛けた。幸いか、氷川は未だそこに佇んでいた。
「オッサン、まだいるぜ。マジで誰かと待ち合わせなのかな」
紫苑の言葉と重なるようにして、隣の席から、
「あの人、今年も来てたな」
「ああ。氷川さんだろ? この二十年、毎年欠かさずだな」
そんな会話が飛び込んできて、四人は思わず聞き耳を立ててしまった。
「もう今年でちょうど二十年か――。俺たちが今、こうしていられるのは一之宮さんのお陰だな」
「そうだな。俺らがこの店であの人と会って……」
「まだこの店がファーストフード店だった頃だったよな。お前が一之宮さんにぶつかって、あの人の砂糖をブチ撒けちまったんだったよな」
「ん――。あの日のあの時間に戻ることができたらって、何度思ったか知れない。ここであの人の砂糖をブチ撒けた……あの瞬間に帰ることができたら、絶対にあんな事故防いだのにって……」
「ああ。あの人が俺らを庇ってくれた。身を呈してあの事故から――」
「その時に一之宮さんと一緒にいたのが氷川さんだったんだよな。毎年、一之宮さんの命日の今日には、絶対にここに来て黙祷していくんだよな、氷川さん。あの後、もう二度とあんな事故を起こさせないようにって、あの花時計を作ってくれたのも氷川さんだしな」
会話の内容に驚いたのは言うまでもない。今、後ろの席にいる彼らは氷川のことを、そして二十年前の一之宮紫月のことを知っている――。
いてもたってもいられずに、気付けば紫苑は立ち上がって隣の彼らへと話し掛けていた。
「あのすみません……! その話、詳しく訊かせてもらっていいですか……!」
「え――?」
「……!? あなた……、まさか……」
突如として会話に飛び込んできた紫苑を見た瞬間、彼らが驚いたのは言うまでもない。絶句したように瞳をパチパチとさせながら、幻でも見ているような顔付きの彼らに、紫苑は少し困ったようにしながらも、
「あの……やっぱりそんなに似てますか……?」
ペコリと一礼と共に苦笑する。彼らはようやくと我に返ったようにしてコクコクと頷いた。
「いや、驚きました。似ているなんてもんじゃないですよ……。一瞬、本当に一之宮さんが生き返ったのかと思った……」
「ええ、まさに生まれ変わりなんじゃないかって思うくらい……そっくりです」
やはりか――、紫苑は切なげに微笑んだ。
その後、店員に頼んでテーブルを付けてもらい、紫苑ら四人は当時のことを知る彼らと共に食事を摂ることにしたのだった。
彼らの話によれば、二十年前の今日、車とバイクの接触事故に巻き込まれそうになったところを一之宮紫月に救ってもらったということだった。
二人は名を速水と瀬良といって、当時、四天学園高等部の一年生だった。放課後によく寄っていたファーストフード店でお茶をしに立ち寄った際に、偶然居合わせた紫月にぶつかって、彼が珈琲に入れようとしていた砂糖をトレーの上にブチ撒けてしまったというのが出会いとのことだった。その直後、店を出た交差点で事故は起こった。ほぼ同時に店を出たらしい紫月が、身を呈して二人を庇い、その事故から救ってくれたというのだ。
紫月は自分たちの身代わりとなって亡くなってしまった――涙ながらにそう言う彼らの話を、誰もが言いようのない思いで聞いた。
事故のすぐ直後には、紫月と待ち合わせていたらしい氷川が駆け付けて、彼が紫月を看取る形になったのだそうだ。以来、二度とこんな痛ましい事故が起こらないようにとの願いから、その交差点の区画を安全なものへと見直し、現在の花時計広場を作ったのが氷川だということだった。そして、今いるこの店こそが当時のファーストフード店で、それも氷川が買い上げて、レストランとして蘇らせたのだそうだ。
店のメニューには一之宮紫月が好きだった食べ物を中心に、甘党だったという彼の為に趣向を凝らしたスイーツ類もふんだんに取り入れたらしい。紫月が最後に珈琲を飲んだというこの店を、ずっと残しておきたいという氷川の願いが込められているように思えてならなかった。
「俺たちは毎年、一之宮さんの命日にここで食事をするんです。あの日、一之宮さんと会ったこの場所であの人を偲んで、あの時と同じように先ずは珈琲で献杯をすることに決めてます」
なるほど、それで食前から珈琲だったわけだ。だが、もっと驚かされたのは、氷川も同じことをしているということを聞いた時だった。
「氷川さんとは一之宮さんの葬儀の際に少し話をしただけで、それ以来直接会ったことはありませんが、毎年俺たちがここに来ると必ずあの人もいらしてるのを見掛けるんです。支配人さんに聞いた話では、一之宮さんが座った辺りの席で一之宮さんと同じように珈琲に砂糖をたくさん入れて飲むんだそうです。普段はブラック党の氷川さんが――って、支配人さんがおっしゃってました」
氷川はそうしてこの店で珈琲を味わうと、花時計の所へ行って手を合わせるのだそうだ。あの日から二十年間、どんなに忙しくとも、一度も欠かしたことはないという。とすれば、先程氷川が花時計の所で立っていたのは、一之宮紫月を偲んでいたということなのだろう。ふと窓の外を見やれば、もうそこに氷川の姿はなかった。
◇ ◇ ◇
食事を終えた後、遼平と紫苑、春日野と徳永の四人は花時計の前で手を合わせていた。四人が生まれた時には既にこの花時計は完成していたから、誰にとっても昔からそこにあるのが当たり前の場所だ。先程の二人から経緯を聞くまでは、特に気に掛けたことすらない程に馴染んだ街の光景の一つだった。
二十年前には、ここがどのような交差点だったのか四人とも知らないわけだが、今は花時計を囲むように円形のちょっとした広場となっていて、所々に洒落た感じのベンチが配置されている。デートなどの待ち合わせ場所としても有名である。
昼間に事務所社長の帝斗が連れて行ってくれた埠頭の倉庫街のことといい、そしてこの花時計に先程食事をしたレストランといい――、それらにまつわる経緯を見聞きし、目の当たりにして、氷川がどんな思いでこの二十年を過ごしてきたのかを思う。きっと想像を遙かに超えるような友情、愛情がそこにはあったのだろうと思えた。
鐘崎遼二と一之宮紫月、そして氷川が過ごしただろう遠い日に思いを馳せれば、胸を鷲掴みにされるような切なさがこみ上げる――
「なぁ、遼平――」
「ん? 何だ」
「俺さ、今なら歌えるような気がするんだ。オッサンの書いてくれた曲、今なら……」
早春の空に浮かぶ月を見上げながら紫苑が呟いた。その瞳の中に一杯に溜まった涙の雫がこぼれないようにと空を仰ぐ――そんな彼を包み込むように、遼平は後方から両腕で抱き締めた。
「プロモ、俺たちの今の気持ちを目一杯込めて作ろうな。氷川さんの二十年分の思いに比べたら全然足りねえけど――俺たちの感謝の気持ちを込めて、精一杯」
「ん……うん」
鼻を真っ赤にしながら紫苑が微笑む。そんな二人を見つめながら、春日野は隣に佇む徳永の手を取り、そっと繋いだ。
今、こうして当たり前のように一緒にいられるということが、改めてものすごい奇跡のように思えて感謝の気持ちが湧き上がる。
月明かりは四人を見守るかのように、やわらかな光を放つ――そんな三月初旬の夜だった。
◇ ◇ ◇