春朧

二十年前、厳冬―― 3



「……や、めろ……よせ……」

 目の前の倫周を庇うように手を伸ばし、必死の思いでそう吐き出された紫月の言葉を踏み散らかすように男たちは笑った。
「ああー!? 何ー!? 聞こえねえなあー!」

「……めろって、言って……んだ……そいつ……に、手、出すんじゃ……ねえ」

「手ェ出すなだと!? 今更正義感ぶってんじゃねえよ! だったら最初っからおとなしく客に抱かれてりゃよかったんだ!」
「そうそ! この可愛いおトモダチがこんな目に遭わなきゃなんねえのも、元はと言や、全部てめえのせいだからなー?」
 ゲラゲラと響く品のかけらもない笑い声に、心の深いところで何かが吹っ飛び、切れるような気がしていた。

「……せ! ……よせっつってんだ……ッ!」

 死力を振り絞ったような大声で、紫月はそう怒鳴った。その言葉に、倫周を組敷いていた男たちが一瞬静まり返り――



◇    ◇    ◇



 空を見上げれば、すっかりと降り切った闇の中に、細い月が弱々しくも冷たい光を放っている。
 舞い上がる白煙はそれぞれの吐く白い息、それらが真冬の夜の凍りつくような寒さを物語る。
 ぼんやりとそんなことを考えていたのはほんの僅かだったのだろうか――
 おぼろげな視線だけを空に向けながら転がっている紫月の視界に、今までの遊びまじりとは違った真顔を引きつらせた男の表情が映り込んだ。
「だったらてめえがこの子の代わりになるってか? 亮治の兄貴にもしつけえくれえ言われてたから、丁寧に扱ってやりゃ図に乗りやがって……!」
 まるで甘やかし過ぎたなと言わんばかりに男は紫月の襟元をすくい上げると、グイと髪を掴みながら、思い切り頬に張り手を食らわせた。
「……ッ痛……ぅッ……」
「お望み通り、この子に手ェ出すのはやめにしてやる。そん代わり、てめえの不始末はてめえで責任取れや」
 紫月の頭上に短い言葉を吐き捨てると同時に、自らの仲間に向かって顎先を振って見せた。

「犯れ――」

 その言葉を合図に羽交い締めにされ、泥まみれの紫月のシャツが男たちに引き裂かれ、毟り取られて、砂利の上に放り投げられた。
 抵抗する力などとうに残っているわけもない。いきなり連れて行かれた店とやらで、突如男色の客の相手を無理強いされた。冗談じゃねえと逆らったら、間髪入れずに殴り飛ばされた。道場育ちで少々腕が達つことがかえって仇となり、数人掛かりでなり振り構わず殴られた。パイプ椅子に掃除用のモップ、カウンター横に置いてあった花瓶、そのすべてが武器にされて自らに襲い掛かってきたのは、ほんの少し前のことだ。その後、店の裏手のこの空き地に引きずり出されて、更に袋叩きに遭った。
 遠く近くなる記憶の中で、誰かが「ツラに傷を付けるんじゃねえぜ」などと言っていたのが思い出される。自分は一体、こんなところで何をしているというのだろう。気の良さそうな男に声を掛けられて、温かいうどんを食わせてもらったのがついぞ数日前のこと、彼は名を亮治と名乗った。にこやかでやさしい男だった。ついつい寄り掛かりたくなるような、ついついほだされてしまいそうになる、そんな男だった。そんな彼に親切にされて、寝泊まりしていたのはつい昨夜までのこと。おぼろげな記憶が脳裏を巡る。
「へえ……やっぱツラに似合いの極上モンじゃねえの」
「生意気なのもこうなりゃ逆にソソる――」
 ゴクリと喉を鳴らす男たちの視線が自分を囲んでギラギラと捉えている。彼らがこれから自分をどうしようとしているのかも、頭では何となく解っていても、どうにも身体が動かない。

