春朧

二十年前、晩夏――



 二十年前、晩夏――

 橙色に染まった夕闇の中、重い足取りで坂道を登る。
 ふと、通りすがった空き地の雑草地帯から晩夏を告げる虫の音がよぎれば、例えようのない一抹の儚さが身に沁みては、より一層心を重くした。
 坂を登り切ると少し先に数人の人だかり、そこに灯された通夜の提灯を目にした瞬間、ああこれが現実なのだと思い知らされた。
 高校卒業を機に香港に帰っていた氷川白夜のもとに、その訃報が届いたのは、猛暑もやわらぎ始めた晩夏のことだった。



◇    ◇    ◇



「あんた、もしか……氷川?」

 驚いたような感じでそう声を掛けられて、ハッとそちらを振り返った。
「氷川だろ? 桃稜の……あんた確か香港だったんじゃ……? まさかわざわざ来てくれたのか?」
 真っ赤に腫れた瞳を見開きながらそう言ったのは、清水剛と橘京の二人だった。着慣れないような黒の礼服姿の彼らは、共に長身の肩をがっくりと落としていて、その様からは心痛の程が窺い知れた。
「鐘崎が事故で亡くなったって……帝斗から連絡をもらってな」
「それでわざわざ……。遠いところ済まねえな……」
 そう言うなり、人目もはばからずに声を詰まらせ、堪え切れずに二人共にボロリと大粒の涙をこぼしてはうなだれた。
 つい半年程前まで隣校で番を張り合っていた間柄の彼らと会うのは、卒業式後の河川敷以来だ。互いに顔を見た途端に張りつめていた気が緩んだのか、楽しかった頃の思い出が瞬時に蘇るようで、剛も京も痛々しいほどに泣き崩れてしまった。
 氷川はそんな彼らの肩に腕を回しなだめると、自らもこみ上げる気持ちを堪えながら、何かを気に掛けるように周囲を見渡した。
「清水、橘――あいつは……どうしてる?」
 その言葉に、泣き濡れていた二人がようやくと顔を上げた。こんな状態の彼らに訊ねるのも気の毒なのは重々承知だったが、どうしても訊かずにはいられなかった。
 そうだ。亡くなった鐘崎遼二の一番の親友だった一之宮紫月のことが気に掛かってならなかったのだ。
「あいつが……一之宮が……相当堪えてるんじゃねえかと思ってよ――」
 辛辣な面持ちでそう言った氷川に、剛は涙混じりにうなづいた。
「ああ、もう……見てらんねえほどに落ち込んでる。遼二の……傍から離れようとしねえんだ……。あいつが……遼二が亡くなってからずっと……飯も食わねえし、寝てもいねえと思う。俺らのことも分かんねえくらいで……誰が話し掛けても反応すらしねえ……んだ」

――やはり、思った通りだ。

 そこから先は言葉にならない剛に代わって、京が涙を拭いながら言った。
「仕方ねえよ……なんせあんな亡くなり方だったんだ。紫月がおかしくなっちまうのも当然だ……っ」
 その言葉に氷川はクッと眉をひそめた。帝斗からはバイクの事故だったと聞いていた。あまりに驚いて、取るものもとりあえずに飛び出して来たので、詳しい経緯は把握していない。
「あいつら、夏休みで……二泊三日でツーリングに行った帰りだったよ。紫月が前走ってて、遼二がその後ろを付いてたそうだ。急カーブで……対向車線を曲がり切んなくて飛び出してきた車が……紫月に突っ込みそうになって……ッ、それに気が付いた遼二が咄嗟にかばって前に飛び出したんだそうだ……まるで盾になるみてえに自分から対向車に突っ込んだって……」
 声を裏返し、しゃくり上げながらそう言った剛の肩を抱き締めるように引き寄せた。もういい、これ以上はあまりに酷だ。
「清水、辛えこと言わせちまったな。あいつに……会えるか?」
「ああ、今は帝斗と倫周が付いてくれてる。けど多分、会っても分かんねえと思う。あいつ、腑抜けみてえな状態だから」
 誰が話し掛けても反応すら儘ならず、自分の親のことすら認識できないくらいの放心状態だからと剛は言った。もう間もなく通夜の式が始まろうとしている今、ずっと棺から離れようとしない彼を誰がどのように説得できるというのだろう、剛は辛辣な面持ちで氷川を紫月の元へと案内した。



