春朧
『手間かけさせんじゃねえよ、一之宮――』
そう言ったのはまぎれもなく氷川白夜――いや正確には氷川白夜という名で学生時代に番を張り合ったことのある男、実の名を『周焔白龍』という。彼は香港に拠点を置く『xuanwu(シェンウー)』というチャイニーズマフィアの頭領を父に持つ男だった。
「ひ……かわ……? な……んで、てめえが……」
何故この男がこんな所にいるんだろう、そう思ったのはむしろ紫月当人よりも剛や京たちの方だったかも知れない。
数人のダークスーツの男たちはどう見ても一般人といった雰囲気ではなく、かといって今まで自分たちに絡んでいたヤクザ風の男たちともまるで違う。説明を受けるまでもなく、氷川の連れてきた配下に違いないのだろう。
こんなふうな光景を目の当たりにすると、彼が本当に自分たちとは一線を画した世界に生きているのだということを実感させられるようで、軽く硬直状態に陥らされる。無論、彼当人をとってみても、威風堂々とした何とも言い表しようのない尊大さを持ち合わせているのは確かで、そんな雰囲気は以前にも増しているように感じられる。おおよそ自分たちと同い年には思えない程に大人びて見えるのは、やはり彼の置かれている世界が特殊なせいだろうか。
それ以前に、こんな裏路地の入り組んだ場所をよくぞ突き止めたというか、あまりにタイミングよく現れたというか、それも彼らの組織の成せる技なのかということをはじめ、とにかく訊きたいことは山ほどある。特に剛にとってみれば、通夜の日の約束以来、氷川と音信不通になっていたことが非常に気に掛かってもいたので、いったい彼が今までどこでどうしていたのかということに、気が焦って仕方ないというところだっただろう。
だが氷川はそんな一同を他所に、紫月だけをじっと捉えると、
「お前、こんなトコで何やってんだ――」
一見、冷ややかとも取れる調子の落ち付き払った声でそう訊いた。そして、いきなりのことに何も反応できずにいる紫月を怪訝そうな目で観察しながら放ったのは、遠慮のかけらもないような台詞だった。
「ダチを危険な目に遭わせて、その上てめえまでこの野良犬どもにくれてやるつもりだったか? 要は、全然立ち直れてねえってことか」
その言葉に、呆然としたままだった紫月の瞳がカッと熱を持ったように見開かれた。
一番触れられたくないところを容赦のかけらもなく突いてきたこの男に、食らいつくように複雑な表情をあらわにすると、そのまま掴み掛かる勢いで彼の襟元へとしがみついた。
「てめえに……何が分かんだよ……ッ、そりゃ……助けてくれたのは有難てえと思ってるし、礼も言わなきゃだけど……」
何でも分かったようなこと抜かしやがって――!
そう言いたげな目つきで拳をワナワナと震わせている様子に、氷川はふうと軽い溜息をついた。
「……ったく、てめえがいつまで経ってもそんな調子じゃ、カネの奴は……」
『カネ』というのは遼二のことだ。何故か氷川は前々から遼二のことをそう呼んでいた。名字の鐘崎を略したものなのだろうが、紫月らの周囲には遼二をそんなあだ名で呼ぶ者が殆どいない為、何となく不思議に感じていたのも確かだった。
それはさておき、氷川が呆れ半分につぶやいた台詞のその後に続けられるだろう言葉は、聞かずとも分かる気がした。
『てめえがいつまで経ってもそんな調子じゃ、カネの奴は――』どうせ心配で仕方ねえだろうなとか、あるいは成仏できやしねえな、くらいのことを言われるのだろう。紫月はもうこれ以上の嫌味も説教もご免だというふうにしながら、フイと顔を背けようとした。
ところが、氷川から出た言葉は、まったくの予想だにしない台詞だった。
「そんなてめえを見て、カネはきっとうれしくてたまらねえだろうな?」
「っ――!?」
紫月は無論のこと、その場にいた誰もが驚いたように氷川を見つめ、何一つ返答の言葉すら儘ならない。