 そういえば剛の声がしていた。京の声も、帝斗の気配も――
 そしてこいつ、倫周までもが何でこんなところに居やがるんだ?
 え、今、何て言った――?
 よく聞こえねえよ。
 倫周が耳元で何か叫んでやがる。ぎゃあぎゃあと甲高い声を上げて叫んでる。
 はっきりいってうるせえよ。耳に響くんだよ、お前の声は。
 それにしてもやけに身体がスースーしやがる。寒い、寒くて堪らねえ――
 ついでに眠い。頭がぼうっとして、目の前が霞んで、何も見えなくなりそうだ。

「寝ちゃダメだっ! 紫月君ッ! しっかりして、目を開けて! そんな人たちにヘンなことされたりしたら……ッ、遼二君が悲しむじゃないかっ……!」
 耳元で狂気のように叫ばれたその言葉に、紫月はハッとしたように瞳を見開いた。

 遼二君が悲しむじゃないか――

 そのひと言が、まるで乾季に水をもたらすかのようにみるみると心の中で広がっていく。暗い土の中からぐんぐんと地上に降り注がれる水を求めて這い出るように、目の前の闇が取り払われていく。忘れ掛けていた大切な何かが全身を潤すように、身も心も、そして意識までもがはっきりとクリアになっていくのを感じていた。
 だがその一方では、男たちが倫周の叫びに不機嫌極まりなく眉を引きつらせていた。
「こんのガキがッ! ひよっ子だと思って甘くしてりゃいい気になりやがって」
 小生意気なことを抜かしやがるとばかりに倫周の首根っこを掴み、少々痛い目を見せてやらんと拳を振り上げたその時だった。
「僕を殴る気っ……!?」
 か細い身体を恐怖に震わせながらも、キッとした意志の強い瞳で当の倫周が男たちにそう浴びせかけたのに、僅かながらもその場が静まり返った。
「おじさんたち、こんなことして楽しいの!? 紫月君を殴って、皆を殴って、今度は僕を殴ろうっていうの!? 殴りたければ殴ればいいよ。でも……紫月君にこれ以上ヘンなことしたら許さないから……ッ」
 大真面目な顔で必死にそう食らいついてくる倫周に、男たちは呆気にとられ、しばしは誰もがポカンと硬直気味でいたが、その唖然とした表情が次第に嘲笑の高笑いへと変わっていった。
「は、はははっ、何だコイツ! 小っせーガキみてえなこと抜かしやがる! マトモに相手してたらこっちの方がイかれちまいそうだぜ!」
「なあ、僕ちゃん? どこのお坊っちゃん育ちか知らねえが、あんまし世間様をナめてるってーと、シャレんなんねーぜ?」
 高笑いをしていた男たちの顔が下卑た怒りまじりの表情に変わり、いい加減相手にするのも面倒だと倫周の脇腹目掛けて男の一人が蹴りを食らわせようとした時だった。
「僕は絶対許さないからッ……! 紫月君は遼二の大切な人なんだ……っ! 誰よりも大事で、何よりも大切で……」
 ”りょうじ”という名を耳にしてか、男たちの間に一瞬の戸惑いがよぎったふうだった。
「紫月君に何かあったら遼二が悲しむもの……」
「……んだー? このガキ……? りょうじ、りょうじって、兄貴のこと知ったふうな口聞きやがる……」
 誰しもが怪訝そうに眉をしかめては首を傾げる。その傍らで、倫周は必死に男たちから紫月を庇わんと、震えながらも立ち向かうのを諦めずにいた。

 そうだ、遼二がどんなふうに紫月君を想っていたか、僕は知ってる……。
 熱っぽい瞳で、甘苦しい表情で、紫月君への想いを照れ臭そうに口にしていた遼二の姿を僕はよく知ってる。紫月君のことをこの世の誰よりも……愛してたんだってことも全部知ってる……。その紫月君に何かあったら遼二に何て言えばいいんだ……!
 あんなに純粋で、きれいな気持ちを踏みにじるなんて許さない。絶対にそんなことさせない。だから……だから僕は……何があっても紫月君を守るよ……!