◇    ◇    ◇



 廊下には夕陽の橙色が斜めに影を付けている。通常は美しく映るはずの夏の西日も、今日はこれ程までに辛辣な思いを突き付けてくるものなのか――
 眩しい程の反射を呆然と瞳に写しながら、氷川は遼二と出会った頃のことを思い浮かべていた。

 鐘崎遼二と一之宮紫月が親友という間柄を超えて魅かれ合っていることを知ったのは、まだ桃稜の高等部に在学中の頃だった。偶然通り掛かった繁華街の一角で、彼らとおぼしき人物が、挙動不審に周囲を気に掛けながら身を寄せ合っているところに鉢合わせて、すべてが理解できた。
 サングラスで顔を隠し、ニット帽の上からパーカー付の上着まで羽織って警戒する二人が、いったい何処で何をしてきたのかというのは訊かずとも一目瞭然だった。そこいら一帯は歓楽街で、ラブホテルが立ち並ぶ界隈として地元では知れた場所だったからだ。
 彼らは自らの通う桃稜学園とは対立的な因縁関係にある四天学園に在籍し、しかも不良グループの頭と言われていた為、氷川にとっては多少なりとも興味のある存在なのは確かだった。
 そんな彼らの弱みを握ったも同然の目撃だったが、氷川はそのことを一切他人に公言しなかった。そんなものは個々の自由とハナからそう思っていたからだ。後に当人たちとタイマンと言われる一対一での勝負をするハメになった際に、初めてその時のことを打ち明けたが、それ以外はむやみやたらと面白半分に触れ回ったりすることはしなかった。
 そんな心意気が通じたのか、次第に互いを尊重し合うようになっていったのは暗黙の経緯だった。特に鐘崎遼二の方とは、卒業式以来ちょっとした絆が芽生えた程で、そんな間柄になれたことがうれしく思えていた矢先だった。親友とまではいかないにしろ、それに近いような存在ができたことを誇りに思ってもいた程だ。
 だからこそ信じられなかった。
 帝斗から遼二の訃報を聞いた時は、目の前が真っ白になるほどの衝撃を受けた。



◇    ◇    ◇



 強烈な西日が高窓からわずかに覗くだけの狭い部屋で、帝斗と倫周がいたたまれないふうに肩を落としていた。どうやら一般の控室とは別に借りられたふうな雰囲気が、その理由を聞かずとも理解できるような気がしていた。帝斗らに見守られるようにして、すぐ側の長椅子に腰掛け茫然としている男を目にした瞬間、氷川はゴクリと息をのんだ。一之宮紫月だ。ここは恐らく彼の為に用意されたものではないか――そう思った。

 半年ぶりに見る彼に以前の勝気な面影は微塵もなく、まるで別人のようにげっそりとやつれた感がその心中(しんちゅう)を物語ってもいた。
「紫月……? 氷川が来てくれたんだぜ?」
 剛がそう言って、うつむいた顔をやさしく覗き込むようにしても、当の紫月には人の気配すら分かっていないのか、微動だにせずに腰掛けたままだ。ぼんやりと地面に放り出されたような視線は、どこを見るともつかずに、その様はまるで魂の抜けた人形のようだった。食事も喉を通らず、眠ってもいないせいか、今の彼は触れた途端に壊れてしまいそうに痛々しい。氷川はそっと紫月の前へと歩み寄ると、無言のまま、変わり果てたその様子を苦い表情で見下ろした。
 じっと、ただ彼の目の前に立ったまま、しばらくその場を動かない。声を掛けるでもなければ、肩を抱くでもなく、ただただ傍にあるだけの気配に若干の意識を揺さぶられたのか、ようやくと紫月は視線を上げた。

――――ッ!?

