春朧

二十年前、厳冬―― 1



 二十年前、厳冬――

――その日から三ヶ月が経とうとしていた。頃は初冬を告げるイルミレーションが鮮やかに街を彩り始めたその季節、香港に戻った氷川からも未だ音沙汰のないままに、時間だけが刻々と過ぎていた。剛や帝斗らは暇を見つけては紫月のもとに通いながら、その様子を見守るだけの日々が続いていた。
 枯葉の舞う街路樹を見上げながら、ふぅと深いため息が抑えられない。
「氷川の奴、どうしてっかな……?」
 紫月の家で久しぶりに帝斗と鉢合わせた剛は、少々言いづらそうにしながらそんなことを口走った。家同士の付き合いがあるこの帝斗ならば、何か事情を知っているかも知れないと、そう思ったのだ。
 通夜の日に教えてもらった氷川の電話番号に連絡したことは未だ無かった。だが、あれから数カ月が経とうとしている昨今、一度だけ思い切って掛けたみたのだが、どういうわけか繋がらなかった。まさか適当な偽の番号を置いて行ったなどとは、間違っても思いたくはない。それ以前に氷川がそんな無責任なことをするとも思えない。だが事実繋がらないのは確かなのだ。
 よくよく思い起こしてみれば、あれ以来氷川の方からも連絡が来たことなど一度もないということも相まってか、負の方向へと思考回路が働いてしまうのは否めない。訊けばどうやら帝斗のところにも音沙汰はないようで、ここしばらくはやり取りもしていないという。気になるなら父に訊いてみようかという帝斗に、さすがにそこまでしてもらうこともなかろうと、剛はやるせなげに首を横に振ってみせた。
 カラリとした冬晴れとは裏腹に、どんよりと重い気持ちを持て余す。それらを慰めるように、何度もこぼれる深いため息を隠せなかった。



◇    ◇    ◇



 その頃、当の紫月は珍しくも一人で外出し、遼二の家を訪ねていた。
 見慣れた部屋にたたずみ、窓際に置かれたベッドの淵に腰掛ける。ほんの少し前までは、当たり前のようにここに立ち寄っては、まるで我が部屋の如くくつろいでいたはずの場所が、今は静まり返っている。

『遼二の部屋はそのままにしてあるから――』

 いつもの活気のある声が少し寂しげにそんなことを口走る。突然ふらりと姿を現した自分を、少々驚いたようにしながら迎えてくれたのは遼二の親父さんだった。
 よく来てくれたね、ゆっくりくつろいで行っておくれよねと、そんな言葉を掛けられながら通された部屋に一歩足を踏み入れた途端に、例えようのない気持ちがこみ上げた。紫月が自ら遼二の家を訪ねたのは、彼が亡くなって三月(みつき)程も経った冬の初めのことだった。

 来る日も来る日も代わる代わるに誰かが自分を訪ねて来ては、同じような気遣いを繰り返す。昨日は帝斗と倫周が好物の洋菓子を持ってやって来た。その前の日は剛がライブの誘いがてら、その前は京が会社帰りにふらりと立ち寄っては、両親も交えて晩飯の卓を取り囲んだ。
 皆一様に、『どうだい、少しは元気が出たかい?』とでも言いたげにしながら、やさしく当たり障りのない言葉を繰り返す。かれこれもうずっとそんな日々が続いている。遼二を失ったことを気遣って、皆が精一杯自分を気に掛けてくれていることが頭では解っていても、紫月は未だに覇気を取り戻すことができないままでいた。

 ポスリと枕に顔を落とし、その瞬間に立ち上った懐かしい香りに思わず涙がこみ上げた。目頭の奥が激しく痛みを伴う程に潤み出し、堪え切れない悲しみが全身を掻きむしるようだった。

 もうお前はいない――

 毎日のように訪ねてくる親しい仲間たちの気遣いが、かえってそのことを知らしめるようでもあって、どうにも辛くて堪らなくなる。彼らのあたたかい気持ちをそんなふうに受け取ってしまう自分自身にも、ほとほと嫌気がさしてやるせない。