当の氷川は慌てるでもなく、それどころかつっけんどんな言葉とは裏腹に、自らが羽織っていたコートを脱いで紫月を包み込むように掛けてやりながら、
「てめえが死んじまった後、いつまで経っても立ち直れねえでいるお前を見て、カネは内心すげえうれしいだろうよ?」
苦笑気味に、意表を突くようなことを言ってのけた。
「……な、……ど……ういう意味……?」
「だってそうだろ? いつまでも自分を忘れない。いつまでも自分だけを想ってくれてる。死んじまって尚、ずっと想い続けてもらえるなんて、たまらなく幸せだろうぜ」
氷川の真意が解らなくて、紫月は強張った表情のまま彼から目をそらせずにいた。まさか氷川が本心からそんなことを言っているわけもないだろう。だとしたら何だというのだ。
困惑を他所に、その後に続けられた氷川の言葉に、紫月はより一層その表情を強張らせた。
「けど、同時にすげえ心配でもあるだろうよ? てめえがいつまでも落ち込みっ放しじゃ、さっきみてえな悪い手管に目を付けられたり、引っ掛かったりすることもあるだろう。そういった現実的なことも無論だが、いつまでも哀しそうなツラを見てるのも、それはそれで辛い。けど自分じゃ何もできねえのは重々承知だ。歯がゆくて切なくて、悔しくて堪んねえだろうな、カネは――」
だからさ――
「だから帝斗や倫周、それに清水に橘、ダチだったこいつらに一生懸命訴え掛けるんだ。紫月の傍にいてやってくれねえかって。もしも暇があったらあいつのもとを訪ねて様子を見てやってくれねえかって。俺がいなくてもちゃんとやっていけるよう、お前らで面倒見てやって欲しいんだって。そんなカネの気持ちが痛い程分かるから、こいつらはお前を訪ねて来るんだぜ? 代わる代わるお前の家に顔を出しちゃ、様子を見に行くんだ」
まるで遼二の気持ちを代弁するかのように語られたその言葉に、誰もが瞳を見開いた。誰もが紫月を気遣いながらも、『その通りだよ』というように瞳を細める。だが、当の紫月だけはそんな思いを振り払わんばかりの勢いで、目の前の氷川に食って掛かった。
「だったら……ッ、てめえは何なんだよッ!? 解ったようなことばっか抜かしやがって、一度だって俺に会いに来たこともねえくせにっ!」
詰るように怒鳴った。と同時に、双眸からは大粒の涙がこぼれ落ち――
風に舞ったその滴ごと受け止めるように、氷川は紫月の頬へと手を伸ばした。
◇ ◇ ◇
――そういうお前は、今の今まで何処で何をしてたっていうんだ――
たった今、売り言葉に買い言葉のようにして、偶然にも紫月が投げつけた疑問だったが、実のところそれが気になって仕方なかったのは、側にいた皆も同様だった。特に氷川本人と固い約束を交わしたつもりでいた剛にしてみれば、その気持ちは誰よりも強かったに違いない。
「悪かった……。本当はもっと早くに帰ってくるつもりだった。だが、俺がそういう意志を伝えようとした時に、ちょうど親父が狙撃を受けたんだ」
氷川は済まなさそうに伏し目がちにしながら、その理由を口にした。
その言葉に紫月はもとより、皆は滅法驚いたという表情で、しばしは誰もが硬直させられてしまった。
「幸い親父の怪我自体は軽傷で済んだが、それを庇った兄貴が意識不明の重体になっちまってな。二人を狙った対立組織をぶっ潰すのに今日まで掛かっちまった」
早く来てやれなくてすまないとでも言うように、氷川は紫月の頬を撫で、そこに伝った涙の痕をそっと親指で拭ってやりながらそんなふうに謝罪した。紫月は呆然としたまま、されるがままで氷川を見つめ、あまりの驚きにすぐには返答の言葉も詰まって出てこない。皆も同様だった。
そもそも、そんな状況ならば他人のことを気に掛けている暇などないだろう。
「なら、尚更じゃん……何でこんなトコにいるわけ……? んな、大変な時に……」
何でわざわざ俺の為になんか――!