 突如、ガタンッと大きな音を立てて長椅子から立ち上がり、目の前に立った男の顔に反応するように、紫月はみるみると瞳を見開いた。
「おい、紫月……? お前、氷川が分かるのか……?」
 剛と京が驚いたように話し掛け、だが当の紫月はまるで目の前の男以外は意識にないといったふうに、他の誰の声にも反応する様子がない。それどころか、戸惑う皆を他所に突如狂気のような声を上げたと思ったら、間髪入れずに氷川を目掛けて殴り掛かった。これには剛と京も驚いて、一時その場が騒然となった程だ。
「……っ!? おい、紫月ッ!? 何すんだお前……ッ」
「よさねえか……! おい……!」
 狭い部屋の中に埃が舞い立ち、卓上にあった小物が倒れて散乱する。剛と京は側にいた帝斗や倫周を庇うように、
「おい、お前ら、危ねえ……下がってろ……!」
 咄嗟に彼らを後方へと避難させた。
「うわぁああーーー! ああーーー!」
 当の紫月は今の今までとは打って変わって、気が違ったようにわめきながら氷川に牙をむいている。
 意識は朦朧としているはずなのに、身体だけが別次元で無意識に動いてしまうといったふうで、俊敏に暴れ回る。その様はまるで酔っ払いが騒いでいるような感じだった。
 攻撃をするというよりも所構わずといった調子で、氷川の全身に体当たりを繰り返す。そうする内に繰り出した拳が氷川の頬を捉え、思い切り殴り飛ばす形となった。
 あまりのことに呆然となっていた剛と京も、それにはハッと我に返り、慌てて彼を止めに割って入ろうとした、まさにその時だった。
「手を出すな――」
 ピシャリと氷川本人に遮られて、二人は呆然、しばしそのままで硬直してしまった。

「う……ぁああーーーッ!」

 それからしばらくの間、まるで気が違ったように紫月は氷川を殴り続けた。幾度も幾度も拳で頬を殴り、次第に唇の端が切れて血が滲み出しても攻撃は止まない。それでも氷川は何の抵抗もしないままで、紫月のするがままにさせていた。
 道場育ちの段持ちである彼に好きにさせて尚、大してよろけることもないままに、その場に踏ん張って立ち尽くす。まるで気の済むまで殴らせるとばかりの直立不動で、サンドバックになる氷川の様子に、誰もが硬直状態――。側で見ていた帝斗や倫周は驚きで言葉さえ発せずに、呆然としているのが精一杯、剛と京も同様だった。
 そうして紫月はひとしきり暴れ尽くすと、遂には体力の消耗に付いていけなくなったのか、ふらふらと目の前の男に寄り掛かった。そして、一度の反撃をすることもなく、かといって避ける気配も見せなかったこの男を怪訝そうに見上げた。じっと食い入るように見つめ、だがしばらくすると、突如として我に返ったようにハッとなり――、と同時に大きな瞳にはみるみると涙が充満して、今にもあふれそうなまま、硬直してしまった。
 まるでここ数日間の虚無の世界からいきなり現実に引き戻されたように、様々な感情が一気にあふれ出しては紫月を襲ったのだ。
 最愛の男を失ったという現実が、恐怖感となってみるみると彼を覆い包んだのだろう、全身がガクガクと震え出す。膝が笑い、思わずその場に崩れんとした瞬間だった。

「一之宮――! 分かるか? 俺だ。氷川……だ」
 いきなり大きな胸に抱き包まれて、紫月は驚いたように瞳を見開いた。
 ふと見上げれば、自らが殴り続けた頬がひどく熱を持ち、腫れていた。抱き締められた瞬間に触れ合ったどこかしこが熱く、視界に入り切らないくらい近くにある唇の端は切れて、ぼんやりと血の赤が目の前で揺れている。顔のところどころに痣の浮き出た蒼黒い痕は、たった今自分自身が付けただろう傷に違いない。それなのにすべてを包み込むような、このあたたかい感情は何だろう。まるですべてを赦し、すべての苦しみを分かち合ってくれるとでもいうような、大いなる安堵感が不思議だった。
 乱れた黒髪と肱(かいな)の匂いは、いつかどこかで知っていたような懐かしさをも思い起こさせる。

――俺のことが分かるか? 一之宮――

 たった短いそのひと言から、彼の云いたかった万感を感じ取った瞬間に、紫月の瞳から大粒の涙がこぼれて落ちた。
「氷……川……? ……ッひ……っ……あ……」
「ああ、そうだ。俺だ、一之宮」

 分かってる。お前の気持ちは痛いほど分かってるから――

 何も言わずともそんな思いが伝わったのだろうか、氷川に抱き締められたままで、紫月は意識を失ってしまった。ここ数日間の悪夢からやっと解放されたとでもいうように、その腕に縋り付くようにして、ガックリと崩れて落ちた。