 ほんの少し前までは、このベッドで当たり前のように一緒に寝転がっては、じゃれ合った。つけっ放しのテレビを観流しながら、煙草を吸って菓子を頬張った。会社の愚痴をこぼす遼二の話に笑いながら相槌を打った。
 春は窓に浮かぶ朧月夜を見上げながら、
 夏には遠くで聞こえる盆踊りの太鼓の音を心地よく思い、
 秋の初めには少し肌寒くなった風に身を寄せ合うのがうれしくもあって、
 そして冬が来ればストーブの上で沸かしたヤカンでインスタントコーヒーを作るのが習慣だった。
 このベッドの上で何度も抱き合い、いつも逸っては余裕のかけらもないセックスに溺れた。
 唇を重ね合わせる度に煙草の香りが鼻につき、そのまま舌を絡め合えば、ちょっと苦い味はやっぱり煙草のそれで、そんなキスから始まる行為が当たり前の習慣で、何とも心地よかった。階下の両親にバレないようにと気に掛けながらのそれは、いつも本当に窮屈で、だが今はそんなことがひどく愛しく思えて仕方ない。たまにはラブホに行って思う存分、誰に気遣うことのなく心の底からしてえよなあ、などというのが口癖だった、そんな遼二はもういない。
 この部屋に来るのが怖かった。遼二がいないという事実を認めにくるようで、怖くて仕方がなかった。
 だが何処にいても、ここに来なくても、その事実を否応なく目の当たりにせざるを得ない。

 なあ、遼二――
 そろそろ俺もお前の傍に行きたいんだ。そんなことは許されないんだって、頭じゃ分かっているけれど、辛くて苦しくて仕方ないんだ。
 忙しい時間を割いてまで気遣ってくれる帝斗や倫周、剛に京。あいつらにやさしくされる度にお前がいない事実を思い知らされる気がする、なんて思っちまう自分が嫌で嫌で堪らねえんだよ。こんな俺はどうしょうもないクズ野郎だって思うけど、自分じゃどうにもならないんだ。
 だからもう、お前の傍に行きたい。お前に会いたい。お前の声が聞きたい。お前の手に触れたい。お前の笑うツラが見たい。遼二、遼二、遼二。
 頼むからお前の傍にいかせてくれよ――!

 窓から覗くどんよりと重い空が、冬の早い夕暮れを告げていた。もうあと一時間もしない内に黒い闇が降りては、辺りを長く冷たい夜が包み込むだろう。まるでこの心をそのままに映し出すような、長い長い闇が舞い降りる。

 遼二の家を後にし、トボトボと行き当たりばったりにさまよった。
 授業を抜け出してこっそりとサボリに来た古びた神社の祠(ほこら)にも、
 つれづれ歩いた放課後の商店街にも、
 何処に行ってもお前はいない。
 懐かしさだけがまとわりついて離れない、虚無の世界が重苦しくて仕方ない。
 そんな気持ちのままに、繁華街を抜けてラブホテル街に足を向ければ、そこには冬の早い闇が降り立ち、すっかりとネオンの海が広がっていた。あの頃、少し悪いことをしているようでドキドキしながら隠れて通ったホテルの看板が視界に飛び込んでは、堪え切れずに涙が潤み出す。