しどろもどろになりながらも困惑した表情でそう問う紫月に、氷川は言った。
「お前のことが気になって堪らなかったんだ」
まるで当たり前のようにそう言った。
真っ直ぐな瞳は嘘を言っているとは思えない。冷やかしでも冗談でもなく、これが氷川の本心なのであって、それ以上でも以下でもないというのが、迷いのない言葉じりからでもはっきりとそう窺える。
「……んなの、俺のことなんか……」
「カネを亡くしたお前がどんな気持ちでいるかなんて、訊くまでもない。いっそヤツの後を追って死んじまいてえくらいだったろうぜ。だから傍にいたかった」
それはせめてもの慰めにという意味なのだろうか。それとも後追い自殺でもされたら困るという懸念からなのか、どちらにしろ紫月にとっては堪らない気持ちにさせられるものに違いなかった。
恐らくは剛や帝斗たちも同じような理由で代わる代わる自分を訪ねてくるのだろう、その気持ちが有難い反面、気遣われることで遼二を失った現実を思い知らされるのも事実で、そのたびに行き処のない痛みを持て余す。仲間たちの厚意をそんなふうに思ってしまう自分も嫌で、だが混沌とした気持ちをどこへぶつけていいやら分からない。
苦しくて仕方なくて、すべてがどうでもよく思えてくる。この世に今以上の苦渋など有り得ないと思うのも事実だった。
「俺、ヤなんだよ……そーやって気を遣われんの……」
しぼり出すように吐き出された紫月の言葉に、剛ら、その場にいた誰もが不安そうに彼を見やった。
「そりゃ、お前らの気持ちは有難えよ……けどそーやって俺ン家に来てくれるお前らの顔を見る度に、遼二……が、もういねえんだってことを念押しされてるみてえで……辛えんだ」
その言葉に帝斗ら皆の表情が哀しげに曇る。
「ンなの、俺の我がままだって分かってる……せっかく気ィ遣って来てくれてんのに、酷えこと言ってるって分かってるよ……! けど、どーしょーもねえんだッ、お前らの顔を見るたんびに、どーしていいか分かんなくなる……。はっきりいって余計な節介だなんて、そんなこと思ってる自分にも反吐が出る。放っておいてくれた方が楽なんだよ……ッ!」
そうだ、さっきだってあのままあのチンピラ共に殺されてしまっても構わなかった。助けになんか来て欲しくなかった。俺なんてどうなろうと放っておいてくれた方がマシなんだ――!
まるでそう言いたげに唇を噛み締め、拳を握り締めながら紫月はうつむいた。
誰もがやりきれない思いに視線をそらし合い、倫周などはもう堪え切れずに大きな瞳いっぱいに涙を溜めていた。
◇ ◇ ◇
紫月の気持ちは痛い程に理解できる気がした。彼の言葉通りに、互いの顔を見ただけで遼二を思い出し、そして彼がもういないのだということを何度でも確認し合うようで辛いのは誰しも同じだからだ。
だが、それを分かった上ででも、どうしても紫月を放っておくことができなかったのだ。会いに行けば彼が辛い思いをするだけだと重々知ってはいても、彼がどうしているかが気になって気になって仕方ない。そんな気持ちを抑え切れずに訪ねては、様子を窺い、結果、辛い思いをえぐり出すだけだと分かっていてもやめられないのだ。
「俺、こんな……クズ野郎なんだ。だからもう気を遣ってくれる必要なんてねえんだよ……頼むからもう……」
――構わないで欲しいんだ。
あるいは放っておいてくれ、だろうか。さすがに語尾の音を飲み込むように、紫月は唇を噛み締めた。代わりに頬を伝う涙が止め処なくあふれては、それを拭う為に添えられていた氷川の指先を濡らす。堪え切れない嗚咽を必死に隠さんとうつむきながら、だが一度セキを切ってしまった涙は抑えがきかないようで、そんな姿に皆も切なさがこみ上げてならない。
「――それでいいんだ」
氷川は先程掛けてやったコートごと紫月の肩を抱き寄せると、意外な言葉と共に強い抱擁で自らの腕の中に抱き締めた。
「それでいい。何も我慢なんかする必要ねえんだ。思ってることをそのまま、何でも遠慮しねえでぶつけてくればいい。俺らと顔を合わせることでカネを思い出して辛いなら、正直にそう言えばいい。哀しくて抱えきれないなら思い切り泣けばいい。全部受け止めてやる。俺たちが全部――」
耳元に囁かれるのは、穏やかでありながらもはっきりとした口調の力強い声音だった。抱き包まれた懐はあたたかく、それは在りし日の遼二のぬくもりにも似て、不思議な安堵感が湧き上がる。思わず流していた涙を一瞬忘れてしまう程に、懐かしい空気に包まれるのを感じていた。