◇    ◇    ◇



「さっきはその……紫月のヤツが酷えことしちまって済まなかったな。あいつ……お前を殴ったりして……」
 弔問の帰り道、もうすっかりと暗くなった晩夏の坂道を下りながら、剛は目の前を歩く氷川の背中越しにそう言った。
「紫月は俺らのダチなのに……お前に迷惑掛けちまった……。あいつさ、遼二亡くなってからずっと腑抜けみてえになってて……俺らじゃナンもしてやれなくて、なのにお前を見た瞬間にあんなんなって……ッ、情けねえよな、俺ら」
 その言葉に氷川は歩を止め、後方を振り返った。
 うつむいたまま肩を震わせ、涙を堪えるように顔をクシャクシャに歪めているのが痛々しい。
「清水――」
 さすがに掛ける言葉が見つからない。

 彼の言いたいことはよく分かった。
 彼らの仲間であるはずの紫月が、彼らには何の反応もしなかったというのに、大した付き合いもない自分を目にした途端、突如意識を揺さぶられたように狂気した。例えそれが暴力という形であったにせよ、とにかく彼の意識に何らかの影響を与えたことは確かだったからだ。
 そんなものを見せつけられた剛らにしてみれは、自分たちでは何の力にもなれなかったことが腹立たしくもあり、情けなくもあって仕方がないのだろう。やりどころのない気持ちを噛み締めるような感情が痛い程に伝わってきた。
 しばらくは互いに無言のままで坂を下りる。緩やかなカーブに差し掛かった所で後ろを振り返れば、ずっとうつむいたままトボトボと後を付いて来る剛の横に並ぶようにして、氷川は歩を止めた。
「俺、前にあいつらとやり合ったことがあるって言ったろ? そん時、一之宮の目の前でカネ(鐘崎)をボロくそに殴ったんだよ……」
「え――!?」
 突然の告白に、剛はハッとしたように氷川を見やった。
「あの頃――、カネはちょうど桃稜の不良連中に罠に掛けられて、集団暴行を受けた直後でな。入院までするハメになったのはお前も知ってるだろ? 俺らがやり合ったのは、ヤツが退院して来たその日のことだったよ」
 そのことならよく覚えていた。それはまだ高等部の三年になったばかりの頃のことだ。犬猿の仲だった桃稜学園の不良連中が遼二をワナにかけるような形で暴行し、そのせいで彼は二~三日の入院を余儀なくされたという、そんな事件だった。その直後、紫月がたった一人で報復に乗り込み、そこの番格だった氷川と一対一の対番勝負をする流れになったということを、当の本人たちから聞いたことがある。
「けどッ、あん時はアンタが気を利かしてタイマンに持ち込んでくれたお陰で……結果的に紫月は桃稜の連中から集団リンチに遭うはずのところを救ってもらったような形になったって、ヤツらそう言ってたぜ?」
 そうだ。いくら紫月が武道に長けていたといっても、その時の桃稜勢は二十人余り。そんな大人数を相手にすれば、おのずと結果は知れている。
 それを回避するかのように、たまたま居合わせた氷川が自分の仲間たちをすべて追い払って、一対一の勝負でケリを付けるよう取り計らったというのだ。ちょうどその日に退院した遼二が現場に駆け付けて、二対一での勝負となり、だがこちらは二人揃ったにも係わらず、どうにも勝ち目がないくらいに氷川は強かった――と、そんなふうに聞いていた。
 その計らいはひどく粋で、癪に障るくらい度量を感じさせられるようでもあって――そんなところからもさすがに『桃稜の白虎』と敬われているのを認めざるを得なかった。当時は何かと氷川について噂をしては悔しがったものだ。
 そんな彼が紫月の目の前で遼二をめった打ちにしたなどとは信じられずに、剛は何とも言いようのない表情で押し黙ってしまった。