――なあ紫月、冬はいいよな? だってさ、暗くなんのが早えから、道を歩くのもちょっと安心じゃねえ?――

 照れ笑いをしながらいつもそんなことを口走っていた遼二の声が、幻のように耳元にこだまする。ふと振り返れば、今でもそこに彼が立っているんじゃないかと、そんな錯覚にとらわれる。それらがすべて幻影だと分かっていても、紫月には少しでも遼二との思い出がこびりついているこの繁華街が愛しくて、懐かしくて、離れ難くてならなかった。
 ふらふらと辺りをさまよい、歩き疲れて裏路地に入り、何処ぞの貸店舗の前にしゃがみ込んだ。道を一本隔てた先には賑やかな夜の街の音が充満している。耳慣れたカラオケの、少々音程の外れたような歌声が、そこかしこから流れてくる。そのすぐ脇道では夜間工事の立て看板が煌々と光を放ち、まるで昼間のような空間にドリルの騒音が重なっている。そんな雑多入り混じる音や匂いをいつも一緒に感じていた遼二はもういない。
 そう、あいつはもういないんだ――
 家にいても、遼二の部屋に行っても、こうして思い出の染みついた街を歩いても、どこにいたって彼がいないという事実を突き付けられるようで堪らなかった。
 シャッターの降りた店の戸口で膝を抱えて座り込み、時間を追うごとに増してくる寒さに、より一層肩を丸める。
 もう一歩たりとも動きたくはない。立ち上がって、歩いて自宅へ帰る気力もない。いっそこのまま、この寒さがもっともっと厳しくなればいい、そうすればもしかしたらアイツが俺を迎えに来てくれるかも知れない。こんな所で何やってるんだと、懐かしいあの笑顔で俺を覗き込み、そのまま一緒に連れて行ってくれたらどんなにか――!
 ぼんやりとそんなことを考え巡らせ、呆然としている紫月の姿を横目に、人々は彼を見なかったことのようにして足早に通り過ぎて行った。冬の夜の裏路地でのこんな光景は珍しくもないのか、誰一人紫月に声を掛けようとする者などいなかった。
 どのくらいそうしていたのだろう、寒さも悲しみも麻痺し、ウトウトと眠りが襲ってきたその時だった。ふと、誰かに肩を揺すられる感覚で、紫月はぼんやりと顔を上げた。

――?

 そこには懐っこい笑顔で自分を覗き込んでいる一人の見知らぬ男の姿があった。
「ね、お兄さん! こんなトコでどうしちゃったのよ? そんな薄着してっと風邪引くぜ?」
 グっと近付けられた顔のドアップが視界に入り、そこには大きな二重の切れ長で彫りの深い眼差しがにこやかにこちらを見つめていた。その額を覆うようにハラリと頬に掛かった黒髪も酷く印象的で、紫月は思わずハッとしたように瞳を見開いた。
 冬の夜の冷気を感じさせる彼の白い吐息からは、微かな煙草の香りがし、嗅ぎ慣れた心地いい匂いが瞬時に心を掻き立てる。
 遼二――!?
 一瞬そう思った。
 だが違う。よくよく目をこらして見れば全くの別人だ。切れ長の形のいい瞳と見事な程の黒髪のせいで、そんなふうに錯覚させられただけだ。第一、服装からしてスーツ姿にコートを羽織ったこの男は、年の頃も若干上といったところだろうか。
 驚いたように瞳を丸くしたままで呆然としているこちらの様子を気に掛けるように、男は更ににこやかな笑顔を装いながら、もうひと言を付け加えた。
「あんた、さっきっからずっとここにいんだろ? 俺がさっきここ通った時もいたもんな。かれこれ、あれから一時間くらい経つからさ、気になって声掛けてみたの」
 にっこりと白い歯を出しながら親しげに笑ってよこす。その様はまるで、『どうかしたの? 何か困った事情でもあるの?』とばかりにやさしげで、ついついほだされてしまいそうな懐っこさだった。加えてパッと見も遼二と見まごうような顔のつくり、性質だって困っている他人を放っておけない人の良さが滲み出てもいるようで、そんなところも遼二によく似ている。
 そんな男を前にして一気に緊張感が解けたのか、紫月は無意識の内にすがるような瞳で彼を見上げていた。
「な、あんた、何かワケ有り? 行くトコ無えんだったら俺ンとこ来るか?」
「え――?」
「すぐそこに俺の事務所があるんだ。よかったらそこで暖まっていかねえ? 出前で旨え”うどん”でも頼んでやるからさ」
「う……どん……?」
「そ! こんな夜にこんなトコでじっとしてたら寒くて適わねえだろ? それに……腹も減ってんじゃねえの?」
 そういえばいつ食事をしたっけ?
 朝方、両親と一緒に食卓についたことがぼんやりと記憶の中に浮かんでは消える。そもそも遼二が亡くなって以来このかた、食事どころか、何をして過ごしたのかさえも満足には思い出せないような日々が続いているのだ。それなのにこの男の言った『うどん』という言葉に、何故だか久し振りに腹の辺りがそれを想像して鳴るような気がするから不思議だった。
 腹など減っていないのに、何となく温かいうどんに有りついてみたい気がしてならない。
 食事などどうだっていいのに、寒さなどどうだっていいのに、何となくこの男に付いて行って暖まりたい気がしてならない。
 遼二に似た面差しのこの男がそうさせるのか、気付けば紫月は手を取られるままに立ち上がり、ふらふらと吸い寄せられるようにして彼の隣を歩いていた。
 男はうれしそうにしながら紫月の肩に腕を回し、そして時折ニヤニヤと含み笑いのようなものを浮かべながら歩く。そんな些細な彼の表情に気付く余裕など皆無の紫月は、ただただぼんやりと手を引かれるままに付き従っているといった調子だ。
 しばらくすると男の勤め先らしい『事務所』があるという雑居ビルに着いた。
 すぐそばに立っている電柱のてっぺんの高さから考えて、三階建てくらいの古びたそのビルをぼんやりと見上げた。パチパチと点いたり消えたりを繰り返す電灯が何ともわびしい気分にさせては、と同時に少し身震いするような北風が頬を撫で、今夜はこんなに寒かったのかと思い知らされる。
 早く暖まりたい。何でもいいから今は一刻も早くストーブの前に立ち、温かい茶の一杯でもすすりたい、そんな気分にさせられた。
「俺の事務所、ここの三階なんだ。すぐに茶、沸かすからさ」
 またもや懐っこい笑顔を向けられて、紫月は遠慮がちながらもコクリと素直にうなづいてみせた。そうしながらも内心では、ついさっき会ったばかりの見ず知らずの他人に付いてきて、挙句何とも親しげな成り行きに、これでいいのかと躊躇する気持ちが湧き起こる。だが、その直後の男のひと言で、そんなためらいが一瞬で吹き飛んでしまった。