「紫月君にこれ以上酷いことしたら許さないから――ッ!」
 華奢な身体ごとを盾にして、細い両腕を目一杯広げて、目の前に立ちはだかる倫周の姿を目にして、男たちは無論のこと、それ以上に紫月はひどく驚き、みるみると瞳を見開いた。
 もともと喧嘩っ早い性質でもない、どちらかといえばおっとり穏やかでのんびりした調子の倫周が、今現在、どんな思いでこうしているのだろうかなどと、そんなことは想像せずとも容易に理解できる。恐怖におののく自身を奮い立たせ、精神の限界まで踏ん張って、きっと気力だけでそうしているのだろう。それなのに俺はいったい何をやっているんだ――呆然とそんな思いが脳裏をよぎったのとほぼ同時だった。
 ふと、必死の倫周の脇に寄り添うように現れた光の塊のような存在が気になって頭上を見上げれば、そこに懐かしく愛しい男の幻影が浮かび上がったのに、更に驚き、紫月はガバッと身を起こした。

 こいつの言う通りだぜ? なあ紫月よ――
 お前、こんなトコで何やってんだ?
 剛に京、それに帝斗、大事な仲間をボロッカスにされて、弱っちい倫周にまでこんなことさせて、その上てめえまでこのチンピラ共にくれてやるつもりか?
 そんなの、俺はぜってー許さねえぜ?
 いい加減、気付けよ紫月。いつまでも逃げてねえで、しっかり現実を見るんだ。こいつらの、そして俺の気持ちに気付いてくれよ――!
 何よりもお前が大事だって想う、誰よりもお前を愛してるのは変わらない。どこにいたって、例え目に見えなくたって、触れ合えなくたって、お前だけを案じてる俺の気持ちに、勇気を出して向き合ってくれないか?

 少し切なげに、だがとても穏やかに微笑みながらそう問い掛けてくるのはまぎれもない唯一人の姿だった。在りし日をそのままに、何一つ変わることのないままに、やさしく自分を見つめる遼二の姿だった。
 突如目の前に浮かび上がったその幻に、身体中の血が逆流するように熱く何かが駆け巡る。この空き地の砂利を踏み荒らす男たちの靴音も、冬の寒空の凍てつく冷気も、すべてがはっきりと鮮明になっていくのを感じた。
「いい加減、そのガキを黙らせろッ!」
 我に返ったと同時に耳に飛び込んできたそんな言葉と共に、倫周に向かって飛んできた拳を寸でのところで振り払った。無意識に繰り出した紫月の動きが男の攻撃をとらえたのだ。
 ギロリと男を睨み付け、
「こいつに……手ェ、出すんじゃねえ……」
 意志のある低い声がそう言った。
「ッ!? 何――ッ!?」
 咄嗟のことに男の焦った声が空くうを舞い、と同時に何かに突き動かされるように、男たちを次々に地面へとねじ伏せた。
 ハァハァと荒い吐息と共に紫月は肩を鳴らし、すぐ傍では何が起こったのかという表情で驚く倫周の横顔がぼんやりと揺れていた。ふと視線をやれば、少し離れた砂利の上で剛と京、そして帝斗が無残に転がされながらもこちらを必死で気に掛けている様子が視界に飛び込んできた。脇腹を抱え、懸命に起き上がらんと這いずる勢いで彼らがこちらを見つめている。
 そこには遼二の幻が言った通りの光景が目の前に広がっていて、紫月は傷付いた身体に鞭を打つようにその場に踏ん張り、立ち尽くした。