 坂を降り切った曲がり角を過ぎれば、埠頭の灯りと工場の白煙が混じり合って、夜空を緑灰色に染めているのが見えた。いつもの見慣れたはずの風景が、今日は何とも重苦しくてどうしょうもない。
「一之宮は……俺のツラを見て、そん時のことを思い出したのかも知れない。何より大事な相手をボロくそにのめした俺のことが、強烈な印象としてヤツの中に蘇ったのかもな」
 苦めの笑みと共にそんなことを言った氷川に、剛は少し驚いたように瞳を見開き、そしてすぐにうつむいた。
「なあ氷川、お前……もしかして……知ってたってか……?」
 ガードレールをギュッと掴みながら、そう訊いた。
「あいつらさ、付き合ってたんだって……」
 
 背後を通り過ぎた車の煽りを受けて、剛の黒髪が揺れる――

「付き合ってたんだ。ダチとか、親友とか……そーゆーんじゃなくって……ッ、もっと深く……っ、想い合ってたって……ッ」
 掴んだガードレールがへこむんじゃないかというくらいに力を込めてそう吐き出された言葉に、氷川はクッと瞳をしかめた。
 『知っていた』とも、『知らなかった』とも返答できずに、しばし互いの背後を車が行きかう雑踏だけが通り過ぎる。
 無言のままの氷川の様子に、それが答えと受け取ったのか、剛はますます苦しげにギュッと唇を噛み締めると、
「やっぱ……知ってたんだ……?」
 苦いのは自嘲気味の口元から漏れる笑いだけでは――ない。堪え切れずに頬を伝った涙は塩辛く、そして酷く苦かった。
「――清水。俺は……」
「ホント、情けねえよな? 俺は……全然知らなくて……ッ! そりゃ、あいつらがすげえ仲いいってのは知ってたし、単にダチだ仲間だって以上に強い絆で結ばれてるって、そーゆーふうには思ってたけどよ……! まさか……野郎同士で……愛し合ってたなんて……だから紫月がおかしくなっちまうくらいにショック受けんのも当たり前だって……! ンなことも……気付いてやれなかった、俺……ッ」
 まるで自らを責め立てるように声を嗄らし、そう怒鳴る剛の瞳からボトボトと涙がこぼれては、ガードレールを濡らしていった。

 長年ツルんできたはずの俺たちが知らなくて、なのにお前は何でも俺たちより上をいってる。
 放心した紫月の意識を揺さぶったのもお前。
 二人が想い合っているのを知っていたのもお前。
 大して付き合いもなかったはずの、ただ隣校で番を張り合ったというだけの間柄のお前がすべてを知っていて、何故俺たちは置いてけぼりなんだ――!

 滝のようにこぼれる涙が、まさにそう物語っているようだった。
 行き処のない感情が彼を苛んでいるようだ。慰めの言葉など見つかるはずもなく、例え何を言ったにせよ、おこがましいだけだ。
 氷川は胸ポケットをまさぐって煙草の包みを取り出すと、少し皺になったそれを口に銜え、そして剛にも一本を差し出した。そんな行動に意表をつかれたかのように、驚き瞳を丸くする彼の口元へと半ば強引に煙草を突っ込みながら、火を点けた。

「近過ぎて見えねえってこともある」

 ひと言だけそう言って、深く吸い込んだ煙を吐き出した。

「あいつらが付き合っていたのを知らなかったからといって、お前らが劣っているわけじゃない。それを知っていたからといって俺が勝っているというわけでもない。お前らの絆が薄っぺらかったというわけでもない。傍に居過ぎるから見落としちまうってこともあるんじゃねえのか?」
「……近……過ぎて?」
「――ああ」
 お前らの絆がどれだけ強いのかということは、俺にはよく分かっている――まるでそう言っているかのように見つめられて、剛はハタと氷川を見上げた。
 視線の位置がほんの少し上の、そんな氷川の頬にはどす黒い痣があり、切れた唇の端には乾いた血の痕が固まっている。先程、紫月が付けた傷だ。
 突如あれだけ殴られて尚、何の抵抗もせずに全身で彼を受け止めてくれた氷川の行動の一部始終が脳裏に蘇っては、鮮やかな印象となって心を揺さぶった。
 気付けば涙も涸れ、長くなった灰が今にも折れて落ちそうになった煙草だけが視界に飛び込んで――
 まるでそれを分かっていたように隣から差し出されたケースの中に、慌てて灰を払って落とした。