「あ、俺ね。亮治(りょうじ)ってんだ、よろしくな?」

――りょうじ!?

「りょ……うじッ……!?」
「そ! 亮治! あんたは?」

 コンクリート造りの狭い階段を登りながら、男がこちらを振り返って親しげに笑う。今の紫月の思考を惑わすにはそれだけで充分だった。
 濡羽色の黒髪、ストレートのそれを邪魔そうに掻き上げる指先は、形が良くてすらりと長い。
 切れ長の大きな瞳は懐かしささえをも感じさせる。
 親しげな口調も親切めいた誘いも、すべてが今は亡き遼二の面影のように感じられて、紫月は何ともいいようのない依頼心を抑えることができなくなっていた。
 目の前のこの男は遼二ではない。それは分かっている。けれども今はただ何となくこの男に出会えたことが、救いのように思えてならなかった。
 扉を開け、真っ暗闇だった狭い部屋に蛍光灯の灯りがともり――
 ストーブに火を入れた独特の匂いを嗅げば、それだけでもう身体の芯まで温まるような気がしていた。ガスレンジのコックをひねる音、インスタントコーヒーの香り、カップを二つ持ちながらコンロの火で煙草を点ける男の仕草をぼんやりと見つめていた。
「あ、適当に座ってて」
 勧められたソファは古びた黒革張りで、ところどころが擦り切れていたりする。やはり使い込まれた感じの机には電話とメモ帳、ペンスタンド、それに電卓などがバラバラと散乱している。亮治と名乗ったこの男が、この事務所とやらで何の仕事をしているのか、そんなことは微塵も思い付かぬままで、紫月は目の前の暖かさに寄り掛かろうとしていた。
「とびっきりのうどんを食わしてやるからな? マジ旨えんだよ、ここの出前」
 ヤカンの湯をコーヒーカップに注ぎながら”亮治”が携帯を耳元と肩先に挟んで笑う。思わずつられるように口元がゆるみ、知らずの内に身を乗り出していた。
「あの……俺、紫月」
「ん、何――?」
「名前……俺の。えっと、その……俺の名前、紫月っていう……」
 消極的ながらもそう口走り――

 紫月の母親から、彼がもう二晩も帰ってこないと帝斗のもとへ連絡があったのは、その翌々日の午前中のことだった。



Guys 9love

INDEX    NEXT