「一之宮、何でも一人で抱え込むな。俺もお前もいつかは死ぬんだ。ここにいるこいつらだって同じだ。遅かれ早かれこの生を全うすれば別の世界にいく。カネは俺たちよりもほんのちょっと先にそっちの世界に行っちまっただけだ。いつか必ずまた会える」
またぞろそんな慰めのようなことを、とそう思ったのは束の間、その先に続けられた氷川の言葉に紫月は大きく瞳を見開いた。
「どうせなら胸を張ってヤツに会いてえって、思わねえか? さっきみてえなくだらねえことで命を落としたとして、お前どんなツラでカネに会えるってんだよ? あいつに会って、何のわだかまりも後ろめたさもなく胸を張れるか? どうせならちゃんと全うして、堂々とあいつに会う方がいい。俺はそう思ってる」
「……氷……川……?」
「カネは俺の大事なダチだからよ」
短いそのひと言に、紫月は驚いたように氷川を見つめた。
「お前とは思いの違いはあるにしろ、カネは俺にとってもかけがえのない存在だった。俺はあんまり仲良くツルんだ仲間なんてのはいなかったに等しいが、あいつは別格だったんだよ。桃稜を卒業して香港に帰る前にあいつと交わした約束や、在学中にあいつとタイマン張ったことも、全部誇れる思い出だ。だからこそ今度あいつに会う時に後ろめたい気持ちなんか引きずっていたくねえ。堂々と笑って拳を交わしてえじゃねえか」
――そうだ、卒業式の日にあの河川敷でそうしたように、何の憂いもなく心から笑い合いたい。
だから俺は今のこの辛さを乗り越えてみせる――、まるでそう言うかのような真っ直ぐな意志をたたえた眼差しが、わずかに潤んでいるように思えたのは幻か。まるで想像もしていなかった氷川の意外な気持ちを聞いて、紫月は驚きのあまり涙も止まるような心持ちでいた。
と同時に今まで抱え込んでいた真っ暗闇の泥の中でもがいていたような気持ちが、ほんの僅かだが和らいだように思えて、不思議と安堵感に包まれるような気がしていた。
そんな思いを肯定するような氷川の言葉に、再び胸が熱くなり、そしてまた一粒、抑え切れなくなった涙が頬を伝う。
「お前は独りなんかじゃねえよ。俺もお前とまったく同じ気持ちだ」
「……氷川……?」
「カネを失って辛くて苦しくて、寝るのも起きるのも怖えくらい毎日が不安で堪らなかった。こんな気持ちを誰に話してどこにぶつければいいんだって、のたうってた。その度にお前の顔が浮かんでくるんだ。お前はどうしてんだろうって、会って何でもいいから話がしてえって、そう思った。いや、別に話なんか必要ねえ、ただ傍にいてツラを見るだけで安心できるような気がしてた」
再びコートごとの肩を抱き寄せてそう言った氷川の声は、少し胸に詰まるようなくぐもった感じで、それは必死に涙を堪えているようにも受け取れた。
それだけで充分だった。一見、何ものにも動じないふうに見えるこの男が、こんなふうに切羽詰まったような声を震わせてくれる。こんなにも遼二を思ってくれている。それを目の当たりにするだけで、一切の気持ちが楽になっていくように思えて、いつしか紫月も自らを包む氷川に応えるように彼の背中へと腕を回していた。
「俺だけじゃねえ、ここにいる皆も同じ気持ちだったろうぜ」
その言葉に顔を上げれば、剛や京、帝斗に倫周もその通りだというようにうなづいては、皆一様に瞳を潤ませていた。
月明かりに照らされたそれぞれの姿はズタボロで、頬や服は土埃りと赤黒い痣で汚れていた。だが、そんな痛みも含めてすべてを分かち合おうと言わんばかりなのが、何も言わずとも分かるようで、堪らない思いに紫月は一層強く氷川にしがみついた。
「ご……めんッ、済まねえ、皆……」
ホントにごめん――!
それ以上は言葉にならず、まるで今まで抱え込んできたものすべてを流し出すように紫月は泣いた。
自らを抱き包む氷川の腕の中で、悲しみも不安もすべてをひっくるめた嗚咽を隠すことなく、声を上げて泣きじゃくった。
そんな彼を見つめる皆の頬にも同じように幾筋もの涙が伝わって、だがそれは今までのような苦しく辛いだけのものではないということを、誰もが確信していた。
切なさの中にも安堵の微笑(え)みが混じることにホッと胸を撫で下ろす。
そんな一同をやわらかな月光が照らし出す。
ふと空を見上げれば、月明かりと共に遼二が微笑んだ気がした。