「悪い……」

 車の雑踏が途切れれば、夏の終わりを告げる虫の音がどこからともなく風にのって響いてくる。

「なあ、氷川さ……」
「ん――?」
「あんたにも都合があるだろうけど……その、できたら……」

――できたらもう少し、こっち(日本)にいてやってもらえないだろうか?
 紫月のヤツはあんな調子だから、せめて少しでも落ち着くまでアンタが傍にいてくれたらって……何せ、よくも悪くもあいつの意識の中に入っていけるのはあんただけだから。

 そう言おうとして、剛はハッと口をつぐんだ。
 そうだ。氷川には氷川の生活があって、彼なりの責任や役割を担っているのだ。

 『妾腹の俺を実子同様に扱ってくれた親父には感謝してる。だから香港に帰って親父を手伝うよ』

 いつか彼が言っていたそんな言葉を思い出せば、これ以上彼に助力を願うのは申し訳ないと思えた。
「ごめん……何でもねえ……」
 そう、どんなに辛くとも、どんなに寄り掛かりたくとも、それぞれが一人で乗り越えて行かなければならないことだ。それは今の自分たちにとっても、そして――紫月にとっても同じことなのだ。寂しいからといって、辛いからといって、この氷川に無理を言うのは筋が違う。
「清水――」
「……ん、うん」
「あと二~三日はこっちに留まるつもりだが、俺は一度香港に戻るぜ」
 その言葉に、剛はハッとしたように隣を振り返った。
 そうだ、それで当然だろう。誰にだってそれぞれの都合というものがある。かくいう自分だって、すべての仕事や生活を放り出して紫月の傍にだけ居てやれるというわけでもないのだ。そんな中、例え数日でも日本に留まってくれるというだけ有難いと思わなければいけない。そう思った時だった。
「一度香港に帰って、親父に事情を話してみようと思う。しばらくこっち(日本)で暮らせるように頼んでみるつもりだ」
「え――!?」
 剛は酷く驚いた。
 まさか紫月の為にそんなことまで考えてくれるというわけか。だがしかし――
 戸惑い、すぐには返答できずに氷川を見つめたその時だった。
「実際、日本で起業しようと試みてる事業があるのも確かでな。それを俺に任せてもらえるよう頼んでみるつもりだ。一之宮のことが心配だってのも勿論あるが、俺自身、お前らや帝斗たちともう少し一緒に過ごしてみてえってのもあるから」
 その言葉に、剛は胸の熱くなる思いがしていた。目頭は痛い程に熱く、例えようのない思いに全身が打ち震える。
 何も言わずともこちらの心情を理解し、現実に力になろうとしてくれる心遣いが身にしみるようで、どうしようもなく心が震えた。
 遼二を亡くした辛さは変わらない。
 だが今はそれを分かち合ってくれる氷川の存在が有難くて、涙がこぼれそうになった。

「なあ、氷川……あいつさ、紫月のヤツ……やっと泣けたんだと思う……」
「――?」
「あんたに会って……さっき、アンタのことを殴ったことがきっかけンなって、やっと気持ちを吐き出せたんじゃねえかって。それまではどうしていいか分からなかったんだと思うよ。泣くこともできねえで、辛くて怖くて仕方なかったんだと思う。そんなアイツを……身体張って受け止めてくれたアンタには……感謝してる。マジで俺ら……」
 またしてもボロリと頬を伝った涙を隠すようにうつむいた剛の肩に、氷川はそっと手をやった。
「親父に納得してもらうのに少し時間が掛かるかも知れないが、それまであいつのことを頼んだぜ?」
「……ああ、勿論だ……ホントに済まねえな……」
「これは俺の連絡先だ。ここに電話してくれれば俺が直接でられるから、何かあったら遠慮しねえで知らせてくれ」
「ん、サンキュ……さんきゅ、マジで。アンタにはほんと、何て言っていいか……」


 なあ遼二、見てるか?
 俺たちは今、本当に辛い。お前を失くして、何もかもが恐怖に思えるくらい辛くて苦しくて堪らない。
 だけどこんなふうに互いを思いやってくれる仲間がまだここにもいたんだって、それがすげえ心強いよ。
 だから見ててくれよな?
 お前の分も、俺たち一生懸命歩んでくから。いつかまた、そっちの世界で会えるその時まで、精一杯歩いてくから――


 夏の終わりを告げる涼風が頬の涙を撫でていく。高くなる夜空を見上げながら、剛はそっとそれを拭った。



Guys 9love

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