 あと二人――
 たった今、この場で打ちのめした男たちを除けば、残りは二人だ。剛たちを見張るような位置で立ちすくみながら、こちらを睨み付けているあの二人を何とかすれば一先ず乗り切れそうだ。
 だが、無意識にそんなことを脳裏に巡らせていた紫月の視界に映ったのは、予想だにしない展開だった。仲間を打ちのめされた男らが、怒り任せにその懐から取り出したものは鈍色に光る鋭い切っ先、短刀を携えてこちらに突進してくる姿が、まるでスローモーションのように襲い掛かってきたのだ。
「てめえ、まだそんな体力残ってやがったのかっ!? ふざけたマネしやがって――!」
 スローモーションだった映像が、突如速さを取り戻し、そう感じた時には既に切っ先が目前にあった。刃物を小脇に握り締めたまま、身体ごと体当たりするかのような勢いで突っ込んできた男の形相が醜く歪み、そんなところだけが鮮明な残像となって再びスローに切り取られて映る。

 だめだ、間に合わない――!

 咄嗟に倫周をかばうように、自らの胸の中へと抱き包み、紫月はギュッと瞳を瞑った。



◇    ◇    ◇



 何故だろう、不思議と痛みは感じられない。
 そりゃ、身体中を殴られ蹴られした後だから、今更別の痛みなんてものは感じないのかも知れないけれど。
 それにしても刃物で刺された痛みが分からないだなんて。あんまりにも衝撃が強過ぎると、案外そんなもんなのかよ?
 腕の中に抱き締めたこいつは……ああ、よかった。ちゃんと生きてる。大きな瞳をグリグリさせながら俺を見つめてる。びっくりしたような表情で絶句したままだけど。
 悪かったな、怖い思いさせちまった。だけどもう大丈夫。このチンピラ共だって、俺を刺したことで少なからず衝撃を受けてるだろうから。きっとこれ以上酷い目に遭うこともないだろうぜ。
 そうだ、これで終わる。
 きっと俺は大怪我してて、もしかしたら死んじまうのかも……。でもそしたら……あいつに逢えるのかな?
 そうだ、これで俺、やっと遼二の元にいけるのかな?

 そんなことを思い巡らせていたのはほんの束の間だったのだろうか、倫周を抱き締めたまましゃがみ込んでいた砂利の上に、鈍く光るナイフが乾いた音を立てて落下したのを呆然と目で追った。
 何故だろう、刺されたはずなのにどこにも血の痕が付いていない銀色のそれが不思議で、しばし釘付けにさせられる。その直後、ナイフに続くようにして男の身体がドサリと砂利の上に倒れ落ちてきたのに、驚いて頭上を見上げた。
 そこにはなめらかそうな質感の、墨色のロングコートを羽織った男の足元が映り込み――
 そのまま徐々に視線を上へと動かせば、見事な程の濡羽色のストレートをバックに撫でつけた、見覚えのある男の顔が月明かりに照らされ浮かび上がった。

――――――――!

 まさかこの男が助けてくれたというわけか――、そんな思いと共に急激に静まり返ってしまったような辺りを見渡せば、彼と同じような闇色の服に身を包んだ男たち数人の姿が視界に飛び込んできた。
 剛や帝斗らを見張っていたはずのチンピラたちも、ダークスーツの男たちの足元で既にノビている。当の剛たちは彼らに介抱されている様子で、トタン板で囲まれた空き地の入り口付近には、黒塗りの高級車が数台停まっているのも分かった。
 彼らが敵ではないということと、誰の連れであるのかもぼんやりと理解できる。だがあまりにも突然のことに、意識がうまく回ってはくれないのも確かだ。
 呆然とその場にうずくまったままの紫月の意識を揺らしたのは、やはり聞き覚えのある声音――
「手間かけさせんじゃねえよ、一之宮――」
 落ち着き払った低音で、憎らしい程に余裕の感じられる見知ったその声は、思った通り、まぎれもなく氷川白夜のものだった。



Guys 9love

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